授業(地球的言語としての英語)の準備をしていて、初めて小林敏宏先生と音在謙介先生の共著論文の存在を知りました。英語教育界というのは狭い世界のはずなのに、両先生のことを知らなかったのは私の不覚でした(私はできるだけ視野を広くしようと試みているつもりなのですが、やっぱりまだまだ駄目だなぁ)。
読んでみますと、非常に啓発的であり、日本における「英語教育」という営みを読み解くための原理的な視座を提供してくれる素晴らしい論文でしたので、これらの論文は、現在準備中の授業用ブロク記事の中で紹介するのではなく、独立したブログ記事で紹介させていただくことにしました。
「啓発的」や「原理的」と言いますと、「研究業績につながらない」とか「明日の授業に役立たない」とすぐに敬遠する英語教育関係者は(悲しいことに)多く存在しますが、私は現職英語教師が日々面している現実を理解し、少しでも事態を打開するためには、こういった研究は必須だと思っています。
逆に、挑発的な言い方をしますならば、「研究論文の体裁は一応整っているが、読んでも少しも面白く無い論文」や「自らのあり方や生徒理解を少しも変えないままに採用できる小手先のテクニック」あるいは「時々の教育行政方針に付和雷同的に迎合しただけの講演」などが、山のように集まっても、それは何ら現実の理解にも打開にもつながらないのではないでしょうか(そして、このことは歴史を振り返れば自明だとすら言えませんか?)
私としては、小林先生と音在先生の二本の共著論文を読み、非常に学ばせていただきました。この学びは、もっと自分の中で咀嚼しなければなりませんが、咀嚼されるにつれ、それは私の血肉となり、思いもかけない形で、「英語教育」という営みに対して新しい理解や行動をもたらしてくれることを確信しています(私はこれまで、抽象的・原理的な学びを深めずに、具体的・個別的な事象に対応すれば、それは皮相で通念的な理解と行動の再生産だけに終わることを経験的に痛感してきました)。
今回私が読んだ論文は2007年と2009年に刊行されたものです。私は最近非常に忙しくしており、両論文の批評はもちろんのこと、的確なまとめすらもできませんが、以下、私が個人的に印象的だった部分を抜粋します。(これらの論文はすでに正式にウェブで無料公開されていますので、自由に広く共有されることを欲しているpublic domainの作品だと私は考えます。よって、以下では多くを引用しています)。
小林敏宏・音在謙介 (2007)
「英語教育史学」原論のすすめ : 英語教育史研究の現状分析と今後の展開への提言
拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.17,pp.34-67
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006405638
「英語教育史学」原論のすすめ : 英語教育史研究の現状分析と今後の展開への提言
拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.17,pp.34-67
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006405638
この2007年の論文は、続く2009年の論文を読むためにも、ぜひとも読んでおきたい論文です。この2007年論文では、私たちが惰性的に「英語教育」と呼んでいる営みを考えるための基本的視座が提示されています。こういった原理的理解なしに、「英語教育」に関するさまざまな言説に身を晒しても、私たちは、"English"と日本の歴史・社会的文脈で形成された「エイゴ」や、単に技術的な"Teaching"と国家によって運営される「キョウイク」の区別に注意を払うことなく、声の大きな者や(SNSでさらに加速した)流行り廃りに振り回され、右往左往するだけでしょう ― 昨今の、楽天・三木谷氏によるTOEFL導入への拘り、およびそれを受けての英語教育関係者の狼狽(あるいは思考停止)もこの視点から考えることができます(参考:江利川春雄「自前の『到達度試験』かTOEFLか?」)。
小林先生と音在先生は次のようにまとめています。
したがって、私たちは「日本(人)」の「英語」の「教育」の系譜を論じるにあたって、以下の様な基本的な問いを常に自ら発していなければならない。
・「近代日本」とは何であったのか?これらの問いに的確に応えることが現在の「日本英語教育史」研究には求められると言ってよいであろう。 (小林・音在 2007, p.47)
・「近代日本」は「現代日本」とどこが同じで、どこが異なるのか?
