2018年12月19日水曜日

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省



 英語教師志望者による当事者研究を促進するため、先日私は、ファシリテーターとして当事者研究に参加し、その様子を学生さんに見てもらいました。当事者研究のあり方を具体的に理解してもらうことが目的でした。ですが、自分自身で振り返ってみたり、学生さんからのフィードバックを受けてみたりすると、今回はあるべき当事者研究の姿から少し離れた当事者研究になっていたように思えます。昨年度の私は問題を抱える当事者として当事者研究に参加しましたが、その経験と比較すると、私にとってはファシリテーターである方が、自分の弱みを公開するよりもはるかに難しいことでした。

 以下、このような失敗を繰り返さないために、研究・当事者の主体性・物理的条件・パフォーマンス・エゴ・複数性という6つの視点から分析的に反省したいと思います。


(1) 研究

 私が今回ファシリテーターとして参加するにあたって、一番気にしていたのが、語り合いを「研究」にしなければならない、ということでした。私はこれまで学生さんとの個人面談をおそらく数百回行い、実際、先日も当事者研究を行う前にある人との個人面談を行っていました。特にその個人面談では、問題が大きかったため、私はその問題の様子を共感的に聞くことがほとんどでした。一つ二つは、「もし問題が悪化した場合は○○の方法を取ることも考えた方がよいかもしれない」といった助言はしましたが、基本的には共感的傾聴を行い、それが他の個人面談でも原則となっていると私は考えています。(ここでは詳細は割愛しますが、私も以前は助言が多かったのですが、ある時期を境に聞くことの方が多くなりました)。

 ですから私は個人面談についてはある程度の経験をもっています。しかし、私の認識では、個人面談と(当事者)研究は異なります。今書きながら洞察を得たのですが、研究に関する私の信念は、「ある明確な理解を得なければならない」、「そのためにはさまざまな仮説を次々に出して、それを一つ一つ検討することが有効である」といったもののようです。そのため、私は今回の当事者研究でファシリテーターとして次々に「それはこういうことだろうか?」、「一般的にはこのようなケースがよくあるが、それが当てはまるとは言えないだろうか?」、「この解釈はどうだろうか」といった仮説を提示しました。

 最終的にはそのように私が仮説的に提示した「病名」が問題を抱える当事者にもそれなりに受け入れられましたが、後の振り返りでは、当事者から「あまりに多くの仮説を出されて、それが外れていると、『この人は自分の話を聞いてくれていないのではないか』とすら思えてきた」という指摘がありました。これは今回の私の試みでもっとも反省すべき点だと思います。

 当事者研究は「研究」とはいえ、合理的に仮説生成・検証を繰り返すばかりの営みではないでしょう。当事者研究において重要なのは、ファシリテーターや聞き手が「仲間」になること、つまり、当事者の主観をしっかりと受け入れて、自分が本来は無力であるという謙虚な態度になることだと考えます。

 これは私が前の週に説明しただけでなく、先日の当事者研究の直前にも述べていたことでしたが、私は今回それを十分に体現できていなかったことになります。

 言い訳めいたことを述べるなら、私が日頃一人で行っている「研究」の習慣が、無意識のうちに当事者研究にも過剰に入り込んでいたのかもしれません。しかし当事者研究は、何らかの苦しみを抱えている「当事者」と共に行う営みですから、私は当事者の苦しみや気持ちにもっとよりそうべきだったのかもしれません。

 実は、当事者研究の最初に、当事者からの問題が提示されたとき、私の中では、(a) 当事者の「苦しい」というのはどのような状況であるかをもっと聞き出そうかという選択肢と、(b) 当事者のこの問題と類比的(アナロジカル)であるはずの別の問題との対比から考えてみるという選択肢の二つが私の心の中に去来していました。私は主知的に (b) を選びましたが、それが今回の当事者研究の流れを大きく決めてしまったのかもしれません。もっと情感的な (a) を選んでいたら多少は流れも変わっていたのかもしれません。

 ここで改めて向谷地生良先生による当事者研究のまとめを読み直すと、私の「研究」の理解が原因追求の方に傾き、問題への対処の方に向いていないことに気づきました。


当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)


 これを読み返してみると、当事者研究とは「ジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉える」ものであり「自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじ」、当事者が「「苦労の主人公」になること」を大切にしているといった表現が改めて目に入ってきます。どんな当事者も「自分の専門家」であるから、他の人間はむやみにその人から苦労を奪ってしまってはいけない(それはその人からその人の人生を奪うことなのかもしれない)とも思えてきます。向谷地先生は、当事者研究の最大のポイントは「当事者自身が、自らのかかえるさまざまな生きづらさに対して、周囲の過剰な保護や管理から脱して、自律的、研究的に担い、対処をしていこうとする前向きな動機を育て、持ち続けることにある」とも言います。

