深い知恵を語るやさしい言葉を理解することは難しいことですが、私にとってのその一例は、桜井章一先生がしばしば語る「目標を横に置く」という言葉でした。どこか腑に落ちず、私はこの言葉をもちあぐねていました。
しかし最近「べてるの家」を読んで、ぼんやりと考えていたら、「あ、こういうことかな」となんとなく自分で納得できました。
近代社会で私たちはしばしば目標を「前に」置きます。
前に置かれた目標は自らが到達するべきゴールで、いわば「理想の自分」です。その「理想の自分」から「現在の自分」を引き算したら、「努力するべき自分」が得られます。その「努力するべき自分」を、「理想の自分」への到達予定日時までの単位時間で割れば、それまでの単位時間で自分が何をやればいいのかがわかります。その少分割された努力を積み重ねてゆけば目標は達成できるという方法は、ビジネスやスポーツなどの「成功本」の定番ですし、私も幾度となく実行し有効性を感じてきましたので、学生さんにも勧めたりしてきました。
しかしどんなよい方法も、やり方によっては悪い結果を招きます。「目標を前に置く」近代合理主義的な方法も、達成目標を欲張ったり、期日設定を短くし過ぎたりすれば、逆効果になります。
逆効果というのは、現在の自分を否定的にしか見られなくなるということです。
目標を前に置いてしまうと、現在の自分は、常にその目標に到達していない、否定すべき存在だとさえ思えてきます。理想からすれば不足ばかりしている自分は、いつも不全で、いつしかそんな現在の自分を嫌いになったりもしてしまいます。理想と現実の主客転倒が起こってしまい、いつしか理想の自分が主人となり、現実の自分をよそ者扱い、本来は存在すべきでない者として扱い始めます。
いうまでもなく、現実の自分を自分でも肯定できないことは辛いことです。もちろんその辛さを反発材料にして、理想の自分へと邁進することもあるでしょうが、理想があまりに過大だと、現実の自分は押しつぶされたままになってしまいます。
それでは理想や目標は捨ててしまうべきなのか。
そこで登場するのが「目標を横に置く」という表現です。
目標を自らの前や先ではなく、横つまり傍らに置く。
現実のありのままの自分と目標に向かおうとする自分と共存させる。
目標地点から自分を引っ張り上げようとする理想の自分に現実の自分をコントロールされるのではなく、「目標に向かえたらいいよね」と静かに微笑む「目標に向かおうとする自分」に傍らにいてもらう。
「目標に向かおうとする自分」に、時に励ましてもらう(「目標が達成できたらすばらしいだろうね」)。
時に慰めてもらう(「目標への道って長くて険しいよね」)。
そして人間は理想からも現実からも逃げられないことを教えてもらう(「理想を目指しながら、決して到達できないのが人間なんだよね。だから苦しいことが楽しいんだよね」)
これが私なりの「目標を横に置く」ことの理解です。
この理解で、少しだけ楽になったような気がしました。
2009年9月30日水曜日
シンポジウムで使われる専門用語の整理
***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
***広報***
ここではそういった混乱を避けるため、私なりの用語の使い分けを説明し、用語の整理をします。 主な観点は次の3つです。
(1) "Narrative"関連の用語 の使い分けについて (ナラティブ / 語り / 語り合い / 言説 / 発言)
(2) "Power" 関連の用語の使い分けについて (パワー/ 力 / 権力)
(3) 「語りのパワー」、「語りの権力」という言葉の違和感について
これらの用語は明らかに関連していながら、それぞれ英語 (カタカナ語)、和語、漢語であり、各々がもつ意味・陰影に違いが生じてきます。その違いの受け取り方が、各人で異なると、シンポジウムでのコミュニケーションにも支障が出てくるのではないかというのが、ご指摘下さった方の懸念です。
総論的に答えますならば、私の用語使用法は、現代日本語の一般的用法に倣い、英語 (カタカナ語)、和語、漢語に、それぞれ次のような役割を持たせています。
英語 (カタカナ語) : 英語の概念をできるだけ忠実に表現しようとして、日本語の中でもわざと英語スペリング、あるいはその代用としてカタカナ表記を使う。
和語 : 日本語話者の生活実感にできるだけ近いニュアンスをもたせるために使用する。上の英語 (カタカナ語) や下の漢語だけの文章では、どうしても「しっくりとくる」表現、あるいは「腑に落ちる」表現がしにくいので、和語を使う。
漢語 : 西洋・東洋を問わず、海外から入ってきた学術的あるいは抽象的概念を表現するために用いる。英語 (カタカナ語)で通さないのは、少しでも日本語的な表現で学術的概念を表したいから。和語にしてしまわないのは、敢えて和語的な生活実感から離れた漢語を使うことによって、その概念が、未だ和語的な文化にしみわたっていない違和感を表現できるから。この違和感の創出により、私(たち)が「消化しよう」とする概念が、まだ「かみ砕かれていない」という状況が示される。この意味で、漢語表現は、英語 (カタカナ語)表現と和語表現の中間にあるといえる。
以上の総論を受けた上で、先にあげた3つの観点について、私の説明と整理を以下に試みます。自分なりに最大限に簡明に説明するつもりですが、説明は理論的になりますことを予めお断りしておきます。
もし理論的な話題に興味がないのでしたら、どうぞ下は読まないで下さい。シンポジウムでもこのような理論的な話は極力避けます。このような理論がわかっていないとシンポジウムが楽しめないようなことにはしませんから、どうぞご安心して当日はご参加下さい。下記は、シンポジウムの舞台裏、あるいは舞台下を支える柱です。当日はそんな裏や下を気にしないで、舞台だけを楽しめるよういします。ですから、以下は、舞台裏や舞台下が気になる方のための記述です。
(1) "Narrative"関連の用語 の使い分けについて (ナラティブ / 語り / 語り合い / 言説 / 発言)
これらの用語は以下のように使い分けられています。
■ナラティブ
・英語の "narrative"の代用表現として用いる。英語表現がもつニュアンスをことさらに強調したい場合は "narrative" とアルファベットで表記するが、そうでない場合はカタカナで表記する。
・そもそも "narrative" という語を導入したい理由は、英語圏での "narrative" 研究の豊穣さを、日本語圏にも導入したいから。英語圏では、人文系、社会系はもとより、医療系といった分野でも "narrative" という用語が重要な意味で使われる。
・私が理解する "narrative" の基本的意味は、「ある人が、ある人(々)に向ける人格的で相互作用的な語り」。
・下位区分するなら、「(1) 語るという出来事 (storytelling) およびその構造や機能と、(2) 語られた内容 (story しばしば「物語」と訳す)」に分けられるが、多くの場合、「ナラティブ」は、これら二つを包含する意味で使われる。
・補注を加えるなら、ナラティブには、「(a) 話し言葉で語られるもの、(b) 話し言葉で語られ、後に書き記されるもの、(c)最初から書かれるもの」がある。ナラティブの典型例は(a)であるが、研究の対象となる場合は、しばしば(b)や(c)が用いられる(なお、「書き記される言葉」は、多くの場合(概念的な)「書き言葉」ではなく、日常の「話し言葉」であることにも注意されたい)。
・したがってナラティブと異なる言語使用は、無人格的あるいは「客観主義」的なものである。文化心理学者のBruner (1986) は、ナラティブの思考法(the narrative mode)と、論理-科学的思考法(the paradigmatic or logico-scientific mode)と、対比的・相補的にとらえたが、私もこの対比にしたがって「ナラティブ」という言葉を用いている。
■語り / 語り合い
・私がナラティブ関連の文章で「語り」という言葉を用いる場合、「ナラティブ」のもつ基本的な意味(人格的で相互作用的な言語使用) を踏まえた上で、私たちの日常生活でしばしば「ナラティブ」は行なわれていることを示すために用いる。
・ 「語り合い」という言葉を使う場合は、特に「語り」の相互作用性を示すため。「語り」は、その性質上、きちんと聞いてくれる相手 (聞き手)を必要とする。「語り」は聞き手の存在により成立するもので、聞き手が変われば、しばしば「語り」 (語るという出来事の構造と機能、および語られる内容(=物語))も変わる。 したがって「語り」の相互作用性は重要であり、時折、その側面を強調するべき場合が生じる。「語り合い」という言葉はそのような場合に使用される。
■言説
・"Discourse"の訳語として用いる。カタカナの「ディスコース」を用いずに、「言説」という用語を用いるのは、フーコー的な含意を込めたいから(もちろんフーコーはフランス語で論考しているが、残念ながら私はフランス語ができないので、英語圏および日本語圏で理解されたフーコー像に基づき考察している)。
・フーコー的な意味での「言説」は、応用言語学的な意味での「ディスコース」や、通常の批判的言説分析 (Critical Discourse Analysis: CDA) の「言説・ディスコース」とは、意味あるいはニュアンスを異にする。 (Pennycook 1994)
・応用言語学での「ディスコース」は、「コミュニケーションで用いられる、一文を超えた言語の意味あるかたまり」を意味する程度である。
・多くの批判的言説分析(CDA)は、「言説」を権力の社会的関係によって決定されたものとしてとらえる。
・フーコー的な「言説」は、言説と権力の関係を強調する点でCDAと同じであるが、その言説と権力の関係を固定的・決定的なものと見ない点でCDAと異なる。
・フーコーは語る「主体」でさえも厳密な自己同一性を貫く個体ではなく、さまざまな社会的関係が交差する「場所」であるという(フーコー 1995)。換言するなら、フーコーは言説と社会的関係の権力の相互作用性・相互変容性を強調し、言説は社会的権力によって一方的に定められてしまうものではないと考えている。
・このフーコー的な言説と権力の相即関係を私は「言説」に込めている。
・フーコー的な意味合いを強調するならば、フランス語のカタカナ表記である「ディスクール」を用いることも考えられるが、「ディスクール」ではあまりにも日本語表現の中で「浮いて」しまうと考え、「言説」を選んだ。
・なお、「言説」と「ナラティブ」との関係を説明するなら、「言説」は包括的な表現であり、「ナラティブ」だけでなく、「論理-科学的思考法」に基づく学術論文、あるいはその他すべての言語使用を含む。したがって「言説」という用語は、言語使用一般が権力と強く関係していることを示したい時に「言語使用」といったことばの代わりに使われる。
■発言
特に理論的な意味を込めずに使っている。
以上の使い分けを踏まえた上で、今回のシンポジウムの趣旨を今一度書いてみますと、
「英語教師をめぐるさまざまな言説は、英語教師にさまざまな影響を与えているが、その主要な言説としては、論理-科学的思考法に基づく(量的エビデンスを主とする)学術論文がある。しかしそのエビデンス主導の学術論文が十分に英語教師の実践を支援しているかには検討の余地がある (柳瀬 2009)。一方、英語教師は一般に学術論文といった言説は不得手だが、語り、語り合う言語使用の文化は豊かにもっている。そういったナラティブがもつ可能性について、今回は検討したい」
となります。
(2) "Power" 関連の用語の使い分けについて (パワー/ 権力 / 力)
これらの用語は以下のような使い分けをしています。
■パワー
・政治学概念の英語の "power" の意味を日本語の中でできるだけ伝えるために用いるカタカナ表現。
・ 政治学的な意味での「パワー」 は、一般的には「他人に対する影響力」であるが、下位区分として、実体的定義と関係論的定義を区別することができる (この区別は、Crossley (2005) の "WHO vs. HOW" のパワー概念区別を翻案したものである。ちなみにその他の概念区別としては、例えば "power-over" (「(他人に何かを)させる力」) 対 "power-to" (「(自分が何かを)する力」)がある (Stanford Encyclopedia of Philosophy, ホロウェイ 2009) )。
・実体的定義での「パワー」は、「パワー」を誰かが所有して、他の人に一方的・強制的に行使するものと考える。この「パワー」はしばしば制度化されており、その制度にある者が「パワー」をもつと考えられる。一方的性格・強制的性格から、この「パワー」は、時折 "force" (「強制力」)あるいは "violence" (「暴力」) に重なる側面をもつ (アレント 1994)。
・関係論的定義での「パワー」は、語られることにより、人々の間に自然発生し、自由な言説空間で語られ続けることで循環し、強まる影響力を意味する。アレントやフーコーが強調した「パワー」観はこの関係論的定義であるといえる。アレントは、「パワー」が、ある特定の個人の「内」ではなく、語り合う人々の「間」で生じることを強調し、この「パワー」が民主的制度をつくりあげる根源だとした。フーコーは先に述べたようにこの「パワー」と言説の循環性を強調した。
・今回のシンポジウムでは関係論的な定義で「パワー」という用語を使いたい。
■権力
・政治学概念の「パワー」の翻訳語。したがって実体的定義でも関係論的定義でも使われうる。
・実体的定義での「権力」は、日本語としても熟していると思われる。「政治家よりも権力をもっているのは官僚だ」、「財界の権力から教育界は自由でない」、「警察権力こそが国家の基盤だ」などといった例文での「権力」ということばの使用には違和感はないであろう。
・関係論的定義での「パワー」に「権力」ということばを充てるなら、現状ではしばしば違和感が生じる。後述する「語りの権力」はその好例であろうし、私個人としてもアレントの『人間の条件』で使われている「権力」を、最初は実体的定義でとらえ、アレント的な関係論的定義でとらえることができなかったので、違和感を覚え、"power" の自分なりの翻訳語として「活力」を用いたほどである (柳瀬 2005)。
■力
・上記の関係論的定義での「パワー」の意味を、自然な日本語で表現したいときには「力」という言葉を使う場合がある。
これらの使い分けをもとに、シンポジウムの趣旨を再び表現するなら、
「人々が語り合う時には、そこに力がみなぎることを感じるだろう。その力は社会を変えるパワーとなりうる。人々が自由で民主的に語り合って生じてきた力・パワーこそは、民主主義的な権力の根源である。民主主義的な制度の権力は、この語りの力・パワーに基づいていなければならない。この関係を端的に表現するならば、語り、あるいは語り合いこそに権力がある、となる。今回のシンポジウムでは、英語教師の語りがもちうる力・パワー・権力についての検討を行ないたい」
となるだろう。
(3) 「語りのパワー」、「語りの権力」という言葉の違和感について
前節の最後では、「英語教師の語りがもちうる力・パワー・権力」という表現が見られた。 「語りの力」に比べて、「語りのパワー」あるいは「語りの権力」は日本語としては熟していないように思われる。