・「国民(=日本人)」とは何か?それはいつ誕生したのか?
・「英語教育」は「国民(=日本人)」の誕生にどのような役割を果たしてきたのか?
・「英語教育」を受けた過去と現在の「国民(=日本人)」の自画像は、私たちの感性の中で常にゆるやかにズームアップされてきた「欧米」像に向き合う中で、どのような変化を遂げてきたのだろうか?
・それが英語教育制度の誕生・発展・確立のプロセスにどのような影響を与えたのだろうか?
・「英語教育」は「国民文化形成」を発展させた「国語」にどのように貢献してきたのだろうか?
・「日本」の「国語」教育問題は欧米(とくに英米)の「国語(英語)」教育とどのような構造的類似性をもっているのだろうか?(小林2005参照)
「日本の英語教育」によって「国語国民」教育はどのように創出・発展・維持・変容してきたのだろうか?
「はぁっ!『近代日本』や『国語国民』? オイオイ、俺達は英語教師だろう?そんな専門外の話をせずに、まずは生徒に英語を教えろよ!」と思われる方もいるかもしれません。私も英語教授の技術的な側面にこだわる職人気質をもった人間ですが、「近代日本」や「国語国民」などといった概念が、「英語教育」― "Teaching of English"の訳語ではなく、日本の学校教育での「エイゴキョウイク」として読んでください― の専門外であるという論には賛成できません。どうぞ小林先生と音在先生の論文をお読みください。あるいは、こういった問題にこれまでまったく関心がなかった方は、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき ― 英語の世紀の中で』(筑摩書房)を先に読んだ方がいいかもしれません。
「いや、そんな暇すらない!」とあくまで強情な方は(笑)、せめてこの論文でも引用された川澄哲夫氏の警句をお読みください。
「このように、戦後ますます邪道に陥っていった英語教育に、一つの正しい方向を示したのは、英語教師以外の人たちであった。英語教師たちは、文化だ、教養だとりっぱな目的を掲げてきたが、その目的どおりに英語が教えられてはこなかった。彼らの多くは歴史的・社会的な視点に欠け、現実から遊離した考え方しかできなかったからである。こうしてみると今日の英語教育の問題は、英語教師たちだけの手におえないところにまできているといっても言い過ぎではないであろう」(川澄 1979 p.136)
川澄哲夫 (1979) 「英語教育存廃論の系譜」 現代の英語教育1『英語教育問題の変遷』研究社
そういえば、川澄哲夫氏が編纂した『資料日本英学史 2 英語教育論争史』私が学部時代に英語教育に関して読んだ和書の中で、心底面白いと思えた数少ない本の一冊でした(洋書でしたらWiddowsonのTeaching Language as Communicationでしたが)。
もう一つの2009年の論文は、以下のものです。
「英語教育」という思想
―「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成―
拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.21,pp.23-51
http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/files/cltrl_sciences_21.pdf
―「英学」パラダイム転換期の国民的言語文化の形成―
拓殖大学『人文・自然・人間科学研究』 No.21,pp.23-51
http://www.takushoku-u.ac.jp/laboratory/files/cltrl_sciences_21.pdf
印象的だった箇所は以下などです。
まず両先生は、日本国家の営みとしての公教育の中の教科としての「エイゴキョウイク」と、単に技術的な意味しかもたないが現在はglobalizationの波に乗っている"Teaching of English"との葛藤を次のようにまとめます。(原著論文のルビは、( )で表記します)
