2019年1月30日水曜日

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院


当事者研究や心理療法といった領域はある意味、究極の人文系の知恵の宝庫かなとも最近思っています。自然科学のように割り切って (rationalに)知識を伝えることができませんが、容易には割り切れないこと (the irrational) を丁寧に語る人文系の書物は、読者にテクストの意味の可能性を感じさせ想像させ、さらには(疑似)追体験させ、読者に徹底的に考えさせます。ですから人文系の書物は、速読することができません。読者は、語られたことばを丁寧に読みながら自分自身の積極的な解釈生み出してゆきます。

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その意味で、この本も速読を許さない本でした。私はずいぶん前にこの本を読んで沢山のハイライトも引いていたのですが、ブログ記事にはまとめていませんでした。他の本と同じように多忙の中でまとめる時間を失ってしまったというのがその理由でしょうが、ひょっとしたら当時の自分はきちんとまとめることができなかったのかもしれません。ソーシャルワーカーとしての向谷地先生の実践が、安直なまとめを許さない深いもので、読者としての私にそれなりの経験や想像力を必要とするからです。

もちろん学会発表のために読み直した今回の読解でも、私はこの本を十分に消化したとは言えません。むしろ読めば読むほど、これまで「そんなに深刻に考えずとにかくやってみれば?」ぐらいに思ってきた当事者研究の奥深さを感じました。

以下のまとめは、当事者研究の表面をひっかくようなものにすぎませんが、学会発表の準備の一つとして、そして私なりにも実践を深めるための備忘録として書くものです。


この本のタイトルは「技法以前」で、帯には大きく「私は何をしてこなかったか」と書かれています。こういった実践においてはとかく「何をするべきか」という技法が語られますが、向谷地先生はそういった技法以前に、「<当事者>と<場>のもつ可能性を信じ」 (p. 5) ることが大切だと語ります。「それを信じることができないままに、問題解決の切り口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じる」 (p. 5) というのが向谷地先生の見立てです。「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想でこの本はまとめられています。

してはいけないことの一つは「神の手にならない」ことです。援助者には常に「問題解決の神の手になろうとする誘惑と、神の手になってほしいという当事者や家族からの期待」 (pp. 31-32) があります。しかし「当事者自身が、"自分を助けること"を助ける」 (p. 24) のが、援助者の基本です。支援者が当事者を一方的に支配・保護・管理して「神の手」のように当事者の問題をたちどころに消し去ってしまっては、当事者は「苦労を奪われて」しまいます。

この場合の「苦労」とはそれぞれの人間が生きる上で経験しなければならない経験であり、「生きることの意味」の源泉でもあります。 (p. 38) 当事者は「苦労を取り戻す」ことにより「自分を取り戻す」ことができます。そうして自分を取り戻してこそ、当事者は「人とつながる」ことができます。当事者から自分自身を奪い去り人とつながる機会も奪い去ってしまうような一方的で過剰な支援は支援者がやってはいけないことです。

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当事者研究の支援者はそういった過剰な介入はしません。ではまったく何もしていないかといえばそうではなく、支援者は、当事者と当事者の共同体という場の可能性を「信じる」わけです。この「信じる」とは、具体的な証拠を確認してからの「信用する」とは異なります。「《信じる》という態度は、目に見えず、将来的な好転や可能性を引き出すのは困難であるという状況のなかで、にもかかわらず私たちが希望をもって見ようとするような振る舞い方である」 (pp. 51-52) と向谷地先生は述べます。つまり「根拠なく信じる」 (p. 52) こと、「期待の先取り」をせずに「困難な現実を生き抜くことの主役を当事者に"まかせる"」 (p. 71) ことです。

かくして支援者は当事者を「苦労の主人公」とするべくいろいろな工夫をします。その一つは身体的な実感や手応えが失われ形骸化してしまったような「傾聴」はしないことです。95ページでは向谷地先生の「五分で話が終わる方法」が示されていますが、ここで大切なのは、支援者が当事者の感情の受容だけにとらわれてだらだらと長時間聴いてしまわないことです。支援者は、当事者のさまざまな行動が「自分を助ける」ことであることを指摘し、もっと上手な「自分の助け方」を研究して、同じような苦労をしている人の役に立ってはもらえないだろうかと提案します。当事者の苦労を一方的に取り去ることはせずに、当事者を「苦労の主人公」としてその人の人生を取り戻させ、他人につながるように仕向けます。これが支援者が 「為している無為」です。

そうやって当事者が自分の人生の主人公として、他の仲間と共に当事者研究を行うようになれば、支援者もその他の当事者の仲間に混じって、一方的に傾聴するのではなく、一緒に考えながら聞きます。この「一緒に考えるという聴き方」について、当事者研究の実践者である西坂自然さんは次のようにまとめています。少々長い引用となりますが、私が勝手に要約したくない文章ですから、そのまま引用します。

 一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなります。相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。

 一緒に考えてくれるときの相手は、いつも自分と同じ目線の高さにいます。上から言われる感じも下から言われる感じもしません。「同じ目線だ」と感じます。それに「これが人間だ」と思ってうれしくなります。しかも「こんなちっぽけな自分のことを一緒に考えてくれるのはなぜか」とも思います。

 でもそうやって同じ目の高さで話してくれているうちに、私は「ああ、自分はそんなにちっぽけなものじゃなかったのかもしれない。こんなふうに一緒に考えてくれるということはこの人は自分の存在も自分のできる力も信じてくれているし認めてくれているんだ」と思います。だから一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います・・・。 (pp. 116-117)

かくして当事者研究では、一緒に考える聴き方を通じて、当事者の「自分の感情をどうにかしたい」という欲求と「問題を解決したい」という欲求 (p. 113) に応え、さらには、当事者が一人の人間として生きているという実在感 (reality) を感じたいという根底的な欲求にも応えます。もちろん当事者の欲求に応える支援者や仲間も、同時に自分という人間の実在感を感じていることは間違いありません。

ところで当事者研究の成立には向谷地先生の存在だけでなく、「治さない、治せない精神科医を目指しています」と標榜する川村敏明先生の存在も大きく関わっています。そんな川村先生があるときデイケアの七夕行事の短冊に書いたのは「病気でしあわせ、治りませんように」というきわめて逆説的なことばでした。(p. 211)

川村先生は処方する薬をできるだけ減らす精神科医ですが、それは当事者にとっては「苦労が増えた方がいい」と考えているからです。そう考えるのは、この本の巻末で向谷地先生・川村先生と対談しているリンゴ農家の木村秋則氏の表現を借りるなら、苦労が当事者の「自然の力を呼び覚ます」からです。

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木村氏の自然栽培(無農薬・無施肥栽培)についてここでは詳しく述べませんが、植物(リンゴ)と土壌がもつ本来の力をできるだけ発揮してもらうため、農薬や肥料などをできるだけ与えないというのが基本的な考え方です。そうはいっても、そんな自然栽培にもいろいろなノウハウがあるでしょう。そんなノウハウを知りたいという要望に対して木村氏は「答えは自然の中に無数にある」と答えるそうです。 (p. 212)

答えは木村氏の頭の中にあるわけでもなく、ましてやどこかのマニュアルの中にあるわけでもないわけです。「謙虚な姿勢で自然を観察する中で、答えは自ずから出てくる。しかもその答えは一つだけではなく無数にある。それほどに自然は豊かである」というのがこのことばの背後にある思想だと私は解釈しています。

それでは「当事者の自然がもっている力とは何でしょう」。もっと一般化して言ってもいいかもしれません。「人間にとっての自然とは何でしょう」。実はこの問いは武術家の甲野善紀先生が立てた問いでもあります。近代社会の中であまりにも人工的な環境を作り出してしまった人間は、自らの自然な状態を忘れつつあります。当事者研究が取り戻す「自然の力」が、苦労があったとしても仲間と共に何とかそれに対処して成長することを目指す力だとしたら、社会的動物としての人間の本来の姿は、孤立して個人的な力を蓄える近代的人間像とは異なり、互いに気持ちを通わせることによって力を得て困難に打ち克ち成長するといった人間像なのかもしれません。

そういった人間像を、下の学会では「関係性レジリエンス」の考え方に求めて、当事者研究というコミュニケーションについての解明を進めたいと思っています。発表を聞きに来てくださったらとても嬉しく思います。



中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
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言語文化教育研究学会第5回年次大会
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向谷地生良・浦河べてるの家 (2018) 『新 安心して絶望できる人生』(一麦出版社)



この本は2006年にNHK出版から発刊された書籍に巻末インタビューを加えて再刊された本ですが、今読み返してみると、2001年に始まった当事者研究の比較的初期のあり方というか原点を確認できるようで、とても勉強になりました。

ここでは私がこの本の(再)読解から学んだ、(1) 「研究」というモードに入ることによる変化、 (2) 当事者研究と似て非なるもの、 (3) ソーシャルワーカーのあり方、という三点についてまとめてみたいと思います。


