2012年4月3日火曜日

田尻悟郎先生の多声性について




最近のNHKのEテレは意欲的です。昨年春は「プレキソ英語」が素晴らしく(現在も継続中)、私も「NHK教育テレビ「プレキソ英語」はアート作品としてもすごい!」という記事を書きましたが、今年の春は、「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」というブログも運営している私としては、TED動画をわかりやすく紹介してくれる「スーパープレゼンテーション」という番組を楽しく見始めています。

しかし何よりも嬉しいのは、あの田尻悟郎先生(関西大学)が講師となって、「テレビで基礎英語」が始まることでしょう。週一回のテレビというメディア特性をうまく活用する番組になるのではないかと私は今から期待しています(この番組に限らず、私は最近ようやく「NHK教育」から「Eテレ」へという局名変更が、しっくり感じられるようになりました。NHKが目指しているのは、'edutainment'と言ってしまえば安っぽくなりますが、肩の力を抜いてのびのびと教養を楽しむ文化を普及させることなのかもしれません)。



テレビで基礎英語
(講師:田尻悟郎)
http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/telekiso/index.html




この番組のことや、新学期の学部四年生用の授業の準備などもあり、さきほど、私が田尻悟郎先生について学内刊行物に書いたままになっていた原稿があったことを思い出しました。本来は、科研の成果を公刊する本にこの原稿の内容を入れるつもりだったのですが、執筆に際して、私は肩に力が入りすぎてしまい、いい原稿が書けなかったので、結局その公刊は、共同研究者の横溝紳一郎さん(注)におんぶにだっこの形で世話になり、このような本となりました。


『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』





というわけで、以下は、結果的に使わなかった私の原稿です。田尻先生の声と身体の豊かな表情について書きました。こういった観点から上の「テレビで基礎英語」もご覧になると、また面白いのではないかと思います。






*****

ある中学英語教師の多声性について



英語文化教育学講座 柳瀬陽介



1 はじめに

 この報告では、報告者が実際に授業観察したある中学英語教師の「多声性」について簡述する。ここでいう多声性とは、教師が様々の種類の声を使い分けていることを指す。もちろんこの「声」とは、物理現象以上の意味を込めた用語であり、発話者が、聞き手の存在様態を見極め、発話目的の違いを意識し、自らの発話態度の変化なども自覚して適確に表現するために使い分けている、いわば物理-心理-間人的活動(physical-psychological-interpersonal action)を指す。
 
 観察した英語教師は、いまや「カリスマ英語教師」としてもメディアに扱われるようになった田尻悟郎氏(島根県東出雲町立東出雲中学校 - 2007年3月まで)である。実際の田尻氏は「カリスマ」といったやや軽薄な形容詞とは全く無縁に、実直に公立中学での英語教育実践に30年近く従事してきた現場教師である。報告者は、1990年代後半から彼に着目し、平成17年度からは三年計画の科研で、彼の実践を追っている。彼は現在の中学校に移って二年目であり、今年度は一年生を中心に英語を教えている。授業を観察したのは2007年(平成19年)1月15日(月)の二時間目、三時間目、四時間目であり、いずれも一年生の授業であった。
 
 報告者は、科研の他のメンバー二名と共に、教室の隅々に座り、授業を観察した。中学生は、頻繁に田尻実践を観察に来る外部者に非常に慣れており、報告者たち外部者の存在を、特に意識するわけでもなく、無視するわけでもなくごく自然に受け入れていた(報告者達にあいさつをしてきたのは、アイコンタクトがお互いに誤解のないぐらいに成立した数人ぐらいである。だが、何人かの生徒は、報告者達が生徒達の授業前のふざけあいに思わず笑っていると、「あっ、笑っている」と若干の意識を示した)。授業風景は事前の許可をもとにビデオ撮影された。撮影は二時間目と三時間目が報告者、四時間目がもう一人の科研メンバーによって行われた。
 
