■好きこそ物の上手なれ
私は基本的に「好きこそ物の上手なれ」を信条とし、「習うより慣れろ」とも思っています。ですから、大学入試を突破できるぐらいの英語力を持っている人に言いたいのは、
Don't study English.
Use it.
ということです。
下手に「勉強」しようとすれば、最初の3日ぐらいは懸命にやっても、やがては止めてしまうのが私たちの現実というものでしょう。それなら「勉強」しようとするのではなく、単に英語は「使う」ものと割り切り、その英語を使う体験を楽しんだ方がいいというのが、私のここでの提案です。
勉強はなかなか続きません。でも、楽しいことは続きます。続けばだんだんと身につきます。身につけばどんどん使います。どんどん使えばより効果的に使おうとします。そうすれば学びます。放っておいても。「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」とは、こういった事態を指すことばだと私は思っています。
もちろん私とて、ある程度の強制を伴った訓練の有効性を否定するものではありません。私自身は星飛雄馬を見て育った昭和の人間ですから(笑)、英語習得に関しても徹底的に訓練を自己に課しました。そういった背景から書いた文章がこれです。
今でも、正直なところ、ある程度以上のレベルを越えるには、ある程度の強制力をもった訓練が必要だと思っています(というか、どんな稽古事を考えても、これは当たり前のことでしょう)。
しかし最近の学生さんは、私ほどには星飛雄馬的心性をもっていないようですし、北風よりも太陽の方が効果的なことも世の中には多々ありますから、このような文章を本日新たに書いている次第です。
映画というのは、人を楽しませるために作られた作品ですから、有名な作品というものはやはりよくできていて、私たちの心を掴みますし、繰り返し見ようかという気にもなります。だからいい映画を何度も繰り返して見ましょう、というのがここでの提案です。
えっ、「いい映画を数多く見る」のではなく、「いい映画を何度も繰り返し見る」んですか、とお気づきになった方、その通りです。私は同じ映画を複数回繰り返して見ることをここではお勧めしています。なぜか。英語を「身につける」ためです。
■身体と状況から引き離された記号体系は、なかなか「身につかない」
多くの若い人は、「英語の勉強」と言えば、「単語帳の暗記」や「問題集を全部解くこと」ことをすぐに思い出します(可哀そうな若い人!そんな学習観を植えつけた英語教師を私は憎みます)。「単語集の暗記」や「問題集を全部解くこと」に共通しているのは、とにかく無味乾燥で、心にも体にも感情の動き(感動)が感じられず、とにかくひたすら我慢してやり通すというイメージです。試験が終わればこれ幸いとばかりに、単語集や問題集は捨てます。覚えたはずの単語や文法も、すぐに忘れてしまいます。考えてみれば、心も体も本当は拒否している事が、心と体に残らないことは、当たり前じゃありませんか。英語ということばを、単語集や問題集だけで習得しようとするのは、仮に受験合格への最短経路であったとしても、英語獲得へは外れ道ではないでしょうか。
人間は、話の文脈と話者の身体と共にことばを体ごと感得します。話の文脈から様々な意味合いが生じ、話者の身体から様々な感情があなたの身体にも引き起こされ、あなたは全身で語られたことばを感じます。そうやってことばはあなたの心身に染み込み、あなたの身につきます。それが私がさまざまな文献を引用しつつ、最近強調していることです。
3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/34.html
A summary of Damasio’s Self Comes to Mind
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html
Damasio (2000) The Feeling of What Happens
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/02/damasio-2000-feeling-of-what-happens.html
