なお私のもっている、物語あるいはナラティブへの関心は、教師が自らの実践を語ることについての研究に由来している。その研究に関しては、昨年はシンポジウムを開いた。来年も何かやりたいと思っている。今年はメディア論や神経科学の意識論などからナラティブについて考えているが、その一方で小説家の物語論もわずかながら読もうとしており、小川洋子の物語論も面白く読んだ。あるいは神話論も興味深く読んだ。だから以下に書く文章も、教師ナラティブに引き寄せたものになるかと思う。どうあっても正当な村上春樹研究ではない。
ちなみにナラティブと物語は、私は今のところ次のように使い分けている。
ナラティブ:広義の用語で、何かを語る過程と結果の両方を意味する。語る過程とは語る行為のことで、語った結果とは語られたテクストのことである。
物語:語られたテクストの中で、ある程度の長さと複雑性を有したもの。多くの場合で「ストーリー」と同義。物語というほどには長く複雑でないものは(狭義の、語られたテクストとしての)ナラティブと呼ばれる。
意識の奥底にある物語
村上春樹にとって、物語とは、間違いなく彼自身の手によって書かれるものであるが、彼の意識の奥底に起源をもつものであり、彼の明晰な意識が行うことは、その前意識的・潜在意識的・無意識的―なんと言えばいいのだろう―な物語を損ねないように書くということだ。彼の物語は、脚色や演出あるいは計画や計算などとは程遠いところから来ている。
自分の中の物語性のようなものは、僕にとっては、これまで生きてきたごく普通の人間としての日常とは別なところで、一種の神秘的なものとして存在しているんです。神秘的ではあるけれど、こんこんと湧いている確かな実感がある。
僕の中にもう一人の僕がいて、その二者の相関関係の中で物語が進んでいく。さらに言えばその進み方によって両者の位置関係が明らかになる。だから、物語を使って何ができるかについては、僕は非常に意識的に考えています。そのために大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。(55-56ページ)
物語は自己表現ではない
村上春樹にとって物語とは「自己表現」ではない。村上が言う「自己表現」とは、近代社会が私たちに求める自らの「セールスポイント」といったものだろうか。少し前に「ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンでありさえすれば」といった歌が流行った。ナンバーワンになる競争のプレッシャーから人を解放する意図で歌われたのかと思われるが、考えてみればオンリーワンであること、それを他人に証明することは存外に難しい。私の内面を見ても、それほどに特異なものは見出しがたい。
話をどんどん逸らしてしまうようだが現在「就活」をしている若者も自分が「オンリーワン」であることを証明しなければならない状況に追い込まれているのだろうか。しかしナンバーワン同様オンリーワンであることを示すこと、この物的証拠・数量的データを偏重する社会で明示すること、は簡単ではない。
それならば物語を語れないだろうか。自分を前面に出して、「自己表現」として自分だけを描こうとするのではなく、むしろ自分がその一部に過ぎない状況を語れないだろうか。自分が巻き込まれ、逃げ出すことができず、同時に逃げ出してはいけないとも妙に思えて、自らが変容させられれ、他者が思いもよらぬ言動をし、出来事が誰の予想も超えたように展開する物語を。たとえ大きな物語や珍しい物語でなくてもよい。あなたの物語を丁寧に語れば、そこにあなたの直接的な描写はなくとも、聞く人はあなたを理解できるのではないか。そして不思議なことにあなたもこれまでになかったようにあなた自身を理解するのではないか。
今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。(中略)にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。
僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。(107-108ページ)
私は私の物語を語る。なぜなら私は私の人生を生きているのだから。
だからこれは偉大な物語を語るとかいう話ではない。あなたは不世出の英雄である必要はない。それどころかあなたは稀代の語り手である必要もない。あなたに求められていることは、あなたが生きている人生において誠実にことばを見つけ、丁寧に語ることだ。流行のことばや概念に惑わされず、定型句や常套表現でごまかしてしまわずに、あなたの人生を、あなたが日常的・表面的に思っていた以上に深く広く見つめ、それをことばにすることだ。
偉大な文学作品が出尽くしたとも思われる現代において文学を書く意味について尋ねられた村上は次のように質問を変えて答える。
バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正統な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。
ただ僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。(177ページ)
ナラティブはノンフィクションではない
村上は小説(フィクション)を書く以外に、『アンダーグラウンド』のようなナラティブの聞き取りとその集大成も行う。『アンダーグラウンド』で村上が聞いたナラティブは地下鉄サリン事件の被害者のものだ。これらのナラティブは言うまでもなく実際に起った事件に基づいている。だが村上はノンフィクションライターやジャーナリストほどには「事実の裏取り」(裏付け証拠の確保)に重きを置かなかった。村上は「客観的な事実」よりも「当事者にとっての真実」を大切にしたのだ。
ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めなかったのはそういうものなのです。批評家の中にはそのことで僕を批判する人もいました。何も実証していないし、事実とフィクションを区別してもいないと。でも僕が集めたかったのは、ただ正直なナラティブだったのです。彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もしかれらがそれを真実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。事実と真実は、ある場合には別のものです。(中略)彼らのナラティブのうちのもあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォーメーションを総合したものが、その相対が、一つの広い意味での真実を形成するからです。(340-341ページ)
1Q84 Book 3という物語の中での物語の扱い
こういった考えをもつ村上は最近の『1Q84 BOOK 3』でも、かなり自覚的に物語を語っているように思える。主要登場人物である青豆はBook 3で身体トレーニングにより自らを保っていたものの、事が次第に展開するにつれ、自らの物語―別名、希望―に自らを託し始める。だが物語は、自分の意識が計画や計算によって自由に書き、書き換えられるものではない。物語を語るということは、自らが自覚していなかった意識の奥底からの導きによる物語に巻き込まれながら生きるということだからだ。物語が、自らの意識が制御できない意識の奥底と、他者と事物が多くを支配する外世界に根ざしている以上、どうして小賢しい自分の意識が物語を自由にできよう。青豆はこういった物語の物語性を自覚した上で次のように認識する。
これが生き続けることの意味なのだ、青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が生き続けることはできない。しかしそれはコイン投げと同じだ。表側が出るか裏側が出るか、コインが落ちてくるまではわからない。そう考えると心が締めあげられる。身体中の骨という骨が軋んで悲鳴をあげるくらい強く。(93ページ)
しかし私たちは無力なのではない。私たちは自らの物語の支配者ではないが、登場人物ではある。登場人物として私は何ができるのか。何が可能で何が不可能なのか。登場人物は物語の中でどのようなことを成しうるのか。あるいは物語自体を書き換えることすらできるのか―思い通りではないにせよ、何とか自分なりに―。青豆は彼女にとって重要な天吾について考える。
私たちはひとつに結びつけられているのだ。おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。
そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ。そうじゃないか?
彼女はその可能性について考える。
でもどうすればそんなことができるのだろう?
青豆にはまだその方法はわからない。彼女にわかるのは、そういう可能性がきっとあるはずだということだけだ。それは今のところ、まだ具体性を欠いたひとつのセオリーに過ぎない。彼女は密やかな暗闇の中で唇を堅く結び、思考を巡らせる。とても大事なことだ。深く考えなくてはならない。(477ページ)
私たちは自らの物語を支配する自由は持たない。しかし物語の登場人物として行動する自由はもつ。そして支配者として外から物語を書き換えるのではなく、登場人物として内から書き換えることすら・・・できるのかもしれない。結果はわからない。ただそういう可能性はきっとあるはずだ。
教師として、いや、教師ナラティブに話を限定する必要もないのかもしれない、人間として―有限の力しか持たずに無限ともいえる不確定な世界に放り込まれた人間として―私たちは物語を語ることを必要とする。
私たちは意識の奥底に正直に、大胆に降りていくことができているのだろうか。物語を起動することばやイメージを見出すために。
私は近代社会の「セールストーク」に縛られていないだろうか。「セールストーク」が自らの物語だと思い込んでいないだろうか。
自らの物語を語ろうと決意しても、自分は英雄的な生涯を送っていないし、小説家のような表現力ももっていないと尻込みをしていないだろうか。自らの人生を見出すことから逃げていないだろうか。ナンバーワンやオンリーワンといったことばに惑わされて。
あなたは一人の人間であるという事実において、個人としての単独性と人類としての普遍性を有する。オンリーワンであったとしても、それは他の人々がオンリーワンであるのと同じ意味であり、あなたは特段に特殊な存在ではない。あなたがあなたの物語に見出すのはあなたの生であり、それは他の人々につながる普遍性を有した生である―私たちは人間なのだから―。
丁寧に物語を紡ぎ出そう。自らの生に誠実に向き合い、慎重かつ大胆にことばを選び、読者に向けて―それが聞く耳をもった他者にせよ、未来の自分に過ぎないにせよ―物語を語ろう。丁寧で誠実であることは必ずしも厳密に科学的でなければならないことは意味しない。だがそれは恣意奔放に語っていいことも意味しない。私たちは丁寧で誠実であろうとする限りにおいて事実を尊重する。だがそれは科学的証拠を必要とするとか、誰から見ても文句がでないほどに記述を骨抜きにするとかを意味しない。私たちは自らにとっての真実を求める。丁寧に、誠実に。その限りにおいて事実は真実と共起する。やがて事実が科学的という呼称を求め、客観的な事実と人格的な真実が袂をわかつにせよ。
物語は私たちに希望を与える。だがそれは失望と裏腹の希望である。しかしそれが人生である。私たちは神のような世界の支配者ではない。とはいえ石ころのような物体でもない。万能ではないが無力でもない。私たちは人間である。
だから私たちは物語を語る。
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