しかし私は敢えて「語りのパワー」ひいては「語りの権力」という表現を使いたい。それは「語りの力」こそは、関係論的定義でのパワーの正体であり、関係論的定義でのパワーが、実体的定義でのパワーの基礎になければならないという民主主義的な考えを信奉しているからである。
「語りの力」という表現が伝える、自然なニュアンスを、「語りのパワー」という表現が伝える社会・政治的意味に導入し、その「語りのパワー」という社会・政治的意味用法で、「語りの権力」という生硬な翻訳漢語表現を作り出す。その「語りの権力」という表現がもつ違和感で、語りの権力性を自覚的に行使することが、私たちが現実的に目指すべき方向であることを示したいと考えている。
「権」とは堅い表現のように思われるかもしれないが、私たちは「権利」「人権」といった翻訳漢語表現によって、さまざまな社会的関係を作り上げてきた。現在の社会から「権利」や「人権」概念が消滅したら、私たちのあり方は現在とはまったく異なったものになるだろう。民主主義政体において、人々は自らのことを決定してゆく「権」をもつ。その「権」を作り上げる力こそ「権力」である。そして語りこそは「権力」の根源であることを強調したい。
参考文献
・アレント、ハンナ著、志水速雄 (1994) 『人間の条件』ちくま学芸文庫
・フーコー、ミシェル著、中村雄二郎訳 (1995) 『知の考古学』河出書房新社
・ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 (2009)『権力を取らずに世界を変える』 同時代社
・柳瀬陽介 (2005) 「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」 『中国地区英語教育学会研究紀要』Number 30, pp.167-176
・柳瀬陽介 (2009) 「英語教育支援のためのエビデンスとナラティブ」
・Bruner, Jerome (1986). Actual Minds, Possible Worlds. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.
・Pennycook, Alastair (1994). Incommensurable Discourses? Applied Linguistics 15(2):115-138. Oxford University Press.
・Stanford Encyclopedia of Philosophy
2009年9月25日金曜日
10/11-12 ナラティブ・セミナーの申込はお早めに + 第1日目のスライド公開
たびたびお知らせしている
ですが、本日現在で、第1日目で約110名の申込があるそうです(会場定員は200名)。第2日も既にワークショップによっては定員に達し、締め切ったところもあるそうです。
まだ参加申込はしていますが、もしご希望の方はどうぞお早めに下記から登録してください。
なお、第1日目「学校英語教師の語りのパワー」のイントロダクション用のスライドを作りましたので、ここでも公開します。ご興味があれば、ご覧下さい。(なお、当日は冗談スライドを入れて、またもや笑いの冒険を試みます)。
関西英語教育学会:KELES 第17回セミナー
日程 2009年10月11日(日)・12日(月)
会場:神戸市外国語大学 大学共用施設ユニティ
テーマ:ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性
第1日目 「学校英語教師の語りのパワー」 午後1:00 ~5:00
第2日目 「教室でのTeacher-Researchを考える」 午前10:00~午後3:00
ですが、本日現在で、第1日目で約110名の申込があるそうです(会場定員は200名)。第2日も既にワークショップによっては定員に達し、締め切ったところもあるそうです。
まだ参加申込はしていますが、もしご希望の方はどうぞお早めに下記から登録してください。
なお、第1日目「学校英語教師の語りのパワー」のイントロダクション用のスライドを作りましたので、ここでも公開します。ご興味があれば、ご覧下さい。(なお、当日は冗談スライドを入れて、またもや笑いの冒険を試みます)。
11/22 (日) 第2回 山口県英語教育フォーラム
「英語教育の明日はどっちだ!」の松井孝志先生が事務局を担当されている「山口県英語教育フォーラム」のお知らせを、勝手ながらこのブログでもさせていただきます。私は残念ながら先約があり、参加できませんが、きっといい会になるかと思います。皆さんどうぞご参加を。
詳細および申込は
第2回 山口県英語教育フォーラム
現場教師の声に「力」を!
Power to the people who teach English
開催日時: 2009年11月22日 (日)
10時00分から17時30分 (受付開始 9時30分)
主な内容:
総合司会: 松井孝志 (まついたかし )(長州英語指導研究会事務局長; 山口県鴻城高等学校教諭)
0. (10:00) 開式の辞 佐藤知紀 (さとうさとものり )(長州英語指導研究会会長; 山口県鴻城高等学校長)
Ⅰ. (10:20-11:50) 永末温子(ながすえはるこ)先生 (福岡県立香住丘高等学校教諭) ご講演
「読み手」から「書き手」へ、さらに「話し手」へと育てる実践 -Can-Do 学習タスクによる4技能統合指導-
※ (11:50-12:10) ベネッセコーポレーションからの情報提供
(12:10-13:00) 休憩
Ⅱ. (13:00-14:30) 久保野(くぼの)りえ先生 (筑波大学附属中学校教諭) ご講演
教科書本文を真に使えるものとして手渡す授業の方法
Ⅲ. (14:45-16:15) 今井康人(いまいやすひと)先生 (北海道函館中部高等学校教諭) ご講演
生徒が輝く授業を求めて - 授業改善の先に見えたタスク・システム・仲間のパワー
Ⅳ. (16:20-17:10) シンポジウム 「英語教師の声に力を - 新指導要領を越えて」
司会: 松井孝志 登壇者: 永末温子先生・久保野りえ先生・今井康人先生
Ⅶ. (17:20) 閉式の辞 ベネッセコーポレーション
※入場料・参加費は無料です。
申し込み締め切り: 10月16日(金)
詳細および申込は
組田幸一郎『フレーズで覚える英単語1400』文英堂
ある中学教師に聞いた話だが、"your mother"が三人称であることに合点がゆかない中学生は少なくないとのことである。その中学生に言わせれば「yourは二人称ではないか」とのことだそうだ。同じように"their brother"が単数であることにも納得がいかないそうだ。「theirは複数だろう」というわけである。句を文脈から離れて抽象的に取り上げたからかもしれないが、句の理解というのは存外に難しいものかもしれない。外国語でも、ひょっとしたら日本語でも。
概念理解の難しい事柄をなんとかこなす方法の一つに、とにかく丸ごと親しんでしまうというものがある。多くの用例に親しむうちに、なんとなくその理屈が帰納的に体得してしまうというわけである。理屈優先の考え方だと「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、私たちは日常生活でこのような習熟と理解をしていることも多い。
「英語教育にもの申す」で有名な組田幸一郎先生が作ったのは、高校入試レベルの英単語をフレーズで覚えようというものです。
フレーズで覚えるというのはどういうことかということを、この本は次のどちらが簡単ですかと問いかけることで説明しています。
もちろんこの理屈で言うなら、フレーズで覚えるよりはセンテンスで覚える方が効率的だとなるかもしれませんが、センテンスはしばしば低学力の生徒の手に負えません。そのような無理を試みるよりも、フレーズを楽に覚えて、結果的に単語とその組み合わせ方の基礎を学ばせようというのがこの本の狙いかと思います。
実際に本を読み、付属のCDを聞いてみると、細かな配慮がたくさんあってさすがだなと思わされます。赤いシートで日本語や発音(わかりやすくカタカナで表記。発音記号は索引に掲載)を隠すのは当然として、フレーズを(1)名詞+名詞、(2)形容詞+名詞、(3)動詞+名詞、(4)熟語にわけるところ、英語 + 日本語訳 x 10フレーズ → 英語 x 10フレーズというCDの音声配列、各ページに描かれた動物の絵でわかる進度、復習の英→日、日→英テスト、ディクテーション、「英文読解道場」のコンパクトな解説と練習、箸休めのような名言とことわざの掲載など、さすがに学習者の心理をよくわかった教師の作品だなと感心してしまいます。
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概念理解の難しい事柄をなんとかこなす方法の一つに、とにかく丸ごと親しんでしまうというものがある。多くの用例に親しむうちに、なんとなくその理屈が帰納的に体得してしまうというわけである。理屈優先の考え方だと「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、私たちは日常生活でこのような習熟と理解をしていることも多い。
「英語教育にもの申す」で有名な組田幸一郎先生が作ったのは、高校入試レベルの英単語をフレーズで覚えようというものです。
フレーズで覚えるというのはどういうことかということを、この本は次のどちらが簡単ですかと問いかけることで説明しています。
8つの単語を覚えてください
・本
・想像する
・耕す
・見る
・将来
・読む
・畑
・テレビ
4つのフレーズを覚えてください
・本を読む
・将来を想像する
・畑を耕す
・テレビを見る
もちろんこの理屈で言うなら、フレーズで覚えるよりはセンテンスで覚える方が効率的だとなるかもしれませんが、センテンスはしばしば低学力の生徒の手に負えません。そのような無理を試みるよりも、フレーズを楽に覚えて、結果的に単語とその組み合わせ方の基礎を学ばせようというのがこの本の狙いかと思います。
実際に本を読み、付属のCDを聞いてみると、細かな配慮がたくさんあってさすがだなと思わされます。赤いシートで日本語や発音(わかりやすくカタカナで表記。発音記号は索引に掲載)を隠すのは当然として、フレーズを(1)名詞+名詞、(2)形容詞+名詞、(3)動詞+名詞、(4)熟語にわけるところ、英語 + 日本語訳 x 10フレーズ → 英語 x 10フレーズというCDの音声配列、各ページに描かれた動物の絵でわかる進度、復習の英→日、日→英テスト、ディクテーション、「英文読解道場」のコンパクトな解説と練習、箸休めのような名言とことわざの掲載など、さすがに学習者の心理をよくわかった教師の作品だなと感心してしまいます。
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GmailとGoogle Calenderの作業効率を高める
最近、キーボード周辺部キーの打指固定をしたら非常に作業効率が高くなったので、GmailとGoogle Calenderに関しても作業効率を高めることにしました。
まずGmailに関しては、LabsからCustom Label Colors, Superstars, Tasks, Google Calender gadget, Signature tweaks, Send & Archiveなどの機能を導入しました。特にCustom Label Colors, Superstarsなどで色分けすると直観的に作業を進めることができ、仕事が非常にやりやすくなります。
また、メール表示左端の二重点線にマウスを合わせると、手のアイコンが出てきて、そのメールをドラッグしてLabelにそのままもってゆくことができますので、このドラッグによりさらにメールボックスの整理が簡単になりました。
次に覚えたのがショートカット。覚え方を工夫すれば、指をキーボードから離さずに作業できますから、これまた作業が非常に速くなります。
とにかく指はできるだけキーボードから離さない。つまり、マウスの使用は必要最小限に抑えることを仕事の大原則として、そのやり方を少しずつ覚えていったら、確かに仕事はずいぶん速くなりました。
ご存知の方も多いとは思いますが、皆さんも以下のショートカットを使われたらいかがでしょうか。
マウスというのはすごい発明であり、またトラックボールマウスというのは最短の運動で機敏な動きをしてくれるすぐれたマウスですが、やはりマウスに手を伸ばさずに、可能な限りキーボード上で作業をすることが一番能率的かと思います。
仕事に追われ始めたら、どうぞショートカットをお試しください。
関連記事
右クリックとショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_24.html
周辺部キーの打指固定とショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/06/blog-post_4134.html
まずGmailに関しては、LabsからCustom Label Colors, Superstars, Tasks, Google Calender gadget, Signature tweaks, Send & Archiveなどの機能を導入しました。特にCustom Label Colors, Superstarsなどで色分けすると直観的に作業を進めることができ、仕事が非常にやりやすくなります。
また、メール表示左端の二重点線にマウスを合わせると、手のアイコンが出てきて、そのメールをドラッグしてLabelにそのままもってゆくことができますので、このドラッグによりさらにメールボックスの整理が簡単になりました。
次に覚えたのがショートカット。覚え方を工夫すれば、指をキーボードから離さずに作業できますから、これまた作業が非常に速くなります。
とにかく指はできるだけキーボードから離さない。つまり、マウスの使用は必要最小限に抑えることを仕事の大原則として、そのやり方を少しずつ覚えていったら、確かに仕事はずいぶん速くなりました。
ご存知の方も多いとは思いますが、皆さんも以下のショートカットを使われたらいかがでしょうか。
Gmailのショートカット
r メールにReplyする。 [ReplyのRで覚える]
a 全員にメールを返信する [AllのAで覚える]
f メールを転送する [ForwardのFで覚える]
c 新しいメールをComposeする。 [ComposeのCで覚える]
j 古いスレッドに移動する [よく使う機能なので一番意識しやすい右人差し指]
k 新しいスレッドに移動する[jの横だから右中指で。Newと同音のKnewのKで覚える]
p 前のメールに移動する [PreviousのPで覚える]
n 次の新しいメールに移動する [NewのNで覚える]
e スレッドをarchivEに入れる [archivEのEで覚える]
s メール・スレッドにStarをつける [StarのSで覚える]
l メールにLabelをつける [LabelのLで覚える]
gi インボックスに戻る [Go to InboxのGIで覚える]
u スレッドリストに戻る [一番上(Up)のスレッドリストに行くという意味のUで覚える]
z 直前の操作をキャンセルして元に戻す [Windowsの Ctrl+z と同じ。ヤバイことをした時の最後の(z)手段]
! 迷惑メールを報告 [こんなイヤなメールが来てしまった!という感嘆符]
# Trashに捨てる [「井」戸に放り込むように]
? ショートカット一覧を提示する。 [ヘルプの意味での?]
