2012年4月27日金曜日

TED EdとMIT+12: 「開かれた文化」ということ



[以下は、私が「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」に掲載した二つの記事です。重要度が高い情報だと考えましたので、このブログにも転載します。]


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TED Edの開始で、英語で教育を受ける者がさらに有利になるかもしれない






TEDが学習者用のサイトを開始しました。TED本体の動画を難しいと感じる人も、これなら簡単に見ることができるはずです。



TED Ed: Lessons Worth Sharing
  http://ed.ted.com/





教師によって作られた教育用動画に、Quick Quiz, Think, Dig Deeperなどの、理解や思考を促すページがついています。私たちは英語学習者として、これらの動画とページで学ぶことができます。

さらに私達が教師としてこのサイトを利用するならば、Flipで教材を自分の生徒用にうまく編集・修正することができます。

私は先程、Wiredの記事でこのサイトのことを知り、アクセスしたばかりです。

TED-Ed Launches Innovative Customized Learning Web Initiative http://www.wired.com/geekdad/2012/04/ted-ed-customized-learning/


今日現在ではまだベータ版ですが、今後の展開が楽しみです。多くの教師に活用されればされるほどこのサイトは強力になるでしょう。

と、同時に英語で教育を受ける者と、他言語で教育を受ける者との格差ができそうで、少々恐ろしくもあります。



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MITがKhan Academyと提携:MIT学生が小中学生用の教育動画を作成開始 (MIT+K12)




あのMIT(マサチューセッツ工科大学)が、Khan Academyと提携し、小中学生用の教育的動画を作り始めました。しかし作るのは、MITの教員ではなく学生です。







昨夜(というより数時間前)には、このブログでも「TED Edの開始で、英語で教育を受ける者がさらに有利になるかもしれない」という報告をしましたが、このMIT+12も、それに匹敵するインパクトをもつプロジェクトではないでしょうか。私はこのニュースを以下のサイトで知りました。

Edudemic: MIT + Khan Academy = We All Win.
http://edudemic.com/2012/04/mit-khan-academy-we-all-win/




間接的に聞いた話なので真偽のほどは定かではありませんが、日本で電子教科書の普及が非常に困難なのは、教科書が検定制度をとっているので、例えば電子教科書についているリンク先のすべてのページも検定しておかなければならないからだそうです。

馬鹿げている(上記が本当の話であれば、ということだけど)。



私が「英語教師のためのコンピュータ入門」の授業で強調していることの一つは、コンピュータ使用とは、技術の問題である以上に、新たな文化の問題であるということです。

この新しい文化を象徴することばといえば、例えばDavid Clarkの次のことばです。


We reject: kings, presidents and voting.

We believe in: rough consensus and running code



あるいはAlan Kayのあまりにも有名な次のことばです。


The best way to predict the future is to invent it.





私は教育という営みは、政府の(あるいは文部科学省)の専権事項でなく、公的な(Offentlich = open => public)な事柄だと思いますので、このMIT+K12やTED Edを素晴らしいプロジェクトだと思います。梅田望夫・飯吉透のお二人が2010年に『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書で書かれた流れは一層大きくなっているわけです。

私個人としてもこの流れを日本でももっと大きくしたいと思っています。ですから、ぜひ今一度「英語動画で高度な英語説明力をつけよう:はじめに」を読んで、このプロジェクトにも参画していただければ嬉しい限りです。コメントだけでも構いません。

私はワクワクしながら未来を創りたいです。


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追記:2012/05/03





ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が、合同でこの秋から本格的なオンライン教育を始めるそうです。「きちんと勉強したいなら英語で」というのが、日本でも合言葉になるかもしれないという可能性を私は否定できません。

via Open Culture





2012年4月24日火曜日

「教養ゼミ」での学部一年生へのメッセージ





■最初に柳瀬の自己紹介
・授業:1年生にはコンピュータを使った自学の方法、2年生には実践的な学習英文法、3年生には語用論とコミュニケーション能力論、4年生にはグローバル英語論を題材としたスピーチ実践を教える。大学院ではCritical Applied Linguistics, Alternative Approaches to Second Language Acquisitionなどを教える。
・研究:コミュニケーション能力論、語り・ナラティブ、英語授業の質的分析、意識と身体、その他哲学的アプローチでの探究。
・影響を受けた学者:ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインハンナ・アレントニクラス・ルーマン。 
・尊敬する人物:山岡鉄舟リチャード・ファインマンヨーゼフ・ハイドン。 
・趣味:武術、音楽鑑賞、読書、映画鑑賞、お笑い。 ・その他は私のMixiプロフィールを御覧ください(ただし、私は学生さんとはMixi, Facebook, Twitter, Google+などのSNSでは「友達」などにはなりませんのであしからず)。
・連絡方法:メール(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)を歓迎します(スペルミスに注意!)。 
・面談方法:5分で済む用事ならいつでも研究室をノックしてください。ゆっくりお話を聞くべき用件に関しては、お互いにとって都合の良い時間帯を 予め決めさせてください。なお、携帯メールやTwitterなどの短文メディアで「大学の勉強ってどうすればいいんでしょう」などいう、じっくり話し合うべき事柄を質問することはやめてください。


***以下、学部一年生へのメッセージ***





■稚心を去れ

・稚心の例1:周りに依存し期待ばかりして、自らは動けない。 
・稚心の例2: 周りのことをないがしろにし、自分の野心にばかり拘る。 
・稚心でない例1:自ら動き、周りを活性化する。 
・稚心でない例2:自らを信じ、他を敬する。その結果、他にも敬せられる。 
・要は「お子ちゃま」になるな、ということ。 
・新卒教員のいくつかの例:「自分が育った文化と全く異なる学校に赴任して戸惑う」。「授業がまったく成立しない」。「生徒とどう関わっていいかわからない」。「保護者とのコミュニケーションに苦労する」。「同年代同僚が少ない職場でコミュニケーションが取れない」。「職場でのつきあいを断り一人で物事を抱え込むようになる」。「マニュアルがないとどうやって仕事をしていいかわからない」。「失敗したり注意されるとすぐめげる」。「褒めてもらえないのでヤル気をなくす」。「仕事を終えられず毎日睡眠不足で心身ともに追い込まれる」。
参考: 埼玉県立越ヶ谷高校長の日誌 http://www.koshigaya-h.spec.ed.jp/index.php?active_action=journal_view_main_detail&post_id=287&block_id=449&comment_flag=1#_449

■主体性を取り戻せ
・自分の人生は自分で責任をもて。(変えられない「宿命」の機縁を活かして「運命」を定める) 
・自分の心身で納得することを怠るな。「先生~、これでいいんですかぁ~」という間の抜けた声で他人に判断を委ねるな。抽象的な理解も究極のところは冷暖自知である。 
・他人の評価ばかり気にするな。まず、自らのからだで納得できるかどうか吟味せよ。 
・単位と成績を学びの指標とするな。心身の感性を働かせよ。成績がいいから、学びが深いというわけでは必ずしもない(どんな試験にも小手先のテクニックというものはある)。 
・カリキュラムを過信するな。自ら学びたいことはどんどん学べ。ただしカリキュラムを無視するな。 
・まずは身体を整えろ。文字通りのからだの姿勢が駄目なら、心の姿勢も衰える。あるいはからだが歪めば、心も歪む。 
・浮き足立つな。地に足をつけろ。ただし地面にへたり込み横着を構えるな。 
・"Always make a new mistake. But try not to repeat an old one."
関連記事: ヘラヘラして勉強しない若者へのおじさん的おせっかい  
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/04/blog-post_30.html 
優秀な成績で卒業しながら・・・  
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/05/blog-post_5095.html 
欠陥商品としての「考える」こと 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/05/blog-post_16.html 
身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_16.html 
椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・ 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/01/blog-post.html

■師を尊ぶも、頼るべからず。
・親切な教師がやってきて、手取り足取り、一から十まで教えてくれることを待つな。学びの主人は自分だ。 
・教師に言われたことだけをやって、ほめてもらうことが学ぶことだなどと思うな。 
・単位にならないこと、評価されないことは学ばないという愚かな「受験テクニック」を捨てよ。 
・「師が月を指すとき、愚者は師の指を見る」。 
・教わり上手、教え上手になり、学びの場を自ら作れ。 
・尋ねる前に調べろ。調べる前に考えろ。からだを動かして考えろ。
関連記事: 考える・調べる・尋ねる 
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/04/blog-post_13.html 
岡野雅行さん:自分の頭と手で考える 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post_07.html

■大学での学びは、あなた一人が買った「商品」ではない。
・学校はディズニーランドではない。
関連記事: 授業に対して国立大学教員が有している金銭的責任 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html 
参考: クローズアップ現代「奨学金が返せない」レビュー 
http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/53331dcfa486873ab62101d629fff229

■英語学習に関しては、昔と今では環境が、全く変わった。大学生にとって、英語は基本的に自ら使いこなし、その結果学ぶものである。 

・大学生であれば基礎的な英語力はある。基本姿勢としては「英語を勉強する」のではなく「英語を使う」こと。そうすれば結果的に英語も学べて身につくし、知識も深くなり、人脈も広がる。Don't study English. Use it!

 英語を「使う」ためには、以下の項目をうまく活かせ。


(1) 「楽しい」を活かす
・「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」--まずは圧倒的に「楽しい」という感覚から入ろう。
関連記事: 映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html


(2) 「好き」を活かす
・自分の趣味に関しては徹底的にマニアックに英語で読み・聞こう。例えばただ"X is not just elegant but exquisite."と、何の思い入れもないXについてこのような例文を聞いても、"elegant"や"exquisite"の語感は感じられない。しかしクラッシック音楽好きにとっては"Haydn is perfectly elegant, and I love his works so much. But Mozart is more than that; he is exquisite."といった例文は本当に心に響いてくる。心に響いた表現しか身につかない。 
・時々、映画を見ても面白くないし、自分で好きなことも特にない、といったパサパサの心身しかもたない学生さんがいる。小手先だけの暗記ばかりの学校教育で瑞々しい感性を失ってしまったのであろうか。そんな人は、まずは心身の感性を取り戻して欲しい。というより、感性の基礎がなければ何事も身につかない。


(3)背景知識を活かす 

・日本語で既に知っているニュース、あるいは読んだことがある小説・物語を英語で読んでみよう。 
参考記事: 安い・早い・うまいの吉野家風英語上達術
http://getnews.jp/archives/189557   
・また教英図書室にはPenguin Readersのように英語初学者向けに書かれた本がたくさんあり、借り出すことができる。簡単な英語を多読することは有効な学習法である(難しい英語を多読しようとしても、結局、きちんと読めず量も進まないので自己満足に終わる。多読は、自分では簡単過ぎるぐらいに思えるレベルから始めるべし。) 
参考記事: 多読で英語に親しみませんか?
http://www.seg.co.jp/sss/learning/index.html 
・正直、自分で本や新聞を読む習慣のない学生さんは、背景知識がおそろしく乏しい(そしてその背景には知的感性が枯渇しているという心身の貧困がある)。遠回りのように見えても、まずは日本語で広く深く読書しよう。 
・その意味でお勧めしたい習慣形成は、毎週決まった時間に必ず図書館に行き、そこで本を自分で選び読みかつ借りて帰ること。たとえ完読できなくてもよい。書架のたくさんの本の中から自分で一冊を選ぶという行為によって、あなたの知的アンテナが形成される。


 (4)自動システムを活かす
 ・ICT (Information Communication Technology)によって、情報は「自分で収集する」ものというより、むしろ「勝手に集まってくるものを自分で捨てて本当にいいものだけを選ぶ」ものになったと言える。自動情報システムを自分用に作り上げよう。
関連記事: ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/google-reader-twitter-evernote-chrome.html


(5)人を活かす

 ・「あなたにとってよい友人の友人は、やはりあなたにとってもよい友人となる」ことが多いように、「あなたにとってよい情報源である人が信頼する情報源である人は、やはりあなたにとっても新たなよい情報源となる」ことが多い。 
これは本の著者やブログのライターにおいても同じである。よい情報源を見つけたら、その情報源がいいとする情報にはとりあえず注目せよ。そのうちにその情報源の癖やあなたとの相性がわかってきて、情報が効果的に得られる。 
この点で、柳瀬が発する情報源を、あなたにとってのよい情報源と私から言うのは、いくらなんでもおこがましいが、TwitterやGoogle+といったSNSを、仲間内のつぶやきでなく、情報発信源として使う例もあるということで、よかったら以下を参照されたい。そして、あなたにとって有益な情報源を見つけてフォローしてほしい。
柳瀬のTwitter(日本語と英語での情報発信)
https://twitter.com/#!/yosukeyanase
柳瀬のTwitter List: Essentials (厳選した柳瀬にとっての英語情報源)
https://twitter.com/#!/yosukeyanase/essentials
柳瀬のGoogle+ (英語での情報発信。Twitterよりもさらに精選)
https://plus.google.com/u/0/111182176762120375601/posts

・他人から有益な情報を提供してもらうための有効な方法の一つは、自分自身ができるだけ他人に親切な形で良質の情報を提供し続けること。そのために自分でブログやSNSを運営してもいいだろう。また、ぜひ次のプロジェクトに参加してもらいたい。
英語動画で高度な英語説明力をつけよう!
http://greatpresentationvideos.blogspot.jp/
 このブログの目的説明と読者の皆さんへのお願い
http://greatpresentationvideos.blogspot.jp/2011/04/blog-post.html



(6)自分が知っている英語を活かす 

・日本人英語学習者の多くは、英単語と日本語訳語を対にして丸暗記することを語彙学習だと勘違いしている。そんな学習法ではなかなか記憶が定着せず、また仮に記憶に残ったとしても、自分の心身の変化に応じて自由に使いこなせない、つまりは「身についていない」ことがわかっているはずなのだが、丸暗記法に固執する。(時に、「いや、先生、オレにはこれしかないっす!」と断言する学生さんがいるが、私からすればこれこそ「稚心」の一例である)。 
 ・英語の単語を孤立した点の集合としてではなく、相互が緊密に結ばれたネットワークとして学べ。「単語は例文で覚えろ」ぐらいはよく言われたはずが、それだけでなく「単語は英英辞典で調べる」ことを鉄則にせよ。最初の数カ月は、なかなか使いこなせないかもしれないが、使いこなすうちに、英語の単語と単語が線や網になって結びついてゆき、やがては自分で一つ英単語を口にすると、それにつられて自然に他の英単語が出てくるようになる。それが「英語で考える」ことであり、「英語で話す」こと。高い英会話スクールや留学プログラムに憧れるよりも、地道に英英辞典を引き続ける習慣を身につけよ。

・なお英英辞典は、最初は学習者用のものを勧める。だがだんだん英語力が上がってくると、学習者用では語義の説明や掲載語数の点で満足がゆかなくなり、一般向けの英英辞典を使いたくなり、また使い始めるとそちらの方が心地よくなってくる。そのように英語で英語を学べるようになったら、おめでとう。免許皆伝です。あなたはどんどん英語を使えるようになり、かつその英語使用が相乗効果を引き起こし、英語力、知識、人脈が飛躍的に拡大するでしょう。その日を目指して、まずは学習者英英辞典を引き続けてほしい。継続は力なり。自分に才能がないと思うのなら、努力を継続せよ。

 ・以下はある学生さんの感想。
授業の中で触れられた単語の話や英英辞書の大切さについて振り返りたいと思います。まず単語帳で覚えたら、英語そのものじゃなくて訳された日本語を覚えてるという感覚に最近気づきました。対訳された日本語でしか覚えてないために、日本語の表現が変わるとその単語がどちらも表していると認識できないという現象が起こるのです。つまり日本語と英語の単語帳の中の一対の関係しか得られないと思うのです。言語はその言語でしか得られないニュアンスがあると思います。だから、アウトプットしようとした時にその日本語の訳でしか覚えてないから自分が表現したいことが出てこず、浮かぶのは日本語のまま。すっごく悩むくせに解答例を見て、こんな簡単な単語でいいの?と思うこともあります。その点英英辞書は英語で説明されているから日本語で覚えてまたその説明を英語に訳すという過程抜きで直接その言葉を理解できるものだと思います。


