以下の
Common European Framework of Reference for Languages(以下、CEFR)に関する記述は、学部4年生向けの授業『地球的言語としての英語』の補助資料です。2013年度は、
English Next: Why global English may mean the end of 'English as a Foreign Language'と、このCEFRを毎週少しずつ読み討議を重ねることを授業内容としています。
なお、CEFRの文書は以下のURLからPDF形式でダウンロードできます。
CEFRは書籍形式で市販もされています。
今回の授業では、日本で等閑視されているCEFRの理念の部分(Chapter 1-2) およびCEFR制定作業の基礎となった技術的な部分(Appendix A)を読みます。
私は2000年代中頃に、初めてCEFRを読み、その理念であるplurilingualismに非常に共感しました。 (なおplurilingualismは、日本では通常「複言語主義」と訳されていますが、私は「複合的言語観」もしくは「複合的言語使用」と訳した方がいいのではないかと最近思っています(参考:
"-ism"を馬鹿の一つ覚えみたいに「主義」と訳すなかれ)。以下、
「複言語主義」、「複合的言語観」、「複合的言語使用」はどれも"plurilingualism"を指す用語としてお読みください)。
以下は、私がplurilingualismについてWeb上に書いたものの一部です。
上記の国立国語研究所講演でも提示しましたが、plurilingualismが想定するplurilingual and pluricultural competence(「複合的言語文化能力」と訳します)の中核は、以下の箇所に示されています。
Plurilingual and pluricultural competence refers to the ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct competences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001, p. 168)
複合的言語文化能力が意味するのは、複数の文化での経験をもつそれぞれの人間が、複数の言語をさまざまな度合いで使いこなすことができ、それぞれに社会的主体として、コミュニケーションの目的に応じて複数の言語を使い分け、複数の文化が混在する状況でのやりとりに参加することができることである。この能力は、それぞれに独立した別々の言語能力を積み木のように縦横に並べたものと考えてはならない。複合的言語文化能力は、一つの複合的な能力で、もはや分離することができない一つの化合物ともいえる能力であり、この能力を人は状況に応じて使いこなすのである。
この説明に加えて、国立国語研究所講演では次の解説も加えました(一部修正しています)。
多言語使用と複合的言語使用
「多言語使用」 (multilingualism) が、ある国で一つ以上の言語が公式的に使われているという制度的な概念であるのに対して、「複合的言語使用」 (plurilingualism) はある人間が、自身の生活において一つ以上の言語を状況に即して使いこなしている状態を指す。欧州評議会は、‘plurilingualism’という用語を、その状態を可能にしている事実的な能力概念としても、欧州が欧州として統合されるために重要と考える教育的な価値概念としても、区別しながら使用している。日本における議論でも、事実概念と価値概念の区別は重要である。
母語話者規範からの離脱
複合的言語使用は、複数の言語を同等に使うのではなく、例えば複数の言語を、様々な用途目的のために、それぞれに異なる度合いで使いこなすことである。その度合は、母国語話者・母国語話者に準ずるものから極めて初歩的なものまで様々である。複合的言語主義は、学習者に様々な用途目的において一様に母国語話者並の言語力を求めるものではない。第二言語教育において単一言語主義を強要することは、学習者の第一言語を無視するだけでなく、目標言語の中の様々なジャンルという多様性を見失っている点でも批判されるべきである。どのジャンルにおいても一様に素晴らしい母語話者という理想的存在の能力を第二言語教育の規範とすることは止めるべきである。
しかし、この「複合的言語使用」と「母語話者規範からの離脱」は、日本ではどうも軽視され、
「英語の授業はとにかく英語だけで行わねばならない」という単一言語主義が頑なに主張され、かつ、文部科学省の