(1) 「研究」というモードに入ることによる変化

当事者は、それぞれの悩みで苦しみ、その悩みあるいは弱さが引き起こす問題で周りに迷惑をかけたり自分を嫌いになってしまったりします。そんな当事者は、周りの人たちや自分自身とのコミュニケーションもうまくゆかなくなることが多いものです。しかし、そのコミュニケーションを「研究」というモードのコミュニケーションにすることにより、さまざまな変化が生じます。ここでは五つの変化について書いてみます。引用は同書(一麦社版)からのものです。


(1.1)  当事者研究共同体での直接のつながり

まず当事者は、同じように自分の問題について当事者研究を行っている仲間とのつながりを得ることができます。これまで隠していた自分の悩み・弱さを認め言語化して他人に開示することにより、その当事者は同じように自分の悩み・弱さを開示している仲間とつながります。そのつながりによって、当事者は仲間から何らかの支援を得ることができる可能性を得ます。それだけでなく、その仲間も「自分もその当事者を支援することができる」という可能性を得ます。孤立していれば無力感に苛まされていた人たちが、当事者研究でつながることにより、助け・助けられるという相互関係に入ります。当事者の共同体は、その関係性の中に「力」 (power) (少なくともその可能性)を感じることができます。

SOSをさえ出す力があれば、十分に生きていけると私たちは考えています。(中略)「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河流の言い方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で、生き抜く大切な条件になるのです。 (p. 25)

この直接の研究共同体的つながりは、これまでの当事者研究の歴史に支えられていますから、「これまでもいろんな問題があったが、なんとかしのげてきたのだから、この問題についても何とかなるだろう」というほのかな希望を生み出します。当事者は、繰り返し問題を引き起こしてしまうという絶望的な状況の中で、まさに「安心して絶望できる」わけです。


(1.2) 時代・社会のテーマに向き合っているという価値とのつながり

当事者研究は仲間という生身の人間とのつながりを作り出すだけはありません。当事者研究は、当事者が問題で苦しむ悩みを、人が人生において背負うべき苦労へと転換し、さらにはそれを自分たちが生きている時代・社会のテーマへと変化させてゆきます。当事者は、一人孤独に悩む存在という自己認識から、「弱さの情報公開」を通じて同じようにそれぞれの問題に苦しむ人たちと出会うことによって、「自分は生きる上でそれぞれの人がそれぞれのやり方で出会う苦労を経験しているのだ」というように自己認識を変えてゆきます。さらに研究を通じて、当事者の苦労の背後には、時代や社会の病ともいうべき諸要因があることに気づくと、自分がこの苦労を経験していることは、「自分はこの時代や社会がテーマとして抱えざるをえない問題を明らかにし、その改善を試みているのだ」と認識が変わります。「自分は先陣を切ってこの時代・社会のテーマに取り組んでいるのだ、この取り組みは同種の悩みを抱えている他の多くの人のためになるのだ」というようにも考えが変わります。

当事者研究とは、まさしく悩みを苦労に変え、苦労をテーマに変えていく作用をもっています。単純に病気だけを治したり、悩みを無くしたりするのではなく、生きづらさをかかえたときに、人とのつながりの中で意味をもってくる、病気そのものは無くならないかもしれないが、その苦労が意味をもって、まったく違った価値をもってくるという可能性が「当事者研究」という活動の中にあるようなきがします。 (p. 35)

自分が、直接に出会う人を超えて、まだ見ぬ同種の悩みを抱えている人たちにつながり、その人たちのためにもなるように時代・社会の抱える問題をテーマとして研究するのだという認識は、当事者をさらに力づけます。


(1.3) 「観察者」という「ヒト」と自分の悩みという「コト」の分化

「研究」というモードがもたらす変化はつながりだけに限りません。当事者の悩みを虚心坦懐に観察しようとする仲間の視線や態度はやがて当事者自身にも乗り移ってゆきます。悩みの中で何が何やらわからない状況にあった当事者も、自分の悩みを対象化できるようになります。その対象化と共に生じるのが、その対象を観察する観察者としての自分です。当事者研究の原則の一つに「ヒトとコトを分ける」というものがありますが、当事者は仲間と共に研究というコミュニケーション・モードに入ることで、当事者の悩みという「コト」とそれを抱えている当事者という「ヒト」を分化させることを学んでいると言えるかもしれません。

一人だけでかかえる孤独な作業が「研究しよう」という言葉によって、いつの間にか共同作業に変わるのです。つまり「こだわり」や、「とらわれ」の歯車が、自分のかかえる苦労への興味や関心となって、観察者の視点をもって自分自身のかかえる生きづらさに向き合う勇気へと変えられるのです。 (p. 46)

当事者は自責感情に苛まされていることが多いものですが、もし研究というモードが、当事者自身を問題から引き離すことができて、少しでも自己否定感情を軽減させることができるとしたら、それはそれだけで素晴らしいことと言えるのではないでしょうか。

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この論点は、座談会参加者(当事者研究実践者)一同が「うん、うん、そうだね」とうなずいた次の発言に端的に示されています。

島貫慎之:当事者研究は、研究をしようとした時点で少し楽になっているような気がします。自分のことをちょっと上から眺めるみたいな感じでやっていくと、解決はされなくても少し自分のことを客観的にみえて楽になってるような気がします。 (p. 198)


(1.4) 「コト」のスティグマを軽減し、「コト」を実験データとする

「ヒト」と「コト」を分けることができ、その「ヒト」が必ずしも否定されるべきものではないのだということが認識され始めたとしても、その「コト」にはやはり悪評・汚名(スティグマ)がついているものでしょう。しかしその「コト」とは、研究を進める上で必要なデータであると考えたら、その「コト」にも積極的な意味が出てきます。以下は座談会の中の発言です。

吉田めぐみ:昔だったら、自分だけがくだらない苦労をしていて、失敗ばっかりしてだめだと思ってたけど、当事者研究をやると、失敗するのが、失敗は怖いんだけど、失敗しても実験だからいっかっていうか、よくはないんだけど、何て言うんだろう。失敗はただの悪いものじゃなくなるっていうか。(笑) (p. 197)

この発言の後に別の参加者も同意します。

西坂自然:さっき吉田さんが言ってたけど、失敗しても大丈夫という感覚がすごく強くなってくるのと、失敗したときもこれは何かに使える材料を一個手に入れたっていう、一個だけじゃないと思うけど、いろんな材料を手に入れたっていう気持ちになれる。 (p. 199)

悩みや問題というコトが、実験データや研究の材料であるとしたら、そのコトが増えるということは確かに困ったことではあるのですが、他方で、研究を進める支えにもなります。このスティグマの軽減も当事者にとって大きな力になるでしょう。


(1.5) 自分自身に対する新たな認識

当事者研究を新たに取り入れたいと考えているある病院は、「当事者研究をやると今まで知らなかった自分が見えてきて辛くなるのではないか」という懸念を抱いたそうです。その問題提起を受けて、参加者の一人はこう言います。

斉藤優紀:自分も、やさしくない自分に気づくんですけど、やさしくない自分が私はものすごく好きだし、必要だったんですよ、私には。誰にでもやさしくしなきゃと思うから、自分はずっと苦しかったんですけど、ああ、意外とそんなことなかった、みたいな。 (p. 208)

ここで我流のユング風の解釈を差し込むなら、自分の弱さあるいは悩みは、自分自身(自己)の未発達領域(「影」)であり、それは時に、夢や白昼夢や幻聴、あるいは「おそろしく嫌な人物」(しばしば同性)として顕在化します(「おそろしく嫌な人物」は、自分の未発達領域(「影」)が投影されているからその人にはそのように映るわけです)。そこまで極端ではないにせよ、一般に、自分が不得意としていること(自分がこれまで見ようとしてこなかった「影」)は、嫌なものでしょう。しかしそれを自らの発達課題として正面から見据え、自分を再構築することが人間としての成長と考えられます。

C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

上の斉藤さんは、当事者研究によって、これまで自分が「影」としていた「やさしくない自分」に出会いましたが、その「やさしくない自分」は実は自分にとって必要な自分であることに気づきそんな自分も愛し始めます。この変化も「研究」というモードがもたらす変化だと私は考えます。(注)。

(注) ユングは心理療法 (Psychotherapie / psychothrapy) の四段階を、告白、解明、教育、変容 (Bekenntnis, Aufklärung, Erziehung, und Verwandlung / cofession, elucidation, education, and transformation)と説明していますが、この本の「救急車の乗り方の研究」(福島孝 協力:伊藤知之・向谷地生良) (pp. 164-176) はその見事な例示となっているようにも思えます。 「現代の心理療法の問題」 (pp. 27-64) C.G.ユング著・横山博監訳・大塚紳一郎訳 (2018) 『心理療法の実践』みすず書房に所収。(ドイツ語・英語でのユング全集では第16巻に所収)




(2)  当事者研究と似て非なるもの

この本から学んだもう一つのことは、当事者研究をよく理解していない人がやってしまう当事者研究とは似て非なるものです。それは端的に言うなら、「アドバイスという名の説教」 (p. 206) となります。たとえ善意からとはいえ、問題解決を急ぎ、当事者を理解することなく周りの人がその人自身の方法およびその背後にある価値観を押し付けてしまうことです。