 そんな向谷地先生は、当事者研究の進め方を5段階にまとめています。私なりに言い換えますと次のようになります。


(a) 「問題」の理解:繰り返し生じる出来事のパターンを記述し、そこで起きている「問題」の意味(そのことが示しているかもしれない可能性)を探る。

(b) 従来の対処法の確認:これまで自分がその「問題」にどのように対処してきたかを確認する。

(c) 従来の対処法の評価:従来の対処法に満足しているかを確かめ、満足していなければ次のステップに進む。

(d) 新たな対処法の創造:新たな対処法を具体的に考案し、必要な場合はその練習をしてみる。

(e) 新たな対処法の検討:新たな対処法にも満足ゆかなければ、(a) に戻る。


図示したら次のようになりましょうか。



 こうしてまとめてみると、当事者研究とはきわめて実際的な研究であり、根本原因の究明などよりも、まずは自分をどうやって助けるかを考案する実務的な研究であるように思えます。ある意味、ブッダの「毒矢のたとえ」を思い起こさせます。


 例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。

あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/cula-malunkyaputta-sutta/


 かといって、当事者研究は、単なる問題解決だけを目指しているわけでもありません。(a) における「問題」の意味の理解が重要です。すなわち、世間的には「困った」とされる「問題」が当事者に提示しているかもしれない潜在的な可能性を探究することが当事者研究を、他の問題解決モデルとは異なるものにしていると思われます。

 ずいぶん長くなりました。次のポイントに移りましょう。


(2) 当事者の主体性

 上には私が自分の個人研究スタイルを当事者研究に持ち込んでしまったことについて書きましたが、さらに私が反省すべきことを新たに第二点としてまとめますなら、私は、次々に仮説を出すことで、当事者の主体性を奪ってしまっていたのかもしれません。(内容は少し上とかぶってしまうところもありますが、そこはご容赦ください)。

 当事者研究において大切なことは、to think "with" the person in focusであり、to think "for" the person in focusではありません。当事者と「共に」 考えるのであって、当事者の「代わりに」考えてしまってはいけません。

 もちろん当事者は自分自身の苦労の中で困惑して様々なものが見えにくくなっているわけですから、仲間が助け舟を出すことは重要です。しかしそれも程度問題で、やはり基本的な原則は、「当事者の苦労は当事者のものであり、他人がその苦労の解決を横取りしてはならない」というものではないでしょうか。

 この点で、仲間は当事者に代わって考えてしまうことに対しては抑制的であるべきかとも思えます。当事者の主体性が伸長するような環境を皆でつくりあげることが当事者研究の基盤であるように思えます。

 ここで当事者研究を超えて、教育指導について話を脱線させてしまうことをお許しください。私は個人で研究をしている以外に、学生さんの論文執筆についての教育指導をしています。論文はもちろん、学生さんが書くものですが、論文執筆に慣れない学生さんはしばしば(というよりほとんどの場合)どのようなストーリーで論文をまとめるかという筋道を見つけることがなかなかできません。

 私は学生さんの論文構想を聞きながらコメントをします。大人数での指導(大学院で「特研」と呼ばれる合同ゼミ)では個別の疑問点や一般的指針を述べるぐらいのコメントにとどまりますが、一対一の個人指導では、私はしばしば学生さんの代わりにストーリーを考えます。学生さんはそれを吟味し納得したら、それを学生さんが自分の論文のストーリーとして論文を執筆することがしばしばあります。

 研究の着想(ストーリー)を指導教官が示すことは、研究倫理上は問題ないと考えています。研究として大切なのは着想の後の論証であり実証であるからです。しかし学生さんの底力を上げるには、この方法はよくないとは実は私は長年自覚はしています。私は自らのストーリーを一切提示することなく、学生さんに大いに苦しんでもらうことの方が実は学生さんに対して親切なのではないかとも思っています。とはいえ、修学年数は限られていますし、留年するコストは非常に高いわけですから、私は締切優先で、自らのストーリーを学生さんに提示してしまっています。ですが、この私のやり方についても再検討が必要なのかもしれません。ストーリーの考案については、「すべてを学生さん(当事者)に委ねる」ぐらいに考えた方がいいのかもしれません。

 ただ、「すべてを委ねる」というのを理想化してもいけないと思います。武術の例で考えることをお許しください。武術において天才的な開祖は、弟子にほとんど何も教えず模範演技を示すだけのことが多くあります。しかしそれでは多くの人間が技を体得できないままになりますので、しばしば二代目は技を体系化したり言語化したりして教えます。そうでなければ、開祖の見事な技は継承されず、下手をすれば似て非なる猿真似ばかりが蔓延するからです。

 二代目による技の体系化・言語化により少なくとも一定数の弟子は開祖の技をそれなりに継承できます。ところが三代目・四代目・・・と、その「教える」文化が進むと、弟子はその体系化・言語化された内容を受け身で学ぶだけになります。そうなるとそれなりの技術は多くの人に習得されるようになるのですが、天才が出なくなります。技の革新がなくなり武術全体が停滞してしまいます。こうなるとやはり「教える」こと、すなわち弟子(当事者)が苦しんで考えながら発見する代わりに効率よくヒントや答えを与えてしまうことの弊害が出てくるように思えます。