Google Calenderのショートカット
t 「今日」に移る [TodayのTで覚える]
d カレンダーを「日」ビューにする [DayのDで覚える]
w カレンダーを「週」ビューにする [WeekのWで覚える]
m カレンダーを「月」ビューにする [MonthのMで覚える]
p カレンダーの前の期間に戻る [PreviousのPで覚える]
n カレンダーの新しい期間に移る [NewのNで覚える]
a 「予定リスト」ビューに移る [All(すべての)予定を示せのAで覚える]
c 新しい予定をComposeする [ComposeのCで覚える]
マウスというのはすごい発明であり、またトラックボールマウスというのは最短の運動で機敏な動きをしてくれるすぐれたマウスですが、やはりマウスに手を伸ばさずに、可能な限りキーボード上で作業をすることが一番能率的かと思います。
仕事に追われ始めたら、どうぞショートカットをお試しください。
関連記事
右クリックとショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_24.html
周辺部キーの打指固定とショートカットキー
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/06/blog-post_4134.html
2009年9月24日木曜日
池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社
現代社会を考えるためには、マルクスをやはりそれなりに理解していないと思いながらも、なかなかマルクスの用語に阻まれてわかりませんでした。しかし、さすがにこの本は私のような人間にもある程度の理解を与えてくれました。
以下、この本の半分(16講あるうちの1-9講)の中で、私なりにとらえた要点を■印で、私の愚にもつかないコメントを▲印で記します。< >は私がつけた小見出しです。( )のなかのページ数は、そのまとめをする際に参照した主なページです。
ですが、このまとめは、この本の的確な要約とはとてもいえないものですし、まとめの際に、私なりに言葉を書き換えていますので、内容の正確さも保証できません。ご興味のある方はご自分で必ず実際に本を読んで下さい。
以上の粗雑なまとめから、さらに単純化を進めて私の強引なまとめを書きます。
●マルクスは資本主義社会というゲームのルール(あるいは論理)を解明した。それは唯一真正なる解明ではないが、非常に説得力ある分析である。(他の興味深い解明としては、例えばマックス・ヴェーバーの宗教社会学的分析(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などもある)。
●資本主義社会のゲームに参加する限り、人は資本の論理にしたがわざるを得ない。それはボクシングに参加する人が殴り、柔道に参加する人が投げるのと同じようなことである。「資本家」と呼ばれる人が必ずしも悪人であるわけではない。しかし人が、たとえ雇われ経営者としてであれ、あるいはその経営者の下で働く労働者としてであれ、「資本家」の論理で動くなら、人は資本家の利益最大化=資本の増加のために動かざるを得ない。ボクシングのリングで相手を殴ろうとしないことはできない。
●ある意味、資本主義社会の勝者は、資本家ではなく資本である。あるいは資本主義社会というシステム自体である。資本主義社会が強化される中で、生きた人間で勝者となる者はいないと言えるかもしれない。
●新自由主義によって野に放たれ、暴走する資本主義には何らかの修正が必要であろう。その修正は、一人一人が、どんな人生を送りたいか、どんな社会を築きたいか、豊かさとは何かをきちんと考えることにより健全なものになるだろう。
●一部の「エリート」が、人びとの人生や社会のあり方を設計するやり方は、過去しばしば暴走した。また、仮にそのエリートの計画が良きものであったとしても、人びとが自分自身でよく考えていないなら、その計画もうまくは遂行されないだろう。宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」という言葉は青臭いとして打ち捨てられるべきではない。
●ひるがえって私の仕事である英語教育のことについても少し述べるなら、現在「英語力」というのはまさに「商品」として扱われている。したがって学習者はしばしば、自分で英語が使えるという「使用価値」だけで満足せず、テストという物差しで自らの英語力という商品の「交換価値」を見極め、誇示しようとしている。
●資本主義社会からの根本的な離脱が考えがたい現状において、英語力が商品となっていることを蛇蝎のごとく嫌うのは、おそらく自己矛盾であろう。特に自らが、自らの英語力を道具の一つとして給料を得ている場合。
●だがそれは英語力、ひいては労働力、そして人間自体の商品化を全面肯定することではない。私たちには資本主義的以外の生き方もある。その生き方は資本主義社会のただ中でも十分可能である。
●私たちはお互いを商品としてではなく人間として出会い、共に暮らすことはできる。学校教育は、資本主義的な生き方だけでなく、脱-資本主義的、あるいは前-資本主義的な生き方、つまりは資本主義的以外の生き方も教えるべきである。人間は資本主義的生き方だけでは幸福になれないだろう。
●資本主義がこのまま進行すれば危ないことは数々の自然が教えてくれている。人の自然(nature)は、心身のさまざまな病態で現在の生き方が歪んでいることを伝えてくれている。自然環境は崩壊することにより、これ以上の「進歩」が地球全体の危機にまで及ぶかもしれないことを警告してくれている。
以下、この本の半分(16講あるうちの1-9講)の中で、私なりにとらえた要点を■印で、私の愚にもつかないコメントを▲印で記します。< >は私がつけた小見出しです。( )のなかのページ数は、そのまとめをする際に参照した主なページです。
ですが、このまとめは、この本の的確な要約とはとてもいえないものですし、まとめの際に、私なりに言葉を書き換えていますので、内容の正確さも保証できません。ご興味のある方はご自分で必ず実際に本を読んで下さい。
<マルクスを読む前に理解しておくべきこと>
■マルクスあるいは『資本論』のすべてが正しいわけではない。(6ページ)
▲マルクスの書は決して聖典ではなく、一つの重要な分析に過ぎない。
■マルクスは武力革命についても語っているが、彼の時代には自由選挙がなく、民主主義が根付いていなかったことを忘れてはいけない。(38ページ)
▲甘いと言われるかもしれないが、現代において武力革命を語ることなどナンセンスだと私は考える。
■マルクスが予想していた社会主義は、教養の程度が高くなった自覚的な労働者が作り上げるものだったが、実際に生じた社会主義は、一部のエリートが先導(やがて独裁)するものであった。(36ページ)。
▲社会主義の理想が、やがて一党独裁、全体主義につながったという史的事実については、これからもさまざまな考察が必要であろう。
■ソビエト崩壊以降、「資本主義が勝った」と思われているが、それはむしろその当時の社会主義国家が自壊したとみるべきだろう。(19ページ)
■生き残った資本主義は、実は共産主義革命を怖れた資本家が、労働者の権利を手厚く守ったものだった。(15ページ)
▲このような資本主義を「修正資本主義」と言っていいのだろうか?