座談会で斉藤さんも次のように述懐しています。

斉藤優紀:私は理念みたいなのがちゃんと自分に染み込んでいないときに、ひたすら問題を解決するための当事者研究とか、自分を無理させる研究みたいなのになっちゃったことがあって、何を研究するかのところで、結局、自分を大事にしないと、何か変になって苦しくなりましたね。 (p. 205)

実は、私も似たようなことをやってしまったので、「アドバイスという名の説教」だけはしないように心がけたいと思います。

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(3) ソーシャルワーカーとしてのあり方

あと、この本で非常に面白かったのは、今回の再刊に際して新たに付け加えられた対談で表明された、向谷地生良先生のソーシャルワーカーとしてのあり方です。カーリングの吉田知那美選手が好きな言葉として「安心して絶望できる人生」をあげていたことをきっかけにして行われた向谷地先生と吉田選手とのこの対談の中で、吉田選手は「カーリングは相手との接触がないので実際に戦っているのは自分たち自身である」、「自分たちの自己コントロールが一番キーになるスポーツである」といった趣旨の発言をします。それを受けて向谷地さんはこのように言います。

なるほどね。そういう面では、私はソーシャルワーカーなんですけど、非常に似た世界かもしれないですね。いろいろな人の困りごとの相談にのったり、複雑で揺り動く人間関係の中で、人の安心や生きやすさを実現するワーカーのしごとも、行き着くところは、自分とのつきあいが結果を左右します。 (p. 216)

カーリングとソーシャルワークでは、自分の「無力さ」を大事にすることも似ているのではないかと、向谷地先生は言います。

向谷地:ソーシャルワーカーの仕事でも、私は「無力さ」ってことを大事にしてるんですけど、前向きに「無力」であるからチームでやっていけるし、いい意味でプレイヤーとしても「無力さ」っていうものを認めあっているから一人で頑張らないで、ああいう「対話」が生まれたり、試合ができるのかなって私も思ったんですね、すごく似てるなって思って。そのへんはいかがですか?

吉田:いや、本当に私たちもそれを大事にしていて、その「無力さ」っていうフレーズはいま聞いて「あっ」て思って、真似したいなって思ったんですけど。(笑) (pp. 222-223)

「自分とのつきあい」を丁寧に行い自分の「無力さ」を自覚するということは、やや手垢にまみれた言い方をすれば「エゴを捨て謙虚になる」となるのかもしれません。表現はともかく、そのような認識で人が集まれば、一人でも不可能だとしか思えなかったことにも何とか対処方法が見つかるということが当事者研究(そして吉田知那美選手が認識するカーリング)が教えてくれることなのかもしれません。



 



追記
実はこの記事は、学会口頭発表準備の一つとして行いました。


中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

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2019年3月9日(土) 13:15-13:45
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2019年1月25日金曜日

「想い」がなければことばは生まれない -- ワークショップの感想から



先日、某所で小学校と中学校の英語担当の先生方のためのワークショップを開催しました。

理論を説明してからワークショップに入るのではなく、ワークショップを最初にやったからか、あるいは少人数のいい雰囲気の中でやったからか、いつも以上によい反応をいただきました。ありがたい限りです。

ワークショップでは中学1年生用のある英語教科書のユニットを音読することをしました。音読の際には、「活字の背後にありありと映像が描けるぐらいに英語をきちんと読もう。教科書の英文が曖昧なら、どんどん突っ込んで英文を改善しよう」といった趣旨で行いました。具体的には冠詞の違い、動詞の選択、可能な意味範囲の特定などについて徹底的に英語に即して考えることを試みました。

以下は主催者の方に送ってもらったすべての感想です。

 『生きた英語』、『使える英語』とよく言われるけれど、自分の生活、感情、意識にどこかで紐づけられた表現を教えるにはどうするか、学び方の一つの手段として子どもたちに上手に提供したいなと思います。想いをのせたことばを(英語を)使うことを意識します。(中学校)

 「あたま」だけを使って「わかった」ことを「わかった」としてしまうことの危険性をひしひしと感じました。英語教育だけではなく、人間教育、人の幸福とは?にかかわる問題であり、教育者のみならず学習者も、その他の人々とも分かち合いたいです。(外国語支援員)

 英語を初めて習う子どもたちは、わかりたくてうずうずしているが、いざ文章が長くなり、書く必要が出てきて、難しいと感じ、コツコツ勉強しないとついていけないことが分かると「どうせ将来、英語なんか使わへんし」と言い訳するようになる。でも、自分の興味のある分野であればしんどいことも頑張れるようになるはずなので、そこに近づけるような授業を考える必要があると思いました。(中学校)

 今まで授業での音読活動で今日ほど意識して読んだことがなかったのでとても新鮮で勉強になりました。自分の生活に引き寄せて音読をしたり、たまに深く読んでみたりしながら、子どもたちが興味を持ちながら授業を受けることができるようにしたいなぁと思いました。今日はありがとうございました。(中学校)

 ありがとうございます。しみ~っとさせられました。「しなくてはならないこと」「やりたいこと」のバランス大切にしたいです。「想い」。。。ことば。。。いっぱい学びました。
Readingの「練習」ってゆったらダメな時もありますね・・・。(中学校)

 教科書の「朗読」がこんなにも奥深いとは・・・。単語ひとつでどんどん深く考えられるなと勉強になりました。次から少しずつ実践してみたいです。
英語を使って自分を表現できるように(生徒が)するのが私の目標です。そこに感情をのせられるように日々しかけを考えていきたいです。ありがとうございました。
(つっこみは大好きです)(中学校)

 今回の講演を聴いて、理論上では分かりますが実際に実践していくとなるとなかなか難しい部分もあると思うので、少しずつ取り入れていけたらと思いました。本日はありがとうございました。(中学校)

 言語形式で終わらせず、ことばまでつなげていける授業をしていこうと改めて思いました。文と発話の違いをすごくわかりやすく教えていただき、そして想いがないと言葉がうまれないということはすごく納得できました。ありがとうございました。(中学校)

 奥の深い教科書の読み方の例を示していただきました。ついつい教科書をそのまま教えてしまいがちになっている自分に反省しました。「教科書がすべて正しい」のではなく、突っ込みどころを探していけたらと思います。
(中学校)

 “「想い」がないとことばは生まれない”
相手の状況(表情)が見えるような言語(ことば)の活動を大切にしていきたい。今、子どもたちは人以外の“もの”と対応したり、”会話“したりすることが多いように思われる(ゲームやその他の機器)。生身の相手を意識しながらコミュニケーションをとることが大切だと思いました。ありがとうございました。(小学校 校長)

 「ことば」は想いを他人が認識できる形式に翻訳したもの。「ことば」は体あってのもの。文字は「ことば」を視覚的に再現できるようにしたもの。どの言葉も「なるほど!そうか!」と納得しながら拝聴しました。広島平和記念公園で平和についてのメッセージを子どもたちがもらうために行ったインタビュー活動では、英語という言葉を介していろんな国の人たちと小学生が平和への熱い思いを共有しました。その文字を通して、実際にその人たちと会っていない中三生がその熱い思いを感じとることができました。(中三が外国の人たちのメッセージを訳してくれました。)ことばって想いを伝えるものなんだ、それが英語を学び始めて日が浅い小学生にも実感できました。「なんとかして伝えようとしたら伝わるものやねんなぁ」「俺らの英語が通じたんやで」「なんで英語を勉強しなあかんかがめっちゃ分かった」「話すって楽しいなぁ」「世界中の人が私たちと同じように考えているのが分かってうれしい」・・・前のめりでほっぺたを赤くして嬉しそうに話す子どもたちを見ていると「からだ」「こころ」「あたま」だ!と実感しました。私たち小学校教員は「言語形式の教育」というよりも「ことばの教育」をしていかないと!と改めて強く強く思いました。(小学校)

 ジェスチャーの話がとても印象に残っています。指導をしていきたいと思うので、心から生まれるものということを大切にしていきたいです。
 すべては心や伝えたい気持ちを大切にして、いきいきと言語活動を楽しむ子どもたちを育てたいです。
 今日は貴重な話をありがとうございました。(中学校)

 本日はありがとうございました。
 途中からの参加になってしまい、前半部分は分からないのですが、、、面白かったのですが難しかったです。
 本当にからだやこころから楽しめる興味のある授業をしたいですが、時間との戦いだなーと思います。(中学校)

 自分の授業ではなかなか内容の表層を触るのみで、内容について深く考えさせることはできていないので、内容を感情で理解し[以下なし](中学校)

 今回のお話を聞いて「想い」があるからこそ言葉が生まれるということを改めて感じました。実際の現場でテスト範囲などにおわれ時間に制限がかかることで、なかなかその「想い」から言葉を引き出す授業展開ができず、悩んでいるところがあります。しかし、その「想い」があって言葉を話すというのは、非常に大切であり、教育にとって必要な部分であるので、今後バランスをとりながら考えていこうと思います。ありがとうございました。(中学校)

