2010年10月31日日曜日

村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋

村上春樹の物語論については約1年前にも少し引用したが、最近彼のインタビュー集である『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を読んだので、そこから少し抜き書きをする。

なお私のもっている、物語あるいはナラティブへの関心は、教師が自らの実践を語ることについての研究に由来している。その研究に関しては、昨年はシンポジウムを開いた。来年も何かやりたいと思っている。今年はメディア論神経科学の意識論などからナラティブについて考えているが、その一方で小説家の物語論もわずかながら読もうとしており、小川洋子の物語論も面白く読んだ。あるいは神話論も興味深く読んだ。だから以下に書く文章も、教師ナラティブに引き寄せたものになるかと思う。どうあっても正当な村上春樹研究ではない。

ちなみにナラティブと物語は、私は今のところ次のように使い分けている。


ナラティブ:広義の用語で、何かを語る過程と結果の両方を意味する。語る過程とは語る行為のことで、語った結果とは語られたテクストのことである。

物語:語られたテクストの中で、ある程度の長さと複雑性を有したもの。多くの場合で「ストーリー」と同義。物語というほどには長く複雑でないものは(狭義の、語られたテクストとしての)ナラティブと呼ばれる。



意識の奥底にある物語

村上春樹にとって、物語とは、間違いなく彼自身の手によって書かれるものであるが、彼の意識の奥底に起源をもつものであり、彼の明晰な意識が行うことは、その前意識的・潜在意識的・無意識的―なんと言えばいいのだろう―な物語を損ねないように書くということだ。彼の物語は、脚色や演出あるいは計画や計算などとは程遠いところから来ている。


自分の中の物語性のようなものは、僕にとっては、これまで生きてきたごく普通の人間としての日常とは別なところで、一種の神秘的なものとして存在しているんです。神秘的ではあるけれど、こんこんと湧いている確かな実感がある。

僕の中にもう一人の僕がいて、その二者の相関関係の中で物語が進んでいく。さらに言えばその進み方によって両者の位置関係が明らかになる。だから、物語を使って何ができるかについては、僕は非常に意識的に考えています。そのために大事なのは、きちんと底まで行って物語を汲んでくることで、物語を頭の中で作るようなことはしない。最初からプロットを組んだりもしないし、書きたくないときは書かない。僕の場合、物語はつねに自発的でなくてはならないんです。(55-56ページ)



物語は自己表現ではない

村上春樹にとって物語とは「自己表現」ではない。村上が言う「自己表現」とは、近代社会が私たちに求める自らの「セールスポイント」といったものだろうか。少し前に「ナンバーワンにならなくてもいい。オンリーワンでありさえすれば」といった歌が流行った。ナンバーワンになる競争のプレッシャーから人を解放する意図で歌われたのかと思われるが、考えてみればオンリーワンであること、それを他人に証明することは存外に難しい。私の内面を見ても、それほどに特異なものは見出しがたい。

話をどんどん逸らしてしまうようだが現在「就活」をしている若者も自分が「オンリーワン」であることを証明しなければならない状況に追い込まれているのだろうか。しかしナンバーワン同様オンリーワンであることを示すこと、この物的証拠・数量的データを偏重する社会で明示すること、は簡単ではない。

それならば物語を語れないだろうか。自分を前面に出して、「自己表現」として自分だけを描こうとするのではなく、むしろ自分がその一部に過ぎない状況を語れないだろうか。自分が巻き込まれ、逃げ出すことができず、同時に逃げ出してはいけないとも妙に思えて、自らが変容させられれ、他者が思いもよらぬ言動をし、出来事が誰の予想も超えたように展開する物語を。たとえ大きな物語や珍しい物語でなくてもよい。あなたの物語を丁寧に語れば、そこにあなたの直接的な描写はなくとも、聞く人はあなたを理解できるのではないか。そして不思議なことにあなたもこれまでになかったようにあなた自身を理解するのではないか。


今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。だからみんな苦しむんです。(中略)にもかかわらず、日本というか、世界の近代文明というのは自己表現が人間存在にとって不可欠であるということを押し付けているわけです。教育だって、そういうものを前提条件として成り立っていますよね。まず自らを知りなさい。自分のアイデンティティーを確立しなさい。他者との差違を認識しなさい。そして自分の考えていることを、少しでも正確に、体系的に、客観的に表現しなさいと。これは本当に呪いだと思う。だって自分がここにいる存在意味なんて、ほとんどどこにもないわけだから。タマネギの皮むきと同じことです。一貫した自己なんてどこにもないんです。でも、物語という文脈を取れば、自己表現しなくていいんですよ。物語がかわって表現するから。

僕が小説を書く意味は、それなんです。僕も、自分を表現しようと思っていない。自分の考えていること、たとえば自我の在り方みたいなものを表現しようとは思っていなくて、僕の自我がもしあれば、それを物語に沈めるんですよ。僕の自我がそこに沈んだときに物語がどういう言葉を発するかというのが大事なんです。物語というのは常に動いていくものであって、その動くという特性の中にもっとも大きな意味があるんです。だからスタティックな枠みたいなものをどんどん取り払っていくことができます。それによって僕らは「自己表現」という罠を脱することができる。(107-108ページ)




私は私の物語を語る。なぜなら私は私の人生を生きているのだから。

だからこれは偉大な物語を語るとかいう話ではない。あなたは不世出の英雄である必要はない。それどころかあなたは稀代の語り手である必要もない。あなたに求められていることは、あなたが生きている人生において誠実にことばを見つけ、丁寧に語ることだ。流行のことばや概念に惑わされず、定型句や常套表現でごまかしてしまわずに、あなたの人生を、あなたが日常的・表面的に思っていた以上に深く広く見つめ、それをことばにすることだ。

偉大な文学作品が出尽くしたとも思われる現代において文学を書く意味について尋ねられた村上は次のように質問を変えて答える。


バッハとモーツァルトとベートーヴェンを持ったあとで、我々がそれ以上音楽を作曲する意味があったのか?彼らの時代以降、彼らの創り出した音楽を超えた音楽があっただろうか?それは大いなる疑問であり、ある意味では正統な疑問です。そこにはいろんな解答があることでしょう。

ただ僕に言えるのは、音楽を作曲したり、物語を書いたりするのは、人間に与えられた素晴らしい権利であり、また同時に大いなる責務であるということです。過去に何があろうと、未来に何があろうと、現在を生きる人間として、書き残さなくてはならないものがあります。また書くという行為を通して、世界に同時に訴えていかなくてはならないこともあります。それは「意味があるからやる」とか、「意味がないからやらない」という種類のことではありません。選択の余地なく、何があろうと、人がやむにやまれずやってしまうことなのです。(177ページ)




ナラティブはノンフィクションではない

村上は小説(フィクション)を書く以外に、『アンダーグラウンド』のようなナラティブの聞き取りとその集大成も行う。『アンダーグラウンド』で村上が聞いたナラティブは地下鉄サリン事件の被害者のものだ。これらのナラティブは言うまでもなく実際に起った事件に基づいている。だが村上はノンフィクションライターやジャーナリストほどには「事実の裏取り」(裏付け証拠の確保)に重きを置かなかった。村上は「客観的な事実」よりも「当事者にとっての真実」を大切にしたのだ。



ノンフィクションは事実を尊重します。でも僕の本はそうではありません。僕はナラティブを尊重します。それは生き生きとしたものであり、鮮やかなものです。それは正直なナラティブです。僕が集めなかったのはそういうものなのです。批評家の中にはそのことで僕を批判する人もいました。何も実証していないし、事実とフィクションを区別してもいないと。でも僕が集めたかったのは、ただ正直なナラティブだったのです。彼らの語ったことはすべてが真実である必要はありません。もしかれらがそれを真実だと感じたのなら、それは僕にとっても正しい真実なのです。事実と真実は、ある場合には別のものです。(中略)彼らのナラティブのうちのもあるものが誤った情報であるとしても、それは問題にはなりません。インフォーメーションを総合したものが、その相対が、一つの広い意味での真実を形成するからです。(340-341ページ)




1Q84 Book 3という物語の中での物語の扱い

こういった考えをもつ村上は最近の『1Q84 BOOK 3』でも、かなり自覚的に物語を語っているように思える。主要登場人物である青豆はBook 3で身体トレーニングにより自らを保っていたものの、事が次第に展開するにつれ、自らの物語―別名、希望―に自らを託し始める。だが物語は、自分の意識が計画や計算によって自由に書き、書き換えられるものではない。物語を語るということは、自らが自覚していなかった意識の奥底からの導きによる物語に巻き込まれながら生きるということだからだ。物語が、自らの意識が制御できない意識の奥底と、他者と事物が多くを支配する外世界に根ざしている以上、どうして小賢しい自分の意識が物語を自由にできよう。青豆はこういった物語の物語性を自覚した上で次のように認識する。


これが生き続けることの意味なのだ、青豆はそれを悟る。人は希望を与えられ、それを燃料とし、目的として人生を生きる。希望なしに人が生き続けることはできない。しかしそれはコイン投げと同じだ。表側が出るか裏側が出るか、コインが落ちてくるまではわからない。そう考えると心が締めあげられる。身体中の骨という骨が軋んで悲鳴をあげるくらい強く。(93ページ)



しかし私たちは無力なのではない。私たちは自らの物語の支配者ではないが、登場人物ではある。登場人物として私は何ができるのか。何が可能で何が不可能なのか。登場人物は物語の中でどのようなことを成しうるのか。あるいは物語自体を書き換えることすらできるのか―思い通りではないにせよ、何とか自分なりに―。青豆は彼女にとって重要な天吾について考える。


私たちはひとつに結びつけられているのだ。おそらくは同じ物語に共時的に含まれることによって。

そしてもしそれが天吾の物語であると同時に、私の物語でもあるのなら、私にもその筋を書くことはできるはずだ。青豆はそう考える。何かをそこに書き添えることだって、あるいはまたそこにある何かを書き換えることだって、きっとできるはずだ。そして何よりも、結末を自分の意思で決定することができるはずだ。そうじゃないか?

彼女はその可能性について考える。

でもどうすればそんなことができるのだろう?

青豆にはまだその方法はわからない。彼女にわかるのは、そういう可能性がきっとあるはずだということだけだ。それは今のところ、まだ具体性を欠いたひとつのセオリーに過ぎない。彼女は密やかな暗闇の中で唇を堅く結び、思考を巡らせる。とても大事なことだ。深く考えなくてはならない。(477ページ)


私たちは自らの物語を支配する自由は持たない。しかし物語の登場人物として行動する自由はもつ。そして支配者として外から物語を書き換えるのではなく、登場人物として内から書き換えることすら・・・できるのかもしれない。結果はわからない。ただそういう可能性はきっとあるはずだ



教師として、いや、教師ナラティブに話を限定する必要もないのかもしれない、人間として―有限の力しか持たずに無限ともいえる不確定な世界に放り込まれた人間として―私たちは物語を語ることを必要とする。

私たちは意識の奥底に正直に、大胆に降りていくことができているのだろうか。物語を起動することばやイメージを見出すために。

私は近代社会の「セールストーク」に縛られていないだろうか。「セールストーク」が自らの物語だと思い込んでいないだろうか。

自らの物語を語ろうと決意しても、自分は英雄的な生涯を送っていないし、小説家のような表現力ももっていないと尻込みをしていないだろうか。自らの人生を見出すことから逃げていないだろうか。ナンバーワンやオンリーワンといったことばに惑わされて。

あなたは一人の人間であるという事実において、個人としての単独性と人類としての普遍性を有する。オンリーワンであったとしても、それは他の人々がオンリーワンであるのと同じ意味であり、あなたは特段に特殊な存在ではない。あなたがあなたの物語に見出すのはあなたの生であり、それは他の人々につながる普遍性を有した生である―私たちは人間なのだから―。

丁寧に物語を紡ぎ出そう。自らの生に誠実に向き合い、慎重かつ大胆にことばを選び、読者に向けて―それが聞く耳をもった他者にせよ、未来の自分に過ぎないにせよ―物語を語ろう。丁寧で誠実であることは必ずしも厳密に科学的でなければならないことは意味しない。だがそれは恣意奔放に語っていいことも意味しない。私たちは丁寧で誠実であろうとする限りにおいて事実を尊重する。だがそれは科学的証拠を必要とするとか、誰から見ても文句がでないほどに記述を骨抜きにするとかを意味しない。私たちは自らにとっての真実を求める。丁寧に、誠実に。その限りにおいて事実は真実と共起する。やがて事実が科学的という呼称を求め、客観的な事実と人格的な真実が袂をわかつにせよ。

物語は私たちに希望を与える。だがそれは失望と裏腹の希望である。しかしそれが人生である。私たちは神のような世界の支配者ではない。とはいえ石ころのような物体でもない。万能ではないが無力でもない。私たちは人間である。

だから私たちは物語を語る。



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村上春樹(2010)『1Q84 Book 3』新潮社

ある友人と話をしていて意気投合したことがある。村上春樹の小説の男性主人公はろくでもない人間である。私は村上春樹のファンとして―彼の小説の主人公に共感的に自分を見出している人間として―全面的に同意した。

