2013年6月26日水曜日

栗田哲也 (2012) 『数学による思考のレッスン』ちくま新書



いつものように自分を棚に上げた勝手な言い草ですが、学生さんへの論文指導を通じて思うことの一つは、論文のアイデアを生み出すことおよびアイデアを論証することの両方を苦手とする人は、たいていの場合いわゆる「数学的思考」あるいは「理数系の発想」を苦手としているということです。

ここで私がいう「数学的思考・理数系の発想を苦手とする」とは、高校までの理数系科目の点数が悪かったことを必ずしも意味するわけではありません。「数学が得意だった」や「元理系だ」と言う学生さんの中にも、アイデアを出したりそれを精緻化することが駄目だったりする人もいます(おそらくそういった学生さんは理数系科目の受験テクニックに習熟していただけで、理数科目の本質を学び損なっていたのではないかと私は考えています)。

こういった関心から、また、私自身が数学的思考や理数系の発想を得意としていないという理由から、私は折々に数学に関する啓蒙書や入門書を買い求め読むようにしていますが、仕事に追われ、なかなかそれが進みません。

しかし先日書店でふと目にしてそのまま出張の行き帰りに読んだ本書は、「論文執筆のための数学的思考」という点で非常に啓発的で、いかにしてアイデアを出しそのアイデアをきちんとした論証にするか、という点について非常に参考になりました。

以下、その本の内容のうち私の関心にかなった点を、私なりにまとめます。■印がそのまとめで、⇒印がその点に関する私の蛇足コメントです。まとめには私の誤解や偏見が入っているはずなので、ご興味をもった方は必ずご自身で本書をお読みください。



■三種類の世界

私たちの世界は、(1)「日常的世界」、(2)「分析的な世界」、(3)「構築的なアイデアの世界」、の三種に分けられる。(39ページ)

⇒強く実践を志向する英語教育研究では、多くの学生・大学院生(教職を休職しての社会人院生も含む)は、(1)の「日常的世界」ばかりで考え、そこから一気に(3)の「構築的なアイデアの世界」に飛び上がろうとする。だが、そのように(2)の「分析的な世界」を経ないままに構築されたアイデアは大風呂敷の杜撰なものに過ぎない(「調べてみたらTOEFLという試験は国際的だそうだから、それを大学入試試験にすれば英語教育は改善されるのではないか」といった提案と大同小異である)。(1)に基づき(3)に至るためにも、(2)は大切にしなければならない。

他方、たまにいるのは学部からそのまま大学院に進学した人で、(2)の「分析的世界」だけにとどまり、手堅い論文は量産するが、英語教育の日常感覚や改善・改革案を苦手とする人だ。さらには、苦手を自覚せずに、自らの論文の分析世界の単純な認識論・知見を強引に複雑な現実に押し付ける人もいるが、こういった人は本当にやっかいだ。

私たちはこれら三つの世界の区別をとりあえず仮定し、それらの間の往復についての感覚を磨くべきだと私は考える。



■三種類の思考

私たちが「考える」と呼んでいるものは、(1)「(幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考」、(2)「想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考」、 (3)「(鋭い)アイデアを生み出す思考」 の三種(60-61ページ)に分けられる。

⇒実生活体験が豊かな人は(1)が強い。田尻悟郎先生などは、それに加えて(2)も(3)もできる稀有な人だと思う。



■三種類の世界におけるそれぞれの思考

(1)「日常的世界」では「(幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考」、すなわち、ある理解困難な事態を、身近なものに喩えて、前者を後者のアナロジーとして考え、前者を後者のモデルを使って判断していく。 (46ページ)

(2)「分析的な世界」では「想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考」、 すなわち、ある対象を複数の観点から捉え、要素さらには基本的単位に分解し、対象を基本的単位の組み合わせと捉える。 (48ページ)

(3)「構築的なアイデアの世界」では「(鋭い)アイデアを生み出す思考」、すなわち、人間のシンボル体系の不完全性を常に自覚し、そのシンボル体系の部分から現実の全体を回復するべく「ないもの」を想像し、より的確なシンボル体系を作りだすことが行われる。(57-60ページ)

⇒(3)は、やはり(2)の訓練をしていないと困難だと思う。しかし、現実生活でさまざまな問題解決をしていないと(1)が弱く、いくら(2)の訓練をしても(3)に行けないと考える。

きわめて安っぽい言い方になるが、既成のゲームばかりして(1)が貧困で、学校でも受験テクニックしか学ばず(2)を真に経験していなければ、アイデアを出すことは非常に難しいものとなるだろう(それは単に論文が書けないということにとどまらず、現実世界への対応が難しくなることを意味する)。

この点、ある授業の感想として書いてくれた以下の学生さんの述懐が興味深い。

授業内でself-regulationの無い人の例として、「今日の練習は〇〇でいいですか?」と聞いてきた部活のキャプテンが挙げられていましたが、私の感覚からすると正直言って「意外だった」としかいいようがありませんでした。部活に関して言うと私は高校時代に軽音楽部に所属しており2年生からは部長も務めていました。軽音楽部では体育会系のようにコーチがいて、コーチの指示の元で全員が同じ練習メニューをこなすなどということは基本的に行いません。そのため部長である私が顧問の先生のところへ「今日の練習は〇〇をします」などと報告に行ったことは一回もありません。その代わり私たちは部活の活動として各々が楽器を持ち寄ってセッションしたり自分の練習をしたりしていました。したがって私たちは「今日の練習は〇〇でいいですか?」ではなく「今日の練習は〇〇がいいかな、それとも△△の方がいいかな」と現在の技量やバンドの状況などから自分自身で判断する必要がありました。
私自身のこれまでのギター練習でも同じことが言えます。私はギターを人から教わったことがない完全に独学のギター馬鹿です(笑)。 ギターの成長で壁にぶちあたったら何とかして「自分で」壁を越えなければなりませんでした。そのためには壁を超えるには何が必要か、そして今の自分には何が足りないのか、どうすればその足りない分を補えるかを全て自分で考える必要がありました。最もギターを練習したと言える高校時代、私はギター練習をする度に課題を見つけてその課題をどうやって解決するかお風呂やトイレの中、登下校中や授業中などとにかく四六時中考えていました。そして実際にギターを手にして「ああでもない」「こうでもない」と苦戦しながらなんとか練習に励む毎日でした。
また、「どうやったらギターが上手くなりますか」という質問・疑問をよく耳にします。このself-regulationという観点からすると、どれだけ自分のプレイに敏感になるかがポイントだと思います。自分の目標・課題は何か、今何ができるのか、何かできないのか、どうしたら出来るようになるのか、何が原因か、どのような練習が効果的と考えられるかなどとにかく考えて考えて、そして実際に弾いてみて、きっと一筋縄ではいかないだろうからまた最初から考えてまた弾いてみる。どうやったら上手くなるかと聞く人に限ってこのようなプロセスを無視してとにかく短期間で上手くなろうと考えているように感じます。
ギター馬鹿のギター談義になってしまい恐縮ですが、私にとって当たり前だと思っていた考え方に”self-regulation”という理論的な説明がなされるとスッと納得することができました。 



■想像力の活性化

想像力は、(a) 日常的な設定で考える、(b)自分(あるいは具体的な人物になりきった自分)という視点を導入して考える、(c)比喩やアナロジーを導入して考える、と活性化され豊かなイメージが湧きやすい。(75-77ページ)

⇒私が学生さんに繰り返し言うのは、「抽象的な話が続いたら、『たとえばどういうことなのか?』と自問せよ」ということであるが、ある抽象概念を、日常生活の具体的な「例」を「喩え」にして説明しなおし、そこから類似的・類比的・相似的に考えを発展させる習慣を身につけておけば、想像力は活性化されるのかもしれない。

これよりも程度の低い想像力行使だが、新聞記事を読んでも、「これを中学生に面白く伝えるにはどうしたらよいだろう」と想像力をふくらませ、記事内容に「主観的」な要素を入れ込み、聞いていて面白い物語に仕立てることも習慣としておくことは教師の自己訓練の一つかもしれない(私はそれほどテレビを見ていないのでよく知らないが、なぜ池上彰氏の解説はわかりやすいのだろう)。

また、ついつい惰性的な見方しかしない私たちの日常生活を、複数の人物の立場から、多彩な比喩やアナロジーを使い分けながら書き上げる文学作品は、想像力の活性化のためには非常に有効な手段であることも理解していただけるだろう。社会で活躍する人々がしばしば文学的教養を重視することにはきちんとした理由がある。人文系でありながら、文学の価値を認めようとしない英語教育関係者の浅慮に私は我慢がならない。



■「思考力の優れた人」とは

上記の(a)日常的設定、 (b)人物設定、 (c)比喩・アナロジー導入を駆使して、理解し難い対象の構造を見抜く(あるいは措定する)想像力がある人を、私たちはしばしば「思考力の優れた人」と呼ぶ。 (85ページ)

