今年度の『地球的言語としての英語』(水曜5/6限 12:50-14:20 K207教室)では、指定テクストとして、David Graddol (2006) によるEnglish Next (British Council)と水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房を使います。前者は下のサイトから無料でダウンロードできます。後者は各自で適宜購入しておいてください。
この記事では、English Nowを読み進めていく際の助けとなるように、適宜、この本の要点を短く書いてゆきます。ところどころでウィキペディアなどにもリンクをはりますので、適宜参照して下さい。※なお日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの情報の質と量は、時に驚くほど異なります。ぜひ両方を参照してください(日本語で速く読んで、英語で詳しく知ると効果的かと思います)。
ですが、解説の前に、なぜ今年からこの英語の本を読ませるかについて簡単に説明します。理由は次の四つです。
(1) 英語が読めることが、教採合格・院試合格のためにも、英語教師・研究者になるためにも、必須のことである。
(2) 英語を読むことが、他人から強いられなくても自発的に行う習慣になるためには、最初はある程度の強制・誘導が有効である。
(3) 社会的・歴史的教養を欠いたままでは、卒業後の読書(日本語・英語)の幅が非常に狭くなる。
(4) 英語普及を長い過程で捉えないと、自己理解を欠いた哀れな「英語マニア」 ―文化的な意味での植民地的状態の中でしばしば出現する一つの類型― になり、悲喜劇的状況を自他の中に生み出す。
(1)は極めて功利的な理由です。教採や院試に合格するためには、まずもって英語の読解力が必要です。そして多くの学部生が十分には英語の読解力を発達させないままでいます。このままでは仮に英語教師や研究者になっても、不十分な働きしかできず、自分でも不全感を覚え、未来の世代を育て損ねます。まずは英語の読解力をつけるために、英語の本を読む量を増やさなければなりません。
(2)は現実的な理由です。自分が必ずしも得意としていない課題を克服するには、しばしば外からの強い誘導あるいは強制があった方がいいというのが、私たちの現実です。ピアノ演奏でも習熟すれば、「気分転換にピアノを弾こう」とピアノを弾くことが自発的な習慣・喜びとなります。しかしその境地に達するには、ある程度の練習量が必要です。その練習量を確保するには、自分の意志の力だけでなく、外からの要因も欲しいところです。
もちろん、その外からの要因が不愉快なものだったりすれば、練習量だけ積んでも自発的な習慣や喜びには至りません。ですからこの授業でも快適な学習空間を作り保つよう気をつけますので、ぜひこの授業という外的要因を使って、放っておいても自分の楽しみのために英語を読む人間になってください。
(3)は時々私が教育学部で心配に思っていることです。教採合格を目指して一直線に勉強することは仕方ないことかもしれませんが、その際に「無駄」を省いて、教採問題集に出てくる項目だけを暗記するようになり、その他にはせいぜい教室・学校空間の内側で起こることだけにしか興味関心が向かなくなると、受験指導には長けても、生徒を人間的・社会的に十全に育てられない教師になるのではないかと私は懸念しています。
教室・学校も人間社会の中にあるものです。ですから教師も(そして教育に関する研究者も)人間社会をより深くより広く理解しなければなりません。そのためは卒業後も、日本語・英語を問わず、また新聞・雑誌・ウェブ・書籍を問わず、読書経験を積み重ねる必要があります。しかし教育学部出身者は、しばしば社会的・歴史的な基礎教養を欠いたまま卒業してしまいますので、卒業後の読書の幅が非常に狭くなり、本来必要な教養を得る機会を失いがちです。卒業前に社会的・歴史的な教養の基礎を身につけておいてほしいと願う次第です。
(4)は私が日本の英語教育界にいて、時々、痛々しく感じることです。英語教育関係者の中には、それが「受験英語」であれ「ネイティブの英語」であれ、それに取り憑かれたように熱中し、少しでもその目指す規範に達しない者を見下げたり罵倒したりするような「英語マニア」がたまにいます(20歳代の私にもその傾向がありました)。そういう人の人生は ―傍から推測するならば― 多分に不幸で、また周りの人びとも幸せにしません。そういった偏執・こだわりから解放されるには、英語が普及している過程に関する歴史的洞察が必要です。現在のグローバル社会に対する理解も必要です。
以上の四つの理由などから、本年度はBritish Council(ブリティッシュ・カウンシル)の委嘱を受けて、英国の応用言語学者David Graddolが書いたEnglish Nextを読んでゆきます。
なお、附言しておきますと、授業ではこの本を指定テクストとして使いますが、皆さんが思っているかもしれないような意味での「教科書」ではないことをご理解ください。
受験合格に最も効率化した現在の日本の教育体制で、少なからずの生徒は、しばしば「真理=試験の解答」と短絡し、「教科書=試験の解答を導き出すための本」と認識し、「学ぶ=教科書だけをやること」と錯誤しているようです。「教科書に書いてあることはすべて真実であり、逆に言うならそれ以外に真実はない」ぐらいに教科書を神聖視しているかのようにすら思えることがあります。
言うまでもなく、こういった考えは、人間社会の複雑性を理解しない短見に過ぎません。もちろん自然科学などにはほぼ恒久的といってもいいような知見もあります。それに関しては丸暗記も有効かもしれません。しかし人文・社会系の事象に関しては、学説にしても、「現時点まででは、このような見方でそれなりに一貫した観察に成功している知的枠組み」に過ぎず、それと異なる(あるいは矛盾する)知的枠組みもあります。人文・社会系の学説を学ぶのは、複数の知的枠組みを身につけ、複眼的に思考ができるようになるためです。このEnglish Next!も複眼的思考を獲得するための、一つの見方としてとらえ、この本に書かれていることを鵜呑みにせず、時に自分で疑問を持ち、自分で調べ考えて下さい。それが「批判的」な態度です。
それでは以下に、短くEnglish Nextのポイントを書きます。
Introduction
■現在も英語学習者の数はさらに増え、かつ低年齢化している(p. 10)
■しかしながら、最近は質的に大きな変化が生じ始め、英語の未来は、これまでの延長であるとは言えなくなってきている(p. 11)
■例えば、今や英語は、シェイクスピアに代表される言語から、グローバルなリンガフランカ(lingua franca)へと変質している。これは英語母語話者にとっては必ずしも喜ばしいことではない。(p. 11)
■英語は世界の至る所で、国や個人のアイデンティを変えつつある。富の新たな分配が始まり、英語を話さない者が社会的に排除(social exclusion)されることも始まりつつある。人権や市民であることの意味も変わるかもしれない。(p. 12)
■「グローバル英語」とは、既に決まったこと('done deal')ではない。今世紀中にもグローバリゼーションから、以前よりも強力な地域主義(regionalism)が台頭し、言語的にも経済的にも文化的にもより複雑な力関係が生まれるかもしれない(p. 13)。[参考:ジャック・アタリ著、林昌弘訳 『21世紀の歴史』 作品社]
PART ONE: A world in transition
INTRODUCITION
■西洋的な視点からすれば、人間の歴史は、「近代以前(前近代)」(premodern)、「近代」(modern)、「ポスト近代(後近代)」(postmodern)の三つに大別できる。(p. 18)
■「近代」は、ルネッサンスに端を発し、資本主義経済・植民地拡張・プロテスタント(宗教的権威への対抗)・国境紛争・啓蒙思想・産業革命・都市化などにより本格化した。(p. 18)
■「近代」と共に「近代語」(modern languages)が成立し、それと共に「母国語話者」(native speakers)や「外国語」(foreign language)という概念も定着した。[参考:フランスの言語政策→フランス革命]
■現代の諸変化は、近代の旧秩序が、ポスト近代へと大きく変化しようとしていることの現れとも解釈することができる。(p. 18)