村上春樹の男性主人公はしばしば女性を生身の人間として見ていない。男性主人公の恋人や配偶者が突然姿を消すことはそれを裏付ける根拠である。

より直接的な根拠は、小説に描かれる女性像に求められる。最悪の描き方は『1973年のピンボール』の双子の女の子(208と209)である―断っておくが、私はこの小説を偏愛している。この小説冒頭部分は、私が日本語で書かれた文章の中で最も好きな文章とすら言えるかもしれない―。主人公は突然208と209を部屋の中に見出す。そして彼女たちを必要とする。だが生身の女性としてではない。一種コミカルな天使としてである。天使扱いされて一時的に舞い上がる女性はいても、自らを天使としてしか見ようとしない男性を好む女性はいない。それは女性を人間扱いしていないということだからだ。

あるいは『羊をめぐる冒険』に登場するとびきり魅力的な耳をもった女性である。彼女こそは主人公を導いた者だった。だが彼女は物語終末部で突然に姿を消す。無論小説はその失踪について説明を加える(羊男―私が愛する登場人物だ―も説明する)。だがその失踪は私には唐突にしか見えない。村上春樹が、主人公と彼女の関係がどのように発展したのかを書ききれなかったのではないかとも勘ぐりたくなる(ひどいファンですね、ごめんなさい)。少なくとも読者は美しい耳をもった女性の人間的な語りを聞けないままだった。

露骨なのは『ノルウェイの森』の直子、いや、正確に言うと直子に惹かれて緑を振り回しながら、緑を好きだと言い、最後には緑と結ばれる男性主人公である。直子は直子の人生を生きなければならなかった。主人公が直子に惹かれたのもわかる。直子は主人公を深いところで捉えた。主人公の無意識は直子を必要としていた。悲劇的にというか、絶望的にというほどにまで。しかし主人公は緑とも会っていた。緑を必要としていた。そしてそれ以上に緑に彼を必要とさせてしまっていた。そして緑は少なくとも直接には直子を知らなかった。だから主人公には緑を守る必要があった。直子から、あるいは直子を必要とする主人公から。私は主人公に対して厳しすぎるのだろうか―しかし私は、主人公は、直子を一種の巫女として、緑を現世のすべてを取り仕切る母として見ていたように思えてならない。ここでも主人公は女性を生身の人間として捉えきれていなかった。


そして今回の『1Q84 Book 3』である。ここで村上春樹は青豆という魅力的な女性をほぼ等身大に描くことに成功している(特にこのBook 3では、ネタバレになるから言わないが、青豆はこれまでの村上春樹の女性登場人物が経験しなかったことを経験しようとしている)。

だが、「ふかえり」はどうなのだ。

「ふかえり」はBook 1とBook 2を通してひたすら神秘的で魅力的な女性として描かれる。男性の主人公(天吾)はふかえり―後に彼女は深田絵里子という実名を与えられる―に言いようもなく惹かれる。最初は彼女の小説に、次に彼女の存在自体に。

村上春樹のファンとして、あるいは先に述べたように彼の小説の主人公に共感的に自分を見出している人間として、私もふかえりに深く心ひかれる。特殊な出自をもち、独特の訥々としたぎこちない―というより特殊な語法でしか語れない彼女―しかし彼女のことばは私たちの心にまっすぐに届く(私は小説を読みながら彼女の声を実際に聞いているようだった)。平家物語やバッハの作品を暗記しながらも、読字障害をもち、日常的な能力はほとんどもちえていない彼女―しかし彼女は心の深いところまですっと無防備に入り込んでくる。もし私が実生活でふかえりに会い、その眼で見つめられたら、私は根本的に人生を変えられてしまうだろう。

だから私がBook 3に期待したことは、実はふかえりがどう描かれるかだった。ふかえりはどうなるのだろう。巫女のように天吾を―そして私を―導く彼女は、現実の女性としての着地点を彼女の人生に見出すことができるのだろうか。彼女は、巫女ではなく生身の女性として生きることができるのだろうか。現実世界で仕事を持ち、独特の語り方をわかりにくいと仕事仲間に怒鳴られ、寡黙だが深い彼女自身ことばをわかりやすい通俗表現に取り替えられ、彼女は金を稼ぎ自活することができるようになるのだろうか―夢のないことを言うなと怒られるかもしれない。だが金を稼ぐことも現代を生きるために不可欠なことなのだ。生きる意味より直截的に―。

男性が女性に巫女や母性を求めることは無理もないことであろう。それは女性が男性に騎士や老賢人をつい求めたがることと同じなのかもしれない。しかし男性は生身の女性にしか会えないし暮らせない。それは女性が生身の男性としか会えないし暮らせないのと同じなのだが、おそらく男性は女性に比べて生身の人間と出会いともに暮らすことを不得手とする。だからせめて男性は生身の女性を描いた物語を必要とする。巫女でもなく母性そのものでもない生身の女性を。

村上春樹はBook 3でふかえりを生身の女性として描くことができたのか。それともそれは望むべくこともないことなのか。ふかえりは『1Q84 』の小説世界の中で彼女自身の佳き暮らしを見出すことができたのか。それとも208と209のように男性から思われた巫女としてしか生きることしかできないのか。たとえそれが小説世界の中だけのことだとしても、それは許されるべきことなのか・・・


ファンというのは勝手なもので、愛する作品に過剰な期待を抱く。あるいはファンというものは、勝手に自分自身を作品の中に投影して作品を損ねているだけの存在なのかもしれない。そうだとしたら―そしてそうである可能性は高そうだ―私はこのビールを飲みながらの勝手な文章を今すぐに終えるべきだろう。


『1Q84』は村上春樹が、方法論的自覚を高めながらも、彼の深いところからくるものを損ねないままに書き上げた長編です。私の評価では彼のベストの作品です。これを超える作品は彼の今後の作品だけでしょう。優れた物語がすべてそうであるように、これは外的には完結していても内的には完結していません。多くの謎があり、多義があり、私たちを何度もこの物語に引き込みます(私もこれから何度もこの作品を読み返すことでしょう)。この作品は、もちろんふかえりだけの物語ではなく、主人公は天吾と青豆です。特に青豆は村上作品の新しい境地を示す人物なのかもしれません。その他にもタマルといった魅力的な人物も登場します(誰もが好きになれない牛河も独特の魅力を持っています)。Book 3の展開は力を持ち、一種推理小説のような力をもってあなたを終結にまで導くでしょう(なんせ村上春樹は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のような終末をもつ作品を書いたことがある小説家なのですから、安心してはいけません)。どうぞ『1Q84 BOOK 1』からお読みください。これまで村上作品を一冊も読んだことのない人も、物語を愛する人なら、きっと楽しむことと思います。


⇒『1Q84 BOOK 1』

⇒『1Q84 BOOK 2』

⇒『1Q84 BOOK 3』









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2010年10月24日日曜日

近代的な言語使用を現代の学校英語教育は教えているのか?

■第三回山口県英語教育フォーラムは大成功

昨日の2010年10月23日に開催された第三回山口県英語教育フォーラムに参加しました。非常に深いことが学べた充実した会でした(懇親会はもっと楽しかったw)。

フォーラムの成功は、講師人選の確かさとその講師に潤沢な発表時間を与えたことが大きいかと思います。講師は一人ひとりが魅力的であるだけでなく、三人の講師がこの順番で語るという流れに必然性が感じられました。そしてそれぞれが質疑応答も含めるなら110分かけて喋ることができるのですから、講師も聴衆もゆっくりと考え、深いものを感じながら時間を共有することができました。事務局長の松井孝志先生の企画力と実行力、そしてそれをサポートした事務局と後援のベネッセコーポレーションに心から感謝します。

以下は、私がその時に感じたこと・考えたことなどです。これだけの深いフォーラムの包括的な報告などとても無理ですから、以下は私のきわめて個人的な感想およびそこから考えたこととお考えください。



■柳瀬和明先生(日本英語検定協会顧問)のお話を聞いて考えたこと

柳瀬和明先生に私は初めてお会いしたのですが、ご著書『「日本語から考える英語表現」の技術』で得た印象通りの方でした。学習者や教師に対する温かい態度に基づきながら、冷静に事柄を分析します。分析はデータに基づき論理的に展開されるものですから聴衆も納得します。フォーラムの途中で大津先生が質問をした時も、温かい表情で冷静に一つ一つの論点を確認しながら答えてゆきます。講演会などではひっぱりだこの方なのだろうと思いました。

この日の「初級から中級への「壁」を考える ―話題の「広がり」と「深み」という視点から」で、私が個人的に面白いと思ったお話の一つは、英語のインタビューで次のように答えてしまう学習者についてのことです。


Do you think fast food will become more popular in the future? 

Yes, I like fast food very much, so it will become more popular in the future.


このような応答だと仮に「流暢で正確な英語」だったとしても、聞き手はこのような話者には幼さを感じざるを得ません。しかし残念ながらこのような発話をする学習者は少なくありません。

というより、日本語でもこのような応答は聞かれないでしょうか。


ファストフードはこれからも人気上昇かなぁ?

えっ、ファストフードっすか?まぁ~、オレ的にも好きっすっし、はやるんじゃないんすっか?


残念ながら私はこのような受け答えをする若い人を具体的に容易に想像することができます。


多くの生徒・学生は以上のような話し言葉を標準化して紙に転記することを「書く」ことだと思っています。日本語だったら「自分も好きだし、これからも流行は続くと思う」と文体を標準語的なものにして漢字かな混じり文にします。英語でしたら習った英文法と正字法に従って上記のように"I like fast food very much, so it will become more popular in the future."と書きます。少なからずの若者は、「書く」ということはそれ以上のことではないと思っているのではないかと私は考えます。少なくも私がこのような文を書いてくる学生さんの提出物に対して「こんなのでは文章として通らないだろう」とコメントすると、どうしたらいいのかわからないといった不安な顔つきを示す学生さんがいます。中には口を尖らせて「何言ってるんすか!?」とでも言いたげな表情を示す猛者もいますw。

私はこれは現代の若者の多くが、まともに書き言葉に接していないことに起因するかと思います。若者は仲間内での話し言葉にはそれなりに習熟していても、書き言葉を本格的に扱うことがまだできません。活字といえばせいぜい教科書ぐらいしか読んだことがなく、それも受験のためだけなどといった人は、書き言葉(特に活字メディア)に典型的な近代の思考法・言語使用を習得できていません。

ここでいう活字メディアに典型的な近代の思考法・言語使用とは、「一般的他者」に向けて書かれた文章を読みこなし、かつ自らも「一般的他者」に向けての文章が書ける(ということは自分の下書きを「一般的他者」の目で読み直し推敲して文章として完成できる)ということです。

「一般的他者」とは、自分の身近な人間といった特定の人格ではなく、大きく言うなら、基本的な生理的基盤と近代的論理しか共有していない、抽象的に想定された言語使用者です。大量のコピーを広範囲に届けられる活字本という近代的メディアは、このように「一般的他者」に向けて書き、読む場合も「一般的読者」の一人として読む言語使用を普及させました。この普及により近代文明が支えられていることは言うまでもないでしょう。

活字本は、「一般的他者」に向けて書かれているので、親や教師による親切な語りかけにしか接していない子どもは読めません。たとえその本に使われている語彙や文法を知っていても、その間接性・抽象性についてゆけません。

そんな子どもがレポートや論文などで「ボクのことをいつも見守ってくれる先生」にではなく「一般的他者」に向けて文章を書く事を求められると、まあとにかく戸惑うばかりです。頼れるのは、特定の人間関係での共有知識と優しい配慮ではなく、近代人なら共有しているとされる一般的知識と論理だからです。

ですからレポートや論文は「ボクはこう思います」「ワタシが読んだ本にはこう書いてありました」といった独りよがりの感想文みたいになります。子どもは「ファストフードっすか?まぁ~、オレ的にも好きっすっし、はやるんじゃないんすっか」を「ファストフードは私も好きだ。これからも人気が続くと思う」に変換できたら文章を書いたと信じて疑わないのです。

だから書き直しを命じられても困惑するばかりです。私はよく学生さんに「自分が書いた文章をきちんと読める人間は少ない」と言います。自らの思い込みが詰まった文章を「一般的他者」が読むように客観視し、自らの文章の曖昧性・多義性・矛盾などを発見することは容易でない、というのが趣旨ですが、これをなかなか分かってくれない学生さんも中にはいます。


柳瀬和明先生のお話からは多少離れてしまいましたが、英語力をつけるということは、"I like fast food very much, so it will become more popular in the future."といった英語をいかに正確かつ流暢に産出できるかということではないという点は、ご講演の中でも触れられていたかと思います。



■大津由紀雄先生(慶応義塾大学教授)の話を聞いて考えたこと

大津先生は「『母語起着点、ことばへの気づき経由、外国語周遊券』のお勧め」という題目でお話されました。

大津先生のキーワードは「ことばへの気づき」ですが、時折「ことばの力」といった用語も使われます。私が感じたのはこの大津先生の「ことばの力」と柳瀬和明先生などがお使いになる「言語能力」は、通底はしているものの、強調面が異なるのではないかということでした。大津先生との質疑応答で学んだことを私なりにまとめるなら次のようになるかと思います。


大津先生と柳瀬和明先生のおっしゃる力はおそらく同じものだが、強調している側面は異なる。前者は、「ことばへの気づき」に基づくもので、子どもが日頃無自覚に使用している言語に対する反省的な眼差しを育てることである。後者は、子どもが日常の時空を超えて思考しコミュニケーションが取れるようにするためのもので、広範囲な話題や深いレベルの議論といった近代の書き言葉的な言語使用を促すものである。前者は後者の素地となり、やがて子どもの話題の興味も広がり思考のレベルも深まるにつれ後者につながる。


「ことばの力」「言語能力」「コミュニケーション能力」「言語コミュニケーション力」と用語は様々ですが、これらをできるだけ正確に理解し的確に使い分けて議論をしたく思います。そうしないと英語教育の議論はいつまでも床屋談義のままに終わるでしょう。



■加藤京子(兵庫県三木市立緑が丘中学校教諭)

加藤先生の「言葉として英語を教える-中学英語と侮るなかれ-」には、実践者が実践者の聴衆に語りかけるという、前の二人の講演の時とは異なる質の緊迫感がありました。それでいて講演の後、多くの教師が「私もやれるかもしれない」と力づけられていたのは、加藤先生の実践とそれを支えるお人柄によるものでしょう。

加藤先生の言葉には深いものが多かったです。個人的に印象に残ったのは、例えば次のようなものです。



理想や夢がなければ30年間やってゆけなかった。

私が言えるのは、私の環境で学んだことだけ。正しいように見える教育論も、環境次第であることに留意しよう。

教師は、結局生徒をどれだけ観察できるか、につきる。よそから得た教授法をそのまま使うだけではダメ。

3年間連続して教えることほどおもしろいことはない。3年間連続して教えて、ようやく教師は自らの指導を振り返ることができる。

一文単位の文法指導は限界がある。目標文他の文と対比させながら自然で説得力のある文脈の中で使うべき。

「あたりさわり無く書く」「あいまいな情報ばかりで(個別に語ることを避けて)書く」のは英語で書くとき最も魅力の無い文章です。英語上達を望む人は、魅力の無い文章を書いてはいけません。内容のおもしろくない話し方もいけません。

教師は「聞いて・読んでおもしろくないことは決して言わない・書かない」つもりで授業し教材をつくる。

中学生は英語の主語の概念をいつから理解しているのだろう?

