2010年10月24日日曜日

近代的な言語使用を現代の学校英語教育は教えているのか?

■第三回山口県英語教育フォーラムは大成功

昨日の2010年10月23日に開催された第三回山口県英語教育フォーラムに参加しました。非常に深いことが学べた充実した会でした(懇親会はもっと楽しかったw)。

フォーラムの成功は、講師人選の確かさとその講師に潤沢な発表時間を与えたことが大きいかと思います。講師は一人ひとりが魅力的であるだけでなく、三人の講師がこの順番で語るという流れに必然性が感じられました。そしてそれぞれが質疑応答も含めるなら110分かけて喋ることができるのですから、講師も聴衆もゆっくりと考え、深いものを感じながら時間を共有することができました。事務局長の松井孝志先生の企画力と実行力、そしてそれをサポートした事務局と後援のベネッセコーポレーションに心から感謝します。

以下は、私がその時に感じたこと・考えたことなどです。これだけの深いフォーラムの包括的な報告などとても無理ですから、以下は私のきわめて個人的な感想およびそこから考えたこととお考えください。



■柳瀬和明先生(日本英語検定協会顧問)のお話を聞いて考えたこと

柳瀬和明先生に私は初めてお会いしたのですが、ご著書『「日本語から考える英語表現」の技術』で得た印象通りの方でした。学習者や教師に対する温かい態度に基づきながら、冷静に事柄を分析します。分析はデータに基づき論理的に展開されるものですから聴衆も納得します。フォーラムの途中で大津先生が質問をした時も、温かい表情で冷静に一つ一つの論点を確認しながら答えてゆきます。講演会などではひっぱりだこの方なのだろうと思いました。

この日の「初級から中級への「壁」を考える ―話題の「広がり」と「深み」という視点から」で、私が個人的に面白いと思ったお話の一つは、英語のインタビューで次のように答えてしまう学習者についてのことです。


Do you think fast food will become more popular in the future? 

Yes, I like fast food very much, so it will become more popular in the future.


このような応答だと仮に「流暢で正確な英語」だったとしても、聞き手はこのような話者には幼さを感じざるを得ません。しかし残念ながらこのような発話をする学習者は少なくありません。

というより、日本語でもこのような応答は聞かれないでしょうか。


ファストフードはこれからも人気上昇かなぁ?

えっ、ファストフードっすか?まぁ~、オレ的にも好きっすっし、はやるんじゃないんすっか?


残念ながら私はこのような受け答えをする若い人を具体的に容易に想像することができます。


多くの生徒・学生は以上のような話し言葉を標準化して紙に転記することを「書く」ことだと思っています。日本語だったら「自分も好きだし、これからも流行は続くと思う」と文体を標準語的なものにして漢字かな混じり文にします。英語でしたら習った英文法と正字法に従って上記のように"I like fast food very much, so it will become more popular in the future."と書きます。少なからずの若者は、「書く」ということはそれ以上のことではないと思っているのではないかと私は考えます。少なくも私がこのような文を書いてくる学生さんの提出物に対して「こんなのでは文章として通らないだろう」とコメントすると、どうしたらいいのかわからないといった不安な顔つきを示す学生さんがいます。中には口を尖らせて「何言ってるんすか!?」とでも言いたげな表情を示す猛者もいますw。

私はこれは現代の若者の多くが、まともに書き言葉に接していないことに起因するかと思います。若者は仲間内での話し言葉にはそれなりに習熟していても、書き言葉を本格的に扱うことがまだできません。活字といえばせいぜい教科書ぐらいしか読んだことがなく、それも受験のためだけなどといった人は、書き言葉(特に活字メディア)に典型的な近代の思考法・言語使用を習得できていません。

ここでいう活字メディアに典型的な近代の思考法・言語使用とは、「一般的他者」に向けて書かれた文章を読みこなし、かつ自らも「一般的他者」に向けての文章が書ける(ということは自分の下書きを「一般的他者」の目で読み直し推敲して文章として完成できる)ということです。

「一般的他者」とは、自分の身近な人間といった特定の人格ではなく、大きく言うなら、基本的な生理的基盤と近代的論理しか共有していない、抽象的に想定された言語使用者です。大量のコピーを広範囲に届けられる活字本という近代的メディアは、このように「一般的他者」に向けて書き、読む場合も「一般的読者」の一人として読む言語使用を普及させました。この普及により近代文明が支えられていることは言うまでもないでしょう。

活字本は、「一般的他者」に向けて書かれているので、親や教師による親切な語りかけにしか接していない子どもは読めません。たとえその本に使われている語彙や文法を知っていても、その間接性・抽象性についてゆけません。

そんな子どもがレポートや論文などで「ボクのことをいつも見守ってくれる先生」にではなく「一般的他者」に向けて文章を書く事を求められると、まあとにかく戸惑うばかりです。頼れるのは、特定の人間関係での共有知識と優しい配慮ではなく、近代人なら共有しているとされる一般的知識と論理だからです。

ですからレポートや論文は「ボクはこう思います」「ワタシが読んだ本にはこう書いてありました」といった独りよがりの感想文みたいになります。子どもは「ファストフードっすか?まぁ~、オレ的にも好きっすっし、はやるんじゃないんすっか」を「ファストフードは私も好きだ。これからも人気が続くと思う」に変換できたら文章を書いたと信じて疑わないのです。

