以下は2011/04/20に、私の所属講座の学部新入生対象の授業である「教養ゼミ」で私が話す内容のスライドです。
3.11以来、私はどう少なく見積もっても一年分の勉強をしたと思っています。いやそれ以上かもしれません。私も含めていろいろな人々の「
地金が露呈した 」日々でした。そして「日本」についても改めて考えさせられた日々でした(そしてこの日々は続いてゆきます)。
私は3.11以来、このブログでもいろいろな文章を書いてきましたが、Twitter(
@yosukeyanase )はそれ以上に情報を発信してきました。
今回のそのスライドはその情報発信の中でも私が特に重要と思った話題を使いながら、日本の「地金」を描くことを試みたものです。ここに上げられている見解ばかりを押し付けるつもりはありませんし、そのようなことは教師が教室という閉ざされた空間では決してやってはならないことですが、これらの論点を契機に、学生さんがぜひ
自らの頭で考え、自らの言葉で語り、自らの責任で行動できる人間 に育ってほしいとは思っています。
ご興味ある方は、以下のスライドと授業音声(後で追加します)をダウンロードして下さい。
追記 (2011/04/20)
本日、この講義を行いましたが、このスライドの中で述べた内田樹氏の以下の論は特に新入生の共感を得たようです。
教師が「生徒のため」「保護者のため」「受験のため」といった「善意」で行っていることが、結果的に何を生み出しているのかを冷静に考えたいと思います。
ここまでは震災「以前」の危機管理について述べてきた。実際に災害が起きた「以後」の東電と政府の対応についても、私たちは人災的な瑕疵を指摘しないわけにはゆかない。
危機管理の条件は「ありもの」しか使えないということである。手元にある資材、人材、資源、そして時間しか使えない。その中でやりくりしなくてはいけない。それは危機の時には「正解がない」ということである。危機的状況というのは、必要な資材がなく、必要な人員がなく、必要な情報がなく、必要な時間がないということである。いちばんきびしいのは「時間がない」ということである。とくに原発事故の場合は、放射性物質がいったん漏出し始めると、人間がそこにいって作業できなくなるから「打つ手」が一気に限定される。今なら選択できるオプションが一時間後には選択できなくなるということがありうる。その場合の「今できるベスト」は「正解」とはほど遠いものとなる。
けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。
だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。
「胆力がある」ということは別に際だった知的・人格的資質ではない。「胆力のある人間」は「胆力のある人間を育成する教育プログラム」によって組織的に育成することができる。例えば武道や宗教はほんらいそのためのものである。けれども、日本の戦後教育は「危機的状況で適切な選択を自己決定できる人間」の育成に何の関心も示さなかった。教育行政が国策的に育成してきたのは「上位者の命令に従い、マニュアル通りにてきぱきと仕事をする人間」である。それだけである。
たぶんこの後、次第にあきらかにされると思うけれども、事故の現場には「今はこうするのがベストだ。すぐに動こう」という具体的提案をした人がいたと私は思う。現場の人間は「正解」を待つことなく、「今できる最適のこと」を選ぶ訓練を受けている。でも、「上の人間」がその決断にストップをかけた。「軽はずみに動くな。上からの指示があるまで待て」ということを言った人間が必ずいたはずである。そして指示を求められた「上の人間」はまたさらにその「上の人間」に指示を仰いだ……そんなふうにして初動の貴重な数時間、数十時間が空費され、事故は手の付けられないところまで拡大していった。
追記2 (2011/04/20)
一部を引用しますと、
文部科学省、原子力災害対策本部、原子力安全委員会は、4月19日に「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を発表した。その内容は「校庭・園庭で3.8μSv/時間未満の空間線量率が測定された学校等については、校舎・校庭等を平常どおり利用をして差し支えない」というものだ。
この3.8μSv/時という基準線量を見て目を疑った。放射線管理区域に設定しなければならない、信じ難く高い線量だったからだ。放射線障害防止のための放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律等は文科省が所管している。そして文科省自身が、「外部放射線に係る線量については、実効線量が3月あたり1.3mSv」を超えるおそれのある場所については放射線管理区域を設定するよう定めているのだ。