 ここでビデオ撮影について若干の感想を述べておくべきであろう。報告者は通常、授業を観察する場合は、ビデオ撮影をせず、ひたすら五感を働かせながらフィールド・ノーツを取っている。であるが、今回は共同研究ということもあり、報告者としてはひさしぶりにビデオ撮影をした。だが、授業観察の時はビデオが邪魔に感じられた。五感で360度に感じ取るような現実感覚がフレームの狭い二次元の視野に限定されてしまうような思いにつきまとわされた。ビデオを撮りながら、自分の視野の中心にある狭いファインダーと、視野の周縁部で感じる何かが起こっていることだけはわかる前意識的知覚のギャップにとまどった。他人が撮影したビデオ録画を見ることだけでは、現象の観察は十分にはできないということを再確認した。しかし後日ビデオ録画を見ると、すっかりとその録画された視野が、現実の全てだと思い込んでしまうことには自分でも驚いた。報告者自身が撮影したビデオだけでなく、他メンバーが撮影したビデオでも、それを見ると、上のとまどいの記憶にもかかわらず、そのビデオ画面だけが、現象世界のように思えてしまうことは、不思議とも思える体験であった。ビデオを見ただけで、結構、物事がわかったように感じてしまうことは、私たちが気をつけていても陥りがちな錯覚なのかもしれない。
 
 報告者の記述表現についてもここで予め述べておくべきであろう。以下の報告書の記述表現には、報告者の解釈が織り込まれている。これらの解釈は報告者によるものであり、現時点では科研の他メンバーとのすり合わせ・相違に関する討議などは経ていない。その意味で、今回の記述は主観的なものであるが、恣意や奔放にはしらない記述に努めたつもりではある。また、おざなりの常套句で表現しないようにもできるだけ注意した。現象を丁寧に振り返り、思い起こすことなく、容易に口に出てくる常套句は、実際の観察という研究行為を無にしかねないものであると報告者は警戒している。エスノグラフィーは、科学と文学の両方の性格を持つものとはしばしば言われるが、実際、「科学」に象徴される客観性を担保しながら、いかに「文学」のように深くまで到達する言葉を探りあてることは重要なことである。この報告は、直接の記憶がまだ遠くなっていないうちに書かれる一種の第一次報告であるが、おそらく記述は、ビデオを何度も視聴することにより、(上記の限界があるとはいえ)現象を新たに思い起こしながら、何度か書き直されるべきものであろう。いずれにせよ現象は、視覚イメージが残っているときに記述されなければならない。
 
 さらにこの報告の限定を書かなければならないが、この報告は第一次報告として、理論的考察を欠いたまま書かれている。本来なら、多声性ということでバフチンなどの理論を、相互の人間的活動という点でアレントなどの理論を批判的に検討しながら、この教室の多声性に関する記述を理論的にも深めなければならないのだろうが、今回の報告ではそれは割愛せざるを得ない。今後の課題としたい。


2 全体的印象

 観察した三つの授業は、同じフォーマットで、異なる一年生のクラスにほぼ同じ内容の授業が繰り返された。だが、見ていて(またビデオで再視聴して)全く飽きないというのが、第一の感想である。クラスが人間的な表情に満ち溢れ、単調や無味乾燥といった言葉とはおよそ対極のところにある。これには大きく、田尻氏が、様々に声を使い分けて、クラス全体、グループ、個々人と、人間的交流を築きながら生徒の学習を進めていることが影響しているのではないかというのが、報告者が直観的に得た洞察であった。その洞察は授業後に田尻氏の同僚である若き教師(社会科担当)とのインタビューを進める中で、彼女が、田尻氏は職員室ではもっぱら出雲弁でしゃべり、それで自分の失敗談や家族の話をするので、職員室の雰囲気が非常に和むと述べたときに、確証を得たような思いがした。教室や職員室での、方言などの言語の「ジャンル」(本報告でいう「声」)の使い分けは意識的にしているのかと、田尻氏に続くインタビューで尋ねたところ、氏は即時に「その通りです」と断言した。田尻氏は異なる声が持つ異なる効果について鋭敏に意識している。思い起こしてみれば、田尻氏のこの声の使い分けは、田尻氏が教師相手にワークショップを行うときにも観察されていたものであった(田尻氏のワークショップは笑いあり驚きあり納得あり、時に涙ありのものである)。報告者は、田尻氏の肯定に、洞察の裏づけを得たと判断し、以下のような多声をここに報告することとする。
 
 予め田尻氏の多声性を抽象的にまとめておけば、氏は日本語(標準語、関西弁、出雲弁)、英語、身体言語を、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性、さらにはスピードなどにおいて様々に異なる声で使い分けていると言える。もちろん、誰へ発話しているかという変化要因もある。これらの特徴は、ウィトゲンシュタインの家族的類似性のように、一部でつながり、一部で異なりといった連続体として捉えられるべきであり、今述べた性質ごとに、相互排他的に区分けできるものではない。従って、以下の記述では、観察事例ごとの声の種類を、まずは列挙的に記述することとする。記述の一部の重なりは許容していただきたい。