⇒「思考力」には、形式論理の行使以上に、そこにない設定や想定を思いつける想像力の行使が重要である。だが、現在の学校教育は、「結果」を急ぐあまり、あまりに想像力を抑圧していないか。これからの日本を救うのは、学校秀才ではなく、きゃりーぱみゅぱみゅのような人だと私は思っている(笑)。(←スカパーでたまたま彼女のビデオ特集を見たら、結構面白く、ずっと見てしまった 汗)。



■「非凡なアイデア」とは

「非凡なアイデア」とは、上記の(1)日常世界での比喩的解釈思考から、(2)分析世界での分解・統合思考に至り、問題の基本的で本質的な構造を大局的に眺めることができるようになり、さらにそこから導かれる新しい比喩的なイメージ(上記 (c)参照)に敏感である人に訪れる。(96ページ)

⇒この中でも、曖昧模糊としてとらえどころのない「イメージ」の世界のありように敏感であることが特に重要だと私は考える。浮遊する聴覚世界、目の前に広がる視覚世界、身体の中に知覚される体感世界などを豊かに経験する音楽・美術・運動などが実は人間の知性に根源的に重要なのであると私は考える(だから芸術や体育を理解できないエリートを私は決して信用しない)。

RSA Animate - The Divided Brainのビデオ紹介でも書いたが、私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだ。



■数学における論理と想像力

数学において論理は想像力の補佐役である。(99ページ)

「「世界」が立ち上がってくるときに必要な「考える」力の大部分は、「見えないものを眺め、仮定をする想像力」によるものであって、論理はそれに厳密な基礎付けをする際に使われるセメントのようなものなのだ。」(127ページ)

⇒だが私も含めた人文系は、やはり論理を詰めることが得意でないので、どうしても論証が甘く、かつ論の展開も十分にできない。やはり、人文系とて、理数系の論証と論の展開をきちんと体感できるように勉強するべきだ(この点で、私は高校生を早くから「文系」か「理系」に分けて、しかも選んだ科目でも受験テクニックしか教えないような教師を心底憎む)。



■論理の三つの重要な効用

論理には三つの重要な効用がある。(ア)アイデアの真偽を確実に推論することができる。(イ)「真と偽の建築物を、時空を超え、万人が学習可能な方式でアウトプットできる」。(ウ)背理法によってモデルの整合性をチェックすることができる。(101ページ)

⇒私も "Never too late to learn"ということで数学的思考・理系的発想の勉強を時間を見つけて行いたい。(去年、無理やり自分で作った夏休みでは『資本論』を読んだが、今年は『虚数の情緒』を読みたいと思っている)。








■数学世界での発見

数学では、(i)「素材の抽象化と数学世界の発見」、(ii)「帰納・一般化と演繹、拡張」、(iii)「反省的思考」により、ブレイクスルーが生じるとまとめられる。 (114-115ページ)

(i)「素材の抽象化と数学世界の発見」の一例は、オイラーが「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」を「点と辺から成り立つ図形」に抽象化して、グラフ論という新たな幾何学を発見したことである。(117ページ)

(ii)「帰納・一般化と演繹、拡張」に関しては、引き続き「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」を例に使うなら、「帰納」は経験からおそらく「ケーニヒスベルクの橋渡りの問題」は解決不可能ではないかと推測すること、「一般化」はグラフ理論の抽象化により「一筆書き問題」へと新たに問題を展開すること、である。「演繹」はすでに証明されている定理を個々の具体例に当てはめて興味深い結果を示すこと、「拡張」は定理の条件を少し変えたりして類似の命題が成り立つかを研究することである。(119-124ページ)

(iii)「反省的思考」とは、思考方法に対する意識的な反省、つまりは「思考についての思考」(=メタレベルでの思考」であり、この反省的思考が優れていると、ある思考法の長所短所が把握でき、かつ、思考方法の枠組を変えることも可能になる。 (125-126ページ)

⇒私は独立数学者の森田真生先生のセミナーにできるだけ出るようにしている(といってもその回数は悲しいほどに少ない)のだが、そこで学んだことの一つは、数学は歴史的にたどると、人間の発想の展開・進化がわかって非常に面白いということだ。遠山啓『現代数学入門』(ちくま学芸文庫)も面白かったけれど、これからも数学史の本を(私が理解できる範囲だけれど)積極的に読んでゆきたいと思う。それこそが根源的なところで「生きる力」につながると私は真剣に思っている(狭い業界で量産されている論文ばかり読んでいると、私は無性に芸術や哲学の世界を欲するようになる。哲学書に加えて数学関係の本も私の好みの書籍にしたい)。



■「Xとは何か」という概念把握

「Xとは何か」と、ある概念の意味を問う思考では以下の四つの理解が大切である。

(A) 比喩的な理解:適切な喩えを見出して理解する。

(B) 差異の理解:既知の概念との違いを理解する。

(C) 有用性の理解:概念がなぜ必要になったのかを理解する。

(D) 具体例の理解:概念が具体的に使用されている例を通して理解する。(153ページ)

⇒学校秀才は、こういった多面的な概念把握がほとんどできない。教員採用試験対策にしても英語資格試験対策にしても、多くの学生さんはX, Y, Zといった新しい概念や単語を次々に丸暗記するだけで、上記の(A)から(D)の理解を試みようともしない。だから一問一答式クイズ形式では答えられても、学んだはずの概念や単語が悲しいほどに使えない。面接対策でも、英語発話でも、知っているはずの概念や単語が、驚くほどに出てこない。また、それらの概念や単語が別の文脈で使われていたら、それらを適切に理解することすらできないこともしばしばである。

「それは、わかりやすく言うならどういうことなのか」(比喩的理解)、「それは○○とはどう違うのか」(差異理解)、「それは何のためにあるのか」(有用性理解)、「それは例えばどのように使われるのか」(具体例理解)を尋ねられた学生さんは、しばしば絶句する(学生さんの中には「ボクはマジメに暗記してきたのに、どうしてそのことをホメてくれずに、そんな意地悪な質問をするんですか」と言わんばかりの表情を示す人もいる)。





本書の著者も言うように、学校教育関係者は、想像力を再評価することが必要です。


また、論文執筆で苦しんでいる学生さんも、たまには目先を変えて本書のような書を読んでみてはいかがでしょう。










追記

本書の著者はレイコフには言及していても、マーク・ジョンソンには言及していないが、ジョンソンは『心の中の身体』で想像力の働きを強調している。


そういえば、ジョンソンのThe Meaning of the Bodyも買ったままで読んでいない。こういった本質的な読書をしなければ!







さらに思い出した(泣)。ホフスタッターの新刊(Surfaces and Essences)も買っただけだし、I Am a Strange Loopも途中まで読んでそのままにしている・・・ゆっくり読書をする時間がほしい!!!



   



 







2013年6月19日水曜日

Common European Framework of Reference for Languagesの摘要





以下のCommon European Framework of Reference for Languages(以下、CEFR)に関する記述は、学部4年生向けの授業『地球的言語としての英語』の補助資料です。2013年度は、English Next: Why global English may mean the end of 'English as a Foreign Language'と、このCEFRを毎週少しずつ読み討議を重ねることを授業内容としています。



なお、CEFRの文書は以下のURLからPDF形式でダウンロードできます。



Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment (CEFR)

http://www.coe.int/t/dg4/linguistic/Cadre1_en.asp




CEFRは書籍形式で市販もされています。







今回の授業では、日本で等閑視されているCEFRの理念の部分(Chapter 1-2) およびCEFR制定作業の基礎となった技術的な部分(Appendix A)を読みます。

私は2000年代中頃に、初めてCEFRを読み、その理念であるplurilingualismに非常に共感しました。 (なおplurilingualismは、日本では通常「複言語主義」と訳されていますが、私は「複合的言語観」もしくは「複合的言語使用」と訳した方がいいのではないかと最近思っています(参考:"-ism"を馬鹿の一つ覚えみたいに「主義」と訳すなかれ)。以下、「複言語主義」、「複合的言語観」、「複合的言語使用」はどれも"plurilingualism"を指す用語としてお読みください)。



以下は、私がplurilingualismについてWeb上に書いたものの一部です。



複言語主義(plurilingualism)批評の試み
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html#071127
もしくは
広島大学学術レポジトリ
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033694


国立国語研究所講演:
単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html


"-ism"を馬鹿の一つ覚えみたいに「主義」と訳すなかれ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/09/ism.html




上記の国立国語研究所講演でも提示しましたが、plurilingualismが想定するplurilingual and pluricultural competence(「複合的言語文化能力」と訳します)の中核は、以下の箇所に示されています。



Plurilingual and pluricultural competence refers to the ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct competences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001, p. 168)

複合的言語文化能力が意味するのは、複数の文化での経験をもつそれぞれの人間が、複数の言語をさまざまな度合いで使いこなすことができ、それぞれに社会的主体として、コミュニケーションの目的に応じて複数の言語を使い分け、複数の文化が混在する状況でのやりとりに参加することができることである。この能力は、それぞれに独立した別々の言語能力を積み木のように縦横に並べたものと考えてはならない。複合的言語文化能力は、一つの複合的な能力で、もはや分離することができない一つの化合物ともいえる能力であり、この能力を人は状況に応じて使いこなすのである。