 今日のお話を聞いて、教科書をもっと研究したいと思いました。重要な文法、教えるべきポイントのみにこだわらず、文章全体を、英語を関連づけて考えたいです。お話ありがとうございました。(中学校)

 人間の言葉の大切さを教えていただきました。AIにとってかわるかもしれない語学にならないように、本質の言葉を教えることができる小学校英語を作ることができたらと思います。(小学校)

 講義を聞きながら、自分の授業と比べていました。ただ単にRepeatをさせて、ペアReadingを交えて、“棒読み”になってしまう傾向があるように思いました。生徒が思わず体を使いたくなるような方法にするために、英語の奥にキャラクターを深く設定したり、実生活とリンクしながら実践していこうと思いました。生徒に“想い”をことばにする事ができるように努力、挑戦していきます!(中学校)

 教科書を深掘りするのが楽しかったです。普段から授業で取り入れたいです。もっともっと自分自身が英語を勉強しなければと感じました。(中学校)

 自分の授業が『言語形式』にまだまだベースを置いていることを改めて感じさせられました。『ことば』として英語を使えるようにさせていく工夫がまだまだ足りないので、今日聞いたことを参考に授業改善をしていきたいと思いました。また、後半のことばについての哲学的なお話も言語を扱う人間として大事なことを再認識させられました。(中学校)

 学生時代に、おもしろい例文を考えてほしくて実際にありえないけど考えるとおもしろい英文を作ってみると、とても叱られました。その日以来、おおげさに面白くなりそうな場面を英語にすることをやめたのですが、今日は勇気を頂いた気分になりました。また自分の本心から、自分の体から湧いた想いを英文に載せて伝えたいと思います。まずは自分から『ことば』を目の前の子どもに伝えようと思いました。(小学校)

 ご講演ありがとうご合いました。教科書の本文を取り扱うたびに、悩まされます。どうしたら興味を持ってもらえるだろう。楽しんでもらえるだろう。意欲を持たせられるだろうと考えます。今回のUNIT11-1だけでも、自分では全く気付くことができなかったポイントがどんどん出てきて、今までの自分の教材研究の甘さを感じました。(中学校)

 心でキャッチできないからだもあると思うのですが、それも知りたいなあと思いました。言葉を教える仕事にすごい大きな意欲と誇りがあることに「はた!」と気づかされました。(外国語支援員)

 子どもたちが英語に興味を持つには、どのようにすればよいか授業のたびに考えております。今日の先生のお話を伺い、ヒントをいただきました。すぐに授業に生かせるよう、頑張ります。小学生の子供たちが、英語に興味を持ち中学校英語に進んでいけるよう授業の方法を練り考えます。(小学校)

 感情をこめて読む、読ませる意識が低かったと今日のお話を聞かせていただき、気が付きました。aとthe、単語のニュアンス違い等こそを感じるのが英語の楽しみの一つだと思っています。テストで、文法問題などをひたすら解くことではないと思っています。おもしろおかしい英文を作ることから試していきたいと思います。本日はありがとうございました。(中学校)

 私は、英語教育と音楽教育は根っこの部分では全く同じだと感じ、明日からの授業にそれぞれの発想をどんどん生かし合っていけばより素晴らしいものになると、大きな気づきをいただきました。ありがとうございました。(中学校)

 学問とはそもそも必要だから習得するもの。学校で習うから、試験があるからといった目先のことにとらわれ過ぎていたなと思いました。コミュニケーションツールとしての英語を大切にして授業に臨みたいと思いました。(小学校)

 以下は、当日使ったスライドです。ご覧いただければわかりますように、これまで私がいろいろなところで使ったものをまとめなおしたものですが、ジェスチャーに関する図解などは新しくしております。

 

早いもので下の本を出版させていただいてからもう少しで4年になりますが、内容は古びていない、いや、ますます進行する英語学習の形骸化でむしろ重要性は増しているのではないかとも思っています(←親バカ的身びいき 笑)。もしまだお読みでない方がいらっしゃいましたら、ぜひご一読をお願いします。



 



2019年1月23日水曜日

教育の「正常化」 (normalization) の説明のために "The End of Average" (『平均思考は捨てなさい』)の議論を用いる


以下に、説明用のスライドを公開します。本来は新たに文章を書き起こしたいのですが、今はその時間がないので、 "The End of Average" (邦訳『平均思考は捨てなさい』)からの引用だけのスライドを作成するに留めました。




作成の理由は、私が現代の教育の特徴の一つとして使いたい「正常化」 (normalization) という概念を、やや批判的に説明するためです。「正常化」という用語を使わずとも「標準化」 (standardization) としてもいいのではないかとも思われますが、「正常化」という用語の中にある"Norm" (規範)という含意、およびこの「正常化」がもつ抑圧性(「異常」の生成)を明らかにしたくてこの用語を選びました。

また、この説明によって、『学び合い』の授業を実施している福島哲也先生のような実践者がなぜ一斉授業を捨てている理由が少しでも明らかになればと思っています。

このスライドは、以下のページのまとめに基づいています。スライドに興味をもった方、スライドの引用だけではその意味がよくわからない方などは以下をご参照ください。

Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html


このように私は「正常化」に対してやや批判的な見解をもっていますが、同時に教育における「正常化」は全面的に否定されるべき考えではないとも思っています(その理由の詳述は後日の課題とさせてください)。私の現在の考えは、教育においては「正常化」概念と並走的に「個性化」 (individuation) という概念をおいて、教育の目的・方向性を定めるべきというものです。ユング心理学に基づく「個性化」についての説明も後日の課題とさせてください。

こういったことについては苫野一徳先生や西川純先生の著作を読めばいいのかもしれませんが、まことに恥ずかしいことに私はこれらの先生方の著作をまだ読んでいません。ああ、もっと本を読みたい。時間がほしい。




 





2019年1月22日火曜日

数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ --福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--



私にとって福島哲也先生(追手門学院大手前中学校・数学)という優れた実践者に会えたことの意味は非常に大きく、福島先生の実践の意味を少しでも解明したいと思っているのですが、とにかく仕事に追われてその考察をする時間がなかなか取れません(以前は休日返上で考察をしていたのですが、近年はさすがに休日は文字通り骨休めをしないと身体がもたなくなりました)。

とはいえ泣き言ばかり言っても仕方ないので、ここでは部分的にでも考えてみます。


■ 数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まない

福島先生とのお話の中でも私が以前に広島大学教育学研究科の大学院生・教員を相手に行った小規模インタビューでも出てきた話題の一つは、数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということです。

関連記事
数学教育学講座院生・教員との対話から考える英語による授業のあり方
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/16.pdf

私は高校時代に数学を不得意としていましたが、その大きな理由の一つは、数学を学ぶことの「意味」がわからず、どうも数学という学習に共感できなかったことです。その後、大学院で統計を学ぶ中で高校数学について自学自習する中で数学の面白さに遅ればせながら気が付きましたが、私としては以来、「意味」をよく伝えてくれる物語の形式で数学を解説してくれる本を好んでいます。

現在、このように物語調で数学を解説する本は多く出ていますので、私のように一度は数学に落ちこぼれて数学に再入門したい人は物語様式での解説を好んでいることが推測されます。実際、上記のインタビューでも大学院の中ではあまり数学を得意とはしていないと認識している院生も物語調の数学解説本を好んでいました。

ですが大学院の中でも数学が得意な院生は、そういった物語を「回りくどすぎて、かえってわかりにくい」と捉えています。彼は数学的表現は無駄なものを削ぎ落としているので考えやすいわけであって、物語的記述はそれに余計なものを付け加えてしまうので思考に集中できないなどと述べていました。福島先生も、私が「数学問題の説明を物語風に行う生徒はいますか?」と尋ねたところ、「ああ、そういった生徒もいますね」とだけしか答えませんでした。口調から福島先生はそういった物語による数学の解説をあまり好んではいないようにも思えました。

この「数学が得意な人は物語的記述を(少なくとも数学に関しては)必ずしも好まない」ということを、「数学が得意・不得意」という観点からではなく、人間のタイプの違いという点から考えてみたらどうなるでしょうか。


■ 数学を得意とする人は内向的で思考-直観機能が強い?