■近代以前の特徴:1)信仰が安全と権威の後ろ盾であった。2)変化とは歴史的な循環に過ぎないと考えられた。3)""Foreign"とは隣の地域のことに過ぎなかった。4)言語はまだ標準化(standardized)も体系化(codified)もされていなかった。地理的・社会的な多様性は、方言(dialect)ではなく異なる言語によって表されていた。5)人びとは実際の接触から多言語を習得し、様々な目的のために使っていた。(p. 19)
■近代の特徴:1)理性を信頼し、科学と技術が人間の未来を定めると信じる。2)変化とは「進歩」(progress)であり、常に前に・上に・外へと進むものだと考える。3)「国民国家」(nation state)がアイデンティティの基盤となり、"foreign"の意味もこの観点からもっぱら捉えられている。4)言語は、国民国家の「標準語」として形成され、この標準語が様々な目的のために使われる。5)国家は単一言語(monolingual)の国家となることを欲し、様々な地域の言語は隅に追いやられたり(marginalized)抑圧されたり(suppressed)する。(p. 19)
■ポスト近代の特徴:1)世俗的な考え方(secularism)と宗教的な原理主義(fundamentalism)の間の緊張が強くなる。2)変化は複雑性(complexity)の中で必然的に生じるものとされ、自然理解の枠組みもニュートン物理学からカオス理論や量子力学へと変わる。[参考:『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)』、『知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)』] 3)アイデンティティが複雑、流動的、矛盾に充ちたものになる。4)政党政治から、それぞれの論点ごとの圧力団体が力をもつ政治へと変化する。5)社会や家族がさらに断片化する。6)多言語使用(multilingualism)が規範となる。[参考:国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ] (p. 19)
■ポスト近代においては、英語が「英語母国語話者」のお墨付きをもらって「外国語」として学ばれるという状況はなくなる。(p. 19)
◆考えてみよう:日本は単一言語国家(monolingual nation)だろうか。日本の将来は言語の観点から考えればどのようになるだろう。
■現在は、近代性(modernity)とポスト近代性(postmodernity)が対立し、パラドックスや矛盾を数多く引き起こしている。英語も、一方では近代の解体の一助となっているが、他方、一部の国々では、帝国主義的旧体制のエリートを再生産する働きをしている。(p. 20)
■新しい現実は、英語の非母国語話者にも変化を強いている。特に古い英語教育体制で、英語の権威を自らのアイデンティティのよすがとしていた旧エリートなどに。(p. 20)
■ポスト近代が語られる今も、近代とは未完のプロジェクトである(the modernity project is incomplete)であり、近代化抜きにグローバリゼーションへは移行できないと信じている国も多い。例えば中国は、今、古いヨーロッパの国民国家理念に基づいた国家形成をしているようにも思える。というより、中国は近代化とポスト近代化の二つの課題を同時に遂行しようとしていると言った方がいいかもしれない。(p. 20)
■このような矛盾こそがポスト近代の特徴かもしれない。近代では矛盾は問題を引き起こすだけであったが、ポスト近代は複雑性の考えに親和性をもっている。近代の発想が単純な線形(liner)モデルであるのに対して、ポスト近代の発想は非線形(non-liner)で複雑性や矛盾に充ちたものである。(p. 21)
■ポスト近代は、中世への回帰であるとする見方もある。国境の意味の弱体化・多言語使用・アイデンティの流動化などを考えると肯けるが、中世という考え方は、コミュニケーションとグローバリゼーションというポスト近代の特徴を捉えていない。(p. 21)
■英語教育関係者もこのような時代の流れの中で翻弄されている。(p. 22)
■来るべき変化は、産業革命や国民国家の台頭に匹敵するような劇的な変化となるだろう。まったく新しい社会的・経済的・政治的秩序が現れ、言語的にも新しい世界秩序が現れるだろう。(p. 22)
SECTION 1: DEMOGRAPHY (人口統計学)
◆考えてみよう:図1.2のS字カーブを見て、どんなことを感じるだろうか?
■人類は、5億人程度の地球から、100億人程度への地球へと急速に移行しているのかもしれない。(p. 25) [参考:Hans Rosling on global population growth]
■イタリアのような国では、若い人が減り老齢者が増えているので、移住労働者(migrant workers)が多く入ってくる。ポーランドのような国では、労働人口が増えているので、多くの人が移住労働者として他国へ出てゆく。(p. 26)
■1960年から2000年の間に、国から国へと渡る移住者(international migrants)の数は倍増し、1.75億人、世界の人口の3%近くとなった。(p. 28)
■発展途上国の経済が成長すると、かつて移住者として出国した人びとが、技術と資本をもって帰国するようになる。(p. 29)
■しかしそういった帰国者(returnees)は、しばしばアイデンティティの問題を抱える。(p. 29)
■国をまたいでの旅行者のうち、四分の三は非英語使用国から非英語使用国へと旅行をしている。このような流れでは対面状況で使われるグローバル英語がしばしば求められる。(p. 29)
■参考:私たちの多くは、歴史を「偉人たちの英雄伝」として読み解くことばかりに慣れてしまっているが、歴史はこの章のトピックでもあった人口増減や、環境とその変化、技術普及などの、どちらかといえば自然科学系の切り口からも説明できる。いや、今や、そのような説明法の方が説得力をもっているのかもしれない。世界的なベストセラーである『銃・病原菌・鉄』(Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies)は最近文庫本化された。ぜひ読んで欲しい。気に入ったら(存外に安い)CD朗読版を買ってみよう -- 私も買いましたが、まだあまり聞いていません(汗)。
SECTION 2: ECONOMY
■英語学習を振興する理由として最初にあがるのが「経済」だ。英語教師としては「経済」の動向についても理解しておこう。(p. 31)
■現代の経済について理解するためにも、以下の記事を読んでおいてください。
デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)『新自由主義』作品社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html
The rise of the BRICs
■19世紀以前の中国とインドは、経済大国であったことを忘れないでおこう。(p. 32) [参考:明清帝国、ムガル帝国]
■この本は2006年に出版されたが、2009年に中国はドイツを抜いて世界第一位の輸出大国になった。
改革開放以来、中国は貿易の自由化と直接投資の受け入れを通じて世界経済との一体化を進めており、2001年の世界貿易機関(WTO)加盟を経て、そのペースは一段と加速している。2009年に中国は、ドイツを抜いて、世界第1位の輸出大国と第2位の輸入大国となった。これを背景に、日米をはじめ、主要国にとって、中国は輸入先としてだけでなく、輸出先としての重要性も増している。中国では貿易の量的拡大とともに、その構造も途上国型から新興工業経済群(NIEs)型へと高度化してきており、輸出の中心は、従来の繊維をはじめとする軽工業品から機械などのより付加価値の高い製品に移ってきている。
中国の輸出入は、1978年には計206億ドルで世界第29位であり、2001年でもまだ世界第6位だった。だが2009年になると、輸出は1兆2,017億ドル、輸入は1兆56億ドルに達し、輸出入合計では2兆2,073億ドルと、米国に次ぐ世界第2位となっている。
輸出に限ってみると、2001年に6位だった輸出総額は中国のWTO加盟に伴い急速に増え続け、2002年には英国を抜いて第5位に、2003年にはフランスを抜いて第4位に、2004年には日本を抜いて第3位に、2007年には米国を抜いて世界第2位に、2009年にはついにドイツを抜いて世界第1位となった