■しかし「資本主義が勝った。勝ったのは市場原理のおかげだ」と短絡した人たちは「新自由主義」を叫び(20ページ)、人件費を「物件費」として扱う派遣労働も広められた(12ページ)。
▲時代が変わる時などには特に単純なメッセージを大声で叫ぶ者に人びとはしばしば魅了される。一般化していうならば叫ぶ者には注意せよ。穏やかに語る者に耳を傾けよ。
■その結果、マルクスの時代のような資本主義の姿を私たちは知るようになった(22ページ)。
▲つまり新自由主義者は、修正資本主義を、むき出しの資本主義に変容させたと言えるのだろうか。
<「商品」という資本主義社会特有のモノ>
■マルクスは、資本主義社会を理解する鍵は、商品だと考えた。(44ページ)
■商品には「使用価値」と「交換価値」がある(52ページ)
■使用価値とは、そのモノを使用することから生じる。例えば鉛筆なら字を書くこと、食べ物なら消費することである。(52ページ)
■交換価値とは、そのモノが他の商品と交換できることである。(54ページ)
■モノは、使用価値だけ持ち、交換価値をもたないこともありうる。例えば家庭菜園で作った野菜は、市場には出せないが美味しく食べられる。(61ページ)
▲「商品」ではないが、使用価値があるモノを自ら作る、あるいは隣近所で交換することは、少し前の日本では普通だった。しかし現代の日本人はそのような自活能力を急速に失い、もはや商品に依存せざるを得なくなっている。自活能力がある者は少々金が無くても生きてゆけるが、商品に依存している者は金が無ければ即アウトである。プロレタリアート、プレカリアートの悲劇。
▲現代の日本の教育も、子どもをいかに労働市場で高く売れる商品にするかという発想で行なわれているように思われる。さらに教育内容も商品となっている(「これを覚えたら何点?合格できる?)。しかしより重要なのは子どもに自活能力をつけさせ、自らの人生を、商品依存以外の点でも豊かにできるように教育することではないか。
<商品交換の一般化、貨幣、そして人間の労働>
■商品間の交換関係は、「A商品X量=B商品Y量=C商品Z量」などと表現できる。(54ページ)。
■商品の交換関係の背後には共通のものがあるはずだとマルクスは考え、さらに彼はそれを人間の労働だと考えた。(56ページ)
▲このマルクスの想定は妥当なものであろうが、これは記述ではなく宣言と見るべきではなかろうか。あたかも「人権」が、自然状態の記述から生み出された概念ではなく、宣言から創り出された概念であるように。
■人間の労働を量的に考えるなら、それは労働時間(ただしその社会での平均的な労働者が働く時間)であるとマルクスは考えた。(59ページ)
▲この想定は強引なように思えるが、人間には24時間しかなく、その24時間の中で労働だけでなく、食事も休息も娯楽も勉強も、数々のことをしなければならないことを考えると、時間というものを非常に重視したこのマルクスの設定は妥当なもののように思える。
■商品間の交換関係を一括する道具として貨幣が生まれた。(70ページ)
■貨幣の本質は、金(きん)や銀といった実体でなく、象徴としての記号である。(76ページ)
<[商品]→[お金]→[商品]の等価交換から、[お金]→[商品]→[お金△]の資本の論理へ>
■商品を生産し売って、必要な別の商品を買う人の行為は、[商品]→[お金]→[商品]と表現できる。(92ページ)
■やがて、お金をたくさんもって、それで商品を買って売りさばき、さらにお金に換える人がでてきた。このプロセスは、[お金]→[商品]→[お金]である。
▲[商品]→[お金]→[商品]のプロセスは、自分が得意としているモノを作って売って、自分が必要とするモノを得るというプロセスである。であるから、これは等価交換でもよい。生きることがその人の目的だからである。
▲しかし、[お金]→[商品]→[お金]のプロセスは、等価交換では意味がない。この人は、商品と交換した後のお金を、商品と交換する前のお金より増やさなければならない。この人は商品を生きるためには必要としているわけではない。この人が商品を購入するのは、お金を増やすためである。
■お金自体を増やそうとする人を資本家と呼ぶ。(93ページ)
■新しく増えた(お金の)価値を、剰余価値と呼ぶ。(94ページ)
▲剰余価値がつけ加えられたお金をこれからは、[お金△]と表記することにしよう。
■資本家(これは個人の場合も、会社組織の場合もある)は、[お金]→[商品]→[お金△]のプロセスを延々と繰り返して、自らのお金(資本)を増やすことを目的としている。資本家は商品の使用価値には興味をもたない。(95ページ)
<商品化される労働者>
■資本家は、資本増大のための道具としての商品の中に「労働力」という商品を見出す。(104ページ)
▲労働力という商品は、言うまでもなく労働者がもっているものだが、この商品は、剰余価値([お金△])を生み出すように使われなければならない。
▲社会の工業化などの要因で、農村漁村部から追い出された人びとは、自らの労働力を商品として売るしか生きる道はない(プロレタリアート)。
▲しかし労働力は無限にあるものではなく、労働者は、次の日の労働力を回復(あるいは再生産)するための食事や休養などを必要とする。また家族を養うだけの糧も必要である。
▲このように労働者がどうしても必要とするものを、マルクスは「労働力の価値」だとした。これもマルクスの宣言だと私は考える。
▲最低賃金法や労働基準法などは、苦労して何とか事業を経営している経営者には、労働者のエゴと思えるかもしれない。自分がこれだけ苦労して、これだけしか儲けられないのに、それを配分するだけでどこが悪いのだ。この苦境を乗り越えるため労働を強化してどこが悪いのだ、というわけである。だがそこまで苦労しなければならないようなら、他人を雇ってはいけないとする社会のルールは合理的なものだと考える。事業のために人は生きているわけではない。経営者も労働者も。
▲労働力は資本主義社会では商品であるかもしれないが、それは生身の人間から絞り出すものである以上、特別の配慮が必要である。モノの商品は買いたたいてもいいが、労働力という商品は買いたたいてはいけない。
▲しかし、もし資本家が労働者に、労働力の価値の分だけしか働かせなかったら、[お金]→[商品]→[お金△]の剰余価値(△)は出てこないことになる。[お金=労働者が生きるために必要なお金]→[商品=労働者が生きるために必要な分だけ働いた労働力]のプロセスは、[お金]=[商品]の等価交換となってしまう。
■しかし、なぜか資本というのは増えてゆく。労働者がますます貧困になり、資本家が栄える現状をつぶさに見たマルクスにとってこれは疑いようのない事実であった。かくして彼は、なぜ[お金]→[労働力という商品]→[お金△]で、剰余価値が出るかを解明しようとした。(155ページ)
<「剰余労働」と資本の論理>
■マルクスは、資本家は、労働者に「必要労働」(=商品を作り出すために必要な労働)だけでなく、「剰余労働」(=資本家が剰余価値を得るための労働)もさせていると考えた。(136ページ)
▲労働者に剰余労働もさせることを「搾取」と呼ぶが、この日本語のイメージは非常に悪いように思える。ドイツ語のAusbeutung, ausbeuten、あるいは英語のexploitation, exploitにもこのような悪いイメージはあるのだろうか?
▲池上氏も言うように(142ページ)ある程度の「搾取」がなければ社会の「進歩」はない。要は、どのくらいの剰余労働を許すかを社会全体で決めることが重要であろう。その決定は、私たちがどのくらいの「進歩」を求めるかにつながってゆく。社会の「進歩」が必ずしも人びとを幸せにしないと多くの人は既に考えている。
■しかし、資本の増大を目的とする資本家が、社会によって強制されない限り労働者の健康と寿命に配慮することはない。(147ページ)
▲このことを私たちは派遣労働者の扱われ方で最近目にしたところである。
■さて剰余価値だが、これは「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」に分けて考えることができる。(151ページ)
■絶対的剰余価値とは労働時間のことであり、1日は24時間しかなく、人間は生き物なのだから、これには明らかな限界がある。(151ページ)
■相対的剰余価値とは、労働の効率を高めて労働の生産力を高めることである。(151ページ)
▲機械の導入などにより、相対的剰余価値を高めることは限りなく可能なように思えるが、チャップリンが「モダンタイムス」で描いたように、労働の強化にも自ずと限界はある。
■しかし、社会全体の生産性を高めて、商品全体を安く生産できるようになれば、労働者が自ら必要とするお金(つまりは「労働力の価値」)も低くなる。そうなると資本家は労働者の給料を減らすこと、あるいは「必要労働」に比べて「剰余労働」の割合を大きくすること、ができる。というより資本家の論理とは資本の増大なのだから、労働の生産力を高めて、商品を安くし、そのことによって商品としての労働力も安くすることが資本の内的な衝動であるといえる。(156ページ)
■資本家とて鬼ではないし、現代の経営者は雇われているにすぎないが、儲けることは資本の論理であり、その努力を怠る経営者は「背任罪」にさえ問われかねない。(163ページ)
以上の粗雑なまとめから、さらに単純化を進めて私の強引なまとめを書きます。
●マルクスは資本主義社会というゲームのルール(あるいは論理)を解明した。それは唯一真正なる解明ではないが、非常に説得力ある分析である。(他の興味深い解明としては、例えばマックス・ヴェーバーの宗教社会学的分析(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などもある)。
●資本主義社会のゲームに参加する限り、人は資本の論理にしたがわざるを得ない。それはボクシングに参加する人が殴り、柔道に参加する人が投げるのと同じようなことである。「資本家」と呼ばれる人が必ずしも悪人であるわけではない。しかし人が、たとえ雇われ経営者としてであれ、あるいはその経営者の下で働く労働者としてであれ、「資本家」の論理で動くなら、人は資本家の利益最大化=資本の増加のために動かざるを得ない。ボクシングのリングで相手を殴ろうとしないことはできない。
●ある意味、資本主義社会の勝者は、資本家ではなく資本である。あるいは資本主義社会というシステム自体である。資本主義社会が強化される中で、生きた人間で勝者となる者はいないと言えるかもしれない。
●新自由主義によって野に放たれ、暴走する資本主義には何らかの修正が必要であろう。その修正は、一人一人が、どんな人生を送りたいか、どんな社会を築きたいか、豊かさとは何かをきちんと考えることにより健全なものになるだろう。
●一部の「エリート」が、人びとの人生や社会のあり方を設計するやり方は、過去しばしば暴走した。また、仮にそのエリートの計画が良きものであったとしても、人びとが自分自身でよく考えていないなら、その計画もうまくは遂行されないだろう。宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」という言葉は青臭いとして打ち捨てられるべきではない。
●ひるがえって私の仕事である英語教育のことについても少し述べるなら、現在「英語力」というのはまさに「商品」として扱われている。したがって学習者はしばしば、自分で英語が使えるという「使用価値」だけで満足せず、テストという物差しで自らの英語力という商品の「交換価値」を見極め、誇示しようとしている。
●資本主義社会からの根本的な離脱が考えがたい現状において、英語力が商品となっていることを蛇蝎のごとく嫌うのは、おそらく自己矛盾であろう。特に自らが、自らの英語力を道具の一つとして給料を得ている場合。
●だがそれは英語力、ひいては労働力、そして人間自体の商品化を全面肯定することではない。私たちには資本主義的以外の生き方もある。その生き方は資本主義社会のただ中でも十分可能である。
●私たちはお互いを商品としてではなく人間として出会い、共に暮らすことはできる。学校教育は、資本主義的な生き方だけでなく、脱-資本主義的、あるいは前-資本主義的な生き方、つまりは資本主義的以外の生き方も教えるべきである。人間は資本主義的生き方だけでは幸福になれないだろう。
●資本主義がこのまま進行すれば危ないことは数々の自然が教えてくれている。人の自然(nature)は、心身のさまざまな病態で現在の生き方が歪んでいることを伝えてくれている。自然環境は崩壊することにより、これ以上の「進歩」が地球全体の危機にまで及ぶかもしれないことを警告してくれている。
ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 『権力を取らずに世界を変える』 同時代社
アイデンティティ
私たちは通常、「アイデンティティ」というものを自明の前提とする。「私はAである」とするなら、私はAに他ならない。すれば、BやCやDも、それがAでない限りは、それらは私ではありえない。
しかし現実世界の私は、Aであるにせよ、常にAでない可能世界の私を予見する。現状のAを耐えられないとして私たちが叫ぶ時、私たちはしばしばAでない自分 ― 固定的なアイデンティティを超えた自分を想定している。これは「非アイデンティティにあくまでこだわる感覚」(アドルノ『否定弁証法』)につながるのかもしれない。
否定
アイデンティティと同じように、私たちはしばしば「肯定」を自明の前提とする。
例えばマルクスの影響を受けた人たちも、マルクスの問題(いかに資本主義社会の渦中にありながら、そのあり方を否定できるか)を、肯定的な問題(いかに労働者に我々ソビエト連邦共産党の正しい意識を外部注入するか)に変えてしまった。(cf 260ページ)
しかしこういった「マルクス主義」が暴走したことを私たちは知っている。今行なうべきは、「マルクス主義」を「否定」の問題設定に置き直して、資本主義に対するマルクスの批判の意味合いを鮮明にすることである。(cf 29ページ)。
それはあるユートピアをゴールとして設定することなく、「道をたずねながら、歩く」ことである。道をたずねるのは、道を知らないからだけではなく、道をたずねること自体が社会を変えるプロセスの一貫だからである。(cf 414ページ)。
つまり私たちは、到達すべきendを知らず、「こうではない」、「こうでもない」、「どうすればいいのだろう」と歩き続ける。こうして肯定でなく、否定に導かれて歩むことが、教条的で全体主義に至った「マルクス主義」の悲劇の後に私たちがやるべきことではないのか。
行為
かくして私たちは停滞しない。行為し続ける。行為するとは、アイデンティティを立て、そしてたちまちのうちにそのアイデンティティ化を否定することである(208ページ)。
また、行為するとは、純粋なる救い主(神、国家、党など)を肯定して突き進むことでもない。そうではなく、私たちが抱えている矛盾や限界から出発して、それらのただ中で、それらを少しずつ克服し否定してゆこうとすることである(438ページ)
行為とは主体性を意味する。主体性とは、「存在しているものを超えておこなわれてゆく意識的な投企、つまり存在しているものを否定し、まだ存在していない何かを創り出す能力に関わる」(60ページ)ことであるからである。行為者とは「ある」のではなく、むしろ行為は「であること」に抗する運動、「である」ものに抗する運動である(60ページ)。