ユングは、人間を大きく分けるなら、態度の面で外向型と内向型の二つに、機能(得意とする働き)で思考・感情・直観・感覚の四つに分けることができると考えました。

関連記事
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

この関連記事の解説を以下に再掲します。

ユングは、人間の心がもつ態度を、自分の関心が自分の外の出来事に向かう「外向型」と内の出来事に向かう「内向型」の二つのタイプに大別しましたが、心がもつ機能については思考・感情・感覚・直観の四つに分けました。私なりに簡単にまとめるなら、「思考」は法則に即して体系的に推論を進めること、「感情」はあることの価値 (value) を認識すること、「感覚」とは実在物の様子を知ること、「直観」とは物事の全体的な見通しを瞬時に得ることと言えましょうか。

さらにこの四つの機能は、法則や価値で「割り切れる」という意味で思考と感情が「合理的」であり、ただ実在したり一気に直覚したりできるだけであり法則や価値では「割り切れない」という意味で感覚と直観が「非合理的」(あるいは合理外的)であるとも言われます。

人間はしばしば四つの機能のどれか一つを自ら得意とする主要機能としますが、そのことによって、その機能ではない同種の機能が不得手な機能になります。例えば思考機能に長けた人は、それと同種の合理的機能である感情機能が劣ることが多く、抽象的な理屈をどんどん展開することができても、物事の価値を細やかに認識することを苦手としたりします。

主要機能とは別種の機能にも得手不得手はしばしばあり、例えば上記の人は、(思考ほどではないにせよ)直観に優れる一方で感覚に劣り、突然に物事の見通しを得たりするものの、物事の実情には無頓着なままであったりします。この場合は、直観が補助機能となります。

参考記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html


このタイプ論を用いて、数学者について理念的に類型論(注)に考えてみましょう。数学を得意とする数学者は、態度において内向的だと考えられます。数的世界は外の自然界ではなく、人間の心の中にある内的世界に属しているからです -- 早い話、「2」という数概念を私たちは自然界のどこに物理的に見出すことができるでしょうか?--。 

(注)「理念的」というのは、抽象的にということです。といいますのも、具体的な数学者について考えると彼・彼女は、別に数学ばかりをして生きているだけではなく、さまざまな状況・課題・人間関係の中で生きています。それらの多様性の中で、数学者は上のような理念的な類型からは離れた姿を示すことは十分に考えることができます。早い話、数学者の中にも、趣味として文学を好む人もいるでしょう。ユングも、人間のタイプを決めつけること、特に自分自身のタイプを決めつけることの危険性を再三指摘しています。

数学者は、機能(心が得意とする働き)において思考的であると考えられます。『ユークリッド原論』を数学の古典とすれば、そこに見られる叙述は公理・公準・定義などに基づき、演繹的に論が展開されるものです。同時に数学者は直観的でもあるでしょう。幾何学の問題でよくあるように、抽象的な図形の中に突然につながりを見出す能力は直観的と呼ばれるべきでしょう。

このように数学を得意とする人を「内向的で思考-直観機能が強い」と理念的に類型化すると、彼・彼女が不得手とすることも理念的に類型化することができます。ユングのタイプ論 に従うなら、人間は自分が得意とする態度・機能の反対の態度・機能が非常に不器用であり、それらの態度・機能が未発達だからです。数学が得意な人が不得意なのは「外向的で感情-感覚的な心の働き」となります。逆に言うなら、数学を苦手とする人はその「外向的で感情-感覚的な心の働き」を得意とし、「内向的で思考-直観的な心の働き」を不得意としていると類型論的にはまとめられるでしょう。だからこそ、自分の内の心的世界を超えた外界の登場人物(「外向的」)の価値観(「感情」)や事物の実在性(「感覚」)を描く物語による数学の解説を、数学を苦手とする人は好み、数学を得意とする人は逆に嫌うと言えないでしょうか。


■ 数学における物語的記述とは?

物語については、下の記事、および近い内に公開できるはずの拙論をご覧いただきたいのですが、ごく簡単にまとめると、物語は、ある命題が真であることを示す論証とは異なり、複数の登場人物の心模様と行動および彼・彼女らが行動する世界の記述を通じて話の筋が展開され、その中でさまざまな意味が読者に喚起される文章といえるかと思います。

関連記事
3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/311.html

ですから数学的論証では「点Aから点Bへ・・・」と言うだけのところを、物語的数学記述では「太郎君が家から学校へ・・・」などと言います。思考が得意な人からすれば「太郎君」や「家」や「学校」などといった情報は無駄でしかありません。しかし、抽象的に考えることが不得意な人にすれば、そういった記述がなければ共感的に事態を想像できません。かくして物語的な数学記述では「太郎君は最初、時速4キロで歩き始めます」などといった記述を加えます。もちろんこれも思考-直観機能を得意とする人にとっては無駄、というよりかえって邪魔でしょう。「歩くことにおいては、加速や減速もあるし、曲がり角や信号もあるだろうから、そもそも『時速4キロで歩く』というのはどのような事態として考えればいいのだろうか」などと考え込んでしまうかもしれないからです。

このように数学が得意な人にとっては無駄あるいは邪魔な物語的記述ですが、人間が何かを理解する時には自分の得意な心の機能を通じて理解することが一番であるというユングの洞察(『分析心理学』)からするなら、数学嫌いの人には物語的記述は重要です。物語的記述を通じて登場人物に共感したり、問題の実在感を覚えることができるからです。数学が不得意な人は、最初は物語記述から数学の世界に入り、やがては物語記述を必要としない思考的で直観的な数学的記述に慣れれば、その人は最後まで数学が得意にならなかったとしても、自分の潜在的可能性を少しは開花させたと言えるでしょう。


■ 数学的理解を、誰が誰にどのように説明するか

福島先生は、「問題の正解にたどり着いたということだけでは、数学の問題がわかったということにならない。最低、三人の人に説明して、それぞれに納得してもらってはじめてわかったと言える」などとおっしゃっていました。

ここで考えますと、その三人の選択というのは存外に重要かもしれません。数学が得意な人が、自分と同じ思考-直観タイプの人ばかりを選んで説明するのは容易でしょう。しかし自分とは正反対の感情-感覚タイプの人に説明するとなると、説明法も変えなければならないかもしれません。もしそこで数学が得意な人が物語的記述を使い始めるとすれば、その人は、思考と直観の抽象的表現に、現実の人間と世界の意味や実在感に関する具体的表現を肉付けするという、その人が日頃やらないことをやります。これは、思考-直観タイプの人が発達させていない領域を開拓することとは言えませんでしょうか。

こうなると数学が不得意な子の存在意義も出てきます。「数学嫌いの○○君でもわかるように説明する」ことは数学が得意な子にとっての挑戦的課題となるからです。そのような説明は、「最小時間でテスト成績を上げる」といった効率しか考えない人にとっては無駄なことのように思えるかもしれません。しかし、実はそのような「回り道」は、数学が得意な子の潜在的能力を開発し、その子が現実社会に出た時に数学的能力を社会的に活用することにつながるように思います。あえて自分とは違うタイプの人に説明をするということには教育的意味があるのではないでしょうか。

ここから、最近考えている「正常化」と「個性化」について考えを進めたいのですが、今は、その時間がないので、この記事はここで終わります。

これからも福島先生の実践から考えさせられたことを、少しでも言語化してゆきたいと思います。


追記
「コミュニケーション」にしても、最近は「論理的コミュニケーション」といったことが推奨されがちですが、コミュニケーションには概念についての思考的なものもあれば、価値についての感情的なものもあるでしょう。思考や感情ほど割り切れない(=合理的ではない)感覚的あるいは直観的な事柄についてのコミュニケーションももちろんあります。人間のコミュニケーションについて、私たちはもっと総合的に考え、人間と言語の全体性を回復させることが必要かと思います。
関連記事
柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/12/2014-12-pp-14-28.html



福島先生についての関連記事
福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post_7.html
「教えない授業」における教師と生徒のコミュニケーション(追手門学院大手前中学校(数学)福島哲也先生によるワークショップ)11/29(木)9:00-12:00 広島大学教育学部
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/1129900-1200.html
数学が得意な人は数学の物語的解説を必ずしも好まないということ--福島哲也先生の授業についてユングのタイプ論から考える試み--
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post_22.html
教育の「正常化」 (normalization) の説明のために "The End of Average" (『平均思考は捨てなさい』)の議論を用いる
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/normalization-end-of-average.html





2019年1月21日月曜日

『英語年鑑 2019』(研究社)に掲載の書評「英語教育の研究」 pp.83-86.




