2010年10月8日金曜日

自主性を開拓するために ―書評かプロジェクトに挑戦してみてください―

■四段階の成績判定

広島大学では数年前から、成績評価をA, B, C(優・良・可)の三段階からA(優)の上にS(秀)を加えた四段階に変更しました。A, B, Cは、それぞれ80, 70, 60点以上と規定されていましたので、私は単純にペーパーテスト・課題・平常点などの合計が90点以上だとSを出していました。

しかしだんだんと、私が指定した課題をこなすだけでSを出してはいけないと思うようになりました。受身の姿勢の勉強だけでは社会に出てからの実力につながりにくいと考えるようになったからです。


■社会で通用する力とは

「考える・調べる・尋ねる」でも書きましたように、社会に出るとすべて指示されないと動けないようでは使いものになりません。自ら考えて調べ、どうしてもわからないところだけ尋ねるのが社会人のスタートです。加えて、仕事を覚えるうちに、最初は小さなことに過ぎませんが、少しでも自ら創意工夫して仕事のやり方を改善してゆかねばなりません。現場の知恵こそが組織の地道な向上につながるからです。そしてだんだんと自ら課題を見出し、仕事内容の革新にも貢献できるようにならなければなりません。積極性を重んじ、「自分の頭と手で考える」ことができなければなりません。

もう少しだけ話を大きくしますと、組織でも社会全体でも、一人ひとりが自らの頭で考え、自らの言葉で語り、自らの責任で行動し、さらにそれぞれがお互いの違いを尊重しながら協調し連帯すれば、その組織や社会は、困難な状況にも柔軟に対応でき発展するものになります。ですから大学教員の一人としては、学生のみなさんに是非ともそういった意味での「主体性」を涵養してほしいと願っています。


■受身の勉強をきちんとした上で自主的な学びをする人にSを出します。

ですから私は、Sの成績を、受身の勉強でなく主体的な学びも行った学生さんにだけ出すことにします。ペーパーテスト・課題・平常点だけではA, B, Cしか出しません。それらに加えてこちらが大まかに指定する任意課題を出し、それが大学生にふさわしい自主的な学びになっていると判定した時にのみSを出します。

Sを出すといっても、それはペーパーテスト・課題・平常点での成績がもともとAであった人だけです。ペーパーテスト・課題・平常点がBやCだった人は、任意課題を提出しかつそれが妥当なものだとみなされたら、成績をそれぞれA、Bに上げます。もともとペーパーテスト・課題・平常点でD(不合格)だった人は任意課題を出してもCにすることはしません。受身の勉強すら満足にできない人の自主性など私は認めたくありませんので。


■具体的には「書評」か「プロジェクト」

任意課題は今のところ書評かプロジェクトの形にしようかと思います。下にその説明を書きます。「自主性を重んずる課題なのに教員が指定をするのは矛盾ではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、課題を完全に自由にしてみても、課題の選定や遂行にとまどうばかりで、課題への着手が遅れたり失われたりするかとも考えますので、とりあえず以下に原則を示しておきます。


■書評:ある本の価値を、他人に的確に伝える

私がここでいう「書評」とは、良質な本の価値を他人に的確に伝えるための文章を指します。つまり以下の要件を充たすものです。


(1)良質の本を選んでいる

内容の薄い本ではなく、きちんと考えぬかれた内容をもつ良書を選んでください。最初はそういった本を選ぶのは難しいかもしれませんので、多くの場合はこちらが本のリストを提示します。学生の皆さんはそのリストの中から選んでください。もちろんリストにない本を自分で選んでも結構です。ただ学生さんの選択眼はまだ未発達の場合が多いので、その場合は予め相談してください。

また、形式的な原則に過ぎませんが、読みやすさや売れることを優先させた新書などのフォーマットは認めないことにします。どうしても新書で選びたい場合は、関連テーマの新書を最低三冊以上まとめて書評するようにしてください。

別段、ハードカバーの本ならすべて素晴らしいなどと言うつもりもありませんが、学生の皆さんは学生時代にハードカバーに代表されるような、きちんとした本を読む文化を身につけてください。

きちんとした本は、しばしば(a)既に古典としての定評を得ている、(b)近年に出版されたものでも多くの信頼できる筋が高い評価を出している、といった外的特徴で選んでください(あるいは(c)学術出版社として信頼できる会社から発刊されているという特徴も加えていいかもしれません)。このように外的な特徴で選ぶのは「権威主義」との謗りを免れないかもしれませんが、鑑識眼が育つには時間がかかります。しばらくは信頼できる人々の評判を出発点にしてください。そうして読書経験を重ねてゆくうちに自らの選択眼も育つことでしょう。