中学生にSVOの構造を基本として身につけさせるのは大仕事。


これらについても私はきちんと説明するべきでしょう。また他にも多く学べたことはあります。ですがそれらをすべて文章化することは私の手に余りますので、ここでは次のことについてだけ少し書きます。


中学生の精神年齢にかなった内容の活動を行う


加藤先生は、英語も日本語も決しておざなりには使いません。ですから生徒が学ぶ英語もおざなりのものでなく、生徒の精神年齢にできるだけ適った英語表現を教えようとします。

そこで行ったことの一つが、中学生にそれぞれ自由に日本語の新聞記事を一つ選ばせ、それについて5つの英語文で説明をすることです。

「中学生がそんな高度な英語を書けるの?そもそも中学生が新聞なんて読むかしら?」という疑問は浮かぶかもしれませんが、加藤先生は次々に示す生徒の作品とエピソードで、中学生の潜在能力を侮ってはいけないことを私たちは学びました。(生徒の作品は会場にも展示され、私たちはそれを自由に閲覧することもできました)。

もちろんこの実践の背後には、生徒には英語説明文のモデルを示し「型」を身につけさせる、といった数々の工夫がありますが、その詳細はここでは紹介しきれません。ぜひ加藤先生のお話を皆さんご自身でお聞きください。

私としては、加藤先生が、中学生を子ども扱いせずに、新聞記事という活字メディアを読み、それについて外国語で説明できる若者に育てていることに大きく励まされました。すごい。中学生も中学生なりに、近代的な言語使用を英語で、たとえそれがわずかにせよ志向することができるわけです。私も地道に努力し、大学生・大学院生を鍛えなければと思わされました。(いや、自分を鍛えることの方が先か)。

以上、私の感想、というより私が考えたことを書き連ねました。改めてフォーラムを構成したすべての皆さんに感謝します。




追記
フォーラムの中で何度か出てきた話題が、日本人学習者の英語発話に対して日本語の「は」が及ぼす影響です。これについては私も少しだけまとめたことがありますので、ご興味のある方は、「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に」をお読みください。









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2010年10月18日月曜日

ヒクソン・グレイシー『ヒクソン・グレイシー 無敗の法則』ダイヤモンド社

自分がヘタレで運動音痴だからか、昔から格闘技にあこがれていた。小学生の頃は二冊だけもっていたマンガ『空手バカ一代』が宝物だった。中学生の頃は金曜夜8時から正座してアントニオ猪木を見ていた。高校時代はマンガ『1・2の三四郎』の主人公が川べりで泣いたり、高校時代最後の柔道の試合でこれまで打ち込んできたラグビーのタックルを繰り返したりするのを見て感動すらしていた。大学時代は『週刊プロレス』と『ゴング』を常に立ち読みしていた。大学院時代から空手道場に通い始め「そんなんじゃ練習になりませんよ」「試合に出ることが練習ですよ」と言われながら道場一のヘタレとして練習していた。練習中には「苦しそうな顔をしない!」「下を向かない!」とよく注意された。試合の敗者には何の言葉もかけないことを学んだ。敗けは本人が正面から受け入れなければいけないことだからだ。「よく頑張ったね」などと言う人は皆無だった。そんな言葉は道場では侮辱に近いのだろうということはわかった。そんな当たり前のことを言われるほど落ちぶれたくはないからだ。道場はその後止めたり再開したりしていたが、40歳過ぎて一年間に五回骨折するにいたってさすがに空手はやめた。でも今、知人に、ある柔術を教えてあげようかと誘われると一もニもなく練習を始めた(しかしその道場でも最も下手で弱い)。

こうして振り返ると、まったくのバカであるw。研究者の中でも私と同年代で黒帯をもって練習している方もいらっしゃるが、そういう方からすると、私のようなハンパな人間は噴飯物であろう。

だが、なぜか私は格闘技に憧れる。どうもこの魅力から逃れることができない。

この前、ふと思ったのだけれど、私が格闘技に惹かれるのは、自らの意志で困難な状況の中で身体を動かすことこそが生きることだからなのかもしれない。


スポーツとしての格闘技と武術としての格闘技は異なる。

スポーツにはルールがある。ルールの中で他人よりも優れたパフォーマンスを発揮し得点を稼ぐ。得点が稼げなくなると引退する。

武術にはルールがない。与えられた状況で何が最善手かを瞬時に判断し我が身を守る。歳を取ろうが怪我をしようが引退はありえない。生きている限り自分の身を守り続けなければならない。生きている限り動き続けようとする。その動きを他人の動きと比較することに意味はない。これは「私」の人生だからだ。私の人生だから、私の身体で守る。私の意志で身体を動かす。私は私の人生に責任をもつ。

武術的な側面から格闘技を考えるとき、格闘技は人生の本質の表現のようにすら思える。武術的風格を感じさせる格闘家は、人生の達人のように見える。何よりもいい顔をしている。驕らず、高ぶらず、卑下することなく、まっすぐにこちらを見つめる。落ち着き、動きに無駄がなく、隙もない。善き隣人・友人でありながら、敵にだけは回したくないと、どこかに静かな存在感を感じさせる。私はガキというか「男の子」なので―40代後半のおっさんがこんなこと言うなよw―格闘家・武術家に憧れる。


だからこのヒクソン・グレイシーの本を手に取りパラパラと眺めると、やはり買ってしまった。

鏡の中に見える私の顔は贅肉でたるみ、どこかニセモノの雰囲気をただよわせている。意志も弱く、運動もなかなか続けられない。筋力も持久力もなく、格闘技好きを公言することすら痛々しいほどである。

しかし格闘家に憧れる。この本に見られるヒクソン・グレイシーのような表情をした人間になりたいとも憧れる。


まあ、単純w。


でも、こういった憧れは、私の人生の宝だとも思っている。




私のことはさておき、ヒクソン・グレイシーは以下のような人である。



■謙虚である

優れた格闘家が皆そうであるように、ヒクソン・グレイシーは謙虚である。ただその謙虚さは、社交や功利から粧われたものではない。闘いから生じたものだ。

彼が謙虚なのは
闘う上では、自分のほうが有利だと考えたとたんに、足場を失う(42ページ)

からである。



■観察力に優れている

格闘技の練習や試合では、人の性格が露骨にあらわになる。格闘技の苦しさの中で嘘をつける人はいない。そういった格闘技経験を重ねた者は人間観察に長ける。


試合前に握手をして目を見るだけで、いろいろなことが分かる。負けても結果を認めて受け入れるのか、負けた言い訳を始めるのかということまで。(39ページ)




■合理的である

格闘家は空理空論を言わない。大言壮語をしない。わずかなミスや隙だけで地獄に落ちることを熟知しているからだ。格闘家は徹底的に合理的である。そしてそれは現実的であるということでもある。


勝つことを優先したことはない。何よりも大事なのは、生き残ることだ。どんなことをしても自分を守ること。最悪の状況に陥っても落ち着いていること。そのままで時間を稼ぎ、自分の安全を守りながら、チャンスが来るのを待つ。(116ページ)


合理的で現実的だから、「ありたい自分」「あるべき自分」「こうあってほしい状況」「こうあるべきだと思う状況」に振り回されたりしない。


すべてをありのままに認める。できることをやるしかない。できなければ、受け入れるしかない。そしてすでに自分がやったことについては、見返りを期待したり落ち込んだりはしない。(171ページ)

だから格闘家は強い。



■意志を明確に持つ

合理性・現実性は忍耐に基づいていなければ実効性をもたない。忍耐とは意志を持ち続けることである。格闘家は合理的で現実的な意志を忍耐強く持ち続ける。


何よりも重要なのは心の持ち方だ。さらに、現状を見きわめる力と強さがなければ、何かを変えることはできない。(74ページ)


だから格闘家は、合理的・現実的であろうとしない人間、意志を持たない人間に冷たい。弱いまま強くなろうとしない人間を軽蔑する(だから私は何度も軽蔑された。軽蔑されて悔しいから、いや自分自身情けないから、私も私なりにわずかだが強くなれた)。


現実が見えていない人間に、変わろうとしない弱い人間に、チャンスなどない。(144ページ)


格闘家が重んずるのは無謀な「根性主義」ではない。精神論だけで「根性、根性」と言い続ける者は、やがて未熟な技術で負けるか、自ら身体を壊す。格闘家が育む意志とは理性的な意志だ。


意志の力は、感情とは関係なく、論理的に考えることから生まれる(227ページ)




■穏やかで善良な人間である

私が出会った強い格闘家は、例外なく穏やかな人だ。虚勢をはる人はいない(虚勢をはるような者は道場でボコボコにやられ、淘汰されるからだ)。格闘家は落ち着いている。


暴力は不安な心から生まれる。臆病者の心から生まれる。本当に力のある強い男は暴力などに頼らず、必要のない攻撃はしない。抑制がきき、穏やかで、自信に満ちている.(117ページ)


ヒクソン・グレイシーも、強さの追求の中で、善良さの偉大さを自覚する。

本当の価値を生み出す事ができるのは善良な人間だけだと思う。(41ページ)



少なくとも若いうちは、チームでおこなう団体競技だけでなく、格闘技といった個人競技で自らを鍛えるべきだと私は思う。自分で自分に嘘がつけない状況、嘘をついてもどうしようもない状況、正直で合理的で現実的で忍耐強くあらねば生き残れない状況に自分を追い込むべきだと思う。自分を誤魔化すこと、他人から同情や憐憫を求めることが有害無益であることを知るべきだと思う。そうして徹底して強くあろうと努力してはじめて、人間は本当に自分と他人の弱さを認めることができるのではないかと私は思う。強さの追求の中で弱さを知った人こそ、自分にも他人にも優しくなれるのだと思う。自己憐憫でも自己欺瞞でもなく、他人への同情や承認の懇願でもない、自らのごまかしようのない弱さに直面してこそ、人は優しくなれると私は考える。

というわけで、若い人は、機会を見つけて道場で格闘技の訓練をしてみてね(一人よがりでサンドバックを叩いたりしてもダメよ)。1年間でいいから道場できちんと練習をすると一生の宝になると思うよ。おじさんもまた明日、運動をしよう。何度も挫折してきたし、これからも挫折するだろうけど、自らの意志で身体を動かすことだけは忘れないようにしよう。これはスタイルのためでも健康のためでも仕事を快適にこなすためでもない。。これこそが生きること、自分の人生に責任をもつことの表現なのだから。



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柳瀬和明(2005)『「日本語から考える英語表現」の技術』講談社ブルーバックス

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]



「英語を話すなんて簡単なことで、どんどん英語を読めばじきに話せるようになるよ」と英語を得意にする人は言う(Krashenという研究者もそう言った)。だが理系の人などで、文系よりもはるかに多くの英語論文を日常的に読みながらも英語を話すことを苦手とする人がいる。発音が下手とか心理的にあがりやすいといった要因ではなく、英語の発想で、より具体的に言えば英語の語順で言葉を紡ぎ出すことに慣れていないのだ。英語の文法が身体化されていないといってもいいだろう。文法は、それについて蘊蓄をたれる対象としては不必要とも非難される(そしてその非難にも一理ある)。だが、体得されその人を動かす心身の原理としては必要不可欠なものだ。

英語教師は「英語を心身で体得するには、英語を読み・聞くだけではなく、書き・話す必要がある」と言う(Swainという研究者もそう言った)。「だから、」と多くの人は結論する「英語を聞いて話す英会話の授業が必要なのだ。英会話の時間を増やすためネイティブスピーカーを雇おう。日本人英語教師にはできるだけ英語だけしか話させないようにしよう」。