この度、研究社出版 (注)が長年発行している『英語年鑑』の2019年度版の「英語学・英米文学・英語教育 各界の回顧と展望」という記事の中で、「英語教育の研究」を担当させていただく機会を得ました。2017年4月より2018年3月末までに出版された英語教育関連書を簡単に紹介することによって英語教育の動向を総括するというのが記事の狙いです。

私としては以下の21冊について言及する中で、「英語教育の研究の対象や方法は多様化の方向には向かっているかもしれない。だが、研究は人文系がもつ物語の知恵を再生しているのだろうか。もっと根源的に問うなら、そもそも『英語教育学者』は何のために・誰のために研究をしているのだろうか」という流れで2017年度の英語教育研究を総括しました。

限られた紙面(400字原稿用紙で約20枚)でしたので、ここに紹介すべき本をすべては紹介しきれていないのが現状です。割愛してしまった本の著者や関係者にはお詫びをしなければなりませんが、私としては以下の本を取り上げました。

機会があれば『英語年鑑 2019』をご覧ください。


(注)正しい表記は「研究社」であり「研究社出版」ではないとのご指摘とご教示を研究社さまからいただきましたので訂正を加えました。



私は長年「『出版』をつけなければならない」と思い込んでいました。この自分の不注意を恥じると共に、お名前を間違えるという大変な無礼をしてしまったことを心からお詫び申し上げます。

以前所属していた大学で広報の仕事をしていた時に、もっともやってはいけない間違いの一つは名前の間違いだということを痛い思いと共に学んだはずなのですが、また繰り返してしまいました。一層気をつけなければと思います。






研究書が拓く英語教育の多様性

(1)  松村昌紀 (編著)『タスク・ベースの英語指導―TBLTの理解と実践』(大修館書店 2017. 6)
(2)  森本俊・佐藤芳明(編著)『多文化共生時代の英語教育』(いいずな書店 2017. 12)
(3)  ビル・ヴァンパテン、アレッサンドロ・ペナティ(著)『第二言語習得キーターム事典』(開拓社、2017. 6)
(4)  東條弘子『中学校英語科における教室談話研究』(風間書房 2018. 1)
(5)  ジュディット・コーモス、アン・マーガレット・スミス(著)『学習障がいのある児童・生徒のための外国語教育』(明石書店 2017. 10)
(6)  湯澤美紀・湯澤正通・山下桂世子(編著)『ワーキングメモリーと英語入門』(北大路書房 2017. 8)
(7)  トムソン木下千尋(編)『外国語学習の実践コミュニティ』(ココ出版 2017. 7)


英語教育実践書は人文系の知恵を再生できるのか

(8)  酒井英樹・滝沢雄一・亘理陽一(編著)『小学校で英語を教えるためのミニマム・エッセンシャルズ』(三省堂 2017. 7)
(9)  江尻寛正『はじめての小学校英語』(明治図書 2017. 4)
(10)  中嶋洋一(編)『「プロ教師」に学ぶ真のアクティブ・ラーニング』(開隆堂 2017. 8)
(11)  山岡大基『英語ライティングの原理原則』(テイエス企画 2018. 1)
(12)  勝又美智雄『最強の英語学習法』(IBCパブリッシング 2017. 12)
(13)  関山健治『英語辞書マイスターへの道』(ひつじ書房 2017. 7)
(14)  日本英文学会(関東支部)(編)『教室の英文学』(研究社 2017. 5)
(15)  外山滋比古『日本の英語、英文学』(研究社 2017. 11)


批評的な書籍が問いかける「英語教育プロパー」のあり方

(16)  鳥飼玖美子『英語教育の危機』(筑摩書房 2018. 1)
(17)  鳥飼玖美子・大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史(著)『英語だけの外国語教育は失敗する』(ひつじ書房 2017. 5)
(18)  藤原康弘・仲潔・寺沢拓敬(編)『これからの英語教育の話をしよう』(ひつじ書房 2017. 8)
(19)  阿部公彦『史上最悪の英語政策』(ひつじ書房 2017. 12)



テスティング関係

(20)  根岸雅史『テストが導く英語教育改革』(三省堂 2018.8)
(21)  小泉利恵・印南洋・深澤真『実例でわかる英語テスト作成ガイド』(大修館書店 2017. 8)


ちなみに個人的独断と偏見で、以上の本の中から「およそ英語教育に関係する方なら、これだけは読んでほしい」 という本を挙げるとしたら (16) と (19) になります。いずれも狭い意味の「英語教育学者」(英語教育プロパー)の方でないところが示唆的です。






2019年1月16日水曜日

ユングが感情 (feeling) を「合理的機能」 (rational function) と見なしていることについて


前の記事(当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --)を作成する際に、ユングによる「感情」および「情動」という用語法についても気になったので、以下、そのことについて書き残しておきます。


■ 価値を細やかに認識できる感情機能は合理的なものである。

ユングが感情を「合理的」であると講義で述べたことは、何人かの参加者にとって少し不可解なことであったらしく討議の時間に質問が出ました。以下は、その質問に対する答えです。

拙訳:
私が「感情」を価値づけをする機能だと説明したことを覚えていらっしゃるでしょう。[ですが]私はその説明で、感情に特別な重要性があることを示しているわけではありません。もし感情が分化して細やかな価値認識が可能ならば、その限りにおいて感情は合理的機能だと申し上げているだけなのです。

原文:
You will remember I explained 'feeling' as a function of valuing, and I do not attach any particular significance to feeling. I hold that feeling is a rational function if it is differentiated. (p. 25)

訳注:
原文の 'differentiate'は「分化」とだけ訳すのが普通だが、上では少しことばを補った。


■ 感情機能が発達しておらず、価値を細やかに認識できない場合、感情機能は非理性的なものとなる。

以下の英文は上の英文に続くものですが、もし感情機能が劣等機能で、細やかな価値認識ができなかったら、感情の発生は非文明的なもの、非理性的なものとなることをユングは認めています。思考機能が優勢で感情機能の発達が遅れている人は、時折、おそろしく単純な価値に賛同したり反発したりして周りを驚かせたりしますが、そういった例が、未発達の感情機能により非理性的態度が生じた例となるでしょう。

拙訳:
 感情が分化されていない場合、感情はただ生じるだけです[きわめて大雑把な価値認識しかしません]。その際、感情は原始的な特質をもち「理性的ではない」とも言えるでしょう。しかし意識化された感情は、価値を区別する合理的な機能なのです。

原文:
When it is not differentiated it just happens, and then it has all the archaic qualities which can be summed up by the word 'unreasonable.' But conscious feeling is a rational function of discriminating values.  (p. 26)

訳注:
原文の "it just happens"の翻訳は翻訳書とは異なる私の解釈に基づき、ことばを補いました。

補注:
「感情」をあくまでも意識的なものとするのは、「感情」を「中核意識」 (core consciousness) と同義とするダマシオの用語法とも合致します。


■ 情動は内情変化(生理学的な神経興奮)を伴う現象

上で、感情が未発達な場合それは理性的とは言えないことを認めたユングは、続いて関連概念である「情動」 (emotion) について語り始めます。ユングのまとめに従えば、情動とは身体内に起こる変化であり、それは生理学的に測定できます。

訳文:
情動について研究すると、「情動的である」ということばは、生理学的神経興奮によって特徴づけられる状態に関連して必ず使われていることにお気づきになると思います。ですから情動を測定することはできます。しかしその測定は心的側面ではなく生理学的側面についての測定なのです。内情変化についてのジェームス-ランゲ説についてみなさんもご存知でしょう。私は情動を内情変化とみなしています。「何かがあなたに内なる変化を与えた」というのと同じ意味です。情動はあなたに対して何かをする -- あなたに干渉するわけです。(中略)ですから違いをこのように説明することができます。感情は身体的には示されませんし生理学的にも感知できません。しかし情動は生理学的状況の変化なのです。

原文:
If you study emotions you will invariably find that you apply the word 'emotional' when it concerns a condition that is characterized by physiological innervations. Therefore you can measure emotions to a certain extent, not their psychic part but the physiological part. You know the James-Lange theory of affect. I take emotion as affect, it is the same as 'something affects you.' It does something to you -- it interferes with you. ... So the difference would be this: feeling has no physical or tangible physiological manifestations, while emotion is characterized by an altered physiological condition.  (p. 26)

訳注:
'Affect' という用語の翻訳にはいつも困ります。翻訳書では生理学的な意味を重んじてか「興奮」となっています。ですがこの語がもつ日常的含意は、この用語の理解を歪めてしまうようにも思います。スピノザの『エチカ』の英訳(Spinoza: Ethics: Proved in Geometrical Order (Cambridge Texts in the History of Philosophy))でもこの 'affect' は重要な用語として使われていますが、その意味、および上で述べられている意味からすると思い切って「内情変化」と訳してみました。力技ですが、「身体の『内』にある『情』動の変化」という意味を込めた訳語です。

ただ、ダマシオはこの 'affect' を基本的に「情動」 (emotion) と 「感情」 (feeling) を総称する用語としていると私は理解していましたので、これら二つの訳語の頭文字を合わせて私は「情感」と訳していました。 'Affect' をどのように日本語にしてゆくかについては、今後も考え続けようと思います。

関連サイト:
ジェームス-ランゲ説


関連記事
「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
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Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
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■ 強い価値認識である感情は情動を帯びる

しかし感情を身体的・生理学的な変化としては観察できないというのは少し言い過ぎのようです。聴衆からも質問がでます。

訳文:
ヘンリー・ディック博士
前の質問に関連してのお尋ねなのですが、内情変化と感情の間の関係についてあなたはどのようにお考えなのですか?

ユング教授
程度の問題です。もしある価値があなたにとって圧倒的に強烈なものであれば、その価値[を認識する感情]はある時点で情動となるでしょう。つまり、あまりに強力なので生理学的興奮を引き起こすということです。おそらく、どんな心の過程にもわずかばかりの生理学的変化があるのでしょう。しかしそれらはあまりに小さなものなので私たちは[現時点では]それを証拠立てる手段がないのです。

原文:
Dr Henry V. Dicks:
May I ask, in continuation of that question, what is the relation in your view between affects and feelings?