この説明に加えて、国立国語研究所講演では次の解説も加えました(一部修正しています)。



多言語使用と複合的言語使用

「多言語使用」 (multilingualism) が、ある国で一つ以上の言語が公式的に使われているという制度的な概念であるのに対して、「複合的言語使用」 (plurilingualism) はある人間が、自身の生活において一つ以上の言語を状況に即して使いこなしている状態を指す。欧州評議会は、‘plurilingualism’という用語を、その状態を可能にしている事実的な能力概念としても、欧州が欧州として統合されるために重要と考える教育的な価値概念としても、区別しながら使用している。日本における議論でも、事実概念と価値概念の区別は重要である。



母語話者規範からの離脱

複合的言語使用は、複数の言語を同等に使うのではなく、例えば複数の言語を、様々な用途目的のために、それぞれに異なる度合いで使いこなすことである。その度合は、母国語話者・母国語話者に準ずるものから極めて初歩的なものまで様々である。複合的言語主義は、学習者に様々な用途目的において一様に母国語話者並の言語力を求めるものではない。第二言語教育において単一言語主義を強要することは、学習者の第一言語を無視するだけでなく、目標言語の中の様々なジャンルという多様性を見失っている点でも批判されるべきである。どのジャンルにおいても一様に素晴らしい母語話者という理想的存在の能力を第二言語教育の規範とすることは止めるべきである。




しかし、この「複合的言語使用」と「母語話者規範からの離脱」は、日本ではどうも軽視され、「英語の授業はとにかく英語だけで行わねばならない」という単一言語主義が頑なに主張され、かつ、文部科学省の「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」について(2011(平成23)年)が出るや、いわゆるCAN-DOリストの作成の点からばかりでCEFRが取り上げられています。(昨年度は、大げさに言うなら、どこの英語教育研究会にいってもCAN-DOリストの講話ばかりが話されていたようでした ― 私は、いわゆる「世間」や「お上」が「右」というと一斉に「右向け右」になる日本の英語教育界の体質にどうも馴染めませんし、時に怖いものを感じてしまいます)。

単一言語主義(monolingualism)批判については、とりあえず下記の本を読んでいただくとして、ここではplurilingualismについての前書きをもう少し続けます。











中央教育研究所の研究報告No.80にはCEFRに関する記事が複数掲載されていますが、ここでは鳥飼玖美子先生の文章の一部を紹介します。



「自律した学習者を育てる英語教育の探求」
―小中高大を接続することばの教育として― (PDF版)
http://www.chu-ken.jp/pdf/kanko80.pdf




鳥飼玖美子先生は、日本の「CAN-DOリスト」偏重について以下のように述べます。

日本では、「何ができるか」を表示する「能力記述」 (Can Do descriptors/statements) だけに関心が集中しているが、CEFRの本来の意義は、「複言語主義 (plurilingualism)」という新たな理念にある。EUは設立以来、母語を話すことは人間の基本的人権であるとして「多言語主義 (multilingualism)」を標榜し、言語と文化の多様性を推進してきた。そのような「多様性の中の統一 (United in Diversity)」に基づき平和のための相互理解を実現するには、互いの言語を学び合うことが重要であるという認識から生まれたのが、すべてのEU市民が母語以外に二つの言語(外国語だけでなく国内の少数言語でも構わない)を習得するという「複言語主義」である。

複数の言語を学習することにより、言語同士が相互の関係を築き、新しいコミュニケーション能力を創りあげるという「複言語主義」によれば、「理想的母語話者」を最終的な到達目標にするべきではないし、言語学習は学校教育の場で終わらず生涯にわたり続くものであり、教育責任はむしろ「自律した学習者」の育成にある。そのような言語教育についての斬新な理念を学習と教育の場において具現化する為に考案されたのが、どのような言語であっても、学習者の言語熟達度をきめ細かく評価することを可能にする「共通参照枠」である。これは、EU域内での移動と就労を容易にするという実利的側面も無論あるが、現代語を学ぶことにより相互理解につなげる、という理想が柱になっていることを見逃してはならない。

CEFRは日本にも導入されつつあり、2012年3月には東京外国語大学科科研グループによる日本版CEFR-Jが発表され、2011年に文科省が発表した『「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」について』においても、提言1「生徒に求められている英語力について、その達成状況を把握/検討する」で、英検やGTEC for STUDENTSなどの活用の他に、「国としての学習到達目標を「CAN-DOリスト」の形で設定することに向けて検討を行う」ことが明記されている。複言語主義の思想が参照されることはなく、本来は「評価の尺度」である能力記述だけが取り出され、英語教育における「学習到達目標」として、CAN-DOが一人歩きを始めた感がある。 (鳥飼 2013, pp. 4-5)




この授業でも、CAN-DOリストの一人歩き、それに伴ってさらに蔓延しそうな、理念を欠いた技術的言語教育観、あらゆるものを平準化しようとする物差しですべてを管理しようとする現代的な権力観、さらにはすべてを競争させることが善だと信じて疑わないような新自由主義的発想などを警戒しつつ、かつCEFRのねらいを正確に理解することを目指して、以下にCEFR(の一部)を概説してゆきます。授業を受講する皆さんは、まずこのまとめをチェックしてから原文を読んでください。

まとめは大意だけの簡単なもので、※印がついた文は私の個人的コメントです。また、CEFRは広く普及することを目指した公的な文章ですので、ここでは比較的多くの原文を抜粋する予定です(訳は拙訳 ― 日本語としての読みやすさを優先した意訳― です。出版されている翻訳には、『外国語教育〈2〉外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』があります)。









Chapter 1

The Common European Framework in its political and educational Context.



1.1 What is the Common European Framework?

・CEFRは、共通の枠組みを示すことにより、ヨーロッパの現代言語教育専門職の間でのコミュニケーションで支障が生じないようにすることを意図している。 (p. 1)

・コミュニケーションおよび言語教育は全人的で社会的でなものである。部分に分割された能力を、全人的・社会的に統合することは、教師及び学習者に委ねられなければならない。

コミュニケーションは全人的な行為である。以下、[このCEFRでは、コミュニケーション] 能力を分解し分類するが、それらの部分的能力は、それぞれ独自の人格の成長の中で複合的に相互作用する。社会的行為主体としての個々人は、相互に重なり合いながらますます広範囲に及ぶ社会的集団の連なりの中でさまざまな関係性を形成し、その人なりのアイデンティティを形成する。間文化的アプローチでは、言語と文化における他者性を豊かに経験する中で、学習者の全人格とアイデンティティの感覚が望ましい成長をすることが言語教育の中心的目的となる。多くの部分を一つの健全に成長する人間存在に再統合する課題は、教師と学習者自身に委ねられなければならない。

Communication calls upon the whole human being. The competences separated and classified below interact in complex ways in the development of each unique human personality. As a Social agent, each individual forms relationships with a widening cluster of overlapping social groups, which together define identity. In an intercultural approach, it is a central objective of language education to promote the favourable development of the learner's whole personality and sense of identity in response to the enriching experience of otherness in language and culture. It must be left to teachers and the learners themselves to reintegrate the many parts into a healthily developing whole. (p. 1)




1.2 The aims and objectives of Council of Europe language policy

・CEFRはCouncil of EuropeのReccomendation R (82) 18とR (98) 6に基いている。(p. 2)

・R (82) 18では以下の三原則が示されている。

(1) ヨーロッパの多様な言語と文化の遺産は保たれより豊かにされるべきものである。ヨーロッパはその多様性を、コミュニケーション上の障害から、相互の充実と発展のための源泉と転換しなければならない。

(2) コミュニケーションのためにはヨーロッパ言語の知識を互いに増やさなければならない。

(3)加盟国は相互の協力と協調でヨーロッパとしてのまとまりを得ることができる。



・R (98) 6は現代言語の分野での政治的目的を確認している

(※ 「言語教育は政治と関係ない、純粋に技術的に問題だ」という政治的に無自覚な態度は時に大悪・大罪につながりうる。政治的無自覚とは、脱-政治的な態度ではなく、時代の権力におもねった怠惰であることが多いことを忘れないでほしい。)

関連記事:「日本のエリート」とは
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_12.html







(1) 国際的に移動し互いに協力することがより求められているという課題に、すべてのヨーロッパ人が対応できるようにする。

(2) 国際的なコミュニケーションを促進し、相互の理解と寛容、アイデンティティと文化的多様性を促進する。

(3) ヨーロッパ文化の豊かさと多様性を保つ。

(4) ヨーロッパの多言語・多文化状況に、言語・文化の枠を超えたコミュニケーションで対応する。

(5) コミュニケーションのために必要な技能をもたない者たちを周縁に追いやってしまう危険を回避する。 (pp. 2-3)


・外国人嫌い (xenophobia)と超国家主義という反動は、ヨーロッパの機動性と統合にとっての第一の障害であり、ヨーロッパの安定と民主主義の健全な働きにとっての大きな脅威である。(p. 4)

※この記事を書いている2013年の時点で、日本でも外国人嫌いや超国家主義といった反動は、ヘイトスピーチ (hate speech)といった形でますます激化している。特に日中韓関係には懸念事項が多い。この点で、私たちはplurilingualismに学ぶ必要性はますます高まっているといえる。