だがちょっと待って欲しい。上述の英語教師が言ったのは「英語を読み・聞くだけではなく、書き・話す必要がある」であった。「読む」ことと「書く」ことを忘れないでほしい。

「ああ、また学者さんのギロンだね」と辟易する人も多いかもしれない。「論文や文書をきっちり読んだり書いたりする人は少ないんですよ。そんなことよりスピーディにカイワができなくっちゃ」というわけだ。

いや誤解しないでほしい。私たち英語教師が言いたいのは、簡単な「カイワ」なるものをするためにも読むことと書くことは重要なのだということだ。一過性で瞬間的な話し聞く体験に比べて、読み書くという経験は紙の上に書かれた英語をじっくり見て考え学びを深めるために有利だ。学びのメディアとしては、文字メディアは優れている。たとえ最後は音声メディアで英語を使わなくてはならないにせよ、学習過程において文字メディアを使わない手はない。

考えてもみてほしい。日本での英語学習者の大半はそれまでの10年前後の生涯で、日本語の発想・語順・文法で思考し語り合うことしかしてこなかった。10年も毎日やっていた日本語的な心身の原理が、教師が週に数回英語の授業をしたぐらいで、そう簡単に英語的な心身の原理に変るものか。「ネイティブの英会話クラスを増やし、日本人英語教師が日本語を話すことをできるだけ禁止すれば、学習者の英語力があがる」というのは短絡というものだろう(もっとも自ら英語ができるようになるまで英語を学んだことがないので、学習者に英語力をつけさせる授業ができない言語道断の英語教師もいるのだが、この問題については今は語らない)。

週に数時間の授業で10~40人の学習者に「英語のシャワー」を浴びさせれば英語ができるようになるというのは神話に過ぎない。大切なのは、学習者がそれまでに徹底的に心身の原理としてしまった日本語の発想・語順・文法を自覚しながら、英語の発想・語順・文法という新しい心身の原理の特徴あるいは「コツ」を、自覚的・分析的に教え、そのコツを体得させるべく英語を使う経験を増やしてゆくべきだろう。

本書カバーの情報によれば、オーストラリアで日本語教育に従事した後、東京都立高校での25年間の英語教員生活を経て、現在日本英語検定教会制作部顧問である著者は、日本語の発想・語順・文法の強い影響下にある学習者が、どのようにして英語の発想・語順・文法という新しい心身の原理を体得するかについて地に足の着いた分析をし、堅実な処方箋を提示する。

著者が分析する英語使用は次のようにまとめられる(第一章・第二章)。


A 日常生活レベル
(1) 特定の場面に特有の表現
(2)特定の場面にしばられない表現

B 仕事レベル(業務・学業)
(3)職場(学校)での一般的表現
(4)専門性の高い表現



俗見では(4)の専門性が高い英語が難しいように思われているが、(4)は(1)の特定場面での特有の表現と同じように、定型度が高く自由度が低い英語使用なので(32ページ)、ちまたで多く売られている定型表現集を覚えることでもなんとか対応できる。学習者が主に感じるのは「量的もどかしさ」―英語の語彙・表現の不足など―にすぎない(42ページ)。

難しいのは定型性が低く自由度が高い(2)の「特定の場面にしばられない表現」、および定型性・自由度が中程度の(3)「職場(学校)での一般的表現」だ(32ページ)。ここで学習者は「質的もどかしさ」を感じる。質的もどかしさを著者は次のようにまとめる。


質的もどかしさ (発想の転換が必要なもの)
語彙や表現の量によって解決されるというよりは、考え方や発想そのものを変えないとなかなか解決できないもの(42ページ)


この質的もどかしさを克服するには、以下の5つの壁に代表される、「日本語の発想・語順・文法の強い影響下にありながら英語の発想・語順・文法という新しい心身の原理を体得する」という困難を克服しなければならない。


第1の壁:英語は日本語に比べて語順に対して厳格だという壁

第2の壁:「自分の言いたいこと」には複雑な要素が含まれているという壁

第3の壁:日本語では無意識のうちに主語や目的語の省略が起きているという壁

第4の壁:一字一句を機械的に英語に置き換えると支離滅裂になるという壁

第5の壁:日本語の慣用表現や比喩、日本文化独特のものは言い換えが必要という壁
(73-75ページ)


第1、第3、第5の壁は自明だと思うので解説は省略するが、第2の壁は、「日本語では自分が言語的・非言語的スキルを駆使して微妙に表現していることも外国語である英語ではなかなか表現できないのですべてを表現しようとすることは諦めることが必要だ」ということだ。だがこれは諦念だけではない。自分の表現しようとすることの中で、何が根幹(相手にどうしても伝える必要がある情報)で何が枝葉(ニュアンスに過ぎない情報)かを分析し、前者だけはとにかく確実に伝えるということだ。私の日頃の観察では、この自己分析が日本語ですらできない学生さんは多い。

第4の壁は次のような日本語を直訳的に英語にした時に引き起こす違和感に代表されるだろう。


(領収書の提出をめぐって)
上司:領収書は?どうした?
部下:それが・・・、なくなってしまいまして・・・。
⇒"Well, the receipt disappeared.
(63-64ページ)


しかし何度も繰り返すが、日本語の発想・語順・文法は血肉化しているのでそれを払拭することは容易ではない。そこで著者は、学習の過程における補助手段として、二種類の日本語を自分で使い分けることを提案する。


J1:母語として普段使っている日本語(無意識に使っている日本語)
J2:英語にしやすい日本語(英語で自己表現することを意識して使う日本語)
(80ページ)


もちろんこういった区別は、本書の専売特許ではない。だが本書はこの区別に基づいた、英語の発想・語順・文法の獲得への道筋を親切に示してくれている。日頃英語を読んでいるのに、どうも英語を話すのは苦手な人はこの本にずいぶん助けられるかもしれない。


これだけ英語が重要になると、日本語話者も外国語とはいえ英語を相当程度使いこなさなければならない。使いこなしている時には、日本語はほとんど意識されず「英語で考えている」ようにも感じられるだろう。

しかしその目標段階に到達する過程では、分析的で合理的な練習を経るべきだろう。それは自転車の補助輪のように最終的には外されるものだが、練習過程では大切なものだ。勘のいい人や才能のある人は、補助輪をバカにする。自分が補助輪なしで自転車に乗れるようになったからだ。だが世の中、語学の才能に長けた者だけではない。到達段階と練習段階の区別すらつけられない人、語学が得意だった自分の体験を押し付ける人の話は、批判的に聞き、合理的な英語学習の道筋を明らかにしよう。


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追記
著者の柳瀬和明先生は、2010年10月23日の「山口県英語教育フォーラム」でお話されます。お近くの方はぜひお越しください。

http://d.hatena.ne.jp/tmrowing/20101023









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【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2010年10月14日木曜日

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912-1951』講談社現代新書

■観光バスの学びと森の中で迷う学び

効率的な現代の学校教育は、たとえてみるなら学習者を観光バスで次々に山頂に連れて行くようなものである。観光バスは快適な舗装道を走る。道中、ガイドは左右に見える風景を解説する。やがてバスは頂上近くに到達し、客は100メートル程度歩き、山頂からの眺めを堪能する。そうしてバスは次の山頂を目指す。かくして客はこのうえないほど効率的に山腹と山頂からの数々の眺めを「学ぶ」。

もし目的が眺めを知ることだけならばこの学びは素晴らしいものだ。だがもし目的が、自ら山に登ることができることだとしたらどうだろう。山を登り切る脚力はもちろんのこと、けもの道らしき痕跡を辿りながら、迷い遭難することを怖れ、自らのすべての感覚と知識を総動員し山頂を目指すこと―これらのおよそ「効率が悪い」試行錯誤こそが独力で山に登ることができるようになるためには必要なことだろう。現在の学校教育は学習者に自力で登山できること―誰も知らない未来を切り拓くことをうまく教えているのだろうか。

無論現実には、観光バス的な効率的な教育も必要だろう。とにかくある程度の基礎は一定の時間内に教えなければならない。しかし観光バスに乗せてばかりでは、自ら道を見い出す術と力は身につかないだろう。学校教育のどこかでは学習者を森に一人追いやらねばならない。


■哲学に結果はなく、過程があるのみ?

哲学を学ぶことにおいては、ことさらに観光バス的学びに依存することに警戒しなければならない。かつて私は優秀な若手研究者(英語教育)に勧められて、ある「新進気鋭」の学者の著作を読んだ。「哲学的基礎に基づき大胆な構想をもった心理学系の研究」という触れ込みだったが、100ページほど読んで私は読むのを止めてしまった。おそらくは私の偏見なのだろうが、その本の「哲学的基礎」とは、哲学のガイドブックの切り貼りのようなものにすぎなかった。「○○という哲学者は、まあこんなことを言っていますよね」のような要領のよい無難なまとめが継ぎ足されてばかりいる。この著者がこれらの哲学的問題に苦しみ自ら考え、その葛藤をどうにか表現しようとしているという「自ら哲学している姿勢」がまったく伝わってこなかった。少なくとも私にはそう思われた。私は哲学あるいは研究に過度にロマンチックな態度を求めているのかもしれない―おそらくこれがシロウトの陥穽なのだろう―だが私は正直このような要領のよい本に嫌悪感すら感じる。これはそのような本の中に自分のような擬似哲学的態度を見出しているからなのかもしれない。だがいずれにせよ、哲学を学ぶことは観光バスから次々に風景写真を撮ることではない。

哲学において効率的な学習はありえない。哲学はある人にとってやらざるを得ないもの、その問題について考えなければ一歩も進めないものだ。哲学においては「目的地」に到達することより、森の中で「これが自ら進むべきけもの道か」と迷いながら、一歩一歩を切り拓いていくことの方が大切である。哲学に結果はなく、過程しかないと言ってもいいのかもしれない。哲学の「解説」には注意しなければならない。


■哲学の優れた解説書

だが上記の若手心理学系の「哲学」解説などではなく―あるいはこのブログの哲学解説ではなく―、きちんと哲学をしている人の優れた解説書というのは、観光バス的ではない。ふもとから頂上までの全行程を歩かせることはしないが、車で要所まで読者を連れてゆくと、「ここはこのような場所であり、おそらくここを切り抜けるには植生の具合と鳥の声に注意して方向を定めなければならない。また足元の朽木には気をつけるように。それでは次の集合場所で会いましょう」と読者に自ら森に入ることを促す。解説書の範囲ではあるが、読者は自ら哲学することを学ぶことができる。

しかし、このように優れた解説書がある場合でも、哲学の場合、読者はまず原典(といっても私のように学力がない者は翻訳書)を読むべきだろう。そこで二読、三読し、「わからないのだがどこか一筋の光が見えているように思えてならない」という不全感に苦しむべきだろう。そうしてさらに読み直し、だんだんと自分なりにけもの道を見つたのかと思いながらも、ヘトヘトになって自分の知的体力が尽きたと思ったときに優れた解説書を読むべきなのだろう。さもないと観光バス的学習に慣れた昨今の大学生は、解説書の上澄みだけを要領よく掬うような真似をしかねない。擬似哲学は、疑似科学や擬似芸術と同様、私たちが避けなければならないものである。



■ウィトゲンシュタイン哲学の優れた解説書

前置きが長くなったが、本書(鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた 哲学的思考の全軌跡1912-1951』講談社現代新書)はウィトゲンシュタイン哲学の優れた解説書である―と断定的、権威的に書いたが、私は何度も言うように自分の哲学的能力にはきわめて懐疑的である。だからここから「だ・である調」から「です・ます調」に変わります(まあ、単純w)。平成軽薄体とまではいかずとも、多少文体を楽にして、自らの思い込みや虚勢から多少なりとも自由になることを目指します(そんなに単純なものかなぁww)。

本書は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』『哲学探究』(英語の新訳はPhilosophical Investigations)を自分なりに読んだ人が読むと哲学への非常によい導きとなる本かと思います。

私自身は大学院生の時に他研究科の講義でウィトゲンシュタインについて学んだものの、半年ぐらいはわかったようなわからないようなグズグズした状態でした。ところがある日歩いていたら、突然「あ、わかった」と思い(込み)、全集を買い、自分なりに読み込み始めました。結果的に何度も読んだのは『哲学探究』(の特に1-242節)、『青色本・茶色本』『確実性について』でして、『論理哲学論考』は読んでも皆目見当がつきませんでした(『論理哲学論考』をまがりなりにも読めると思ったのは数年後イギリスでスピノザに関する講義を数回受けた後でした)。このような私ですが、もう少し前にこのような本を読んでいればもっと啓発されたと思います(もちろん私はウィトゲンシュタインに関する解説書は何冊も読みました。今回はこの本を紹介していますが、別にこの本だけが優れた解説書などと言いたいわけではありません)。

以下は、私なりにこの本から印象的だった箇所を抜き出したものです。上述のガイドの「植生の具合と鳥の声に注意して方向を定め、足元の朽木には気をつけよ」という言葉を「まあ、上下左右に気をつけて行けってことよ」と翻訳するような乱暴で愚かな行為ですが、本書およびウィトゲンシュタイン哲学へのきっかけの一つになればと思い、書きます。



■「論理」とは、語ることを可能にする根底的条件

「論理とは何か」と正面きって問われると困惑します。一つの答え方は「論理とは、それ自身は語られないにもかかわらず『語ること』を可能とするような根底的条件」であり、(カント的な意味で)「超越論的」なもの(72ページ)とするものです。


■論理は「語り得ない」のか?