Professor Jung:
It is a question of degree. If you have a value which is overwhelming strong for you it will become an emotion at a certain point, namely, when it reaches such an intensity as to cause a physiological innervation. All mental processes probably cause slight physiological disturbances which are so small that we have not the means to demonstrate them. (p. 27)


■ 情動は欲動的なものであり、感情は認識的なものである

拙訳:
エリック・グラハム・ハウ博士
情動を欲動、感情を認識とみなしてもいいものでしょうか?感情は認識に相当し、情動は欲動的であるということです。

ユング博士
はい。哲学的用語としてそのように言うことは可能だと思います。異論はありません。

原文:
Dr Eric Graham Howe:
Could we equate emotion and feeling with conation and cognition respectively? Whereas feeling corresponds to cognition, emotion is conative.

Professor Jung:
Yes, one could say that in philosophical terminology. I have no objection. (p. 28)

訳注:
'Conation' も翻訳に困ることばです。Oxford Dictionaries は、[Psychology Philosophy] The mental faculty of purpose, desire, or will to perform an action; volition.と定義していますが「意欲」と訳すほどにこの用語は日常的な英語ではないので、ここは翻訳書のとおり「欲動」と訳しておきました。

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総じて言いますなら、ユングは長年の臨床観察を哲学的というか理論的にまとめあげたタイプ論にしたがい、感情を思考と同様の合理的機能として考えていますが、医学博士でもある彼は、その感情と生理学的な情動の関連性もきちんと視野に入れているとまとめられるでしょうか。この用語法はダマシオの用語法とも基本的に合致しています。

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2019年1月7日月曜日

当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --



前の記事(当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省)でも書いたことですが、「たとえ善意からでも、周りの人間は、あることで苦しむ当事者の苦労を奪ってしまってはいけない」という命題は、私にとって重い問いかけとなりました。そうやって考えているうちに、直観的に「ユングを再読してみればいいのでは」と思い、英語で書かれ、かつ入門書的な本であるという二重の意味でユングには珍しい『分析心理学入門』 (Analytical Psychology) を再読しました。

関連記事:C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

ここではその再読から学んだことを、(1) 弱さや苦労の意味、 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない、(3) 改めて当事者研究について考える、の三点からまとめてみたいと思います。ちなみに再読は、まず翻訳書を読み、重要な箇所に線を引き直し、線を引いた箇所を原著でも読むという方法を取りました。このように翻訳書には大変お世話になりましたが、以下の訳出は私が訳したものです。なお原著は、ドイツ語話者のユングが講演で語った英語をそのまま書き起こしたものなので、完全に母語話者が言うような文法文になっていない箇所もあることをお断りしておきます。


(1) 弱さや苦労の意味

ユングは、人間の心がもつ態度を、自分の関心が自分の外の出来事に向かう「外向型」と内の出来事に向かう「内向型」の二つのタイプに大別しましたが、心がもつ機能については思考・感情・感覚・直観の四つに分けました。私なりに簡単にまとめるなら、「思考」は法則に即して体系的に推論を進めること、「感情」はあることの価値 (value) を認識すること、「感覚」とは実在物の様子を知ること、「直観」とは物事の全体的な見通しを瞬時に得ることと言えましょうか。

さらにこの四つの機能は、法則や価値で「割り切れる」という意味で思考と感情が「合理的」であり、ただ実在したり一気に直覚したりできるだけであり法則や価値では「割り切れない」という意味で感覚と直観が「非合理的」(あるいは合理外的)であるとも言われます。

人間はしばしば四つの機能のどれか一つを自ら得意とする主要機能としますが、そのことによって、その機能ではない同種の機能が不得手な機能になります。例えば思考機能に長けた人は、それと同種の合理的機能である感情機能が劣ることが多く、抽象的な理屈をどんどん展開することができても、物事の価値を細やかに認識することを苦手としたりします。

主要機能とは別種の機能にも得手不得手はしばしばあり、例えば上記の人は、(思考ほどではないにせよ)直観に優れる一方感覚に劣り、突然に物事の見通しを得たりするものの、物事の実情には無頓着なままであったりします。この場合は、直観が補助機能となります。

参考記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html

ユング自身はおそらく内向型で直観や思考を得意とする人だったと思われますが、ユング自身はそれらのタイプを人間の多様性としてとらえ、それら自身に優越を見出していません。ただ、ある特定の個人においては、ある態度や機能において心がよく働き、その逆の態度や機能において心が不器用にしか動かないというだけです。ですからその劣位機能がその人の弱さとなり苦労のもととなります。

拙訳:
私が四つの機能[思考・感情・感覚・直観]のうちのどれかに重きをおいているという印象を与えていたのでなければよいがと思っています。ある個人の中で支配的な機能というのは常に、もっとも分化した[=細かく使い分けられている]機能であり、どの機能でも支配的な機能になりうるのです。機能の特性だけから、この機能やあの機能こそがもっとも優れたものであるなどと言える基準などありません。私たちが言えるのは、ある個人の中でもっとも分化した機能が、その人が人生に適応するための最上の機能であり、その優位機能によってもっとも排除された機能が、ないがしろにされているという意味で劣位機能であるということだけです。

原文:
I hope I did not give you the impression that I was giving a preference to any of the functions. The dominating function in a given individual is always the most differentiated function, and that can by any function. We have absolutely no criterion by which we can say this or that function in itself is the best. We can only say that the differentiated function in the individual is the best for adapting, and that the one that is most excluded by the superior function is inferior on account of being neglected. (p. 62)


一般に人間の成長は劣位の態度や機能をも発達させることだと考えられますが(ストー (1992) 『人格の成熟』岩波書店)、ユングは人間がすべての面において完璧になり劣位の態度や機能をもたなくなることはないと考えます。

さらに重要なのは、人間は劣位の機能 -- 下でユングは態度のことについては語ってはいません -- という弱さをもち、それによって苦労することによって無意識とつながることができることです。人間は、強みである優位な機能を意識的に使いこなして人生に適応しますが、他方で弱みである劣位機能に振り回されて -- たとえば感情が劣位機能である人は、ある価値を突然狂信したりします -- 辛労を重ね、自らがまだ意識化していない無意識の力にさらされます。ユングにしたがえば、人間の無意識には個人的無意識と普遍的(集団的)無意識がありますから、劣位機能で苦労をするということは、その人の無自覚な側面だけでなく人間一般とつながることになります。

拙訳:
四つの機能をすべて同じように分化させて細かに使い分けるというのは人間には不可能だと私は考えています。もしそんなことができるとしたら私たちは神のように完璧な存在ということになるでしょう。そんなことはできるわけありません。どんな水晶にも必ず傷があるものです。私たちが完璧になることはありません。さらに、もし私たちが四つの機能を同等に分化させることが仮にできたとしても、それは私たちが四つの機能を意識的に操作できる機能にしたということにすぎません。しかし、そうなってしまえば、私たちは、必ず自分たちの弱点となっている劣位機能を通じて無意識とつながることができるという貴重な結びつきを失ってしまうことになります。弱々しさや能力不足を通じてのみ私たちは無意識とつながることができます。それは本能という[意識からすれば]低次の世界とつながることでもありますし、私たちの仲間とつながるということでもあります。私たちの強みは、私たちを独立した存在にするだけです。独立した私たちは他人を必要としなくなり、私たちは王様になります。しかし私たちは劣位機能によって本能の世界だけでなく人間一般と結びつくのです。

原文:
 I do not believe that it is humanly possible to differentiate all four functions alike, otherwise we would be perfect like God, and that surely will not happen. There will always be a flaw in the crystal. We can never reach perfection. Moreover, if we could differentiate the four functions equally we should only make them into consciously disposable functions. Then we would lose the most precious connection with the unconscious through the inferior function, which is invariably the weakest; only through our feebleness and incapacity are we linked up with the unconscious, with the lower world of the instincts and with our fellow beings. Our virtues only enable us to be independent. There we do not need anybody, there we are kings; but in our inferiority we are linked up with mankind as well as with the world of our instincts. (p. 109)


劣位機能を通じての無意識の力は、周りからすれば奇異な言動だけではなく、夜に見る夢や、はなはだしい場合は神経症といった形で出現するとユングは考えます。そうなると神経症といった苦労も、実はそれまでその人によって疎んじられていた無意識が発現しようとする自己実現の試みの一部、あるいは少なくとも、主要機能ばかりが使われることに対する補償の試みであると考えられます。これこそがユング的解釈による「弱さや苦労の意味」とは言えませんでしょうか?

拙訳:
ヘンリー・ディックス博士
ユング教授、それならばあなたは、神経症の発症は自己治癒の試みであり、劣位機能を前面に出すことによって[人間の全体性を]補償していると考えていると、私たちは考えてよろしいのでしょうか?

ユング教授
まったくその通りです。

ディックス博士
そうなりますと、神経症という病が発症することは、人間の成長からすれば、好ましいことであるとなりますが、この理解で正しいですか?