「英語教育」(エイゴキョウイク)の世界は、日本社会の競争原理(立身出世主義)と平等原理(四民平等主義)という2つの相矛盾する価値観がせめぎあう社会階層選別調整の場としても機能することになった。しかしその日本型「英語教育」(エイゴキョウイク)は、グローバルで脱「国民国家」を志向する経済・文化の「市場」原理によって解体されつつあり、「英語教師」は「英語」(エイゴ)の「教育」(キョウイク)者ではなく、語学の専門技術者(テクノクラート)」として特化することを要求されるようになってきている。現在、その「英語教師」の多くが「国民国家」の「学校」という「教育」の現場で脱「国民国家」を施行する「コミュニケーションエイゴ」(TOEICやTOEFL等)という「商品」(コモディティー)の販売促進に力を注ぐことを期待されるようになっているのである。しかしこれまでの日本型「英語教育」(エイゴキョウイク)の関係者たちは、その「商品」を国際的に(脱「国民国家」の論理において)取引する「市場(競争)」の原理に対して無防備のままさらされている。日本の「英語教育」(エイゴキョウイク)関係者たちは市場原理により拡張するグローバリゼーションにリンクされた「英語教育」(イングリッシュ ティーチング)に大きな戸惑いを感じている。現在(特に戦後の平和期)、特に"業界"の関係者は「英語教育」(エイゴキョウイク)というコトバをごく自然にそれも頻繁に使ってきたが、この一見平和で当たり前な言語感覚の中に「英語」(エイゴ)の「教育」(キョウイク)に対する文化政治的無意識が醸成されていることにいち早く気付くことが大切である。なぜなら日本という国家において「英語」(エイゴ)はれっきとした一つの政治・社会問題だからである(中村 2004)。 (小林・音在 2009 p. 27)
私は以前"TESOL" (= Teachers of English to Speakers of Other Languages)の知見を、日本人英語教師がそのまま応用することに対して警戒心をもっていましたが、「エイゴキョウイク」に関しての考察はまだまだ不十分であったことをこの論文に教えられました。
両先生は、「英語教育」と「国語教育」の連関について、以下のようにまとめます。
19世紀末から20世紀初頭にかけて国民国家としての近代日本が本格的に誕生し、「国語」によって「国民」を創出する「国民教育」制度が確立された。「国民教育」とは「国語」によって「全人格」を陶冶する「人間教育」のことであり、「「国語」という思想」(イ 1996)を「学校」制度の中で培養し、「国民(戦前は「臣民」)という「共同幻想」(吉本 1968)を具現化する社会装置であった。またその「共同幻想」を内部から強化する言語が「国語」であったとするならば、「英語」はその「幻想(自画像)」の鏡像(mirror image)を外部から補強する「外・国語」として機能した。(小林・音在 2009 p. 28)
昨今、日本の「英語教育」での日本語使用に対しては、英語教育界以外の方々だけでなく、文部科学省からも、抑制的であれ(あるいは端的に使用するな)と言われていますが、従来の「英文解釈」という「エイゴキョウイク」の営みが、国語教育でもあったことは否定できない歴史的事実でしょう。(この記事末尾の関連記事をご参照ください)。
英文法についても、両先生は次のようにまとめます。
このように「学科」の中に特化された「英語」(エイゴ)の「教育」は「国語の標準化」のためにも重要な役割を果たすこととなった。そして「国民」の「規格化」と「選別」を実現するためにも、「受験英語」の「英文法」は「国語」の文法の意識化と標準化をうアンガスことにも大きく寄与することとなった。「英語」(エイゴ)教師が「外・国語」として象徴的な「統一文法としての言語」を教える集団として組織されてこそ「国民教育」がより効率的に可能になると岡倉は考えていたと思われる。「英語科教育」の中でも、特に英「文法」解釈教育は、「国語」(コクゴ)をもって「英語」(イングリッシュ)を「英語」(エイゴ)化し、「英語」(エイゴ)によって「英語」(イングリッシュ)を消化(「支配(subject)」)するためには不可欠な国民教育の知的鍛錬法となった。しかしその結果、「英語」(エイゴ)をマスターすることが「英語」(イングリッシュ)をマスターすることであるという「神話作用」が「英語教育」(エイゴキョウイク)という「共同幻想」の中に働くようになった。(小林・音在 2009 p. 40)
両先生はさらに、近代化の中で日本化された(そして「国民教育」としては日本化されざるを得ない)「エイゴキョウイク」が、しばしば近代化以前(あるいは近代化の端緒期)の「英学」と混同されることについて次のように書きます。