 教師からの教示と学習者の自得のバランスには再考が必要だと思います。

 別の例で考えます。既に長くなりすぎたので、短くしか述べませんが、一見したら「教えない」授業をしている福島哲也先生も、実は実に細かく学習者に即した課題の開発と提示を行っています。実際、福島先生が生徒を観察しながらずっと行っているのは、生徒の思考などの分析とそれに基づく教材観察です。「教えない」ようでいて、学習者を放任してしまうのではなく、仲間との『学び合い』の力の中に巻き込むことで、個々の学習者の力を伸ばしています。(福島先生の実践については、これから少しずつ私なりに考察を進めてゆきたいと思っています)。

 また西岡常一氏に代表されるような宮大工の徒弟制度でも、師匠は模範を示すだけで、後は「自分でやれ」と突き放し、一切教えることはしません。しかし、その背後では、弟子の生活を保証する、まずは徹底的に「見習い」をさせて弟子の意欲(「師匠のようになりたい」という想い)を育む、弟子一人ひとりの個性を見極める、やらせる課題にも配慮がある、などなどの工夫があります。

 教師・師匠はすべてを教え込んでしまってはいけませんが、ただ何もしなくていいわけではありません。一見何もしないでいるようでいて、実は教師・弟子が行っていることの解明が重要だと思います。

 再び当事者研究の話に戻しますなら、当事者の代わりに仲間が解決案を考えてしまうような当事者研究は、当事者に一時的な問題対処の方法は与えても、当事者の潜在的な力を長期的には伸ばし損ねる怖れがあります。極端なことをいうなら、当事者を解決策を示してくれる仲間に依存させてしまう恐れすらあります。やはり当事者の主体性を最優先することを忘れてはならないでしょう。それでは当事者の主体性を育むためにはどうするべきか、というのが次の点につながります。


(3) エゴ

 「当事者の主体性を尊重する」と口で言うのは簡単ですが、当事者の独自の可能性に対する畏怖がなければ、このことを実行するのは容易ではないように思えます。もしファシリテーターや仲間に、少しでも「苦しんでいない私には、苦しんでいる当事者よりも当事者のことがよく見えているはずだ」、「当事者も私が示唆するような方法を取れば多少は苦しみから逃れられるだろう」といった思いがあれば、それは当事者が、当事者自身も含めて誰も予知できなかったような独自の個性的な発展をする可能性を否定してしまうことになります。当事者が、苦しみも喜びもすべて経験することによって自らの人生を開花させる主体性を奪ってしまうことになります。

 当事者の主体性を尊重するためには、ファシリテーターや仲間がエゴをできるだけ捨て去ることが重要であるように思えます。(これは私がエゴが強いから特に感じていることかもしれません)。エゴを捨て去ることは、当事者研究の15の原則(注)から言いますと、「前向きな無力さ」や「初心対等」などで示されているように私は理解しています。

 エゴ(自己中心性、過剰な自意識、自負、うぬぼれ)というのはやっかいなもので、私などは下手に研究職にいるものですから「自分は分析ができる!」と思い込み、上に述べたように、当事者の声にもっと寄り添い、ペースに合わせ、聞き出すよりも聞き入ることが疎かになってしまいました。反省です。

 また少し脱線になりますが、上でも少し述べた『学び合い』の福島先生のお話を聞いたりワークショップに参加したりして強く感じたことは、福島先生が授業からエゴをできるだけ消そうとしていることです。それは福島先生の「指導の軸足を自分ではなく、生徒におく」ということばからもうかがえますし、先生が生徒の「学びに向かう力」を喚起するのに必要な「人間(的な)関係」として上げている以下の4つの原則からもうかがうことができます。

i)    「コントロールしない」(子どもを思い通りに動かせる対象とは考えない)
ii)   「対等な関係」(子どもも教師も人間としては平等であるから互いに敬意を払い、悪かったら素直に謝る)
iii)  「疑わない」(「この子はどうせ○○なのではないか」と予断をもって裁かない)。
iv)  「多様性を認める」(教師が思い込んでいる人間のあり方以外にもいろんな人間のあり方があることを積極的に受け入れる)。


福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」


 この4つの原則を見ていると、これらはすべて当事者研究においてもファシリテーターや仲間が心得ておくべき大切な原則であるように思えます。

 あるいは先日たまたま見たツイートも思い起こされます。



 もしくは「対話」において重要なことの一つは「決めつけないこと」 (to suspend) であるとしたボームの対話論も想起されます。


感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から


 安直な一般化には気をつけるべきかもしれませんが、当事者研究も授業も技芸伝承も対話もすべてコミュニケーションだとしてまとめるなら、そこで大切なことの一つは、各人が互いを尊重し合うために、それぞれのエゴの暴走を抑制することなのかもしれません。

 しかしそのように「コミュニケーション」を総括してしまうと、なんだか砂糖でまぶされた、単なる「いい話」になってしまいそうです。二度目の脱線はここで終えて、私がファシリテーターとして参加した当事者研究の具体的な反省に戻りましょう。