しかし論理は「語り得ない」ことなのでしょうか。確かにウィトゲンシュタインは、次のようにも言っています。


言語の中に反映されていることを、言語は描出できない。
言語において自らを表現することを、我々は言語によって表現できない。
『論理哲学論考』4.121 (本書75-76ページより引用)


このように魅惑的な断言がなされると、私のように哲学よりも擬似哲学をやりがちな人間などは「論理は語り得ない」と虎の威を借る狐のように教条的に周りに吹聴するのですが、鬼界先生は、端的に「論理学をはじめとする様々な場で我々は現実に論理について語っている(ように思われる)」(78ページ)と指摘します。さあ、どう考えるべきか。

鬼界先生は、ウィトゲンシュタインはここで「安易な神秘主義」(81ページ)に陥っているのではないかと論じます。ウィトゲンシュタインは非常に内的な人でしたから、神秘的なるものへの畏敬の念を忘れず、どこかに神秘的なものの領域を確保しようとしていました。しかし彼は同時に非常に明晰な思考をする人でしたから論理的な思考から離れることができません。『論理哲学的論考』で彼が見い出した道は「論理的神秘主義」(83ページ)―論理を尽くして、その後に論理的に説明できずに残るものを神秘的なものとすること―でした。しかしウィトゲンシュタインは「論理は語り得ない」とすることにより、彼の目指した論理的神秘主義から逸脱し安易な神秘主義に陥ってしまったというのが鬼界先生の見立てです。論理は「語るべきでない」ことであっても、「語り得ない」ことではないからです。

「語るべきではない」あるいは「適切には語り得ない」ことと、「いかようにも語り得ない」ことが異なることはマイケル・ポラニーも言っているということは、私も技能と言語の関係についてまとめた時に引用しました。(「インタビュー研究における技能と言語の関係について」


私には私が語り得ない知識があると主張することは、私がそれに関してしゃべることができることを否定するのではなく、私がこの知識について適切にしゃべることができるということを否定するものである。 (Polanyi 1962, p.84)


鬼界先生も、論理について語ることは、「語るべきではない」ことであっても、「語り得ない」ことではないと考えます。私たちが普通に言語を使う時、論理はその言語使用の「根底条件」として語られないまま―「語り得ないまま」ではありません―に言語使用を支えています。しかし言語使用に疑義がもたれた時など、私たちはその言語使用の根底条件である論理を、ことさらに言葉にして語ります(これを職業にしているのが論理学者でしょう)。論理は語り得るのです。しかし、そうして言語化された論理は、使用の実態から抜き出されたものに過ぎません。言語の中で語られないままに働いている論理とは様子を異にしています。

鬼界先生は言います。


論理を用いることが論理を生かすことであるのに対し、論理について語ることは論理を殺すことなのである。より一般的に言えば、ある行為について語ることは、その行為を「標本化」し、殺すことである。言語にとってもっとも重要なのが生きて使われることであるとすれば、そうした二次的な言語使用は言語から生命を奪う過程であり、なされるべきことではないといえるだろう。論理や論理形式は示されればよいのであり、あえて語るべきではないのである。(83-84ページ)


ウィトゲンシュタインは、論理的神秘主義を志向するも、神秘的なるものへの畏敬が強すぎて、安直に「論理は語り得ない」と断定してしまったのではないかというのが鬼界先生の見解です。


■命題は一種の絵画に過ぎないのか

私にとって印象的だったのは、いわゆる「命題画像説」―絵画が事態に登場する人や者を色と形で表現するのに対し、命題はそれを名で表現するのであり、命題とは名を使って描かれた絵だ、という考え(91ページ)―に対する鬼界先生の見解です。通説では『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインはこの命題画像説を唱えたとされていますが、このようにあまりにも単純で通俗的ともいえる見解をわざわざウィトゲンシュタインが何年も費やして書き上げた『論理哲学論考』で言いたかったのだろうかと鬼界先生は素朴な疑問を投げかけます。

鬼界先生は、ウィトゲンシュタインが論じていたことは実は、命題と絵画は異なるということだったと主張します。命題とは「論理的足場」であり否定・連言・選言・条件といった「論理定項」により拡張する無限大の「論理空間」に位置する一方、絵画にはそのような論理の働きがないからです。

命題(例えば「秀吉は大阪城を築いた」)は、一見単独である事態を描いているだけのようにも思えます。しかしこの命題に「論理定項」を適用すれば様々な事態が派生しえます。例えば否定だったら「秀吉は大阪城を築かなかった」、条件だったら「秀吉が大阪城を築いたならば・・・」です。これらの事態でさえ絵画では描き難いものですが、ある論理的足場である命題は、論理定項の適用により、あるいは別の論理的足場との連結により無限に表現可能な事態を生成しえます。その可能な事態の全体が「論理空間」だと鬼界先生は述べます。


この巨大な全体こそ「論理空間」に他ならない。それは全ての可能な思考からなる宇宙であり、全ての思考と存在の可能性を尽くすものである。この論理空間という観点から考えるなら、一つ一つの命題はもはや独立した存在でも、一個の像でもなく、巨大な思考空間を支える格子の一つの格子点にすぎない。それぞれの格子点は可能な思考の宇宙の中の一つの場所を意味し、一つの可能な思考を表す。これが「論理的場所」である。それゆえ命題によってある事態を描写するとは、一つの像を描くというよりは、むしろ思考の宇宙の中の一つの論理的場所を指定することなのである。これこそが『論考』の最終的な命題理解であり、その言語観の核心をなすものである。(98ページ)


絵画と命題(言語表現)の違い、そしてウィトゲンシュタインが目指していた論理的神秘主義について鬼界先生は次のようにまとめます。


絵画は意味を持つが、我々はそれを思考できない。絵画は論理を有しないが故に論理空間とは無縁であり、まさにそのために言語と思考によって尽くせない意味を有するのである。純粋な絵画は無限の意味を内包する。他方、語られた言葉はどのように短いものであれ、思考の全宇宙とともに与えられる。語られた言葉について考えるとは、思考の宇宙の中の一つの論理的場所について考えることであり、その場所から無数の思考の場所へと伸びる経路について考えることである。言葉で何かを語るとは、無限に広がる思考の経路への入り口を示すことなのである。
語るとはこのようなことである。それが言葉を持つということであり、人間であるということなのである。言葉を持つ存在としての人間は、すでに無限の思考宇宙の中に存在しているのである。それは語りうるもの、思考しうるもの、存在しうるもの、の全領域であり、限界である。もし「神」という名がこうした存在と思考の領域を越えることの象徴であるなら、人間は言葉をもつ存在であることにおいて、すなわち人間であることにおいて、すでに「神」と内側から接しているのである。これが人間が「神」と接しうる唯一の道である。(101-102ページ)



■言語と生、あるいは私

論理がその生きる場である言語使用から取り出されて語られることをウィトゲンシュタインが嫌った(否定した)ことからもわかるように、ウィトゲンシュタインの言語観は、私たちが生きていることと深く結びついたものです。


我々が言語について哲学的に考察しようとするとき、我々が求めているのは言語という一対象について考えることではなく、人間の存在を包括するようなものとしての言語の本質をとらえることである。(124ページ)


いやウィトゲンシュタインの場合、「私たちの生」というより「私の生」と言語の結びつきを強調したといえるでしょう。端的なのは「これ」という表現です。「これ」という表現は、話者の裁量によって大部分が定められる表現であり、<私は「これ」によって・・・を意味した>というような「私」の意図が込められた「私の表現」なのです。言語使用には「私」という言語主体の存在が欠かせないというのが、ウィトゲンシュタインが強調したことといえるでしょう。(166-167ページ)


■論理から文法へ

言語における、生きた人間―あるいは端的に「私」―の存在を重んずるウィトゲンシュタインは、次第に超越論的で無人格的・脱人間的な「論理」から、人間的な「文法」という用語を言語使用の根底条件として使い始めるようになります。例えば同じ視野の中に二つの異なる色が存在するのを私たちは不可能としますが、これは論理的な不可能性というより、文法的な不可能性―言語学的に厳密な意味での「文法」ではなく、言葉の働きといった一般的な意味での「文法」での不可能性―と言うべきではないだろうかというわけです。(212ページ)


■内容主義的意味概念から機能主義的意味概念へ

さらにウィトゲンシュタインは『哲学探究』に至って、機能主義的意味概念へと転換してゆきます。『論理哲学論考』の意味観が、述べている内容を中心にしたものであったのに対し、『哲学探究』では文が我々の全生活の中で演じている役割を中心とする機能主義的意味概念になります。(246-247ページ)言語使用という私たちの生活様式・生の型を表現する用語が「言語ゲーム」ですが、この「ゲーム」(Spiel)は日本語でいうなら「遊び」や「劇」といった側面も兼ね備えた言葉です。(249ページ)。私たちが言葉を身につけるということは、論理空間に生きることを意味する以上に(あるいは以前に)様々な言語ゲームにより人間として生きることを学び実践することなのです。


クモが自らの糸で巣を織りなしてゆくように、我々人間は言葉を紡ぎながら人生という織物を織りなしてゆく。それは無秩序な織物ではなく、いくつもの型が交わりながら浮かび上がる複雑な模様を持った織物である。その中で繰り返し繰り返し生じる生の型、つまり人生の様々な典型的な場面・典型的な言語使用局面が「言語ゲーム/劇」と呼ばれるのである。人間が言葉を習得し、使用するとは、こうした型を一つずつマスターし、自らの言葉によってそうした型を編み続けてゆくことである。(255ページ)



■私たちの確実性とは何か

客観的で数学的ともいえる論理は、人間にそれ以外の(論理的な)思考を許さない根底条件ですが、私たちが人間として積み重ねてきた生活様式・生の型、あるいはそれを表す言葉の「文法」(言語学的な意味でなく、一般的な意味での「文法」)も私たちの根底条件です。「文法」を越える言語使用を私たちは認めることができません。認めるならば、私たちの大地(根底条件)が揺らぎ、もはや何がまともで何がまともでないかの判断もできなくなるからです。

哲学者のムーアはかつて「私には手が二本ある」という命題を疑えるかという問いを出しましたが、ウィトゲンシュタインはこう言います。


重要なのは、ムーアがここに手があることを知っているということではなく、もし彼が「もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」と言うなら彼のことが理解できないだろうということなのである。そうしたことで間違うとは一体どういうことなのか、と我々は問うだろう。たとえばそれが間違いだと判明するとは一体どんなことなのか。(『確実性』32節)


言語学の統語論(言語学的な「文法」)は「私には手が二本あるが、もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」という言語の生成を許します。しかし私たちが日常生活で「私には手が二本あるが、もちろん私はこれについて間違っているかもしれない」と真顔で発言する人を目の前にしたら、私たちはもはや何をどう考えていいのか、どうその人と暮らしてゆけばいいのかわからなくなります。そういった一般的な言語使用、ひいては生き方の点での「文法」はこのような言語使用を認めようとしません。


■「私は知っている」ということ

しかし逆に、私たちが私たちの生活の中で有意味に(ウィトゲンシュタイン的に「文法的に」)「私は・・・を知っている」と言う時、私たちは私たちが認める人間の生活の根底条件を示していると言えましょう。いや、ここでは「私は」という言葉が使われているのですから、この文は「私」が私の生き方を通じて、私なりに捉える人間的な論理空間を示していると言うべきでしょう。「私」という人間は、「私たち」という類的存在が築き上げた様々な言語ゲームの網の目の中に生きています。その中で「私は知っている」あるいは「これ」という表現に端的に示される言語使用で、「私」は自らの存在を賭けて何が人間の人生であるかを示そうとします。


我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つものと成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。付随するあらゆる帰結とともに自らの言葉と行為を慈しみ、それらの親となる用意があるということである。(415-416ページ)


本書の終結部分での鬼界先生の言葉です。


こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見出したのである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームに形を与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在らしめるからに他ならない。(417ページ)


私は英語教育・言語教育を考える際に、言語哲学を言語学以上に重要なものとみなしていますが、それはこのようなウィトゲンシュタイン哲学に接しているからです。どうぞ本書を、そしてウィトゲンシュタインの著作をご自身でお読みください。




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2010年10月10日日曜日

11/13(土)14(日)東広島めぐみ教会「子どもを危機から救うために」

来る11/13(土)と14(日)に、私が教会員として所属する東広島めぐみ教会は、「秋の聖書講演会」として愛隣チャペルキリスト教会(札幌市)内越言平先生を招いて、講演会を開きますのでここでも紹介します。(チラシをクリックすると画像が拡大します)










キリスト教会の礼拝はどなたにも開放されていますが、一般の方々には敷居が高く感じられるものです。このような特別集会は、そんなキリスト教には関心をもっているものの、今ひとつ教会に入ってみることができない方に対していい機会になるかと思います。6年前の私はうつ病で苦しみ、医者に窮状を訴えても薬を増やされるだけでした。私は宗教的な関心は強かったのですが、宗教組織とは一切関わりをもつまいと心に決めていましたが、うつ病の苦しみは辛いもので、キリスト教会を探しました。そして行ったのがこのような特別集会でした。

