2016年5月8日日曜日

ボームの対話論についての学生さんの感想



この春は、ボームの対話論を面白く読みましたので、英語教育専攻の学部生が受講する学部生対象の授業(「地球的言語としての英語」)と、さまざまな研究科の院生が受講する大学院の授業(「学術的文章の書き方とその指導法」)でこの対話論について少し話をしました。

以下は、学生さんの感想の一部です。微修正以外は原文のまま掲載していますが、赤字は柳瀬が加えたものです。



*****学部生の感想から*****


今日の授業で「対話」についてほかの人と「対話」をしてみて、対話って心地いいものなのだなあ、と感じました。誰かを攻撃する必要も、攻撃されることもなく、誰もが自分の意見を受け入れてくれる。そんな状況だからこそ、自分自身もほかの人が話してくれたことを受け入れる姿勢をとろう、と感じることができました。はじめは、「対話」とは何のことだろう、とあまりよくわからなかったのですが、話を進めるにつれてなんとなく「対話」のイメージをつかむことができたのは今日の大きな収穫だったように感じます。このイメージをつかむことができたのは特定の誰かのおかげ、というわけではなく、自分も含めたみんなのおかげであり、全員が一緒に話をすることによって、それぞれが最初に持っていた「対話」からさらに進んだイメージを獲得することができてうれしく思いました。

私は、普段「対話」を特定の人としかできないように感じています。別に「対話」をしなくても表面的な話をしていればその場はなんとなくしのぐことができるように思いますが、教師と生徒の間には「対話」が必要なのではないかと思います。今日、クラスメイトの一人も言っていましたが、「対話」をするためには聞く側の姿勢、意識が大切で、相手が話したくなるような姿勢を、意識的にでもしていきたいと思いました。



「対話」というものについて、正直自分の「対話」経験を具体的に思い出すことができず、授業においてあまりピンときませんでした。「新しいものをともに見出す」ということに注目すると、ディスカッションとの区別がわからなくなってしまいます。

しかし、「対話」というものについて、今回の授業を通じてわかったことが三つあります。一つ目は、「対話とは、協力的な関係の上に成り立つ」ということです。相互に思いやり聞く耳を持たなければ、一方的な報告や、ぶつかり合いの喧嘩になってしまいます。二つ目は、「対話は、両得である」ということです。参加するどの人にとっても、対話を通して何かを得る経験ができるということです。対話をすれば、それまで見えていなかったものが見えてきます。たとえ対話を通して得られたものが、相互の間に合った「すれ違い」や「誤解」であったとしても、それらに気づいた経験は相互にとって得であるといえます。対話を通して得られるのは、単に「新しいもの」だけではなく、それまで見えていなかったものへの「気づき」であるのかもしれません。最後に、「対話はとても難しい」ということです。話をする際は、誰しも何を話そうとか何を伝えようとか、無意識であってもなんとなく考えてから話し始めると思います。しかし、対話が始まれば、古い思考や意図はいつでも放棄できる状態にないといけないのです。これが本当に難しいのだと思います。

現時点では、断片的な理解しかできておらず、「対話」について自分なりの定義がうまくできません。これは、「対話」というものを具体的に理解するための実体験が思い浮かばないことが原因であると思います。これから誰かと話をするときは、自分はどんな風に話をしているか、相手はどんな風に自分の話を理解しているかを慎重に考えたり、話が終わった後で、会話の中で何が生じていたのか振り返ったりすることから始めようと思います



「対話」という言葉の本当の意味を理解して、普段何気なく使っている言葉の意味をもっと大切に考えていかなければならないという思いを持ったと同時に、「対話」ができる人間にならなければならないと感じました。正直言って、大学で方法論を学んだりしていて、結局どのような指導が正しいのか、また結局この講義で何を学んだのかわからないという経験がこれまで多くありました。しかし、英語教育においても、一律の正解は存在しておらず、その答えのない問いに向かって進んでいかなければならないということに気付きました。言うならば、私たちは講義で物事を考えていくための引き出しを学んでいて、そこから新たな創造をしていくために引き出しを使って考えていくということを理解しました。これから先、答えのない問がさらに増えていくなかで、自分で、またはほかの人と協同し、「対話」を通して新たな価値の創造をしていかなければなりません。