(4) 物理的条件

 当事者研究のデモンストレーションの前に、私はその日の朝たまたま読んだ新聞記事から次の一節を紹介して、当事者研究のように対話を活かした実践が世界各地にあることを示しました。



These Men Are Waiting to Share Some Feelings With You. NYT. Dec.8, 2018

 そこには "sitting and listening intently"とありますが、私が参加したデモンストレーションは立ったまま行うものでした。これは教室全体に声を届けるにはよい方法だったのかもしれませんが、そのことにより傾聴することが少しおろそかになったのかもしれません。あるいは声を張る様式では伝えられないこともあるとも言うべきでしょうか。マイクを使ってささやいたりつぶやいたりすることも容易にして、対話を座って行ったとしたら、少しは落ち着いた雰囲気で当事者研究ができたのかもしれません。

 また当日は黒板に話の流れを書き込む係も一名入れたのですが、当事者とファシリテーターはほぼ常に黒板と書き込み係を背にしていたので、うまく黒板を使うことができなかったのも失敗でした。

 当事者研究の物理的な環境が「こうでなくてはならない」とまで厳格に定められる必要はないと思いますし、当事者研究を立って行うことも「あり」だとは思いますが--実際、私が浦河で見学した当事者研究では当事者とファシリテーターは立っていました--、心身ともに無駄な力を抜いて行えるような配慮は必要だと反省しました(少なくともマイクの利用は積極的に考えた方がいいのかもしれません)。


(5) パフォーマンス

 物理的環境以上に反省すべきは、今回の当事者研究が具体例提示ということもあり、必要以上に「パフォーマンス」になってしまったのではないかということです。当事者と話し合うこと以上に、話し合いの成果を示すことに力点がおかれてしまったことです。
 
 最初の失敗は、上の立ち方とも絡みますが、当事者が最初にファシリテーターである私の方ではなく、オーディエンスである学生さんの方を向いて話を始めたことを、ファシリテーターである私がそのままにしてしまったことかと思います。今回の当事者は教師であるため、自然といつものように学生さんの方を向いて語り始めたのかもしれません。もちろん、当事者とファシリテーターの時折のアイコンタクトはありましたが、下手をすると私ですら当事者ではなくオーディエンスの方を向いて発言していたかもしれません(特に、自らの仮説を開陳する時など)。

 くわしいことはビデオ録画を見てみないとわかりませんが、今、書きながらも、私は自らが語っている内容に関してオーディエンスの同意を求めるためにオーディエンスとアイコンタクトを取っていたことを思い出します。これには、「当事者研究の効果を学生さんにも実感してもらわなければならない」といった焦りが背後にあったと思います。

 焦りという点では、「この時間内に、何らか結論めいたものを示さなければならない」という焦りもありました。私が当事者の人となりと知的能力をよく知っていたというのもありましたが、私が短時間の間にさまざまな仮説や解釈を当事者に投げかけてしまった一端にはこの焦りがあったはずです。


(6) 複数性

 最後にこれは最初からわかっていたことではありますが、今回の当事者研究デモンストレーションは、当事者・ファシリテーター・書き込み係が一名ずつという体制でやってしまい、複数の聞き手(「仲間」)という存在を欠いてしまったということも反省すべき点です。

 もし複数の「仲間」が参加していたら、それぞれがそれぞれの見解を表明することで、認識の多様性も自然と担保されるでしょうし、特定の一人(今回はファシリテーター)が張り切りすぎることも防げたかと思います。

 私が昨年度の英語教師志望学生への当事者研究実践から学んだことの一つは、学生さんは複数の聞き手がいる当事者研究では、私との個人面談とは異なる顔を見せるということでした。昨年度の学生さんは私がチューターをしていたため、私は彼ら・彼女らをそれなりに理解していると自負していたのですが、複数の聞き手が関わる当事者研究では私の知らない学生さんの姿が何度も出てきました。これには、「聞き手が教師でなく学生である」ということも関連しているでしょうが、それ以上に、「当事者が、複数の人間による多様な認識枠組みで捉えられている」ということが大きかったのではないかと私は考えています。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より



 以上が私の反省です。別の角度から私の反省をまとめて学生さんに伝えたスライドのPDFもついでながら掲載しておきます。



 当事者研究についてわかっていたようで、実はわかっていなかったことが今回の収穫でした。これからも当事者研究について学んでゆこうと思います。


(注)当事者研究の15の原則

1: 「弱さ」の情報公開
2: 「自分自身で、ともに」
3: 経験は宝
4: "治す"よりも"活かす"
5: 「笑い」の力 -- ユーモアの大切さ
6: いつでも、どこでも、いつまでも
7: 自分の苦労をみんなの苦労に
8: 前向きな無力さ
9: 「見つめる」から「眺める」へ
10: 言葉を帰る、振る舞いを変える
11: 研究は頭でしない、身体でする
12: 自分を助ける、仲間を助ける
13: 初心対等
14: 主観・反転・"非"常識
15: 「人」と「こと(問題)」をわける