教会などの宗教組織に対してもたれている一般的な不安は、「しつこく勧誘されたらどうしよう」、「お金の寄付を求められたらどうしよう」などといったものでしょうか。しかし健全な宗教組織は、しつこい勧誘や巧みな強制などは一切しません。また非常識な献金を求めることもありません。(少なくとも東広島めぐみ教会はそうです)。

もちろん私たちとしては、できればキリスト教への理解を深めてもらいたいので何回かはお誘いします。また今回の特別集会は無料ですが、通常の礼拝では献金箱を回します。

ですが教会は各人の自由意志に基づく組織ですから、しつこい勧誘などは一切しません。献金箱を回す際も「献金の意義を感じられない方はどうぞそのままお隣に回してください」と述べ、献金はまったくの自由意志であることを確認しています。また誰がいくら献金したかというのも不問です。

開かれた宗教組織は、このようにまったくの自由意志で成立しています。ですから、いくつかの(宗教以外の)組織の理事、評議員、運営委員を本職に加えて兼務している私は、何の収益事業も行わず何の公的資金援助もないままに宗教組織が長年運営されていることは、この世知辛い世の中で稀有なこと―有り難いこと―だとよく思います。

今回の内越先生はとてもユーモアあふれる方だとお聞きしております。また、テーマも子どもを育てることという、親だけでなく社会全体が考えなければならないものです。

どうぞ東広島めぐみ教会へお越しください。

もし場所がわかりにくいなどのお問い合わせ事項がありましたら、私(yosuke.yanase@gmail.com)か東広島めぐみ教会牧師の加藤勇介までお気軽にお尋ねください。





疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。



マタイによる福音書 / 11章 28節




日本同盟基督教団 東広島めぐみ教会
 【住所】〒739-0041東広島市西条町寺家2583
 【電話】082-422-6552
 【FAX】082-422-6579
 牧師: 加藤勇介  Email:kato@megch.com
 http://www.megch.com/index-j.html














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2010年10月8日金曜日

自主性を開拓するために ―書評かプロジェクトに挑戦してみてください―

■四段階の成績判定

広島大学では数年前から、成績評価をA, B, C(優・良・可)の三段階からA(優)の上にS(秀)を加えた四段階に変更しました。A, B, Cは、それぞれ80, 70, 60点以上と規定されていましたので、私は単純にペーパーテスト・課題・平常点などの合計が90点以上だとSを出していました。

しかしだんだんと、私が指定した課題をこなすだけでSを出してはいけないと思うようになりました。受身の姿勢の勉強だけでは社会に出てからの実力につながりにくいと考えるようになったからです。


■社会で通用する力とは

「考える・調べる・尋ねる」でも書きましたように、社会に出るとすべて指示されないと動けないようでは使いものになりません。自ら考えて調べ、どうしてもわからないところだけ尋ねるのが社会人のスタートです。加えて、仕事を覚えるうちに、最初は小さなことに過ぎませんが、少しでも自ら創意工夫して仕事のやり方を改善してゆかねばなりません。現場の知恵こそが組織の地道な向上につながるからです。そしてだんだんと自ら課題を見出し、仕事内容の革新にも貢献できるようにならなければなりません。積極性を重んじ、「自分の頭と手で考える」ことができなければなりません。

もう少しだけ話を大きくしますと、組織でも社会全体でも、一人ひとりが自らの頭で考え、自らの言葉で語り、自らの責任で行動し、さらにそれぞれがお互いの違いを尊重しながら協調し連帯すれば、その組織や社会は、困難な状況にも柔軟に対応でき発展するものになります。ですから大学教員の一人としては、学生のみなさんに是非ともそういった意味での「主体性」を涵養してほしいと願っています。


■受身の勉強をきちんとした上で自主的な学びをする人にSを出します。

ですから私は、Sの成績を、受身の勉強でなく主体的な学びも行った学生さんにだけ出すことにします。ペーパーテスト・課題・平常点だけではA, B, Cしか出しません。それらに加えてこちらが大まかに指定する任意課題を出し、それが大学生にふさわしい自主的な学びになっていると判定した時にのみSを出します。

Sを出すといっても、それはペーパーテスト・課題・平常点での成績がもともとAであった人だけです。ペーパーテスト・課題・平常点がBやCだった人は、任意課題を提出しかつそれが妥当なものだとみなされたら、成績をそれぞれA、Bに上げます。もともとペーパーテスト・課題・平常点でD(不合格)だった人は任意課題を出してもCにすることはしません。受身の勉強すら満足にできない人の自主性など私は認めたくありませんので。


■具体的には「書評」か「プロジェクト」

任意課題は今のところ書評かプロジェクトの形にしようかと思います。下にその説明を書きます。「自主性を重んずる課題なのに教員が指定をするのは矛盾ではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、課題を完全に自由にしてみても、課題の選定や遂行にとまどうばかりで、課題への着手が遅れたり失われたりするかとも考えますので、とりあえず以下に原則を示しておきます。


■書評:ある本の価値を、他人に的確に伝える

私がここでいう「書評」とは、良質な本の価値を他人に的確に伝えるための文章を指します。つまり以下の要件を充たすものです。


(1)良質の本を選んでいる

内容の薄い本ではなく、きちんと考えぬかれた内容をもつ良書を選んでください。最初はそういった本を選ぶのは難しいかもしれませんので、多くの場合はこちらが本のリストを提示します。学生の皆さんはそのリストの中から選んでください。もちろんリストにない本を自分で選んでも結構です。ただ学生さんの選択眼はまだ未発達の場合が多いので、その場合は予め相談してください。

また、形式的な原則に過ぎませんが、読みやすさや売れることを優先させた新書などのフォーマットは認めないことにします。どうしても新書で選びたい場合は、関連テーマの新書を最低三冊以上まとめて書評するようにしてください。

別段、ハードカバーの本ならすべて素晴らしいなどと言うつもりもありませんが、学生の皆さんは学生時代にハードカバーに代表されるような、きちんとした本を読む文化を身につけてください。

きちんとした本は、しばしば(a)既に古典としての定評を得ている、(b)近年に出版されたものでも多くの信頼できる筋が高い評価を出している、といった外的特徴で選んでください(あるいは(c)学術出版社として信頼できる会社から発刊されているという特徴も加えていいかもしれません)。このように外的な特徴で選ぶのは「権威主義」との謗りを免れないかもしれませんが、鑑識眼が育つには時間がかかります。しばらくは信頼できる人々の評判を出発点にしてください。そうして読書経験を重ねてゆくうちに自らの選択眼も育つことでしょう。

ですが、そのような本を実際に読んでみると、多くの場合「難しい」となりがちです。少なからぬの学生さんがそこで読書を諦めますが、ぜひそこで粘ってみてください。

書籍というのは、そもそも難しいのが当たり前です。今でこそ出版業界が過剰に市場化し、書籍が文化遺産(=どうしても残して他人に伝えたいもの)というより商品(=とりあえず売れればいいもの)とみなされてきているので、書店には「読みやすい本」や「わかりやすい本」ばかりが並ぶようになってきています。もちろん同じ内容なら読みやすくわかりやすい方がいいに決まっていますが、現在の「読みやすい本」や「わかりやすい本」は、内容そのものを低下させることで読みやすさやわかりやすさを得ています。内容の低下は、乱暴なぐらいに単純な主張、通俗的に言われていることを文字にしただけの低俗さにつながります。そのような本は読んでも、自己欺瞞や自己満足には役立っても、自分を知的に高め、自らを変容させることにはつながりません。現在の学生さんはさまざまな要因から本を読まなくなりましたし、読む本も「読みやすい本」や「わかりやすい本」ばかりになっています。ですからどうぞ学生時代のうちに読み応えのあるきちんとした本を読んでください。

ちなみに私にとっての良書(というより「古典」)の定義は簡単で、「五回以上読みたくなり、また実際に五回以上読み、読むたびごとに新しい発見があり、今後も折にふれて読み直したいと願う本」です。

そういった本はたいてい初読の際、直観的に面白さ・深さは感じられてもなかなかその全容がつかめません。線を引きながら、二読、三読して、ノートかパソコンに文章を書き写し、さらにはそれについて自分でまとめを書いて他人にその価値を説明する中でようやく内容を自分なりに消化することができます。そうしてふと気づいてみると、その読書経験によって自分が変わっています。以前は見えなかったことが明瞭に見え、通俗的に喧伝されているだけのことと本質的に重要であることの区別もつくようになります。その区別が間違ってはいないことは、自分の言動がより的確なものとして仕事の上でも他人からも評価されることでわかります。

長くなりましたのでまとめますと、(ア)書評用の本は基本的に私が提示するリストの中から選んでください、(イ)自分で選ぶ場合は定評の高い本を選び念のために事前に相談してください、となります。なお私がリストに選定した本は、順次教英図書室に揃えるようにします。最終的に良書は買って一生の宝にしてほしいのですが、まずは図書室から借りてよく吟味してみてください。


(2)自分なりに価値を見出している

私がいう「書評」の二つめのポイントは、皆さんが自分なりにその本の価値を見出すということです。「自分なりに価値を見出す」ということは、世間で定説化されているような要約を、各種切り貼りしながら小器用に作成することではないということです。参考書のまとめを、薄めて書き直すような真似はしないでください。本を読んで、あくまでも自分の頭で考え、可能ならば自分の言葉で語り直すことで、自分なりの手応えを感じながら文章を書いてください。理解を実感していないのにわかったふりをするのは、傍で見ていて非常に痛々しいです。またそのような表面的な理解(の吹聴)は自ら現実を切り拓く力にはなりませんから、妙に要領よく要約してそれを書評としないでください。

ただ難しいのは、そうやって自分なりの文章を書くことを焦ると、やたらと「個性」を出そうとして、一知半解のまま、本の表現を表面的にとらえて引用し、自説(たいていの場合は俗説か極端に偏った見解)を延々と述べることになりかねません。

良書・古典を読む場合には、まずは徹底的に謙虚になる必要があります。私の場合は、良書・古典に巡り合えたと思ったら、まずは線を引き、次に線を引いたところだけを読み直しながら、自分なりにその本の内容について考え、ふたたび最初から読み直します。さらには印象的な箇所を書き写します。書き写すという方法は私にとって非常に大切なもので、書き写していると、ただ読んでいる時よりもはるかに時間をかけて、また深く文章に接することができますから、それまで気づかなかったことに多く気づくことができます。皆さんも、いきなりに書評を書く前に、まずは書き写す「ノート」を作ることをお勧めします。そうやってまずは謙虚に忍耐強く良書に学んでから、自分なりの視点を見出してください。

そうやって見つけたあなたの視点はもちろん、その本のすべてを包括するものではありません。ある一部分のある一つの見解に過ぎません。ですが私のこの課題ではその限定的な視点だけでかまいません(もちろんその他の視点についても言及してくれれば嬉しいですが)。そもそも、良書や古典は豊富な内容をもつものです。その豊富な内容を原典の何十分の一・何百分の一の分量の「書評」で的確に伝えられるわけがありません。ですからこの課題では書評する本の内容をまんべんなく全般的に伝えることはしなくておも結構です。もちろん全体を概括した上で、自分が集中するテーマを述べることは望ましいことです。そうやって全体像あるいは他の視点を意識して自らの視点の相対性を自覚しておくことは重要なことですから、まんべんなくまとめなくてもよいとは言っても、それは決して自分の問題のことだけを考えていればいいということではありません。まずは謙虚に学び、それからその一部分を取り上げ、とりあえず今回はそれについて集中的に考察して自分なりにその本の価値を見出してください。


(3)他人への贈り物としての文章を書く

強調したい三点目は、自己満足だけの文章を書かずに、他人を益する文章を書いてくださいということです。自己満足だけの書評レポートを誇張して再現すれば次のようなものになります。


最初、僕がこの本を手にしたときには厚さにびっくりした。400ページ以上もある。自慢じゃないが僕は今まで長い本を読んだことがない。友達から借りた『ハリー・ポッター』でさえ最初の数十ページで挫折したぐらいだ(あ、でも映画は見ました。先生は見ましたか。面白いですよ)。それにこの本のタイトルは『○○の△△』だ。「○○」はなんとかわかるにしても、「△△」って何だ?しかもそれが重なって「○○の△△」ときた。友達に聞いてもわからないというし、勇気を出して○○や△△についてのミクシィのいろんなコミュニティで質問をしても何の返事もない(世間は厳しいということを僕はこの時に悟った)。「こんなことでレポートが書けるのか?」。僕は焦った。この単位は必要だからだ。でも締切はどんどん近づいてくる。今日、本をようやく全部読み終えたが、締切は明日じゃないか。だから僕は今からがんばってこのレポートを書く。だから先生もがんばってこのレポートを読んでください(^^)v。


まあさすがに実際にはこれほどひどい文章にはお目にかかりませんが(笑)、これの遠縁にあたるような文章を大学教員は時折目にしていることは、『これからレポート・卒論を書く若者のために』で、ある旧帝国大学の教員も書いている通りです。自分のことばかり書く幼児的な文章は、提出してきても課題としては認めませんので注意してください。