「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」について(2011(平成23)年)が出るや、いわゆる
CAN-DOリストの作成の点からばかりでCEFRが取り上げられています。(昨年度は、大げさに言うなら、どこの英語教育研究会にいってもCAN-DOリストの講話ばかりが話されていたようでした ― 私は、いわゆる「世間」や「お上」が「右」というと一斉に「右向け右」になる日本の英語教育界の体質にどうも馴染めませんし、時に怖いものを感じてしまいます)。
単一言語主義(monolingualism)批判については、とりあえず下記の本を読んでいただくとして、ここではplurilingualismについての前書きをもう少し続けます。
中央教育研究所の研究報告No.80にはCEFRに関する記事が複数掲載されていますが、ここでは鳥飼玖美子先生の文章の一部を紹介します。
鳥飼玖美子先生は、日本の「CAN-DOリスト」偏重について以下のように述べます。
日本では、「何ができるか」を表示する「能力記述」 (Can Do descriptors/statements) だけに関心が集中しているが、CEFRの本来の意義は、「複言語主義 (plurilingualism)」という新たな理念にある。EUは設立以来、母語を話すことは人間の基本的人権であるとして「多言語主義 (multilingualism)」を標榜し、言語と文化の多様性を推進してきた。そのような「多様性の中の統一 (United in Diversity)」に基づき平和のための相互理解を実現するには、互いの言語を学び合うことが重要であるという認識から生まれたのが、すべてのEU市民が母語以外に二つの言語(外国語だけでなく国内の少数言語でも構わない)を習得するという「複言語主義」である。
複数の言語を学習することにより、言語同士が相互の関係を築き、新しいコミュニケーション能力を創りあげるという「複言語主義」によれば、「理想的母語話者」を最終的な到達目標にするべきではないし、言語学習は学校教育の場で終わらず生涯にわたり続くものであり、教育責任はむしろ「自律した学習者」の育成にある。そのような言語教育についての斬新な理念を学習と教育の場において具現化する為に考案されたのが、どのような言語であっても、学習者の言語熟達度をきめ細かく評価することを可能にする「共通参照枠」である。これは、EU域内での移動と就労を容易にするという実利的側面も無論あるが、現代語を学ぶことにより相互理解につなげる、という理想が柱になっていることを見逃してはならない。
CEFRは日本にも導入されつつあり、2012年3月には東京外国語大学科科研グループによる日本版CEFR-Jが発表され、2011年に文科省が発表した『「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」について』においても、提言1「生徒に求められている英語力について、その達成状況を把握/検討する」で、英検やGTEC for STUDENTSなどの活用の他に、「国としての学習到達目標を「CAN-DOリスト」の形で設定することに向けて検討を行う」ことが明記されている。複言語主義の思想が参照されることはなく、本来は「評価の尺度」である能力記述だけが取り出され、英語教育における「学習到達目標」として、CAN-DOが一人歩きを始めた感がある。 (鳥飼 2013, pp. 4-5)
この授業でも、CAN-DOリストの一人歩き、それに伴ってさらに蔓延しそうな、理念を欠いた技術的言語教育観、あらゆるものを平準化しようとする物差しですべてを管理しようとする現代的な権力観、さらにはすべてを競争させることが善だと信じて疑わないような
新自由主義的発想などを警戒しつつ、かつCEFRのねらいを正確に理解することを目指して、以下にCEFR(の一部)を概説してゆきます。授業を受講する皆さんは、まずこのまとめをチェックしてから原文を読んでください。
まとめは大意だけの簡単なもので、※印がついた文は私の個人的コメントです。また、CEFRは広く普及することを目指した公的な文章ですので、ここでは比較的多くの原文を抜粋する予定です(訳は拙訳 ― 日本語としての読みやすさを優先した意訳― です。出版されている翻訳には、『
外国語教育〈2〉外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』があります)。
Chapter 1
The Common European Framework in its political and educational Context.
