2012年4月18日水曜日

竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想




学部4年生を対象とした『地球的言語としての英語』の授業の第一回目に、導入も兼ねて、竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫のお話をしたら、予想以上に学生さんがいろいろと考えてくれて、WebCTシステムに面白い感想を多く残してくれました。以下は、その一部です。



■教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容する(S君)


今回の授業の中で学校教育における声を届かせることの重要性についての話が印象に残った。授業でもあったように新任教師がまず苦労することが声を生徒に届かせることである。

この声を生徒に届かせるというのはただ単に声を張り上げて、生徒が聞こえるようなボリュームに調整するという意味ではなく、例えば生徒との間合いであったり、発問のタイミングなど様々な要因を含めて生徒が聞いて理解することを指す。

ではどのようにして教師は生徒に自分の声を届かせているのだろうか?一つ考えられる答えは経験を積み上げていくことである。生徒と何年も接していく中で生徒とのインタラクションの取り方を自然と把握することができるかもしれないし、何度も授業をする中で発問のタイミングや声を届かせる術を身につけていくことができると考えられる。

では私たちが新任教師として現場に出たばかりのころには生徒に声を届かせることはできないのだろうか?確かに現場に出たばかりのころには経験はなく、声を届かせる術を知らないかもしれない。

ただ生徒に自分の声を届かせようと努力することはできるはずである。生徒に声を届かせるということは、同時に生徒が声を受容してくれるはずだという想定がある。そのときにまず声を受容してくれる生徒自身のことを知らなければならない。誰が何に最近興味を持っているのか、何について悩んだり、考えたりしているのかなどを知ることは、教師の声を届かせるための第一歩であると考える。さらに生徒自身も教師に対して興味を持たせることでより教師の声が届きやすくなるかもしれない。

いずれにしても教師と生徒の間に良い人間関係が成り立っていなければ、教師の声は絶対に届かない。

そのためにも教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容していく必要があるのではないかと私は感じた。




■生徒を注意する時の教師の声(N君)


 今日の講義の中では、竹内敏晴さんの声に関するお話が最も印象に残ったのでこのことについて書こうと思う。
 
 まず「声」の質の重要さについてだが、自分の小学校からの経験からもこのことは明らかだと思う。今日の話でもあったが、大きい声を出せばそれでいいというわけではない。相手に伝えようとしている人の声は、なぜか吸い込まれるように聞き入ってしまう。逆に自信なさそうに話しているとそれは伝わってしまう。
 
 これはどの職業でも、どの場面でもいえることだと思うが、とりわけ教師に焦点を当てて考えると、一番分かりやすいのは生徒に注意をする時だと思う。今日の例でもあったが、授業中に教室がうるさくなって注意をする場面でどのような声を使うのかに、教師の性格や指導技術が垣間見ることができる気がする(もちろんそのような状況を作らないことが大切なのだろうが)。これまで受けてきた先生の中には、大きな声で叫ぶ(キレるような)人や、何も言わずに待つ人、黒板をドンドンとたたく人、静かに怒る人など様々なタイプがあったように感じる。どれが正しいとか間違っているとか一概に言えないだろうと思う。
 
 このことを考えているとイギリス留学先のC先生が話していたことを思い出した。彼女はかつてこのような状況になった時に「うるさい」と叫んだことがある。その場では、彼女の学生は静かになったのだが、それ以来その学生らとの信頼関係が崩れていったと話していた。
 
 この話を聞いて私が思うのは、目の前の状況をコントロールしようとする余り自分の声が「相手のため」ではなく、「自分のため」に使われてしまったので、学生は見切りをつけてしまったのではないかということだ。「声」は相手に届かせるものだとよく言われるが、それは量的なものではなく、質的なものであるということを私たちは再確認する必要があると思った。





■借り物でない自分のことばで伝える(Nさん)


声・ことばを届けるというのは、意外に難しいことだと思う。小学校から高校までを思い出してみれば、声は大きかったが言っている内容は印象に残っていない先生、たいして大きな声だったわけではないが言われた言葉は覚えている先生、そもそもどんな声かも思い出せない先生など、さまざまである。