■私からすれば不思議でしょうがない学生さんの言葉と、それに対する私の考え
・「ワタシは、本当は○○大学に入りたかった。本当のワタシはこんなところにいるような人間ではない。」 
⇒でもあなたは今のところ広大にいる。手始めに広大/教育学部/教英でトップに立ったらどうですか。10年に一度の逸材と言われたらどうですか。(ただし、もし例えば本当は医者になりたいなどと、決意が固く、広大教英とその進路希望のミスマッチが甚だしいなら、チューターなどと相談してください。) 
・「自分としては広大に来られて満足している。」 
⇒広大に入学しただけでは何の証明にもなりません。せいぜい受験学力が多少あったぐらいのことです。ある程度の受験学力は本質的な学力の必要条件かもしれませんが、十分条件でも必要十分条件でもありません。 
・「周りは英語をペラペラ話せるのに、自分は話せない。今まで英語の成績はよかったのだが、これでは、これまでの学校の英語の勉強はすべて無駄であったと結論せざるをえない。」 
⇒よくある思い違いです。ペーパー上の学力がある人は、きちんと英語の基礎訓練(ディクテーション、レシテーション、多読など)を地道に重ねていれば、大学時代の後半からたいていの場合、きちんと話せるようになります。しかもそのような人の発話は、文法的にも内容的にもしっかりしている場合が多いです。 
逆に怖いのが、高校時代まで会話の訓練ばかりしていた人です。この人達は入学当初は「話せる=英語ができる」と思われがちですが、その後、日本語と英語での読書を怠っていると、だんだんと自分の英語には深みがないことが周りにも明らかになってきます。さらに重要なことに、就職のためなどの各種試験においても、読書力不足から点が取れず、思うように就職できなかったりします。「英語力=ペラペラ話せること」という通俗概念は今すぐ捨ててください。 
・「ボクは英語でなく、人間性で勝負する教師になりたい。」 
⇒人間性を売り物にするというあなたは、自分を釈迦かイエス級の人物だと思っているのですか。人間性を高めるというのは、人間が人間である限り誰もが行わなければならないことです。英語教師だろうが、ビジネスパーソンであろうが、主婦であろうが、公務員であろうが、誰もが人間性を謙虚に高めなければなりません。   
人間性は売り物にはできません。人間性はあって当たり前、そして逆に不完全であるのが人間です。あなたの人間性が、売り物になるほど高いものと考えたら、それは逆に危険ではありませんか? 
英語教師だったら、まず英語ができるようになってください。「自分がよくわかっていないこと・よくできないことは、教えない」という当たり前のことを守るためには、まずは英語ができるようになることが必要になります。
関連記事:入学式挨拶:「『学ぶ』ということを学ぶ」、「自分がよくわかっていないこと・よくできないことは、教えない」 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_04.html
・「暇で暇でたまらない。誰か遊んで下さい。」 
⇒自分自身で自分を退屈に思うような人は、他人からも退屈に思われるのではないでしょうか。まずは自分で自分の生活を面白くすることを考えてみてはどうでしょう。ちなみに面白く遊ぶためには、相当深く学んでおくことです。そうすれば将来忙しい社会人になったときにでも、短時間で友だちができます。 
・「新書は難しくてわかりません。さっぱりわかりません。」 
⇒新書なんて入門書です。知的職業についている社会人に、そんな台詞は許されません。 
・「先生が薦めてくれた本は1,200円もするから高いです。」 
⇒・・・・(絶句) 
・「何の本を読んだらいいのかわかりません。教えてください。」 
⇒日本は情報のない国ですか?広大入学式の時に何の本をもらいましたか?大型書店や図書館には様々な情報があります。ネット上にもかなりの情報があります(アマゾンのカスタマーレビューも便利です)。また私のブログ・ホームページの「読書」も参考にしてください。 
・「いろいろな情報がありすぎて、私は何を読めばいいのかわかりません。どの本を読めばいいのかきちんと教えてください。」 
⇒あなたは自分の恋愛対象も他人に教えてもらいたいと思うタイプですか? 
・「これ一冊だけ読めばOKという本を教えてください。」 
⇒あなたは世界がそれだけ単純だと思っているのですか? 
・「英語を使った華やかな仕事に就きたい。」 
⇒仕事はあなたの好きなことをすることではありません(職場はディズニーランドではありません)。第一、あなたの英語力はどんなものですか?私の経験では、英語を勉強しない学生に限ってこのようなことを言い出します。まずは最低英検一級、TOEFL-ITP600を取ってください。
関連記事: 英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/toefl-itp.html
・「頑張ってネイティブ発音を身につけたい。」 
⇒たとえあなたが10年間必死に努力してもせいぜい「英語国に数年いたのかな?」と思われる発音を身につけるだけです。そんな人は世界中に山ほどいます。人々はあなたの発音には興味ありません。あなたが話す話の内容に興味があります。「英語ペラペラ」は別にかまいませんが、「頭の中身もペラペラ」にならないようにしてください。 
・「大学生活の目標は英検一級合格です。」 
⇒それはせいぜい「英語バカ」になるぐらいです。「専門バカ」ですらもありません。大学生は「専門バカ」から脱皮して卒業する必要があります(もちろん「英語バカ」でも「専門バカ」でも、単なる「バカ」よりはいいのですが・・・)。英検一級合格などは単なる一つの通過点と考えてください。 
・「この授業は英語教師になるためには難しすぎて不必要なことを教えている。」 
⇒教員は二十年、三十年と英語教育について考え、研究し続けてきました。その結果のごく一部を精選して授業で教えています。二、三十年考え研究してきた者の判断を、英語教育について学び始めたばかりの者が裁断できるという理屈を私は理解することができません。 
・「ボクはもともと理系なので、本を読むのはやっぱり苦手です。数学なら得意なんですけど・・・」 
⇒高校生時代のあなたの成績は、文系科目より理系科目の方がよかったのかもしれませんが、あなたは大学で理系科目をほとんど勉強していないのですから、今のあなたは理系でもなんでもありません(第一、統計学や実験計画ですら理解していないではないですか)。それでいて本も読めないなら、理系でも文系でもない単なる○○です。 それに間違えないでください。多くの理系の人間は、文系の人間よりはるかに多くの英語論文を正確に読んでいます。見映えだけの「英会話力」以外の英語力では、理系の人間の方があなたよりはるかに高いことも時にあります。 
・「バイト先での責任があるから勉強できない。」 
⇒経済的必要性以上のバイトを、ただNoと言えないから続けていませんか?バイトでいい社会経験を積んでいると思っていませんか?集中して勉強できる若い日々という貴重な財産を、一時間あたり数百円で売り飛ばしているだけではありませんか? あるいは自分できちんと断ることができない主体性の無さを、「私って結構イイ人」とごまかしているのかではないですか? 経済的必要性以上のバイトは私はあまり勧めません(深夜のバイトや、風俗賭博関係のバイトは別の理由で、学生はやるべきではないと私は強く思っています)。 なお経済的必要性からバイトをやっている人、私も学生時代はそうでした。応援します。短時間で質の高い勉強をしてください。 
・「大学時代は適当に遊んで、大学院で勉強したい。」 
⇒大学院のレベルは、大学以上のものです。勉強していない人が大学院に来ると、お互い大変に苦しい思いをしなければなりません。勉強したいなら今してください。というより学生の責務は勉強です。 
・「親もいいって言っているから、しばらくは進路を決めません。」 
⇒あなたは自分で自分の人生から逃れようとしており、それを親のせいにしていませんか? 現代社会の厳しい側面も知っておいて下さい。 
・「今は勉強とかしていないけど、将来は留学とかして、国際関係論とか勉強して、ジャーナリストとかになりたい。」 
⇒あなたは日本語の新聞や書籍を読んでいますか?というより読めますか? ついでながら聞きますと、なぜあなたは「とか」という表現を多用するのですか? 
・「・・・・・」(私が問いかけた「大学で取得した単位のうち、本当に自分のためになった単位は何単位?」の問いに対しての多くの学生さんの反応) 
⇒あなたは「楽勝」単位ばかり選んで、得をしましたか 
・「職場では誰も何も教えてくれないんです。」(ある卒業生の言葉) 
⇒当たり前です。職場では必要最小限の研修以外は基本的に誰も積極的かつ親切にあなたに仕事のやり方を教えてはくれません。学校ではあなたは授業料を払っているという意味で「お客さん」でしたから潤沢な教育サービスを受けることできましたが、職場ではあなたは(逆に)給料をもらって働いている「労働者」です。給料ももらって教育サービスも受けられるなどといった贅沢は世間では期待できません。だからこそ学校時代に、社会人としても自立できるだけの基礎学力・勉強の仕方を学んでおくのです。   
もちろん新人は職場の先輩に質問をすることは許されます。しかし二度も三度も同じようなことを聞く新人はいい顔はされません。尋ねる前にまずは自分で考え、調べること。それでどうしてもわからなかったら丁寧かつ簡潔に尋ねることが社会人には要求されています。


■その他、気をつけるべきこと
・20歳の誕生会での一気飲み。 
・学生同士の付き合いにNoが言えず、体調を壊す。 
・サークル活動への逃避。 ・深夜の帰宅やバイト。 
・賭博・風俗関係などのバイト。 
・借金。奨学金返済についての無理解。 
・うつ状態などの精神的トラブル。 
・「何気ない」軽犯罪、カンニングなど。 
・クレジットカード情報などを軽率に他人に知らせる。 
・とにかく打たれ弱い(あるいはプライドが異様に高い)ので、ストレスを避ける事ばかり考える。 
・困ったこと、自分の失敗などを他人に相談できず「大丈夫です」と言い続けているうちに破綻する。



■とにかく「お子ちゃま」のままでいないこと。お子ちゃま的内弁慶世界は、卒業と同時に暗転するだけである。 




■その他、お勧め記事



・まとまった文書の作成法 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/blog-post_21.html 
・オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/10/blog-post_21.html 
・英語子音の発音法のわかりやすい表記 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_09.html 
・英語教育系大学院生のための私家版リンク集 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_07.html


2012年4月18日水曜日

竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想




学部4年生を対象とした『地球的言語としての英語』の授業の第一回目に、導入も兼ねて、竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫のお話をしたら、予想以上に学生さんがいろいろと考えてくれて、WebCTシステムに面白い感想を多く残してくれました。以下は、その一部です。



■教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容する(S君)


今回の授業の中で学校教育における声を届かせることの重要性についての話が印象に残った。授業でもあったように新任教師がまず苦労することが声を生徒に届かせることである。

この声を生徒に届かせるというのはただ単に声を張り上げて、生徒が聞こえるようなボリュームに調整するという意味ではなく、例えば生徒との間合いであったり、発問のタイミングなど様々な要因を含めて生徒が聞いて理解することを指す。

ではどのようにして教師は生徒に自分の声を届かせているのだろうか?一つ考えられる答えは経験を積み上げていくことである。生徒と何年も接していく中で生徒とのインタラクションの取り方を自然と把握することができるかもしれないし、何度も授業をする中で発問のタイミングや声を届かせる術を身につけていくことができると考えられる。

では私たちが新任教師として現場に出たばかりのころには生徒に声を届かせることはできないのだろうか?確かに現場に出たばかりのころには経験はなく、声を届かせる術を知らないかもしれない。

ただ生徒に自分の声を届かせようと努力することはできるはずである。生徒に声を届かせるということは、同時に生徒が声を受容してくれるはずだという想定がある。そのときにまず声を受容してくれる生徒自身のことを知らなければならない。誰が何に最近興味を持っているのか、何について悩んだり、考えたりしているのかなどを知ることは、教師の声を届かせるための第一歩であると考える。さらに生徒自身も教師に対して興味を持たせることでより教師の声が届きやすくなるかもしれない。

いずれにしても教師と生徒の間に良い人間関係が成り立っていなければ、教師の声は絶対に届かない。

そのためにも教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容していく必要があるのではないかと私は感じた。




■生徒を注意する時の教師の声(N君)


 今日の講義の中では、竹内敏晴さんの声に関するお話が最も印象に残ったのでこのことについて書こうと思う。
 
 まず「声」の質の重要さについてだが、自分の小学校からの経験からもこのことは明らかだと思う。今日の話でもあったが、大きい声を出せばそれでいいというわけではない。相手に伝えようとしている人の声は、なぜか吸い込まれるように聞き入ってしまう。逆に自信なさそうに話しているとそれは伝わってしまう。
 
 これはどの職業でも、どの場面でもいえることだと思うが、とりわけ教師に焦点を当てて考えると、一番分かりやすいのは生徒に注意をする時だと思う。今日の例でもあったが、授業中に教室がうるさくなって注意をする場面でどのような声を使うのかに、教師の性格や指導技術が垣間見ることができる気がする(もちろんそのような状況を作らないことが大切なのだろうが)。これまで受けてきた先生の中には、大きな声で叫ぶ(キレるような)人や、何も言わずに待つ人、黒板をドンドンとたたく人、静かに怒る人など様々なタイプがあったように感じる。どれが正しいとか間違っているとか一概に言えないだろうと思う。
 
 このことを考えているとイギリス留学先のC先生が話していたことを思い出した。彼女はかつてこのような状況になった時に「うるさい」と叫んだことがある。その場では、彼女の学生は静かになったのだが、それ以来その学生らとの信頼関係が崩れていったと話していた。
 
 この話を聞いて私が思うのは、目の前の状況をコントロールしようとする余り自分の声が「相手のため」ではなく、「自分のため」に使われてしまったので、学生は見切りをつけてしまったのではないかということだ。「声」は相手に届かせるものだとよく言われるが、それは量的なものではなく、質的なものであるということを私たちは再確認する必要があると思った。





■借り物でない自分のことばで伝える(Nさん)


声・ことばを届けるというのは、意外に難しいことだと思う。小学校から高校までを思い出してみれば、声は大きかったが言っている内容は印象に残っていない先生、たいして大きな声だったわけではないが言われた言葉は覚えている先生、そもそもどんな声かも思い出せない先生など、さまざまである。

印象に残ることばというのは、わたしの場合、内容だけでなくそのひとの声もそのまま印象に残る。そのため、頭の中で、そのひとの声で、繰り返し再生される。それを例えばわたしの声で再生しても、きっと印象は半減すると思う。だれかのことばを代弁するというのは、前回のセメスターの授業であった身体論でいえば、その内容が100パーセント再現されるものではないと思うからである。100パーセント理解することは実際問題不可能であるなら、それを100パーセント再現することも不可能なはずである。

私は中学時代放送部に所属しており、実は朗読で全国大会入賞経験がある。たいした専門知識も持っていなかったが、人が書いた文章を読むのだから書いた人が残念だと思わない程度にはきちんと読まなければならないという使命感だけは持っていた。実際そのように朗読できていたのかどうかは分からないし、きっと作者の意図を完全に再現はできていなかったはずだが、聞いている人に伝わるように、ということは意識していた。

たとえば教育現場において、印象に残ることばというのは、その内容も然ることながら、「声」も大切なのではないかと思う。聞き手にことばを届けるためには、どこかから借りてきたことばではなく、自分のことばで伝える必要があると思う。それは教師にもあてはまるものであり、たとえば教科書や文法書の説明文をそのまま読む(わたしはこれは「無機能な声」の一種だと思う)のではなく、自分のことばで、よりわかりやすい表現で、生徒に届けることができたなら、その理解も深まるのではないだろうか。そして教師は、ことばを届けるだけでなく、生徒からことばを引き出さなければならない。ほかの生徒に届くような声を生徒から引き出すことはきっと難しいことではあるが、姿勢を正し、声を届け、信頼関係を築いていけば、誰にとっても不可能なことではないと考える。



■バトミントン部での体験から(S君)


子供をコントロールしようとして、物理的な指示(例:もっと大きい声で!)をしてみたり、教師が無理やり声を張り上げたり甲高い声を上げたりするが、それでは授業はうまくゆかず、教師は自分が本来持っていた声の繊細さや豊かさを失ってゆく。私たちが目指すような言語教師は、声というものをもっと意識して、自らも生徒にも豊かな声を持たせなければならない。また体と声(話し言葉)は一つであるから、切り離せば、発言は生き生きしたものにならない。

これについて、私は部活動での経験を思い出した。私はバドミントン部に所属しているが、ある大会で、試合前にうまく集中できないままにコートに入った。その試合には負け対戦相手にアドバイスを聞きに行くと、その選手から「気合の入っているような声は出ていたけど、どこか、無理やり出していたね。」と言われた。その試合では、確かに声(相手コートに打ち込めれば「よっしゃ!」など)は出していた。しかし振り返ってみると、それは“出ていた”声ではなく、“出していた”声だった。一心不乱にゲームに入り込んでいれば、気合に入った声は自然に、無意識に出るものだが、その試合では体(俊敏性、反応速度など)と声が一体になっておらず、それが相手選手にも伝わったのだろう。声の物理的な大きさや高さは普段と違いはなかったはずだが、どうして「無理やりだしていた」と相手選手に気づかれたのか、当時は驚いたし、不思議であった。

声は出すものでなく、体からにじみ出るものであって、それは授業においても同じはずである。準備不足だったり、熱意のない授業をすれば、それは声にもあらわれてすぐに生徒は気づく(先ほどの例の相手選手のように)。それでは生徒に“いい声”を出してはもらえず、自分の声も届かなくなってくる。生徒に声を届かせるためには、まず教師自身が授業に従事し、そのうえで声に敏感でいなければならない。



■「身体・声・言葉」でなく「からだ・こえ・ことば」(F君)


今回の授業では多くの人が「声」というものに注目したようだったが、僕はそれよりも「からだ」というものに注目したい。

まず「からだ」の定義として、身体に心が通ったものであるというとらえ方をした。それは単なる物質としての肉体のことを表すのではなく、そこに思考や精神などが通った状態の身体をいうことである。この「からだ」は人間の本質であり、人間を人間たらしめている状態ともいえる。

ここで今回の授業で注目されていた「声」というものに注目してみる。生徒に「声」が届かない教師の例が挙げられていたが、これは教師自身が「声」を物質的、物理的な道具としかとらえていないからではないかと思う。

ここで僕が提言したいのが、それを「声」ではなく「こえ」としてとらえたらどうか、ということである。物理的な「声」に心を通わせた「こえ」ならば人に伝わるのである。なぜならば「こえ」には物理的、表面的な音声としての「声」の裏側ににある、もっと根本的な「伝えたい」という想いがそこには込められているからである。また「こえ」が発せられる土台となるのは「身体」ではなく「からだ」であり、「からだ」ならばその一挙一動に意味を感じられるのである。

