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2016年5月14日土曜日

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)



この本は齋藤環氏による『オープンダイアローグとは何か』(2015年、医学書院)の出版を始めとした、オープンダイアローグへの関心の高まりを受けて緊急出版されたものです。斎藤氏の著作を読んだ人にとって同著を多角的に読み解くための良書となっているかと思います。

この本には多くの人びとの論考と発言が寄せられていますが、私はとりわけ佐藤幹夫氏と内海新祐氏と小林隆児氏の見解を面白く読みましたので、ここでそれらを(私の蛇足と共に)紹介しておきます。




■ 佐藤幹夫氏の読解

佐藤幹夫氏はフリージャーナリスト・フリー編集者(肩書は同書p107ページによる。以下同じ)で、この本の編者です。佐藤氏は「「オープンダイアローグ」についての問題提起 」(pp.6-14)で彼が斎藤 (2015) をどう読んだかを披露していますが、彼が斎藤 (2015) の最大のポイントの一つとして指摘したのは「主体としての患者」の論点です (p.12)。

詳しくはこの佐藤論文を読んでいただくとして、オープンダイアローグを教育現場(教師教育や学習指導)で活かせないかと考えている私としては、「病者・患者・クライアント」と「治療者」を適宜「当事者」と「専門家」に読み替えてまとめてみました(ここでいう「当事者」とは、授業運営などで困っている教師や勉強や学校生活で困っている学習者、「専門家」とは「教師教育者」や「担当教師」とご理解ください)。私の読み替えは以下の通りです。


オープンダイアローグなどの試みで一番大切なのは、当事者が自分自身を、問題の一番の主体として引き受ける存在となることである。そのために当事者は、問題を、専門家が解決するものではなく、自分自身のこととして、自身の状態を語り言語化する。

これまで当事者は専門家の指導・指示に従う「よい当事者」であることが問題解決のために望まれていたが、これはやや大げさな言い方をすれば、指導・指示の名の下に、当事者の主体性が一定程度奪われていたことでもある。

しかし、オープンダイアローグでは当事者の主体性を主とし、専門家は主体となった当事者に付き合い寄り添うことを最大の仕事とするようにする。そのことで、意欲-主体-自然治癒力が相互作用を及ぼしながら、よりよい状態を作り出してゆく。(佐藤氏の論考(pp.12-13)を元に柳瀬が作成したまとめ)。



こういった解釈からは、オープンダイアローグと当事者研究の親近性が強く現れます。もちろんオープンダイアローグと当事者研究の関係についてはもっと丁寧な論考が必要でしょうし、何よりこれらの実践を教育現場において応用的に展開してゆくためには、さらに具体的に考えてゆく必要がありますが、当事者の主体性の復権(あるいは獲得)という論点を重視する佐藤氏の見解には私も共感しましたので、ここに私なりの書き換えをしてみた次第です。



■ 内海新祐氏の指摘

児童養護施設職員・臨床心理士である内海新祐氏は、紹介者の齋藤氏も主導者のセイックラ氏も言及していませんが、オープンダイアローグはロジャースのクライエント中心療法とも近縁性があることを述べます。その上で内海氏は、オープンダイアローグの根本的な考え方を理解しないと、オープンダイアローグがクライエント中心療法のように、一時の熱狂を経て次第に下火になってゆくかもしれない可能性を指摘します(「「オープンダイアローグ」の実用性をめぐって」p.61)。

内海氏によれば、ロジャースの理論は、アメリカの精神分析的精神療法の「介入型」の治療や、日本の「あるべき方向へ教え導く」相談・助言の常識に対置されたため大きな影響力をもちました。オープンダイアローグは、現在のアメリカ式のマネジドケア (managed care)に対置される試みとしても耳目を浴びていると考えられます。

しかし内海氏は次のように指摘します。

だが、時代の人間観はまだ、線形的なモデルに基づいたわかりやすい病理論や治療論を信奉しており、オープンダイアローグのような、"詩的"な説明を受け付ける器をもっていないのではないか。(p.61)


線形的な認識論が主流の現在では、「治療の成否は実現される対話の質のみ」という考え方は受け入れられにくく、オープンダイアローグもやがて、クライエント中心療法がたどったように、誰にでもわかる基準に基づいた明瞭な技法を前に下火になってゆく道をたどるかもしれないというのが内海氏の懸念です。