Atkinson (2010) Extended, Embodied Cognition and Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/atkinson-2010-extended-embodied.html
もしあなたがある程度英語が話せる人なら、すぐにわかってくれるはずです。英語が自然に出てくる時は、意識からでなく、からだから出てきます。自分でもどうしてこの語・句・文を思いついたかわからないほどに、英語がからだから自ずと出てきます。それはその英語があなたの「身についている」からです。だからあなたのからだが、その「身についた」英語がもたらす状態に近くなった時に、自然とあなたのからだの方がその英語を想起し、口を中心としたあなたの全身的な身体表現として、その英語を出してくれるのです。
いや、下手に英語発話で考えるから、かえってわかりにくくなるのかもしれません。あなたの日本語発話を考えて下さい。あなたが誰かと話をしている時、日本語はあなたの意識からではなく、からだ(あるいはどことも言えない無意識・非意識)から出てきます。あなたの意識は、ことばが出てきてからそのことばに気づくことができるだけです(この文章を書きながら、私はまさにそのような体験をしています)。もちろん時には意識的に考えて考えて発話をする時もあるでしょう。しかしそんな時でさえ、考えに考えた後にことばが出てくるときは「すっと」「さっと」ことばは出現します。ことばは「身について」いるものであり、からだに根ざし、からだから出現し、からだで感じ取られるものなのです。
そしてからだは状況(場)と不即不離の状態にあります。場が変われば、からだの状態も変わります(そしてからだの状態が変われば、その場の雰囲気も変わります)。無味乾燥な教室という時空で緊張を強要されている生徒の身体はともかく、自然な場にある自然なからだは、場と共に変化します(逆に言うなら、場はからだと共に変化します)。場とからだはつながっています。そして心はからだとつながっています。さらにことばは心とつながっています。つまり、「ことば-心-からだ-場」は不即不離に連動するのです。この不即不離の連動を無理矢理に切り離してしまえば、ことばも、心も、からだも、場も、本来の働きを失ってしまいます。
私が上で批判した単語集や問題集の無味乾燥な勉強は、まさにことばを、心やからだや場から切り離した記号体系としてしか扱わない、極めて人工的な学習です。だからことばに心もこもらないのです。身につかないし、とっさの時にからだから出てこないのです。場の変化に応じて自然と出てこないのです。
この点、好きな映画をワクワクしながら何度も見て身についた英語は、俳優の「心-からだ-場」から出てきたものであり、それがあなたの「心-からだ-場」の一体的な記憶としてあなたの中に留まります。そうやって身についた英語は、あなたの心の状態がその英語を発した時の俳優の心の状態に近づいた時、あるいはあなたの置かれた場がその英語が発せられた場に近似している時に、自然と出てきます。自然な状況で、自然な気持ちで身についた言語表現は、(たいていの場合において)自然に使われます。丸暗記した英語と異なり、妙に使われ誤解されることはありません。
もちろん、俳優の心や場が、あなたの心や場と常に同じわけではありません。例えば私は(自分でも悪趣味だとわかっていながら)『24 -TWENTY FOUR-』が好きで、シーズンⅣとⅤはDVDセットでもってたりします(汗)。その映画(というよりTVシリーズ)では武器をもった戦いのシーンが多く、そこで多用され、今私がすぐにジャック・バウアーの声と身体の表情と共に想起できる表現は、"Show me your hands"(手を上げろ [そして手に武器を持っていないことを示せ])や "Drop your weapon"(銃を捨てろ)だったりします(笑)。