課題としての書評は、私(柳瀬)に向けてでなくこの本・分野に関心をもちそうな一般読者に向けて書いてください。この本を読んだことがない人に、この本の良さを伝え、それを納得した上でこの本を手に取ってもらえるように(そして読んだら「なんだ、あの書評はてんで的外れじゃないか」と怒られないように)書いてください。自分のエピソードを取り上げてもいいですが、それはあくまでもその本の価値を伝えるために効果的である限りにおいてであり、決して「ボク」がこの文章の主人公だからではありません。むしろ文章の主人公は読者です。読者が最も益するような文章を書いてください。


以上、(1)良質な本を選び、(2)その本の価値を自分なりに見出し、(3)他人への贈り物として書かれた文章というのを、私の「書評」課題の要件とします。




■プロジェクト:社会のために、コミュニケーションをとりながら、一定期間遂行する。

プロジェクトについては、以下を要件とします。書評よりも、自由度が高い課題ですから、ある意味それだけ慎重に考え計画してから実行してください。


(1)社会のために行う、公共性の高いものであること

「英語教師のためのコンピュータ入門」から例を取りますと、あるオンラインコースで個人学習をしたといった、自分のためだけのことは、プロジェクトとして認めません。あなたの課題は、社会をよりよくするために行われるもので、多くの人々に開かれたものでなくてはなりません。


(2)一方的なものでなく、受益者や関係者とのコミュニケーションを取るための工夫がなされていること

社会をよくするため、と書きましたが、何がよい社会かは人によって(微妙に)考えが異なったりします。独断的に社会をよくしようとする試みはたいていは暴走してしまいます(「正義が『呪い』に転ずるとき」)から、プロジェクトは必ずそれに関係する人とのコミュニケーションが取れるように十分な工夫をしてください。コミュニケーションによって自己を修正する能力は非常に大切なものです(また困難なことでもあります)。
ただしあるプロジェクトを始めたといってもすぐに世間がそれに注目するわけではありませんから、最初は他人からのレスポンスやフィードバックがなくてもかまいません。しかしコミュニケーションを取るための具体的な工夫だけは十分にしておいてください。


(3)一、二回の打ち上げ花火ではなく、最低一、二ヶ月は継続すること

一度や二度、派手なことをやってそれで終わりというのではなく、最低一、二ヶ月は継続している課題をプロジェクトとして認定します。プロジェクトを継続するには根気も忍耐も必要ですが―上にも述べたように何かを始めてもたいていの場合最初は何の反応も返ってきません―、実はそれ以上に基本構想が大切です。

基本構想とは、プロジェクトの目的を明確にし、その目的にしたがって諸機能を構造化し、その構造が誰にもわかりやすいように提示できるよう考え抜いておくことです。目的・構造・提示がはっきりしていると、何よりあなた自身が次の行動を起こしやすくなります。また、たまたまそのプロジェクトに接した人もすぐにそのプロジェクトを理解してくれます(たいていの人はあなたのプロジェクトに接したとしても数秒から数十秒の時間を割いてくれるだけです。その短い時間にプロジェクトを理解してもらえなければ、その人はもうおそらく二度と戻ってきません)。何よりも基本構想を大切にして、じっくり考えてから行動に移ってください(もちろん行動を起こしてからもコミュニケーションによって修正を重ねてゆくことは上に述べた通りです)。

再び「英語教師のためのコンピュータ入門」で考えますと、例えばブログを立ち上げること自体は、勘の良い人なら10分でできることです。また30分もあれば一つの記事ぐらい書けるでしょう。しかし大切なのは、次々に目的にかなった言動を、構造化して機能性高く行えるかということです。さらにその言動がすぐに他人にわかってもらえる提示方法になっているかということです。衝動的にブログなどを作るのではなく、よく基本構想を練り、必要に応じてデザインについても本を読んだりして学んでください。

以上、(1)公共性、(2)コミュニケーション、(3)継続性をプロジェクトのとりあえずの要件とします。プロジェクトを思いついたら、どうぞご相談下さい。



教師から言われてやる受身の勉強は必要なことです。好き嫌いをいわず、最低限度の知識や技能は習得しなければなりません。しかし、その知識・技能も、あなたの自主性がなければ活用できません。社会とはそれぞれの人間が自主的に行動して、連帯して創り上げてゆくものです。どうぞ積極的に書評やプロジェクトに挑戦して、あなたの自主性を開拓していってください。S(秀)という成績評価はそのおまけにすぎません。

2010年10月7日木曜日

岡野雅行さん:自分の頭と手で考える

岡野工業株式会社の岡野雅行さんは、理論物理学者も大企業も製作不可能と断言した「刺しても痛くない」注射針を開発したことでも有名ですが、学歴は国民学校初等科だけで、会社も極めて少人数の小さなものです。

岡野さんのエピソードは、現代の「指示待ち族」にとって非常に示唆に富むものと思いますので、岡野さんの本のどれで読んだのか忘れてしまったのできちんとした引用ができないのですが、ここでその概要を伝えます。

若き日の岡野さんは新しい技術を習得して事業展開しようと思い、知り合いの先輩職人に教えを乞いに行きます。先輩職人は、日本橋の丸善の洋書売り場に行けば高いけどいい本があるので、それを買って勉強しろと言います。

岡野さんが大枚をはたいてその本を買って開いてみると、どうもその本は英語でなくドイツ語で書いているらしい。どうしましょう、と先輩職人に尋ねると、先輩曰く、


「馬鹿野郎、職人ってのは図面で学ぶもんだ。本の図面を穴が開くぐらい見て自分で考えやがれ」


岡野さんは愚直に図面を見つめいろいろと考えます。考えに考えているうちにその新技術について理解でき、新事業も成功できたそうです。

この愚直さ、一本気、熱心さ、集中力、想像力、思考力、忍耐強さ ―これらが岡野さんの技術を創り上げていったのでしょう。岡野さんにとって学ぶということは、誰かエライ人の説を鵜呑みにすることでなく、自分の頭と手で考えて―extended mind―試行錯誤をしていくことなのでしょう。

こういった岡野さんが、博士号をもった研究者チームを抱える大企業ができなかったことをやりとげたということの意味を私たちはもっと考えるべきなのかもしれません。

現在の学校での学びは「言われたことだけをやる」さらに「やることをできるだけ少なくして、高得点を取ることが勝ち」といった価値観にあまりにも牛耳られているような気がします。生徒・学生どころか、教師までもが、定められた目標への最短時間での到達を自らの仕事と思い込んでいるのかもしれません。私たちは自分の頭と手で考える文化を取り戻すべきではないでしょうか。

岡野さんの数々の本には、上のエピソードを始め、本当に豊かな現場の知恵が書かれています。どれも簡単に読める本ですから、皆さんもどうぞお読みください。


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2010年10月6日水曜日

意味順ノート

私にとっての「頭のいい人」の定義は簡単で、(1)「言われてみれば当たり前だけど、誰もなかなか気づいていないこと」、あるいは「気づいていても実現化できていないこと」をやり、かつ (2)他人の幸福をよく考えているからお付き合いすると本当に楽しい人、です。

私が最初に田地野さんに会ったのは、前任校の広島修道大学に田地野さんが着任して来た時ですが、最初に会った時から本当に頭のいい方だなと思い、楽しくお付き合いさせていただいて―というよりお互いに会えばダブル・ボケで冗談ばかり言いあっております(笑)。学会会場の片隅で、いいおっさんが二人でゲラゲラ笑っていたら、それは私たち二人です。

田地野さんはその後、京都大学に新しい活躍の場を見つけ、EGAP (English for General Academic Purposes:「一般学術目的の英語」)とESAP (English for Specific Academic Purposes:「特定学術目的の英語」の区別によるカリキュラム改革や、『京大・学術語彙データベース基本英単語1110』などで「コロンブスの卵」的な頭のいい仕事をしております(田地野さんのまとまった論考は『これからの大学英語教育』で読むことができます。)


その田地野さんが、今回「意味順ノート」を監修したのでここでも紹介させていただきます。

「意味順ノート」は、意味順ガイド(だれが/する・です/だれ/なに/どこ/いつ)を英習字用の四本罫線に取り入れた学習用ノートです。罫線には意味順で記入しやすいように区切り線が入っています。学習段階に合わせて四種類のノートが用意されています。このノートの監修をするとは、やはり田地野さんは頭のいい人だなぁと思います。





英語学習の基本である典型的な語順をまずは徹底するための指導用に使えるノートかと思います。「意味順」を体得させるという大きな効果のための小さな工夫がつまったこのノートの使用をぜひご検討ください。









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2010年10月5日火曜日

批判的応用言語学(Critical Applied Linguisitcs: CALx)入門

[この記事は大学院の授業のために編集作成したリンク集です]

■はじめに

私はなぜCritical Applied Linguisticsを教えるのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/critical-applied-linguistics.html

現実に対する理論の抵抗
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/blog-post_3498.html

学生さんのレポートから(言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/critical-applied-linguistics.html

イデオロギーあるいは時代精神として考え直す「教育改革」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/blog-post.html

ヴィヴィアン・バー著、田中一彦訳『社会的構築主義への招待』川島書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_28.html



■お薦めしたい本・サイト

藤本一勇(2009)『外国語学』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009_18.html

綾部保志・榎本剛士・小川亘(2009)『言語人類学から見た英語教育』ひつじ書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/12/blog-post_05.html

鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

江利川春雄(2009)『英語教育のポリティクス』三友社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/2009.html

寺島隆吉(2007)『英語教育原論』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/09/blog-post_9698.html

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/2009.html

オンライン読書会(Linguistic Imerialism Continued)の報告
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/linguistic-imperialism-continued.html

"Language as a Local Practice" by Pennycook、およびQuestiaの素晴らしさ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/language-as-local-practice-by.html

Language on the move
http://www.languageonthemove.com/


■過去の関連記事のリンク集(2009年10月6日まで)

コミュニケーション・言説の社会性・権力性・歴史性についての関連記事リスト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/blog-post_06.html




BACKGROUND

Keywords #1 Introduction
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/09/keywords-for-prof-alastair-pennycooks.html

Keywords #2 Basic background knowledge
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/09/keywords-for-prof-alastair-pennycooks_28.html

Keywords #3 Historical/political terms
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/09/keywords-for-prof-alastair-pennycooks_105.html

Keywords #4 Linguistic/pedagogical terms
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/09/keywords-for-prof-alastair-pennycooks_4685.html

Keywords #5 Key background knowledge
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/09/keywords-for-prof-alastair-pennycooks_7031.html

Keywords #6 Key concepts
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/11/keywords-for-prof-alastair-pennycooks.html



CHAPTERS

Ch. 1 Introducing Critical Applied Linguistics
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/11/ch-1-of-prof-pennycooks-calx.html

Ch. 2 The Politics of Knowledge
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/11/ch-2-of-prof-pennycooks-calx.html

Ch. 3 The Politics of Language
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/12/ch-3-of-prof-pennycookss-calx.html

Ch. 4 The Politics of Text
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/12/ch-4-of-prof-pennycooks-calx.html

Ch. 5 The Politics of Pedagogy
http://yosukeyanase.blogspot.com/2008/12/ch-5-of-prof-pennycooks-calx.html

Ch. 6 The Politics of Difference
http://yosukeyanase.blogspot.com/2009/01/ch-6-of-prof-pennycooks-calx.html

Ch. 7 Applied Linguistics with an Attitude
http://yosukeyanase.blogspot.com/2009/01/ch-7-of-prof-pennycooks-calx.html





■追記
S(秀)判定について

2010年10月3日日曜日

Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系

[この記事は、「英語教師のためのコンピュータ入門(2010年度)」のためにまとめたものです。一部の情報は以前の記事と重複しています。]



Google ReaderとTwitterとEvernoteとChromeを併用することにより、新しい情報と知識の生態系ができるということをこの半年で学びました。ここではその簡単な説明をします。

※ Google Readerは、2013年半ばでサービス停止となります。
(このGoogleの姿勢に対する批判記事はThe EconomistのGoogle's Google Problemにあります)
Google Readerの代わりとしてはFeedly (http://www.feedly.com/)がよく使われているようです(私も使っています)。


これらのソフトの相乗効果が生み出す新しい知の生態系は、今まででは考えられなかった莫大な量の情報を個人が処理することを可能にします。それに応じてあなたの知識の質は高まります。さらにそうして得た情報・知識を迅速・簡便に他人に伝えることができます。そうやって情報・知識の質の高まった仲間が集まると、さらに知の相互作用が生まれ、情報・知識のコミュニケーションは高度化します。これが新しい知の生態系です。

新しい知の生態系は、よりよい社会を創り発展させるための強力な動因となることができます。ぜひ学生の皆さんも、この新しいICT(Information Communication Technology)の使い方を覚えて、充実した知的生活を送ってください。



■Google Readerで自動的に情報収集

Google Readerは非常に便利なサービスです。「ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!」の記事でも書きましたが、気になるブログ・ホームページをsubscribe(購読)することで、自動的にそのサイトの更新情報を得ることができます。

以前は、お気に入りのサイトをブラウザーのブックマークに記録しておいて、頃合いをみて更新を確かめるというのがウェブから情報を得る方法でしたが、それは無駄が多く時間がかかるやり方です。ですから多くのサイトをチェックすることもできません。

ですがGoogle Readerを使うと、情報は勝手に集まります。私はある時ある方にお世辞で「情報収集能力がすごいですね」と言われましたが、私の得る多くの情報はGoogle Readerが勝手に集めてきたものです。私が行うことは情報を収集することでなく、むしろ情報を捨てること(=選択すること)です。