3 日本語での多声

 地域方言という観点から田尻氏の日本語使用をごくごく簡単に説明すると、教師として教育内容に言及するときに明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者と心理的交流を深め学習を支援するときなどに親和性と親密性に富む関西弁を使うとまとめることができる(出雲弁に関しては前述したように職員室での教員同士の会話で使われるらしい。ただし報告者は出雲弁に詳しくないので、授業内でも、関西弁に混じって出雲弁も使われているのかもしれないが、その同定は現時点ではできない)。しかし、「教授者として標準語、支援者として関西弁」というのは、いかにも単純すぎる説明である。以下は、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性、さらにはスピードなどにおいて少しずつ異なる事例を列挙することにする。便宜上、フォーマルな日本語使用からだんだんとインフォーマルな日本語使用の例へと列挙を進めることとする。列挙の順番(番号)にはそれ以外の意味はない。


(1)言語ルールを確認する際の非常に明瞭な口調での標準語。一種の規範の提示であるが、田尻氏の授業ではその言語ルール規範は唱ずるものとされているので、どこか生徒も共に記憶からその言語ルールを唱和できるような「誘い」があるようなテンポ、リズムとなっている。

(2)発音のルール(フォニックス)を確認するとき、後半部分を生徒に言わせて、インタラクティブに説明を完成させるために使われる標準語。後半部では、生徒がルールを完成させることを促すため、手を耳に添えて、笑顔で、眉を上げ、目を大きく開き、口も開ける、いわば「言ってごらん」と誘いかけるような身体言語が伴なっている。

(3)フォニックスブックの解説を読み上げる標準語。教科書に目を落として発話するが、単調ではなく、ポーズ、リズムがあり、テンポにも変動がある。

(4)生徒の学習ストラテジー(「資料活用能力」)を褒める淡々とした標準語。トーンも、褒めるにしては控えめで、ことさらにその生徒だけにスポットライトを当てるような言い方ではない。

(5)新出語を正しく発音できた数人に対するさりげない褒め言葉(「うん、そうそう、えらい、えらい」)。これもさりげなく言われ、作為性などは感じられない。

(6)特定個人に指示をする際の日本語。その距離にふさわしい控えめの声量とトーン。指示を伝える際、一貫してアイコンタクトの視線が切れないのが特徴。

(7)学習活動の中のユーモア表現。カルタで「グローブ」と言う代わりに「野球で手にはめるやつ」、「スケート」の代わりに「氷の上をスーッと滑ること」とあえて婉曲表現を取る。これにはカルタにバリエーションを加えるという意味もあるだろうが、そこはかとないユーモアが感じられた。「そこはかとない」というのは、生徒はカルタ取りに夢中になっているわけであるから、このユーモアに時間をとって笑うことはないからである。だが、そういった控えめなユーモアが雰囲気作りには役立っているような印象を受けた。

(8)学習未成立を受け止めて勉強につなげる言葉。生徒が代名詞の使用でつまずくと、田尻氏は笑顔で「おーっ、忘れたかー。忘れたなー」といかにも楽しそうに言いながら、その学習項目の復習のために教材の入ったCDプレーヤーに向かった。「おーっ」といった間投詞、「かー」という非裁断的な終助詞、「なー」という共感的な終助詞などで親和性が高まった標準語となっている。

(9)反応の遅いクラスを、陰気にならずからかう。笑顔を残したままやや演劇的に挑発。「遅いやん」と関西弁になる。

(10)個別テストでつまずいた生徒への「おい、確かめてみ、確かめてみ」という親密な声かけ。ここでも学習の不成立が、叱責されることなく受容され、学習の促進がなされている。一人の生徒への声かけということもあり、インフォーマルな表現となっている。

(11)カルタで必死に札を取ろうとしている生徒を笑いながらからかう。「ハハ、お前ヤケクソやなあ」、「お前、玉砕戦法すんなよ」などと関西弁になる。

(12)個別テストでの生徒の間違いをわざと誇張して笑顔でからかう。「55 minutesって何だよ。なんで55分もかかるんや」と標準語から関西弁になる。

(13)個別テストをする田尻氏を自然と取り囲むように集まった生徒に対して、もっと練習するようにというメッセージを、わざとぞんざいな関西弁で伝え、生徒もそれに一種甘えたように、一種田尻氏の基準を受け入れるように応える。「お前ら(教科書を)見すぎや!見るんは三回までや」「えーっ」「練習してから来いや」といった対話になる。