だからこそ、オープンダイアローグを単なる技法として受容(あるいは消費)するのではなく、それに伴う根本的な認識論や人間観の理解が必要だというのは、私もまったくその通りと思いましたので、ここで紹介しました。



■ 小林隆児氏による情動の重要性の指摘

精神科医師・西南学院大学教授の小林隆児氏は、オープンダイアローグにおける情動の役割の重要性を説いています。

座談会(討議)の「『オープンダイアローグとは何か』を現場から読む」 (pp.30-53)で、小林氏は自身が担当している自閉症の子のエピソードを紹介します。臨床心理士によるプレーセラピーを繰り返していた自閉症の子に小林氏は精神科医としてそろそろ一対一の面接をした方がよいと判断し、その子に面接を提案します。その子は嫌がらずにその提案を受け入れ、当日は面接室でしばらく待っていたそうですが、小林氏が入るや否や、手に取っていた雑誌を開いて「ここにあるこれはどういう意味か」と強迫的といえるぐらいに質問を繰り返したそうです。 (p.45)

小林氏は言います。

この質問は、わからないからしているんじゃない、ということがぼくにはすぐにわかったの。不安がいっぱいで耐えられないほどだから、こうやって質問をすることで、相手を自分のペースに巻き込んで、自分の不安を和らげようとしているんだ、ということにぼくは気づいたの。だから彼の不安が収まるまでしばらくだまってじっと落ち着くまで待ったの。 (p.45)


小林氏は、コミュニケーションを発達論的に捉え、コミュニケーションを「まずは、情動(感性、身体)水準でのコミュニケーション、ついでそれを基盤にしてことばによる(理性水準の)コミュニケーションと進展してゆく」と考えています(「「オープンダイアローグ」との対話(ダイアローグ)」 (p.25)。しかし、ことばの獲得において情動体験が調和していないならば、様々なコミュニケーションの問題が生じてしまうと小林氏は見立てています。

この見解と上記のエピソードをもとに語る論点 (p.47)を私なりにまとめれば次のようになります(まとめは佐藤氏の時と同じように、精神病理の問題を、その他の問題も含めた拡大的に解釈したものですので、正確な理解をお求めの方は同書をご参照ください)。

(1) 問題を抱えた当事者の情動は非常に不確実なものであり、当事者は自らの情動に身をゆだねることを非常に怖れている。

(2) だから当事者は確かなものにしがみつこうとしていろいろなものにすがりつくが、その一番の典型がことばの字義にこだわることである。

(3) ことばは、字義(顕在的な文字通りの意味)の背後にある話し手の情動を感じ取って初めて意味が理解できるのだが、情動に波長を合わせることは、当事者には怖いことなのでことばの字義だけにしがみつこうとする。


この状況はよくわかります。実際、「精神を病んだ人」だけでなく、日常生活で問題を抱えてしまった人が、上記のように執拗にことばの表面的な意味だけにこだわることは私たちの身の回りでもしばしば観察されることかと思います。

こういった当事者を前にした場合に私たちがするべきことは、当事者のことばの字義に(のみ)反応するのではなく、当事者の声色や身ぶりや表情などの「身体言語」を通じて、当事者の情動を感知し --身体言語は時に非常に微妙ですから、私たちは感受性を高めていなければなりません--、それに自分の静かな情動を寄り添わせ、当事者に共鳴させながら、当事者を落ち着かせることでしょう。

ただ当事者に接して、冷静であるはずの人間の情動も混乱し、字面だけにこだわった「ギロン」になってしまうことも日常生活にはよく見られることです。そうならないためには、小林氏が指摘する以下の情動的コミュニケーションの特質(オープンダイアローグの用語で言うなら「情動共鳴」(emotional attunement))を私たちはよく理解しておくべきです。

情動的コミュニケーションは、情動が二者間で共振するという当事者同士も気づかない次元でのコミュニケーションである。(p.104)


関連記事:オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html

このように専門家も当事者の一人として自分の情動のあり方に対して注意を払いながら、もちろん問題を抱えた当事者の情動のあり方に注意を払うこと、そしてその対話によってどのようにそれぞれの(あるいは二人の)情動が変化するかにも注意を払うことが重要になります。小林氏は「精神療法をはじめとする人間科学のエヴィデンス」として必要なことを次のように述べます。

