2016年5月14日土曜日

飢餓陣営・佐藤幹夫 (2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)



この本は齋藤環氏による『オープンダイアローグとは何か』(2015年、医学書院)の出版を始めとした、オープンダイアローグへの関心の高まりを受けて緊急出版されたものです。斎藤氏の著作を読んだ人にとって同著を多角的に読み解くための良書となっているかと思います。

この本には多くの人びとの論考と発言が寄せられていますが、私はとりわけ佐藤幹夫氏と内海新祐氏と小林隆児氏の見解を面白く読みましたので、ここでそれらを(私の蛇足と共に)紹介しておきます。




■ 佐藤幹夫氏の読解

佐藤幹夫氏はフリージャーナリスト・フリー編集者(肩書は同書p107ページによる。以下同じ)で、この本の編者です。佐藤氏は「「オープンダイアローグ」についての問題提起 」(pp.6-14)で彼が斎藤 (2015) をどう読んだかを披露していますが、彼が斎藤 (2015) の最大のポイントの一つとして指摘したのは「主体としての患者」の論点です (p.12)。

詳しくはこの佐藤論文を読んでいただくとして、オープンダイアローグを教育現場(教師教育や学習指導)で活かせないかと考えている私としては、「病者・患者・クライアント」と「治療者」を適宜「当事者」と「専門家」に読み替えてまとめてみました(ここでいう「当事者」とは、授業運営などで困っている教師や勉強や学校生活で困っている学習者、「専門家」とは「教師教育者」や「担当教師」とご理解ください)。私の読み替えは以下の通りです。


オープンダイアローグなどの試みで一番大切なのは、当事者が自分自身を、問題の一番の主体として引き受ける存在となることである。そのために当事者は、問題を、専門家が解決するものではなく、自分自身のこととして、自身の状態を語り言語化する。

これまで当事者は専門家の指導・指示に従う「よい当事者」であることが問題解決のために望まれていたが、これはやや大げさな言い方をすれば、指導・指示の名の下に、当事者の主体性が一定程度奪われていたことでもある。

しかし、オープンダイアローグでは当事者の主体性を主とし、専門家は主体となった当事者に付き合い寄り添うことを最大の仕事とするようにする。そのことで、意欲-主体-自然治癒力が相互作用を及ぼしながら、よりよい状態を作り出してゆく。(佐藤氏の論考(pp.12-13)を元に柳瀬が作成したまとめ)。



こういった解釈からは、オープンダイアローグと当事者研究の親近性が強く現れます。もちろんオープンダイアローグと当事者研究の関係についてはもっと丁寧な論考が必要でしょうし、何よりこれらの実践を教育現場において応用的に展開してゆくためには、さらに具体的に考えてゆく必要がありますが、当事者の主体性の復権(あるいは獲得)という論点を重視する佐藤氏の見解には私も共感しましたので、ここに私なりの書き換えをしてみた次第です。



■ 内海新祐氏の指摘

児童養護施設職員・臨床心理士である内海新祐氏は、紹介者の齋藤氏も主導者のセイックラ氏も言及していませんが、オープンダイアローグはロジャースクライエント中心療法とも近縁性があることを述べます。その上で内海氏は、オープンダイアローグの根本的な考え方を理解しないと、オープンダイアローグがクライエント中心療法のように、一時の熱狂を経て次第に下火になってゆくかもしれない可能性を指摘します(「「オープンダイアローグ」の実用性をめぐって」p.61)。

内海氏によれば、ロジャースの理論は、アメリカの精神分析的精神療法の「介入型」の治療や、日本の「あるべき方向へ教え導く」相談・助言の常識に対置されたため大きな影響力をもちました。オープンダイアローグは、現在のアメリカ式のマネジドケア (managed care)に対置される試みとしても耳目を浴びていると考えられます。

しかし内海氏は次のように指摘します。

だが、時代の人間観はまだ、線形的なモデルに基づいたわかりやすい病理論や治療論を信奉しており、オープンダイアローグのような、"詩的"な説明を受け付ける器をもっていないのではないか。(p.61)


線形的な認識論が主流の現在では、「治療の成否は実現される対話の質のみ」という考え方は受け入れられにくく、オープンダイアローグもやがて、クライエント中心療法がたどったように、誰にでもわかる基準に基づいた明瞭な技法を前に下火になってゆく道をたどるかもしれないというのが内海氏の懸念です。

だからこそ、オープンダイアローグを単なる技法として受容(あるいは消費)するのではなく、それに伴う根本的な認識論や人間観の理解が必要だというのは、私もまったくその通りと思いましたので、ここで紹介しました。



■ 小林隆児氏による情動の重要性の指摘

精神科医師・西南学院大学教授の小林隆児氏は、オープンダイアローグにおける情動の役割の重要性を説いています。

座談会(討議)の「『オープンダイアローグとは何か』を現場から読む」 (pp.30-53)で、小林氏は自身が担当している自閉症の子のエピソードを紹介します。臨床心理士によるプレーセラピーを繰り返していた自閉症の子に小林氏は精神科医としてそろそろ一対一の面接をした方がよいと判断し、その子に面接を提案します。その子は嫌がらずにその提案を受け入れ、当日は面接室でしばらく待っていたそうですが、小林氏が入るや否や、手に取っていた雑誌を開いて「ここにあるこれはどういう意味か」と強迫的といえるぐらいに質問を繰り返したそうです。 (p.45)