これは単に漢字をひらがなにしただけだとも言われそうだが、要は伝えたい、聞いてほしいという根本的な想いがあれば、必然と身体はそれを伝えようとするのではないだろうか、という考察である。

この考えにたって言語というものについても少し考えてみた。今回行き着いた答えが、言語を「言葉」でなく「ことば」でとらえようという考えである。

まず言語というのは単なる記号ではなく言葉である。言葉であるからには人間の何かを伝えよう、という意思がその裏側にあるべきである。人間がこの必然性をもって英語を発することで、「言葉」に心が通って「ことば」になるのである。これは物理的ということ以上の意味を持つという点で、動物のコミュニケーション手段よりさらに高次のものである。言語を専攻する身として、この人間独自の「ことば」というものの考察をさらに深めていく必要があるな、と考えた。




■英語教師の音読(K君)


 今回の授業を受けて一番印象的だった内容は竹内敏晴先生についてのお話である。教師の声と姿勢によって生徒の態度が変わるという話は本当にその通りだと思った。自分はまだ経験もないので塾で生徒に指示を出すときについつい声を張り上げてしまう。実際そうしなければ伝わらないと思っていたが、自分が生徒だったときの記憶を思い返してみると、声を張り上げる先生の言うことはあまり耳に入ってこなかったと思う。なんか大声を出しているなという程度にしか受け取っていなかったので今回このことを思い出すことができて良かったと思う。
 
 また、本当に話しかける、語りかけるということは自分の本当に思っていることを相手に誤解なく、かつ自然に胸にしみこむ、腑に落ちることが特に教育の場で重要であると思った。とりわけ英語は言語教育なので自分の思っていることを自由に過不足なく相手に伝えるコミュニケーションが求められているとわたしは思うので、教師自身もただ英文を発音に注意しながら読むのではなく、自分の体にまず自分が言おうと思っている内容をおとしてから体全体で自分自身の表情のこもった自然な英語を話さなければ生徒に英語を機械的に音読させてしまうだけになってしまうと思うので、自分自身がまずその点に注意して英文に触れて生きたいと思った。私自身、人々が表現しようと思っている感情、表情というものは個人個人必ず思っているニュアンスなどが違うので、できることならモデル提示をせずに生徒が自分自身で本分を解釈し、それを自分なりに表現することができるようになることができれば理想的であると考えているので、今回の分野は非常に興味深かった。
 
 これからの生活の中で今日の授業の中にあった”姿勢”というものをまずは見つめなおして、自分の生き方を4年生になったのでもっと真剣に考えたいと思う。



■生徒がゾクゾクするような英語朗読を目指して(T君)


私は近頃『Harry Potter and the chamber of seacrets』の英語版朗読CDを聞いています。朗読者のStephen Fryさんの表現力には毎回驚かされるばかりです。朗読はStephenさん一人で行われており、BGMや効果音等は一切ない状況で、個性豊かな登場人物を声だけで完璧に演じています。目を閉じて聞くと、頭の中でその場面の状況や登場人物の表情まで浮かんでくるほどの、圧倒的な表現力です。声の強弱やピッチ、イントネーションに加えて、各セリフのスピードや間の取り方など、本当に参考になります。

 生徒の知的好奇心を掻き立て、自律した学習者を育てていかなければならない英語教師には「知のエンターテイナー」としての側面が求められます。教科書付属のCDを流して終わるのではなく、教師自身が作品の内容を声と体で体現して朗読することにより、生徒のより深い理解を促したり、生徒が英語を体現する上での見本を示していく必要があると思いました。

 私自身まだまだ十分な朗読ができずにいて、自分の勉強・努力不足を実感しているところです。生徒をゾクゾクさせるような、生徒にいきいきとした英語を感じてもらえるような朗読ができるようになることが、私の現在の課題です。





■ある剣道家の英語スピーチ(Mさん)


 今回の授業を受けて「伝わる言葉」について印象的な出来事を思い出すことができました。
イギリスへ留学していた時、私はある剣道大会に参加することができました。その大会の主催者の方は
以前にイギリスにビジネスで海外赴任していた際にイギリスの剣道の普及に努め、現在は毎年、大会の時期になると日本から1週間渡英して大会を運営するそうでした。
 わたしはこの方の、大会での開会式の言葉が今でもとても印象に残っています。英語自体はいわゆるカタカナ英語に近いものであり、流暢さという面ではもしかしたら日本の中学生のほうがもっと“良い”英語を話すかもしれません。
 しかし、その方がメモを見ながらも必死に ルールの説明をしたり、 祝辞を読んだり、 スコットランドの剣道普及に対する自分の想いを熱く語る姿から、多くの伝わる何か、があるように思いました。
イギリスの剣友がわたしにこそっと教えてくれたのは"He's a great kendoka of Scotland."という言葉でした。
 感覚的な話しになりますが伝わる言葉には、やはり何かしらの力がある気がします。
それはきっと内面から湧き出るものでなければいけない、とも思います。そして行動が伴う人の言葉には説得力があると感じます。「話術」「面接術」など、聞かせるためのテクニック的なものが有効な場合ももちろんあると思いますが、そこに話している人のspiritがなければ、表面的な言葉に留まってしまうのではないでしょうか。
 私は上手く話すのが苦手、という意識をずっと抱いてきましたが、それでも下手なりに心のこもった言葉で伝えられるように努力したいと思っています。



■記号としての英語授業への違和感(Fさん)


授業で発言したことと繰り返しになりますが、私はある公立中学校で3ヶ月間、学習支援や学校業務のお手伝いをさせて頂く機会がありました。そこでみた英語の授業では、言葉(英語)が単なる記号のように扱われているように私は感じました。

ターゲットの言語材料のプラクティス、教科書の音読練習、授業初めのあいさつやルーティーン活動など、あらゆるスピーキング活動において、教師はいかに噛まずに速く英語(記号)を読めるかということにこだわっているようでした。言葉に込められた話者の意図や考えなどは無視され、そこでの「言葉」は「声」ではなく、「心」から分離された単なる記号・音として用いられていました。教師だけでなく生徒までもが、いかに速く間違えずに読めるかという言葉の本質とはズレている部分で英語の楽しみを感じているのです。

私自身、英語を声に出したり、朗読したり、話したりすることが大好きで、(主観ですが)日本語以上に声色のを変えることによってemotionallyに自分の気持ちや心を表現できるというところに特に英語の魅力を感じている者なので、そのような状況をみてかなりショックを受けました。生徒たちは本質的な言葉(英語)の楽しさを感じないまま卒業し、先生の「正しい」やり方を「正しい」と信じてこれからも英語と接していくのかと思うととても悲しかったです。

教師自身が思う「正しい」やり方は、生徒の考え方にも影響を与えるものです。英語の教師になる者として、言葉の本質や楽しさとは何かということをもう一度捉え直し、授業を通して本当の英語の楽しみ方や言葉の面白さを生徒に伝えていける教師になりたいです。
















2012年4月9日月曜日

映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう




4月は何かを始めるには格好の季節です。今年は映画のDVDを毎週一本借りて、それを徹底的に繰り返してみることを習慣にしてみませんか。つくり話とはいえ、映画を通じて人生の様々な機微を知ることができますし、そのついでに英語も身につきます。



■好きこそ物の上手なれ

私は基本的に「好きこそ物の上手なれ」を信条とし、「習うより慣れろ」とも思っています。ですから、大学入試を突破できるぐらいの英語力を持っている人に言いたいのは、


Don't study English.

Use it.



ということです。

下手に「勉強」しようとすれば、最初の3日ぐらいは懸命にやっても、やがては止めてしまうのが私たちの現実というものでしょう。それなら「勉強」しようとするのではなく、単に英語は「使う」ものと割り切り、その英語を使う体験を楽しんだ方がいいというのが、私のここでの提案です。

勉強はなかなか続きません。でも、楽しいことは続きます。続けばだんだんと身につきます。身につけばどんどん使います。どんどん使えばより効果的に使おうとします。そうすれば学びます。放っておいても。「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とは、こういった事態を指すことばだと私は思っています。

もちろん私とて、ある程度の強制を伴った訓練の有効性を否定するものではありません。私自身は星飛雄馬を見て育った昭和の人間ですから(笑)、英語習得に関しても徹底的に訓練を自己に課しました。そういった背景から書いた文章がこれです。


高度な一般的英語力を目指すために(2006/5/13)

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#060513


今でも、正直なところ、ある程度以上のレベルを越えるには、ある程度の強制力をもった訓練が必要だと思っています(というか、どんな稽古事を考えても、これは当たり前のことでしょう)。

しかし最近の学生さんは、私ほどには星飛雄馬的心性をもっていないようですし、北風よりも太陽の方が効果的なことも世の中には多々ありますから、このような文章を本日新たに書いている次第です。

映画というのは、人を楽しませるために作られた作品ですから、有名な作品というものはやはりよくできていて、私たちの心を掴みますし、繰り返し見ようかという気にもなります。だからいい映画を何度も繰り返して見ましょう、というのがここでの提案です。

えっ、「いい映画を数多く見る」のではなく、「いい映画を何度も繰り返し見る」んですか、とお気づきになった方、その通りです。私は同じ映画を複数回繰り返して見ることをここではお勧めしています。なぜか。英語を「身につける」ためです。



■身体と状況から引き離された記号体系は、なかなか「身につかない」

多くの若い人は、「英語の勉強」と言えば、「単語帳の暗記」や「問題集を全部解くこと」ことをすぐに思い出します(可哀そうな若い人!そんな学習観を植えつけた英語教師を私は憎みます)。「単語集の暗記」や「問題集を全部解くこと」に共通しているのは、とにかく無味乾燥で、心にも体にも感情の動き(感動)が感じられず、とにかくひたすら我慢してやり通すというイメージです。試験が終わればこれ幸いとばかりに、単語集や問題集は捨てます。覚えたはずの単語や文法も、すぐに忘れてしまいます。考えてみれば、心も体も本当は拒否している事が、心と体に残らないことは、当たり前じゃありませんか。英語ということばを、単語集や問題集だけで習得しようとするのは、仮に受験合格への最短経路であったとしても、英語獲得へは外れ道ではないでしょうか。

人間は、話の文脈と話者の身体と共にことばを体ごと感得します。話の文脈から様々な意味合いが生じ、話者の身体から様々な感情があなたの身体にも引き起こされ、あなたは全身で語られたことばを感じます。そうやってことばはあなたの心身に染み込み、あなたの身につきます。それが私がさまざまな文献を引用しつつ、最近強調していることです。


3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/34.html

A summary of Damasio’s Self Comes to Mind
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html

Damasio (2000) The Feeling of What Happens
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/02/damasio-2000-feeling-of-what-happens.html

Atkinson (2010) Extended, Embodied Cognition and Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/atkinson-2010-extended-embodied.html


もしあなたがある程度英語が話せる人なら、すぐにわかってくれるはずです。英語が自然に出てくる時は、意識からでなく、からだから出てきます。自分でもどうしてこの語・句・文を思いついたかわからないほどに、英語がからだから自ずと出てきます。それはその英語があなたの「身についている」からです。だからあなたのからだが、その「身についた」英語がもたらす状態に近くなった時に、自然とあなたのからだの方がその英語を想起し、口を中心としたあなたの全身的な身体表現として、その英語を出してくれるのです。

いや、下手に英語発話で考えるから、かえってわかりにくくなるのかもしれません。あなたの日本語発話を考えて下さい。あなたが誰かと話をしている時、日本語はあなたの意識からではなく、からだ(あるいはどことも言えない無意識・非意識)から出てきます。あなたの意識は、ことばが出てきてからそのことばに気づくことができるだけです(この文章を書きながら、私はまさにそのような体験をしています)。もちろん時には意識的に考えて考えて発話をする時もあるでしょう。しかしそんな時でさえ、考えに考えた後にことばが出てくるときは「すっと」「さっと」ことばは出現します。ことばは「身について」いるものであり、からだに根ざし、からだから出現し、からだで感じ取られるものなのです。

そしてからだは状況(場)と不即不離の状態にあります。場が変われば、からだの状態も変わります(そしてからだの状態が変われば、その場の雰囲気も変わります)。無味乾燥な教室という時空で緊張を強要されている生徒の身体はともかく、自然な場にある自然なからだは、場と共に変化します(逆に言うなら、場はからだと共に変化します)。場とからだはつながっています。そして心はからだとつながっています。さらにことばは心とつながっています。つまり、「ことば-心-からだ-場」は不即不離に連動するのです。この不即不離の連動を無理矢理に切り離してしまえば、ことばも、心も、からだも、場も、本来の働きを失ってしまいます。

私が上で批判した単語集や問題集の無味乾燥な勉強は、まさにことばを、心やからだや場から切り離した記号体系としてしか扱わない、極めて人工的な学習です。だからことばに心もこもらないのです。身につかないし、とっさの時にからだから出てこないのです。場の変化に応じて自然と出てこないのです。

この点、好きな映画をワクワクしながら何度も見て身についた英語は、俳優の「心-からだ-場」から出てきたものであり、それがあなたの「心-からだ-場」の一体的な記憶としてあなたの中に留まります。そうやって身についた英語は、あなたの心の状態がその英語を発した時の俳優の心の状態に近づいた時、あるいはあなたの置かれた場がその英語が発せられた場に近似している時に、自然と出てきます。自然な状況で、自然な気持ちで身についた言語表現は、(たいていの場合において)自然に使われます。丸暗記した英語と異なり、妙に使われ誤解されることはありません。

もちろん、俳優の心や場が、あなたの心や場と常に同じわけではありません。例えば私は(自分でも悪趣味だとわかっていながら)『24 -TWENTY FOUR-』が好きで、シーズンⅣとⅤはDVDセットでもってたりします(汗)。その映画(というよりTVシリーズ)では武器をもった戦いのシーンが多く、そこで多用され、今私がすぐにジャック・バウアーの声と身体の表情と共に想起できる表現は、"Show me your hands"(手を上げろ [そして手に武器を持っていないことを示せ])や "Drop your weapon"(銃を捨てろ)だったりします(笑)。

もちろん、私には"Show me your hands"や"Drop your weapon"といった表現をそのまま使うような機会は訪れないでしょう(笑)。ではこの学びは無駄かというと、私はまったくそう思いません。私はこのような英語から"show"や"drop"といった基本的な語の語感を得ていると思っています。私は英語圏での滞在期間が、生涯を通じて数ヶ月程度ですが、そんな私の英語が多少とも英語話者に「通じる」とすれば、それは私が映画(および読書)から「自然に」、つまりは「心-からだ-場」丸ごとに、英語を覚えたからだと思っています(同時に私は単語集や問題集での勉強を最小限に抑えたことは、いろんな意味でよかったとも思っています)。

そんな私としては、皆さんにも、どうぞ映画がもたらす俳優の「心-からだ-場」にどっぷりと浸って、その「心-からだ-場」をあなたの心身で丸ごと感じ取る英語の学びを勧める次第です。もちろん映画ばかりでは知的な英語表現はあまり身につけられませんから、後日、読書はする必要はあります。しかしいきなり英語で読書しようとしても、活字からはなんら表情ある声は浮かんで来ませんし、状況が生き生きと描出されることもありません。まずは、楽しみながら映画を繰り返し見て、英語をあなたの心身に染みとおらせることをお勧めします。



■声は届けられるために発せられている(あなたの聴力を試すためにではない)

というように私は映画を英語で見ることが好きなので、忙しい現在も、仕事に疲れて何もできないと思ったら、積極的に気分転換も兼ねて映画を見ます(3本買うと1本1000円になるDVDを買い集めることが、読書・音楽・武術以外の私の数少ない散財(笑)法です)。

しかし私はいわゆるリスニングテストは今でも嫌いです。声が、それを発している人は誰なのか、状況はどんなものかなどお構いなしに発せられ、それを正しく聞き取られるかどうかで、私の英語力が一方的に判定されるからです。私は自分が英語教師であるという特殊要因を除くなら、英語力は私の人生に応じてあればいいだけで、それ以上は必要ないと思っています。私の人生では、英語は、私に届けられるために発せられます。だから私は、その英語を耳で聞くだけでなく、目で聞き、からだで聞きます。場の状況を活用して聞きます。自分の心身と場の力を総動員して、私に届けられることを願っているメッセージを理解しようとします。悪意でなく善意から発せられた英語なら、それは私に理解されることを願っているはずです。だから私はその善意を受け止め、耳以外のあらゆる手段も総動員して、その声が伝えようとしていることを理解しようとします。文字通りの意味も、言外の意味も、非言語的メッセージも、場の意味も、すべて合わせて統合的に理解しようとします。それが私にとっての「聞く」です。

しかしリスニングテストでは、私は耳以外の手段を活用することを封じられます。発せられる英語も、善意と共に私に届けられようとしている声というより、私を査定するための音として聞こえてくるようです。私はそんな「聞く」ことが、どうも好きになれません。

この点、映画でのリスニングは、リスニングテストと大違いです。映画俳優の「心-からだ-場」統合体があなたの英語リスニングと常に共にあります。後で述べますように、私たちは字幕(日本語・英語)の助けを借りることもできます。また、何度も繰り返し視聴することにより、英語に慣れ親しむこともできます。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」(笑)。



■日本語・英語字幕と日本語・英語音声をうまく使い分ける

VHSでは不可能でしたがDVDやブルーレイでは可能なことの一つに字幕や音声を日本語でも英語でも出力することがあります。音声と字幕の組み合わせは、英語映画を日本人が見る場合、次の五つが考えられます。