だから書き直しを命じられても困惑するばかりです。私はよく学生さんに「自分が書いた文章をきちんと読める人間は少ない」と言います。自らの思い込みが詰まった文章を「一般的他者」が読むように客観視し、自らの文章の曖昧性・多義性・矛盾などを発見することは容易でない、というのが趣旨ですが、これをなかなか分かってくれない学生さんも中にはいます。


柳瀬和明先生のお話からは多少離れてしまいましたが、英語力をつけるということは、"I like fast food very much, so it will become more popular in the future."といった英語をいかに正確かつ流暢に産出できるかということではないという点は、ご講演の中でも触れられていたかと思います。



■大津由紀雄先生(慶応義塾大学教授)の話を聞いて考えたこと

大津先生は「『母語起着点、ことばへの気づき経由、外国語周遊券』のお勧め」という題目でお話されました。

大津先生のキーワードは「ことばへの気づき」ですが、時折「ことばの力」といった用語も使われます。私が感じたのはこの大津先生の「ことばの力」と柳瀬和明先生などがお使いになる「言語能力」は、通底はしているものの、強調面が異なるのではないかということでした。大津先生との質疑応答で学んだことを私なりにまとめるなら次のようになるかと思います。


大津先生と柳瀬和明先生のおっしゃる力はおそらく同じものだが、強調している側面は異なる。前者は、「ことばへの気づき」に基づくもので、子どもが日頃無自覚に使用している言語に対する反省的な眼差しを育てることである。後者は、子どもが日常の時空を超えて思考しコミュニケーションが取れるようにするためのもので、広範囲な話題や深いレベルの議論といった近代の書き言葉的な言語使用を促すものである。前者は後者の素地となり、やがて子どもの話題の興味も広がり思考のレベルも深まるにつれ後者につながる。


「ことばの力」「言語能力」「コミュニケーション能力」「言語コミュニケーション力」と用語は様々ですが、これらをできるだけ正確に理解し的確に使い分けて議論をしたく思います。そうしないと英語教育の議論はいつまでも床屋談義のままに終わるでしょう。



■加藤京子(兵庫県三木市立緑が丘中学校教諭)

加藤先生の「言葉として英語を教える-中学英語と侮るなかれ-」には、実践者が実践者の聴衆に語りかけるという、前の二人の講演の時とは異なる質の緊迫感がありました。それでいて講演の後、多くの教師が「私もやれるかもしれない」と力づけられていたのは、加藤先生の実践とそれを支えるお人柄によるものでしょう。

加藤先生の言葉には深いものが多かったです。個人的に印象に残ったのは、例えば次のようなものです。



理想や夢がなければ30年間やってゆけなかった。

私が言えるのは、私の環境で学んだことだけ。正しいように見える教育論も、環境次第であることに留意しよう。

教師は、結局生徒をどれだけ観察できるか、につきる。よそから得た教授法をそのまま使うだけではダメ。

3年間連続して教えることほどおもしろいことはない。3年間連続して教えて、ようやく教師は自らの指導を振り返ることができる。

一文単位の文法指導は限界がある。目標文他の文と対比させながら自然で説得力のある文脈の中で使うべき。

「あたりさわり無く書く」「あいまいな情報ばかりで(個別に語ることを避けて)書く」のは英語で書くとき最も魅力の無い文章です。英語上達を望む人は、魅力の無い文章を書いてはいけません。内容のおもしろくない話し方もいけません。

教師は「聞いて・読んでおもしろくないことは決して言わない・書かない」つもりで授業し教材をつくる。

中学生は英語の主語の概念をいつから理解しているのだろう?

中学生にSVOの構造を基本として身につけさせるのは大仕事。


これらについても私はきちんと説明するべきでしょう。また他にも多く学べたことはあります。ですがそれらをすべて文章化することは私の手に余りますので、ここでは次のことについてだけ少し書きます。


中学生の精神年齢にかなった内容の活動を行う


加藤先生は、英語も日本語も決しておざなりには使いません。ですから生徒が学ぶ英語もおざなりのものでなく、生徒の精神年齢にできるだけ適った英語表現を教えようとします。

そこで行ったことの一つが、中学生にそれぞれ自由に日本語の新聞記事を一つ選ばせ、それについて5つの英語文で説明をすることです。

「中学生がそんな高度な英語を書けるの?そもそも中学生が新聞なんて読むかしら?」という疑問は浮かぶかもしれませんが、加藤先生は次々に示す生徒の作品とエピソードで、中学生の潜在能力を侮ってはいけないことを私たちは学びました。(生徒の作品は会場にも展示され、私たちはそれを自由に閲覧することもできました)。

もちろんこの実践の背後には、生徒には英語説明文のモデルを示し「型」を身につけさせる、といった数々の工夫がありますが、その詳細はここでは紹介しきれません。ぜひ加藤先生のお話を皆さんご自身でお聞きください。

私としては、加藤先生が、中学生を子ども扱いせずに、新聞記事という活字メディアを読み、それについて外国語で説明できる若者に育てていることに大きく励まされました。すごい。中学生も中学生なりに、近代的な言語使用を英語で、たとえそれがわずかにせよ志向することができるわけです。私も地道に努力し、大学生・大学院生を鍛えなければと思わされました。(いや、自分を鍛えることの方が先か)。

以上、私の感想、というより私が考えたことを書き連ねました。改めてフォーラムを構成したすべての皆さんに感謝します。




追記
フォーラムの中で何度か出てきた話題が、日本人学習者の英語発話に対して日本語の「は」が及ぼす影響です。これについては私も少しだけまとめたことがありますので、ご興味のある方は、「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に」をお読みください。









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