(14)職員室での出雲弁。前述したように、職員室では「カリスマ英語教師」として全国的に注目されている田尻像を積極的に崩すかのように、地元の出雲弁で他愛のない個人の話や失敗談を、ユーモアを交えながら語り、職員室での空気をなごませている。



4 英語での多声

 英語においても田尻氏は多声的である。もちろん英語の場合は地域方言の使い分けはなく、標準的な英語(発音・文法)だけである。だが、ここでも田尻氏は多様に声を使い分ける。例えば、教育実習生が、冒頭のあいさつから、指示のクラスルームイングリッシュ、学習内容提示の英語などに至るまで、どれも同じように語るのとは極めて対照的に、田尻氏の英語には様々な表情が見られる。英語についても多少の重複を含みつつ列挙する。
 

(1)新しい活動の始まりを告げる英語。クラス全体へ明瞭に、かつ楽しい出来事の到来を知らせるように呼びかける。魅力的な笑顔と共に語られている。

(2)出席確認で、名前を呼ばれて返事がない生徒への“Say ‘Yes.’”。これも誘うような笑顔で返事を促している。

(3)MCのように盛り上げるような英語“OK, 90 second quiz”。(1)と似ている。

(4)いわば(格闘技エンターテイメントの)K-1のリングアナのような“Are you ready? Are you ready? Get set, Go!”。一種、生徒をあおって、やる気を奮い立たせるような口調。
(5)クラブ活動の指示のような英語“Stop, stop”。実際、生徒は活動に熱中しているので、このように大きな声で、ややゆっくりと、誰にでも聞こえるように“Stop”と言わないとクラスは活動を続行してしまう。

(6)カルタ読みの発音モデルの英語。クラス全員にわかるように明瞭な声で唱ずる。この英語はリズムに乗り、田尻氏には自然な笑顔が出ている。

(7)学習内容提示に変化するクラスルーム英語。最初はクラス全体への活動指示なのだが、ややゆっくりその文を繰り返し「“Any card is OK”. Anyってどういう意味?」とその指示文を学習内容に変える。

(8)日常的になされる指示。これはかなり速い英語でなされる。

(9)非常に速い英語でなされる指示。カードをゴムバンドでしばって、部屋の片隅の箱に入れろという長めの指示は、非常に速い英語で一気に言われた。だが、生徒はいつものことなので、その指示にすぐに従う。田尻氏はわざと超高速で英語を言い、それにどう生徒が対応できるか楽しんでいるようにも思える。

(10)定常的なあいさつの英語。“Good morning, everyone. Who’s absent today?”という最初の定型表現は、特に笑顔というわけではないが上機嫌で語りかけられる。これは最後の“OK, that’s all for today. Good bye, everyone”でも同じような感じである。両方とも英語でのあいさつという儀式を強要しているような雰囲気はまったくない。

(11)プリントを配る際の、 “Here you are.” “Thank you.”といった田尻氏と生徒一人一人との対話。これはいわば、家族の間での当たり前の日常のように、とってつけたような雰囲気とは無縁に英語が交わされている。



5 身体言語での多声

 田尻氏が顔の表情をはじめとした身体言語を意識して使っていることは、2006年9月7日にNHK総合テレビで放映された『プロフェッショナル』の中で、「鏡を見て、笑顔を作る練習もしました。眉を上げる練習とか」と証言していることなどからも確認できる。ここでも一部の重なりを許しながら身体言語の使用事例を列挙する。
 

(1)“Let’s skip it”という生徒が使うクラスルームイングリッシュを復習するときに、英語での説明に加えて、「うーん、困った」「次に行こうよ」という意味合いを一人二役のジェスチャーでもわかりやすく伝える。

(2)過去形で答えるべきところを現在形(I get)で答えた生徒に“I got”の発話を促すために、無音で明瞭な口の形だけを示し、生徒にヒントを与える。

(3)Jackに対してsheという代名詞を使った生徒に対して、驚いた顔を笑顔で作って、生徒の誤りを陽気に伝え、訂正を促す。

(4)「代名詞ダンス」という「パンチゲーム」と並ぶ身体運動(共にここでの説明は割愛)で、生徒にまず身体で英語を覚えさせる。英語だけの発話では詰まったり、間違えたりする生徒も、田尻氏が代名詞ダンスをやるように指示すると、生徒はダンスで正しい英語を思い出し、「あ、そうか」と英語を訂正する。生徒が身体を言語の助けにするように田尻氏は指導している。