(1) 日本語音声で日本語字幕(あるいは字幕なし)

(2) 英語音声で日本語字幕

(3) 英語音声で英語字幕

(4) 日本語音声で英語字幕

(5) 英語音声で字幕なし


家族と一緒に映画を楽しむのならともかく、一人で英語の学びも兼ねて映画をDVDで見るのなら、(1)の「日本語音声で日本語字幕(あるいは字幕なし)」は論外です。

よくやられているのは(2)の「英語音声で日本語字幕」です。英語にまだ慣れていない人は、最初はこの視聴方法を取ったほうがいいかもしれません(英語に慣れている人は、この(2)も止めてください)。

英語に慣れていない人も、慣れている人も、繰り返し映画DVDを見る方法は(3)の「英語音声で英語字幕」です。DVDの英語字幕は、英語使用者の中で聴覚障害をもっている方の理解を助けるために本来作られたもので、実際に発話されている英語と完璧に一致しているわけではありませんが、まあおそらく少なくとも95%以上は一致しているはずです(慣れてきたら一致していない箇所もすぐにわかるようになります)。まずは英語音声を英語字幕を頼りに聞く経験を何度も繰り返すべきでしょう。

英語字幕を頼りに、と言っても、慣れないうちは、英語字幕を追うだけでも大変なはずです。英語用の目ができていないからです。それでも映画の楽しさに、あるいは何度も繰り返し視聴するという反復学習体験に助けられ、英語字幕を英語音声と共に追う経験を繰り返してください。これが格好の速読訓練になります。それとともに自然と英語を身につけることにもなるのは上で述べた通りです。

そうやって(3)の「英語音声で英語字幕」で何度も同じ映画を繰り返してみると、いくつかの英語は本当に身についてきます。映画の画面と同時に、俳優と同じ表情で映画の台詞を自分でもつぶやけるぐらいになります(早口の台詞は、舌が回らないので、心の中だけでつぶやくことになりますが)。そうして慣れたら、ぜひ(4)を試してください。これが存外に面白い。

(4)の「日本語音声で英語字幕」は、慣れた映画で視聴すると、日本語の自然な発想と、英語の表現の思いがけないような結びつきがわかって、比較文化・比較言語のとてもいい学びができます。日本語音声は、日本語字幕と違って、字数制限が緩い(= 日本語声優の可能な発語量は、字幕で表現可能な字数よりはるかに多い)ので、自然な日本語表現が使われています。そもそも日本語声優による日本語音声は、原語の英語なんて(ひとまず)どうでもいいから、映画そのものを楽しみたいと願っている観衆のために録音されるものですから、日本語は、その英語俳優が日本語ができたらまさに言うような自然な日本語です。その日本語を聞きながら、(もうこの頃までには慣れたはずの)英語字幕を同時に読んで、日英語を比較すると、これは文化や言語表現の違いについていろいろ学べます。翻訳や通訳のいい訓練にもなります。日本語音声は、人気作品でしたら、それだけ翻訳や声優にお金をかけていますから、概して優れたものが多いです(とても下品な映画ですが、『サウスパーク 無修正映画版』の台詞翻訳家と声優の力量は素晴らしいwww)。好きな映画はぜひ(4)まで楽しんで下さい。

そこまで楽しむと(5)の「英語音声で字幕なし」になるはずですが、私はここまで映画を繰り返し見ることはほとんどありません(引退して時間が自由になるようになれば、ここまで繰り返して見るかもしれませんが)。正直、私のリスニング力では(5)の状況で十分に映画を楽しめる作品は限られています。標準的な発話がほとんどの映画ぐらいです。俗語や方言が入ると、私は完璧には聞き取れません。だからテレビ放映で映画を副音声(英語)で視聴する場合は、たいてい、まさに耳以外も総動員した聞き方をしています。

ですが、私の場合は、英語の俗語や方言に通暁することよりは、標準的で知的な英語をより多く知るほうが私の人生に適っていると考えるので、(5)で自己訓練をするよりは、読書を楽しむ方を選んでいます。上にも述べたように、英語力は自分の人生が求める度合いと範囲においてついていればいいと私は考えています。



■自分で選ぶことによって知的感性を育てる

と、このように映画視聴を勧めますと、学生さんの中には「先生、それじゃあ、どの映画を見れば教えてください」と聞いてくる人がいます。私も時間があって機嫌がいい時には、親切に対応するふりをしますが、私の本音は「知らんがな、そんなもん」です(笑)。

好みというものは、自分で試行錯誤をする中で自然に定まってくるものであり、定まれば自然とそれを洗練させたり敢えて広げたりするものです。いずれにせよ、自分の好みなんて自分にしかわかりません。自分の知的感性を育てられるのは自分だけです。もちろん他人の映画評をうまく利用することは大切ですが、他人に自分が見るべき映画を定めてもらおうとする了見は、少なくとも私には理解しがたいものです(そんなに大切な決定を他人に委ねてどうするの?)

自分で好きだったら、どんどんそんな映画の好みを開拓すればいいだけのことです。奇抜な選択や悪趣味は、やがて時が(そしてあなたの成熟が)淘汰してくれるでしょう。少なくとも『24』や『サウスパーク』を面白いと言う品のない大学教師もいるのだから(笑)、自分の見る映画ぐらい自分で探して自分で決めて下さい。



■思い切って出力することで、入力と処理の質を上げる

で、映画を選んで、何度も見たら、ぜひその経験を自分一人のうちに留めておかないで、他人にも伝えて下さい。他人にその映画の、あるいはその映画の中の英語表現の面白さを具体的に伝えようとすれば、その伝えるための言語技術もさることながら、そもそも映画・英語を理解する力が深まり知的感性も鋭敏になります。他人を益しようとすれば、自分の知性が高まるというのが私たち人間のようです(おそらく進化論的に考えても、妥当なことでしょう。たぶん)。また、情報を出せば出すほど、なぜか情報は入ってくるというのも多くの人が経験から知るところです(おそらく社会心理学的に考えても、妥当なことでしょう、たぶん)。

というわけで、何度も見たお気に入りの映画があれば、印象的な英語と共に下記ブログにどうぞご投稿ください。



あ、もちろん、自分のツイッターでもSNSでもブログでも構いません。とにかく自分が楽しいと思ったことを、他人にも伝わるように文章にすれば、言語表現力も、知的感性も高まります。入ってくる情報も増え、質も高まります。お互いにいい文化を作り上げましょう。

それでは次の記事をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」(平成世代にはわかるまい www)






2012年4月7日土曜日

英語教育系大学院生のための私家版リンク集




ここでは、英語教育系大学院生のため役立つと私なりに考えるリンクを、項目ごとに整理します。よかったら活用して下さい。なお、想定しているのは主に修士課程の大学院生ですが、多くのリンクは博士課程の大学院生にも、やる気のある学部生にも有用なものだと信じます。また「英語教育系」と銘打ってはいますが、今や、知的職業にとって英語は必須といってもいい技能ですので、他の専攻の大学院生にも少しは参考になるのではないかとも思っています。




■はじめに:自分が自分の人生の主人公になる

大学院生活で大切なことは、自分が自分の人生の主人公になる、ということです。例えば修士課程では、(1)修士論文を書く、(2)修了所要単位を取るために授業に出る、(3)自分がやりたいこと・やるべきことをやる、ということが主な課題になるかと思いますが、このうち、(1)と(2)は指導教員から具体的に催促されることはあれど、(3)に関しては院生個人に任されています。ですから特にこの(3)について、自分で課題をしっかりと自覚・把握し、うまく毎日を過ごしてゆかないと、せっかくの学ぶ機会が十分に活用できません。以下のサイトを参考にしてください。

・知的仕事のABC
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#080331

・エクセルで行うタスク管理
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_09.html

・「生きる」ためのタイムマネジメント
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2007/08/blog-post_24.html




■すべての基本である身心の健康を整える

時には寝食を忘れて勉強に没頭することもあるでしょうが、勉強は長期戦です。また、冴えた頭でないと、論文執筆といった創造的な仕事はできません(疲れ切って混濁した頭だと、いたずらに無駄な仕事や不安を増大させるだけです。食事と睡眠が大切なことは言うまでもありませんが、長時間机に付く院生は姿勢に気をつけて下さい(というより、姿勢が悪いまま長時間質の高い知的時間などもてるわけがないというのが私の確信です)。

・身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_16.html

また、定期的な運動は特にお勧めします。私が個人的に尊敬している非常に有能な研究者の多くは、定期的に運動することを非常に大切にしています。下は、iPS細胞で有名な山中伸弥先生が高校生に向けて行った講演の動画ですが、そこでも自分自身、運動をすることを非常に大切にしていることを語っています(このことに限らず、この講演は非常にいい講演ですので、大学生・大学院生は時間がある時にぜひご覧下さい)。






心の健康も大切です。独善的な心、高慢な態度、攻撃的な物言い、慢性的なイライラ感、睡眠障害などが出てきたら注意して下さい(大学にもカウンセラーや精神科医がいますので、特に症状が続くようでしたら相談して下さい)。以下は、私が個人的に尊敬する桜井章一氏のことばと、信頼できる精神科の情報です。

・桜井章一(2010)『努力しない生き方』集英社新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/2010.html

・桜井章一(2009)『負けない技術』講談社+α新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/2009.html

・桜井章一先生の著作8冊
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/8.html

・「こころのリスク状態」について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/12/blog-post.html




■知的生活一般(入力)

食物が身体の根本をつくるように、知識が知的精神の根本をつくります。ジャンクフードの大食いがまともな身体を作らないのと同じように、くだらない書物やウェブページばかり読んでいたら、まともな知的精神はできません。読書は何より質を大切にしてください。

・The New York Times (Chrome専用アプリ(NYTimes)が便利)
http://global.nytimes.com/

・Edge
http://www.edge.org/

・Yanase's Twitter List: Essentials
https://twitter.com/#!/yosukeyanase/essentials

・Kindle(専用デバイス上だけでなくPCでも読めて、アンダーライン部分が文献情報と共にすぐにコピペできる
http://www.amazon.com/dp/B0051QVF7A/

・松岡正剛千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/table_list.html

・梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010.html





■知的生活一般(出力)

知的精神は、入力だけでは作られません。というより、自ら知的出力を行い、他人や世界と関わることによって、知的入力に対する自覚が高まります。知的出力を行わずに、入力ばかりやっている人は、実は漫然と情報を右から左に流しているだけに過ぎません。知的出力を定期的に・積極的に行なってください。その際には、言語表現に対して自覚的になるだけでなく、主体的に考えることを大切にしてください。

・本多勝一(1982)『日本語の作文技術』朝日文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/1982.html

・岡野雅行さん:自分の頭と手で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post_07.html

・考える・調べる・尋ねる
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/04/blog-post_13.html





■ICT一般

Personal computerは現代の知的生活にとって必須の道具ですが、それを本当に'personal'に使いこなしている人は必ずしも多くありません。パソコンやiPadなどのタブレットなどを使いながら、常に「もっと効率的な使い方はできないか」と工夫創意を怠らないでください。機械に使われる人生でなく、機械を使いこなす人生を送って下さい。

・Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/google-reader-twitter-evernote-chrome.html

・思考ツールとしてのプレゼンテーションソフト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_496.html

・コンピュータと人間知性の共進化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_7852.html

・コンピュータ上で「思考」をするために
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html

・右クリックとショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_24.html

・ブラウザーならChrome!とにかく作業が速くなります
http://www.google.com/chrome/intl/ja/landing.html

・Microsoft IMEの使いにくさにイライラするなら無料のGoogle日本語入力を!(ただしATOKほどはよくありません)
http://www.google.com/intl/ja/ime/

・無料で便利なNo Editor (特にHTML関係とワードカウントが便利。ただし時々サイトへのアクセスができない状態になっている)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/no-editor.html

・アウトラインプロセッサとしても使えるWZ editorはお薦め
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/wz-editor.html

・情報と知識の総合マネジメントにはEvernoteが便利
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/informationknowledge-managementevernote.html

・DropBoxならどのPCで仕事をしても同じファイルがいつでも使える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/dropboxiphone.html




■英語力を上げる

入学式の挨拶で言うつもりだったのですが、「自分がよくわかっていないこと・よくできないことは、教えない」という当たり前のことを当たり前に行うために、英語教師を目指す者は英語力をつけておきましょう。この場合の「英語力」とは、日本の通常の認識からすれば「デタラメにできる」ぐらいの高さです。そのくらいの高さで海外では「フツーに英語を使う人」ぐらいの認識ですから。

・ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html

・字幕付きの無料動画で楽しく英語を学ぼう!
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/04/blog-post_26.html

・映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう

・英語動画で高度な英語説明力をつけよう!
http://greatpresentationvideos.blogspot.com/

・英語などの総合的な辞書ならOneLook Dictionary Search
http://www.onelook.com/

・代表的な英語辞書・辞典・百科事典ならDictionary.com
http://dictionary.reference.com/

・英語の各種レファレンスならBartleby.com
http://www.bartleby.com/

・英和・和英・国語・類語・専門語辞書
http://www.weblio.jp/

・英語教育ブログみんなで書けば怖くない!企画:「私の英語学習歴 ― 留学なしで大学院修了まで」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post_28.html

・英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/toefl-itp.html




■論文を読む

修士課程ではいきなり修士論文を書くことを求められますが、書く前には相当にそのジャンルの書き物を読んでいなければなりません。まずは大量に学術論文を読んで下さい。

また、論文は読みっぱなしにするのではなく、読んだら必ず自分なりにまとめてそれを電子媒体か紙媒体で整理して保存しておき、後々活用できる状態にしておいてください。純粋に読書の楽しみだけに行う読書と異なり、論文読解は「後で活用・引用できてナンボ」です。

・USEFUL ONLINE RESOURCES FOR APPLIED LINGUISTS 【ブックマーク推奨】
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/04/useful-online-resources-for-applied.html

・広大図書館 (トップのOPACとMetaLibを使う)
http://www.lib.hiroshima-u.ac.jp/

・論文の検索ならGoogle Scholar
http://scholar.google.co.jp/

・本の検索ならGoogle Books
http://books.google.com/





■論文を書くとは

大量に論文を読めば、何となく論文とはどういう書き物かがわかってきますが、やはり自分で書き始めてみると、ぼんやりとわかったつもりになっていたことを、自分は体得もしていないし、明確に理解もしていなかったことがわかります。以下のような記事を読んで、自分で論文を書き始めてみて、改めて以下の記事を読んで、書くことを少しずつゆっくりと、自覚的な理解を深めながら学んでください。

自分のことがよくわかっていない若い人は、しばしば「あ、それ知ってます」と言います。そんな若者に、私の敬愛する方は「ふーん、で、わかってるの?」と尋ねるそうです。「いや、わかっているつもりなんですけど」などと言えば「あっそ。じゃ、できるの?」とさらに尋ねるそうです。以下の記事を読んで「なんだ、こんなん、当たり前のことじゃん」と思う人は、どうぞ自分がその「当たり前」のことを当たり前にできているのかを自問自答して下さい(ちなみに私はできていません)。

ただ、注意点を。論文を書き慣れていない大学院生はこのように助言されると、とかく'perfect'な論文を書こうと思い、自分を追い込んで責めてしまい、「書けない。自分は駄目だ」と短絡してしまいます(良心的な人ほどそうです)。しかし'perfect'な論文なんて誰も書けません。'Perfect'な調査研究も人間にはできません。

私たちが目指すべきは、'reasonable'であることです。多くの妥協もしながら、それが'reasonable'な妥協であればOKです。'Do your best'とは'Always achieve the perfect.'でなく、'Always try to be reasonable as much as you can.'ぐらいで解釈すべきだと思っています。

いやひょっとしたら'reasonable'というより'good enough'でいいのかもしれません。誰も最初から最上の作品を生み出すことはできません。まずは'good enough'な論文から始めて、その経験を重ねて少しずつ'more reasonalbe'になれれば、それこそが'our best'ではないでしょうか。

・研究論文とデザイン
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#060928

・知的エンターテイメントとしての論文
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#081210

・論文の構成要素とコミュニケーション的機能
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#080411

・Research Questionの探究としての研究論文
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html#081015

・相手にとって重要な知見を発見・説明・立証し、それを相手にとって最も親切な形で提示する
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

・卒論・修論・博論の書き方を解説したサイト
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/10/blog-post.html

・「当たり前」だけどなかなかできない「思考のマネジメント」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post.html

・卒論・修論のテーマが絞りきれずに苦しんでいる学生さんへ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/03/blog-post_17.html


・情報から知識へ ― 論文のまとめ方についてのパワーポイントファイルと音声ファイル
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/03/blog-post_30.html





■英語を書くとは

上掲の入学式の挨拶で言うつもりだった文章にも書いたのですが、ぜひ英語をきちんと書けることを目標にしましょう。

・英語ライティングの総合ガイドならTHE OWL AT PURDUE 【必ずブックマーク!】
http://owl.english.purdue.edu/owl/

・杉原厚吉(1994)『理科系のための英文作法』中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/1994.html

・George Gopen & Judith Swan (1990) "The Science of Scientific Writing" American Scientist
http://www.eigokyoikunews.com/columns/y_yanase/2009/11/george_gopen_judith_swan_the_s.html

・J. Williams & G. Colomb (2010) Style: The Basics of Clarity and Grace
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/j-williams-g-colomb-2010-style-basics.html

・遠田和子(2009)『Google英文ライティング』講談社インターナショナル
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/04/2009google.html

・英語教師は理系に学ぼう - コラム
http://www.eigokyoikunews.com/columns/y_yanase/cat-18/




■博士課程後期入学者へ

博士号を取るということは、研究者として自活できるようになることを意味します。以下のような本を博士課程の初めの時期に読んでおくことが、後々の多くの年月を豊かにしてくれるのではないかと思います(下の二冊は未読なのですが、評判が良さそうなのでここに掲載しておきました)。

・川崎剛 (2010) 『社会科学系のための「優秀論文」作成術 ― プロの学術論文から卒論まで』勁草書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/2010.html






■学部入学生へ

ここまでこの記事を読んでくれた学部生の方、向学心をもっていてくれてありがとう!でも無理な背伸びはせずに、まずは以下のような基本的なことは確実にできるようになっておいてください。(でも、ここまで読んでくれて嬉しいです)。

・まとまった文書の作成法
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/blog-post_21.html

・オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/10/blog-post_21.html

・英語子音の発音法のわかりやすい表記
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_09.html






英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう




[以下は、私の講座(教英)の学生に配布する予定の文書です。]




TOEFL-ITP受験の勧め




■ TOEFLを受験して英語の国際的評価を得よう

TOEFLはアカデミックな英語力を国際的に証明する優れたテストです。教英生は、一般向けのTOEICや、日本人向けの英検だけでなく、ぜひ国際的なTOEFLを受験して、自分の英語力を国際基準で自覚するようにしましょう。
今回はTOEFL-ITPの受験をお勧めします。



■ TOEFL ITP とはhttp://www.cieej.or.jp/toefl/itp/index.html

(1) TOEFLを作成するETS (Educational Testing Service) によって作成されたテストで,世界で唯一の TOEFL公式模擬試験です。

(2) スコアは公的なものとしては認められませんが,アメリカやカナダの大学入学資格に必要な TOEFL PBT(ペーパー版)を受験するのと同じ得点が得られ,あなたの英語の実力がわかります。

(3) 受験料は格安 (2011年度で3,865円) で,現在日本で受験できるTOEFL IBT(インターネット版,$170)と比べると負担になりません。

(4) 広島大学のキャンパス内(東広島キャンパス)で受験できます。広島大学外国語教育研究センターと広島大学消費生活協同組合による実施です。



■ 疑問1:TOEICで十分なのでは?