関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html 

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html 

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html






2018年12月3日月曜日

「コミュニケーション能力と英語教育」(2018年度) 




この記事について

この記事は、学部三年生用の授業「コミュニケーション能力と英語教育」 (火曜5-8 K208教室) のためのファイル・リンク集です。今年度は、物語論、二人称的アプローチ、および実践者から学ぶ、といった内容を追加しました。(その結果、残念ですが、レイコフとジョンソンによる認知意味論や翻訳論を割愛しました)




授業計画の概要

詳しくは下で説明しますが、ここで授業計画の概要を示しておきます。

第一日目 (12/4) はじめに
前半: 導入(考えることについてなど)
後半: チョムスキーの言語観
第二日目 (12/11)  応用言語学的コミュニケーション能力論 
前半:ハイムズからバックマンまで
後半:コミュニケーション能力の三次元的理解
第三日目 (12/18)  分析哲学的コミュニケーション観
前半: デイヴィドソンのコミュニケーション論
後半: ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論
※12/25は月曜授業振替日ですから、この授業はありません。
第四日目 (1/8)  感性から考えるコミュニケーション
前半:野口三千三と竹内敏晴の言語コミュニケーション観
後半:言語教育実践における感性の重要性
第五日目 (1/15) 言語学以外の分野での意味理論
前半: 意識の情報統合理論に基づく意味理論
後半:アレントに基づく意味理論
第六日目 (1/22) 研究方法論について
前半:物語論
後半:二人称的アプローチ
第七日目 (1/29) 実践者から学ぶ
前半:田尻悟郎先生の実践から 
後半:福島哲也先生の実践から
第八日目 (2/5) まとめ
前半:これまでの総括
後半:ポートフォリオ作成




この記事での凡例

このブログ記事で、記事・論文・書籍の名前の前に付けられたの記号はそれぞれ次のような意味を持っています。

授業の前にきちんと読んで、そのまとめや感想などをWebCTシステム (Bb9) に書いておくべきもの(四角ですから「きちんと読め」と覚えて下さい)。

授業の前に参考程度に読んでおくべきもの(三角ですから、四角ほど「四角四面に読む必要はない」と覚えて下さい)。

S(秀)判定のための課題例。念のためにブログ記事だけは読んでおいてください。この記事で紹介された本を書評したらS評価の対象とします(星印ですから「輝くSを取るためのもの」)と覚えて下さい。




すべての講義についての私の原則

 私の講義の原則




遅刻・欠席・参加に関する方針

・甘やかされた内弁慶でしかない「お子ちゃま」や、単位がほしいだけのために受講を希望している人はお断りします。お互いに真摯な学びの空間を育てるためです。しっかり学びたい人だけが受講して下さい。

・遅刻は認めません。最初の点呼の時にいなかったら欠席扱いにします。欠席3回以上は単位認定をしないことを原則とします。やむを得ない理由があった場合は申し出てください。

・私語や居眠りなどは許しません。注意しても止めないようでしたら教室から出ていってもらいます。楽しい学習環境を保つために、最低限のケジメだけはつけます。

・なお教室に入ったら、毎回必ず違う席に座り、違う人の隣に座ってください(お互いに気軽に質問できるようにするため、一人だけ離れては座らないでください)。




授業で使う主なホームページ

・このブログ記事(授業計画など)
パスワードは口頭でお知らせします。
・広島大学Bb9(振り返りや課題の提出用)
広大ホームページの「もみじ」からアクセスして下さい。
主に使うのは「教材」の機能です。課題提出はBb9で行ってください。柳瀬の個人メールアドレスへの提出は(Bb9の不調などの仕方のない場合を除いて)避けてください。
なお書き込みは、すべて授業直前の日曜日の23:59までに行ってください。




授業に必要なもの

・学生証:K208教室への入室に必要。
・インターネットアクセスのできるパソコンやタブレットなど。




この授業での評価方法

(1)  C判定を得るためには:Bb9にその日の課題(振り返り・予習課題)を期日までに出しておき、かつ実際の授業に参加する。

これらの課題を、授業前日だけで行うことは事実上非常に困難です。「この授業は課題が厳しい」ということを覚悟して、授業が終わった日の夜から少しずつ毎日課題に取り組んでください。真面目な努力はあなたを裏切りません。

・振り返り:その日の講義で学んだことを、率直に、しかし他人にも伝わるように書いてください。文体の巧拙は知性の指標ですから、できるだけきちんとした文章を書くように努力してください。また、当然の前提として日頃から読書をしておくこと。

・予習課題:次週の授業内容の印で示された記事を読んで、自分なりに理解できたこと・理解できなかったことを文章化してください。

(2) B判定を得るためには:(1)に加えて、期末にきちんとしたポートフォリオを提出する。ポートフォリオは、 (2a) 自分が本当に面白いと思う内容を、 (2b) その面白さが他人にもわかるような形でまとめる、ことを原則として作成してください。