ですが、そのような本を実際に読んでみると、多くの場合「難しい」となりがちです。少なからぬの学生さんがそこで読書を諦めますが、ぜひそこで粘ってみてください。

書籍というのは、そもそも難しいのが当たり前です。今でこそ出版業界が過剰に市場化し、書籍が文化遺産(=どうしても残して他人に伝えたいもの)というより商品(=とりあえず売れればいいもの)とみなされてきているので、書店には「読みやすい本」や「わかりやすい本」ばかりが並ぶようになってきています。もちろん同じ内容なら読みやすくわかりやすい方がいいに決まっていますが、現在の「読みやすい本」や「わかりやすい本」は、内容そのものを低下させることで読みやすさやわかりやすさを得ています。内容の低下は、乱暴なぐらいに単純な主張、通俗的に言われていることを文字にしただけの低俗さにつながります。そのような本は読んでも、自己欺瞞や自己満足には役立っても、自分を知的に高め、自らを変容させることにはつながりません。現在の学生さんはさまざまな要因から本を読まなくなりましたし、読む本も「読みやすい本」や「わかりやすい本」ばかりになっています。ですからどうぞ学生時代のうちに読み応えのあるきちんとした本を読んでください。

ちなみに私にとっての良書(というより「古典」)の定義は簡単で、「五回以上読みたくなり、また実際に五回以上読み、読むたびごとに新しい発見があり、今後も折にふれて読み直したいと願う本」です。

そういった本はたいてい初読の際、直観的に面白さ・深さは感じられてもなかなかその全容がつかめません。線を引きながら、二読、三読して、ノートかパソコンに文章を書き写し、さらにはそれについて自分でまとめを書いて他人にその価値を説明する中でようやく内容を自分なりに消化することができます。そうしてふと気づいてみると、その読書経験によって自分が変わっています。以前は見えなかったことが明瞭に見え、通俗的に喧伝されているだけのことと本質的に重要であることの区別もつくようになります。その区別が間違ってはいないことは、自分の言動がより的確なものとして仕事の上でも他人からも評価されることでわかります。

長くなりましたのでまとめますと、(ア)書評用の本は基本的に私が提示するリストの中から選んでください、(イ)自分で選ぶ場合は定評の高い本を選び念のために事前に相談してください、となります。なお私がリストに選定した本は、順次教英図書室に揃えるようにします。最終的に良書は買って一生の宝にしてほしいのですが、まずは図書室から借りてよく吟味してみてください。


(2)自分なりに価値を見出している

私がいう「書評」の二つめのポイントは、皆さんが自分なりにその本の価値を見出すということです。「自分なりに価値を見出す」ということは、世間で定説化されているような要約を、各種切り貼りしながら小器用に作成することではないということです。参考書のまとめを、薄めて書き直すような真似はしないでください。本を読んで、あくまでも自分の頭で考え、可能ならば自分の言葉で語り直すことで、自分なりの手応えを感じながら文章を書いてください。理解を実感していないのにわかったふりをするのは、傍で見ていて非常に痛々しいです。またそのような表面的な理解(の吹聴)は自ら現実を切り拓く力にはなりませんから、妙に要領よく要約してそれを書評としないでください。

ただ難しいのは、そうやって自分なりの文章を書くことを焦ると、やたらと「個性」を出そうとして、一知半解のまま、本の表現を表面的にとらえて引用し、自説(たいていの場合は俗説か極端に偏った見解)を延々と述べることになりかねません。

良書・古典を読む場合には、まずは徹底的に謙虚になる必要があります。私の場合は、良書・古典に巡り合えたと思ったら、まずは線を引き、次に線を引いたところだけを読み直しながら、自分なりにその本の内容について考え、ふたたび最初から読み直します。さらには印象的な箇所を書き写します。書き写すという方法は私にとって非常に大切なもので、書き写していると、ただ読んでいる時よりもはるかに時間をかけて、また深く文章に接することができますから、それまで気づかなかったことに多く気づくことができます。皆さんも、いきなりに書評を書く前に、まずは書き写す「ノート」を作ることをお勧めします。そうやってまずは謙虚に忍耐強く良書に学んでから、自分なりの視点を見出してください。

そうやって見つけたあなたの視点はもちろん、その本のすべてを包括するものではありません。ある一部分のある一つの見解に過ぎません。ですが私のこの課題ではその限定的な視点だけでかまいません(もちろんその他の視点についても言及してくれれば嬉しいですが)。そもそも、良書や古典は豊富な内容をもつものです。その豊富な内容を原典の何十分の一・何百分の一の分量の「書評」で的確に伝えられるわけがありません。ですからこの課題では書評する本の内容をまんべんなく全般的に伝えることはしなくておも結構です。もちろん全体を概括した上で、自分が集中するテーマを述べることは望ましいことです。そうやって全体像あるいは他の視点を意識して自らの視点の相対性を自覚しておくことは重要なことですから、まんべんなくまとめなくてもよいとは言っても、それは決して自分の問題のことだけを考えていればいいということではありません。まずは謙虚に学び、それからその一部分を取り上げ、とりあえず今回はそれについて集中的に考察して自分なりにその本の価値を見出してください。