 広島大学で全員が受けるTOEICは経済学部や工学部など、英語以外を専門とする人のために広く開かれた試験です。英語を武器にする学生は、ぜひTOEICよりもレベルが高く、かつより多くの受験生を有するTOEFLを受けて、いわゆる「英語力」の国際標準を自ら体験してみましょう。
 


■ 疑問2:英検1級を受ければいいのでは?
 
 たしかに英検1級の試験は、日本の英語教育事情に寄り添った丁寧な試験でスピーキングやライティングも評価するいい試験です。しかし、現代において、英語力は日本国内でなく、国際的に評価されるべきものです。TOEFLを最初に受けた人は、その英語の量とスピードに驚きます。しかし国際的に「英語がきちんとできる」と認識されるにはTOEFLのレベルでの試験を受ける必要があります。
 


■ 疑問3:低得点だったら恥ずかしいので、もっと実力がついてから受験した方がいいのではありませんか?
 
 私の経験から言わせていただければ、そういう自分のプライドに拘る人は、年齢を重ねるほどプライドが頑なになり、ますますTOEFL受験を始めとしたチャレンジから逃れます(そしていつまでたっても実力をつけず、言い訳だけは上手になります)。大切なのは、まず挑戦すること、そして謙虚にその結果を受け容れることです。そうしてこそ自分の立ち位置がわかり、客観的な学習計画も立てられるのではないでしょうか。これからの未来を切り開く英語教師(の卵)は、ぜひTOEFLを受験してください。



■ 疑問4:でもTOEFLは高いでしょう?

 確かに本式のTOEFL受験料はとても高価ですが、このITP形式はマークシートでリスニングとリーディングの力だけを測る腕試し版で廉価です。とはいえこれはコンピュータ導入以前の方法ですから、測定結果の信頼性は極めて高いです。



■ 疑問5:それではどうやって対策をすればいいですか?

まず、極めて個人的な意見を言いますと、私は「好きこそ物の上手なれ」、「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」といった考えを基本的信条としていますので、問題集による「対策勉強」は嫌いで、実際、ほとんどしたことはありません(例外は学部三年生の時に行った英検1級の勉強ぐらいです)。私個人としては、「ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html)、「字幕付きの無料動画で楽しく英語を学ぼう!」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/04/blog-post_26.html)といった学びのスタイルを好み、ブログ「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」(http://greatpresentationvideos.blogspot.com/)などで学びの喜びを他の人たちと共有したほうがいいと思っています。

とはいえ、「短期間に効果的に対策をしたい」というのも人情かとも思います。そこで一冊だけお薦めするとしたら、以下です。



お薦めの理由は、この本がTOEFLの開発組織ETSと日本での運営組織CIEE日本代表部の協力を得て、本物のTOEFL ITPの指示文・問題・アンサーシートを収録していることです。TOEFL ITPの問題冊子を受験者は持ち帰ることができませんから、この本を参照することは受験準備としては有効だと思います。

この本は京都大学の田地野彰先生と金丸敏幸によって編纂され、本の中には「意味順」の考えも含めた英語勉強法が掲載されています。








※2012年度広島大学でのTOEFL ITP実施計画

第39回
受付開始:6月1日(金)
受付締切:6月21日(木)
開催日:7月14日(土)


第40回
受付開始:7月2日(月)
受付締切:9月20日(木)
開催日:10月13日(土)


第41回
受付開始:11月1日(木)
受付締切:11月21日(水)
開催日:12月15日(土)

http://www.hucoop.jp/career/qual.htmlより。
具体的な申込方法などは広島大学生協店舗でお問い合わせください。






2012年4月4日水曜日

English Next: Why global English may mean the end of 'English as a Foreign Language' の摘要




今年度の『地球的言語としての英語』(水曜5/6限 12:50-14:20 K207教室)では、指定テクストとして、David Graddol (2006) によるEnglish Next (British Council)と水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房を使います。前者は下のサイトから無料でダウンロードできます。後者は各自で適宜購入しておいてください。




David Graddol (2006)
English Next:
Why global English may mean the end of 'English as a Foreign Language'

(British Council)
http://www.britishcouncil.org/learning-research-english-next.pdf





水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』筑摩書房







この記事では、English Nowを読み進めていく際の助けとなるように、適宜、この本の要点を短く書いてゆきます。ところどころでウィキペディアなどにもリンクをはりますので、適宜参照して下さい。※なお日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの情報の質と量は、時に驚くほど異なります。ぜひ両方を参照してください(日本語で速く読んで、英語で詳しく知ると効果的かと思います)。


ですが、解説の前に、なぜ今年からこの英語の本を読ませるかについて簡単に説明します。理由は次の四つです。



(1) 英語が読めることが、教採合格・院試合格のためにも、英語教師・研究者になるためにも、必須のことである。

(2) 英語を読むことが、他人から強いられなくても自発的に行う習慣になるためには、最初はある程度の強制・誘導が有効である。

(3) 社会的・歴史的教養を欠いたままでは、卒業後の読書(日本語・英語)の幅が非常に狭くなる。

(4) 英語普及を長い過程で捉えないと、自己理解を欠いた哀れな「英語マニア」 ―文化的な意味での植民地的状態の中でしばしば出現する一つの類型― になり、悲喜劇的状況を自他の中に生み出す。



(1)は極めて功利的な理由です。教採や院試に合格するためには、まずもって英語の読解力が必要です。そして多くの学部生が十分には英語の読解力を発達させないままでいます。このままでは仮に英語教師や研究者になっても、不十分な働きしかできず、自分でも不全感を覚え、未来の世代を育て損ねます。まずは英語の読解力をつけるために、英語の本を読む量を増やさなければなりません。

(2)は現実的な理由です。自分が必ずしも得意としていない課題を克服するには、しばしば外からの強い誘導あるいは強制があった方がいいというのが、私たちの現実です。ピアノ演奏でも習熟すれば、「気分転換にピアノを弾こう」とピアノを弾くことが自発的な習慣・喜びとなります。しかしその境地に達するには、ある程度の練習量が必要です。その練習量を確保するには、自分の意志の力だけでなく、外からの要因も欲しいところです。
もちろん、その外からの要因が不愉快なものだったりすれば、練習量だけ積んでも自発的な習慣や喜びには至りません。ですからこの授業でも快適な学習空間を作り保つよう気をつけますので、ぜひこの授業という外的要因を使って、放っておいても自分の楽しみのために英語を読む人間になってください。

(3)は時々私が教育学部で心配に思っていることです。教採合格を目指して一直線に勉強することは仕方ないことかもしれませんが、その際に「無駄」を省いて、教採問題集に出てくる項目だけを暗記するようになり、その他にはせいぜい教室・学校空間の内側で起こることだけにしか興味関心が向かなくなると、受験指導には長けても、生徒を人間的・社会的に十全に育てられない教師になるのではないかと私は懸念しています。

教室・学校も人間社会の中にあるものです。ですから教師も(そして教育に関する研究者も)人間社会をより深くより広く理解しなければなりません。そのためは卒業後も、日本語・英語を問わず、また新聞・雑誌・ウェブ・書籍を問わず、読書経験を積み重ねる必要があります。しかし教育学部出身者は、しばしば社会的・歴史的な基礎教養を欠いたまま卒業してしまいますので、卒業後の読書の幅が非常に狭くなり、本来必要な教養を得る機会を失いがちです。卒業前に社会的・歴史的な教養の基礎を身につけておいてほしいと願う次第です。

(4)は私が日本の英語教育界にいて、時々、痛々しく感じることです。英語教育関係者の中には、それが「受験英語」であれ「ネイティブの英語」であれ、それに取り憑かれたように熱中し、少しでもその目指す規範に達しない者を見下げたり罵倒したりするような「英語マニア」がたまにいます(20歳代の私にもその傾向がありました)。そういう人の人生は ―傍から推測するならば― 多分に不幸で、また周りの人びとも幸せにしません。そういった偏執・こだわりから解放されるには、英語が普及している過程に関する歴史的洞察が必要です。現在のグローバル社会に対する理解も必要です。

以上の四つの理由などから、本年度はBritish Councilブリティッシュ・カウンシル)の委嘱を受けて、英国の応用言語学者David Graddolが書いたEnglish Nextを読んでゆきます。


なお、附言しておきますと、授業ではこの本を指定テクストとして使いますが、皆さんが思っているかもしれないような意味での「教科書」ではないことをご理解ください。

受験合格に最も効率化した現在の日本の教育体制で、少なからずの生徒は、しばしば「真理=試験の解答」と短絡し、「教科書=試験の解答を導き出すための本」と認識し、「学ぶ=教科書だけをやること」と錯誤しているようです。「教科書に書いてあることはすべて真実であり、逆に言うならそれ以外に真実はない」ぐらいに教科書を神聖視しているかのようにすら思えることがあります。

言うまでもなく、こういった考えは、人間社会の複雑性を理解しない短見に過ぎません。もちろん自然科学などにはほぼ恒久的といってもいいような知見もあります。それに関しては丸暗記も有効かもしれません。しかし人文・社会系の事象に関しては、学説にしても、「現時点まででは、このような見方でそれなりに一貫した観察に成功している知的枠組み」に過ぎず、それと異なる(あるいは矛盾する)知的枠組みもあります。人文・社会系の学説を学ぶのは、複数の知的枠組みを身につけ、複眼的に思考ができるようになるためです。このEnglish Next!も複眼的思考を獲得するための、一つの見方としてとらえ、この本に書かれていることを鵜呑みにせず、時に自分で疑問を持ち、自分で調べ考えて下さい。それが「批判的」な態度です。

それでは以下に、短くEnglish Nextのポイントを書きます。








*****

David Graddol (2006)
English Next:
Why global English may mean the end of 'English as a Foreign Language'

(British Council)
http://www.britishcouncil.org/learning-research-english-next.pdf





Introduction

■現在も英語学習者の数はさらに増え、かつ低年齢化している(p. 10)

■しかしながら、最近は質的に大きな変化が生じ始め、英語の未来は、これまでの延長であるとは言えなくなってきている(p. 11)

■例えば、今や英語は、シェイクスピアに代表される言語から、グローバルなリンガフランカlingua franca)へと変質している。これは英語母語話者にとっては必ずしも喜ばしいことではない。(p. 11)

■英語は世界の至る所で、国や個人のアイデンティを変えつつある。富の新たな分配が始まり、英語を話さない者が社会的に排除(social exclusion)されることも始まりつつある。人権や市民であることの意味も変わるかもしれない。(p. 12)

■「グローバル英語」とは、既に決まったこと('done deal')ではない。今世紀中にもグローバリゼーションから、以前よりも強力な地域主義(regionalism)が台頭し、言語的にも経済的にも文化的にもより複雑な力関係が生まれるかもしれない(p. 13)。[参考:ジャック・アタリ著、林昌弘訳 『21世紀の歴史』 作品社]






PART ONE: A world in transition


INTRODUCITION

■西洋的な視点からすれば、人間の歴史は、「近代以前(前近代)」(premodern)、「近代」(modern)、「ポスト近代(後近代)」(postmodern)の三つに大別できる。(p. 18)

■「近代」は、ルネッサンスに端を発し、資本主義経済・植民地拡張・プロテスタント(宗教的権威への対抗)・国境紛争・啓蒙思想・産業革命・都市化などにより本格化した。(p. 18)

■「近代」と共に「近代語」(modern languages)が成立し、それと共に「母国語話者」(native speakers)や「外国語」(foreign language)という概念も定着した。[参考:フランスの言語政策→フランス革命]

■現代の諸変化は、近代の旧秩序が、ポスト近代へと大きく変化しようとしていることの現れとも解釈することができる。(p. 18)

■近代以前の特徴:1)信仰が安全と権威の後ろ盾であった。2)変化とは歴史的な循環に過ぎないと考えられた。3)""Foreign"とは隣の地域のことに過ぎなかった。4)言語はまだ標準化(standardized)も体系化(codified)もされていなかった。地理的・社会的な多様性は、方言(dialect)ではなく異なる言語によって表されていた。5)人びとは実際の接触から多言語を習得し、様々な目的のために使っていた。(p. 19)

■近代の特徴:1)理性を信頼し、科学と技術が人間の未来を定めると信じる。2)変化とは「進歩」(progress)であり、常に前に・上に・外へと進むものだと考える。3)「国民国家」(nation state)がアイデンティティの基盤となり、"foreign"の意味もこの観点からもっぱら捉えられている。4)言語は、国民国家の「標準語」として形成され、この標準語が様々な目的のために使われる。5)国家は単一言語(monolingual)の国家となることを欲し、様々な地域の言語は隅に追いやられたり(marginalized)抑圧されたり(suppressed)する。(p. 19)

■ポスト近代の特徴:1)世俗的な考え方(secularism)と宗教的な原理主義(fundamentalism)の間の緊張が強くなる。2)変化は複雑性(complexity)の中で必然的に生じるものとされ、自然理解の枠組みもニュートン物理学からカオス理論量子力学へと変わる。[参考:『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)』『知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)』] 3)アイデンティティが複雑、流動的、矛盾に充ちたものになる。4)政党政治から、それぞれの論点ごとの圧力団体が力をもつ政治へと変化する。5)社会や家族がさらに断片化する。6)多言語使用(multilingualism)が規範となる。[参考:国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ] (p. 19)

■ポスト近代においては、英語が「英語母国語話者」のお墨付きをもらって「外国語」として学ばれるという状況はなくなる。(p. 19)

◆考えてみよう:日本は単一言語国家(monolingual nation)だろうか。日本の将来は言語の観点から考えればどのようになるだろう。

■現在は、近代性(modernity)とポスト近代性(postmodernity)が対立し、パラドックスや矛盾を数多く引き起こしている。英語も、一方では近代の解体の一助となっているが、他方、一部の国々では、帝国主義的旧体制のエリートを再生産する働きをしている。(p. 20)

■新しい現実は、英語の非母国語話者にも変化を強いている。特に古い英語教育体制で、英語の権威を自らのアイデンティティのよすがとしていた旧エリートなどに。(p. 20)

■ポスト近代が語られる今も、近代とは未完のプロジェクトである(the modernity project is incomplete)であり、近代化抜きにグローバリゼーションへは移行できないと信じている国も多い。例えば中国は、今、古いヨーロッパの国民国家理念に基づいた国家形成をしているようにも思える。というより、中国は近代化とポスト近代化の二つの課題を同時に遂行しようとしていると言った方がいいかもしれない。(p. 20)

■このような矛盾こそがポスト近代の特徴かもしれない。近代では矛盾は問題を引き起こすだけであったが、ポスト近代は複雑性の考えに親和性をもっている。近代の発想が単純な線形(liner)モデルであるのに対して、ポスト近代の発想は非線形(non-liner)で複雑性や矛盾に充ちたものである。(p. 21)

■ポスト近代は、中世への回帰であるとする見方もある。国境の意味の弱体化・多言語使用・アイデンティの流動化などを考えると肯けるが、中世という考え方は、コミュニケーションとグローバリゼーションというポスト近代の特徴を捉えていない。(p. 21)

■英語教育関係者もこのような時代の流れの中で翻弄されている。(p. 22)

■来るべき変化は、産業革命や国民国家の台頭に匹敵するような劇的な変化となるだろう。まったく新しい社会的・経済的・政治的秩序が現れ、言語的にも新しい世界秩序が現れるだろう。(p. 22)




SECTION 1: DEMOGRAPHY (人口統計学)

◆考えてみよう:図1.2のS字カーブを見て、どんなことを感じるだろうか?