印象に残ることばというのは、わたしの場合、内容だけでなくそのひとの声もそのまま印象に残る。そのため、頭の中で、そのひとの声で、繰り返し再生される。それを例えばわたしの声で再生しても、きっと印象は半減すると思う。だれかのことばを代弁するというのは、前回のセメスターの授業であった身体論でいえば、その内容が100パーセント再現されるものではないと思うからである。100パーセント理解することは実際問題不可能であるなら、それを100パーセント再現することも不可能なはずである。

私は中学時代放送部に所属しており、実は朗読で全国大会入賞経験がある。たいした専門知識も持っていなかったが、人が書いた文章を読むのだから書いた人が残念だと思わない程度にはきちんと読まなければならないという使命感だけは持っていた。実際そのように朗読できていたのかどうかは分からないし、きっと作者の意図を完全に再現はできていなかったはずだが、聞いている人に伝わるように、ということは意識していた。

たとえば教育現場において、印象に残ることばというのは、その内容も然ることながら、「声」も大切なのではないかと思う。聞き手にことばを届けるためには、どこかから借りてきたことばではなく、自分のことばで伝える必要があると思う。それは教師にもあてはまるものであり、たとえば教科書や文法書の説明文をそのまま読む(わたしはこれは「無機能な声」の一種だと思う)のではなく、自分のことばで、よりわかりやすい表現で、生徒に届けることができたなら、その理解も深まるのではないだろうか。そして教師は、ことばを届けるだけでなく、生徒からことばを引き出さなければならない。ほかの生徒に届くような声を生徒から引き出すことはきっと難しいことではあるが、姿勢を正し、声を届け、信頼関係を築いていけば、誰にとっても不可能なことではないと考える。



■バトミントン部での体験から(S君)


子供をコントロールしようとして、物理的な指示(例:もっと大きい声で!)をしてみたり、教師が無理やり声を張り上げたり甲高い声を上げたりするが、それでは授業はうまくゆかず、教師は自分が本来持っていた声の繊細さや豊かさを失ってゆく。私たちが目指すような言語教師は、声というものをもっと意識して、自らも生徒にも豊かな声を持たせなければならない。また体と声(話し言葉)は一つであるから、切り離せば、発言は生き生きしたものにならない。

これについて、私は部活動での経験を思い出した。私はバドミントン部に所属しているが、ある大会で、試合前にうまく集中できないままにコートに入った。その試合には負け対戦相手にアドバイスを聞きに行くと、その選手から「気合の入っているような声は出ていたけど、どこか、無理やり出していたね。」と言われた。その試合では、確かに声(相手コートに打ち込めれば「よっしゃ!」など)は出していた。しかし振り返ってみると、それは“出ていた”声ではなく、“出していた”声だった。一心不乱にゲームに入り込んでいれば、気合に入った声は自然に、無意識に出るものだが、その試合では体(俊敏性、反応速度など)と声が一体になっておらず、それが相手選手にも伝わったのだろう。声の物理的な大きさや高さは普段と違いはなかったはずだが、どうして「無理やりだしていた」と相手選手に気づかれたのか、当時は驚いたし、不思議であった。

声は出すものでなく、体からにじみ出るものであって、それは授業においても同じはずである。準備不足だったり、熱意のない授業をすれば、それは声にもあらわれてすぐに生徒は気づく(先ほどの例の相手選手のように)。それでは生徒に“いい声”を出してはもらえず、自分の声も届かなくなってくる。生徒に声を届かせるためには、まず教師自身が授業に従事し、そのうえで声に敏感でいなければならない。



■「身体・声・言葉」でなく「からだ・こえ・ことば」(F君)