毎日新聞の2013年6月18日の記事は以下のように伝えています。

特定の民族や人種を汚い言葉でののしる「ヘイトスピーチ(憎悪表現)」。在日コリアンが多く住む地域を中心に昨年から毎週のようにデモが行われ、16日にはカウンターと呼ばれる反対派との衝突で逮捕者も出る事態となった。日章旗や旭日旗をはためかせ、差別をあおる真意は何なのか。現場を歩いた。【小泉大士】

 「ゴキブリ、ウジ虫、朝鮮人。お前らを一匹残らずたたきつぶす」

 16日午後3時。韓国料理店や韓流ショップが並ぶ東京・新大久保の大久保通りで在日コリアンの排斥を掲げるデモが始まった。

 拡声機で激しい言葉を浴びせるのは、デモの主催者で「行動する保守」を掲げるグループ「新社会運動」の桜田修成氏。インターネットの告知や口コミで集まった参加者は約200人(警視庁調べ)。20?30代を中心に男性が約8割を占めるが、女性会社員風や年配女性、ベビーカーを押しながらの女性もいる。

 「いつまで差別を楽しむのか。恥ずかしくないか」。怒声を上げたのは、今年1月に音楽業界の関係者らで発足した「レイシスト(差別主義者)をしばき隊」ら反対派。「それは主張やない ただの暴言や」などと書かれたプラカードを歩道で無言で掲げる「プラカ隊」なども合わせ約350人に上る。

 小競り合いで顔から血を流した男性も。「帰れ、帰れ」。反対派のシュプレヒコールが過熱すると、機動隊員が「朝鮮人ハ皆殺シ」などと書かれたプラカードを持って行進するデモ隊との間に割って入った。(以下、略)





毎日新聞はジャーナリストの安田浩一氏のコメントも掲載しました。

 参加者は、必ずしも「貧しく仕事がない若者」ばかりではない。サラリーマンや主婦、公務員など多様だ。ただし「自分たちは被害者」という意識は共通する。社会の主流から排除され、言論は既存メディアに奪われ、社会福祉は外国人がただ乗り??という思い込みや憎悪でつながる。

 彼らをつなげているのがインターネットだ。ネット上で個人を攻撃する「まつり」を、そのまま路上へ持ち出している。攻撃の対象は「在日」でなくとも、「マスゴミ」「生保(ナマポ)」(生活保護受給者)でもいい。

 彼らは「愛国者」を自称しているが、本当は「国から愛されたいと渇望する者たち」ではないか。経済成長が望めず、社会が不安定化する中で、自分たちが守られているという実感を求めている。だがそこには、自らが傷つけている他者の痛みへの想像力と、差別者だという自覚が決定的に欠けている。(談)



安田浩一氏は、著書『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』により日本ジャーナリスト会議賞および第34回講談社ノンフィクション賞を受賞しました。






この本に関する安田浩一氏のインタビューは以下で読むことができます。


安田浩一「ネット右翼と愛国の正体」

http://g2.kodansha.co.jp/279/280/15166/15167.html


もし英語教育が、少しでも本気で「国際理解」や「グローバル化」や「グローバル人材」について語っているのなら、英語教育関係者がまさにこの国内で起こっているヘイトスピーチの問題を無視してはいけないと私は考えます。もし見て見ぬふりをするなら、私はそんな人の「国際理解」などのお題目は信じません。とはいえ、かく言う私もまだ何も行動できていないのですが・・・



1.3 What is 'plurilingualism'?

・言語能力とは次第に拡張し多様化し、それでいて相互連動的に統合されるものである。

複合的言語観に基づくアプローチが強調する事実とは、一個人の言語経験が文化的文脈において広がるにつれ ―言語経験は家庭から社会一般へ、そして(学校や大学で習うにせよ、経験から直接に学ぶにせよ)他の民族の言語と広がる―、その個人はこれらの言語や文化を分離してしまった形で心に留めるのではなく、言語についての知識と経験がすべて活き、すべての言語が相互に関連し作用するコミュニケーション能力を発達させる、ということだ。状況が変われば個人はこのコミュニケーション能力の異なる部分を柔軟に活用し、その状況での対話相手と効果的にコミュニケーションを行うことができる。

the plurilingual approach emphasises the fact that as an individual person's experience of language in its cultural context expands, from the language of the home to that of society at large and then to the languages of other people (whether learnt at school or college, or by direct experience), he or she does not keep these languages and cultures in strictly separated mental compartments, but rather builds up a communicative competence to which all knowledge and experience of language contributes and in which languages interrelate and interact. In different situations, a person can call flexibly upon different parts of this competence to achieve effective communication with a particular interlocutor. (p. 4)




・ある言語をわずかでも知っていれば、その言語でのコミュニケーションにおいてそれなりに役立つことができる。このことからすれば、ある特定の言語だけを完璧に習得しようとして(おそらくはそれに失敗し)その他の言語習得など考えもしないように学習者を仕向けることは、言語教育が行なってはいけないことである。

この観点からすれば、言語教育の目的は根本的に変えられる。言語教育は、もはや単純に「理想的な母語話者」を究極のモデルとして一つか二つあるいは三つの言語を別個に「極める」ことであるとはみなされない。新しい考え方が目的とするのは、個人が有するあらゆる言語能力がそれなりの役割を果たす言語的な備えを充実させることである。もちろんこのことにより含意されるのは、教育機関で提供される言語は多様であるべきだし、学習者が発展させるべきなのはは複合的言語能力であるということだ。さらに、言語学習とは生涯にわたる課題であるということが認識されるなら、若い人が学校外で新しい言語に接したときの、やる気・技能・自信を育てておくことは中核的に重要なこととなる。ある特定の言語がある特定の時期にある特定の熟達度に達しているということはもちろん大切なことであるが、教育当局・認可団体・教師の責任はそこにとどまるものではない。

From this perspective, the aim of language education is profoundly modified. It is no longer seen as simply to achieve 'mastery' of one or two, or even three languages, each taken in isolation, with the 'ideal native speaker' as the ultimate model. Instead, the aim is to develop a linguistic repertory, in which all linguistic abilities have a place. This implies, of course, that the languages offered in educational institutions should be diversified and students given the opportunity to develop a plurilingual competence. Furthermore, once it is recognised that language learning is a lifelong task, the development of a young person's motivation, skill and confidence in facing new language experience out of school comes to be of central importance. The responsibilities of educational authorities, qualifying examining bodies and teachers cannot simply be confined to the attainment of a given level of proficiency in a particular language at a particular moment in time, important through that undoubtedly is. (p. 5)




1.4 Why is CEF needed?

・CEFRはヨーロッパの言語教育の「透明性と一貫性」(Transparency and Coherence)のためにも必要である。 (p. 5)



1.5 For what uses is CEF intended?

・CEFRは言語学習プログラムや言語能力認証 (language certification)あるいは自己学習(self-directed learning)を計画する際に使用できる。(p. 6)

・プログラムや認証は、総合的(global)でありながら、分割可能(modular)で重みづけ(weighted)もでき部分的(partial)でもありうる。(p. 6)



1.6 What criteria must CEF meet?

・CEFRが機能するためには、CEFRは包括性 (comprehensive)、透明性 (transparent)、一貫性 (coherent)を充たしていなければならない。 (p. 7)

・包括性・透明性・一貫性を有した枠組を作っても、そのことによってその枠組を唯一不変のシステム(one single uniform system)と考えてはならない。CEFRが目指しているのは、多目的性 (multi-purpose)、柔軟性 (flexible)、開放性 (open)、力動性 (dynamic)、使いやすさ (user-friendly)、非-教条性 (non-dogmatic)である。

※この規定にもかかわらず、日本ではCAN-DOリストなどが唯一不変のシステムとして扱われようとしていないだろうか?