小林氏は言います。

この質問は、わからないからしているんじゃない、ということがぼくにはすぐにわかったの。不安がいっぱいで耐えられないほどだから、こうやって質問をすることで、相手を自分のペースに巻き込んで、自分の不安を和らげようとしているんだ、ということにぼくは気づいたの。だから彼の不安が収まるまでしばらくだまってじっと落ち着くまで待ったの。 (p.45)


小林氏は、コミュニケーションを発達論的に捉え、コミュニケーションを「まずは、情動(感性、身体)水準でのコミュニケーション、ついでそれを基盤にしてことばによる(理性水準の)コミュニケーションと進展してゆく」と考えています(「「オープンダイアローグ」との対話(ダイアローグ)」 (p.25)。しかし、ことばの獲得において情動体験が調和していないならば、様々なコミュニケーションの問題が生じてしまうと小林氏は見立てています。

この見解と上記のエピソードをもとに語る論点 (p.47)を私なりにまとめれば次のようになります(まとめは佐藤氏の時と同じように、精神病理の問題を、その他の問題も含めた拡大的に解釈したものですので、正確な理解をお求めの方は同書をご参照ください)。

(1) 問題を抱えた当事者の情動は非常に不確実なものであり、当事者は自らの情動に身をゆだねることを非常に怖れている。

(2) だから当事者は確かなものにしがみつこうとしていろいろなものにすがりつくが、その一番の典型がことばの字義にこだわることである。

(3) ことばは、字義(顕在的な文字通りの意味)の背後にある話し手の情動を感じ取って初めて意味が理解できるのだが、情動に波長を合わせることは、当事者には怖いことなのでことばの字義だけにしがみつこうとする。


この状況はよくわかります。実際、「精神を病んだ人」だけでなく、日常生活で問題を抱えてしまった人が、上記のように執拗にことばの表面的な意味だけにこだわることは私たちの身の回りでもしばしば観察されることかと思います。

こういった当事者を前にした場合に私たちがするべきことは、当事者のことばの字義に(のみ)反応するのではなく、当事者の声色や身ぶりや表情などの「身体言語」を通じて、当事者の情動を感知し --身体言語は時に非常に微妙ですから、私たちは感受性を高めていなければなりません--、それに自分の静かな情動を寄り添わせ、当事者に共鳴させながら、当事者を落ち着かせることでしょう。

ただ当事者に接して、冷静であるはずの人間の情動も混乱し、字面だけにこだわった「ギロン」になってしまうことも日常生活にはよく見られることです。そうならないためには、小林氏が指摘する以下の情動的コミュニケーションの特質(オープンダイアローグの用語で言うなら「情動共鳴」(emotional attunement))を私たちはよく理解しておくべきです。

情動的コミュニケーションは、情動が二者間で共振するという当事者同士も気づかない次元でのコミュニケーションである。(p.104)


関連記事:オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html

このように専門家も当事者の一人として自分の情動のあり方に対して注意を払いながら、もちろん問題を抱えた当事者の情動のあり方に注意を払うこと、そしてその対話によってどのようにそれぞれの(あるいは二人の)情動が変化するかにも注意を払うことが重要になります。小林氏は「精神療法をはじめとする人間科学のエヴィデンス」として必要なことを次のように述べます。

当事者の一人である治療者自身が、その場で繰り広げられる対話の中で何をどのように感じつつ対話に参加しているのか、その主観的体験自体を率直に開示することが不可欠である。そして、そこでどのような体験が対話において治療的作用を持ったのかを治療者は明示することが強く求められる。そのことを誰にも分かるように開示することを通して他者との共通理解が生まれる。 (p.101)


私は昨年度に続き、今年も春休みに学部チューター生29名を対象に、一人一時間の個人面談を行いました。延長したり再び行った面談もありますから、30時間以上、個人面談を行ったことになります。

その際に留意したのは、もちろん傾聴と対話でした。20代の自分のように独話(モノローグ)的に「助言」や「指導」をするのではなく、まずは虚心坦懐に学生さんの言うことに耳を傾け(傾聴)、その中で出てきた自然な流れにそって私も発言し、その対話の中から新たなものが生まれてきたことも多かったと自負しています(これが過度のうぬぼれであればいいのですが)。

その際、もちろん私は学生さんの情動のあり方と自分自身の情動のあり方に注意を払い、学生さんのしぐさや自分の心の動きに敏感であろうとしていましたが、それらの体験をきちんと記録しようとまではしていませんでした。これからの自分の課題として、こういった情動的な体験の省察と記述を心がけたいと思います。

以上、中途半端に私の理解や蛇足の話が混じったまとめとなりましたが、本書の紹介とさせていただきます。オープンダイアローグというフィンランドの実践が、日本を含めたさまざまな国・地域のさまざまな職種で消化され、新しい展開が出てくれば面白いと思っています。











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ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社
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