資本主義
それでは私たちは何に抗するというのか。当時の資本主義がもたらす惨状を見たマルクスにとって、それは資本主義であった。そして今、新自由主義の跋扈を経て暴走する資本主義を前にして、私たちも資本主義的な社会のあり方に抗しなければならないと感じ始めている。
資本主義的な社会のあり方を、この本の著者はマルクスに倣って、次のように要約する。
本来、人間を育てる営みである教育までもが、子どもを市場で高い値のつく商品にする営みになっているような昨今、あるいは教育界を導くべき立場にある人が、資本主義的論理で、教育の個々の営みを、一般に比較可能な数値にどんどん変換してしまって、その数値を競わせるようにしている昨今、教育者として生計を立てる私は、資本主義的な社会のあり方、あるいは人間観に抵抗せざるを得ない。
抵抗
だがその抵抗は、理想郷へ一直線へと向かう類のものではない。それは資本主義的なあり方のただ中にいる私たち自身が、日々の暮らしの中で、なんとか「こうではない」、「ああでもない」と現状否定を重ねながら行為し続けることである。
資本主義社会に生き、そのシステムの中で給料を得ながらも、資本主義の論理からは外れる、あるいはそれに反する生き方に意義を認め、それを促進することこそが、20世紀の「マルクス主義」 ― 「主義」となって硬直化した教条を経た私たちが行なうべきことであろう。
「権力」
最後にこの本のタイトル(『権力を取らずに世界を変える』)にも使われている「権力」(power)についての誤解を解いておくべきだろう。
訳者解説によると、権力(power)には二つの側面がある。
この本の著者であるホロウェイのポイントは、資本主義社会では、左項のpowerが、右項のpowerに変換されてしまっていることである(529ページ)。
かといって私たちは世界を変えるために右項のpowerを取ろうとはせず(それは社会主義をめざした全体主義国家が行なったことである)、左項のpowerを解放するべきだと著者は語る。
こういう意味で、つまりは制度化され私たちをコントロールする権力を奪取することなく、むしろそういった権力とはまったく違ったゲームを、私たちの主体性で行なうことで世界を変えることを著者は述べる。世界を変えるとは、ゴールも指導者も抱かないままに、私たちの一人一人が、日常の暮らしを、日々豊かにしてゆこうとする営みである。
畏友から勧められたこの本は、三分の二まで読み進めたところで、やはりマルクスをある程度理解してからと思い直し、池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社を読んでから再読しましたらはたせるかなスイスイ読めました。
現代社会を考え直すための哲学書として面白いと思います。
⇒権力を取らずに世界を変える
⇒Change the World Without Taking Power
私たちは通常、「アイデンティティ」というものを自明の前提とする。「私はAである」とするなら、私はAに他ならない。すれば、BやCやDも、それがAでない限りは、それらは私ではありえない。
しかし現実世界の私は、Aであるにせよ、常にAでない可能世界の私を予見する。現状のAを耐えられないとして私たちが叫ぶ時、私たちはしばしばAでない自分 ― 固定的なアイデンティティを超えた自分を想定している。これは「非アイデンティティにあくまでこだわる感覚」(アドルノ『否定弁証法』)につながるのかもしれない。
否定
アイデンティティと同じように、私たちはしばしば「肯定」を自明の前提とする。
例えばマルクスの影響を受けた人たちも、マルクスの問題(いかに資本主義社会の渦中にありながら、そのあり方を否定できるか)を、肯定的な問題(いかに労働者に我々ソビエト連邦共産党の正しい意識を外部注入するか)に変えてしまった。(cf 260ページ)
しかしこういった「マルクス主義」が暴走したことを私たちは知っている。今行なうべきは、「マルクス主義」を「否定」の問題設定に置き直して、資本主義に対するマルクスの批判の意味合いを鮮明にすることである。(cf 29ページ)。
それはあるユートピアをゴールとして設定することなく、「道をたずねながら、歩く」ことである。道をたずねるのは、道を知らないからだけではなく、道をたずねること自体が社会を変えるプロセスの一貫だからである。(cf 414ページ)。
つまり私たちは、到達すべきendを知らず、「こうではない」、「こうでもない」、「どうすればいいのだろう」と歩き続ける。こうして肯定でなく、否定に導かれて歩むことが、教条的で全体主義に至った「マルクス主義」の悲劇の後に私たちがやるべきことではないのか。
行為
かくして私たちは停滞しない。行為し続ける。行為するとは、アイデンティティを立て、そしてたちまちのうちにそのアイデンティティ化を否定することである(208ページ)。
また、行為するとは、純粋なる救い主(神、国家、党など)を肯定して突き進むことでもない。そうではなく、私たちが抱えている矛盾や限界から出発して、それらのただ中で、それらを少しずつ克服し否定してゆこうとすることである(438ページ)
行為とは主体性を意味する。主体性とは、「存在しているものを超えておこなわれてゆく意識的な投企、つまり存在しているものを否定し、まだ存在していない何かを創り出す能力に関わる」(60ページ)ことであるからである。行為者とは「ある」のではなく、むしろ行為は「であること」に抗する運動、「である」ものに抗する運動である(60ページ)。
資本主義
それでは私たちは何に抗するというのか。当時の資本主義がもたらす惨状を見たマルクスにとって、それは資本主義であった。そして今、新自由主義の跋扈を経て暴走する資本主義を前にして、私たちも資本主義的な社会のあり方に抗しなければならないと感じ始めている。
資本主義的な社会のあり方を、この本の著者はマルクスに倣って、次のように要約する。
資本主義においては、ヒトとモノとの間、主体と客体との間の関係に転倒が生じているのです。主体が客体化し、客体が主体化しているのです。モノ(貨幣、資本、機械)が社会の主体になり、その反面、ヒト(労働者)が社会の客体になっています。社会関係は、外観だけでなく実質においても、モノの間の(貨幣と国家との間の、あなたのお金と私のお金との間の)関係になっています。その一方で、人間は社会性を奪い取られ、商品交換のためになくてはならない補足物である「個人」にかたちを変えてしまっているのです。(112ページ)
マルクスが資本主義を告発する理由は、資本主義が物質的な悲惨な状態をもたらすからだというだけではなく、とりわけモノとヒトとの関係の転倒を生むというところにあります。これを別の言葉でいえば、社会関係の物神化ということになります。(112-113ページ)
商品物神崇拝は、資本主義の「させる」力が私たちの存在の核心まで、つまり私たちの思考の習慣、私たちの他者に対する関係にまで浸透していることを意味しているのです。(108ページ)
本来、人間を育てる営みである教育までもが、子どもを市場で高い値のつく商品にする営みになっているような昨今、あるいは教育界を導くべき立場にある人が、資本主義的論理で、教育の個々の営みを、一般に比較可能な数値にどんどん変換してしまって、その数値を競わせるようにしている昨今、教育者として生計を立てる私は、資本主義的な社会のあり方、あるいは人間観に抵抗せざるを得ない。
抵抗
だがその抵抗は、理想郷へ一直線へと向かう類のものではない。それは資本主義的なあり方のただ中にいる私たち自身が、日々の暮らしの中で、なんとか「こうではない」、「ああでもない」と現状否定を重ねながら行為し続けることである。
教師が学生を適切に教えようとしている場合、看護士が患者の満足のゆくように看護しようとしている場合、デザイナーがよいプロダクト・デザインをおこなおうとしている場合、生産者がよい製品をつくろうとしている場合 ― そういう場合だって、そこでは、[交換]価値と対立しながら使用価値の展開をめざす闘い、それによって行為の社会性を解放しようとする闘いがおこなわれているのです。(374ページ)
資本主義社会に生き、そのシステムの中で給料を得ながらも、資本主義の論理からは外れる、あるいはそれに反する生き方に意義を認め、それを促進することこそが、20世紀の「マルクス主義」 ― 「主義」となって硬直化した教条を経た私たちが行なうべきことであろう。
商品関係はみずからを押しつけてきますが、日常生活には商品関係ではない関係を、あるいは商品関係に反する関係さえもつくりだしていくようなプロセスがうちに含まれているのです。そうしたものは、資本の外側にあるわけではありません。そうではなくて、まさしく資本に立ち向かいながら乗り越えていくものとしてあるのです。
その運動は、ひとつの矛盾したプロセスです。私たちは、非商品関係、協同の非資本主義的形態を打ち立てていきます。しかし、それはつねに支配的な形態と対立する運動でありながら、同時につねにある程度までそうした形態に汚染されたものでもあるのです。しかし、このような矛盾を通じて、私たちは、商品あるいは貨幣形態と対立する関わり合いがどういうかたちをとるのか、別のかたちの社会を描き出していく基礎をつくりだす関わり合いがどういうかたちをとるのかを認識していくのです。そのかたちとは、私たちが普通、愛、友情、仲間同士の思いやり、尊敬、協同として考えているものであり、それぞれの人たちがもつ人間としての尊厳を承認し合うことの上に生じてくるものなのです。(430-431ページ)
「権力」
最後にこの本のタイトル(『権力を取らずに世界を変える』)にも使われている「権力」(power)についての誤解を解いておくべきだろう。
訳者解説によると、権力(power)には二つの側面がある。
する力 (power-to) ― させる力 (power-over)
力能 (potentia) ― 権能 (potentas)
構成する力 (constituent power 構成的権力:憲法制定権力) ― 構成された権力 (constituted power 立憲政府権力)
構成 (constitution 「にする」こと) ― 存在 (existence 「である」こと)
この本の著者であるホロウェイのポイントは、資本主義社会では、左項のpowerが、右項のpowerに変換されてしまっていることである(529ページ)。
かといって私たちは世界を変えるために右項のpowerを取ろうとはせず(それは社会主義をめざした全体主義国家が行なったことである)、左項のpowerを解放するべきだと著者は語る。
「する」力を解放する闘いは、対抗権力 [counter-power] をつくりあげる闘いではありません。むしろ、反権力 [anti-power] の闘い、「させる」力とは根本的にちがうものをつくる闘いなのです。(81ページ)
こういう意味で、つまりは制度化され私たちをコントロールする権力を奪取することなく、むしろそういった権力とはまったく違ったゲームを、私たちの主体性で行なうことで世界を変えることを著者は述べる。世界を変えるとは、ゴールも指導者も抱かないままに、私たちの一人一人が、日常の暮らしを、日々豊かにしてゆこうとする営みである。
畏友から勧められたこの本は、三分の二まで読み進めたところで、やはりマルクスをある程度理解してからと思い直し、池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社を読んでから再読しましたらはたせるかなスイスイ読めました。
現代社会を考え直すための哲学書として面白いと思います。
⇒権力を取らずに世界を変える
⇒Change the World Without Taking Power
2009年9月23日水曜日
「文法をカラダで覚える」とは何か
あるプロジェクトでご一緒させていただいている方から、メールで以下のような質問をいただきました。いい機会なので、自分なりに考えをまとめてその方にお返事を出すと同時に、このブログでもその返事を公開して、皆様のご批判を仰ぎます。とはいえ、書いてみると、いつも以上にまとまりのないものになりました。お笑いください。
柳瀬がもらったメールの質問部分:
文章をカラダで覚えるということは、どの程度可能なんでしょうね。
シャドーイングなどのメソッドも含めていろいろありますが・・・
「英語のアタマを育てる」のが目標ではありますが、
実際会話するときには、ある種反射的に、その「アタマ」が、
「カラダ」と結び付かないといけないわけですよね。
それはつまり、文章も、ある程度、カラダで覚えるということなのかと
思うんです。
つまり、たとえばボクシングでいうと、一発のパンチが単語として、
ワンツーなどのコンビネーションが句、
コンビネーションの組み立てが文章だとすると、
それも含めてある程度カラダで覚えてないとつらいですよね。
そうすると、読み聞かせも、文章をカラダで理解するための活動
とも言えるような気がします。
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
というような考え方はあり得ますでしょうか。
以下、柳瀬の返信:
Hさん、質問をありがとうございました。質問を言い換えますと、
英単語や短い固定表現を、「カラダで覚える」ことは可能かもしれない。だが、実際のコミュニケーションで、文または文章を産出する際には、文や文章も「カラダで覚える」ことが必要なのではないか。そうなるなら「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」となるのではないか
となるかと理解します。
最後のキャッチフレーズに関しては、皆さんに誤解されず、覚えてもらいやすいフレーズを考えつくということになりますから、今私はどのように答えていいかわかりません。
ですが、単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文や文章を「カラダで覚える」ことの違いは明確にしておくべきかと思いますので、以下、私の考えを書きます。
「カラダで覚える」対象が、単語や固定表現から、文や文章に変わった場合、後者には前者にはない「文法」という要素が入ります。
(もちろん厳密に言いますなら、単語にも形態素論といった「文法」も入っていますし、固定表現の句にも句のレベルでの「文法」が入っています。ですが、ここでは「文法」という言葉で、文を構成する統語論のことを意味することにします。言うまでもなく、文章とは複数の文の集まりですから、文章を産出する際にも統語論が基礎になっています。もちろん統語論だけで、意味的なつながりのある文章を構成することはできませんが、それについては今回は詳しく考えません)。
話を戻しますと、「文や文章をカラダで覚える」とは「文法をカラダで覚える」と言い換えることが可能かつ適切かと私は考えています。
それでは「文法をカラダで覚える」とは何かという話になります。
以下、それについてまとめます。
「文法」という基本用語が、未だに整理されないまま、時に感情的に使用されているのは、驚くべきことかと思います。これについては過去にもさまざまな整理がありますが、ここで私なりに今一度、「文法」の二つの意味を区別します。