3月あたり1.3mSvというのは、0.6μSv/時である。今回文科省は、その6倍以上の3.8μSv/時という線量があっても「平常どおり利用をして差し支えない」と発表してしまった。これは明らかにこれまでの規制からの逸脱であり違法な内容である。
これが原子力発電所内や防災機関などなら、非常時なのでやむを得ないという考え方も出来るかもしれない。しかしどういう説明を付けても、放射能の影響を受けやすい子供達が毎日の生活を送る場所にふさわしいと言うことは出来ないはずだ。
※上で合原氏が述べている、文科省が所管している「放射線障害防止のための放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律等」は
であると思われます。もしこの合原氏の指摘が正しいのなら、文科省は今恐ろしいことを福島の子どもたちにやろうとしていることになります。
ついでながら言いますと、このように憶測などを書きますと、昨今では「流言飛語」「デマ」を撒き散らすな!とさえ言われかねない恐ろしい空気がありますが、それについてはぜひ総務省の以下の動きにご注目ください。私は、4/11にこのニュースを知り私の別ブログ
Art collection by Yosuke YANASE に第一報を書きましたが、その後の展開は少し恐ろしくさえ思えるほどです。
追記3 (2011/04/20)
上の授業スライドで「かろうじて残っている学問の良心」の一つとして紹介した
は、
青木 芳朗 元原子力安全委員
石野 栞 東京大学名誉教授
木村 逸郎 京都大学名誉教授
齋藤 伸三 元原子力委員長代理、元日本原子力学会会長
佐藤 一男 元原子力安全委員長
柴田 徳思 学術会議連携会員、基礎医学委員会。総合工学委員会合同
放射線の利用に伴う課題検討分科会委員長
住田 健二 元原子力安全委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
関本 博 東京工業大学名誉教授
田中 俊一 前原子力委員会委員長代理、元日本原子力学会会長
長瀧 重信 元放射線影響研究所理事長
永宮 正治 学術会議会員、日本物理学会会長
成合 英樹 元日本原子力学会会長、前原子力安全基盤機構理事長
広瀬 崇子 前原子力委員、学術会議連携会員
松浦祥次郎 元原子力安全委員長
松原 純子 元原子力安全委員会委員長代理
諸葛 宗男 東京大学公共政策大学院特任教授
といった科学者や医者が、3月31日の段階で
はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に国民に深く陳謝いたします。
と謝罪し、
福島原発事故は極めて深刻な状況にある。更なる大量の放射能放出があれば避難地域にとどまらず、さらに広範な地域での生活が困難になることも予測され、一東京電力だけの事故でなく、既に国家的な事件というべき事態に直面している。
(中略)
事態をこれ以上悪化させずに、当面の難局を乗り切り、長期的に危機を増大させないためには、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、関係省庁に加えて、日本原子力研究開発機構、放射線医学総合研究所、産業界、大学等を結集し、我が国がもつ専門的英知と経験を組織的、機動的に活用しつつ、総合的かつ戦略的に取組むことが必須である。
私達は、国を挙げた福島原発事故に対処する強力な体制を緊急に構築することを強く政府に求めるものである。
と訴えるものです。
しかし私が本日購入した『週刊現代2011年4月18日号』(オンライン版は
ここ )は、この建言書について次のように報じています。
だが、覚悟の「建言書」はメディアにも政府にも無視された格好だ。4月1日に開いた会見には、多くの記者が集まったが、取り上げたのはごく一部のメディアだけ。政府にいたっては、「建言書」の受け取りすらも拒否したという。(44ページ)
さらにこの『週刊現代2011年4月18日号』は、首相官邸ホームページは3月12日には「14:30 ベント開始」と掲載してあった記録を、3月27日に「10:17 ベント開始」と書換え、現在に至っていることを報じています。
同誌は次のように言います。
なぜこんな姑息なことをしたのか。言うまでもなく、「菅首相の視察でベント開始が遅れ、結果的に1号機が爆発した」という批判をかわすためである。(62ページ)
さらに同誌はこの件に関する原子力安全・保安院の説明はまやかしではないかとしています。
原子力安全・保安院は、この書き換え問題に対し、「もともとベント作業の着手は10時17分だった。しかし官邸HPでは14時30分となっていたので、官邸に指摘して表記が変わっただけ」などと、あくまで事務的な「凡ミス」に過ぎないと強調している。