(3)他人への贈り物としての文章を書く

強調したい三点目は、自己満足だけの文章を書かずに、他人を益する文章を書いてくださいということです。自己満足だけの書評レポートを誇張して再現すれば次のようなものになります。


最初、僕がこの本を手にしたときには厚さにびっくりした。400ページ以上もある。自慢じゃないが僕は今まで長い本を読んだことがない。友達から借りた『ハリー・ポッター』でさえ最初の数十ページで挫折したぐらいだ(あ、でも映画は見ました。先生は見ましたか。面白いですよ)。それにこの本のタイトルは『○○の△△』だ。「○○」はなんとかわかるにしても、「△△」って何だ?しかもそれが重なって「○○の△△」ときた。友達に聞いてもわからないというし、勇気を出して○○や△△についてのミクシィのいろんなコミュニティで質問をしても何の返事もない(世間は厳しいということを僕はこの時に悟った)。「こんなことでレポートが書けるのか?」。僕は焦った。この単位は必要だからだ。でも締切はどんどん近づいてくる。今日、本をようやく全部読み終えたが、締切は明日じゃないか。だから僕は今からがんばってこのレポートを書く。だから先生もがんばってこのレポートを読んでください(^^)v。


まあさすがに実際にはこれほどひどい文章にはお目にかかりませんが(笑)、これの遠縁にあたるような文章を大学教員は時折目にしていることは、『これからレポート・卒論を書く若者のために』で、ある旧帝国大学の教員も書いている通りです。自分のことばかり書く幼児的な文章は、提出してきても課題としては認めませんので注意してください。

課題としての書評は、私(柳瀬)に向けてでなくこの本・分野に関心をもちそうな一般読者に向けて書いてください。この本を読んだことがない人に、この本の良さを伝え、それを納得した上でこの本を手に取ってもらえるように(そして読んだら「なんだ、あの書評はてんで的外れじゃないか」と怒られないように)書いてください。自分のエピソードを取り上げてもいいですが、それはあくまでもその本の価値を伝えるために効果的である限りにおいてであり、決して「ボク」がこの文章の主人公だからではありません。むしろ文章の主人公は読者です。読者が最も益するような文章を書いてください。


以上、(1)良質な本を選び、(2)その本の価値を自分なりに見出し、(3)他人への贈り物として書かれた文章というのを、私の「書評」課題の要件とします。




■プロジェクト:社会のために、コミュニケーションをとりながら、一定期間遂行する。

プロジェクトについては、以下を要件とします。書評よりも、自由度が高い課題ですから、ある意味それだけ慎重に考え計画してから実行してください。


(1)社会のために行う、公共性の高いものであること

「英語教師のためのコンピュータ入門」から例を取りますと、あるオンラインコースで個人学習をしたといった、自分のためだけのことは、プロジェクトとして認めません。あなたの課題は、社会をよりよくするために行われるもので、多くの人々に開かれたものでなくてはなりません。


(2)一方的なものでなく、受益者や関係者とのコミュニケーションを取るための工夫がなされていること

社会をよくするため、と書きましたが、何がよい社会かは人によって(微妙に)考えが異なったりします。独断的に社会をよくしようとする試みはたいていは暴走してしまいます(「正義が『呪い』に転ずるとき」)から、プロジェクトは必ずそれに関係する人とのコミュニケーションが取れるように十分な工夫をしてください。コミュニケーションによって自己を修正する能力は非常に大切なものです(また困難なことでもあります)。
ただしあるプロジェクトを始めたといってもすぐに世間がそれに注目するわけではありませんから、最初は他人からのレスポンスやフィードバックがなくてもかまいません。しかしコミュニケーションを取るための具体的な工夫だけは十分にしておいてください。


(3)一、二回の打ち上げ花火ではなく、最低一、二ヶ月は継続すること

一度や二度、派手なことをやってそれで終わりというのではなく、最低一、二ヶ月は継続している課題をプロジェクトとして認定します。プロジェクトを継続するには根気も忍耐も必要ですが―上にも述べたように何かを始めてもたいていの場合最初は何の反応も返ってきません―、実はそれ以上に基本構想が大切です。