「文法」は、「言語についての知識」 (knowledge about a language) と、「言語という知識」 (knowledge of a language) という意味に分けられます。
「言語についての知識」 (knowledge about a language) とは、ある個別言語 (例、英語や日本語) に関する知識です。その知識が具体的な形を取るのは、通常、これまた特定の個別言語です。例えば、英語という個別言語に関する知識は、日本語といった特定の個別言語で説明されます。もちろん英語に関する知識を、英語で説明してもいいわけです。
こうなるとややこしいので、説明される言語を「対象言語」 (object language) 、説明する言語を「メタ言語」(metalanguage)と区別します。この区別にしたがいますと、「文法」の第一の意味は、「言語についての知識」 (knowledge about a language)であり、それは、ある対象言語について、メタ言語で説明された知識ということになります。
通常「文法」と呼ばれているのは、このメタ言語による対象言語についての知識です。もう少し正確な表現では「学校文法」「伝統文法」とも呼ばれています。
この知識は、メタ言語で説明されていますから、そのメタ言語が存在できるところには、どこにでも存在することができます。文法書とは、この知識を活字出版したものです。古いタイプの受験生は、この文法書を丸暗記して、メタ言語知識を自らの脳内に転移させようとしました。
しかし「文法」の意味は、「言語についての知識」に限られているわけではありません。
もう一つの「文法」の意味は、「言語という知識」 (knowledge of a language) です。この知識は言語(対象言語)そのものであり、通常、メタ言語という形では表現されません。その知識こそが、言語そのもの、あるいは言語を言語たらしめている本質です。この知識は、言語において体現されています。
この言語と知識の関係は、英語の "of" でもよく表現されています。
英語の "of" には次のような意味があります。
つまり「言語の知識」といった場合、「言語」と「知識」は同格関係にあるもので、同じものとも言えるとみなされています(5の用例)。あるいは「言語」は「知識」の一つのカテゴリー、つまり「ある種の知識」とみなされています(6の用例)。
5の用例と6の用例については本来はきちんと区別するべきかもしれません。ですが、ここではそれを割愛し、ここでは「言語という知識」という表現は、「言語の本質である知識」を意味しているとします。つまり文法の第二の意味は、「言語の本質である知識」を意味します。その知識が欠けていれば、英語なら英語という言語が成立しないのです。
通常の人間にとって、この「言語という知識」をメタ言語で表現することは極めて困難です。例えば人間は通常、自らの母語を支障なく話すことができます。もちろん人によって語彙や表現のレパートリーは違いますが、どんな人も、母語が英語なら英語と判定できるような話し方はできます。これを、人は母語の文法という知識を有していると表現することができます。
この知識を、通常の人間が、さらに言語化することはできません。つまり人は、母語を話すという行為そのものにおいて母語の文法という「言語という知識」を具現化することができますが、その行為に関して、メタ言語で説明することはできません。日本語母語話者でも、例えば「は」と「が」の使い分けを説明するように求められれば、口ごもるか、矛盾に満ちた説明とはとても言えない説明を始めるだけでしょう。
「生成文法」は、この「言語という知識」を、個別言語 (a language) を超えて、言語一般 (language)において、言語化あるいは記号化しようとする試みですが、そのような特殊訓練を受けていない人間においては、「言語という知識」を意識化することはほぼ不可能です。
しかし、ある言語を使う場合に決定的に大切なのは、この「言語という知識」という第二の意味での文法です。母語(第一言語)話者は、生得能力によって母語(第一言語)の「言語という知識」(第二の意味での文法)を、意識上は難なく獲得し、母語(第一言語)話者となります。ですが、その「言語という知識」(=対象言語)を言語(=メタ言語)で説明することはできませんから、「文法」の第一の意味である「言語についての知識」は持っていないと言えるでしょう。
話を簡単にするために、周囲ではまったく使われていない外国語を例にしましょう。外国語の場合、その外国語を使おうと願う者は、当初はその外国語の「言語という知識」をまったく持っていません。その外国語がまったく使えないからです。
外国語使用を願う者の認知能力がある程度高い場合は、その者の外国語使用を支援するため、教師は理屈で外国語使用を説明します。これが「言語についての知識」、つまり第一の意味での文法です。この文法は、通常、外国語ではなく、その者が最も得意とする母語で表現されます。つまり外国語使用を願う者は、対象言語(外国語)使用を、メタ言語(母語使用)で支援してもらうわけです。
ですが、この「言語についての知識」である文法とは、あくまでも言語に関してのことであり、言語そのものではありません。外国語学習の場合、対象言語(外国語)とメタ言語(母語)は異なりますから、余計に「文法」が「言語」そのものであるとは言えません。
「言語についての知識」である文法(メタ言語)は、対象言語の獲得を助けることはあるかもしれませんが、メタ言語の学習を突き進めてゆけば対象言語の獲得に必ずしも至るわけではありません。
ですが、他方、「言語という文法」について考えてみましょう。
外国語という対象言語を、とにかく使ってみること、つまり、最初は自らの意思や創意とはあまり関係のないものでいいから、それなりに意味がわかった上で、その言語を再生することとは、暗唱や音読やシャドーイングといった「集中的入出力訓練」(入力をそのまま出力として再生する訓練を集中的に行なうこと)が、行なっていることですが、これは、とにもかくにも言語を「使う」という意味で、「言語という知識」としての「文法」に即するということです。
この「言語という知識」としての「文法」に即することは、最初はもっぱらカラダのレベルで行ないます。「文法」と自分の相即がカラダでしっくりくるようになれば、文法から外れた文に接すればすぐにその違和感を感じるようになります。あるいは、カラダ(つまり口や手)の方が「言語という知識」としての「文法」に即した形で動くようになります。それはその人が、その言語を獲得したということです。原理的には、言語使用を突き進めれば、言語という知識(第二の意味での文法)は獲得されるはずです。
私たちは日常的な行為や母語使用において、アタマとカラダが統合されていて、アタマで願うことは即カラダで実行され、カラダで感じることは即アタマの想念となります。それが(やや程度は落ちるとはいえ)外国語でできるようになるわけです。これが外国語の獲得であり、それは、その外国語という知識―つまりは「文法」―を体得したということです。
繰り返すようになりますが、この外国語獲得の状態に至るために、どの程度、どのように「外国語についての知識」つまりは「学校文法」を使うかというのは、別途に具体的に考えられるべきことかと思います。それは外国語獲得を願う者の知的能力などに応じて決められるべきでしょう。
ただ極端なことを言いますと、外国語獲得は、「学校文法」(外国語についての母語でのメタ言語知識)の助けをあまり借りなくても可能です。もちろん「学校文法」の助けを大いに借りて外国語獲得する例もたくさんあります。ですから、「学校文法」の多寡は、原理的には、外国語獲得の本質的条件ではなく、付随的な(しかし個別例においてはとても重要な)条件とすら言えます。―ただ私たちは経験的には、日本のような状況で外国語を獲得する場合に、学校文法の助けを全く借りないのは現実的ではないことだけは知っていると言えましょう。
話を「外国語という知識」としての文法の体得に戻します。
「文法」は必要だとか、不要だとかいう話は、外国語についてのメタ言語知識としての学校文法の多寡についての話であり、「外国語という知識」としての文法の話ではありません。
「外国語という知識」としての文法(第二の意味での文法)は、外国語獲得には絶対に必要です。それがなくてはその外国語にならないからです。
それでは「その外国語にはならない」というのはどういうことでしょうか。
説明のために非常に単純な例を出しますと、例えば英語では、主語+動詞+目的語という語順を取りますが、これが目的語+動詞+主語という語順ですと、よほどの文脈の助けや聞き手の例外的な推測能力でもない限り、安定的に正しく理解してもらうことはありません。この語順での表現が理解されることは例外的であり、このような使用は「英語」とは通常みなされません。
細部はともかく、大まかな形式において、その言語を使用するあらゆる人間に、安定的に理解してもらうような形式で言語を使うことが、「言語という知識」の意味での「文法」を体得しているということの意味だと言えます。外国語において、この「文法」が体得されていないというのが「外国語にならない」ということです。
では、この文法の体得は、例えば単語や固定表現の体得とはどう違うのでしょうか。
またもや話をごくごく単純にします。単語や固定表現を30覚えるということは、それらの30の典型的な適用例を持つということです。
しかし文法の場合は、組み合わせにより適用例が爆発的に増えます。例えば主語として成立できる名詞を10、動詞を10、目的語として成立する名詞を10覚えます。この適用例は、10+10+10=30でなく、10x10x10=1,000です。
文法の体得は、単語の体得がなしうる可能性を爆発的に大きなものにするわけです。
単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文法を「カラダで覚える」ことの違いは、この潜在的可能性の大きさの違いにあります。
さらなる違いは、前者は単語や固定表現が結びついている対象や状況と具体的かつほぼ固定的に結びついていますが、文法は抽象的なもので、特定のものと結びついていないことです。ですから単語の獲得は具体的で誰にも目途が立ちやすいです。しかし、文法の獲得―「言語という知識」としての文法の獲得―は、抽象的で、メタ言語知識としての文法のテストとも必ずしも一致せず、つかみがたいものです。ですが、その言語を使う者が、自分なりに支障なく、その言語を聞き、読み、話し、書ければ―つまり使えれば―、「言語という知識」としての文法の獲得はなされていると結論されると言えるかと思います。
話をボクシングのメタファーに戻します。
単語を覚えることは、ジャブやストレートやフックといったパンチを覚えることにたとえられるでしょう。
典型的な表現を覚えることは、左ジャブ→右ストレート→左フックといったコンビネーションを覚えることにたとえられるでしょう。
読み聞かせなどで何度もある物語を聞くことは、ある優れたボクサーの一連のコンビネーションを何度もよく見ることにたとえられるでしょう。
音読やシャドーイングは、ある優れたボクサーのコンビネーションをそっくりそのまま真似することにたとえられるでしょう。
しかし最も大切なのは、英語なら英語という言語を体得することでしょう。ボクシングならボクシングという、パンチで相手にダメージを与える技術の本質を体得することでしょう。そのの技術の制約を知り、その制約の中での自由を自らの心身で実現できるようになることでしょう。
このボクシングの「文法」は抽象的なものですが、これが体得できれば、おそらくどのような状況の中でも、そのボクサーは効果的にボクシングができるでしょう。ちょうど言語の「文法」(第二の意味)を体得した人間が、どのような状況でも自分なりに発話できるように。
「文章をカラダで覚える」とは、「文法をカラダで覚える」ということです。この場合の「文法」とは、「言語の本質としての知識」であり、「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」ではありません。
その意味での「文法をカラダで覚える」ことは「単語をカラダで覚える」こととは、潜在的可能性の大きさと抽象性で大きく異なります。
「文法」を獲得した人は、その人の単語というリソースを組み合わせることにより、飛躍的に表現の可能性を増やします。
「文法をカラダで覚える」とは言語という制約の中での自由を覚えるということです。自由とは定義上、特定の形を取らないものです。ですから「文法をカラダで覚える」ための方法は、少なくとも「単語をカラダで覚える」ための方法ほどには特定化・具体化することはできません。あるいは「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」としての学校文法を覚えるほどには特定化・具体化できません。「言語という知識」としての文法を獲得するのは抽象的なことです。
定型表現やテキストの本文を何度も勉強したりする特定の形を使った学習は、その特定の形を覚えるためにも重要です。しかし、それより言語獲得にとって本質的なのは、その特定の形を通じて、文法という自由を体得することの方であると言えるでしょう。
「言語という知識」としての文法の獲得は、抽象的に体得されるものであり、その体得により、人は自らの意思を言語という制約の中で自由に表現することが可能になります。ですからこれはカラダの問題であり、アタマの問題でもあります。
そもそもアタマの問題は、脳内を直接観察できない私たちにとって、カラダの問題として扱うしかありません。
こういった意味では、
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
と言ってもいいのではないかと思います。このフレーズが正しく理解されるかは別問題ですが・・・
うまくまとめられませんでしたが、本日は取り急ぎ
通常「文法」と呼ばれているのは、このメタ言語による対象言語についての知識です。もう少し正確な表現では「学校文法」「伝統文法」とも呼ばれています。
この知識は、メタ言語で説明されていますから、そのメタ言語が存在できるところには、どこにでも存在することができます。文法書とは、この知識を活字出版したものです。古いタイプの受験生は、この文法書を丸暗記して、メタ言語知識を自らの脳内に転移させようとしました。
しかし「文法」の意味は、「言語についての知識」に限られているわけではありません。
もう一つの「文法」の意味は、「言語という知識」 (knowledge of a language) です。この知識は言語(対象言語)そのものであり、通常、メタ言語という形では表現されません。その知識こそが、言語そのもの、あるいは言語を言語たらしめている本質です。この知識は、言語において体現されています。
この言語と知識の関係は、英語の "of" でもよく表現されています。
英語の "of" には次のような意味があります。
5. (used to indicate apposition or identity): Is that idiot of a salesman calling again?