今回のテーマは「対話」でしたが、自分が考えていたことよりも対話の意義は深く、より対話というものが魅力的に感じられるようになりました。自分の意見を押し付けるでもなく、相手の意見をすべて聞き入れるでもなく、相手の意見と自分の意見の違いを認識するということを繰り返していくことで、何か新しい方向性をとらえ、新しいものを創造していくという対話の本質を知り、今までの自分の対話の態度(特に聞くとき)を振り返り、これからはより良い態度で、その意味を理解した上で対話をしていくようにしたいと考えるようになりました。そして、そこから自然に生まれてくる「何か新しいもの」こそが非常に価値の高いものなのだと思うようになりました。



これまで学生同士の勉強会でもディスカッションの練習を行ってきましたが、今回の「対話」はこれまでのものといい意味で大きく違ったものになりました。率直に言って「対話」をしていて「楽しかった!15分では足りない!」という感情を抱きました。このように感じることができた理由を考えたので数点に分けて述べたいと思います。

まず1つめに、話しやすい雰囲気を作り上げることで、参加者全員が積極的に参加できるようになったということが挙げられると思います。今回私が意識したことは参加者が自由なタイミングで自由に発言できるような働きかけです。前半のグループでは「○○さん、どうですか?」という誘導があった為、ほかの参加者が発言してはいけない空気が流れていたように思いました。「意見のある方からご自由におっしゃってください。」と少し言い方や働きかけ方に工夫を加えることで、大きくディスカッションが変わっていくことが目に見えてわかり、コミュニケーションは言語だけではなく、心理的な影響など様々な要因が絡み合っていることを体験的に気づくことができました。さらには、話しやすい雰囲気を作り上げたことで、意見の付け加えや、疑問の投げかけができるようになったように感じました。話をするための技術をもっと学びたいです。

次に、話し合いの方向性、ディスカッションの終着点を設定し、参加者同士で話し合いの内容の共有ができたからだと思います。これまで経験したディスカッションでは、話し合いを進めていると、「あれ?これは何のテーマに沿った話し合いだっけ?」と感じたり、「話がうわべだけで、内容がふわふわしている。」と思ったりすることがよくありました。最終的に話の結論がうやむやになって生産性のないものになっていました。今回はディスカッションの頭である程度の情報共有ができていたので、具体的な数字や教育方針を話の中に盛り込むことができ、活発な話し合いになったのではないでしょうか。また、そうしたことで話がそれたりしたときに、戻るべき芯をブラさないように話し合いを進めていけたと考えています。漠然としたテーマを与えられたときにも、そのテーマの中でも何について話し合うのかを緻密に考えていくことがとても大切になるということを理解しました。

最後に、話し合いのなかで「文化の変容にどう対処していくか。」という話題があがったときに、「文化の変容自体は悪いことではないのでは。」という意見があり、そこで「対話」の面白さに触れることができたということが挙げられます。私自身、前者の意見を持っていましたが、S君の意見を聞いて、「確かにそうだな。じゃあそこは問題ではないから、また違う視点を探そう。」という気持ちになれました。これこそ、自分の持っているベクトルと異なるベクトルを擦り合わせていくこと、つまり「対話」なのだと気づきました。この感覚がこれから「対話」をしていくうえで重要になってくると思うので、オープン・マインドでしっかりと他者の意見に耳を傾け、ディスカッションが目的ではなく、手段になるように訓練を積んでいきたいです。




*****大学院生の感想から*****


「対話」という言葉は知っていたものの、その意味について正しく理解していなかったと感じました。
私は、対話とは単純にお互いに向き合って考えを話すことで、そこで完結させるものだと思っていましたが、本当は、自分と相手の意見間の差異を発見し、新たな対話へと発展させていくことで、常に継続されるべきものであると分かりました。
つまり、対話を成立させるためには、考えを発信するだけでなく受信すること、答えを出そうとするよりも次の問いを見つけることが必要であり、その実践は無意識でできることではなく、とても難しいと感じました。
まずは意識して対話を試みることから始めようと思います。


「議論」と「対話」の違いについて考えさせられ、気づかされた授業でした。授業内のグループ討議で、普段どんな対話をしているかという話題になり、ふと省みたとき、私は今まであまり対話というものをしてこなかったのかもしれないと感じました。私は、日頃何か意見をする際に、どうしたらこの考えの正当性を認めてもらえるか、反論されないか、ということを念頭に置いて話をしているように思います。このやり方や考え方は、恐らく「議論」に当てはまるのでしょうが、状況によっては、「議論」ではなく「対話」をするべき場面もあるはずです。そういったときに、自分の考えをわかりやすく相手に伝えるだけでなく、相手の考えも自分の中に取り込める余裕を持っていたいと感じました。また、この対話をするという行為は、直接的に人と言葉のやり取りをしていなくても、対自分であったり、対文章であったり、私のように芸術を専攻している者としては、対作品であったりと、様々な場面で活用されます。今後は、議論と対話のどちらがふさわしいか、使い分けて生活していきたいです。