■人類は、5億人程度の地球から、100億人程度への地球へと急速に移行しているのかもしれない。(p. 25) [参考:Hans Rosling on global population growth]















■イタリアのような国では、若い人が減り老齢者が増えているので、移住労働者(migrant workers)が多く入ってくる。ポーランドのような国では、労働人口が増えているので、多くの人が移住労働者として他国へ出てゆく。(p. 26)

■1960年から2000年の間に、国から国へと渡る移住者(international migrants)の数は倍増し、1.75億人、世界の人口の3%近くとなった。(p. 28)

■発展途上国の経済が成長すると、かつて移住者として出国した人びとが、技術と資本をもって帰国するようになる。(p. 29)

■しかしそういった帰国者(returnees)は、しばしばアイデンティティの問題を抱える。(p. 29)

■国をまたいでの旅行者のうち、四分の三は非英語使用国から非英語使用国へと旅行をしている。このような流れでは対面状況で使われるグローバル英語がしばしば求められる。(p. 29)


■参考:私たちの多くは、歴史を「偉人たちの英雄伝」として読み解くことばかりに慣れてしまっているが、歴史はこの章のトピックでもあった人口増減や、環境とその変化、技術普及などの、どちらかといえば自然科学系の切り口からも説明できる。いや、今や、そのような説明法の方が説得力をもっているのかもしれない。世界的なベストセラーである『銃・病原菌・鉄』(Guns, Germs, and Steel: The Fates of Human Societies)は最近文庫本化された。ぜひ読んで欲しい。気に入ったら(存外に安い)CD朗読版を買ってみよう -- 私も買いましたが、まだあまり聞いていません(汗)。








SECTION 2: ECONOMY

■英語学習を振興する理由として最初にあがるのが「経済」だ。英語教師としては「経済」の動向についても理解しておこう。(p. 31)


■現代の経済について理解するためにも、以下の記事を読んでおいてください。

デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)『新自由主義』作品社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html



The rise of the BRICs

■19世紀以前の中国とインドは、経済大国であったことを忘れないでおこう。(p. 32) [参考:明清帝国ムガル帝国]

■この本は2006年に出版されたが、2009年に中国はドイツを抜いて世界第一位の輸出大国になった。



改革開放以来、中国は貿易の自由化と直接投資の受け入れを通じて世界経済との一体化を進めており、2001年の世界貿易機関(WTO)加盟を経て、そのペースは一段と加速している。2009年に中国は、ドイツを抜いて、世界第1位の輸出大国と第2位の輸入大国となった。これを背景に、日米をはじめ、主要国にとって、中国は輸入先としてだけでなく、輸出先としての重要性も増している。中国では貿易の量的拡大とともに、その構造も途上国型から新興工業経済群(NIEs)型へと高度化してきており、輸出の中心は、従来の繊維をはじめとする軽工業品から機械などのより付加価値の高い製品に移ってきている。

中国の輸出入は、1978年には計206億ドルで世界第29位であり、2001年でもまだ世界第6位だった。だが2009年になると、輸出は1兆2,017億ドル、輸入は1兆56億ドルに達し、輸出入合計では2兆2,073億ドルと、米国に次ぐ世界第2位となっている。

輸出に限ってみると、2001年に6位だった輸出総額は中国のWTO加盟に伴い急速に増え続け、2002年には英国を抜いて第5位に、2003年にはフランスを抜いて第4位に、2004年には日本を抜いて第3位に、2007年には米国を抜いて世界第2位に、2009年にはついにドイツを抜いて世界第1位となった
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/100224world.htm


■2010年には中国が世界第二の経済大国になった。

中国が世界第2の経済大国になった今、アメリカとヨーロッパは巨額の貿易不均衡をめぐる中国批判を強めるはずだ。高度に工業化された日本と長らく競り合っていた中国が日本を追い抜いたことは、大きな意味を持つと受け止められている。

「もはや中国を新興国と呼ぶことはできない」と、エコノミック・アウトルック・グループのバーナード・バウモールは言う。「より大きな国際的責任と向き合わなければいけない。フェアに行動する必要がある」

日本政府が16日に発表した今年4?6月期の国内総生産(GDP)の速報値によると、日本の経済規模(名目GDP)は約1兆2883億ドル。同期の中国のGDPは1兆3369億ドルで、ライバル日本を上回った。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2010/08/post-1528.php



■図1.11 (p. 33) は米国での職の変化を示しているが、約200年の期間で考えるなら、農業人口は激減、工業人口はゆるい山なり、サービス業人口は急増している。同じページの図1.12は、発展途上国でのサービス業が急成長し商品売買を超えたことを示している。サービス業は、製造業よりも、より言語コミュニケーションを要求することに注目したい(また、英語使用だけでなく、その他の言語使用も双方向コミュニケーションのためには重要になってきている)(p. 32)

■中国とインドがこのまま成長を続け、日本並の消費をするなら、やがて両国だけで地球上のすべての資源を必要とするようになるかもしれないという予測もある。(p. 33)

■中国やインドなどのアジアの台頭は、5世紀にわたるヨーロッパの植民地支配の終わりを告げるものだという見解もある。(p.33)

■中国は独自の世界戦略をもつ国のようであり、中国が英語教育に力を入れ同時に外国語としての中国語を普及させようとしていることも、中国の世界戦略の一環として考えるべきであろう。(p. 33)


Globalisation, ITO and BPO

■グローバルビジネスモデルの理想とは、貧しい国で安く生産し、豊かな国で高く売ることである。(p. 34)

ビジネス・プロセス・アウトソーシングBPO)やITアウトソーシング(ITO)は、いわゆる「ホワイトカラー」("white-collar"。 "colo(u)r"ではなく"collar"。発音にも注意)の仕事も、安定したものではないことを明らかにした。世界的な傾向としては、仕事の一部でも安く外部に委託できるのならばそうしてしまえ、となっている。(p. 34) [参考:トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)(下)』日本経済新聞社アルビン・トフラー、ハイジ・トフラー(2006)『富の未来(上)(下)』講談社]

■図1.13 (p. 34)から読み取れるかもしれないことの一つは、英語を使う国はアウトソーシングに有利だということである。

◆考えてみよう:P.35の左上コラムのマクドナルドの話は大げさに聞こえるだろうか?皆さんのバイト経験に、似たようなことはないだろうか。

◆考えてみよう:P.35の左下コラムを読み、以下のようなサイトをチェックし、「教育」「学習」というのが、今やどのように動こうとしているのか、考えてみよう。






The knowledge economy (知識経済


■ビジネスは、「バリューチェーン」(value chain)の中でも、より高価値を生み出すプロセスに移行しようとする。この結果、教育における「軍拡競争」(arms race)が始まる。

■アウトソーシングで設けていた発展途上国も、すぐに経済が発展し賃金があがると、やがてもっと貧しい国にアウトソーシングの仕事を奪われてしまう(台湾、シンガポール、マレーシアなどは、以前はコンピュータ部品のアウトソーシングで儲けていたが、今やその仕事は中国に奪われつつある)。(p. 36)

■最近では、高価値の仕事も「海外直接投資」(foreign direct investment: FDI)の形で中国やインドで行われるようになってきた。(p. 36)

■技術移転(technology transfer)も、以前は完成品が移転するだけだったが、現在はイノベーションのプロセス自体が移転するようになってきている。(p. 36)

■ノルウェーからシンガポールに至るまで、世界の多くの国々の政府は「批判的思考力」(critical thinking)や創造性(creativity)を国民につけようと必死である。2006年にインドは知識のグローバル・ハブ(a global knowledge hub)となる政策を再確認した。(p. 37)

■知識創造までも外部委託することを、knowledge process outsourcing (KPO)と呼ぶこともある。BPOを受け持つ組織は労働者として大卒を必要とするが、KPOを受け持つ組織は博士号取得者を必要とする。(p. 37)



The redistribution of poverty

■英語は富への入り口としばしば言われる。もしそれが事実としたら、英語の普及に伴い、富と貧困のあり方も変わるかもしれない。よく検討してみよう。(p. 38)

■近代的な考え方からすれば、英語を習得することが、教養ある選ばれた中間層(middle class)となることであった。しかしグローバル化した世界では、英語は昔に比べるとはるかに普及していることに注意。(p. 38)

■英語は今や世界規模での知識の、そして取引の入り口となっている。逆に言うなら、英語ができないと知識からも取引からも排除されることになる。(p. 38)

■発展途上国では、能力ある人びとが海外に頭脳流出するという問題が生じている。(p. 38)

■頭脳流出した人びとが先進国から母国(発展途上国)に送金しているお金の流れ、およびそのお金が母国でどのように流れているかについては、公式統計だけではとても把握できないだけの動きがあると推定される。(p. 39)

■古典的なマルクス主義(参考:マルクス経済学)によれば、資本主義が発展するには、資本家が労働者の労働から、その価値以上の剰余価値を引き出さなければならない。この剰余価値を引き出す分だけ、労働者への賃金は低く押えられる。[参考:池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社]。

■海外へのアウトソーシング(あるいはoffshoring)が進むにつれ、先進国では失業の問題が生じてきた。しかし他方で、こういったグローバルな流れが先進国での物価を抑えると同時に労働賃金の高騰を抑えるという結果ももたらしている。[しかしながら2011年秋に広がった「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)のメッセージも理解しよう。さらに脱線するなら、20年以上の時を挟んで、資本主義の象徴とも言えるウォール・ストリートについて、同じ監督が同じ主演男優を使って描いた、次の二つの作品を見比べることは興味深いかもしれない。個人的には、二作目の「煮え切れなさ」というか「後味の悪いほろ苦さ」がいかにも現代を描いているようで面白かった。いずれにせよ、英語教師もグローバル資本主義という現実についてある程度理解し、それをいたずらに礼賛も否定もしないようにすることがないようにしておく必要があると考える。]











■グローバリゼーションは、それぞれの国内での貧富の格差を拡大している一方で、諸国間(先進国と発展途上国の間)の格差は縮小させているようにも見える。英語にどれだけアクセスできるかというのが、これらの格差の一要因として考えられるかもしれない。(p. 40)






SECTION 3: TECHNOLOGY

■テクノロジーは、経済だけでなく、社会もグローバル政治も変えている(そして文化も言語も)(p. 41)



Communication technology

■国際電話は以前は非常に高価で通信距離によって価格が決定していたが、20世紀末までには国際電話は廉価(あるいは無料)になり価格も発信・送信国の通信制度の自由化の度合いによって決まってくる。(p. 42)


■参考:今ではほとんど聞かれることも少なくなったWeb 2.0ウィキペディア)という用語が流行する以前、インターネットは強力な発信力をもった送り手からその他大勢の受け手への一方向の情報の流ればかりだったが、Web 2.0以降、social media(ソーシャルメディア)が普及し、情報の流れは双方向、というより多方向になった。


■監視というのは、以前は「パノプティコン」のイメージで語られることが多かったが、現代ではICTにより普通の市民が政府を監視したり相互を監視したりできるようになるなど、「監視社会」(surveillance society)も複雑な様相を取り始めた。

また2010年からの「アラブの春」(Arab Spring)は、市民がソーシャルメディアをもった力を見事に示したようにも思えた。

しかし、国家がもつ監視能力を過小評価することはできないだろう。(p. 43) [参考:ジョン・キム(2011)『ウィキリークスからフェイスブック革命まで 逆パノプティコン社会の到来』ディスカヴァー携書mass surveillanceEvgeny Morozov@evgenymorozof]


■参考:ICTは自然科学は言うまでもなく人文系の諸学問にも影響を与えている("culturomics", "Google Ngram Viewer", "digital humanities")



Language on the internet

■コンピュータは基本的にアメリカで生まれ発展した技術文化だけに[参考:池田純一(2011)『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) 』]、以前はコンピュータやインターネットを使いこなすためにはまず英語を習得しておかねばならないとも思われていたが、現在、ICTの世界はどんどん多言語的になってきている。(p. 44)


■44ページの図1.22およびhttp://www.internetworldstats.com/stats.htmなどの資料を見ると、英語以外の言語がどんどんとウェブ空間に進出していることがわかる。だが情報の量はともかく、質ということになると、英語の力を過小評価することはできないだろう -- 例えばこのセクションからはっているリンクをたどり、日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの記述を比較してほしい。(p. 44)


機械翻訳(machine translation)もICTが大量のデータを処理できるようになり、急速に発展しようとしている。[参考:ブラウザーChromeのGoogle Translateはインストールしておくと日英語以外のサイトにアクセスした時に、だいたい理解できる英語に翻訳してくれるので便利である]


■総じて、ICTが普及することにより、ウェブ上の言語使用状況も、以前の一部の者だけによる形式的な言語使用から、さまざまなジャンルが共存する、現実社会の社会言語学的状況と同じようになってきている。(p. 45)



News media

■グローバル化した世界(globalised world)では、国際的ニュース(international news)が重要である。以下は興味深い国際的メディアである。(pp. 46-47)



Al Jazeera (英語)
http://www.aljazeera.com/

BBC Arabic (アラビア語)
http://www.bbc.co.uk/arabic/

CNN Arabic (アラビア語)

Telesur (スペイン語)
http://www.telesurtv.net/

Russia Today: RT (英語)
http://rt.com/

Global Voices (英語)
http://globalvoicesonline.org/


ちなみにNHKにもNHK World (http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/)がある。


■テクノロジーによって、コミュニケーションのあり方も変わり、言語の使用状況も変わりつつある。(p. 48)







SECTION 4: SOCIETY

■言語使用は、人びとの社会的関係やアイデンティティ(自己同一性)と結びついている(p. 49)。これらの側面は、これまでの英語教育研究(応用言語学)では軽視されてきたが、最近の欧米の応用言語学では急速に注目されている。日本の状況を今後よりよく理解するためにも、こういった側面の理解を深めよう。[参考:B. Norton & C. McKinney (2011) An Identity Approach to Second Language Acquisiton]


An urban, middle class future

■経済が発展すると、都市化urbanisation)が伴う。(p. 50)

■都市化は、しばしば都市部への人口集中だけでなく、地方の過疎化(depopulation)を招き土地の利用パターンも変わってくる。(p. 50)

■英語は、都市の言語とみなされ、だんだんと増えてきている中産階級(middle class)や、大都市(metolopolitan)での仕事や、都市型ライフスタイルと結びついている。(p. 50)

■中産階級は経済発展の結果であると同時に、経済発展を推進する要因でもある。インド政府も中国政府も自国の中産階級を国内消費の担い手として考えている。中産階級が国内でどんどん消費をすれば、海外の多国籍企業からの投資も増え、社会も安定するだろうと考えている。(p. 50)

■インドの都市化はそれでも他のアジア諸国に比べれば遅い。だが、インド南部のバンガロール(Bangalore)では、従来からインド北部のヒンディー語勢力に対抗するためもあって英語使用が盛んであったが、近年はSillicon Valley of Indiaとも呼ばれ発展している。(p. 51)

■インドの中産階級は1980年代中頃は人口の10%以下だったが、2000年代には20%(2.2億人)となった。中国では2003年で19%だが、2020年までには40%に達するとも予測されている。(p. 51)

■言うまでもないが、都市に住む者がすべて中産階級というわけではない。大都市の一部(特に郊外部)ではスラムもできている。だが、スラムに住む地方からの居住者は、大都市と地方(故郷)の文化的・経済的パイプ役ともなっている。(p. 51)



Social cohesion

■ICTの普及で、社会的つながりにも変化が生じ始めている。個人や小さなコミュニティが、遠くの人びととつながりながら、物理的な近隣とは疎遠になる現象も相次いでいる。
■国のアイデンティティ(少し古い言い方で言うなら「国体」)が失われるという恐れを、さまざまな国々で少なからずの人が感じている。

■北部アメリカや西ヨーロッパの一部の都市では、その国の標準語を話せなくても、普通に職を得て、暮らし、公共サービスを受けることができる。その国でのマイナー言語の共同体がそれなりの規模をもっているからである。

◆考えてみよう:時に人びとは「民族」"ethnic group")を客観的実体とみなしているが、それは実は主観的・社会的・政治的な構築物であるといえる。興味があれば、塩川伸明『民族とネイション―ナショナリズムという難問』 (岩波新書)などの入門書を読んで下さい。






■前近代において、個々人が地域間を広範囲に移動することは、一部の商人・冒険家・兵士・旅芸人・学者などを除けばほとんどなかった。近代になり交通機関が発達し、旅行も盛んになり、また植民地支配も広まった。遠くの土地に移住した場合、概して人びとは、故郷と疎遠になり、新しい土地で新たな人間関係とアイデンティティを築いた。(p. 52)

■しかし現代においては、人びとが遠くの土地に移住しても、ICTを通じて、故郷との結びつきを失わず、同時に新しい土地での人間関係・アイデンティティ形成を図ることが可能になっている。[2012年4月現在、私はイギリス語学留学に行った教英の学生さんが、Facebookを通じて日本の友人とイギリスでの写真を簡単に共有したりしている様子に、時代は変わったな、と感じた]。遠くの外国に移住しても、今や、故郷の新聞をウェブを通じて読むことも容易だし、場合によっては衛星放送でテレビも視聴できる。(p. 53)

■FacebookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス, social networking service)は、卒業後の旧友とのつながりを、かつてでは考えにくいほどに親密なものにしている。 (p. 53)

◆考えてみよう:ひょっとしたら、これからは社会関係資本social capital)においても格差が深刻化するようになるのだろうか。言語を問わず、コミュニケーション能力の差が重大になってゆくのだろうか?