1.1 What is the Common European Framework?
・CEFRは、共通の枠組みを示すことにより、ヨーロッパの現代言語教育専門職の間でのコミュニケーションで支障が生じないようにすることを意図している。 (p. 1)
・コミュニケーションおよび言語教育は全人的で社会的でなものである。部分に分割された能力を、全人的・社会的に統合することは、教師及び学習者に委ねられなければならない。
コミュニケーションは全人的な行為である。以下、[このCEFRでは、コミュニケーション] 能力を分解し分類するが、それらの部分的能力は、それぞれ独自の人格の成長の中で複合的に相互作用する。社会的行為主体としての個々人は、相互に重なり合いながらますます広範囲に及ぶ社会的集団の連なりの中でさまざまな関係性を形成し、その人なりのアイデンティティを形成する。間文化的アプローチでは、言語と文化における他者性を豊かに経験する中で、学習者の全人格とアイデンティティの感覚が望ましい成長をすることが言語教育の中心的目的となる。多くの部分を一つの健全に成長する人間存在に再統合する課題は、教師と学習者自身に委ねられなければならない。
Communication calls upon the whole human being. The competences separated and classified below interact in complex ways in the development of each unique human personality. As a Social agent, each individual forms relationships with a widening cluster of overlapping social groups, which together define identity. In an intercultural approach, it is a central objective of language education to promote the favourable development of the learner's whole personality and sense of identity in response to the enriching experience of otherness in language and culture. It must be left to teachers and the learners themselves to reintegrate the many parts into a healthily developing whole. (p. 1)
1.2 The aims and objectives of Council of Europe language policy
・CEFRはCouncil of EuropeのReccomendation R (82) 18とR (98) 6に基いている。(p. 2)
・R (82) 18では以下の三原則が示されている。
(1) ヨーロッパの多様な言語と文化の遺産は保たれより豊かにされるべきものである。ヨーロッパはその多様性を、コミュニケーション上の障害から、相互の充実と発展のための源泉と転換しなければならない。
(2) コミュニケーションのためにはヨーロッパ言語の知識を互いに増やさなければならない。
(3)加盟国は相互の協力と協調でヨーロッパとしてのまとまりを得ることができる。
・R (98) 6は現代言語の分野での政治的目的を確認している
(※ 「言語教育は政治と関係ない、純粋に技術的に問題だ」という政治的に無自覚な態度は時に大悪・大罪につながりうる。政治的無自覚とは、脱-政治的な態度ではなく、時代の権力におもねった怠惰であることが多いことを忘れないでほしい。)
(1) 国際的に移動し互いに協力することがより求められているという課題に、すべてのヨーロッパ人が対応できるようにする。
(2) 国際的なコミュニケーションを促進し、相互の理解と寛容、アイデンティティと文化的多様性を促進する。
(3) ヨーロッパ文化の豊かさと多様性を保つ。
(4) ヨーロッパの多言語・多文化状況に、言語・文化の枠を超えたコミュニケーションで対応する。
(5) コミュニケーションのために必要な技能をもたない者たちを周縁に追いやってしまう危険を回避する。 (pp. 2-3)
・外国人嫌い (xenophobia)と超国家主義という反動は、ヨーロッパの機動性と統合にとっての第一の障害であり、ヨーロッパの安定と民主主義の健全な働きにとっての大きな脅威である。(p. 4)
※この記事を書いている2013年の時点で、日本でも外国人嫌いや超国家主義といった反動は、
ヘイトスピーチ (
hate speech)といった形でますます激化している。特に日中韓関係には懸念事項が多い。この点で、私たちはplurilingualismに学ぶ必要性はますます高まっているといえる。
毎日新聞の2013年6月18日の記事は以下のように伝えています。
特定の民族や人種を汚い言葉でののしる「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」。在日コリアンが多く住む地域を中心に昨年から毎週のようにデモが行われ、16日にはカウンターと呼ばれる反対派との衝突で逮捕者も出る事態となった。日章旗や旭日旗をはためかせ、差別をあおる真意は何なのか。現場を歩いた。【小泉大士】