だが、現在HPに掲載されている公表記録では、10時17分に「作業着手」ではなく「ベント開始」と記載されている。保安院の説明では「その時間に作業準備は始まった」というものなのに、いつのまにやら、「ベント開始時間そのもの」が、なし崩しに4時間以上も早められたのだ。(62ページ)
私は「個人情報保護法案」の騒動の頃に新聞各紙を読み比べて毎日新聞を購読することに決めました(
その頃の記事 )。自分が日頃入手する情報を吟味しないといけないと思ったからです。
今回の天災・人災以降、私はネットから多く情報を得ていますが、週刊誌・月刊誌などの紙媒体雑誌もこれから定期購読し始めようかと思っています。
追記4 (2011/04/21) 追記2で述べた「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」について、NHKの藤原記者は次のように解説しています。
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/600/79329.html#more しかし、この基準について『河北新報』は4月21日の記事「保護者恐る恐るの日々 福島13校屋外活動制限」で以下のように論じています。
基準の3.8マイクロシーベルトは、児童らの年間の積算放射線量が20ミリシーベルトに達するかどうかを目安に算定された。根拠は国際放射線防護委員会が「非常事態収束後の一般公衆レベル」とする1~20ミリシーベルトで、その上限を採った形だ。 しかし市民団体「原発震災復興・福島会議」の世話人を務める川俣町のNPO法人代表の佐藤幸子さん(52)は「通常時の一般人の許容限度は年間1ミリシーベルト。今回の基準は甘すぎる」と疑問を向ける。 「一般人が立ち入り制限になる放射線管理区域の基準に相当する毎時0.6マイクロシーベルト以上の学校は、授業を中止して学童疎開を進めるべきだ」と強調する。http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110421t63005.htm この件についての小出裕章先生(京都大学・助教)の見解が下記で聞けます。ぜひお聴きください。
仮に今回の政府決定が「非常事態収束後の一般公衆レベル」からの試算であるにせよ、その試算は上限一杯の最大値に基づくもの(最小値の20倍)です。
さらに成人ではなく、子どもに関する事柄については、せめて「通常時の一般人の許容限度」である年間1ミリシーベルト(=「非常事態収束後の一般公衆レベル」の最小値)を守るべきだと考えます。
もし政府が、集団疎開のリスクと、今回の基準による被曝リスクを比較検討して、今回の線量基準を決定したのなら、そのリスク検討は妥当だったのかを多方面からチェックするためにその判断根拠をできる限り公開するべきでしょう(
そもそも集団疎開の具体的な検討は行っているのでしょうか )。
せめてNHK解説の以下の部分(強調箇所はNHK)ぐらいは行わないと、現状の政府の対応は、国民のためではなく、自らの無能力を糊塗するためのものと思われても仕方ないのではないでしょうか。
ただ、新たな事態が起きるたびに対応がかわっていくと、住民は放射線の専門家ではありませんので、不安を抱くといったことにつながりかねません。今回も通常より高い放射線の量が検出されている、その状態が続いていることでですね、取り急ぎこの新しい目安を作った訳ですが、実際のところ政府内でどういう議論がされてこの値が出てきたのか 、またより厳しい値を設定するという選択肢はなかったのかといったようなですね、そういった情報が十分に公開されているとは言えない状況 です。地震や、津波、そして原子力発電所の事故とですね、これまで想定外のことが続いています。 ひたすらその「健康に影響がありません」ということを強調するだけではなく 、今回のように住民の行動に直接影響がある決定を行う場合はですね、できるだけその情報を公開していくことが、住民の方々の不安や不信を、不安や不審を解消するのに欠かせないということがいえます。 追記5 (2011/04/21) 「福島の子どもたちを放射能から守れ!政府交渉」ライブ録画
文科省、原子力安全委員会は年間累計放射線量20mSvに引き上げの判断、根拠、また福島の現状、放射線管理区域、法的整合性についてまったく認識、理解していなかった。
http://www.ustream.tv/recorded/14169488 追記6 (2011/04/21) 以下、
http://hiroakikoide.wordpress.com/2011/04/21/tanemaki-apr20/ に掲載された上記放送(追記4)の要約です。