■バイリンガルは、モノリンガルとは異なる価値観を持ち始めることがある。スペイン語しか話さない人びとと、スペイン語を第一言語としながら英語を第二言語として多用する人びとの間では、例えば中絶に関して大きな意見の違いが見られる。(p. 53)



The growing gap

■変化の激しい現代においては、家族の中にも大きな差異が生じかねない。例えば海外移住を数年間した家族などでは、兄弟姉妹の中でも、得意な言語に差がでかねない。また、祖父祖母ときちんと言語コミュニケーションが取れない子どもも珍しくない。(p. 54)

■シンガポールでは、英語が第二言語から、次第に事実上の主要言語(the main language of the home)になってきている。(p. 55)[このあたりに関しては、(2012/04/18現在)特に英語Wikipedia: Singapore => Languagesと、日本語ウィキペディア: シンガポール => 言語の記述を比較してほしい。このブログではできるだけ日本語ウィキペディアと英語Wikipediaの両方にリンクをはっているが、ぜひ両方を読み比べ、日本語だけしか使わない場合の情報量と、英語を(も)使う場合の情報量の違いを感じ取ってほしい]。

■これまで家庭こそは、子どもの安定した言語的・民族文化的アイデンティティを醸成する場だと考えられてきたが、現代は、必ずしもそうとは言えない。これからは家庭以外の要因もアイデンティティ形成にとって重要である。(p. 55)



SECTION 5: LANGUAGES

 ■'The story of English'とは、1986年に製作されたテレビ番組であり、その書籍版も出版された。(日本語翻訳も出ている)。この歴史観からすれば、現在の'Global English'は英語母語話者の「勝利」とも捉えられるが、現在の現実はこの当時の歴史観で捉えきれないぐらいの広範囲で複雑な変化が生じている。(p. 57)





The triumph of English

■Global Englishとは、近代英語(Modern English)が世界規模に広がったと考えるよりは、過去との不連続において生じた現象と見るべきであろう。

■英語は通常、古英語 (Old English)、中英語 (Middle English)、近代英語(Modern English)の三つの時期に歴史的に分類され、古英語と中英語の間にノルマン征服Norman conquest)によるフランス語の影響、中英語と近代英語の間に政治・宗教・経済などでの飛躍的な発展、が主な背景要因としてある。(p. 58)

■グローバル英語とは、これらに続く第四の時期の英語と考えられるべきで、地球規模のリンガ・フランカであり、ポスト近代世界における新たな文化・言語・政治・経済的事象であると認識できる。(p. 58)

■しかし、現在の英語史 (History of the English language)の多くは、十九世紀の価値観・世界観を反映したものにすぎない。(p. 58)

■そういった(今では)古い英語史の考えでは、英語史とは、英語の立身出世("rags to riches")物語である。英語は、古英語としてまとまりかけていたところを悪役のフランス語(ノルマン征服)によりその調和を乱されたが、『カンタベリー物語』などで中英語として新たな形をなし、さらにドライデン(John Dryden)やシェイクスピア (William Shakespeare)などによって、文芸の言語(literary language)としても国のアイデンティティを示す言語としても十二分な力をもち、加えてニュートンIsaac Newton)や王立協会(Royal Society)の科学者により科学を表現するにも十二分な力をもつ言語となり、近代英語としうて結実した。(p. 58)

■近代英語は、さらに18世紀のサミュエル・ジョンソン (Samuel Johnson)の辞書、19世紀のオックスフォード英語辞典Oxford English Dictionary)により、その地位を不動のものにした。(p. 59)

■こういった英語史観の背後には、産業革命によって絶頂期を迎えたイギリス帝国の時代であるヴィクトリア朝 (Victorian era)に代表される19世紀的価値観がある。こういった近代的価値観では、国民国家としての進歩と成長が強調され、言語の近代化も、国内での地位確立ためだけでなく、イギリス帝国の果てまでも文明化させるためにも必要なことであり、近代英語の確立と普及は英語話者の義務だと考えられた。(p. 59)

■グローバル英語を、こういったこれまでの英語史に付け加える新たな一章と考えるならば、グローバル英語とは、近代英語が国境を越え、(ライバルであったフランス語を押しのけて)国際的なリンガ・フランカとなり、ヨーロッパで最も好まれる実用言語・作業言語(working language: a language that is given a unique legal status in a supranational company, society, state or other body or organization as its primary means of communication)となった英語の勝利を示すものとなる。しかしグローバル英語をそのように捉えるのは重大な誤りである。このような自文化中心主義的(ethnocentric)な考えでは、現在進行中のグローバル英語による世界の変容と(その逆に)世界の変容によるグローバル英語の変容という複雑性を捉えることができなくなる。(p. 59)


The world languages system

■近代に入って、世界の言語の総数は少なくなり、またその減少傾向は加速している。しかし、これをグローバル英語の普及による傾向とするのはやや早急である。なぜなら、言語の多様性の喪失は、グローバル英語の普及以前から進行しているからである。とはいえ、グローバル英語の影響は等閑視するべきでなく、英語は、国民国家言語(national languages)の「食物連鎖」('food chain')の上位にいる。(p. 60)

■言語に関するレファレンスとして信頼のおけるEthnologue (http://www.ethnologue.com/)によれば、現在、世界には7000近くの言語がある。しかし、そのうち上位12の言語で、地球人口の半分が話している言語をカバーしていることになる。(p. 60)

■母語話者(注)の数でいうなら、英語は50年前こそ中国官話Mandarin Chinese)に次ぐ世界第二位のち位を占めていたが、現在、英語は母語話者(あるいは第一言語話者(first-language speaker))の数では、スペイン語とヒンドゥスターニー語(Hindi-Urdu: a pluricentric language, with two official forms, Standard Hindi and Standard Urdu)とほぼ同数ではないかと推定されている。また近々、アラビア語の母語話者が急速に増えてゆくだろうとする学者もいる。(p. 60)

(注)'native-speaker'を「母語話者」と訳すべきか、あえて「母国語話者」と訳すべきかは私はいつも迷う。例えば私の'mother-tongue'は九州方言であるが、今私が書き連ねているような言語(職場で使う言語でもあり、私が個人的情感を確認する言語でもある)は日本国の学校制度を基盤にして獲得した「日本語」(というよりまさに「国語」)だからである。近代的言語が「国民国家」の概念と制度によって形成されたことを明確に示すためには、私は「母語」より「母国語」の方がよいのではと考えている。このあたりについて考えるためには、このEnglish Nextの次に読む水村美苗『日本語が亡びるとき』や以下の本を読んで欲しい。

・イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1996.html

・イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』明石書店

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2009.html

・橋本治『言文一致体の誕生』朝日新聞出版

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010.html

・安田敏郎『「国語」の近代史』中公新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html

・山口仲美『日本語の歴史』岩波新書

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2006.html

・福島直恭『書記言語としての「日本語」の誕生』笠間書院

http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008.html


■中国語は、世界中で最も多い母語話者数をもつ言語であるが、現在は中国官話Mandarin Chinese)からさらに「普通話」(Putonghua --もしくはStandard Chinese, Modern Standard Chinese, Modern Standard Mandarinあるいは以前と同じままにMandarinとも呼ばれる)に整備されようとしている。(p. 61)

■スペイン語の母語話者数は、現在、英語の母語話者数とほぼ同じだが、おそらく近いうちにそれを追い越すだろうと考えられている。それに伴いラテンアメリカと米国でのスペイン語の経済的重要性も高まるだろう。(p. 61)

■アラビア語は、現在、母語話者数が最も急速に増加している言語である。また、かつてBBC (http://www.bbc.co.uk/)が'BBC English'を普及させたように、Al Jazeera (http://www.aljazeera.com/)は、アラビア語をよりいっそう整備し普及させるかもしれない。(p. 61)

■中国は、孔子学院(Confucius Institute) (http://www.chinese.cn/)によって外国語あるいは第二言語として中国語を普及させることに力を注いでいる。この孔子学院は、英国のBritish Council、ドイツのGoethe-Institut、フランスのAlliance françaiseと同じような機能をもっているが、孔子学院では中国政府の意向が強すぎるという批判もあるようである。 (p. 63)

■スペイン語の影響力が強くなるにつれ、ブラジルでは2005年より全ての中等学校でスペイン語の授業を提供することを決定した。これによって生徒は英語かスペイン語を選択することとなった。(p. 63)



A transitional stage

■この第一部では、世界が変革期(a state of transition)にあることを強調した。この歴史観は、単純な進歩(progress)という近代の歴史観と異なる。(p. 65)

■著者は「ポスト近代」('postmodern')という用語を好んでいるが、研究者の中には「後期近代」('late-modernity')という用語を好む者もいる。(p. 65)

■しかし現代の変革が急速で、不安定感により人びとを戸惑わせるものだとしても、やがては落ち着く所に落ち着くのかもしれない。人口増加、都市化、脱工業化、BRICsの経済発展もどこかで一種の'some kind of predictable end point or destiny'に到達するのかもしれない。(p. 65)

■現在は中国やインドなどが安い労働力で、先進国の脅威となっているが、やがて中国もインドもその競争力を失うかもしれない。中国やインドの賃金が上がり、より安い労働力をもった国々が台頭するからである。理屈からすると、いつかは世界中の国々の賃金や知的創造性がほぼ同等なレベルに収束するとも考えられる。もちろん、悪政や戦争あるいは自然災害などがあれば別であるが。 (p. 65)

■John Ralston Saulは2005年の著作The Collapse of Globalismで、グローバリゼーションは既に終結期にあり、私たちは今や様々なナショナリズムが台頭する「危険な真空状態」にあると説いている。この状況は、19世紀後半の自由貿易とグローバリゼーションの台頭に比することができるかもしれない。その際、19世紀後半のその流れは、第一次世界大戦につながっていったことを忘れてはならない。(p. 66)

■このような時代において、英語は一方でリンガ・フランカでありながら、他方で特定の文化的・経済的価値(ひいては宗教的価値)を体現するものであるという矛盾した状態にある。(p. 65)

■一口に「変化」と言っても、私たちは少なくとも以下の四種類を区別するべきなのかもしれない。(1)つかの間の変化(Ephemeral): 若者の携帯メール多用が言語文化を変えてしまうのではないかといった不安感の台頭。 (2)過渡期の変化(Transitional): 第二言語としての英語をこれまでより若い年齢層に教え始めるといった一回限り(one-off)の変革。 (3)古いパラダイムの衰退(The declining old paradigm): 英語を「外国語」として教えるEFLの考え方が輝きを失うことなど。(4)新しいパラダイムの台頭:英語教育においてはネイティブスピーカーが"gold standard"ではないという考えの台頭など。 (p. 66)


■67ページの参考文献表にもあげられているが、2005年刊行(原著)のThe World is Flat.は読んでおくべき本の一つかもしれない。
トーマス・フリードマン著、伏見威蕃訳(2006)『フラット化する世界(上)(下)』日本経済新聞社
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060920




PART TWO

Education



The educational revolution
■Part Oneで述べられた諸現象は、"a global revolution in education"を引き起こしている。

◆考えてみよう:あなたはこの教育の革命的変動を実感できているだろうか。テクノロジーといった誰の目にも明らかな表面的な現象だけでなく、そもそも教育に関する根源的な考え方の変革を感じているだろうか。

以下は、Ken Robinsonによる有名なTED動画である。これも時間を作って見て欲しい。


Ken Robinson says schools kill creativity


Sir Ken Robinson: Bring on the learning revolution!


Ken Robinson: How to escape education's death valley



次の動画もぜひ見て欲しい。目の前の短期的な出来事だけに囚われるのではなく、長期的な視点も持って欲しい。

RSA Animate - Changing Education Paradigms


また、次の動画は、西洋的な近代教育観の偏りを教えてくれるかもしれない。(ついでながら言うと、このRSA Animateは非常に優れているので、ぜひRSSかYouTubeで購読して欲しい。



以下は、江戸時代の学びという比較の対象を得ての、西洋近代的教育観の問い直しの書(に関する私の紹介)である。ぜひとも目の前に見えていると自分が信じて疑わない「現実」だけが、世界の可能なあり方ではないことを実感して欲しい。そして自分が信じて疑わない考え(=イデオロギー)を相対化し、そこから解放されることが、どれだけ人間の言動を自由にするかも実感して欲しい。

辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012_14.html



■ポスト近代の教育は、学習者に、きちんと確立された事を達成することでなく、変わり続ける世界に対応するための柔軟性 (flexibility)・創造性 (creativity)・革新 (innovation) および状況対応の技能(management skills)を組織的に身につけさせること(institutionalizing)に重点が移っている。(p. 70)

EDUCATION MODERNITY

■近代化のプロジェクト (the modernity project) においては万人に教育を与えること (the provision of universal education) が重要な要素であった。(p. 70)

■しかし19世紀には、労働者階級の子どもに読み書き能力 (literacy) を教えると社会秩序の混乱につながりかねないという懸念すらあった。だが読み書き能力は、産業社会化 (industrialising) や経済の都市化 (urbanising economy) には必要だった。(p. 70)

■近代社会では消費者であるためにも、個々人はある程度の読み書き能力が必要となっている。読み書き能力がなければ、指示書やマニュアルなども利用できない。(p. 70)

EDUCATION IN A GLOBALISED WORLD

■グローバル化したポスト近代の世界では、個々人は、労働者としても消費者としても市民としても、より広く深く情報を得て、以前よりも高次元の柔軟な技能 (higher-order and more flexible skills) を獲得しておかねばならない。(p. 71)

■知識、創造性、批判的思考力に長けた労働者を育てることは、経済のために必要なことだろう。しかしそれは同時に社会的紐帯 (social cohesion) や政治的安定 (political stability) を揺るがすことにつながるかもしれない。(p. 71)

■教育はいまや、子ども時代だけでなく、生涯を通じて必要なものとされている。

■技術革新 (technological innovation) は激しいが、その中で人間は単に技術を学ぶだけでなく、新しい文化様式も学ばなければならない。(p. 72)

◆私見だが、Wiredは技術革新に伴う新しい文化様式を伝えてくれる優れたメディアだ。ぜひ注目してほしい。

ワイヤード
http://wired.jp/

Wired
  http://www.wired.com/


ENGLISH AS A BASIC SKILL

■今後は、「学ぶことを学ぶ」(learning to learn)「一般的学習」 (generic learning) (あるいは「一般的技能」(generic skills)、「一般的学習技能」 (generic learning skills) )が大切になってくる。定められた事柄の学習ではなく、新しい状況・事態への対応力という創造的な力を育む学習である。しかし、昨今流行している 'can do' (あるいは 'can do statements') は、分析的で具体的かもしれないが、定められた事柄を遂行できる能力だけで教育を定義しようとしていることに注意したい。(p. 72)

■この論点は重要だと考えるので、原文を引用する。

The role of education in school is now seen as to provide the generic skills needed to acquire new knowledge and specialist skills in the future: learning to learn.

...