たとえ同じ方向性を持っていたとしても、聞き手が全く同じ意味での反応をするとは限らず、むしろ聞き手との間にある差異について前向きに考えることが何より大事だし、クリエイティヴである、という点で大いに納得した講義でした。音楽演奏を嗜んでいる身としては、確かに記譜上の記号や音響空間と対話して音楽を創り上げていることは間違いないですし、合同演奏においても創造的な結果を求めていた点で、意識しないうちに仲間と対話していたのだなと思い返しました。いずれにせよ、変なプライドは対話には不要で、真理の追究のために、共に参加し全員が何かを収穫していくことが大切なのだと考えました。



私は、対話とは「自身の考えを聞き手に伝え、相手の考えを受け入れながらも自身との考えに差異を見出し、その差異を客観的に見つめることにより新たなものを生み出すこと。この絶え間ない繰り返しの行動。」とまとめました。
同じグループの人と共感したことは、私達は自分の意見に自信があればあるほど差異を見つけ出しにくくなったり、差異を客観的に見られなくなったり、差異に対する反撃をしたりして、対話が成り立たなくなるということです。また、私と異なる意見の中で特に印象に残ったものは、「自分の意見という一つのフレームの中で議論することは大変危険であり、それからは何も生まれない。差異に目を向けず、フレームをどんどん大きくしていき、自分の意見の正当性だけを主張することがどれだけもったいないことか分かった。」という考えです。生まれた差異から、自分の考えの大きさがどのように変化するかに目を向けたユニークな意見で、対話の考え方に新たな視点がもてました。
これからは「対話」を通して、自身の考えを新たな段階にもっていけるように心がけます。また、私は芸術専攻なので、作品制作にも「対話」を生かしていきたいです。



このたび、Bohm氏の「対話」というコンセプトについて学びました。個人的な見解を言わせてもらえば、「対話」において話し手と聞き手の間に常に「空白」があります。よって、話し手が言ったことと聞き手が理解したことの間に差異が出ることは避けられないものです。にもかかわらず、差異を利用することによって、聞き手は新しいものを創造することができます。
これまで「対話」をしたことがあるのかという問いに対して、やはり論文を書くたびに「対話」を体験していますとお答えします。というのは、論文を書く前に、必ず先行研究を調べて読み解くというプロセスを繰り返すからです。先行研究を読みながら触れられていない問題をピックアップして、自分の研究における土台とします。先行論において触れられていない問題を自分の研究における土台とすることは「対話」といえるだろうと私は思います。



今回の講義で、対話という観点からゼミナールの意味を改めて認識しました。
研究室に入ってから、週一回のゼミがずっと行われていました。最初はただ自分の研究進捗をみんなに報告するためと思っていました。しかし、対話という観点で考えてみれば、ゼミを行われたことは自分の研究に最も重要な意味を持っています。毎回発表する時、よく先生や先輩たちからの質問とコメントをもらいました。自分が見えないところを発見できるし、新しい考え方も生み出せます。
今後はよくこういう「対話」を利用して、研究を進めたいと思います。



「対話とは何か」について数人の人と対話しながら考えた。初めて会った人とどこまで打ち解けあって対話できるが不安だったが、『知識不足をバカにするような態度がない(自尊心を傷つけてこない)』『攻撃的な言葉を投げかけてこない(仲間であるという安心感)』ということがわかると、リラックスし、自分の考えが素直に話せるようになった。逆に自分自身が他人に対して攻撃的な態度をとっていないかを気を付けていきたい



はじめに、「学術文章とは、対話から生まれ対話を生み出すために書かれた論証」と聞いたときには,私のイメージしていた学術文章とは少し違うという感想を持ちました。私自身は,どちらかと言うと,反論されない文章のことをイメージしていたからです。
先生の説明を聞き,他の人と話し合う中で,対話の難しさを痛感するとともに,真理に向かってつながっていく、切れ目のないものという崇高なものを感じました。そして、自分がこれから書いていくんだという、わくわくした気持ちになりました。





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