2 Approach adopted




※第2章は、CEFRの骨組みを概説した章だといえる。主な骨組みは以下のように図示できる(クリックで拡大)。








2.1 An action-oriented approach

・CEFRでは行為志向のアプローチを採択している。

ここで採択しているアプローチは、概して言うなら、行為志向のアプローチと言える。なぜならここではある言語の使用者と学習者を何よりも「社会的行為主体」とみなしているからである。社会的行為主体とは、社会の一員として(言語に関連したものにだけに限らない)課題に、ある特定の状況・環境・行為分野で取り組まなくてはならない者のことである。

The approach adopted here, generally speaking, is an action-oriented one in so far as it views users and learners of a language primarily as 'social agents', i.e. members of society who have tasks (not exclusively language-related) to accomplish in a given set of circumstances, in a specific environment and within a particular field of action. (p. 9)




・一般的能力 (the general competences) には、知識、技能、実存的能力、学ぶ力が含まれる。(p. 11)

・知識 (knowledge)とは、ここでは宣言的知識 (declarative knowledge)を意味する。 (p. 11)

・技能 (Skills and know-how) とは、ここでは(※そのようには明記されていないが)手続き的知識を指している。 (p. 11)

・実存的能力 (existential competence)とは、個人の性格・人格的特徴・態度の総和 (the sum of the individual characteristics, personality traits and attitudes)であり(p. 11)、例えば社会的交流における自己像・他者像・意欲 (self-image and one's view of others and willingness to engage with other people in social interaction)と関わっている。 (p. 12)

・学ぶ力 (ability to learn) とは、知識・技能・実存能力などを総動員する力であり、また、「他者性」をいかに見出すか、また、見い出せるような出会いをするか、であるとも考えることができる (Ability to learn may also be conceived as 'knowing how, or being disposed, to discover "otherness")。 (p. 12)



・言語的能力、社会言語学的能力、語用論的能力については、応用言語学での定義にほぼ準じたものである。ただし、ここでの「語用論的能力」には、ディスコースやテクストの特性を理解した上でそれらを使いこなす能力も含まれている。 (p. 13)

※能力論はCEFRの第5章で詳しく展開される。



・言語活動 (language activities)には、受信 (reception)、発信 (production)、相互作用 (interaction)、仲介 (mediation) がある。 仲介には翻訳・通訳、言い換え、要約・記録 (translation or interpretation, a paraphrase, summary or record) があり、複数の言語間あるいは単一の言語内での言い換えを行う。これらにより多言語使用状況でのコミュニケーションも可能になる。 (p. 14)

※この分類は当たり前のようにも思えるかもしれないが、日本の英語教育界では、相互作用が明確に意識されなかったり、仲介があからさまに排斥されたりしていることに注意しよう。



・領域 (domain)において、言語活動が文脈化される。領域を大まかに分けるなら、公的領域 (public domain)、私的領域 (personal domain)、職業領域 (occupational domain)、教育領域 (educational domain)の四つに分けられる。 (pp. 14-15)

※これまた当たり前のことしか言っていないようだが、日本の英語教育界の論争はしばしばこれらの領域を区別しないままに行われていることに注意しよう(例:職業領域での英語使用の必要性を痛感するビジネスマンが、教育領域での英語学習を役立たずと断言する。あるいは、おそらく公的領域での英語使用のための学習を求められている大学において、「英会話」と呼ばれる私的領域での英語使用・学習がもてはやされている、など)

・タスクとストラテジーとテクストは、コミュニケーションと言語学習において相互関連している。(p. 15)

※タスクについては松村昌紀先生による『タスクを活用した英語授業のデザイン』がすばらしい。言語教育におけるタスクについて語る者にとっての現時点での必読書だと言える。







2.2 Common reference levels of language proficiency

・共通基準枠は、三次元あるいはそれ以上の次元で表現されうるものである (p. 16)。

※ただし英語教育論がヒステリックになると、「英語力」はしばしば単一次元だけで語られることに注意しよう。



・能力や発達が、異なる人びとにおいて同一ということはありえない。

母語話者であれ外国語学習者であれ、ある言語を使う者が二人いたとしたら、その二人の能力や、能力発達の過程がまったく同じであるということはありえない。

No two users of a language, whether native speakers or foreign learners, have exactly the same competences or develop them in the same way. (p. 17)


※既に気づいているかもしれないが、CEFRではcompetenceを複数形 (competences)でも使っている。この使い分けに注意しよう。「コミュニケーション言語能力」は複合的であり、それらが異なる人間の間でまったく同じということは考えがたい。しかし、英語教育の現状では、TOEICやTOEFLの得点で能力がしばしば一元化されている。このように単純な考えに基づいた議論が、複雑な現実を打開できるとは私には思えない(もちろんそのような単純な論を振り回す人は、現実世界の問題解決ではなく、言い合いによる憂さ晴らしを求めているだけなのかもしれないが)。



2.3 Language learning

(省略)



2.4 Language assessment

(省略)











2013年6月12日水曜日

小林敏宏・音在謙介(2007)「『英語教育史学』原論のすすめ」、(2009)「『英語教育』という思想」(拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』)





授業(地球的言語としての英語)の準備をしていて、初めて小林敏宏先生と音在謙介先生の共著論文の存在を知りました。英語教育界というのは狭い世界のはずなのに、両先生のことを知らなかったのは私の不覚でした(私はできるだけ視野を広くしようと試みているつもりなのですが、やっぱりまだまだ駄目だなぁ)。

読んでみますと、非常に啓発的であり、日本における「英語教育」という営みを読み解くための原理的な視座を提供してくれる素晴らしい論文でしたので、これらの論文は、現在準備中の授業用ブロク記事の中で紹介するのではなく、独立したブログ記事で紹介させていただくことにしました。

「啓発的」や「原理的」と言いますと、「研究業績につながらない」とか「明日の授業に役立たない」とすぐに敬遠する英語教育関係者は(悲しいことに)多く存在しますが、私は現職英語教師が日々面している現実を理解し、少しでも事態を打開するためには、こういった研究は必須だと思っています。

逆に、挑発的な言い方をしますならば、「研究論文の体裁は一応整っているが、読んでも少しも面白く無い論文」や「自らのあり方や生徒理解を少しも変えないままに採用できる小手先のテクニック」あるいは「時々の教育行政方針に付和雷同的に迎合しただけの講演」などが、山のように集まっても、それは何ら現実の理解にも打開にもつながらないのではないでしょうか(そして、このことは歴史を振り返れば自明だとすら言えませんか?)



私としては、小林先生と音在先生の二本の共著論文を読み、非常に学ばせていただきました。この学びは、もっと自分の中で咀嚼しなければなりませんが、咀嚼されるにつれ、それは私の血肉となり、思いもかけない形で、「英語教育」という営みに対して新しい理解や行動をもたらしてくれることを確信しています(私はこれまで、抽象的・原理的な学びを深めずに、具体的・個別的な事象に対応すれば、それは皮相で通念的な理解と行動の再生産だけに終わることを経験的に痛感してきました)。



今回私が読んだ論文は2007年と2009年に刊行されたものです。私は最近非常に忙しくしており、両論文の批評はもちろんのこと、的確なまとめすらもできませんが、以下、私が個人的に印象的だった部分を抜粋します。(これらの論文はすでに正式にウェブで無料公開されていますので、自由に広く共有されることを欲しているpublic domainの作品だと私は考えます。よって、以下では多くを引用しています)。





小林敏宏・音在謙介 (2007)

「英語教育史学」原論のすすめ : 英語教育史研究の現状分析と今後の展開への提言

拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.17,pp.34-67

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006405638




この2007年の論文は、続く2009年の論文を読むためにも、ぜひとも読んでおきたい論文です。この2007年論文では、私たちが惰性的に「英語教育」と呼んでいる営みを考えるための基本的視座が提示されています。こういった原理的理解なしに、「英語教育」に関するさまざまな言説に身を晒しても、私たちは、"English"と日本の歴史・社会的文脈で形成された「エイゴ」や、単に技術的な"Teaching"と国家によって運営される「キョウイク」の区別に注意を払うことなく、声の大きな者や(SNSでさらに加速した)流行り廃りに振り回され、右往左往するだけでしょう ― 昨今の、楽天・三木谷氏によるTOEFL導入への拘り、およびそれを受けての英語教育関係者の狼狽(あるいは思考停止)もこの視点から考えることができます(参考:江利川春雄「自前の『到達度試験』かTOEFLか?」)。



小林先生と音在先生は次のようにまとめています。


したがって、私たちは「日本(人)」の「英語」の「教育」の系譜を論じるにあたって、以下の様な基本的な問いを常に自ら発していなければならない。

・「近代日本」とは何であったのか?

・「近代日本」は「現代日本」とどこが同じで、どこが異なるのか?

・「国民(=日本人)」とは何か?それはいつ誕生したのか?

・「英語教育」は「国民(=日本人)」の誕生にどのような役割を果たしてきたのか?

・「英語教育」を受けた過去と現在の「国民(=日本人)」の自画像は、私たちの感性の中で常にゆるやかにズームアップされてきた「欧米」像に向き合う中で、どのような変化を遂げてきたのだろうか?

・それが英語教育制度の誕生・発展・確立のプロセスにどのような影響を与えたのだろうか?

・「英語教育」は「国民文化形成」を発展させた「国語」にどのように貢献してきたのだろうか?

・「日本」の「国語」教育問題は欧米(とくに英米)の「国語(英語)」教育とどのような構造的類似性をもっているのだろうか?(小林2005参照)

「日本の英語教育」によって「国語国民」教育はどのように創出・発展・維持・変容してきたのだろうか?