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/100224world.htm
■2010年には中国が世界第二の経済大国になった。
中国が世界第2の経済大国になった今、アメリカとヨーロッパは巨額の貿易不均衡をめぐる中国批判を強めるはずだ。高度に工業化された日本と長らく競り合っていた中国が日本を追い抜いたことは、大きな意味を持つと受け止められている。
「もはや中国を新興国と呼ぶことはできない」と、エコノミック・アウトルック・グループのバーナード・バウモールは言う。「より大きな国際的責任と向き合わなければいけない。フェアに行動する必要がある」
日本政府が16日に発表した今年4?6月期の国内総生産(GDP)の速報値によると、日本の経済規模(名目GDP)は約1兆2883億ドル。同期の中国のGDPは1兆3369億ドルで、ライバル日本を上回った。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2010/08/post-1528.php
■図1.11 (p. 33) は米国での職の変化を示しているが、約200年の期間で考えるなら、農業人口は激減、工業人口はゆるい山なり、サービス業人口は急増している。同じページの図1.12は、発展途上国でのサービス業が急成長し商品売買を超えたことを示している。サービス業は、製造業よりも、より言語コミュニケーションを要求することに注目したい(また、英語使用だけでなく、その他の言語使用も双方向コミュニケーションのためには重要になってきている)(p. 32)
■中国とインドがこのまま成長を続け、日本並の消費をするなら、やがて両国だけで地球上のすべての資源を必要とするようになるかもしれないという予測もある。(p. 33)
■中国やインドなどのアジアの台頭は、5世紀にわたるヨーロッパの植民地支配の終わりを告げるものだという見解もある。(p.33)
■中国は独自の世界戦略をもつ国のようであり、中国が英語教育に力を入れ同時に外国語としての中国語を普及させようとしていることも、中国の世界戦略の一環として考えるべきであろう。(p. 33)
Globalisation, ITO and BPO
■グローバルビジネスモデルの理想とは、貧しい国で安く生産し、豊かな国で高く売ることである。(p. 34)
■ビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)やITアウトソーシング(ITO)は、いわゆる「ホワイトカラー」("white-collar"。 "colo(u)r"ではなく"collar"。発音にも注意)の仕事も、安定したものではないことを明らかにした。世界的な傾向としては、仕事の一部でも安く外部に委託できるのならばそうしてしまえ、となっている。(p. 34) [参考:トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)(下)』日本経済新聞社、アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー(2006)『富の未来(上)(下)』講談社]
■図1.13 (p. 34)から読み取れるかもしれないことの一つは、英語を使う国はアウトソーシングに有利だということである。
◆考えてみよう:P.35の左上コラムのマクドナルドの話は大げさに聞こえるだろうか?皆さんのバイト経験に、似たようなことはないだろうか。
◆考えてみよう:P.35の左下コラムを読み、以下のようなサイトをチェックし、「教育」「学習」というのが、今やどのように動こうとしているのか、考えてみよう。
The knowledge economy (知識経済)
■ビジネスは、「バリューチェーン」(value chain)の中でも、より高価値を生み出すプロセスに移行しようとする。この結果、教育における「軍拡競争」(arms race)が始まる。
■アウトソーシングで設けていた発展途上国も、すぐに経済が発展し賃金があがると、やがてもっと貧しい国にアウトソーシングの仕事を奪われてしまう(台湾、シンガポール、マレーシアなどは、以前はコンピュータ部品のアウトソーシングで儲けていたが、今やその仕事は中国に奪われつつある)。(p. 36)
■最近では、高価値の仕事も「海外直接投資」(foreign direct investment: FDI)の形で中国やインドで行われるようになってきた。(p. 36)
■技術移転(technology transfer)も、以前は完成品が移転するだけだったが、現在はイノベーションのプロセス自体が移転するようになってきている。(p. 36)
■ノルウェーからシンガポールに至るまで、世界の多くの国々の政府は「批判的思考力」(critical thinking)や創造性(creativity)を国民につけようと必死である。2006年にインドは知識のグローバル・ハブ(a global knowledge hub)となる政策を再確認した。(p. 37)
■知識創造までも外部委託することを、knowledge process outsourcing (KPO)と呼ぶこともある。BPOを受け持つ組織は労働者として大卒を必要とするが、KPOを受け持つ組織は博士号取得者を必要とする。(p. 37)
The redistribution of poverty
■英語は富への入り口としばしば言われる。もしそれが事実としたら、英語の普及に伴い、富と貧困のあり方も変わるかもしれない。よく検討してみよう。(p. 38)
■近代的な考え方からすれば、英語を習得することが、教養ある選ばれた中間層(middle class)となることであった。しかしグローバル化した世界では、英語は昔に比べるとはるかに普及していることに注意。(p. 38)
■英語は今や世界規模での知識の、そして取引の入り口となっている。逆に言うなら、英語ができないと知識からも取引からも排除されることになる。(p. 38)
■発展途上国では、能力ある人びとが海外に頭脳流出するという問題が生じている。(p. 38)
■頭脳流出した人びとが先進国から母国(発展途上国)に送金しているお金の流れ、およびそのお金が母国でどのように流れているかについては、公式統計だけではとても把握できないだけの動きがあると推定される。(p. 39)
■古典的なマルクス主義(参考:マルクス経済学)によれば、資本主義が発展するには、資本家が労働者の労働から、その価値以上の剰余価値を引き出さなければならない。この剰余価値を引き出す分だけ、労働者への賃金は低く押えられる。[参考:池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社]。
■海外へのアウトソーシング(あるいはoffshoring)が進むにつれ、先進国では失業の問題が生じてきた。しかし他方で、こういったグローバルな流れが先進国での物価を抑えると同時に労働賃金の高騰を抑えるという結果ももたらしている。[しかしながら2011年秋に広がった「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)のメッセージも理解しよう。さらに脱線するなら、20年以上の時を挟んで、資本主義の象徴とも言えるウォール・ストリートについて、同じ監督が同じ主演男優を使って描いた、次の二つの作品を見比べることは興味深いかもしれない。個人的には、二作目の「煮え切れなさ」というか「後味の悪いほろ苦さ」がいかにも現代を描いているようで面白かった。いずれにせよ、英語教師もグローバル資本主義という現実についてある程度理解し、それをいたずらに礼賛も否定もしないようにすることがないようにしておく必要があると考える。]
■グローバリゼーションは、それぞれの国内での貧富の格差を拡大している一方で、諸国間(先進国と発展途上国の間)の格差は縮小させているようにも見える。英語にどれだけアクセスできるかというのが、これらの格差の一要因として考えられるかもしれない。(p. 40)
SECTION 3: TECHNOLOGY
■テクノロジーは、経済だけでなく、社会もグローバル政治も変えている(そして文化も言語も)(p. 41)
Communication technology
■国際電話は以前は非常に高価で通信距離によって価格が決定していたが、20世紀末までには国際電話は廉価(あるいは無料)になり価格も発信・送信国の通信制度の自由化の度合いによって決まってくる。(p. 42)
