教師は、もっと生の声とからだに注意を払うべきだろう。単に「標準的な発音」とされる音を出すだけでなく自分がどのような声で生徒と関係を築いているのか、単に立って動いているだけでなく自分のからだがどんな表情でどんなメッセージを生徒に伝えてしまっているか、などに教師はもっと自覚的であるべきだろう。
先日(2012/3/4)に京都で「英語教師の成長と『声』」という題でお話させていただいた時も、こういったことを語ったが、そこで多く引用した竹内敏晴氏の著作の中でも、教師に最も関連性が高い本といえば、やはり題名も示すようにこの本だ。
以下は、この本の中でも、特に教師と生徒のからだについて書いた部分を紹介する。
■声に関する教師の職業病
多くの新人教師が苦労することの一つが、生徒に声が届かないということだ。しかし、少なからずの新人教師がそこで短絡し、やたらと声量を上げることに専念する。あるいは声の高さを上げ、明瞭度を上げようとする。しかしそんな声は生徒の心には届かない。教師の声は大きく高くなったのにもかかわらず、「うるせぇな、こいつ」と意図的に無視される。かくして授業は相変わらずうまくゆかず、教師は自分が本来持っていた声の繊細さや豊かさを失ってゆく。
これ [=子どもの姿勢がひどく困っているが、教師自身の声がか細く聞き取りにくい例] は決して珍しい例ではない。新任の教員たちのうち、子どもたちにたっぷりした声で話しかけられる人は数少ないようです。やがてこれらの人たちは、むりやり声を張り上げて、ある人はのどを痛め、ひどければ声が出なくなり、ある者は強引なばかでかい声や、細いカン高い声を見つけ出してゆく。二十年、三十年たってこういう声が固着してしまって、日常坐臥もすべてこの声でしか話せなくなると、これはもう職業病の一種と言っていい。少なくとも職人や農民には決してない冷たく固い声だし、しゃべりっぷりです。(竹内 1999, 66)
■声を届かせるということ
教師は「声を届かせる」ということについて深い理解をし、生徒に届く声を体得しなければならない(あるいは声が届き合う関係を生徒との間に築かなければならない)。教師までが、無機的な声しか出せなかったら、子どもはどうして心の底から学ぼうと思うだろうか。妙にませた功利的な試験勉強ばかりが跋扈する教育現場は、その社会の長期的な衰退を確実に示す。
ほんとうに話しかける、声で相手にふれるという、この人間の基本的な行為の能力が、今わたしたちから、しらずしらずのうちに奪われていきつつあるのじゃないかとわたしは恐れているのです。ことば=声が相手のからだにふれ、「胸に沁み」「腑に落ちる」(昔の人はうまいことばを見つけているものです)つまりからだの内に入っていって、相手のからだとこころを動かす、変える、これが話す、ということでしょう。が、現代のわたしたちの交わす話とは、ただ文章としてのことばを投げかけ、それを聞きわけ、意味だけがわかれば、それで了解した、というにとどまる。ビジネスはそれでいいだろうし、そうでなければ余計な情動が混じりこんで邪魔でしょうがいないだろう。だから声も感情を切り捨てた声になる。だがそれはいわばサインの伝達で、全人間的な話しかけとは違うでしょう。では、教育の場ではどうなのか?(竹内 1999, 68)
■からだからの朗読
教師は、とりわけ言語教師は、声に対して鋭敏になり、自ら豊かな声を持ち、生徒からも豊かな声を引き出さねばならない(あるいはくどいようだが、豊かな声に充ちた学びの関係を作らなければならない)。「朗読」というのも、口先だけの「発音」だけではなく、からだ全体(ということは、心全体)から行わなければならない。
話しことばはからだの動きと一つになって生きる。しかし、世の常の訓練や授業では、ほとんど、ことばはことばだけ、からだの動きはからだの動きだけ、それぞれに独立して行われている。それは人としての表現の、ある部分を明確にしたり、美しくしたりする役には立つけれども、人のからだ全体が、大きく脈うち、深く息づいて見るものに迫る、つまりこころの動きが鮮やかに現れることにはなりません。
だから、朗読を、ただ音声の発し方のやりくりで教えるのではなく、むしろ音声が発する土台たるからだを動かすことによって、生き生きした表現に至ることができる。(竹内 1999, 119-120)
■人の生き方、他者への対応のしかた、としての姿勢
そうしてみると、声以前に、からだが大切だということがわかる。学校が「三角座り(体育座り)」のように、生徒を管理し支配する身体作法ばかりが行われる場所であってはならない。教室での「姿勢」も、「姿勢をきちんとしなさい!」という教師の甲高い叫びで、生徒が嫌々その時限りに取り繕うものではなく、互いが同じ時空にいることの静かな喜びが自然に現れるようなものであるべきだ。
姿勢とは、わたしというからだが生きている形です。私が世界に棲み込み、他者に向かい合い、それにふれる、その存在の仕方すべてのあらわれにほかならない。そこには、私の生きようとする力の強さ弱さ、恐れによる後退、心躍りして来るときの呼吸の深まり、表情の変わり方、すべてが含まれている。だから、もしわたしたちに解放ということがあるとしたら、それはからだ全体の存在のしかたが変わることである以上、姿勢が変わってくることにほかならないでしょう。
これを逆に言えば、よく「姿勢が良い、悪い」あるいは「姿勢を匡(ただ)す」などと言いますが、悪いところを直す、つまり、外的な力を加えて部分的に形を変えたからといって、それはますますからだをねじ曲げて固めるだけで、本質的な変化は起こりようがない、ということになります。姿勢が変わるとは、人の生き方、他者への対応のしかた、それ全体が変わることなのです。(竹内 1999, 24)
■呼びかけ、呼びかけられるからだ
次に教室に立ったら、教師は生徒の姿勢を見よう。そして自分の姿勢を自覚しよう。教師と生徒の姿勢の連動性を自覚しよう。
自分が(ある)生徒に話しかけづらいと思うのはなぜだろう。ひょっとしてそれは教師としての私が、(その)生徒からすれば話しかけづらいからだになっているからではないだろうか。教師が生徒に、生徒が教師に、気軽に話しかけられないとすれば、教師は自分の、生徒の、そしてお互いの身体言語を今一度観察するべきであろう。
ある日「からだとことばのレッスン」の「呼びかけ」をやろうとして、人びとに説明するために場に立って、四、五人の聞き手を眺めた。ふと、この人に呼びかけようか、と感じたとたんに、はっと気づいた。なぜ「呼びかけ」たいと思ったのか?その人の、そこに座っているからだが、私になにかを語りかけているからだ。だから私は引かれた。「呼びかける」とは、実は、呼ばれていることに応えることなのだ、と。(竹内 1999, 241)
声やからだといった、根源的な問題を無視したまま、いくら授業の方法論を追求しても、問題は解決しないのではないか。声やからだは、生き方の根底的な反映であるがゆえに、短期的に片が付く問題ではない。だからといって、声やからだのあり方を見つめることから逃げ続けるのは、授業に恒久的に失敗し続けることを意味するのかもしれない。私のからだは、どのように呼びかけ、呼びかけ損ね、呼びかけられることを招き、あるいは招き損ねているのだろう。
引用文献
竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫 (竹内敏晴(1982)『からだが語ることば』評論社、と竹内敏晴(1983)『ドラマとしての授業』評論社に数篇を加え、新たに編み直したもの)
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