これらの問いに的確に応えることが現在の「日本英語教育史」研究には求められると言ってよいであろう。 (小林・音在 2007, p.47)




「はぁっ!『近代日本』や『国語国民』? オイオイ、俺達は英語教師だろう?そんな専門外の話をせずに、まずは生徒に英語を教えろよ!」と思われる方もいるかもしれません。私も英語教授の技術的な側面にこだわる職人気質をもった人間ですが、「近代日本」や「国語国民」などといった概念が、「英語教育」― "Teaching of English"の訳語ではなく、日本の学校教育での「エイゴキョウイク」として読んでください― の専門外であるという論には賛成できません。どうぞ小林先生と音在先生の論文をお読みください。あるいは、こういった問題にこれまでまったく関心がなかった方は、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき ― 英語の世紀の中で』(筑摩書房)を先に読んだ方がいいかもしれません。







「いや、そんな暇すらない!」とあくまで強情な方は(笑)、せめてこの論文でも引用された川澄哲夫氏の警句をお読みください。

「このように、戦後ますます邪道に陥っていった英語教育に、一つの正しい方向を示したのは、英語教師以外の人たちであった。英語教師たちは、文化だ、教養だとりっぱな目的を掲げてきたが、その目的どおりに英語が教えられてはこなかった。彼らの多くは歴史的・社会的な視点に欠け、現実から遊離した考え方しかできなかったからである。こうしてみると今日の英語教育の問題は、英語教師たちだけの手におえないところにまできているといっても言い過ぎではないであろう」(川澄 1979 p.136)

川澄哲夫 (1979) 「英語教育存廃論の系譜」 現代の英語教育1『英語教育問題の変遷』研究社


そういえば、川澄哲夫氏が編纂した『資料日本英学史 2 英語教育論争史』私が学部時代に英語教育に関して読んだ和書の中で、心底面白いと思えた数少ない本の一冊でした(洋書でしたらWiddowsonのTeaching Language as Communicationでしたが)。











もう一つの2009年の論文は、以下のものです。




「英語教育」という思想

―「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成―

拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.21,pp.23-51

http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/files/cltrl_sciences_21.pdf




印象的だった箇所は以下などです。



まず両先生は、日本国家の営みとしての公教育の中の教科としての「エイゴキョウイク」と、単に技術的な意味しかもたないが現在はglobalizationの波に乗っている"Teaching of English"との葛藤を次のようにまとめます。(原著論文のルビは、( )で表記します)


「英語教育」(エイゴキョウイク)の世界は、日本社会の競争原理(立身出世主義)と平等原理(四民平等主義)という2つの相矛盾する価値観がせめぎあう社会階層選別調整の場としても機能することになった。しかしその日本型「英語教育」(エイゴキョウイク)は、グローバルで脱「国民国家」を志向する経済・文化の「市場」原理によって解体されつつあり、「英語教師」は「英語」(エイゴ)の「教育」(キョウイク)者ではなく、語学の専門技術者(テクノクラート)」として特化することを要求されるようになってきている。現在、その「英語教師」の多くが「国民国家」の「学校」という「教育」の現場で脱「国民国家」を施行する「コミュニケーションエイゴ」(TOEICやTOEFL等)という「商品」(コモディティー)の販売促進に力を注ぐことを期待されるようになっているのである。しかしこれまでの日本型「英語教育」(エイゴキョウイク)の関係者たちは、その「商品」を国際的に(脱「国民国家」の論理において)取引する「市場(競争)」の原理に対して無防備のままさらされている。日本の「英語教育」(エイゴキョウイク)関係者たちは市場原理により拡張するグローバリゼーションにリンクされた「英語教育」(イングリッシュ ティーチング)に大きな戸惑いを感じている。現在(特に戦後の平和期)、特に"業界"の関係者は「英語教育」(エイゴキョウイク)というコトバをごく自然にそれも頻繁に使ってきたが、この一見平和で当たり前な言語感覚の中に「英語」(エイゴ)の「教育」(キョウイク)に対する文化政治的無意識が醸成されていることにいち早く気付くことが大切である。なぜなら日本という国家において「英語」(エイゴ)はれっきとした一つの政治・社会問題だからである(中村 2004)。 (小林・音在 2009 p. 27)




私は以前"TESOL" (= Teachers of English to Speakers of Other Languages)の知見を、日本人英語教師がそのまま応用することに対して警戒心をもっていましたが、「エイゴキョウイク」に関しての考察はまだまだ不十分であったことをこの論文に教えられました。

両先生は、「英語教育」と「国語教育」の連関について、以下のようにまとめます。

19世紀末から20世紀初頭にかけて国民国家としての近代日本が本格的に誕生し、「国語」によって「国民」を創出する「国民教育」制度が確立された。「国民教育」とは「国語」によって「全人格」を陶冶する「人間教育」のことであり、「「国語」という思想」(イ 1996)を「学校」制度の中で培養し、「国民(戦前は「臣民」)という「共同幻想」(吉本 1968)を具現化する社会装置であった。またその「共同幻想」を内部から強化する言語が「国語」であったとするならば、「英語」はその「幻想(自画像)」の鏡像(mirror image)を外部から補強する「外・国語」として機能した。(小林・音在 2009 p. 28)


昨今、日本の「英語教育」での日本語使用に対しては、英語教育界以外の方々だけでなく、文部科学省からも、抑制的であれ(あるいは端的に使用するな)と言われていますが、従来の「英文解釈」という「エイゴキョウイク」の営みが、国語教育でもあったことは否定できない歴史的事実でしょう。(この記事末尾の関連記事をご参照ください)。

英文法についても、両先生は次のようにまとめます。

このように「学科」の中に特化された「英語」(エイゴ)の「教育」は「国語の標準化」のためにも重要な役割を果たすこととなった。そして「国民」の「規格化」と「選別」を実現するためにも、「受験英語」の「英文法」は「国語」の文法の意識化と標準化をうアンガスことにも大きく寄与することとなった。「英語」(エイゴ)教師が「外・国語」として象徴的な「統一文法としての言語」を教える集団として組織されてこそ「国民教育」がより効率的に可能になると岡倉は考えていたと思われる。「英語科教育」の中でも、特に英「文法」解釈教育は、「国語」(コクゴ)をもって「英語」(イングリッシュ)を「英語」(エイゴ)化し、「英語」(エイゴ)によって「英語」(イングリッシュ)を消化(「支配(subject)」)するためには不可欠な国民教育の知的鍛錬法となった。しかしその結果、「英語」(エイゴ)をマスターすることが「英語」(イングリッシュ)をマスターすることであるという「神話作用」が「英語教育」(エイゴキョウイク)という「共同幻想」の中に働くようになった。(小林・音在 2009 p. 40)


両先生はさらに、近代化の中で日本化された(そして「国民教育」としては日本化されざるを得ない)「エイゴキョウイク」が、しばしば近代化以前(あるいは近代化の端緒期)の「英学」と混同されることについて次のように書きます。

20世紀から現在に至るまで、「英学」(エイガク)(English learning)の世界(「英学本位制」)で主体をもった社会層向けの「英語教授」によって一部のエリートが「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)することに成功したように、「英語教育」(エイゴキョウイク)(English education)」の世界(「国語教育本位制」)においても、「普通教育」を通して一般「国民」が「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)することが実現できる(はず)という「幻想」が投射され続けている。「英学」時代は、建前の「四民平等(平等原理)」よりも本音の「立身出世(競争原理)」に突き動かされる格差社会であった。そんな社会の中で可能であった一部の人間の「英語」(イングリッシュ)を通した「立身出世」型の「成功」モデルを、「英語教育」(エイゴキョウイク)という「四民平等(平等原理)」を建前とする「普通教育」の世界においても、実現可能なものとして伝説化しそれを密かに語り継ぐことが行われてきた(それは現在も続いている)。「国語教育本位制」の中で「英語」(エイゴ)の「教育」が存続するためにも「英学」時代の「立身出世(能力主義)」の成功者の鏡像はどうしても必要となっていたわけである。そこで生み出されていくのが「英学 (English learning)」の世界で「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)した人物を取り上げた「英語名人列伝」や、「英語」(エイゴ)という「象徴資本」を蓄積した人物を扱った「物語成功 [ママ] (立志伝)(サクセスストーリー)」などの言説である。「象徴資本」としての「英語」(エイゴ)が「平等」に分配される「普通教育(キョウイク)」のイニシエーションを受けて「生まれ買われるのなら生まれ変わりたい。そして自分も彼らのように「英語」でもって「成功」したい、自分たちのような「社会的出生」の人間たちでもやってみればできるかもしれない」とひそかに願う「国民」にとって、そうした「英語名人列伝」や「成功物語」は少なからぬ「英語教育」の世界に「神話作用」を働かせる重要な社会装置となる。「英語教育」(エイゴキョウイク)という「共同幻想」はそうした「偉人崇拝 (hero worship)」言説に培養されながら、確実に「神話」化していくのである (McVeigh 2002)。(小林・音在 2009 pp. 42-43)


これらの考察を踏まえ、両先生は21世紀の「英語教育」の課題を次のようにまとめます。

しかし(「英語」(エイゴ)と違い)English(イングリッシュ)という言語は、本来「越境」する言語であることから、本質的に脱「国民国家」を施行する言語である。したがって、21世紀に入った現在、日本社会に活きる「国民」の「国民」による「国民」のための「教育」制度の仮想空間の中だけに、English(イングリッシュ)を記号化された「象徴言語」(「英語」(エイゴ)として押しとどめておくことはもはや出来ない時代に入っている。21世紀はよくもわるくも脱「国民国家」(20世紀方「国民国家」システム再編制=グローバリゼーション)の時代であり、それは「英語教育(エイゴキョウイク)の思想」も要請される時代に他ならない。日本という「国民国家」内で学歴社会の競争原理と格差社会の平等原理の調整機能を試みる「普通教育」の手段(科目)として「英語」(エイゴ)を利用することを今後も続けるか止めるべきかどうかを主体的に問い直し、21世紀の世界史的文脈の中で日本の「英語教育」(エイゴキョウイク)改革を進めていく必要があるだろう。「なぜ「英語」(イングリッシュ&エイゴ)が問題なのか」(中村2004)に対する「意識」改革がこれまで以上に求められているといえよう。(小林・音在 2009 p. 44)