■参考:今ではほとんど聞かれることも少なくなったWeb 2.0(ウィキペディア)という用語が流行する以前、インターネットは強力な発信力をもった送り手からその他大勢の受け手への一方向の情報の流ればかりだったが、Web 2.0以降、social media(ソーシャルメディア)が普及し、情報の流れは双方向、というより多方向になった。
■監視というのは、以前は「パノプティコン」のイメージで語られることが多かったが、現代ではICTにより普通の市民が政府を監視したり相互を監視したりできるようになるなど、「監視社会」(surveillance society)も複雑な様相を取り始めた。
また2010年からの「アラブの春」(Arab Spring)は、市民がソーシャルメディアをもった力を見事に示したようにも思えた。
しかし、国家がもつ監視能力を過小評価することはできないだろう。(p. 43) [参考:ジョン・キム(2011)『ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来』ディスカヴァー携書、mass surveillance、Evgeny Morozov@evgenymorozof]
■参考:ICTは自然科学は言うまでもなく人文系の諸学問にも影響を与えている("culturomics", "Google Ngram Viewer", "digital humanities")
Language on the internet
■コンピュータは基本的にアメリカで生まれ発展した技術文化だけに[参考:池田純一(2011)『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) 』]、以前はコンピュータやインターネットを使いこなすためにはまず英語を習得しておかねばならないとも思われていたが、現在、ICTの世界はどんどん多言語的になってきている。(p. 44)
■44ページの図1.22およびhttp://www.internetworldstats.com/stats.htmなどの資料を見ると、英語以外の言語がどんどんとウェブ空間に進出していることがわかる。だが情報の量はともかく、質ということになると、英語の力を過小評価することはできないだろう -- 例えばこのセクションからはっているリンクをたどり、日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの記述を比較してほしい。(p. 44)
■機械翻訳(machine translation)もICTが大量のデータを処理できるようになり、急速に発展しようとしている。[参考:ブラウザーChromeのGoogle Translateはインストールしておくと日英語以外のサイトにアクセスした時に、だいたい理解できる英語に翻訳してくれるので便利である]
■総じて、ICTが普及することにより、ウェブ上の言語使用状況も、以前の一部の者だけによる形式的な言語使用から、さまざまなジャンルが共存する、現実社会の社会言語学的状況と同じようになってきている。(p. 45)
News media
■グローバル化した世界(globalised world)では、国際的ニュース(international news)が重要である。以下は興味深い国際的メディアである。(pp. 46-47)
ちなみにNHKにもNHK World (http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/)がある。
■テクノロジーによって、コミュニケーションのあり方も変わり、言語の使用状況も変わりつつある。(p. 48)
SECTION 4: SOCIETY
■言語使用は、人びとの社会的関係やアイデンティティ(自己同一性)と結びついている(p. 49)。これらの側面は、これまでの英語教育研究(応用言語学)では軽視されてきたが、最近の欧米の応用言語学では急速に注目されている。日本の状況を今後よりよく理解するためにも、こういった側面の理解を深めよう。[参考:B. Norton & C. McKinney (2011) An Identity Approach to Second Language Acquisiton]
An urban, middle class future
■経済が発展すると、都市化(urbanisation)が伴う。(p. 50)
■都市化は、しばしば都市部への人口集中だけでなく、地方の過疎化(depopulation)を招き土地の利用パターンも変わってくる。(p. 50)
■英語は、都市の言語とみなされ、だんだんと増えてきている中産階級(middle class)や、大都市(metolopolitan)での仕事や、都市型ライフスタイルと結びついている。(p. 50)
■中産階級は経済発展の結果であると同時に、経済発展を推進する要因でもある。インド政府も中国政府も自国の中産階級を国内消費の担い手として考えている。中産階級が国内でどんどん消費をすれば、海外の多国籍企業からの投資も増え、社会も安定するだろうと考えている。(p. 50)
■インドの都市化はそれでも他のアジア諸国に比べれば遅い。だが、インド南部のバンガロール(Bangalore)では、従来からインド北部のヒンディー語勢力に対抗するためもあって英語使用が盛んであったが、近年はSillicon Valley of Indiaとも呼ばれ発展している。(p. 51)
■インドの中産階級は1980年代中頃は人口の10%以下だったが、2000年代には20%(2.2億人)となった。中国では2003年で19%だが、2020年までには40%に達するとも予測されている。(p. 51)
■言うまでもないが、都市に住む者がすべて中産階級というわけではない。大都市の一部(特に郊外部)ではスラムもできている。だが、スラムに住む地方からの居住者は、大都市と地方(故郷)の文化的・経済的パイプ役ともなっている。(p. 51)
Social cohesion
■ICTの普及で、社会的つながりにも変化が生じ始めている。個人や小さなコミュニティが、遠くの人びととつながりながら、物理的な近隣とは疎遠になる現象も相次いでいる。
■国のアイデンティティ(少し古い言い方で言うなら「国体」)が失われるという恐れを、さまざまな国々で少なからずの人が感じている。
■北部アメリカや西ヨーロッパの一部の都市では、その国の標準語を話せなくても、普通に職を得て、暮らし、公共サービスを受けることができる。その国でのマイナー言語の共同体がそれなりの規模をもっているからである。
◆考えてみよう:時に人びとは「民族」("ethnic group")を客観的実体とみなしているが、それは実は主観的・社会的・政治的な構築物であるといえる。興味があれば、塩川伸明『民族とネイション―ナショナリズムという難問』 (岩波新書)などの入門書を読んで下さい。
■前近代において、個々人が地域間を広範囲に移動することは、一部の商人・冒険家・兵士・旅芸人・学者などを除けばほとんどなかった。近代になり交通機関が発達し、旅行も盛んになり、また植民地支配も広まった。遠くの土地に移住した場合、概して人びとは、故郷と疎遠になり、新しい土地で新たな人間関係とアイデンティティを築いた。(p. 52)
■しかし現代においては、人びとが遠くの土地に移住しても、ICTを通じて、故郷との結びつきを失わず、同時に新しい土地での人間関係・アイデンティティ形成を図ることが可能になっている。[2012年4月現在、私はイギリス語学留学に行った教英の学生さんが、Facebookを通じて日本の友人とイギリスでの写真を簡単に共有したりしている様子に、時代は変わったな、と感じた]。遠くの外国に移住しても、今や、故郷の新聞をウェブを通じて読むことも容易だし、場合によっては衛星放送でテレビも視聴できる。(p. 53)
■FacebookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス, social networking service)は、卒業後の旧友とのつながりを、かつてでは考えにくいほどに親密なものにしている。 (p. 53)
◆考えてみよう:ひょっとしたら、これからは社会関係資本 (social capital)においても格差が深刻化するようになるのだろうか。言語を問わず、コミュニケーション能力の差が重大になってゆくのだろうか?