当事者の一人である治療者自身が、その場で繰り広げられる対話の中で何をどのように感じつつ対話に参加しているのか、その主観的体験自体を率直に開示することが不可欠である。そして、そこでどのような体験が対話において治療的作用を持ったのかを治療者は明示することが強く求められる。そのことを誰にも分かるように開示することを通して他者との共通理解が生まれる。 (p.101)


私は昨年度に続き、今年も春休みに学部チューター生29名を対象に、一人一時間の個人面談を行いました。延長したり再び行った面談もありますから、30時間以上、個人面談を行ったことになります。

その際に留意したのは、もちろん傾聴と対話でした。20代の自分のように独話(モノローグ)的に「助言」や「指導」をするのではなく、まずは虚心坦懐に学生さんの言うことに耳を傾け(傾聴)、その中で出てきた自然な流れにそって私も発言し、その対話の中から新たなものが生まれてきたことも多かったと自負しています(これが過度のうぬぼれであればいいのですが)。

その際、もちろん私は学生さんの情動のあり方と自分自身の情動のあり方に注意を払い、学生さんのしぐさや自分の心の動きに敏感であろうとしていましたが、それらの体験をきちんと記録しようとまではしていませんでした。これからの自分の課題として、こういった情動的な体験の省察と記述を心がけたいと思います。

以上、中途半端に私の理解や蛇足の話が混じったまとめとなりましたが、本書の紹介とさせていただきます。オープンダイアローグというフィンランドの実践が、日本を含めたさまざまな国・地域のさまざまな職種で消化され、新しい展開が出てくれば面白いと思っています。











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2017年8月25日金曜日

ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社



以下は、ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』の中で、特に私にとって印象的だった項目をまとめたお勉強ノートです。→の後に書かれている文は私見です。この本にご興味をお持ちになった方は必ずご自身でこの本をお読みください。


■ 変わるのは誰か?

オープンダイアローグでは、家族も対話の中に入ってもらうが、これは家族を治療者にするのでなく、家族も当事者や専門家と共に市民社会的共同体をつくるという思想がある。(p.3)

→変わるのは、問題を抱える治療者だけではない。まわりの人間、つまり家族も専門家も共に変わり、しばしばその後者の変化こそが重要な時もある。


■ 人間性と専門家性の両立

オープンダイアローグでは、当事者の語りに心動かされて専門家が思わず涙を流すことすらある。だが同時に、専門家は専門家であり、専門家としての責任がある立場でもある。 (p.17)

→従来の専門家のイメージなら、専門家が自らの感情を自然に表明することは忌避もしくは抑圧されていたが、オープンダイアローグでは人間として自然な感情の発露は抑制しない。だが、同時に専門家が専門家としての職業的責任をもっていることは忘れてはいけない。このあたりの専門家性の強調は、もともと職業的専門家がいない状況でも行われうる当事者研究とは異なるのかもしれない。


■ なぜ専門家が主観的であってはいけないのか?

時に、「専門家は主観的であってはいけない」との批判があるが、トム・アーンキルは、人間が自らの主観性を捨て去ることなどそもそも可能なのか、主観性を捨てなければ客観的になれないとしたら誰もその意味での客観性は達成できないし、もし達成できるとしたらその人はもはや人間ではなくなってしまう、と再反論する。(p.20)

→このあたりの「客観性」をめぐる議論については以下の論考にまとめています。

「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿


■ 「ベストメソッド」をこの場にもちこむな

ヤーコ・セイックラは、これまでの自分の知識や経験で自分がこれこそは「ベストメソッド」(最善の技法)だと信じている方法を今・ここの場に持ち込んで、その場を支配するようなことはしてはならないと考えている。「なぜならもっと優れたものが次に出てくるはずだ」「しゃべらず、耳を傾けよ!」とヤーコ・セイックラは言う。 (p.22)

→専門家あるいは経験豊かな人が心がけなければならないことは、自分の信条を押し付けないこと。だからといって、自分の信条やその基になった知識や経験をすべて忘れなければならないということではない(そもそもそのようなことは人間にはできない)。そうではなく、決めつけることなく謙虚に観察をする中で、どこからともなく、その場にもっとも適した方法が生じてくるはずであり、その際には自分のこれまでの知識や経験も活きるはずだから、まずは対話の流れに身を任せることが重要。