(3) A判定を得るためには:(2) に加えて、教英図書室や中央図書館(一階)で借りることができるGraded Readersを読んで、その本から学んだ印象深い表現の引用とそれについての感想を毎週少しずつまとめる。まとめたファイルを最終週にBb9に提出する。

参考ブログ記事(ブログ公開は現在中止しています)
 広大教英生がお薦めするGraded Readers

 柳瀬ツイッター(平日の朝は必ずThe New York Timesを読み、印象深かった表現を引用するようにしています(感想は付け加えていません)。

(4) S判定を得るためには:(3) に加えて、以下の課題をこなしていること。
自主性を開拓するために書評かプロジェクトに挑戦してみてください


 以上の原則に基いて、タームの最後には成績の自己申告をしていただきます。自己申告には、(1)-(4)の実績を具体的に数字などで示した上で自分が値するべき成績を申告してください。この自己申告に著しい虚偽があった場合は、単位認定を取り消し不合格にしますので、くれぐれもきちんと申告してください。


授業では特に取り上げませんが、コミュニケーション(および言語)に関する副読本としては以下をお薦めします。

末田清子・福田浩子(2003)『コミュニケーション学』
小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』
野矢茂樹・西村義樹 (2013) 『言語学の教室哲学者と学ぶ認知言語学』 (中公新書) 
 「コミュニケーション能力と英語教育」のレポートから
 田尻悟郎先生の授業ビデオをハンナ・アレントの哲学の枠組みを通して解釈する試み (学生さんの感想)
 身体論的言語論に関する文献(レイコフとジョンソン、野口三千三と竹内敏晴)を読んだ学部三年生の感想
 レイコフとジョンソンによる「客観主義」と「経験基盤主義」に関して寄せられた学部生コメント
 「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の感想
 「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」での学生さんの様々な気づき
 学生さんによる物語論・身体論・授業論
 学生さんによる、スポーツから考える英語教育論
 学生さんによる、音楽から考えるコミュニケーション論
 学生さんの哲学的な文章(「「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」を受けて)
 英語授業を具体的に分析し、自省する
 英語教師であるということはどういうことか
 言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて






第一日目 (12/4)


はじめに


前半: 導入(考えることについてなど)

 ダブルループラーニング (double-loop learning 二重ループ学習)についての私的まとめ
 実践者として現場で考えるための方法論
 想像力と論理力の統合としての思考力について
 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
  全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について
科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える
「実験研究は成功を連呼するのに、英語教育が一向に改善しないように見えるのはなぜなのか」という素朴な問いに対する答えの試み
農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?
自然栽培的な教育?杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土  無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで
和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
授業の「正中線」?
  教育現場で「よく観察し、よく考える」こと
岩本茂樹『教育をぶっとばせ --反学校文化の輩たち--』文春新書
教師と生徒の相互理解と相互認証広島大学英語文化教育学会での齋藤智子先生の発表






後半: チョムスキーの言語観

「カントとチョムスキー」(授業用スライド)
「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
 チョムスキーに関するファイル(パスワード必要)
 「文法をカラダで覚える」とは何か
 自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか
 SLA研究者若林茂則先生による英語教育論



参考文献
Chomsky, N. 1965. Aspects of the theory of syntax. Cambridge, Massachusetts: The MIT Press (第一章のセクション1,2,8のみ)
Marc D. Hauser, Noam Chomsky and W. Tecumseh Fitch
The Faculty of Language: What Is It, Who Has It, and How Did It Evolve? http://www.sciencemag.org/content/298/5598/1569.short
レイ・ジャッケンドフ(2004)『心のパターン』岩波書店
レイ・ジャッケンドフ(2006)『言語の基盤脳・意味・文法・進化』岩波書店
1 Introduction and Key terms - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
2 Transcendental ideas - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
4 Freedom - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
5 Principle of Pure Reason - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)






第二日目 (12/11)

応用言語学的コミュニケーション能力論

前半:ハイムズからバックマンまで

 Hymes, Canale & Swain, Widdowson and Bachman & Palmer (授業用スライド)
 教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--
 Hymes, Canale, Swainの論に関するファイル(パスワード必要)
 WiddowsonBachmanの論に関するファイル(パスワード必要)
 バックマンのCommunicative Language Abilityの図
 バックマンのLanguage Competenceの図
 バックマンとパーマーの2010年に関する記事


参考文献
 Hymes, D. 1972. On Communicative Competence. In J. Pride and J. Holmes (eds.), Sociolinguistics: Selected readings (pp. 269-93). Harmondsworth: Penguin.
 Canale, M. and Swain. M. 1980. "Theoretical bases of communicative approaches to second language teaching and testing." Applied Linguistics, 1 (1): 1-47.(セクション13のみ)
 Canale, M. 1983. From communicative competence to communicative language pedagogy. In J. C. Richards and R. W. Schmidt (eds.), Language and Communication (pp. 2-27).  London: Longman.
 Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Press.(第1章のみ)
 Bachman, L. F. 1990. Fundamental considerations in language testing. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
 Bachman, L. F. and Palmer, A. S. 1996. Language testing in practice. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
 Bachman, L.f. and Palmer, A.S. 2010. Language Assessment in Practice. Oxford: Oxford University Press. (第3章のみ)