「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人。お前らを一匹残らずたたきつぶす」
16日午後3時。韓国料理店や韓流ショップが並ぶ東京・新大久保の大久保通りで在日コリアンの排斥を掲げるデモが始まった。
拡声機で激しい言葉を浴びせるのは、デモの主催者で「行動する保守」を掲げるグループ「新社会運動」の桜田修成氏。インターネットの告知や口コミで集まった参加者は約200人(警視庁調べ)。20?30代を中心に男性が約8割を占めるが、女性会社員風や年配女性、ベビーカーを押しながらの女性もいる。
「いつまで差別を楽しむのか。恥ずかしくないか」。怒声を上げたのは、今年1月に音楽業界の関係者らで発足した「レイシスト(差別主義者)をしばき隊」ら反対派。「それは主張やない ただの暴言や」などと書かれたプラカードを歩道で無言で掲げる「プラカ隊」なども合わせ約350人に上る。
小競り合いで顔から血を流した男性も。「帰れ、帰れ」。反対派のシュプレヒコールが過熱すると、機動隊員が「朝鮮人ハ皆殺シ」などと書かれたプラカードを持って行進するデモ隊との間に割って入った。(以下、略)
毎日新聞はジャーナリストの
安田浩一氏のコメントも掲載しました。
参加者は、必ずしも「貧しく仕事がない若者」ばかりではない。サラリーマンや主婦、公務員など多様だ。ただし「自分たちは被害者」という意識は共通する。社会の主流から排除され、言論は既存メディアに奪われ、社会福祉は外国人がただ乗り??という思い込みや憎悪でつながる。
彼らをつなげているのがインターネットだ。ネット上で個人を攻撃する「まつり」を、そのまま路上へ持ち出している。攻撃の対象は「在日」でなくとも、「マスゴミ」「生保(ナマポ)」(生活保護受給者)でもいい。
彼らは「愛国者」を自称しているが、本当は「国から愛されたいと渇望する者たち」ではないか。経済成長が望めず、社会が不安定化する中で、自分たちが守られているという実感を求めている。だがそこには、自らが傷つけている他者の痛みへの想像力と、差別者だという自覚が決定的に欠けている。(談)
安田浩一氏は、著書『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』により日本ジャーナリスト会議賞および第34回講談社ノンフィクション賞を受賞しました。
この本に関する安田浩一氏のインタビューは以下で読むことができます。
もし英語教育が、少しでも本気で「国際理解」や「グローバル化」や「グローバル人材」について語っているのなら、英語教育関係者がまさにこの国内で起こっているヘイトスピーチの問題を無視してはいけないと私は考えます。もし見て見ぬふりをするなら、私はそんな人の「国際理解」などのお題目は信じません。とはいえ、かく言う私もまだ何も行動できていないのですが・・・
1.3 What is 'plurilingualism'?
・言語能力とは次第に拡張し多様化し、それでいて相互連動的に統合されるものである。
複合的言語観に基づくアプローチが強調する事実とは、一個人の言語経験が文化的文脈において広がるにつれ ―言語経験は家庭から社会一般へ、そして(学校や大学で習うにせよ、経験から直接に学ぶにせよ)他の民族の言語と広がる―、その個人はこれらの言語や文化を分離してしまった形で心に留めるのではなく、言語についての知識と経験がすべて活き、すべての言語が相互に関連し作用するコミュニケーション能力を発達させる、ということだ。状況が変われば個人はこのコミュニケーション能力の異なる部分を柔軟に活用し、その状況での対話相手と効果的にコミュニケーションを行うことができる。
the plurilingual approach emphasises the fact that as an individual person's experience of language in its cultural context expands, from the language of the home to that of society at large and then to the languages of other people (whether learnt at school or college, or by direct experience), he or she does not keep these languages and cultures in strictly separated mental compartments, but rather builds up a communicative competence to which all knowledge and experience of language contributes and in which languages interrelate and interact. In different situations, a person can call flexibly upon different parts of this competence to achieve effective communication with a particular interlocutor. (p. 4)