今回の授業では多くの人が「声」というものに注目したようだったが、僕はそれよりも「からだ」というものに注目したい。

まず「からだ」の定義として、身体に心が通ったものであるというとらえ方をした。それは単なる物質としての肉体のことを表すのではなく、そこに思考や精神などが通った状態の身体をいうことである。この「からだ」は人間の本質であり、人間を人間たらしめている状態ともいえる。

ここで今回の授業で注目されていた「声」というものに注目してみる。生徒に「声」が届かない教師の例が挙げられていたが、これは教師自身が「声」を物質的、物理的な道具としかとらえていないからではないかと思う。

ここで僕が提言したいのが、それを「声」ではなく「こえ」としてとらえたらどうか、ということである。物理的な「声」に心を通わせた「こえ」ならば人に伝わるのである。なぜならば「こえ」には物理的、表面的な音声としての「声」の裏側ににある、もっと根本的な「伝えたい」という想いがそこには込められているからである。また「こえ」が発せられる土台となるのは「身体」ではなく「からだ」であり、「からだ」ならばその一挙一動に意味を感じられるのである。

これは単に漢字をひらがなにしただけだとも言われそうだが、要は伝えたい、聞いてほしいという根本的な想いがあれば、必然と身体はそれを伝えようとするのではないだろうか、という考察である。

この考えにたって言語というものについても少し考えてみた。今回行き着いた答えが、言語を「言葉」でなく「ことば」でとらえようという考えである。

まず言語というのは単なる記号ではなく言葉である。言葉であるからには人間の何かを伝えよう、という意思がその裏側にあるべきである。人間がこの必然性をもって英語を発することで、「言葉」に心が通って「ことば」になるのである。これは物理的ということ以上の意味を持つという点で、動物のコミュニケーション手段よりさらに高次のものである。言語を専攻する身として、この人間独自の「ことば」というものの考察をさらに深めていく必要があるな、と考えた。




■英語教師の音読(K君)


 今回の授業を受けて一番印象的だった内容は竹内敏晴先生についてのお話である。教師の声と姿勢によって生徒の態度が変わるという話は本当にその通りだと思った。自分はまだ経験もないので塾で生徒に指示を出すときについつい声を張り上げてしまう。実際そうしなければ伝わらないと思っていたが、自分が生徒だったときの記憶を思い返してみると、声を張り上げる先生の言うことはあまり耳に入ってこなかったと思う。なんか大声を出しているなという程度にしか受け取っていなかったので今回このことを思い出すことができて良かったと思う。
 
 また、本当に話しかける、語りかけるということは自分の本当に思っていることを相手に誤解なく、かつ自然に胸にしみこむ、腑に落ちることが特に教育の場で重要であると思った。とりわけ英語は言語教育なので自分の思っていることを自由に過不足なく相手に伝えるコミュニケーションが求められているとわたしは思うので、教師自身もただ英文を発音に注意しながら読むのではなく、自分の体にまず自分が言おうと思っている内容をおとしてから体全体で自分自身の表情のこもった自然な英語を話さなければ生徒に英語を機械的に音読させてしまうだけになってしまうと思うので、自分自身がまずその点に注意して英文に触れて生きたいと思った。私自身、人々が表現しようと思っている感情、表情というものは個人個人必ず思っているニュアンスなどが違うので、できることならモデル提示をせずに生徒が自分自身で本分を解釈し、それを自分なりに表現することができるようになることができれば理想的であると考えているので、今回の分野は非常に興味深かった。
 
 これからの生活の中で今日の授業の中にあった”姿勢”というものをまずは見つめなおして、自分の生き方を4年生になったのでもっと真剣に考えたいと思う。



■生徒がゾクゾクするような英語朗読を目指して(T君)


私は近頃『Harry Potter and the chamber of seacrets』の英語版朗読CDを聞いています。朗読者のStephen Fryさんの表現力には毎回驚かされるばかりです。朗読はStephenさん一人で行われており、BGMや効果音等は一切ない状況で、個性豊かな登場人物を声だけで完璧に演じています。目を閉じて聞くと、頭の中でその場面の状況や登場人物の表情まで浮かんでくるほどの、圧倒的な表現力です。声の強弱やピッチ、イントネーションに加えて、各セリフのスピードや間の取り方など、本当に参考になります。