・(文科省が福島県内の保育園、幼稚園や小中学校を普通に利用する際の限界を1時間あたり3.8マイクロシーベルトと定めたが?)驚いた。普通私たちが生活している環境では0.05マイクロシーベルトが普通。その80倍。 ・(年間で20ミリシーベルトという基準で算出したものだが?)その前提がとてつもなく高すぎる。一般の日本人は法律で年間1ミリシーベルトしか被曝してはいけないと決まっている。それをいきなり20倍にする権限が誰にあるのか不思議に思う。こどもは特に放射能に敏感であるのに、そういう基準を押し付けるやり方がなぜ許されるのか分からない。 ・(基準値を超える学校や園については屋外活動を1時間以内に抑えるとしているが?)被曝はあらゆる意味で危険。少しでもそれなりの危険がある。こどもは外で遊ぶべきで、砂場で泥まみれになるのがこども。外に出るなというのは異常。それほどの状況が生じている。 ・(うがいや窓閉めが奨励されているが、役立つか?)1時間あたり3.8マイクロシーベルトと言っているのは外部からの被曝を想定している。放射性物質を身体に取り込むのはもっと大きな被曝になる。口から取り込んだり吸い込むことは当然避けるべき。従い、よく洗う、うがいする、着替える、窓を閉めるということはやるべき。ただ、そんな状態にしたのは誰かというと、国=政府。その政府が自身の責任を一切表明せずにこどもたちに被曝を強制するというやり方には納得できない。 ・(6~9ヶ月で事故を収束させるという工程表を元にして今回の基準が定められたとしたら、事故の今後の推移次第で変わる?)事故が拡大したり、汚染区域が拡大する可能性はある。もしかしたら20ミリシーベルトと基準さえ反故にされるかもしれない。 ・(こどもだけ疎開することも考えたほうがいいか?)被曝は微量でも危険。放射線に敏感なこどもに限っては、被曝を少なくする方策が必要。ただし、こどもだけ避難、疎開ということをすると家庭が崩壊する。その重荷もある。その重さをどのような尺度で測ればいいのか、分からない。ただ、被曝を避ける方向で行政も含めて考えるべき。 ・(警戒地域ということで強制的な立退きが発表されているが?)家、ふるさとから立ち退きたくない人は必ず出てくる。チェルノブイリでもお年寄りを中心としてそういう方々がいた。福島でもそういう方々がいたら、その支援は行政の責任。生活インフラや医療など生活を保証する。ただしものすごい汚染地域は逃げてほしい。 ・(20ミリシーベルトは計画的避難地域の前提となる基準だが、その設定自体に疑問?)政府自体が追い詰められている状況。原子力を許してしまった日本の大人の責任として向き合わなければいけない。でも、こどもたちは守らなければならない。 ・(強制立ち退きをする際は、支援の政策とセットですすめるべき?)そうだ。説明も行政の責任。 ・(日給3万円で福島原発で働かないかという話が専門外の建設業の人たちに来ているが、爆発の危険は?)東電は1号機は水素爆発の危険があるとしていて、それを防ぐために窒素を注入している。2号機、3号機については何も作業が行われていないが、これも爆発の可能性はある。これまで爆発の危険はあまりないと思っていたが、あると思っておかなければならない。 ・こどもたちの被曝を避ける策を出したいが、本当にどうしたらいいか分からない。大人は知恵を絞って策を出さないといけない。追記7 (2011/04/25) 以下に、この講義を聞いた学生さんの感想の一部を引用します。
今までの自分の行動を省みつつ、自分の言動や行動が「空気を読んでいる」のではなくて、考えたくないという「甘え」に由来していることに気付きました。 情報の量が莫大になっている現代において、自分では考えたくない、誰かが代わりに考えてくれるだろう、そんな甘えた考えを捨てるべきだということを感じました。 物事を疑問視すること、物事の本質を理解しようとすること、そして物事に対する自分の考えを出すこと、この3つは大切にしていこうと思います。 ある新入生:間違えることは恥ずかしいことではない。間違える勉強をすることも大切である。誰にでも失敗はある。失敗を恐れていては、失敗ということを学ぶこともなく、また間違いを繰り返していくことになる 教員になりたいと思っている以上、自信を持って他人に教えられるだけの知識と、失敗を恐れず進んで行動する力を身につけたい。そのためにも、これからの大学生活で様々なことに取り組みたくさん失敗もしてそこから学んだことを生かしたい。 あと、自己弁護のために(笑)次の感想も引用。
また、先生の授業のスタイルにも深く共感できました。生徒にとって教師の言葉は大変影響力を持つものです。それに留意した上で、生徒に情報・トピックを与え自分たちで考えさせるという先生の授業スタイルは本当に参考になりました。 知恵を出そう。汗を出そう。勇気を出そう。 子どもには希望を伝えよう。 そのために、大人は真実を語り合おう。