■バイリンガルは、モノリンガルとは異なる価値観を持ち始めることがある。スペイン語しか話さない人びとと、スペイン語を第一言語としながら英語を第二言語として多用する人びとの間では、例えば中絶に関して大きな意見の違いが見られる。(p. 53)
The growing gap
■変化の激しい現代においては、家族の中にも大きな差異が生じかねない。例えば海外移住を数年間した家族などでは、兄弟姉妹の中でも、得意な言語に差がでかねない。また、祖父祖母ときちんと言語コミュニケーションが取れない子どもも珍しくない。(p. 54)
■シンガポールでは、英語が第二言語から、次第に事実上の主要言語(the main language of the home)になってきている。(p. 55)[このあたりに関しては、(2012/04/18現在)特に英語Wikipedia: Singapore => Languagesと、日本語ウィキペディア: シンガポール => 言語の記述を比較してほしい。このブログではできるだけ日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの両方にリンクをはっているが、ぜひ両方を読み比べ、日本語だけしか使わない場合の情報量と、英語を(も)使う場合の情報量の違いを感じ取ってほしい]。
■これまで家庭こそは、子どもの安定した言語的・民族文化的アイデンティティを醸成する場だと考えられてきたが、現代は、必ずしもそうとは言えない。これからは家庭以外の要因もアイデンティティ形成にとって重要である。(p. 55)
SECTION 5: LANGUAGES
■
'The story of English'とは、1986年に製作されたテレビ番組であり、その書籍版も出版された。(日本語翻訳も出ている)。この歴史観からすれば、現在の'Global English'は英語母語話者の「勝利」とも捉えられるが、現在の現実はこの当時の歴史観で捉えきれないぐらいの広範囲で複雑な変化が生じている。(p. 57)
The triumph of English
■Global Englishとは、
近代英語(
Modern English)が世界規模に広がったと考えるよりは、過去との不連続において生じた現象と見るべきであろう。
■英語は通常、
古英語 (
Old English)、
中英語 (
Middle English)、
近代英語(
Modern English)の三つの時期に歴史的に分類され、古英語と中英語の間に
ノルマン征服 (
Norman conquest)によるフランス語の影響、中英語と近代英語の間に政治・宗教・経済などでの飛躍的な発展、が主な背景要因としてある。(p. 58)
■グローバル英語とは、これらに続く第四の時期の英語と考えられるべきで、地球規模のリンガ・フランカであり、ポスト近代世界における新たな文化・言語・政治・経済的事象であると認識できる。(p. 58)
■しかし、現在の
英語史 (
History of the English language)の多くは、十九世紀の価値観・世界観を反映したものにすぎない。(p. 58)
■そういった(今では)古い英語史の考えでは、英語史とは、英語の立身出世(
"rags to riches")物語である。英語は、古英語としてまとまりかけていたところを悪役のフランス語(ノルマン征服)によりその調和を乱されたが、『カンタベリー物語』などで中英語として新たな形をなし、さらに
ドライデン(
John Dryden)や
シェイクスピア (
William Shakespeare)などによって、文芸の言語(literary language)としても国のアイデンティティを示す言語としても十二分な力をもち、加えて
ニュートン(
Isaac Newton)や
王立協会(
Royal Society)の科学者により科学を表現するにも十二分な力をもつ言語となり、近代英語としうて結実した。(p. 58)
■近代英語は、さらに18世紀の
サミュエル・ジョンソン (
Samuel Johnson)の辞書、19世紀の
オックスフォード英語辞典 (
Oxford English Dictionary)により、その地位を不動のものにした。(p. 59)
■こういった英語史観の背後には、産業革命によって絶頂期を迎えたイギリス帝国の時代である
ヴィクトリア朝 (
Victorian era)に代表される19世紀的価値観がある。こういった近代的価値観では、国民国家としての進歩と成長が強調され、言語の近代化も、国内での地位確立ためだけでなく、イギリス帝国の果てまでも文明化させるためにも必要なことであり、近代英語の確立と普及は英語話者の義務だと考えられた。(p. 59)
■グローバル英語を、こういったこれまでの英語史に付け加える新たな一章と考えるならば、グローバル英語とは、近代英語が国境を越え、(ライバルであったフランス語を押しのけて)国際的なリンガ・フランカとなり、ヨーロッパで最も好まれる実用言語・作業言語(
working language: a language that is given a unique legal status in a supranational company, society, state or other body or organization as its primary means of communication)となった英語の勝利を示すものとなる。しかしグローバル英語をそのように捉えるのは重大な誤りである。このような自文化中心主義的(ethnocentric)な考えでは、現在進行中のグローバル英語による世界の変容と(その逆に)世界の変容によるグローバル英語の変容という複雑性を捉えることができなくなる。(p. 59)
The world languages system
■近代に入って、世界の言語の総数は少なくなり、またその減少傾向は加速している。しかし、これをグローバル英語の普及による傾向とするのはやや早急である。なぜなら、言語の多様性の喪失は、グローバル英語の普及以前から進行しているからである。とはいえ、グローバル英語の影響は等閑視するべきでなく、英語は、国民国家言語(national languages)の「食物連鎖」('food chain')の上位にいる。(p. 60)
■言語に関するレファレンスとして信頼のおける
Ethnologue (
http://www.ethnologue.com/)によれば、現在、世界には7000近くの言語がある。しかし、そのうち上位12の言語で、地球人口の半分が話している言語をカバーしていることになる。(p. 60)
■母語話者(注)の数でいうなら、英語は50年前こそ
中国官話(
Mandarin Chinese)に次ぐ世界第二位のち位を占めていたが、現在、英語は母語話者(あるいは第一言語話者(first-language speaker))の数では、スペイン語と
ヒンドゥスターニー語(
Hindi-Urdu: a pluricentric language, with two official forms, Standard Hindi and Standard Urdu)とほぼ同数ではないかと推定されている。また近々、アラビア語の母語話者が急速に増えてゆくだろうとする学者もいる。(p. 60)
(注)'native-speaker'を「母語話者」と訳すべきか、あえて「母国語話者」と訳すべきかは私はいつも迷う。例えば私の'mother-tongue'は九州方言であるが、今私が書き連ねているような言語(職場で使う言語でもあり、私が個人的情感を確認する言語でもある)は日本国の学校制度を基盤にして獲得した「日本語」(というよりまさに「国語」)だからである。近代的言語が「国民国家」の概念と制度によって形成されたことを明確に示すためには、私は「母語」より「母国語」の方がよいのではと考えている。このあたりについて考えるためには、この
English Nextの次に読む水村美苗『日本語が亡びるとき』や以下の本を読んで欲しい。
・イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1996.html
・イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2009.html
・橋本治『言文一致体の誕生』朝日新聞出版
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010.html
・安田敏郎『「国語」の近代史』中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html
・山口仲美『日本語の歴史』岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2006.html
・福島直恭『書記言語としての「日本語」の誕生』笠間書院
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008.html
■中国語は、世界中で最も多い母語話者数をもつ言語であるが、現在は
中国官話(
Mandarin Chinese)からさらに「
普通話」(
Putonghua --もしくはStandard Chinese, Modern Standard Chinese, Modern Standard Mandarinあるいは以前と同じままにMandarinとも呼ばれる)に整備されようとしている。(p. 61)
■スペイン語の母語話者数は、現在、英語の母語話者数とほぼ同じだが、おそらく近いうちにそれを追い越すだろうと考えられている。それに伴いラテンアメリカと米国でのスペイン語の経済的重要性も高まるだろう。(p. 61)
■アラビア語は、現在、母語話者数が最も急速に増加している言語である。また、かつてBBC (
http://www.bbc.co.uk/)が'BBC English'を普及させたように、Al Jazeera (
http://www.aljazeera.com/)は、アラビア語をよりいっそう整備し普及させるかもしれない。(p. 61)
■中国は、
孔子学院(
Confucius Institute) (
http://www.chinese.cn/)によって外国語あるいは第二言語として中国語を普及させることに力を注いでいる。この孔子学院は、英国の
British Council、ドイツの
Goethe-Institut、フランスの
Alliance françaiseと同じような機能をもっているが、孔子学院では中国政府の意向が強すぎるという批判もあるようである。 (p. 63)
■スペイン語の影響力が強くなるにつれ、ブラジルでは2005年より全ての中等学校でスペイン語の授業を提供することを決定した。これによって生徒は英語かスペイン語を選択することとなった。(p. 63)
A transitional stage
■この第一部では、世界が変革期(a state of transition)にあることを強調した。この歴史観は、単純な進歩(progress)という近代の歴史観と異なる。(p. 65)
■著者は「ポスト近代」('postmodern')という用語を好んでいるが、研究者の中には「後期近代」('late-modernity')という用語を好む者もいる。(p. 65)
■しかし現代の変革が急速で、不安定感により人びとを戸惑わせるものだとしても、やがては落ち着く所に落ち着くのかもしれない。人口増加、都市化、脱工業化、BRICsの経済発展もどこかで一種の'some kind of predictable end point or destiny'に到達するのかもしれない。(p. 65)
■現在は中国やインドなどが安い労働力で、先進国の脅威となっているが、やがて中国もインドもその競争力を失うかもしれない。中国やインドの賃金が上がり、より安い労働力をもった国々が台頭するからである。理屈からすると、いつかは世界中の国々の賃金や知的創造性がほぼ同等なレベルに収束するとも考えられる。もちろん、悪政や戦争あるいは自然災害などがあれば別であるが。 (p. 65)