基本構想とは、プロジェクトの目的を明確にし、その目的にしたがって諸機能を構造化し、その構造が誰にもわかりやすいように提示できるよう考え抜いておくことです。目的・構造・提示がはっきりしていると、何よりあなた自身が次の行動を起こしやすくなります。また、たまたまそのプロジェクトに接した人もすぐにそのプロジェクトを理解してくれます(たいていの人はあなたのプロジェクトに接したとしても数秒から数十秒の時間を割いてくれるだけです。その短い時間にプロジェクトを理解してもらえなければ、その人はもうおそらく二度と戻ってきません)。何よりも基本構想を大切にして、じっくり考えてから行動に移ってください(もちろん行動を起こしてからもコミュニケーションによって修正を重ねてゆくことは上に述べた通りです)。

再び「英語教師のためのコンピュータ入門」で考えますと、例えばブログを立ち上げること自体は、勘の良い人なら10分でできることです。また30分もあれば一つの記事ぐらい書けるでしょう。しかし大切なのは、次々に目的にかなった言動を、構造化して機能性高く行えるかということです。さらにその言動がすぐに他人にわかってもらえる提示方法になっているかということです。衝動的にブログなどを作るのではなく、よく基本構想を練り、必要に応じてデザインについても本を読んだりして学んでください。

以上、(1)公共性、(2)コミュニケーション、(3)継続性をプロジェクトのとりあえずの要件とします。プロジェクトを思いついたら、どうぞご相談下さい。



教師から言われてやる受身の勉強は必要なことです。好き嫌いをいわず、最低限度の知識や技能は習得しなければなりません。しかし、その知識・技能も、あなたの自主性がなければ活用できません。社会とはそれぞれの人間が自主的に行動して、連帯して創り上げてゆくものです。どうぞ積極的に書評やプロジェクトに挑戦して、あなたの自主性を開拓していってください。S(秀)という成績評価はそのおまけにすぎません。

2 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

>受身の勉強すら満足にできない人の自主性など私は認めたくありませんので。

うっ、み、耳が痛いです、先生(^^;)

>良書・古典を読む場合には、まずは徹底的に謙虚になる必要があります。

謙虚さ、というのが先生のブログを読んでいると何度も出てきますね。謙虚になるというのは、なかなか若者には難しいことのひとつですが・・・(とはいえ、若くても謙虚な人も沢山いるので、若さのせいにしていてはいけないのでしょうが)。

ところで、柳瀬先生は、10~20代のころ、どのような方でしたか。また、今から考えて「これはやっておいたほうが良かった」と思うことなどありますか?

また、どのような経緯で、「英語教育」から「哲学(メタ―英語教育?)」のほうに関心が向かわれたのでしょうか。

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、コメントありがとうございます。


ところで、柳瀬先生は、10~20代のころ、どのような方でしたか。


うっ、み、耳が痛いです(^^;)

ビンボーでイラついていたので、やたらと尖っていて、
傲岸不遜でした。だからいろいろ失敗しました。


また、今から考えて「これはやっておいたほうが良かった」と思うことなどありますか?


高校時代は数学です。大学合格ばかり考えて、すぐに自分を
「文系」だと自己規定してしまったのが間違いでした。
大学院時代に統計の勉強をしなくてはならなくなり、結局
高校の「数学I」からやり直したら、数学ってこんなに
面白かったんだと思いましたが、時既に遅しでした。

大学時代は、英語以外の外国語です。ドイツ語は大学院入試の
ために必要でしたので少しやりましたが、全然足りませんでしたし、
フランス語などはやろうともしませんでした。これは「文系」の
大学院に行こうとする人間としては不見識でした。

大学院時代は、軍鶏の喧嘩のようなギロンなどせずに、もっと
謙虚に―また出た!―地道に「古典」を読んで、その古典と
静かな対話をするべきでした。
浅薄なギロンばかりすると、いかに自分より低いレベルの
立論を見つけて、それを叩くかということばかりに関心が
向いてしまいます。それが自分の知性(およびおそらくは品性)
を低めてしまいました。




また、どのような経緯で、「英語教育」から「哲学(メタ―英語教育?)」のほうに関心が向かわれたのでしょうか。


まあ、こういう性分だからでしょう(笑)。
高校時代は、大学では宗教哲学を勉強したいと思っていました。
でも進路選択時に「それでは食えない」と言われると、ビンボー人
でしたからすぐに「ハイ」といって、食えそうな教育学部に
進学しました。

とまあ、性分もあるのですが、他方、英語教育界にはあまりにも
哲学的論考がないというのもあると思います。みんな哲学をする
必要など毛頭ありませんが、少数の人間は英語教育を哲学的にも
考える必要があると思っています。

それでは!
柳瀬陽介