後半:コミュニケーション能力の三次元的理解

 授業スライド:コミュニケーション能力の三次元的理解
 「学校英語教育の見通し」(パスワードが必要です)
  中学三年生向けの言語コミュニケーション力論
 『日本言語テスト学会』論文









第三日目 (12/18)

分析哲学的コミュニケーション観


前半: デイヴィドソンのコミュニケーション論


 授業用スライド
 二項対立の間でデイヴィドソンを考える
 「コミュニケーションの極から考える」(2001/8/3)および「コミュニケーションという革新」(2001/5/20)
lのページにあります。スクロールかCtrl+Fで探してください。
 デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考
 コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学



参考文献
 Davidoson, D. 1973, ‘Radical Interpretation’, Dialectica, 27, reprinted in Davidson, 2001b.
 Davidoson, D. 1986, ‘A Nice Derangement of Epitaphs’, in LePore (ed.), 1986, reprinted in Davidson, 2005a.
 Davidoson, D. 2001, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford: Clarendon Press, 2nd edn.
 Davidoson, D. 2005, Truth, Language and History: Philosophical Essays, with Introduction by Marcia Cavell, Oxford: Clarendon Press.
  森本浩一 (2004) 『デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか』NHK出版





後半: ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論

授業用スライド
 「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
 ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88-- 特に『論考』との関連から
 野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)
 鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
 ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 
  ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード
 ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社


参考文献
 永井均(1995)『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書
 鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
 飯田隆(2005)『ウィトゲンシュタイン』講談社





第四日目 (1/8)

感性から考えるコミュニケーション


前半:野口三千三と竹内敏晴の言語コミュニケーション観

授業投影スライド
 竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
 野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
 竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
 「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
 野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り
 和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」
 3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料
京都講演に対する松井孝志先生のコメントを受けて
竹内敏晴に関するファイル (パスワード必要)
野口三千三に関するファイル (パスワード必要)
田尻悟郎先生の多声性について
平田オリザ先生のワークショップに参加して
▲Do not let mind mind mind (Yes, deconstruction is what Zen is about)
▲Movement of Budo (martial arts) and Luhmann's systems theory
▲Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts)

参考文献
 竹内敏晴(1988)『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)(初版は1975年に思想の科学社から出版)
 竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫 (竹内敏晴(1982)『からだが語ることば』評論社、と竹内敏晴(1983)『ドラマとしての授業』評論社に数篇を加え、新たに編み直したもの)
 竹内敏晴 (2001) 『思想する「からだ」』晶文社
 竹内敏晴(2009)『出会うということ』藤原書店
 竹内敏晴 (2010) 『レッスンする人』藤原書店
 野口三千三(2003)『原初生命体としての人間 野口体操の理論』岩波書店・岩波現代文庫(1972年に三笠書房より出版。1996年に改訂版が岩波書店・同時代ライブラリー版として出版)
 野口三千三(1977)『からだに貞く』柏樹社
 野口三千三(1979)『おもさに貞く』柏樹社
 羽鳥操(2002)『野口体操 感覚こそ力』春秋社
 羽鳥操(2003)『野口体操入門』岩波アクティブ新書
 羽鳥操(2004)『野口体操 ことばに貞く』春秋社
 羽鳥操・松尾哲矢(2007)『身体感覚をひらく』岩波ジュニア新書

竹内敏晴氏の主要作品は、現在4巻本の『選集』で読むことができます。ご興味のある方は品切れになる前に入手されることをお勧めします。
  竹内敏晴 (2013) 『セレクション・竹内敏晴の「からだと思想」(全4巻)





後半:言語教育実践における感性の重要性

 「優れた英語教師教育者における感受性の働き情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ
 「優れた英語教師教育者における感受性の働き情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22
 「ユマニチュード」あるは<人間らしさ>を教室でも実践することについて
 7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法(京都外国語大学)は予定通り開催します + 柳瀬の当日発表資料公開
 優れた英語教師教育者における感受性の働き情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成  (草稿)
 カント、ダマシオ、ボームの用語の定義 (感性・知性・理性、情動・感情(中核意識)・拡張意識、感受性)
 喜多 壮太郎 (2000) 「ひとはなぜジェスチャーをするのか」 『認知科学』7 1 p. 9-21
 喜多壮太郎 (2002) 『ジェスチャー 考えるからだ』 金子書房
 David McNeill (2005) Gesture and Thoughtの第1-4章のまとめ
 7/22の公開研究集会「外国語教師の身体作法」での柳瀬発表の後の質疑応答
 率直で開かれたコミュニケーションから私たちの喜びである共感や連帯感が生まれる(アダム・スミスの『道徳感情論』から)
 「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
 (続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
 (続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り