・ある言語をわずかでも知っていれば、その言語でのコミュニケーションにおいてそれなりに役立つことができる。このことからすれば、ある特定の言語だけを完璧に習得しようとして(おそらくはそれに失敗し)その他の言語習得など考えもしないように学習者を仕向けることは、言語教育が行なってはいけないことである。
この観点からすれば、言語教育の目的は根本的に変えられる。言語教育は、もはや単純に「理想的な母語話者」を究極のモデルとして一つか二つあるいは三つの言語を別個に「極める」ことであるとはみなされない。新しい考え方が目的とするのは、個人が有するあらゆる言語能力がそれなりの役割を果たす言語的な備えを充実させることである。もちろんこのことにより含意されるのは、教育機関で提供される言語は多様であるべきだし、学習者が発展させるべきなのはは複合的言語能力であるということだ。さらに、言語学習とは生涯にわたる課題であるということが認識されるなら、若い人が学校外で新しい言語に接したときの、やる気・技能・自信を育てておくことは中核的に重要なこととなる。ある特定の言語がある特定の時期にある特定の熟達度に達しているということはもちろん大切なことであるが、教育当局・認可団体・教師の責任はそこにとどまるものではない。
From this perspective, the aim of language education is profoundly modified. It is no longer seen as simply to achieve 'mastery' of one or two, or even three languages, each taken in isolation, with the 'ideal native speaker' as the ultimate model. Instead, the aim is to develop a linguistic repertory, in which all linguistic abilities have a place. This implies, of course, that the languages offered in educational institutions should be diversified and students given the opportunity to develop a plurilingual competence. Furthermore, once it is recognised that language learning is a lifelong task, the development of a young person's motivation, skill and confidence in facing new language experience out of school comes to be of central importance. The responsibilities of educational authorities, qualifying examining bodies and teachers cannot simply be confined to the attainment of a given level of proficiency in a particular language at a particular moment in time, important through that undoubtedly is. (p. 5)
1.4 Why is CEF needed?
・CEFRはヨーロッパの言語教育の「透明性と一貫性」(Transparency and Coherence)のためにも必要である。 (p. 5)
1.5 For what uses is CEF intended?
・CEFRは言語学習プログラムや言語能力認証 (language certification)あるいは自己学習(self-directed learning)を計画する際に使用できる。(p. 6)
・プログラムや認証は、総合的(global)でありながら、分割可能(modular)で重みづけ(weighted)もでき部分的(partial)でもありうる。(p. 6)
1.6 What criteria must CEF meet?
・CEFRが機能するためには、CEFRは包括性 (comprehensive)、透明性 (transparent)、一貫性 (coherent)を充たしていなければならない。 (p. 7)
・包括性・透明性・一貫性を有した枠組を作っても、そのことによってその枠組を唯一不変のシステム(one single uniform system)と考えてはならない。CEFRが目指しているのは、多目的性 (multi-purpose)、柔軟性 (flexible)、開放性 (open)、力動性 (dynamic)、使いやすさ (user-friendly)、非-教条性 (non-dogmatic)である。
※この規定にもかかわらず、日本ではCAN-DOリストなどが唯一不変のシステムとして扱われようとしていないだろうか?