■John Ralston Saulは2005年の著作
The Collapse of Globalismで、グローバリゼーションは既に終結期にあり、私たちは今や様々な
ナショナリズムが台頭する「危険な真空状態」にあると説いている。この状況は、19世紀後半の自由貿易とグローバリゼーションの台頭に比することができるかもしれない。その際、19世紀後半のその流れは、第一次世界大戦につながっていったことを忘れてはならない。(p. 66)
■このような時代において、英語は一方でリンガ・フランカでありながら、他方で特定の文化的・経済的価値(ひいては宗教的価値)を体現するものであるという矛盾した状態にある。(p. 65)
■一口に「変化」と言っても、私たちは少なくとも以下の四種類を区別するべきなのかもしれない。(1)つかの間の変化(Ephemeral): 若者の携帯メール多用が言語文化を変えてしまうのではないかといった不安感の台頭。 (2)過渡期の変化(Transitional): 第二言語としての英語をこれまでより若い年齢層に教え始めるといった一回限り(one-off)の変革。 (3)古い
パラダイムの衰退(The declining old paradigm): 英語を「外国語」として教えるEFLの考え方が輝きを失うことなど。(4)新しいパラダイムの台頭:英語教育においてはネイティブスピーカーが"
gold standard"ではないという考えの台頭など。 (p. 66)
■67ページの参考文献表にもあげられているが、2005年刊行(原著)のThe World is Flat.は読んでおくべき本の一つかもしれない。
トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)(下)』日本経済新聞社
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060920
PART TWO
Education
The educational revolution
■Part Oneで述べられた諸現象は、"a global revolution in education"を引き起こしている。
◆考えてみよう:あなたはこの教育の革命的変動を実感できているだろうか。テクノロジーといった誰の目にも明らかな表面的な現象だけでなく、そもそも教育に関する根源的な考え方の変革を感じているだろうか。
以下は、Ken Robinsonによる有名なTED動画である。これも時間を作って見て欲しい。
Ken Robinson: How to escape education's death valley
次の動画もぜひ見て欲しい。目の前の短期的な出来事だけに囚われるのではなく、長期的な視点も持って欲しい。
RSA Animate - Changing Education Paradigms
また、次の動画は、西洋的な近代教育観の偏りを教えてくれるかもしれない。(ついでながら言うと、このRSA Animateは非常に優れているので、ぜひRSSかYouTubeで購読して欲しい。
以下は、江戸時代の学びという比較の対象を得ての、西洋近代的教育観の問い直しの書(に関する私の紹介)である。ぜひとも目の前に見えていると自分が信じて疑わない「現実」だけが、世界の可能なあり方ではないことを実感して欲しい。そして自分が信じて疑わない考え(=イデオロギー)を相対化し、そこから解放されることが、どれだけ人間の言動を自由にするかも実感して欲しい。
■ポスト近代の教育は、学習者に、きちんと確立された事を達成することでなく、変わり続ける世界に対応するための柔軟性 (flexibility)・創造性 (creativity)・革新 (innovation) および状況対応の技能(management skills)を組織的に身につけさせること(institutionalizing)に重点が移っている。(p. 70)
EDUCATION MODERNITY
■近代化のプロジェクト (the modernity project) においては万人に教育を与えること (the provision of universal education) が重要な要素であった。(p. 70)
■しかし19世紀には、労働者階級の子どもに読み書き能力 (literacy) を教えると社会秩序の混乱につながりかねないという懸念すらあった。だが読み書き能力は、産業社会化 (industrialising) や経済の都市化 (urbanising economy) には必要だった。(p. 70)
■近代社会では消費者であるためにも、個々人はある程度の読み書き能力が必要となっている。読み書き能力がなければ、指示書やマニュアルなども利用できない。(p. 70)
EDUCATION IN A GLOBALISED WORLD
■グローバル化したポスト近代の世界では、個々人は、労働者としても消費者としても市民としても、より広く深く情報を得て、以前よりも高次元の柔軟な技能 (higher-order and more flexible skills) を獲得しておかねばならない。(p. 71)
■知識、創造性、批判的思考力に長けた労働者を育てることは、経済のために必要なことだろう。しかしそれは同時に社会的紐帯 (social cohesion) や政治的安定 (political stability) を揺るがすことにつながるかもしれない。(p. 71)
■教育はいまや、子ども時代だけでなく、生涯を通じて必要なものとされている。
■技術革新 (technological innovation) は激しいが、その中で人間は単に技術を学ぶだけでなく、新しい文化様式も学ばなければならない。(p. 72)
◆私見だが、Wiredは技術革新に伴う新しい文化様式を伝えてくれる優れたメディアだ。ぜひ注目してほしい。
ENGLISH AS A BASIC SKILL
■今後は、「学ぶことを学ぶ」(learning to learn)「一般的学習」 (generic learning) (あるいは「一般的技能」(generic skills)、「一般的学習技能」 (generic learning skills) )が大切になってくる。定められた事柄の学習ではなく、新しい状況・事態への対応力という創造的な力を育む学習である。しかし、昨今流行している 'can do' (あるいは 'can do statements') は、分析的で具体的かもしれないが、定められた事柄を遂行できる能力だけで教育を定義しようとしていることに注意したい。(p. 72)
■この論点は重要だと考えるので、原文を引用する。
The role of education in school is now seen as to provide the generic skills needed to acquire new knowledge and specialist skills in the future: learning to learn.
...
THE NATURE OF KNOWLEDGE HAS CHANGED
Genericl learning skills equip a student to 'retool' their minds as the need arises. But the change of focus has also led to a more 'can do', 'just in time', 'no more than is needed' approach to learning. The wider frameworks and disciplinary knowledges are being swept aside in favour of more pragmatic and fragmentary approaches to knowledge. The new knowledge are not seen as bodies of enduring facts whose shared nature helps construct identity and community, but as transitory -- even fleeting -- affairs distributed unevenly in society. (p. 72)
なおこの論点については「コミュニケーション能力」の授業でも言及した次の記事も参照してもらいたい。
END OF LOCK STEP EDUCATION
■教室では全員が同じ言語を学び、同じレベルにまで到達するという前提は、少しずつ揺らぎ、より個人に特化した学習 (more personalized learning)に教育の考え方が移行しているのかもしれない。この意味で、学習者の自律 (
Wikipedia: learner autonomy)や教材の多様化がより重要になると考えられる。(p. 72)
SECTION 1: HIGHER EDUCATION
■経済と共に、高等教育もグローバル化しており、英語もその中で重要な役割を果たしている。(p. 73)
The globalization of universities
■グローバル英語の普及の最大要因の一つは、高等教育がグローバル化したことである。従来、大学というのは国民国家の制度に過ぎなかったが、現在の多くの大学はグローバルな制度になろうとしている。また、高等教育のグローバル化は、その他の教育制度にも影響を与えつつある。(p. 74)
■下にあるのは"Academic Ranking of World Universities"である(
Wikipedia:Academic Ranking of World Universities)。この原稿を書いている時点では2011年のランキングを見ることができるがトップ10の大学はすべて英語圏の大学である(米国8校、英国2校)。
■このような状況から、「世界中の有力大学は、一つの国際学術市場を形成しており、そこでは学術的通用単位 (academic currency)・労働力 (labour force)・言語が一つにまとまりグローバル化しているとの指摘もある。(p. 74)
◆考えてみよう:一方でこのように英語が国際的な共通語としての地位を確立しながらも、他方で英語以外の言語ができることに注目しようとする動きが、欧米の応用言語学界では大きくなっていることにも目をとめよう。
日本の英語教育では、学習者の日本語力・日本文化理解を十分に英語力と連動させようとしているだろうか。
さらに言うなら、日本では「バイリンガル」は「日本語と英語ができる人」を意味しがちであるが、なぜ「日本語と中国語ができる人」「日本語とポルトガル語ができる人」「日本語と
フィリピン語ができる人」といった意味合いはなかなか浮かんでこないのだろうか。私たち英語教育関係者の中に潜んでいるかもしれない英語偏重(bias)について考えてみよう。
THE BOLOGNA PROCESS
■The 'Bologna Process' (
Wikipedia, ウィキペディア(日)には記事なし)は、各国間での「制度格差を是正し全体系の合理化を目的とした調整」
Weblio:英和生命保険用語辞典である 'harmonisation' の一つで、ヨーロッパ各国の高等教育の共通性を高めようとする試みである。ここでは英語使用は義務化はされていないが、推奨はされている。(p. 74)
THE WRONG KIND OF GRADUATES
■インドは毎年250万人もの大卒者を生み出しているが、そのうち多国籍企業で働くのに適している(suitable)人材は4分の1に過ぎないという。主な理由が口頭での英語能力が乏しいことである。中国も(2005年調査では)300万人以上の大卒者を生み出しているが、そのうち多国籍企業で働ける人材は10%以下だという。理由は同じく口頭での英語能力不足である。(p. 75)
◆考えてみよう:日本の大卒者の何割が多国籍企業で働くのに適しているだろうか?