もちろん、私には"Show me your hands"や"Drop your weapon"といった表現をそのまま使うような機会は訪れないでしょう(笑)。ではこの学びは無駄かというと、私はまったくそう思いません。私はこのような英語から"show"や"drop"といった基本的な語の語感を得ていると思っています。私は英語圏での滞在期間が、生涯を通じて数ヶ月程度ですが、そんな私の英語が多少とも英語話者に「通じる」とすれば、それは私が映画(および読書)から「自然に」、つまりは「心-からだ-場」丸ごとに、英語を覚えたからだと思っています(同時に私は単語集や問題集での勉強を最小限に抑えたことは、いろんな意味でよかったとも思っています)。
そんな私としては、皆さんにも、どうぞ映画がもたらす俳優の「心-からだ-場」にどっぷりと浸って、その「心-からだ-場」をあなたの心身で丸ごと感じ取る英語の学びを勧める次第です。もちろん映画ばかりでは知的な英語表現はあまり身につけられませんから、後日、読書はする必要はあります。しかしいきなり英語で読書しようとしても、活字からはなんら表情ある声は浮かんで来ませんし、状況が生き生きと描出されることもありません。まずは、楽しみながら映画を繰り返し見て、英語をあなたの心身に染みとおらせることをお勧めします。
■声は届けられるために発せられている(あなたの聴力を試すためにではない)
というように私は映画を英語で見ることが好きなので、忙しい現在も、仕事に疲れて何もできないと思ったら、積極的に気分転換も兼ねて映画を見ます(3本買うと1本1000円になるDVDを買い集めることが、読書・音楽・武術以外の私の数少ない散財(笑)法です)。
しかし私はいわゆるリスニングテストは今でも嫌いです。声が、それを発している人は誰なのか、状況はどんなものかなどお構いなしに発せられ、それを正しく聞き取られるかどうかで、私の英語力が一方的に判定されるからです。私は自分が英語教師であるという特殊要因を除くなら、英語力は私の人生に応じてあればいいだけで、それ以上は必要ないと思っています。私の人生では、英語は、私に届けられるために発せられます。だから私は、その英語を耳で聞くだけでなく、目で聞き、からだで聞きます。場の状況を活用して聞きます。自分の心身と場の力を総動員して、私に届けられることを願っているメッセージを理解しようとします。悪意でなく善意から発せられた英語なら、それは私に理解されることを願っているはずです。だから私はその善意を受け止め、耳以外のあらゆる手段も総動員して、その声が伝えようとしていることを理解しようとします。文字通りの意味も、言外の意味も、非言語的メッセージも、場の意味も、すべて合わせて統合的に理解しようとします。それが私にとっての「聞く」です。
しかしリスニングテストでは、私は耳以外の手段を活用することを封じられます。発せられる英語も、善意と共に私に届けられようとしている声というより、私を査定するための音として聞こえてくるようです。私はそんな「聞く」ことが、どうも好きになれません。
この点、映画でのリスニングは、リスニングテストと大違いです。映画俳優の「心-からだ-場」統合体があなたの英語リスニングと常に共にあります。後で述べますように、私たちは字幕(日本語・英語)の助けを借りることもできます。また、何度も繰り返し視聴することにより、英語に慣れ親しむこともできます。「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」(笑)。
■日本語・英語字幕と日本語・英語音声をうまく使い分ける
VHSでは不可能でしたがDVDやブルーレイでは可能なことの一つに字幕や音声を日本語でも英語でも出力することがあります。音声と字幕の組み合わせは、英語映画を日本人が見る場合、次の五つが考えられます。
(1) 日本語音声で日本語字幕(あるいは字幕なし)
(2) 英語音声で日本語字幕
(3) 英語音声で英語字幕
(4) 日本語音声で英語字幕
(5) 英語音声で字幕なし
家族と一緒に映画を楽しむのならともかく、一人で英語の学びも兼ねて映画をDVDで見るのなら、(1)の「日本語音声で日本語字幕(あるいは字幕なし)」は論外です。
よくやられているのは(2)の「英語音声で日本語字幕」です。英語にまだ慣れていない人は、最初はこの視聴方法を取ったほうがいいかもしれません(英語に慣れている人は、この(2)も止めてください)。