6. (used to indicate specific identity or a particular item within a category): the city of Chicago; thoughts of love.
http://dictionary.reference.com/browse/of
つまり「言語の知識」といった場合、「言語」と「知識」は同格関係にあるもので、同じものとも言えるとみなされています(5の用例)。あるいは「言語」は「知識」の一つのカテゴリー、つまり「ある種の知識」とみなされています(6の用例)。
5の用例と6の用例については本来はきちんと区別するべきかもしれません。ですが、ここではそれを割愛し、ここでは「言語という知識」という表現は、「言語の本質である知識」を意味しているとします。つまり文法の第二の意味は、「言語の本質である知識」を意味します。その知識が欠けていれば、英語なら英語という言語が成立しないのです。
通常の人間にとって、この「言語という知識」をメタ言語で表現することは極めて困難です。例えば人間は通常、自らの母語を支障なく話すことができます。もちろん人によって語彙や表現のレパートリーは違いますが、どんな人も、母語が英語なら英語と判定できるような話し方はできます。これを、人は母語の文法という知識を有していると表現することができます。
この知識を、通常の人間が、さらに言語化することはできません。つまり人は、母語を話すという行為そのものにおいて母語の文法という「言語という知識」を具現化することができますが、その行為に関して、メタ言語で説明することはできません。日本語母語話者でも、例えば「は」と「が」の使い分けを説明するように求められれば、口ごもるか、矛盾に満ちた説明とはとても言えない説明を始めるだけでしょう。
「生成文法」は、この「言語という知識」を、個別言語 (a language) を超えて、言語一般 (language)において、言語化あるいは記号化しようとする試みですが、そのような特殊訓練を受けていない人間においては、「言語という知識」を意識化することはほぼ不可能です。
しかし、ある言語を使う場合に決定的に大切なのは、この「言語という知識」という第二の意味での文法です。母語(第一言語)話者は、生得能力によって母語(第一言語)の「言語という知識」(第二の意味での文法)を、意識上は難なく獲得し、母語(第一言語)話者となります。ですが、その「言語という知識」(=対象言語)を言語(=メタ言語)で説明することはできませんから、「文法」の第一の意味である「言語についての知識」は持っていないと言えるでしょう。
話を簡単にするために、周囲ではまったく使われていない外国語を例にしましょう。外国語の場合、その外国語を使おうと願う者は、当初はその外国語の「言語という知識」をまったく持っていません。その外国語がまったく使えないからです。
外国語使用を願う者の認知能力がある程度高い場合は、その者の外国語使用を支援するため、教師は理屈で外国語使用を説明します。これが「言語についての知識」、つまり第一の意味での文法です。この文法は、通常、外国語ではなく、その者が最も得意とする母語で表現されます。つまり外国語使用を願う者は、対象言語(外国語)使用を、メタ言語(母語使用)で支援してもらうわけです。
ですが、この「言語についての知識」である文法とは、あくまでも言語に関してのことであり、言語そのものではありません。外国語学習の場合、対象言語(外国語)とメタ言語(母語)は異なりますから、余計に「文法」が「言語」そのものであるとは言えません。
「言語についての知識」である文法(メタ言語)は、対象言語の獲得を助けることはあるかもしれませんが、メタ言語の学習を突き進めてゆけば対象言語の獲得に必ずしも至るわけではありません。
ですが、他方、「言語という文法」について考えてみましょう。
外国語という対象言語を、とにかく使ってみること、つまり、最初は自らの意思や創意とはあまり関係のないものでいいから、それなりに意味がわかった上で、その言語を再生することとは、暗唱や音読やシャドーイングといった「集中的入出力訓練」(入力をそのまま出力として再生する訓練を集中的に行なうこと)が、行なっていることですが、これは、とにもかくにも言語を「使う」という意味で、「言語という知識」としての「文法」に即するということです。
この「言語という知識」としての「文法」に即することは、最初はもっぱらカラダのレベルで行ないます。「文法」と自分の相即がカラダでしっくりくるようになれば、文法から外れた文に接すればすぐにその違和感を感じるようになります。あるいは、カラダ(つまり口や手)の方が「言語という知識」としての「文法」に即した形で動くようになります。それはその人が、その言語を獲得したということです。原理的には、言語使用を突き進めれば、言語という知識(第二の意味での文法)は獲得されるはずです。
私たちは日常的な行為や母語使用において、アタマとカラダが統合されていて、アタマで願うことは即カラダで実行され、カラダで感じることは即アタマの想念となります。それが(やや程度は落ちるとはいえ)外国語でできるようになるわけです。これが外国語の獲得であり、それは、その外国語という知識―つまりは「文法」―を体得したということです。
繰り返すようになりますが、この外国語獲得の状態に至るために、どの程度、どのように「外国語についての知識」つまりは「学校文法」を使うかというのは、別途に具体的に考えられるべきことかと思います。それは外国語獲得を願う者の知的能力などに応じて決められるべきでしょう。
ただ極端なことを言いますと、外国語獲得は、「学校文法」(外国語についての母語でのメタ言語知識)の助けをあまり借りなくても可能です。もちろん「学校文法」の助けを大いに借りて外国語獲得する例もたくさんあります。ですから、「学校文法」の多寡は、原理的には、外国語獲得の本質的条件ではなく、付随的な(しかし個別例においてはとても重要な)条件とすら言えます。―ただ私たちは経験的には、日本のような状況で外国語を獲得する場合に、学校文法の助けを全く借りないのは現実的ではないことだけは知っていると言えましょう。
話を「外国語という知識」としての文法の体得に戻します。
「文法」は必要だとか、不要だとかいう話は、外国語についてのメタ言語知識としての学校文法の多寡についての話であり、「外国語という知識」としての文法の話ではありません。
「外国語という知識」としての文法(第二の意味での文法)は、外国語獲得には絶対に必要です。それがなくてはその外国語にならないからです。
それでは「その外国語にはならない」というのはどういうことでしょうか。
説明のために非常に単純な例を出しますと、例えば英語では、主語+動詞+目的語という語順を取りますが、これが目的語+動詞+主語という語順ですと、よほどの文脈の助けや聞き手の例外的な推測能力でもない限り、安定的に正しく理解してもらうことはありません。この語順での表現が理解されることは例外的であり、このような使用は「英語」とは通常みなされません。
細部はともかく、大まかな形式において、その言語を使用するあらゆる人間に、安定的に理解してもらうような形式で言語を使うことが、「言語という知識」の意味での「文法」を体得しているということの意味だと言えます。外国語において、この「文法」が体得されていないというのが「外国語にならない」ということです。
では、この文法の体得は、例えば単語や固定表現の体得とはどう違うのでしょうか。
またもや話をごくごく単純にします。単語や固定表現を30覚えるということは、それらの30の典型的な適用例を持つということです。
しかし文法の場合は、組み合わせにより適用例が爆発的に増えます。例えば主語として成立できる名詞を10、動詞を10、目的語として成立する名詞を10覚えます。この適用例は、10+10+10=30でなく、10x10x10=1,000です。
文法の体得は、単語の体得がなしうる可能性を爆発的に大きなものにするわけです。
単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文法を「カラダで覚える」ことの違いは、この潜在的可能性の大きさの違いにあります。
さらなる違いは、前者は単語や固定表現が結びついている対象や状況と具体的かつほぼ固定的に結びついていますが、文法は抽象的なもので、特定のものと結びついていないことです。ですから単語の獲得は具体的で誰にも目途が立ちやすいです。しかし、文法の獲得―「言語という知識」としての文法の獲得―は、抽象的で、メタ言語知識としての文法のテストとも必ずしも一致せず、つかみがたいものです。ですが、その言語を使う者が、自分なりに支障なく、その言語を聞き、読み、話し、書ければ―つまり使えれば―、「言語という知識」としての文法の獲得はなされていると結論されると言えるかと思います。
話をボクシングのメタファーに戻します。
単語を覚えることは、ジャブやストレートやフックといったパンチを覚えることにたとえられるでしょう。
典型的な表現を覚えることは、左ジャブ→右ストレート→左フックといったコンビネーションを覚えることにたとえられるでしょう。
読み聞かせなどで何度もある物語を聞くことは、ある優れたボクサーの一連のコンビネーションを何度もよく見ることにたとえられるでしょう。
音読やシャドーイングは、ある優れたボクサーのコンビネーションをそっくりそのまま真似することにたとえられるでしょう。
しかし最も大切なのは、英語なら英語という言語を体得することでしょう。ボクシングならボクシングという、パンチで相手にダメージを与える技術の本質を体得することでしょう。そのの技術の制約を知り、その制約の中での自由を自らの心身で実現できるようになることでしょう。
このボクシングの「文法」は抽象的なものですが、これが体得できれば、おそらくどのような状況の中でも、そのボクサーは効果的にボクシングができるでしょう。ちょうど言語の「文法」(第二の意味)を体得した人間が、どのような状況でも自分なりに発話できるように。
「文章をカラダで覚える」とは、「文法をカラダで覚える」ということです。この場合の「文法」とは、「言語の本質としての知識」であり、「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」ではありません。
その意味での「文法をカラダで覚える」ことは「単語をカラダで覚える」こととは、潜在的可能性の大きさと抽象性で大きく異なります。
「文法」を獲得した人は、その人の単語というリソースを組み合わせることにより、飛躍的に表現の可能性を増やします。
「文法をカラダで覚える」とは言語という制約の中での自由を覚えるということです。自由とは定義上、特定の形を取らないものです。ですから「文法をカラダで覚える」ための方法は、少なくとも「単語をカラダで覚える」ための方法ほどには特定化・具体化することはできません。あるいは「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」としての学校文法を覚えるほどには特定化・具体化できません。「言語という知識」としての文法を獲得するのは抽象的なことです。
定型表現やテキストの本文を何度も勉強したりする特定の形を使った学習は、その特定の形を覚えるためにも重要です。しかし、それより言語獲得にとって本質的なのは、その特定の形を通じて、文法という自由を体得することの方であると言えるでしょう。
「言語という知識」としての文法の獲得は、抽象的に体得されるものであり、その体得により、人は自らの意思を言語という制約の中で自由に表現することが可能になります。ですからこれはカラダの問題であり、アタマの問題でもあります。
そもそもアタマの問題は、脳内を直接観察できない私たちにとって、カラダの問題として扱うしかありません。
こういった意味では、
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
と言ってもいいのではないかと思います。このフレーズが正しく理解されるかは別問題ですが・・・
うまくまとめられませんでしたが、本日は取り急ぎ
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井口道生(2009)『科学英語の書き方・話し方』丸善株式会社
[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]
本書の内容は、英語一般に関すること(第2章、第4章)、科学者が英語を書くこと(第3章)、科学者が英語を話すこと(第5章)の三つに大きく分けられる。英語一般に関することは、英語教師にも有益な内容を含んでおり、科学者の英語使用に関しては、書くことと話すことの特性の違いを明確に区別して書いていることを大きな特徴としている。