THE NATURE OF KNOWLEDGE HAS CHANGED

Genericl learning skills equip a student to 'retool' their minds as the need arises. But the change of focus has also led to a more 'can do', 'just in time', 'no more than is needed' approach to learning. The wider frameworks and disciplinary knowledges are being swept aside in favour of more pragmatic and fragmentary approaches to knowledge. The new knowledge are not seen as bodies of enduring facts whose shared nature helps construct identity and community, but as transitory -- even fleeting -- affairs distributed unevenly in society. (p. 72)


なおこの論点については「コミュニケーション能力」の授業でも言及した次の記事も参照してもらいたい。

教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/blog-post_4057.html


END OF LOCK STEP EDUCATION

■教室では全員が同じ言語を学び、同じレベルにまで到達するという前提は、少しずつ揺らぎ、より個人に特化した学習 (more personalized learning)に教育の考え方が移行しているのかもしれない。この意味で、学習者の自律 (Wikipedia: learner autonomy)や教材の多様化がより重要になると考えられる。(p. 72)



SECTION 1: HIGHER EDUCATION

■経済と共に、高等教育もグローバル化しており、英語もその中で重要な役割を果たしている。(p. 73)

The globalization of universities

■グローバル英語の普及の最大要因の一つは、高等教育がグローバル化したことである。従来、大学というのは国民国家の制度に過ぎなかったが、現在の多くの大学はグローバルな制度になろうとしている。また、高等教育のグローバル化は、その他の教育制度にも影響を与えつつある。(p. 74)

■下にあるのは"Academic Ranking of World Universities"である(Wikipedia:Academic Ranking of World Universities)。この原稿を書いている時点では2011年のランキングを見ることができるがトップ10の大学はすべて英語圏の大学である(米国8校、英国2校)。

Academic Ranking of World Universities
http://www.arwu.org/

■このような状況から、「世界中の有力大学は、一つの国際学術市場を形成しており、そこでは学術的通用単位 (academic currency)・労働力 (labour force)・言語が一つにまとまりグローバル化しているとの指摘もある。(p. 74)

◆考えてみよう:一方でこのように英語が国際的な共通語としての地位を確立しながらも、他方で英語以外の言語ができることに注目しようとする動きが、欧米の応用言語学界では大きくなっていることにも目をとめよう。


日本の英語教育では、学習者の日本語力・日本文化理解を十分に英語力と連動させようとしているだろうか。

さらに言うなら、日本では「バイリンガル」は「日本語と英語ができる人」を意味しがちであるが、なぜ「日本語と中国語ができる人」「日本語とポルトガル語ができる人」「日本語とフィリピン語ができる人」といった意味合いはなかなか浮かんでこないのだろうか。私たち英語教育関係者の中に潜んでいるかもしれない英語偏重(bias)について考えてみよう。


THE BOLOGNA PROCESS

■The 'Bologna Process' (Wikipedia, ウィキペディア(日)には記事なし)は、各国間での「制度格差を是正し全体系の合理化を目的とした調整」Weblio:英和生命保険用語辞典である 'harmonisation' の一つで、ヨーロッパ各国の高等教育の共通性を高めようとする試みである。ここでは英語使用は義務化はされていないが、推奨はされている。(p. 74)


THE WRONG KIND OF GRADUATES

■インドは毎年250万人もの大卒者を生み出しているが、そのうち多国籍企業で働くのに適している(suitable)人材は4分の1に過ぎないという。主な理由が口頭での英語能力が乏しいことである。中国も(2005年調査では)300万人以上の大卒者を生み出しているが、そのうち多国籍企業で働ける人材は10%以下だという。理由は同じく口頭での英語能力不足である。(p. 75)

◆考えてみよう:日本の大卒者の何割が多国籍企業で働くのに適しているだろうか?


International student mobility

■現在、世界では毎年200万人から300万人の学生が留学していると推定されるが、その大半は英語圏(The Major English-Speaking Destination Countries: MESDCs)であり、米国と英国だけで全体の3分の1以上を占める。(p. 76)


NEW COMPETITORS

■MESDCsは、三つの挑戦を受けている。一つは、これまで英語圏に留学生を送り出してきた国の大学が自己改革を進め留学生が減っていることである。第二には、自己改革を成功させた大学は、逆に留学生を引きつけるようになってきていることである。例えば中国は近年韓国や日本からの留学生を増やし、タイやインドからの留学生も増やそうとしている。第三に、ヨーロッパでもアジアでも多くの大学が英語で教えるコースを作り、留学生を招いていることである。(p. 77)


Transnational education

■1990年の末には、インターネットが教育を変えてしまうという楽観論があった。しかし多くの試みは失敗した。(p. 78)

THE GREAT ELEARNING FIASCO

 ■インターネットによる高等教育革新の失敗の多くは、高等教育の実際をよく知らない人びとによって革新がなされたことにある。例えば、学生は、ただ教育内容を求めているだけでなく、有名な大学からの学位を得て就職市場で有利な立場を得たいという欲求をもっている。この欲求は当時の試みではうまく満たされなかった。(p. 78)

■しかしテクノロジー主導のイノベーションというのは、何度も失敗しながら、だんだんと実現されていくものだということを忘れてはならない。(p. 78) これは技術の歴史(特にコンピュータの歴史をさぐれば明らかなことである。また、最近では、TED EdとMITが子ども向けの動画教育をことや、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が2012年秋から本格的なオンライン教育を始めることなどが話題になったが、このようにイノベーションは失敗を糧に何度も波になって到来すると考えるべきだろう。

TED EdとMIT+12: 「開かれた文化」ということ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/ted-edmit12.html


■学ぶべき教訓は、eLearningの発展は、「すごい技術」(gee-whizz technology)によるというよりも、どのように人間関係が維持発展されるか(how human relationships are managed)による、ということである。eLearningは、市場のブームによって促進されるというよりも、いかにこれまでの教育観が新たな技術環境に適合してゆくかを私たちが学んでゆくことによって促進される。(p. 79)

◆考えてみよう: 上の点は私も痛感している。日本のeLearningには、人文社会的素養のない技術志向の人間は多くとも、人文社会的素養をもった技術志向の人間、および技術的素養をもった人文社会志向の人間が少ないように思える。外国から見たら日本は「テクノロジーの国」と思われがちだが、日本国内でのテクノロジー活用が非常に遅れていることの背景には、このように技術の文化的側面を軽視していることがあると私は考えている。技術の文化的側面の重要性について皆さんはどう考えるだろうか。さらには日本の進学校が生徒をすぐに「文系」と「理系」に分けて、「効率的」な進学指導をしていることについて、どう考えるだろうか。



FOREIGN CAMPUSES AND JOINT VENTURES

■仮に1990年代の'virtual transnational universities'構想が頓挫したとしても(しかし上にも述べたように、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が、合同でこの秋から開始する予定の本格的なオンライン教育には注目)、英語圏の大学はいわば'Plan B'('B Plan'ではないことに注意)を進行させており、アジアなどに分校を作っている。(p. 79)(最近の話題ならイエール大学のシンガポール分校設立などがある)。(ちなみに広島県においては、1990年から1994年までニューヨーク市立大学リーマン校が山県郡千代田町に分校を作っていた)。これから大学のグローバル化がどう進展するかは誰にもわからないが、高等教育がこれから何も変わらないということだけはないだろう。



SECTION 2: LEARNING ENGLISH

◆考えてみよう:以下は、英国の公的な国際文化交流機関であるBritish Council(ブリティッシュ・カウンシルが提供している英語教材である。British Councilがなぜこれだけのサービスを提供しているのか、このサービス提供が英国にとってどんな利益をもたらすと見込まれているのかについて考えてみよう。

British Council: Learners and Teachers


Which model?

■20世紀後半の英語教育においては、'English as a Foreign Language' (EFL)が正統(orthodoxy)とされていたが、今や新たな「正統」が生まれつつある。(p. 82)

THE EFL TRADITION

■EFLという概念は主に19世紀に成立した。EFLでは、英語母国語話者の文化と社会を学ぶ重要性が説かれ、教授法(methodology)が中心的話題となり、母国語話者の言語行動を真似することが重要だとされた。(p. 82)

■EFLでは、学習者を「外部の人間」 (outsider) 、「外国人」 (foreigner) として捉える。(p. 82)

DESIGNED TO PRODUCE FAILURE

■伝統的なEFL教授法では、学習者はどのように熟達しても、必ず外部の人間であり失敗者とならざるをえないようにイデオロギー的に位置づけられている (Withing traditional EFL methodology there is an inbuilt ideological positioning of the student as outsider and failure -- however proficient they become.) (p. 83)

■近年、EFLにも新しい方向性が示されている。 以下のEuropean Language PortfolioやThe Common European Framework of Reference (CEFR)などは、EFLが新しい社会的・政治的・経済的要求に適合するために、従来の性格を大きく変えつつあるものと捉えることができる。(p. 84)

European Language Portfolio
http://www.coe.int/t/dg4/education/elp/

Common European Framework of Reference for Languages:
Learning, Teaching, Assessment (CEFR)
http://www.coe.int/t/dg4/linguistic/cadre_en.asp

◆考えてみよう:Plurilingualsim(「複言語主義」もしくは「複合的言語使用」)は、日本でももっと検討すべき理念であると私は考えます。時間があれば、以下の記事などを読み、'plurilingualism'とは'multilingualism'や'bilingualism'とどのように異なるのかまとめてください。

複言語主義(plurilingualism)批評の試み
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html

"-ism"を馬鹿の一つ覚えみたいに「主義」と訳すなかれ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/09/ism.html

純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/08/blog-post_7354.html

国立国語研究所講演:
単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html




ENGLISH AS A SECOND LANGUAGE

■ESLには、二つの種類がある。大英帝国型と北米豪型である。(p. 84)

■最初の大英帝国型は、大英帝国が植民地支配をする際に、少数の英国人官僚と軍人だけで、広範囲を効果的に統治するために、現地の人びとを「大英帝国流」に教育するESLであった。言語技能だけでなく大英帝国ひいては西洋文化についての素養も育成することが重視された。この意味で文学教育も重視され、キリスト教的価値も文学を通じて伝えられた。(p. 84) (興味に応じて、下のような入門書も読んで欲しい)。



■植民地では"New Englishes"と呼ばれるようになった英語変種が登場し始めた。(p. 84)

■植民地での英語の使用環境(ecology)は、多言語使用状況の中でのものであるが、そこでは英語が特定の領域・機能そして社会的エリートと強い結びつきをもっていた。(p. 85)

■もう一つのESLのタイプが、アメリカ・カナダ・オーストラリア・ニュージーランドで移民を同化させ新しい国民国家意識(a new national identity)を植え付けるために行われたESLである。このESLではアイデンティティやバイリンガリズムが問題になる。(p. 85)

■このESLタイプで気をつけておきたいのは、ESL学習者が所属する民族共同体(ethnic communinity)では結構な数の人が、日常的には英語は使わずその共同体の言語だけで暮らしているだけである。そういった共同体では、若いESL学習者が英語を学ぶのは、しばしば家族のためであり、学習者は翻訳・通訳の役を担っている。(p. 85)

■移民のためのESLでは「市民権」(citizenship) ーその国での権利と義務― の学習も重要な要素になっている。

◆考えてみよう:このような問題は、皆さんの地元でないだろうか。移民・移住者のための日本語教育は適切に行われているだろうか。また受け入れる人びとは、日本語教育の実情についてどのくらい理解、いやそもそも関心をもっているだろうか?



Content and Language Integrated Learning (CLIL)

■Content and Language Integrated Learning (CLIL) (Wikipedia)は1990年代中頃にフィンランドから出てきた教育実践であり、ヨーロッパで隆盛だが、他の多くの国々でも違う名称で実践されている。(p. 86)

■CLILでは外国語(例、英語)と内容教科(例、科学)が同時に教えられる。とはいえ単に英語を教授言語にした内容教科教育ではなく、語学的サポートもふんだんにある。逆の言い方をすれば教科内容を通じて外国語を教えているとも言える。(p. 86)

■CLILでは、一般的な問題解決、交渉、クラスルーム経営など、教育的規律に関わる営み(disciplinary pedagogic practices)も行われる。この意味でCLILは、English for Specific Purposes (ESP: Wikipedia)とは異なる。(p. 86)

■CLILでは、語学教師が内容教科教師と綿密な連携を取りつつ、十分に準備することが求められる。CLILはバイリンガルの内容教科教師によってしかできないと主張する者もいる。(p. 86) ■だがCLILについては、日本でも以下のような本も出版されている。








English as a lingua franca (ELF)

■English as a lingua franca (ELF) (Wikipedia)は、近年でもっとも根源的かつ議論を呼んでいるアプローチである。(p. 87)

■しかしグローバル英語の現状は、英語母国語話者同士の英語使用の割合がどんどん小さくなり、英語を母国語としない者同士の英語使用の割合がどんどん増えてきていることである。(p. 87)

■以下は、非母国語話者同士の英語使用を集めた研究用コーパスである。(p. 87)

VOICE: Vienna-Oxford International Corpus of English
http://www.univie.ac.at/voice/


■ELFでは、母国語話者のような正確さより、相互に理解できるか(intelligibility)の方が重要である。(p. 87)

■ELFでの目標モデルは、英語母国語話者ではなく、英語に堪能だがアクセントなどで母国語の特徴を残している二言語話者であり、そういった者は他の非母国語話者と交渉できるだけの技能を有していると想定されている。(p. 87)

■英語母国語話者は、国際的なコミュニケーション場面で英語を使うことが実は下手であるという研究さえある。ELFがたとえ今後全面的に採択されることがなくとも、何らかの形で英語教育の主流に影響を与えるであろう。(p. 87)



English for Young Learners (EYL)

■英語学習の開始時期はどんどん低年齢化している。以前は中等教育の「外国語教育」とみなされていた英語教育は、今や小学校、あるいは小学校入学以前に行われるものと認識されてきている。(p. 88)

■1999年の時点で小学校で英語教育を行なっている国の多くは、その小学校英語教育を1990年代に始めたものに過ぎなかった。(p. 88)

■低年齢児の方がよく英語を学ぶと通常信じられているが、低年齢児は身体的にも精神的にも発達途上であり、情緒的サポートも必要である。また低年齢児は自分の学習に対して責任を持つことがなかなかできない。こういった低年齢児に英語を教えるEYL教師は、英語に堪能なだけでなく、子どもの発達に対して深い理解をもち、子どもにヤル気を与える教師でなくてはならない。そのような教師はほとんどの国で不足している。さらにこの時期での教育の失敗は、その後に影響を残してしまうと考えられることにも注意しなければならない。(p. 88)

■EYLは単に教育のプロジェクトではなく、政治的かつ経済的なプロジェクトであることを理解しなければならない。コロンビア、モンゴル、チリ、韓国、台湾などでは英語学習に関して大胆な計画が立てられている。(p. 88)

■EYLなどで自国民を英語バイリンガルにしようとする国々の多くは、英国や米国のバイリンガリズム(二言語使用)ではなく、シンガポールやフィンランドやオランダのバイリンガリズムをモデルにしようとしている。さらにこれらの国々は、英語教師を、英語しかできない英語圏の単一言語話者からではなく、英語をバイリンガルに使っている国の二言語話者から求めようとし始めている。(p. 89)



English in Europe

■近代のヨーロッパにおいては、一つの国民国家に一つの国語(national language)を形成確定することが中心課題であった。しかしそのヨーロッパが今、自己改革(reinventing)を始めている。(p. 92)

■Common European Framework (CEF)は、外国語教育の標準化といった技術的な意味合いを超えたイデオロギー的なプロジェクトであり、ヨーロッパの多言語使用の現実に対する市民の自覚を高め、言語的多様性に対して肯定的な態度を育成しようとするものである。ヨーロッパ市民は、母語(mother tongue)以外に二つの言語を学ぶことが今や目標として掲げられている。(p. 92) [だが「国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ」(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html)でも述べたようにCEF(R)のplurilingualismは、二つの外国語を全ての領域で母国語話者並に習得することを求めているわけではないことに注意]。

ENGLISH AS EUROPEAN LINGUA FRANCA

■多くの大企業、場合によっては欧州各国の政府機関において、英語は共通の作業言語(a common working language)となっている。(p. 92)


SEVERAL TRENDS

■ヨーロッパでは、英語がだんだんと「第一外国語」になってきている。スイスの中でドイツ語を主に使っている州(canton)の中には、スイスの第二国語であるフランス語よりも早く英語を第一外国語として教え始める決定をして物議をかもしているところもある。旧ソ連のバルト海諸国でも、今や主要外国語はロシア語ではなく英語である。(p. 93)



English as an Asian language

■'Macaulay Miute of 1835' (Wikipedia: English Education Act 1835)以来、インドでは英語が使われ始めたが、インドの人びとのどのくらいが英語を使っているかという推定に関しては、諸説ある。だがある調査によれば、インド人の35%が英語を読むことができ、16.5%が英語を話すことができるという。(p. 94)

■インド以外にも植民地時代の遺産で英語使用をしている国としては、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、フィリピンなどがある。さらにASEAN(Wikipedia, ウィキペディア)などの結びつきにより、英語は一層便利なリンガ・フランカとしてアジアに普及している。(p. 94)


ENGLISH IN CHINA

■しかしながらアジアでの英語の地位に関して、決定的な影響力をもっているのは中国だろう。中国は2001年から小学校での英語教育を開始したが、これらの英語教育により中国は毎年2000万人以上の英語使用者を生み出すとも言われている(英語話者は中国に2億人いるとも言われている)。中国の英語使用者が、インドの英語使用者よりも多くなることも十分予測される。アジア各国が中国官話Mandarin Chinese)の能力を高めるまでは、中国とのコミュニケーションも英語で行われるだろう。(p. 95)

■2008年オリンピック、2010年世界万博などをきっかけに中国は英語使用者を増やそうとしている。(p. 95)



The 'World English Project'

■以下は、この本が英語力の指標の代表例として出しているテストである。米国ならTOEFLだろうが、英国から考えるとこの三つとなるのだろう。(p. 97)



■英語教育に関する新しい世界の常識は次のようになるかもしれない。(1) 大学の課程の一部は英語で教えられる。 (2)大学入学時に一定の英語力があり、入学後は専門の学術英語を教えるだけですむ。 (3)中等教育の課程の一部が英語で教えられる。英語教師が他の教科の教師と共同で授業を行うかもしれない。 (4)小学校1年生から、あるいは遅くとも3年生から英語教育が始まる。


If the project succeeds ...

■もし世界の多くの小学校で英語教育が成功し、新しい世代にとって英語は第二言語となったとしたら、その世代には旧来のスタイルの中等教育英語授業は必要なくなる。新しい世代は数学や理科を英語を通じて学ぶだろう。旧来の中高の英語授業は、何らかの理由で授業についてゆけない生徒のためだけになされるようになるかもしれない。大多数の中高生は、教科の専門的内容を習得するための英語を学ぶようになるのではないか。



('Concludions and policy implications'は、本年度は割愛します)