英語に慣れていない人も、慣れている人も、繰り返し映画DVDを見る方法は(3)の「英語音声で英語字幕」です。DVDの英語字幕は、英語使用者の中で聴覚障害をもっている方の理解を助けるために本来作られたもので、実際に発話されている英語と完璧に一致しているわけではありませんが、まあおそらく少なくとも95%以上は一致しているはずです(慣れてきたら一致していない箇所もすぐにわかるようになります)。まずは英語音声を英語字幕を頼りに聞く経験を何度も繰り返すべきでしょう。
英語字幕を頼りに、と言っても、慣れないうちは、英語字幕を追うだけでも大変なはずです。英語用の目ができていないからです。それでも映画の楽しさに、あるいは何度も繰り返し視聴するという反復学習体験に助けられ、英語字幕を英語音声と共に追う経験を繰り返してください。これが格好の速読訓練になります。それとともに自然と英語を身につけることにもなるのは上で述べた通りです。
そうやって(3)の「英語音声で英語字幕」で何度も同じ映画を繰り返してみると、いくつかの英語は本当に身についてきます。映画の画面と同時に、俳優と同じ表情で映画の台詞を自分でもつぶやけるぐらいになります(早口の台詞は、舌が回らないので、心の中だけでつぶやくことになりますが)。そうして慣れたら、ぜひ(4)を試してください。これが存外に面白い。
(4)の「日本語音声で英語字幕」は、慣れた映画で視聴すると、日本語の自然な発想と、英語の表現の思いがけないような結びつきがわかって、比較文化・比較言語のとてもいい学びができます。日本語音声は、日本語字幕と違って、字数制限が緩い(= 日本語声優の可能な発語量は、字幕で表現可能な字数よりはるかに多い)ので、自然な日本語表現が使われています。そもそも日本語声優による日本語音声は、原語の英語なんて(ひとまず)どうでもいいから、映画そのものを楽しみたいと願っている観衆のために録音されるものですから、日本語は、その英語俳優が日本語ができたらまさに言うような自然な日本語です。その日本語を聞きながら、(もうこの頃までには慣れたはずの)英語字幕を同時に読んで、日英語を比較すると、これは文化や言語表現の違いについていろいろ学べます。翻訳や通訳のいい訓練にもなります。日本語音声は、人気作品でしたら、それだけ翻訳や声優にお金をかけていますから、概して優れたものが多いです(とても下品な映画ですが、『サウスパーク 無修正映画版』の台詞翻訳家と声優の力量は素晴らしいwww)。好きな映画はぜひ(4)まで楽しんで下さい。
そこまで楽しむと(5)の「英語音声で字幕なし」になるはずですが、私はここまで映画を繰り返し見ることはほとんどありません(引退して時間が自由になるようになれば、ここまで繰り返して見るかもしれませんが)。正直、私のリスニング力では(5)の状況で十分に映画を楽しめる作品は限られています。標準的な発話がほとんどの映画ぐらいです。俗語や方言が入ると、私は完璧には聞き取れません。だからテレビ放映で映画を副音声(英語)で視聴する場合は、たいてい、まさに耳以外も総動員した聞き方をしています。
ですが、私の場合は、英語の俗語や方言に通暁することよりは、標準的で知的な英語をより多く知るほうが私の人生に適っていると考えるので、(5)で自己訓練をするよりは、読書を楽しむ方を選んでいます。上にも述べたように、英語力は自分の人生が求める度合いと範囲においてついていればいいと私は考えています。
■自分で選ぶことによって知的感性を育てる
と、このように映画視聴を勧めますと、学生さんの中には「先生、それじゃあ、どの映画を見れば教えてください」と聞いてくる人がいます。私も時間があって機嫌がいい時には、親切に対応するふりをしますが、私の本音は「知らんがな、そんなもん」です(笑)。
好みというものは、自分で試行錯誤をする中で自然に定まってくるものであり、定まれば自然とそれを洗練させたり敢えて広げたりするものです。いずれにせよ、自分の好みなんて自分にしかわかりません。自分の知的感性を育てられるのは自分だけです。もちろん他人の映画評をうまく利用することは大切ですが、他人に自分が見るべき映画を定めてもらおうとする了見は、少なくとも私には理解しがたいものです(そんなに大切な決定を他人に委ねてどうするの?)