ちなみにこのあたりの考え方はボームの対話論に通じている。

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から

ボームの対話論についての学生さんの感想


■ 既定のゴールに対話を導いてはならない。

専門家はしばしばある既定のゴールを問題解決のための結論であると想定しつつ、先回りしながら他の人の発言を聞くが、それは傾聴とはいえない。傾聴するためには、今・ここにいなければならない。そのための一つの方法は繰り返し(リピート)であり、「あなたの言っていること・感じていることはこういうことなのですか?」と反復しつつ尋ねてみることである。(p.35)

治療に関するミーティングにおいて専門家は常にクライアントのストーリーを聞くことから始めるべき。何をするべきかを専門家が考えるのはミーティングが終わるときでよい。 (p.42)

→「繰り返し(リピート)」といっても、これは文字通りの繰り返し(オウム返し)ではなく、聞き手なりの理解とことばに基づく言い換えによる問いかけのように思える。もちろん、聞き手が自分の考えに引き寄せて強引な言い換えをしてしまえば話し手は話す気を失ってしまうだろうが、聞き手ができるだけ忠実に聞き手を理解しようとした上で言い換えたことばによって謙虚に問うならば、話し手も自らの発言に新たな理解を見出し、意味はそれだけ豊か(=新たな展開をより生み出す)になるだろう。(このあたりについてはバフチンは何か言っているのだろうか?私はバフチンを四半世紀前に読んだきりなので再び勉強しなければならない)。


■ 「思想はきっちりと、実践はおおらかに」

高木俊介は自らのモットーとして「思想はきっちりと、実践はおおらかに」を掲げる。「逆だったら大変ですよね」とも彼は言う。 (p.86)

→これは私が非常に共感したことば。しかし英語教育の世界ではほとんど「思想がほぼ皆無、実践は厳格に」といった状態であるようにも思えるので、このモットーに共感する人が増えるようにきちんとした文章を書かねばならないと反省(汗)。



関連サイト

オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン
https://www.opendialogue.jp/

竹端寛 「「病気」から「生きる苦悩」へのパラダイムシフト : イタリア精神医療「革命の構造」」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009551596






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2018年11月7日水曜日

「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」、あるいは「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」


斎藤環先生による「「新しい人間主義」の潮流、四大思想」(『精神看護』2018年11月号pp. 532-541)の特別記事は感慨深いものでした。特にオープン・ダイアローグの要約「倫理的であることこそが、治療的である」 (p. 534) は、見事にこれら四大思潮(オープン・ダイアローグ、ユマニチュード、ハームリダクション、ハウジングファースト)の本質を表現しているのではないでしょうか。

従来、臨床倫理は治療効果とは別のもの、時に後者にとっての制約とすら考えられてきましたが、オープン・ダイアローグにおいては「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」 (p. 534) と斎藤先生は述べます。

ここでの倫理性とは、自由の尊重(入院や薬物治療などの強制的な治療方法はできるだけ使わない)、尊厳の尊重(診断や症状名よりも患者自身の表現を重んじる)、権利の尊重(あらゆる決定を当事者の目の前で行う)、尊厳と権利の尊重(密室性が解消されヒエラルキーをもたない治療チームを編成する)、不確実性の耐性(治療者が治療場面のコントロール件を半ば手放し、予想外のアクシデントすらも受け入れながら対話を進める)、などで具現化されている姿勢です。(pp. 534-536)

私は先日、数学の福島哲也先生にお会いしたばかりということもあり、この「治療者の倫理性こそが、治療の有効性を担保する」 ということばは腑に落ちました。福島先生も「教師が生徒をコントロールしない」、「教師と生徒が対等な関係を築く」、「教師は生徒の可能性を疑わない」、「教師は生徒の多様性を認める」といった「人間的な関係」によって「学びに向かう力」が生まれるとおっしゃっていました。「教師の倫理性こそが、指導の有効性を担保する」と言い換えてもいいかと思います。

福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/blog-post.html

そういえば、私は何人かの本当にすぐれた現場教師を知っていますが、その先生方はどの方も人間的に尊敬できる人で、「倫理的」ということばすらふさわしい方です。

福島先生も「倫理的」といったことばを面映ゆく思われるかもしれませんが、公立学校の現場で鍛えられて優れた教育実践に至った先生方は、誰と話をする際も、まっすぐに目を合わせます。落ち着いた態度ときりりとしまった口元も、その先生方が信念の人であることを示しています。