現在私は345のサイトをGoogle Readerでチエックしています。好きな時間にGoogle Readerが集めてくれておいた情報を「List形式」でチェックします。これだとサイトの見出しだけを目次形式で見るだけですから、一日おそらく700~800以上のサイト更新を手軽にチエックすることができます。

気になるサイト更新にはスターマークを付けておき、それをまた好きな時間に読みます。読んで面白いと思った情報は、下でも説明するTwitterで流し、同時に個人データベースであるEvernoteに保管します。

以下はビデオによる使用方法の説明です。英語による説明ですが、英語字幕を出すようにYouTubeを設定すれば(画面右下の△アイコンをクリックし、CCで調節)容易に理解できますので、まだGoogle Readerを使っていない人はどうぞ使い始めてください(最初にGoogle accountを取得することが必要です)。


・Google Readerの基本的な使い方






・Google Readerの応用的な使い方





情報収集は以下に説明するTwitterでもできますが、Twitterは過去の情報がすぐになくなったりするので、安定した情報収集をすることが必ずしも容易ではありません。それに大量の情報の通覧性は、TwitterよりもGoogle Reader(List形式)の方がよいです。購読・フォロー先の管理もGoogle Readerの方が便利です。Google Readerをお勧めする次第です。




■Twitterを情報伝播メディアとして使う

「情報伝達のためのTwitterを始めました」でも書きましたように、私は自分が今何をしているか・何を考えているかとかいった「つぶやき」をするためにはTwitterは使いません(「つぶやき」はMixiでやっています)。Twitterは有益な情報の伝播のために使います。

Twitter: 10 Psychological Insightsという記事によれば、80%のTwitter使用者は"Meformer”で、自分(Me)のことばかりをつぶやいています。残りの20%が"Informer"で彼・彼女らは重要と考える情報の伝播・共有およびそれに基づくコミュニケーションのためにTwitterを使っています。私はInformerであることを選び、tweetのほとんどすべては、情報の見出しとその出典のURLを掲載したものにしています。

Twitterという言葉は、もともと"the chirp of a small or young bird" (Compact Oxford Dictionary)からの転用ですから、私はTwitterは、何だか内閉的な「つぶやき」よりも、文字通り「さえずり」と訳した方がよかったと思っています。小鳥がさえずるように、よい情報は喜びと共に仲間に伝え、悪い情報は警戒しながら短く伝える、といったイメージの方がTwitterの実情に合っているとも思います。

ですから私はTwitterでは、Meformerの方は一切フォローせず、Informerの方だけをフォローしています。人間関係の維持からすればフォローされたらこちらも「フォロー返し」をするべきなのかもしれません。ですが、私は(冷たい、生意気、傲慢だと思われようとも)そのような関係はTwitterでは一切結ばずにInformerだけをフォローしています。Twitterでは時に数百人、あるいは数千人をフォローしている人もいますが、そのように多くの人をフォローしたら、少なくとも私はとてもその人達のtweetをまともに読むことができません。ですから私は多くの方をフォローすることはしません。まずはMeformerの方々をフォローすることを断念しています。

そうしてフォローするのをInformerに限ったとしても、フォロー数が増えてきたらとても追えません(Twitterにかまけて仕事や私生活が乱れては本末転倒ですからね)。以前、私は200人程度をフォローしていましたが、そうなるとちょっとTwitterを覗かないでいると、古い未読のtweetが消えてしまうぐらいになりましたので、思い切ってフォロー数を減らし、今は100以下にしています(減らすには忍びないフォロー先は「List」に残しています)。

残っているInformerは、私にとっての貴重なSocial filiterです。これらのInformerが伝えるのなら、きっと価値がある情報に違いないと私は前提することができるからです。実際、私がGoogle Readerの見出しだけで判断して読まなかった記事も、私のInformerがtweetしていたら読むようにします。

またInformerが面白いと思ってretweetしてくれる情報も私にとって貴重なものです。Informerの個人的な好みは、私にとって適した変異要因です。私自身が選択することはないだろうが、この人達が選んでいるのだから読んでみようかという情報であるretweetは、私の世界を広げ、私の視野が固定化することを防いでくれます。

私がフォローしているInformerの方の中には私をフォローしてくださる方も時にいらっしゃいます。そういった方々とのmessage交換やreplyでのコミュニケーションは、twitterがなければ実現しなかっただろう本当に貴重な体験です。

より良質な知の生態系を創り上げるため、私は自分で面白いと思ったtweetは積極的にretweetするようにしています。もちろんGoogle Readerなどで見つけた情報、友人から電子メールなどで教えてもらった情報も積極的にtweetしています。小鳥が仲間の歌を聞いて、自分もその歌を歌う仲間になるようなイメージです。もちろんむやみやたらと(re)tweetしていたら、私の発信能力の質を疑われますから、私としては自分なりに吟味してからしか(re)tweetしていないつもりです(笑)。可能ならば見出しだけでなく、印象的な表現も引用して出典URLと共に(re)tweetしています。

また、Twitterの面白いところは140字という制限があるところです。この制限内に、的確かつ印象的に他人に情報を伝えるにはどうすればよいかと考えると、情報を要約しその見出しをつける力が養われます。引用先の文章から引用するにせよ、どの文を選ぶか、また140字を超える文はどこをどう削るかなどの編集作業は非常にいい知的訓練になります。この訓練は研究発表にも授業展開にも使えます。Twitterで楽しみながら力をつけてください。

私はこのような情報伝播メディアとしてのTwitterに大きな可能性を見出しています。もし既にMeformerとしてのTwitterアカウントを作ってしまったのだったら、もう一つ新たにアカウントを作り、それをもっぱらInformerとして使用することも考えられます(あるいは私がそうなのですが、MeformingはMixiなどに任せて、Twitterはinformingに特化することも考えられます)。みなさんもぜひ試してみてください。




■EvernoteはEver(万能)なNote(データベース)

このように私はGoogle ReaderとTwitterで大量の情報を処理していますが、これだけのこともEvernoteがなければやっていないと思います。私は好奇心が強い方ですが、好奇心を満たすだけにこれだけのことをやることはさすがにないでしょう。大量の情報も、Evernoteに丸ごと保存でき、しかも後でそれを楽に検索できるからこそ私は大量の情報を処理しています。

Evernoteとは簡単にいえば、いつでもどこでも何にでも(Ever)使える万能のデータベース(Note)をつくるサービスです。以前「Information/Knowledge ManagementのためのEvernote」という記事で詳しく説明しましたので、この記事ではそこに書かなかったことを二つだけ書きます。

一つは「PrtScn」による画像キャプチャー(取得)の便利さです。キーボードの右上には「PrtScn」というボタンがありますが、それをEvernoteをインストールしたコンピュータで押してください。薄い十字が現れますから、それを移動させてキャプチャーする範囲を設定してください。設定してクリックしていた指を離せば、その瞬間に画像はあなたのEvernoteの中に入ります。そこからさらに画像ソフト、ワープロソフト、プレゼンテーションソフトにその画像をコピーすることは非常に容易ですから、画像を使った説明をすることが非常に楽になります。この「PrtScn」による画像キャプチャーの方法はぜひ身につけてください。

もう一つは、Evernoteで作成するタグ(tag)についてです。Evernoteには検索エンジンがありますから、情報を片っぱしからEvernoteに放り込むだけでもいいのですが、後々情報を活用する時には、一つ一つの情報にタグを付けておく方が便利です。

タグ(tag)とは情報につけるメタ情報です。つまり「この情報は、大きく言えば○○のカテゴリーに属する情報です」という札です。Evernoteは一つ一つの情報にこのタグを複数でも自由に簡単に付けられますから、これを使わない手はありません。

Evernoteはほとんどの作業を自動的にやってくれる優れたサービスですが、このタグ付け、およびタグの構造をどうするかだけはあなたが決定しなければなりません。タグ構造をどのように作るかで後々のデータ活用が便利にも不便にもなります。もちろん後からタグを付け直すこともできますが、情報が多くなると、いちいち付け直すのも面倒くさいので、ある程度の見通しをもってタグおよびタグ構造を決めておいた方がいいかと思います。

とはいえ私自身もタグとタグ構造に関しては試行錯誤しながら自分のシステムを進化させているというのが実情です。以下に私の例をお見せします。私はこのように最大限三階層にするタグ構造を使っています(情報が多いカテゴリーはニ階層より三階層にする方が何かと便利です)。何らかの参考(あるいは反面教師)にしてください。









■Chromeの拡張機能は本当に便利!

これらGoogle Reader、Twitter、EvernoteはどれもiPhoneのアプリで使えるので(もちろんAndroid携帯でもiPadアプリでも可)、知の生態系の維持は外出先の数分間の空き時間でも容易にできます。しかしやはりきちんとしたパソコンを使う方が確実に便利です。そして私の場合「きちんとしたパソコン」とはブラウザーのChromeが使えるパソコンのことです。逆に言えば、Chromeが使えれば私はそれ以上の性能はあまり求めません(だから私は数秒で立ち上がり、Chromeブラウザーを高速で使えるOSとしてのChromeの登場をずっと期待して待っています。当初の話では今年の秋に発表されるはずなのですが、この原稿を書いている現在では発表はありません)。

話をブラウザーとしてのChromeに戻します。私がブラウザーとしてのChromeを好むのは、何より高速であること、Google検索との親和性が高いことですが、Chromeには拡張機能(Extensions)を加えることによりさらに機能性が高まります(なお、私はアプリケーションの表示は日頃英語にしていますから以下も英語の用語を使って説明します)。

Extensionsを入手するためには、Chrome画面の右上にあるスパナのアイコンをクリックし、Tools→Extensionsと進み、(右下にある)Get more extensionsをクリックしてください。ここからいろいろなextensionsを自分で選べばいいのですが、ここでは私が重宝している(というよりこれらのextensions抜きのパソコン操作は考えられない)extensionsを五つ簡単に紹介します。以下、これらのextensionsをインストールした場合の昨日について書きます。


(1) RSS Subscription Extension
https://chrome.google.com/extensions/detail/nlbjncdgjeocebhnmkbbbdekmmmcbfjd

Google readerで購読したいサイトを見つけたら、このアイコンをクリックします。それだけで購読が始まりますから便利です。(時にこのアイコンが出ないサイトがあります。その際はGoogle Readerの操作画面から購読をしてください)


(2) Google Share Button
https://chrome.google.com/extensions/detail/idaeealfhcijmeigljaopafdapgijdcb

Twitterで他の人に知らせたいサイトを見つけたら、このアイコンをくりっくしてください。それだけでTwitterで情報伝播できます。そのサイトの見出しと短縮URLは自動的に付けられます。多くのサイトにはTweetあるいはRetweetあるいはこのアイコンと同じShareが用意されていますから、そちらをクリックしてもいいのですが、しばしばこちらのGoogle Share Buttonの方がうまく見出しをつけ、URLを短縮してくれますので、私はこれを愛用しています。


(3)Clip to Evernote
https://chrome.google.com/extensions/detail/pioclpoplcdbaefihamjohnefbikjilc

あるサイトをそっくりそのままEvernoteに移したい時には、このアイコンをクリックします。小画面が出ますので、そこでタグを指定して(オートフィルがあるのでタグ付けも簡単)SAVEをクリックすればサイトはそのままあなたのEvernoteに保管されます。見出しもURLも自動的に付けられますから本当に便利です(ただし小画面でClip full pageをクリックしておくことを忘れないでください。さもないと見出しとURLだけしか保管されません)。

またGoogle ChromeのExtensions画面で、このClip to EvernoteのOptionsをクリックし、Use Simultaneous Searchも選択しておいてください。そうするとそのパソコンでGoogle検索すると自動的にあなたのEvernote検索もしてくれます。その便利さが今ひとつわからない方はEvernote と Google の「同時検索」機能。その意味とは?の記事を読んでください。

※もしこの機能がうまくゆかなかったら、単にコピー・アンド・ペーストで欲しい情報をEvernoteに貼りつけてください。それだけでも冒頭文が自動的に見出しになり、URLも自動的に掲載されますから便利です。



後の二つは、「ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!」で説明しましたので、名前をあげるだけにしておきますが、本当に便利ですからぜひ自分のパソコンにインストールして活用してください。

(4) Google Dictionary on Chrome
https://chrome.google.com/extensions/detail/mgijmajocgfcbeboacabfgobmjgjcoja


(5) Google Translate on Chrome
https://chrome.google.com/extensions/detail/aapbdbdomjkkjkaonfhkkikfgjllcleb




以上、Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系について説明しました。この他にもどんどん皆さんの創意工夫でコンピュータを使いこなしてください。

Computer for Communication and Community ― コンピュータ使用を通じて皆さんが幸福な社会生活が送れますように!


追記
Facebookは、Twitter以上の使用人数をもっている世界的なサービスで私も一応アカウントは保有していますが、私はどうもこのサービスが本当に狙っていることがわからないので使用は控えています(またインターフェイス(interface、使い心地)もいいものとは思えません)。これだけテクノロジーが発達しても、根本のところで大切なのは、どのように他者をもてなそうとしているかだと私は思っています。創業者のことばと使い心地こそは、そのサービスがいかに他者(つまりは利用者)をもてなそうとしているかについての端的な表現ですから、私はそれらに納得できないサービスを使うつもりはありません。






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