 生徒の知的好奇心を掻き立て、自律した学習者を育てていかなければならない英語教師には「知のエンターテイナー」としての側面が求められます。教科書付属のCDを流して終わるのではなく、教師自身が作品の内容を声と体で体現して朗読することにより、生徒のより深い理解を促したり、生徒が英語を体現する上での見本を示していく必要があると思いました。

 私自身まだまだ十分な朗読ができずにいて、自分の勉強・努力不足を実感しているところです。生徒をゾクゾクさせるような、生徒にいきいきとした英語を感じてもらえるような朗読ができるようになることが、私の現在の課題です。





■ある剣道家の英語スピーチ(Mさん)


 今回の授業を受けて「伝わる言葉」について印象的な出来事を思い出すことができました。
イギリスへ留学していた時、私はある剣道大会に参加することができました。その大会の主催者の方は
以前にイギリスにビジネスで海外赴任していた際にイギリスの剣道の普及に努め、現在は毎年、大会の時期になると日本から1週間渡英して大会を運営するそうでした。
 わたしはこの方の、大会での開会式の言葉が今でもとても印象に残っています。英語自体はいわゆるカタカナ英語に近いものであり、流暢さという面ではもしかしたら日本の中学生のほうがもっと“良い”英語を話すかもしれません。
 しかし、その方がメモを見ながらも必死に ルールの説明をしたり、 祝辞を読んだり、 スコットランドの剣道普及に対する自分の想いを熱く語る姿から、多くの伝わる何か、があるように思いました。
イギリスの剣友がわたしにこそっと教えてくれたのは"He's a great kendoka of Scotland."という言葉でした。
 感覚的な話しになりますが伝わる言葉には、やはり何かしらの力がある気がします。
それはきっと内面から湧き出るものでなければいけない、とも思います。そして行動が伴う人の言葉には説得力があると感じます。「話術」「面接術」など、聞かせるためのテクニック的なものが有効な場合ももちろんあると思いますが、そこに話している人のspiritがなければ、表面的な言葉に留まってしまうのではないでしょうか。
 私は上手く話すのが苦手、という意識をずっと抱いてきましたが、それでも下手なりに心のこもった言葉で伝えられるように努力したいと思っています。



■記号としての英語授業への違和感(Fさん)


授業で発言したことと繰り返しになりますが、私はある公立中学校で3ヶ月間、学習支援や学校業務のお手伝いをさせて頂く機会がありました。そこでみた英語の授業では、言葉(英語)が単なる記号のように扱われているように私は感じました。

ターゲットの言語材料のプラクティス、教科書の音読練習、授業初めのあいさつやルーティーン活動など、あらゆるスピーキング活動において、教師はいかに噛まずに速く英語(記号)を読めるかということにこだわっているようでした。言葉に込められた話者の意図や考えなどは無視され、そこでの「言葉」は「声」ではなく、「心」から分離された単なる記号・音として用いられていました。教師だけでなく生徒までもが、いかに速く間違えずに読めるかという言葉の本質とはズレている部分で英語の楽しみを感じているのです。

私自身、英語を声に出したり、朗読したり、話したりすることが大好きで、(主観ですが)日本語以上に声色のを変えることによってemotionallyに自分の気持ちや心を表現できるというところに特に英語の魅力を感じている者なので、そのような状況をみてかなりショックを受けました。生徒たちは本質的な言葉(英語)の楽しさを感じないまま卒業し、先生の「正しい」やり方を「正しい」と信じてこれからも英語と接していくのかと思うととても悲しかったです。

教師自身が思う「正しい」やり方は、生徒の考え方にも影響を与えるものです。英語の教師になる者として、言葉の本質や楽しさとは何かということをもう一度捉え直し、授業を通して本当の英語の楽しみ方や言葉の面白さを生徒に伝えていける教師になりたいです。
















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