International student mobility
■現在、世界では毎年200万人から300万人の学生が留学していると推定されるが、その大半は英語圏(The Major English-Speaking Destination Countries: MESDCs)であり、米国と英国だけで全体の3分の1以上を占める。(p. 76)
NEW COMPETITORS
■MESDCsは、三つの挑戦を受けている。一つは、これまで英語圏に留学生を送り出してきた国の大学が自己改革を進め留学生が減っていることである。第二には、自己改革を成功させた大学は、逆に留学生を引きつけるようになってきていることである。例えば中国は近年韓国や日本からの留学生を増やし、タイやインドからの留学生も増やそうとしている。第三に、ヨーロッパでもアジアでも多くの大学が英語で教えるコースを作り、留学生を招いていることである。(p. 77)
Transnational education
■1990年の末には、インターネットが教育を変えてしまうという楽観論があった。しかし多くの試みは失敗した。(p. 78)
THE GREAT ELEARNING FIASCO
■インターネットによる高等教育革新の失敗の多くは、高等教育の実際をよく知らない人びとによって革新がなされたことにある。例えば、学生は、ただ教育内容を求めているだけでなく、有名な大学からの学位を得て就職市場で有利な立場を得たいという欲求をもっている。この欲求は当時の試みではうまく満たされなかった。(p. 78)
■しかしテクノロジー主導のイノベーションというのは、何度も失敗しながら、だんだんと実現されていくものだということを忘れてはならない。(p. 78) これは技術の歴史(特にコンピュータの歴史をさぐれば明らかなことである。また、最近では、TED EdとMITが子ども向けの動画教育をことや、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が2012年秋から本格的なオンライン教育を始めることなどが話題になったが、このようにイノベーションは失敗を糧に何度も波になって到来すると考えるべきだろう。
■学ぶべき教訓は、eLearningの発展は、「すごい技術」(gee-whizz technology)によるというよりも、どのように人間関係が維持発展されるか(how human relationships are managed)による、ということである。eLearningは、市場のブームによって促進されるというよりも、いかにこれまでの教育観が新たな技術環境に適合してゆくかを私たちが学んでゆくことによって促進される。(p. 79)
◆考えてみよう: 上の点は私も痛感している。日本のeLearningには、人文社会的素養のない技術志向の人間は多くとも、人文社会的素養をもった技術志向の人間、および技術的素養をもった人文社会志向の人間が少ないように思える。外国から見たら日本は「テクノロジーの国」と思われがちだが、日本国内でのテクノロジー活用が非常に遅れていることの背景には、このように技術の文化的側面を軽視していることがあると私は考えている。技術の文化的側面の重要性について皆さんはどう考えるだろうか。さらには日本の進学校が生徒をすぐに「文系」と「理系」に分けて、「効率的」な進学指導をしていることについて、どう考えるだろうか。
FOREIGN CAMPUSES AND JOINT VENTURES
■仮に1990年代の'virtual transnational universities'構想が頓挫したとしても(しかし上にも述べたように、
ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が、合同でこの秋から開始する予定の本格的なオンライン教育には注目)、英語圏の大学はいわば
'Plan B'('B Plan'ではないことに注意)を進行させており、アジアなどに分校を作っている。(p. 79)(最近の話題なら
イエール大学のシンガポール分校設立などがある)。(ちなみに広島県においては、1990年から1994年まで
ニューヨーク市立大学リーマン校が山県郡千代田町に分校を作っていた)。これから大学のグローバル化がどう進展するかは誰にもわからないが、高等教育がこれから何も変わらないということだけはないだろう。
SECTION 2: LEARNING ENGLISH
◆考えてみよう:以下は、英国の公的な国際文化交流機関である
British Council(
ブリティッシュ・カウンシルが提供している英語教材である。British Councilがなぜこれだけのサービスを提供しているのか、このサービス提供が英国にとってどんな利益をもたらすと見込まれているのかについて考えてみよう。
British Council: Learners and Teachers
Which model?
■20世紀後半の英語教育においては、'English as a Foreign Language' (EFL)が正統(orthodoxy)とされていたが、今や新たな「正統」が生まれつつある。(p. 82)
THE EFL TRADITION
■EFLという概念は主に19世紀に成立した。EFLでは、英語母国語話者の文化と社会を学ぶ重要性が説かれ、教授法(methodology)が中心的話題となり、母国語話者の言語行動を真似することが重要だとされた。(p. 82)
■EFLでは、学習者を「外部の人間」 (outsider) 、「外国人」 (foreigner) として捉える。(p. 82)
DESIGNED TO PRODUCE FAILURE
■伝統的なEFL教授法では、学習者はどのように熟達しても、必ず外部の人間であり失敗者とならざるをえないようにイデオロギー的に位置づけられている (Withing traditional EFL methodology there is an inbuilt ideological positioning of the student as outsider and failure -- however proficient they become.) (p. 83)
■近年、EFLにも新しい方向性が示されている。 以下のEuropean Language PortfolioやThe Common European Framework of Reference (CEFR)などは、EFLが新しい社会的・政治的・経済的要求に適合するために、従来の性格を大きく変えつつあるものと捉えることができる。(p. 84)
◆考えてみよう:Plurilingualsim(「複言語主義」もしくは「複合的言語使用」)は、日本でももっと検討すべき理念であると私は考えます。時間があれば、以下の記事などを読み、'plurilingualism'とは'multilingualism'や'bilingualism'とどのように異なるのかまとめてください。
ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE
■ESLには、二つの種類がある。大英帝国型と北米豪型である。(p. 84)
■最初の大英帝国型は、大英帝国が植民地支配をする際に、少数の英国人官僚と軍人だけで、広範囲を効果的に統治するために、現地の人びとを「大英帝国流」に教育するESLであった。言語技能だけでなく大英帝国ひいては西洋文化についての素養も育成することが重視された。この意味で文学教育も重視され、キリスト教的価値も文学を通じて伝えられた。(p. 84) (興味に応じて、下のような入門書も読んで欲しい)。
■植民地では"New Englishes"と呼ばれるようになった英語変種が登場し始めた。(p. 84)
■植民地での英語の使用環境(ecology)は、多言語使用状況の中でのものであるが、そこでは英語が特定の領域・機能そして社会的エリートと強い結びつきをもっていた。(p. 85)
■もう一つのESLのタイプが、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで移民を同化させ新しい国民国家意識(a new national identity)を植え付けるために行われたESLである。このESLではアイデンティティやバイリンガリズムが問題になる。(p. 85)
■このESLタイプで気をつけておきたいのは、ESL学習者が所属する民族共同体(ethnic communinity)では結構な数の人が、日常的には英語は使わずその共同体の言語だけで暮らしているだけである。そういった共同体では、若いESL学習者が英語を学ぶのは、しばしば家族のためであり、学習者は翻訳・通訳の役を担っている。(p. 85)
■移民のためのESLでは「市民権」(citizenship) ーその国での権利と義務― の学習も重要な要素になっている。
◆考えてみよう:このような問題は、皆さんの地元でないだろうか。移民・移住者のための日本語教育は適切に行われているだろうか。また受け入れる人びとは、日本語教育の実情についてどのくらい理解、いやそもそも関心をもっているだろうか?