20世紀から現在に至るまで、「英学」(エイガク)(English learning)の世界(「英学本位制」)で主体をもった社会層向けの「英語教授」によって一部のエリートが「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)することに成功したように、「英語教育」(エイゴキョウイク)(English education)」の世界(「国語教育本位制」)においても、「普通教育」を通して一般「国民」が「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)することが実現できる(はず)という「幻想」が投射され続けている。「英学」時代は、建前の「四民平等(平等原理)」よりも本音の「立身出世(競争原理)」に突き動かされる格差社会であった。そんな社会の中で可能であった一部の人間の「英語」(イングリッシュ)を通した「立身出世」型の「成功」モデルを、「英語教育」(エイゴキョウイク)という「四民平等(平等原理)」を建前とする「普通教育」の世界においても、実現可能なものとして伝説化しそれを密かに語り継ぐことが行われてきた(それは現在も続いている)。「国語教育本位制」の中で「英語」(エイゴ)の「教育」が存続するためにも「英学」時代の「立身出世(能力主義)」の成功者の鏡像はどうしても必要となっていたわけである。そこで生み出されていくのが「英学 (English learning)」の世界で「英語」(イングリッシュ)を「身体化」(マスター)した人物を取り上げた「英語名人列伝」や、「英語」(エイゴ)という「象徴資本」を蓄積した人物を扱った「物語成功 [ママ] (立志伝)(サクセスストーリー)」などの言説である。「象徴資本」としての「英語」(エイゴ)が「平等」に分配される「普通教育(キョウイク)」のイニシエーションを受けて「生まれ買われるのなら生まれ変わりたい。そして自分も彼らのように「英語」でもって「成功」したい、自分たちのような「社会的出生」の人間たちでもやってみればできるかもしれない」とひそかに願う「国民」にとって、そうした「英語名人列伝」や「成功物語」は少なからぬ「英語教育」の世界に「神話作用」を働かせる重要な社会装置となる。「英語教育」(エイゴキョウイク)という「共同幻想」はそうした「偉人崇拝 (hero worship)」言説に培養されながら、確実に「神話」化していくのである (McVeigh 2002)。(小林・音在 2009 pp. 42-43)
これらの考察を踏まえ、両先生は21世紀の「英語教育」の課題を次のようにまとめます。
しかし(「英語」(エイゴ)と違い)English(イングリッシュ)という言語は、本来「越境」する言語であることから、本質的に脱「国民国家」を施行する言語である。したがって、21世紀に入った現在、日本社会に活きる「国民」の「国民」による「国民」のための「教育」制度の仮想空間の中だけに、English(イングリッシュ)を記号化された「象徴言語」(「英語」(エイゴ)として押しとどめておくことはもはや出来ない時代に入っている。21世紀はよくもわるくも脱「国民国家」(20世紀方「国民国家」システム再編制=グローバリゼーション)の時代であり、それは脱「英語教育(エイゴキョウイク)の思想」も要請される時代に他ならない。日本という「国民国家」内で学歴社会の競争原理と格差社会の平等原理の調整機能を試みる「普通教育」の手段(科目)として「英語」(エイゴ)を利用することを今後も続けるか止めるべきかどうかを主体的に問い直し、21世紀の世界史的文脈の中で日本の「英語教育」(エイゴキョウイク)改革を進めていく必要があるだろう。「なぜ「英語」(イングリッシュ&エイゴ)が問題なのか」(中村2004)に対する「意識」改革がこれまで以上に求められているといえよう。(小林・音在 2009 p. 44)
非常に面白い二つの論文でした。これらの論文も小林敏宏先生と音在謙介先生のお名前もこれまで知らなかった自分の不明を恥じると共に、皆様にもぜひご一読を(いや、熟読を)お勧めします。
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■内田樹 (2012) 『街場の文体論』 ミシマ社
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