2 Approach adopted
※第2章は、CEFRの骨組みを概説した章だといえる。主な骨組みは以下のように図示できる(クリックで拡大)。
2.1 An action-oriented approach
・CEFRでは行為志向のアプローチを採択している。
ここで採択しているアプローチは、概して言うなら、行為志向のアプローチと言える。なぜならここではある言語の使用者と学習者を何よりも「社会的行為主体」とみなしているからである。社会的行為主体とは、社会の一員として(言語に関連したものにだけに限らない)課題に、ある特定の状況・環境・行為分野で取り組まなくてはならない者のことである。
The approach adopted here, generally speaking, is an action-oriented one in so far as it views users and learners of a language primarily as 'social agents', i.e. members of society who have tasks (not exclusively language-related) to accomplish in a given set of circumstances, in a specific environment and within a particular field of action. (p. 9)
・一般的能力 (the general competences) には、知識、技能、実存的能力、学ぶ力が含まれる。(p. 11)
・知識 (knowledge)とは、ここでは
宣言的知識 (
declarative knowledge)を意味する。 (p. 11)
・技能 (Skills and know-how) とは、ここでは(※そのようには明記されていないが)
手続き的知識を指している。 (p. 11)
・実存的能力 (existential competence)とは、個人の性格・人格的特徴・態度の総和 (the sum of the individual characteristics, personality traits and attitudes)であり(p. 11)、例えば社会的交流における自己像・他者像・意欲 (self-image and one's view of others and willingness to engage with other people in social interaction)と関わっている。 (p. 12)
・学ぶ力 (ability to learn) とは、知識・技能・実存能力などを総動員する力であり、また、「他者性」をいかに見出すか、また、見い出せるような出会いをするか、であるとも考えることができる (Ability to learn may also be conceived as 'knowing how, or being disposed, to discover "otherness")。 (p. 12)
・言語的能力、社会言語学的能力、語用論的能力については、応用言語学での定義にほぼ準じたものである。ただし、ここでの「語用論的能力」には、ディスコースやテクストの特性を理解した上でそれらを使いこなす能力も含まれている。 (p. 13)
※能力論はCEFRの第5章で詳しく展開される。
・言語活動 (language activities)には、受信 (reception)、発信 (production)、相互作用 (interaction)、仲介 (mediation) がある。 仲介には翻訳・通訳、言い換え、要約・記録 (translation or interpretation, a paraphrase, summary or record) があり、複数の言語間あるいは単一の言語内での言い換えを行う。これらにより多言語使用状況でのコミュニケーションも可能になる。 (p. 14)
※この分類は当たり前のようにも思えるかもしれないが、日本の英語教育界では、相互作用が明確に意識されなかったり、仲介があからさまに排斥されたりしていることに注意しよう。
・領域 (domain)において、言語活動が文脈化される。領域を大まかに分けるなら、公的領域 (public domain)、私的領域 (personal domain)、職業領域 (occupational domain)、教育領域 (educational domain)の四つに分けられる。 (pp. 14-15)
※これまた当たり前のことしか言っていないようだが、日本の英語教育界の論争はしばしばこれらの領域を区別しないままに行われていることに注意しよう(例:職業領域での英語使用の必要性を痛感するビジネスマンが、教育領域での英語学習を役立たずと断言する。あるいは、おそらく公的領域での英語使用のための学習を求められている大学において、「英会話」と呼ばれる私的領域での英語使用・学習がもてはやされている、など)
・タスクとストラテジーとテクストは、コミュニケーションと言語学習において相互関連している。(p. 15)
※タスクについては松村昌紀先生による
『タスクを活用した英語授業のデザイン』がすばらしい。言語教育におけるタスクについて語る者にとっての現時点での必読書だと言える。
2.2 Common reference levels of language proficiency
・共通基準枠は、三次元あるいはそれ以上の次元で表現されうるものである (p. 16)。
※ただし英語教育論がヒステリックになると、「英語力」はしばしば単一次元だけで語られることに注意しよう。
・能力や発達が、異なる人びとにおいて同一ということはありえない。
母語話者であれ外国語学習者であれ、ある言語を使う者が二人いたとしたら、その二人の能力や、能力発達の過程がまったく同じであるということはありえない。
No two users of a language, whether native speakers or foreign learners, have exactly the same competences or develop them in the same way. (p. 17)
※既に気づいているかもしれないが、CEFRではcompetenceを複数形 (competences)でも使っている。この使い分けに注意しよう。「コミュニケーション言語能力」は複合的であり、それらが異なる人間の間でまったく同じということは考えがたい。しかし、英語教育の現状では、TOEICやTOEFLの得点で能力がしばしば一元化されている。このように単純な考えに基づいた議論が、複雑な現実を打開できるとは私には思えない(もちろんそのような単純な論を振り回す人は、現実世界の問題解決ではなく、言い合いによる憂さ晴らしを求めているだけなのかもしれないが)。
2.3 Language learning
(省略)
2.4 Language assessment
(省略)