ユング教授
そうです。あなたがその考えを出してくれたことを私はありがたく思っています。それこそが私の考え方なのです。私は神経症について全面的に悲観しているのではありません。多くの場合、私たちは「神に感謝だ。彼は神経症になる決断をしてくれた」と言わなければならないほどです。神経症はまさに自己治癒の試みなのです。これは身体の病気が少なくともその一部において自己治癒の試みであることとまったく同じです。(中略)神経症は自己制御的な心的システムがバランスを回復する試みなのです。神経症は夢の機能となんら異なるものではありません--ただ神経症の方が夢よりも強力で過激なだけです。

原文:

Dr Henry V. Dicks: 
I think we can assume then, Professor Jung, that you regard the outbreak of a neurosis as an attempt at self-cure, as an attempt at compensation by bringing out the inferior function?

Professor Jung:
Absolutely.

Dr Dick:
I understand, then, that the outbreak of a neurotic illness, from the point of view of man's development, is something favourable?

Professor Jung:
That is so, and I am glad you bring up that idea. That is really my point of view. I am not altogether pessimistic about neurosis. In many cases we have to say: 'Thank heaven he could make up his mind to be neurotic'. Neurosis is really an attempt at self-cure, just as any physical disease is partly an attempt at self-cure. (p. 189) ... It [=neurosis] is an attempt of the self-regulating psychic system to restore the balance, in no way different from the function of dreams -- only rather more forceful and drastic. (190)


 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない

もし自分の弱さを通じて苦労することが、その人の自己治癒 -- さらに拡張して言うならホメオスタシスやオートポイエーシス -- の営みであるとするなら、その苦労の当事者はその苦労を徹底的に経験して自分の弱さを自覚することが必要であるとなるでしょう。もちろん、命を落としかねないような状況には直接的介入が必要です。しかしそれほどの目に見えての危険性がないのなら、周りの人間は、その当事者の自己治癒の試みを注意深く見守るべきなのかもしれません。周りの者がたとえ善意からとはいえ、当事者の苦労を一方的に取り上げてしまうように解決・解消してしまうことは、長期的に見ればその当事者の可能性を奪ってしまうことになるかもしれないという自覚が必要なのかもしれません。

拙訳:
当然のことながら、私は患者のために最善を尽くします。しかし心理学[精神医学]において非常に重要なことは、医者はなんとしてでも患者を治そうとするべきではないということなのです。自分の意志や革新を患者に押し付けないように細心の注意を払わなければなりません。患者にはある程度の自由を与えなければなりません。人をその人の運命から引き離してしまうことなどできません。これは今死すべきと自然が定めた患者を医者が治療することができないのと同じことです。時にこれは、あなたには、患者がさらに成長するためにくぐり抜けなければならない運命から患者をすくい上げることが許されているのかという問いになります。ある種の人々の気質の中にひどく馬鹿げたことが刻み込まれている場合、それらの人々がその馬鹿げたことを犯してしまうことを止めることはできません。もし私がその馬鹿げたことをそれらの人々から取り上げてしまったら、それらの人々には長所がなくなってしまいます。ありのままの自分を受け入れ、私たちに委託された人生を真剣に生きることによってのみ、私たちは自らの長所を獲得し心理的に成長することができます。私たちの罪、過ち、間違いは私たちにとって必要なものなのです。これらがなければ私たちは成長へのもっとも貴重なきっかけを失ってしまいます。

原文:
I naturally try to do my best for my patients, but in psychology it is very important that the doctor should not strive to heal at all costs. One has to be exceedingly careful not to impose one's own will and conviction on the patient. We have to give him a certain amount of freedom. You can't wrest people away from their fate, just as in medicine you cannot cure a patient if nature means him to die. Sometimes it is really a question whether you  are allowed to rescue a man from the fate he must undergo for the sake of his further development. You cannot save certain people from committing terrible nonsense because it is in their grain. If I take it away they have no merit. We only gain merit and psychological development by accepting ourselves as we are and by being serious enough to live the lives we are trusted with. Our sins and errors and mistakes are necessary to us, otherwise we are deprived of the most precious incentives to development. (p. 147)


こういったユングの方針は、冷たくも思えます。しかし、周りの者(特に権力者)が当事者の意思にお構いなくいわば父権主義的に当事者を自分の苦労から引き離してしまうことこそが、実は当事者にとっては冷たい自己満足的な行為なのかもしれません。一知半解のユング読解から単純な結論を引き出すことは危険ですが、治療者や教育者が自らの「善意」に対する懐疑をもつこと、そして当事者の人生に対する敬意を忘れないことは、重要なことではないかと私は考え始めました。

拙訳:
どんな人の中にも、自分にとって正しいものを選ぶことを手助けしてくれる意志があるのだと私は信じています。ある人を治療している時、私はその人を私の見解や私の性格で打ちのめしてしまわないように細心の注意を払わなければなりません。なぜならその人はその人の生涯を通じて一人で戦い続けなければならないからです。ひょっとしたら、その人の鎧は不完全きわまりなく、目的も欠点だらけかもしれません。私がそこで「それは駄目だ。もっといいものにしなければ」と言ってしまえば、私はその人から勇気を奪ってしまうことになります。その人は自分の畑を耕すのに、ひょっとしたら駄目な鍬しかもっていないのかもしれません。私の鍬の方がよいものなのかもしれません。しかしその人にとってそれが何だというのでしょう?その人は私の鍬をもっているわけではないのです。それをもっているのは私であり、その人は私の鍬を借りることはできないのです。その人はその人自身のおそらくは不完全きわまりない道具を使わなければならず、それがどんなものであれ自分が受け継いだ才能でもって働かなければならないのです。もちろん私は手助けします。例えば私はこう言うかもしれません。「あなたの考え方はまったくもってよいものです。でもひょっとすれば別の観点からすれば、あなたにはまだ進歩の余地があるのかもしれません」。しかしもしその人がこのことばに耳を傾けようとしないなら、私はこの助言にこだわりません。その人が自分の運命から逸れてゆくことを私は望まないからです。

原文:
I trust that there is a will to live in everybody which will help them to choose the thing that is right for them. When I am treating a man I must be exceedingly careful not to knock him down with my views or my personality, because he has to fight his lonely fight through life and he must be able to trust in his perhaps very incomplete armour and in his own perhaps very imperfect aim. When I say, 'That is not good and should be better', I deprive him of courage. He must plough his field with a plough that is not good perhaps; mine may be better, but what good is it to him? He has not got my plough, I have it and he cannot borrow it; he must use his own perhaps very incomplete tools and has to work with his own inherited capacities, whatever they are. I help him of course, I may say for instance: 'Your thinking is perfectly good, but perhaps in another respect you could improve'. If he does not want to hear it, I shall not insist because I do not want to make him deviate. (p. 148)


(3) 改めて当事者研究について考える

今回のユング『分析心理学』再読が、自分が当事者研究のファシリテーターをしてからの反省に端を発するものであることは冒頭で述べたとおりですが、今回の読書を通じて、当事者研究の15の原則のうち、「自分自身で、共に」、「"治す"よりも"活かす"」、「初心対等」、「主観・反転・"非"常識」などについて考え直す機会を得たと思っています。

特に「自分自身で、共に」については、当事者自身の人生について、当事者自身(狭義の当事者)が主体性を保ち、周囲の者(広義の当事者)がその人生への敬意を忘れないことが大切であるように思います。

「"治す"よりも"活かす"」については、人間の「正常化」 (normalization) よりも、「個性化」 (individuation) を大切にすることに重きを置く価値観について考えさせられました。ひょっとすると教育や治療といった営みは、人間の「正常化」と「個性化」という対立軸で考えると面白いかもしれません。

ただ「正常化」も「個性化」も大きな概念です。「正常化」についてはフーコーや(ノート作成が途中で止まってしまっている)ローズの論考を参考に考えてゆきたいですし、「個性化」についてはそれこそユングの重要概念ですから、これからよく勉強せねばなりません。

Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
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平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
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いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
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「初心対等」については経験を積んだものが謙虚になる意識的な努力の重要性、「主観・反転・"非"常識」については支配的な世間の価値観に呑み込まれてしまわないことの重要性について考えさせられました。


追記
以下のユングのことばは、内向型直観-思考タイプの私にとって非常に共感できるものですので、ここに引用しておきます(笑)。

拙訳:
しかしどうなったら私が神経症的になってしまうかについては私はよくわかっています。自分自身に基づかないことを語ったり信じたりすると私は神経症的になってしまうのです。私は自分で見て理解したことを語ります。誰かがそれに同意してくれれば嬉しく思いますが、もし誰もそれに同意しなくても別にかまいません。

原文:
But I know exactly how I could make myself neurotic: if I said or believed something that is not myself. I say what I see, and if somebody agrees with me it pleases me and if nobody agrees it is indifferent to me. (p. 141)


同じようなことばは、以前、ジャズミュージシャンのパット・メセニーが言っていたことも思い出します。

こういった傾向は、内向型の特徴の一つでしょうから、私としてもこういった自分の傾向を自覚した上で、外向型の態度を少しずつ学ばねばと思います。






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