非常に面白い二つの論文でした。これらの論文も小林敏宏先生と音在謙介先生のお名前もこれまで知らなかった自分の不明を恥じると共に、皆様にもぜひご一読を(いや、熟読を)お勧めします。






引用されていた中村(2004)







関連記事
コミュニケーション能力と英語教育 (2012年度)の「異文化間コミュニケーションとしての翻訳」より)

■伊藤和夫『予備校の英語』研究社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1997.html
■文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ―「は」の文法的・機能的転移を中心に
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■純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観
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■翻訳教育の部分的導入について
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■水村美苗『日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008_16.html
■藤本一勇『外国語学』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009_18.html
■内田樹 (2012) 『街場の文体論』 ミシマ社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/09/2012_10.html
■イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1996.html
■イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2009.html
■橋本治『言文一致体の誕生』朝日新聞出版 http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010.html
■安田敏郎『「国語」の近代史』中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html
■オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ
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■「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_28.html
■Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/vivian-cookmulti-competence.html
■Some excerpts from the Website "multi-competence" by Vivian Cook
http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/11/some-excerpts-from-website-multi.html
■木村敏(2010)『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/2010_08.html
■山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post_736.html
■国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html
▲国立国語研究所での招待講演の音声と補記
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_20.html
▲日本語の危機とウェブ進化/水村美苗+梅田望夫
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/200901_talk.html
▲After Babel
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/08/after-babel-aspects-of-language-and.html
▲ジェレミー・マンディ『翻訳学入門』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009.html
▲山岡洋一先生の翻訳論
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_9410.html
▲山口仲美『日本語の歴史』岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2006.html
▲福島直恭『書記言語としての「日本語」の誕生』笠間書院
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008.html
▲Googleが変える検索文化と翻訳文化
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/google.html
▲参考スライド ポスト近代日本の英語教育―両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html







2013年6月1日土曜日

マーク・ピーターセン (2013) 『実践 日本人の英語』(岩波新書)





英語に興味がある高校生・大学生の皆さんへ

この本は、日本人がよくおかしてしまう英語の間違いを題材にして、英語での考え方・感じ方をやさしく解説した好著です。やさしく書いてありますのですぐに一読できます。読めば、英語の勉強についての態度が変わるでしょうし、また、英和辞典はできるだけ早く卒業して、英英辞典を使うべきだということがわかっていただけるでしょう(私は英和辞典しか使わない人の英語力は疑わしいものだと思っています)。ぜひご一読ください。



英語(教育)専攻の大学生の皆さんへ

メッセージはシンプルです。


買え。

読め。



この本すら買う金がないとか、読む時間がないとか言うなら、商売替えしなさい(笑 ― ただし目は笑っていないw)。



英語教科書作成関係者の皆様へ

もう既にお読みだとは思いますが、もしまだでしたらすぐにどうぞ。この本は、書名をあげた教科書批判はしていませんが、ご自身が関係した英語教科書に該当する箇所はないかお調べになった方がいいかと思います。










身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比




大学院生のS君が彼の研究の一環として、Mark Johnson著 The Body in the Mind: The Bodily Basis of Reason and Imagination (菅野盾樹・中村雅之訳『心の中の身体-理性と想像力の身体的基盤』)と、George Lakoff著Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind (池上嘉彦・河上誓作・他訳『認知意味論-言語から見た人間の心』)に基づき、身体性に関して客観主義と経験基盤主義をまとめてくれました。ここで、本人の許可を得て、そのレジメの該当部分だけを掲載します。

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2 先行研究


2.1 客観主義

経験基盤主義と対比するために、まずは伝統的な見解である、客観主義を以下にまとめたい。客観主義では、現実について形而上学的な見方をする。この形而上学とは、現実のすべては「もの」からなり、「もの」はどんな時点においても成り立つ固定した属性と関係を有するとする考え方である。それは明らかな真実であって疑いようもないと(客観主義者によって)思われている世界観である。また、客観主義は人間の認知にも関心をもち、人間の正しい論理的思考とは何か、意味とは何かといったことなどを説明する。

以下、理性、意味、理解、身体に関して、客観主義の取る立場をみていく。なお、これらは2.2で示す経験基盤主義と対応している。


2.1.1 理性

客観主義では、理性を行使する能力とは抽象的なものであって、必ずしも何らかの生物体の身体性に関わるものではないと考える。理性というものを文字通りのもの、つまり、何よりもまず客観的に真か偽のいずれかの値をとりうる命題に関わるものであるとする。そのような立場からすると、意味ある概念とか理性的能力といったものは、いかなる生物体の身体的限界をも超越したものであるとされる。たまたま意味のある概念や抽象的な思考が、人間・機械・その他生物体にそれらの身体の一部として組み込まれていることがあるとしても、それらの存在は抽象的なレベルのものとは関わりのないものである。


2.1.2 意味

客観主義において、意味とは、文と「客観的な実在」との関係であるとみなされる。カルナップ(1947)は「文の意味を知ることは、文が可能な事例のどの場合に真であり、どの場合に真でないかを知ることである」と主張する。言語表現が意味を得るのは、現実世界や何らかの可能世界に対応することができること、あるいは対応しないこと、を通じてのみである。すなわち、言語表現は、(名詞であれば)正しく指示したり、(文であれば)真か偽であったりすることができる。

ここで、経験基盤主義との対比で重要になる問題を挙げたい。客観主義のパラダイムは字義と比喩を区別する。字義的意味は、客観的に真か偽か決まる意味である。また比喩表現(メタファー、メトニミー、心的イメージ)といったものは想像力の産物であり、それらは真の概念の領域からは追い出されてしまう。なぜなら、それらは客観主義世界の「もの」に対応できないためであり、また、概念は現実世界(あるいは可能世界)にある「もの」やカテゴリーに直接的に対応していなければならないためである。


2.1.3  理解

客観主義では、理解を引き合いに出すのを避けようとする。なぜなら、この語は、世界とわれわれを媒介する人間の主観性の役割を思い起こさせるので、この点が意味の客観性にとって重大な脅威だとみなされるからである。よって理解の身体化は、意味論にとって全面的に不適切なものとみなされる。



2.1.4 身体

身体は、客観主義において無視されてきた。理由は2点あり、(1) 身体は意味の客観的本性とは関係ないとみなされた主観的要素を導入すると、客観主義において考えられてきたからである。また、(2) 理性は抽象的で超越的なもの、すなわち人間的理解の身体面には何一つ結びつきをもたないもの、と考えられてきたからである。

しかし、人間が存在する世界で身体に対して与えらる役割は存在し、その役割とは、(1) 抽象的概念に対してのアクセスを提供すること、(2) 超越的理性の型式を模倣する生物学的手段を提供すること、(3) 可能な概念や理性の働きの形式に対して制限を課すること、である。



2.2  経験基盤主義

次に、私が本研究にあたって身をおく立場である、経験基盤主義について言及する。まずは上述の客観主義との比較を、理性、意味、理解、身体の観点から行う。


2.2.1 理性

経験基盤主義では、理性は、身体性を踏まえて成り立つものである。理性というものの持つ想像的な側面(メタファー、メトニミー、心的イメージ)が、理性にとって中心的な役割を果たすものと捉える。客観主義のように、想像的な側面を、文字通りのものに対する周縁的で取るに足りない付加物といったような受け取り方はしない。経験基盤主義における、理性の研究にとっての中心的な関心事は、(1) 思考する生物体の本性とは何か、(2) そのような生物体が自らの置かれた環境の中でいかに機能するか、ということである。そこでは、生物体(自ら思考し機能しつつ生存するもの)にとって、何が有意味とされるかということが問題となる。


2.2.2 意味

意味とは、客観主義なら主張するような、単なる文と「客観的実在」との固定した関係ではない。一般に固定した意味とみなされるものは、沈殿し動きを止められた構造にすぎない。経験基盤主義では、意味とは常に理解の問題であると考える。理解とは一つの出来事であり、人はそのさなかで世界をわがものとする。経験基盤主義の立場において、共通世界にかんするわれわれの経験を構成するのはこの理解であり、こうしてわれわれは共通世界の意味を了解しうるようになる。

客観主義的な意味論では全体を説明しえない意味現象に関して、経験基盤主義は、意味現象を説明しうる鍵となる3つの観念を持つ。それらは、理解、創造力、身体化である。以下に、理解と身体について言及したい。


2.2.3 理解

経験基盤主義における理解とは、われわれが世界を理解可能な実在として経験する仕方である(「世界をわがものとする仕方」ともいえる)。それゆえ、このような理解はわれわれの存在全体に関わる。存在全体とは、身体能力や技能、価値、気分や態度、すべての文化的伝統、言語共同体との結びつき、美的感受性などのことである。また、経験基盤主義における理解とは、われわれが身体による相互作用、文化制度、言語的伝統、そして歴史的文脈を通して世界に位置づけられる仕方でもある。こういったものが混ざり合って、現にある通りのわれわれの世界を現出させているのである。(2.6で触れることになる、)イメージ・スキーマとその隠喩的投射はこの「混合」がもつ原初的なパターンである。