そういった先生方は、派手なパフォーマンスとも無縁です。もちろん授業内ではずいぶん面白い行動も示しますが、自分の実践について教師仲間に語る時には、決して自慢したり、過剰な演出をしたりしません。ぐいぐいと自説の正しさを売り込むような商売上手ではありません。自分が他の教師よりも上の存在だとは決して考えずに、もし自分がそのように思われているのではないかと察知した時には、「そうはいっても、○○のようにうまく行かないこともあります」と率直に自分の実践の限界を認めます。あるいはユーモアで、笑いと共に高まった自分のイメージを引き落とします。生徒の名前をすぐに覚えることはもちろんのこと、研究会などで会った人の名前もできるだけ覚えようと努力されています。

こういった先生方とお会いする機会を得た私としては、「倫理的であることこそが、治療的である」というオープン・ダイアローグの要約には、なるほど名言だと思わされました。学校教育においても、教師が「倫理的であることこそが、学びを促す」とも言えるでしょう。あるいは究極的には「教師と学習者が共に倫理的であることが、学びを促す」と言うべきなのかもしれません。

くどくなるようですが、ここでいう「倫理的」というのは、具体的な行動に体現している態度です。上に述べた先生方も、そういえば、ユマニチュードの原則でまとめるなら、「見る」(できるだけ水平な視線で語り合い、文字通り、見下さない)、「話す」(相手の人格・自由・自律を尊重した語り方をする)、「触れる」(ハイタッチや握手など社会的に適切な身体接触を行う)、「立つ」(生徒を椅子に拘束しない)などの点で、倫理的です。

「ユマニチュード」あるは<人間らしさ>を教室でも実践することについて
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post_13.html

そしてこれらの態度は、形式的な行動様式ではなく、心がこもったものであり、状況の変化に対して柔軟です。別の言い方をするならば、感受性豊かな倫理性と言っていいかもしれません。


「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」
(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html

ヴィトゲンシュタインのことばを借りるなら、すぐれた現場教師は倫理を「語るものではなく示すもの」であると考え、道徳的説諭はできるだけ控えます。私の尊敬するある先生は、「大切なことになればなるほど、私は声を落ち着かせて事実を述べて、生徒自身に考えさせ、判断させます」ともおっしゃっていました。

そういった先生方は、私のようにすぐにお説教モードで語ってしまう偽善者や、糖衣でくるんだような道徳的メッセージを感動的に語る講演家などとは異なり、実直に誠実に毎日毎日学習者のために汗を流しています。そして他人に謙虚さを印象づけないような謙虚さを身につけています。実は自分自身も失敗や問題を抱えていることを素直に受け入れ、その葛藤の中で、できるだけ倫理的であろうとし、日々、倫理的であるとはどういうことかを具体的な行動の中で探究しています。

私が現場教師のお話をできるだけ聞こうとするのは、こういった方々にお会いできるからです。

そういった先生方がおっしゃる「教育は私の天職です」ということばは本当に胸にしみます。そういった教育を健全なままに保つための努力を怠ってはいけないと反省もさせられます。

と、教育の話になりましたが、今回の『精神看護』も面白い号でした(次は私が聞き逃したシンポジウム「オープン・ダイアローグと中動態」が特集されます)。精神医療の現場は教育現場以上に、「生きるとは何か」を考えざるをえない現場ですから、そこから生まれてきた知恵やことばは本当に勉強になります。私は『精神看護』の雑誌を購読し始めてから二年ぐらいになるかと思いますが、これからもこの雑誌やその他の精神医療の書籍などから学び続けてゆこうと思っています。



 



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2019年2月4日月曜日

野口裕二 (2018) 『ナラティブと共同性 自助グループ・当事者研究・オープンダイアローグ』




この本はナラティブ・アプローチに関しての全体像を得るのに非常に役に立ちました。本書は四部から構成されています。特に、一般向けに書かれた第一章、現職教員向けに書かれた第二章、文学研究者向けに書かれた第三章から構成される第一部は、およそことばに興味を持つ人にとって非常に含蓄のあるものになっていると言えましょう。

個人的に今回私は、オープンダイアローグについて書かれた第三部を面白く読みました。以下の■は、その中でも特に勉強になったところを私なりに表にしてまとめた「お勉強ノート」です。日本では(臨床)社会学者などにより研究が進んでいるナラティブ・アプローチですが、正直、私はこの分野について不勉強です。そんな私がまとめたものですから、誤解などがまぎれていることを怖れます。ご興味をもった方は必ず原著をご参照ください。なお▲は私の蛇足です。