第五日目 (1/15)

言語学以外の分野での意味理論


前半: 意識の情報統合理論に基づく意味理論

 意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料
 「意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.53-62
「意味、複合性、そして応用言語学」 『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19. pp.7-17
 「言語学という基盤を問い直す応用言語学?意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて」(応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)1 序論」と「2 意味概念に関する哲学的探究」だけで結構です。内容は難しいかもしれないので、直感的に理解してくだされば結構です。
 今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)
 意識の統合情報理論からの基礎的意味理論英語教育における意味の矮小化に抗して  (草稿)
 ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
 ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)
 ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ -- Identität - was oder wie? より




後半:アレントに基づく意味理論

 授業投映用スライド
 真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より
 人間の複数性について: アレント『活動的生』より
 アレントの行為論 --アレント『活動的生』より--
 アレント『暗い時代の人々』より -- 特に人格や意味や物語について--
 アレントの言語論に通じるル=グヴィンの言語論
 人間の条件としての複数性
 この世の中にとどまり、複数形で考える
「政治」とは何であり、何でないのか
 アレントによる根源的な「個人心理学」批判
 世界を心に閉じこめる近代人






第六日目 (1/22)

研究方法論について


前半:物語論

 3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか仮定法的実在性による利用者用一般化可能性
 論文「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか仮定法的実在性による利用者用一般化可能性
後日掲載
 J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
 Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ
 ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店 Hayden White (2014) The Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.
 物語論という観点からラボ・パーティの実践を観察する
 村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
 小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
 人はなぜ物語を必要とするのか
 ジョーゼフ・キャンベル/ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳(2010)『神話の力』早川書房
 技術・哲学・物語





後半:二人称的アプローチ

■ 「言語教師認知研究における物語様式と二人称的アプローチ」(11/17(土)14-16時 熊本大学教育学部棟2
■ ブーバーの『我と汝』の英語版からの抄訳
■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
■ David Bohmによる dialogue (対話、ダイアローグ)概念
Measurement and Its Discontentsの翻訳
▲ 「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳
▲ 感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から
▲ ボームの対話論についての学生さんの感想
▲ 実践に対する一人称的関わり、二人称的関わり、そして三人称的知見
 Measurement and Its Discontents
▲ Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳
▲ Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳
▲ いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる
▲ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
▲ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
▲ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
▲ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
▲ 「コミュニケーション実践と『客観性』」についての学生さんの予習書き込み
▲ 入試や評価についての学生さんの感想
▲ 学部4年生のM君による英語教師養成システムへの「違和感」の表明
 「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文







第七日目 (1/29)


実践者から学ぶ


前半:田尻悟郎先生の実践から

 授業投映用スライド
 アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
 田尻悟郎先生講演:「こんな先生に出会いたかった! ~豊かな人生を送るために子どもたちに伝えること~」
 ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す
 田尻悟郎先生のスピーチ実践 (6-Way Street) を見た学生さんの声
 動画ライブラリ:中学で英語が得意になる!シリーズ
田尻先生が短い動画で解説してくださっている貴重なシリーズです。今すぐでなくてもいいですが、時間のある時にぜひ見て下さい。
 「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
  E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
  仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
 欠陥商品としての「考える」こと
関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
 ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
 ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
さらに
 「現代社会における英語教育の人間形成について社会哲学的考察」を読んでください。
ついでに
 「当事者が語るということ」もどうぞ
 西洋哲学の寵児の政治的判断
 人間、ハンナ・アレント
および
 アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけ:エクセルファイルの概念図
 映画『ハンナ・アーレント』予告編





後半:福島哲也先生の実践から

 福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
 「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
■ 数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ--福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post_22.html
 Find!アクティブラーナー:福島哲也先生(数学)インタビュー
https://find-activelearning.com/set/400/con/398
 「教えない授業」における教師と生徒のコミュニケーション(追手門学院大手前中学校(数学)福島哲也先生によるワークショップ)11/29(木)9:00-12:00 広島大学教育学部
■ Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
■ 平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html
■ いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html
 ▲ 授業用スライド:教育の「正常化」 (normalization) の説明のために "The End of Average" (『平均思考は捨てなさい』)の議論を用いる
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/normalization-end-of-average.html
■ 当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html
▲ 授業用スライド:ユングによる「個性化」概念
https://app.box.com/s/d3wrz5qfvxdkpxkjs3yfrn36ixp9o9xn

以下再掲項目
 Measurement and Its Discontents
▲ Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳
▲ Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳
▲ いかなる社会的指標も、社会的な意思決定に使われれば使われるほどますます腐敗に向かう圧力を受け、それがそもそも観測しようとしていた社会的過程を歪め腐敗させやすくなる
▲ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
▲ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
▲ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
▲ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
▲ 「コミュニケーション実践と『客観性』」についての学生さんの予習書き込み
▲ 入試や評価についての学生さんの感想
▲ 学部4年生のM君による英語教師養成システムへの「違和感」の表明
 「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文







第八日目 (2/5)

まとめ


前半:これまでの総括

後半:ポートフォリオ作成



以上