2.2.4 身体

経験基盤主義において、身体は人間の理性、思考などにおいて中心となるものである。理性の営みは、身体によって可能にされるものとされる。人間の理性は、人間という生物体、ならびにその生物体としての個人的、集団的経験に寄与する、「すべての事柄の本質」から生じてくるのである。(「すべての事柄の本質」には、それが住む環境の本質、その環境の中でそれが機能するやり方、その社会的な機能の本質などが含まれる。)また、思考も身体性と関わるものである。われわれの概念体系を構築するのに用いられる構造は、身体的な経験に由来するものであり、それとの関連で意味を生み出す。そして、われわれの概念体系の中核となる部分は、知覚や身体運動、身体的、社会的な性格の経験といったものに直接根ざしている。
このように、身体は人間の理性、理解、思考などあらゆる側面において、中心となるものである。



2.3  客観主義と経験基盤主義が共有するもの(基礎実在論)

 ここまで客観主義と経験基盤主義を対比させてきたが、両者が共有している考え方がある。それは基礎実在論と呼ばれ、基礎実在論は少なくとも以下のような特徴を持つ。
-人間にとっての外界と人間の経験から成るような、現実世界というものが存在する
-人間の概念体系と、現実の他の諸側面との間の何らかのつながり
-内的な整合性だけに基づくのではない「真理」の概念
-外界についての確実な知識の存在
-どのような概念体系の間にも良し悪しの差はない、という見解の拒否


2.4 客観性

客観主義において、客観性とは、物事を神の視点からよりよく見るために、主観的、身体的な側面の全てを排除することを意味した。それに対して、経験基盤主義では、客観主義における神の視点というものを否定した。けれども、これによって客観性ということが不可能になるわけでも、価値がなくなるわけでもない。経験基盤主義において、客観性の内容は、次の2点であるとする。

(a)自らの視点をいったん離れて、他の視点、それも、できるだけ多くのほかの視点から状況を見ること。
(b)直接的に有意味なもの-すなわち基本レベルの概念とイメージ・スキーマ的概念(下記で説明)-と、間接的に有意味な概念とを区別できるということ。

 客観主義が、「神の視点が存在し、人間はそれに近づくことしかできない」と考えるならば、客観主義は、他に考慮に値するような概念化の仕方は存在しないと考える立場を取ることになる。よって、客観主義の立場を取っていては、客観性そのものが不可能になると経験基盤主義者は言う。



2.5 カテゴリー

客観主義、経験基盤主義どちらの見解にあっても、われわれが経験に基づいて意味づけする主なやり方として、カテゴリーの形成といったことが取り沙汰される。客観主義的見解では、カテゴリーを特徴づけるに際しては、(1) カテゴリー形成を行っている生物体の身体性といったものは無関係であり、(2) 文字通りの形で行われるものであって、「カテゴリーにとって何が本質であるか」に関してはいかなる想像的な仕組み(メタファー、メトニミー、イメージ)が関与してくることはない、とされる。一方、経験基盤主義では、われわれの身体性に基づいての経験やわれわれが想像的な仕組みをいかに使用するかということは、カテゴリー形成に中心的な役割を果たすものとされる。

伝統的な見解である客観主義は、2000年にも渡る哲学的考察から生まれてきたものである。この見解今でも多くの客観主義者たちに信じられているが、その理由は以下の2点である。(1) 単にそれが伝統的に存在してきたというだけのこと、また(2) 伝統的な見解の中の正しい部分は保っておき、他方新たに修正された代案が、最近に至るまで存在してこなかったことである。ここで言いたいことは、カテゴリーに関して共通の属性を基盤としているとする古典的見解が全面的に誤りである、ということではない。全面的に誤りではないが、しかし、それはカテゴリー化全体から見ればほんの一部分にすぎない。プロトタイプ理論というカテゴリー化の新しい理論が登場し、それによって人間のカテゴリー化は、はるかに広大な原理に基づいていることが明らかになったのである。プロトタイプ理論では、カテゴリー化は、一方では人間の知覚、身体活動、文化の問題であり、他方ではメタファー、メトニミー、心的イメージの問題として捉えている。

 人間のカテゴリー化の体系に繰り返し現れる一般原理には、次のようなものがある(ここではいくつか省略されている)。

-中心性: カテゴリーの基本的成員と呼んだものは中心的である。例えば、「鳥」というカテゴリーの中心にはスズメやツバメなどが当てはまる。
-連鎖: 複合的なカテゴリーは連鎖によって構造を与えられている。すなわち中心的な成員が他の成員と結びついて、後者はさらにまた他の成員と結びついて、という具合に。例えばヂルバル語では、女性は太陽と、太陽は日焼けと、日焼けはヘアリー・メアリー・グラブ(地虫の一種)と結びつくため、これらは同じカテゴリーに入っているのである。
-経験領域: 基本的な経験の領域というものがあり、中には各文化に固有のものもある。このような経験の領域によって、カテゴリー内の連鎖を構成する連結線が特徴付けられる。
-共通性の欠如 : 一般的に、カテゴリーというものは共通の特性によって規定されなくてもよい。われわれは例えば女性、火、危険なものに共通点を見出すことができるが(どれも恐ろしい、など)、ヂルバル語話者がそれらに共通点があると思っているなどと考えるべき根拠は何もなく、実際に彼らは共通点があるとは思っていない。


2.5.1 プロトタイプ

 ここでは、プロトタイプに関して、その「基本レベル」と呼ばれるものをみていく。
例えば、英語学習の初期段階において、mammalやpoodleではなく、dogという単語を習う。これはdogが人間にとって最も理解しやすいレベルであるからであり、それを基本レベルと呼ぶ(mammalは上位レベル、poodleは下位レベル)。Rosch et al(1976)は、基本レベルを、カテゴリーの成員が同様に知覚される全体的な形状をもつ、もっとも高いレベルである、などの特徴をもつとする。基本レベルのカテゴリーは、以下の4点(知覚、機能、コミュニケーション、知識の組織化)において規定される。
知覚: 全体的に知覚された形状;単一の心的イメージ
機能: 一般運動プログラム
コミュニケーション:   もっとも短く、もっとも一般的に使用されて文脈的に中立的な語であり、子どもに最初に習得され且つ最初に語彙目録に登録される。
知識の組織化: カテゴリーの成員のほとんどの属性はこのレベルで蓄積される。


基本レベルのカテゴリー化についての研究は、次のようなことを示唆する。(1) われわれの経験が、基本レベルにおいて、概念形成以前に構造化されている。また、(2) われわれは、ゲシュタルト的知覚、身体運動、そして豊かな心的イメージの形成を通して、現実世界の事物における「部分と全体の構造」を取り扱うことのできるような一般的能力を持っている。これによって、われわれの経験に概念形成以前の構造が与えられるのである。われわれの基本レベルの概念は、その概念形成以前の構造に対応する。


2.5.2 イメージ・スキーマ

身体化された理解を説明するために、イメージ・スキーマと隠喩的投射は欠かせないものである。2.5.3で後者を述べることとして、ここではイメージ・スキーマを扱う。

まず、イメージ・スキーマとは、われわれの知覚的相互作用と運動プログラムに、繰り返し現れる動的パターンであり、これによってわれわれの経験に首尾一貫性と構造とが与えられる。われわれの身体の運動、対象の操作などには、繰り返し現れる型が伴う。こうした型がなければ、われわれの経験は混沌としたものになってしまうのである。例えば、垂直性スキーマは、われわれが経験から意味に満ちた構造を取り出す場合に、上-下(up-down)という方向付けを用いる傾向があることから創発する。われわれは毎日垂直性に触れており、例えば樹を知覚したり、立ち上がったり、子どもの身長を測ったりする。この経験に基づき想像力に媒介されたイメージ・スキーマ的な構造が、意味と合理性にとって不可欠の要素なのである。イメージ・スキーマのうち、重要度が高いとみなす(Lakoff 1987, p.255)ものには、容器/力の可能性/道/部分-全体/バランス/中心・周縁などがある。


2.5.3 隠喩的投射

ここでは、イメージ・スキーマに続き、身体化された理解を説明するために隠喩的投射の重要性を簡単に説明する。
 隠喩は理解にひろく浸透した様式であり、主要な認知的構造の一つである。これによってわれわれは首尾一貫した秩序ある経験をもつことができ、抽象的理解を組織できる。イメージ・スキーマによって構造化されたものを、隠喩によって抽象的な領域へ投射することができ、このようにしてわれわれは理解を行うのである。例えば、”more is up” という隠喩的投射の方法で考えてみる。われわれは量というものに関して、垂直性スキーマを用いて”Prices keep going up.”などということが出来る。これはわれわれが、more(増加)はup(上)に方向付けられたものとして理解している事実を示唆している。
 
 
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