Content and Language Integrated Learning (CLIL)
■Content and Language Integrated Learning (CLIL) (
Wikipedia)は1990年代中頃にフィンランドから出てきた教育実践であり、ヨーロッパで隆盛だが、他の多くの国々でも違う名称で実践されている。(p. 86)
■CLILでは外国語(例、英語)と内容教科(例、科学)が同時に教えられる。とはいえ単に英語を教授言語にした内容教科教育ではなく、語学的サポートもふんだんにある。逆の言い方をすれば教科内容を通じて外国語を教えているとも言える。(p. 86)
■CLILでは、一般的な問題解決、交渉、クラスルーム経営など、教育的規律に関わる営み(disciplinary pedagogic practices)も行われる。この意味でCLILは、English for Specific Purposes (ESP:
Wikipedia)とは異なる。(p. 86)
■CLILでは、語学教師が内容教科教師と綿密な連携を取りつつ、十分に準備することが求められる。CLILはバイリンガルの内容教科教師によってしかできないと主張する者もいる。(p. 86)
■だがCLILについては、日本でも以下のような本も出版されている。
English as a lingua franca (ELF)
■English as a lingua franca (ELF) (
Wikipedia)は、近年でもっとも根源的かつ議論を呼んでいるアプローチである。(p. 87)
■しかしグローバル英語の現状は、英語母国語話者同士の英語使用の割合がどんどん小さくなり、英語を母国語としない者同士の英語使用の割合がどんどん増えてきていることである。(p. 87)
■以下は、非母国語話者同士の英語使用を集めた研究用コーパスである。(p. 87)
■ELFでは、母国語話者のような正確さより、相互に理解できるか(intelligibility)の方が重要である。(p. 87)
■ELFでの目標モデルは、英語母国語話者ではなく、英語に堪能だがアクセントなどで母国語の特徴を残している二言語話者であり、そういった者は他の非母国語話者と交渉できるだけの技能を有していると想定されている。(p. 87)
■英語母国語話者は、国際的なコミュニケーション場面で英語を使うことが実は下手であるという研究さえある。ELFがたとえ今後全面的に採択されることがなくとも、何らかの形で英語教育の主流に影響を与えるであろう。(p. 87)
English for Young Learners (EYL)
■英語学習の開始時期はどんどん低年齢化している。以前は中等教育の「外国語教育」とみなされていた英語教育は、今や小学校、あるいは小学校入学以前に行われるものと認識されてきている。(p. 88)
■1999年の時点で小学校で英語教育を行なっている国の多くは、その小学校英語教育を1990年代に始めたものに過ぎなかった。(p. 88)
■低年齢児の方がよく英語を学ぶと通常信じられているが、低年齢児は身体的にも精神的にも発達途上であり、情緒的サポートも必要である。また低年齢児は自分の学習に対して責任を持つことがなかなかできない。こういった低年齢児に英語を教えるEYL教師は、英語に堪能なだけでなく、子どもの発達に対して深い理解をもち、子どもにヤル気を与える教師でなくてはならない。そのような教師はほとんどの国で不足している。さらにこの時期での教育の失敗は、その後に影響を残してしまうと考えられることにも注意しなければならない。(p. 88)
■EYLは単に教育のプロジェクトではなく、政治的かつ経済的なプロジェクトであることを理解しなければならない。コロンビア、モンゴル、チリ、韓国、台湾などでは英語学習に関して大胆な計画が立てられている。(p. 88)
■EYLなどで自国民を英語バイリンガルにしようとする国々の多くは、英国や米国のバイリンガリズム(二言語使用)ではなく、シンガポールやフィンランドやオランダのバイリンガリズムをモデルにしようとしている。さらにこれらの国々は、英語教師を、英語しかできない英語圏の単一言語話者からではなく、英語をバイリンガルに使っている国の二言語話者から求めようとし始めている。(p. 89)
English in Europe
■近代のヨーロッパにおいては、一つの国民国家に一つの国語(national language)を形成確定することが中心課題であった。しかしそのヨーロッパが今、自己改革(reinventing)を始めている。(p. 92)
■Common European Framework (CEF)は、外国語教育の標準化といった技術的な意味合いを超えたイデオロギー的なプロジェクトであり、ヨーロッパの多言語使用の現実に対する市民の自覚を高め、言語的多様性に対して肯定的な態度を育成しようとするものである。ヨーロッパ市民は、母語(mother tongue)以外に二つの言語を学ぶことが今や目標として掲げられている。(p. 92) [だが「国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ」(
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html)でも述べたようにCEF(R)のplurilingualismは、二つの外国語を全ての領域で母国語話者並に習得することを求めているわけではないことに注意]。
ENGLISH AS EUROPEAN LINGUA FRANCA
■多くの大企業、場合によっては欧州各国の政府機関において、英語は共通の作業言語(a common working language)となっている。(p. 92)
SEVERAL TRENDS
■ヨーロッパでは、英語がだんだんと「第一外国語」になってきている。スイスの中でドイツ語を主に使っている州(canton)の中には、スイスの第二国語であるフランス語よりも早く英語を第一外国語として教え始める決定をして物議をかもしているところもある。旧ソ連のバルト海諸国でも、今や主要外国語はロシア語ではなく英語である。(p. 93)
English as an Asian language
■'Macaulay Miute of 1835' (Wikipedia:
English Education Act 1835)以来、インドでは英語が使われ始めたが、インドの人びとのどのくらいが英語を使っているかという推定に関しては、諸説ある。だがある調査によれば、インド人の35%が英語を読むことができ、16.5%が英語を話すことができるという。(p. 94)
■インド以外にも植民地時代の遺産で英語使用をしている国としては、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピンなどがある。さらにASEAN(
Wikipedia,
ウィキペディア)などの結びつきにより、英語は一層便利なリンガ・フランカとしてアジアに普及している。(p. 94)
ENGLISH IN CHINA
■しかしながらアジアでの英語の地位に関して、決定的な影響力をもっているのは中国だろう。中国は2001年から小学校での英語教育を開始したが、これらの英語教育により中国は毎年2000万人以上の英語使用者を生み出すとも言われている(英語話者は中国に2億人いるとも言われている)。中国の英語使用者が、インドの英語使用者よりも多くなることも十分予測される。アジア各国が
中国官話(
Mandarin Chinese)の能力を高めるまでは、中国とのコミュニケーションも英語で行われるだろう。(p. 95)
■2008年オリンピック、2010年世界万博などをきっかけに中国は英語使用者を増やそうとしている。(p. 95)
The 'World English Project'
■以下は、この本が英語力の指標の代表例として出しているテストである。米国ならTOEFLだろうが、英国から考えるとこの三つとなるのだろう。(p. 97)
■英語教育に関する新しい世界の常識は次のようになるかもしれない。(1) 大学の課程の一部は英語で教えられる。 (2)大学入学時に一定の英語力があり、入学後は専門の学術英語を教えるだけですむ。 (3)中等教育の課程の一部が英語で教えられる。英語教師が他の教科の教師と共同で授業を行うかもしれない。 (4)小学校1年生から、あるいは遅くとも3年生から英語教育が始まる。
If the project succeeds ...
■もし世界の多くの小学校で英語教育が成功し、新しい世代にとって英語は第二言語となったとしたら、その世代には旧来のスタイルの中等教育英語授業は必要なくなる。新しい世代は数学や理科を英語を通じて学ぶだろう。旧来の中高の英語授業は、何らかの理由で授業についてゆけない生徒のためだけになされるようになるかもしれない。大多数の中高生は、教科の専門的内容を習得するための英語を学ぶようになるのではないか。
('Concludions and policy implications'は、本年度は割愛します)