(5)机間巡視の際に、「よしよしそれでいいぞ」とばかりに生徒の肩を軽くポンポン叩く。

(6)個別テスト(暗唱)の際に、田尻氏は生徒とのアイコンタクトの視線を切らない。田尻氏はうなずき続け、時間内の暗唱の成功を笑顔でストップウォッチを示すことで伝える。そして笑顔でハイタッチをする。生徒は嬉しそうに上気した顔になる。

(7)個別テストの時間内に間に合わない失敗も、同じように笑顔でストップウォッチを示すことで伝える。しかも「アッツハッツハッ」という笑いつき。裁定的、否定的な身体表現は田尻氏に微塵もない。

(8)ある個別テストで田尻氏はアイコンタクトの視線を切ったが、これは実はクラスを観察していたからである。「おーい、集中しろよ。ストップウォッチで遊んでおる奴が二人おったぞ。(冗談めかして)まさか野球部じゃないだろうな」と田尻氏は言い、その後、明らかに意図的と思えるほど瞬時に、待っていた生徒に“Sit down please.”と席を勧めた。叱責を、柔らかく冗談の形で伝え、しかもそれでもクラスに伝わってしまう否定的なムードを瞬時に断ち切ったように思えた。

(9)個別テストの時に田尻氏は本当によく笑う。時にはハハハハハと席から飛び上がらんばかりに笑う。生徒も一対一の田尻氏との対面を喜んでいるように思える。

(10)個別テストでだんだん生徒が田尻氏を取り囲む。後から田尻氏の髪の毛の毛づくろいをするような生徒も出てくる(田尻氏はその間他の生徒を指導している)。侮蔑的な意味は全くない、良い意味で動物的ともいえる原初的身体コミュニケーションが成立しているようにさえ見える。



6まとめ

 以上のような簡単な列挙からだけでも、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性だけではなく、田尻氏の言語使用には音楽性や、個と個が向き合う一対一性などもあることがわかる。無論、一対一性とは逆に、クラス全体を動かすための、一対一の会話とは明らかに異なる口調もある。また、学習の不成立という、多くの教師が叱責の対象としてしまうような事態も温かく、あるいは陽気に受容する術も多く見られた。これには田尻氏が、日頃から英語の学習や使用をユーモアにしてしまうことも一役かっているのかもしれない。さらに、英語の常時使用のため、全く当たり前になってしまった生徒との英語使用も印象的であるし、何より、「代名詞ダンス」などで、生徒に身体が言語を導くようにさせていることは特記されるべきであろう。加えて、田尻氏は、人間関係が成立した上でのからかいを多用し、それによる一層の親和化を図っている。田尻氏は、授業では明るく上機嫌でありながらも、褒めすぎることをしない。注意するべきところは注意するが、その流れをすぐに断ち切る。田尻氏はこういったことを様々な言語-身体表現、つまりは様々な「声」で実現している。この田尻氏の多声性はバフチンの理論から考えたらどう分析できるだろうか。また田尻氏の各種の声は、田尻氏と生徒を人格的に結びつける、アレント的な意味での「活動」(action)になっているのだろうか。今後も考察を続けてゆきたい。

追記:本文にも略記したように、本報告は科学研究費(萌芽)「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」を使って行なわれた観察を基にしている。




(注)

横溝さんは、まさに「教える言語を超えた外国語教育ネットワーク」の要のような八面六臂の活躍をしていて、日本語教育だけでなく、英語教育でも小中連携や英語検定協会のセミナー派遣教師などで活躍をしています。

その横溝さんのおすすめの冊子が、

『外国語学習のめやす2012』
http://www.tjf.or.jp/ringo/news/post-60.php


です。「つながりの実現を目指した外国語教育の提言」として、日本の高等学校の中国語教育と韓国語教育からの報告と提案をしています。いい冊子です。PDFでの無料ダウンロードもできますので、ぜひ上記サイトに行って見て下さい。



ついでに

この記事でも紹介しましたが、






には田尻先生の講義のCDが3枚付属としてついています(これだけで、即買いだと私などは思っています)。田尻先生の話術あるいは話芸を楽しみ分析するためにもぜひどうぞ。



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