自分で好きだったら、どんどんそんな映画の好みを開拓すればいいだけのことです。奇抜な選択や悪趣味は、やがて時が(そしてあなたの成熟が)淘汰してくれるでしょう。少なくとも『24』や『サウスパーク』を面白いと言う品のない大学教師もいるのだから(笑)、自分の見る映画ぐらい自分で探して自分で決めて下さい。
■思い切って出力することで、入力と処理の質を上げる
で、映画を選んで、何度も見たら、ぜひその経験を自分一人のうちに留めておかないで、他人にも伝えて下さい。他人にその映画の、あるいはその映画の中の英語表現の面白さを具体的に伝えようとすれば、その伝えるための言語技術もさることながら、そもそも映画・英語を理解する力が深まり知的感性も鋭敏になります。他人を益しようとすれば、自分の知性が高まるというのが私たち人間のようです(おそらく進化論的に考えても、妥当なことでしょう。たぶん)。また、情報を出せば出すほど、なぜか情報は入ってくるというのも多くの人が経験から知るところです(おそらく社会心理学的に考えても、妥当なことでしょう、たぶん)。
というわけで、何度も見たお気に入りの映画があれば、印象的な英語と共に下記ブログにどうぞご投稿ください。
あ、もちろん、自分のツイッターでもSNSでもブログでも構いません。とにかく自分が楽しいと思ったことを、他人にも伝わるように文章にすれば、言語表現力も、知的感性も高まります。入ってくる情報も増え、質も高まります。お互いにいい文化を作り上げましょう。
「それでは次の記事をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」(平成世代にはわかるまい www)
1 件のコメント:
この記事に関して、ある方からメールをいただきました。
その方の許可を得て、以下にそのメールを転載します。
***
こんばんは。○○です。「映画を繰り返し見て、~」の感想です。
私も映画が大好きで「好きな映画を繰り返し見る」タイプです。その経験を書こうと思います。
(その前に、昭和生まれにしかわからないギャグが含まれていますね^^)
私の洋画の初体験は、中学校2年生の時に見た The Sound of Music です。
その時は学校全体の映画鑑賞会で、田舎の市内に一軒あった映画館まで片道2㎞、歩いて行きました。
映画 The Sound of Music は衝撃的でした。ストーリー、映像、音楽そして英語、強烈な印象でした。
今でも覚えてるのが、トラップ大佐の英語。
“I wat you to stay here. I ask you to stay here.”
中学校2年生の時に “ask” を使うと丁寧になるのか!と気付きました。
それ以来ずっと The Sound of Music をもう一度見たいと思い続け、そのチャンスが訪れました。
それは浪人時代です。福岡市内の予備校に西鉄大牟田線で通っていましたが、
現在ソラリアプラザがある位置に、九州スポーツセンターがあり、その付属でセンターシネマという
小さな映画館で The Sound of Music が上映されました。この機会を逃してはいけないと思い、予備校をサボッテ見に行きました。
初夏のころでした。
そしてまたまたこの映画の虜になり、上映期間の2週間毎日この映画を見ました。
当時センターシネマの学割が250円、予備校の学食の昼の定食が250円、昼飯を抜くと映画が見られる。
当時英語の教員になるという明確な目標があったわけではないのですが、やはり英語が気になりました。
音ではこう聞こえるのでこういう英語ではないかと推測し音を頭に叩き込み家に帰って辞書を引くという生活を2週間続けました。
映画を見るたびに聞こえてくる英語の意味が分る量がズンズンと増えるということを実感しました。
それと反比例して字幕に頼ることが少なくなりました。
2週間も同じ映画を見ていれば当たり前といえば当たり前ですが。
こうやって、「ドレミの歌」「エーデルワイス」などの挿入歌やいろいろな台詞を耳だけで覚えました。
「ドレミの歌」などは、英語を英語で説明するとはこういうことかということが分かり、抵抗なく英英辞書を使う事が出来るようになりました。
先にも書きましたが、予備校生当時英語の教員になるという明確な目標があった訳ではありません。
要するに「好きこそものの上手なれ」で映画 The Sound of Music に魅せられて好きでやっただけで、
全く「英語の勉強」とか「苦労」とかとは無縁の世界でした。
ただこの経験が英語の教員になってみて良かったのか悪かったのか、未だに判断できません。
全日制でよくやっている「試験範囲:単語集○○のXページからYページ、月曜日にテスト」という感覚に全く馴染めないからです。
現在も定時制で細々と「英語のこういうところ面白いよね。」とか「この日本語を英語にするとこうなるんだな~。」とかやっています。
生徒に対して「覚えろ。」と言うことはないですね。自分が「覚えろ」と言われて覚えられたためしがないので。
最後のほうになって話が取り留めなくなってしまいました。
「映画を繰り返し見て、ついでに英語を身につけ」た経験者の感想です。
完了の「た」はいけませんね。英語に限らずあらゆることの学びは現在進行形ですから。
最後までお読みくださりありがとうございます。
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