■ ナラティブ・アプローチの三つの代表的方法の特徴

第七章 (pp. 109-122)
「ナラティブとオープンダイアローグ --
アディクションへの示唆」より


代表的著作
特徴


Narrative Therapy
White, M. & Epston, D. (1990). Narrative Means to Therapeutic Ends, New York, W. W. Norton. (小森康永(訳) (1992) 『物語としての家族』 金剛出版)

・「外在化」
・「問題が問題なのであって、人が問題なのではない」


Collaborative Approach
Anderson, H. & Goolishian, H. A. (1988). Human System as Linguistic Systems: Preliminary and Evolving Ideas about the Implications for Clinical Theory. Family Process 27 (4), 371-393. (野村直樹(訳) (2013) 『協働するナラティブ』 遠見書房)

・「治療的会話」
・「無知の姿勢」


Reflecting Team
Andersen, T. (1991). The Reflecting Team: Dialogues and Dialogues about Dialogues. New York, W. W. Norton.(鈴木浩二(監訳) (2001) 『リフレクティング・プロセス』 金剛出版)

・「リフレクティング・プロセス」
・対話の外部からの視点を参照しながら対話を深める。


■ オープンダイアローグとナラティブアプローチの三つの違い

第八章 (pp. 123-133)
「ソーシャルネットワークの復権」より

(1) ソーシャルネットワークの再生を直接目指す (Seikkula & Olson, 2003)
▲ オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について

(2) これまで語られたことのない経験にことばを与えることの重視 (ditto)

(3) 情動の重視 (Seikkula & Timble, 2005)
▲ オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
▲ オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念


■ 家族療法・ナラティブアプローチ・オープンダイアローグの比較

第八章 (pp. 123-133)
「ソーシャルネットワークの復権」より


発見
問題認識

家族療法

・「悪循環するシステム」としての家族
・問題は個人というより家族システムで発生

ナラティブアプローチ
・「言説に支配されるシステム」としてのヒューマンシステム

・問題は家族システムというより言説システムで発生
・「外在化」などで問題を解決せずに解消させることが可能

オープンダイアローグ
・「独話に支配され対話のないシステム」
・問題の発生場所を特定することより、問題をめぐって対話を行うネットワークを作り上げる方が大切


▲ オープンダイアローグと当事者研究、そして関係性文化理論

上の二つの第八章のまとめから考える限り、オープンダイアローグと当事者研究には大きな違いはないように私には思えます。

そうなりますと野口先生がオープンダイアローグについて述べられている「個人の変化ではなく、個人が取り結ぶ関係の変化」、「個人の能力や資質ではなく、個人が生きる場や関係を豊かにすること」、「ひとりでも頑張れる能力ではなく、みんなで生きていく関係を作ること」 (p. 133) を目指すことは、当事者研究についても当てはまることかと思います。

これらの関係性の重視に関しては、共同研究者の中川篤さんが関係性文化理論 (Relational Cultural Theory) に注目して、その視点から当事者研究などのコミュニケーションのあり方について解明を加えようとしています。その研究の途中経過は以下で口頭発表します。


中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

言語文化教育研究学会第5回年次大会
2019年3月9日(土) 13:15-13:45
早稲田大学早稲田キャンパス3号館709教室
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しかし、もちろんオープンダイアローグと当事者研究がまったく同じというわけではありません。オープンダイアローグが治療方針などを決める話し合いを専門家だけの場から専門家だけでなく患者や関係者も含めた共同体の場に移したという意味で「開かれた対話」をしたのに対して、当事者研究は話し合いを当事者研究の共同体を超えて広く社会に公開するというより積極的な意味で「開かれた対話」をしているという点で大きく異なります(第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会での熊谷晋一郎先生の発言)。

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して

この意味では、当事者研究の方が、より社会性の高い方法と言えるかもしれません。もちろん、これは当事者研究の方がオープンダイアローグよりも優れているなどといったことを含意するものではありません。情報公開の輪をどこまで広げるかは、当事者の置かれた状況などから判断すべきことは言うまでもありません。

 ナラティブ(あるいは物語)というのは、人文系の中核にある概念だと思います。人文系でしかありえない私としてはこの概念について以下のようにいろいろと考え続けていました。幸い、もうすぐブルーナーの物語論を基にした論文を公開することができ、それは私にとっての一つの到達点となりますが、もちろんそれはまだまだ物語論の表面をひっかいたぐらいのものです。これからもこの概念について勉強を続けなければと思います。


 



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