英語一般に関しては、各種表現の使い分けの説明などが面白い。例えば “These calculations show that …” と “We find from these calculations that …” の使い分け。あるいは「知る、理解する」に関する know, learn, acquaint, recognize, discover, uncover, understand, comprehend, apprehend, realize, appreciate, perceiveの使い分け。もしくは日本語の「含む」に対応するcontain, include, comprise, be composed of, consist of, constitute, belong toの使い分け。さらには「考える」ことに対するspeculate, deliberate, imagineの使い分け。はてまた形容詞の使い分け (exact/accurate/precise)、そしてdifferent from よりもdifferent thanが好まれる場合などである。私たち英語教師はこれらの違いをなんとなくはわかっているだろうが、きちんと説明せよと言われると戸惑うことも少なくない。これらに関する著者の記述は、英語教師にも有用であろう。
科学のために英語を書くことについては、論の構成といった大きなレベルから、表記法といった小さなレベルまでさまざまなエッセイが用意されている。
論の構成に関しては、あくまでも読者の理解しやすさを目標として内容を配置し構成することを著者は力説する。したがってAbstractについては(著者の専門の物理学の場合)、読者がそれを読んだだけで、論文で扱われている問題を自力で解けることができるぐらいに前提と結論を明示することを勧めている(実際、FermiやFeynmanといった学者はそのようにAbstractを読み、問題を自分で解いていたという)。また、本論については適宜 “flags for the reader” と呼ばれる、論の構成や展開を明示的に示す文を入れることを勧める。Conclusionに関しては、AbstractやIntroductionで使った同一の文は原則として使用しないこと、そして必要に応じてrecommendation (勧告) と outlook (展望) を含めることを推奨している。
表記法に関しては、例えば、文頭に数量記号を用いることは可能な限り避けること、小数点を含む数値は複数形で表記すること (例 0.1 amperes, 1.23 amperes)、足し算や掛け算の記号の前後には空白を置くこと (例 x + y = z )、しかし割り算記号の前後には空白は不要であること (例 x/y ) などなどの様々なことが説明される。これらの表記法は、「英語」と言えば「会話」と一つ覚えで答える通俗的な英語教育観では、「細かすぎる」と言われてしまうことなのかもしれないが、科学者が論文という媒体で「コミュニケーション」を図る場合に、これらは存外に重要なことである。
英語を話すことに関しては、日本の科学者は苦手に思う人も多いが、科学者が国際会議で英語を使うことは実は簡単なことだと著者は説く。著者は多くの「コツ」を伝授し、日本の科学者の積極的かつ効果的な英語プレゼンテーションを勧める。
また俗語に関する著者の以下の考えなどは、私は見識だと思う。
私は、物理学者としての生活のうえで、俗語を知らなかったために重大な損をしたことはかつて一度もない。座談中にでてくる俗語が理解できないときには、意味はたずねることにしている。そして意味が理解できたら、もうそれでよしとし、決して自身からは使わない。物理の講演のなかで、固体の光学的スペクトルをスライドで示しながら、 “The exciton peak is hell of a lot stronger in this material.” などと言うのは、本物のアメリカ人ならともかく、日本人にはまったく似つかわしくないと思う。(176ページ)
あしかけ45年にもわたりアメリカで物理学者として活躍しながら、英語に対する並々ならぬ関心を抱いてきた著者の知恵が凝縮されたこのエッセイ集が、平易な日本語で読めるのはありがたい。物理学の知識は特に必要ないので、英語教師にもお薦めだ。
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ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社
訳者である鬼界彰夫先生の素晴らしい解説論文「隠された意味へ」がつけられたこのウィトゲンシュタインの日記が示すのは、哲学史上に残る『論理哲学論考』(1922年刊)を書いたウィトゲンシュタインが、自らの虚栄心に苦しんでいることである。
数年後、彼は『論理哲学論考』をある意味無効化してしまうような『哲学的探究』(1949年頃に完成、死語の1953年に刊行)を書きはじめるのだが、その哲学的転換の背後には宗教的な転換があったのではないかと、鬼界論文に導かれて私たちは考える。
宗教的な転換とは、自らの虚栄心が理想とする状態から自分がどれだけ遠い存在かを認識し、自分は自らを誇る存在ではなく、救いを求める存在であることを率直に認めることである。そして無様に生きる自らの生を愛することである。
さらにキリストを信じるということは、ウィトゲンシュタインにとっては、キリストが、私たちがなそうとしながらなしえないことをなしながら、およそこの世での低い位置に留まり続けたということを日常生活で痛感し続けることであったように思われる。
言語と論理を突き詰めて使い、論理実証主義の台頭の契機を作り出しながら、後年そういった思想を解体するというように、近代的な西洋知性の頂点と底の両方に到達したともいえるウィトゲンシュタインの、この悪戦苦闘の悲劇性(あるいは喜劇性)と、例えば柳宗悦の平常の営みを比較することは大変興味深い。そもそも「へりくだる」など、「高み」を想定する人間のみが考えることである。
追記、
私がするすべてのこと、あるいはほとんどすべてのことは、そしてこのノートへの記入は、虚栄心に染まっている。そして私にできる最良のこととは、言ってみれば虚栄心を切り離し、孤立させ、虚栄心が常に見つめていてもそれを無視して正しいことを行うことだ。虚栄心を追い払うことは私にはできない。時にそれが不在となるだけだ。(1930年5月2日)
虚栄心を捨て去りたい、と私が言うとき、またもやそれを単なる虚栄心から言おうとしているのではないとは言い切れない。私は虚栄心が強い。そして私の虚栄心が強い限り、より善くなりたいという私の願望も虚栄心に満ちている。そんなとき私は、自分の気に入っている虚栄心のない過去の誰々のようになりたいと思うのだが、すでに心の中で虚栄心を「捨て去る」ことから得られそうな利益を計算しているのだ。舞台に立っている限り、何をしようとも人は役者にすぎないのだ。(1931年11月15日)
数年後、彼は『論理哲学論考』をある意味無効化してしまうような『哲学的探究』(1949年頃に完成、死語の1953年に刊行)を書きはじめるのだが、その哲学的転換の背後には宗教的な転換があったのではないかと、鬼界論文に導かれて私たちは考える。
宗教的な転換とは、自らの虚栄心が理想とする状態から自分がどれだけ遠い存在かを認識し、自分は自らを誇る存在ではなく、救いを求める存在であることを率直に認めることである。そして無様に生きる自らの生を愛することである。
キリスト教教義の一解釈。完全に目覚めよ。そうするならお前は自分が役に立たないことを認識し、それによってお前にとってこの世界の喜びは止む。(中略) そこでお前には救いが必要となる。 (中略) お前にはどこか他の場所からの新しい光が必要となる。 (中略) お前は自分が死んでいることを認識し、別の生を受け取らなければならない。 (中略) この[現実のお前の]生は、言ってみれば、お前を大地の上に浮かんだままで保持する。つまり、お前が大地の上を行くときも、もはやお前は大地の上に立っているのではなく、天にぶら下がっているのである。そしてこの生が完全な者に対する人間の愛なのである。そしてこの愛が信仰なのだ。 (1937年4月6日)
さらにキリストを信じるということは、ウィトゲンシュタインにとっては、キリストが、私たちがなそうとしながらなしえないことをなしながら、およそこの世での低い位置に留まり続けたということを日常生活で痛感し続けることであったように思われる。
犠牲による救済とは、私たち全員がしたいと思いながらもできないことを彼[=キリスト]がなした、ということかもしれないと考えた。だが信仰において人は彼と同一化する、すなわちその時、人はへりくだった認識という形で負債を支払うのである。それゆえ、人は良くなれないがゆえに徹底して低くなるべきなのである。 (1937年3月25日)
言語と論理を突き詰めて使い、論理実証主義の台頭の契機を作り出しながら、後年そういった思想を解体するというように、近代的な西洋知性の頂点と底の両方に到達したともいえるウィトゲンシュタインの、この悪戦苦闘の悲劇性(あるいは喜劇性)と、例えば柳宗悦の平常の営みを比較することは大変興味深い。そもそも「へりくだる」など、「高み」を想定する人間のみが考えることである。
追記、
訳者に秀逸な解説論文を書かせた編集者の上田哲之氏と、ウィトゲンシュタインの精神を体現するようなカバー・デザインをしたデザイナーの古平正義氏の業績は特筆に値すると思う。ウェブ上で情報が氾濫する昨今、出版物とは、このように複数の専門家が協働的に作品を愛しながら創造されるべきものであると私は考える。
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柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫
日本民藝館という小さなmuseumは、知る人ぞ知る、日本が世界に対して誇れる施設だ。その創設者である柳宗悦が書いたこの初心者への概説書(原本は1941年出版)は、「民藝」への入門書だけでなく、「近代」を問い直し、真・善・美に関する私たちの考え方を一新させるような ―あるいは真・善・美について私たちが知っていたことを思い起こさせてくれるような― 本である。
柳らの造語である「民藝」を、彼は「民衆が日々用いる工藝品」、「最も深く人間の生活に交る品物の領域」、「不断使いするもの、誰でも日々用いるもの」、「雑器」あるいは「雑具」などと説明する(21ページ)。彼はその民藝にこそ美を見出した。
その美の発見が、独りよがりなものでも、イデオロギー的なものでもない、純粋に直観的なものであることは、日本民藝館の展示物、そして展示の仕方と建物自体を実際に見れば疑いようのないことであろう。あるいは柳も言うように、茶道を創めた人々が見出し、後年「大名物」(おおめいぶつ)と呼ばれるようになった茶器は、特別に作られた美術品ではなく、当時の民藝に他ならなかったことからも明らかであろう。
仰々しく作られた「芸術」作品よりも、「民藝」にこそ美が存在することを柳は次のように説明する。
繰り返すが、この審美は「貴族が悪くて、民衆が正しい」といったイデオロギー的なものではない。柳は日本民藝館のコレクションが、民衆的工藝品となったことを、(1) 美しいものを集めたら結果的にそれが民衆的工藝品であった、(2) 貴族的な品に美しいものがないわけではないが、それらの例外的存在はすべて「民藝美」の特徴である単純さや素朴さを備えていた、と説明する(106-107ページ)。
「民藝の美の特質」を柳は別箇所で、実用性、廉価性、平常性、健康性、単純性、協力性、国民性の7つの観点から説明する。 (127-132ページ)。このうち、6番目の協力性は、個人主義以外の人間のあり方を忘れがちな近現代人にとって、非常に重要な指摘であるように私には思える。
私は「英語教育学」と一部の人々が呼ぶ分野で仕事をしている人間だが、しばしば高名な先生の講話にうんざりし、有名な先生の研究発表に退屈している。「英語教育達人セミナー」などのように「無名」の現場教員が、互いに語り合っている場所の方にはるかに深い知恵があることを痛感している。もちろん有名者の話が常に駄目で、無名者の話が常に素晴らしいというわけではないが、高名・有名な人の話には、しばしば「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」が見えるように思えて辟易することが多い。(少なくとも私は、自分の「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」には自分でも嫌気がさしている。)
美に関する柳の論考は、真や善に関する教育実践に関しても当てはまるのではないかと思わざるを得ない。
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柳らの造語である「民藝」を、彼は「民衆が日々用いる工藝品」、「最も深く人間の生活に交る品物の領域」、「不断使いするもの、誰でも日々用いるもの」、「雑器」あるいは「雑具」などと説明する(21ページ)。彼はその民藝にこそ美を見出した。
その美の発見が、独りよがりなものでも、イデオロギー的なものでもない、純粋に直観的なものであることは、日本民藝館の展示物、そして展示の仕方と建物自体を実際に見れば疑いようのないことであろう。あるいは柳も言うように、茶道を創めた人々が見出し、後年「大名物」(おおめいぶつ)と呼ばれるようになった茶器は、特別に作られた美術品ではなく、当時の民藝に他ならなかったことからも明らかであろう。
仰々しく作られた「芸術」作品よりも、「民藝」にこそ美が存在することを柳は次のように説明する。
なぜ特別な品物よりかえって普通の品物にかくも豊かな美が現れてくるか。それは一つに作る折の心の状態の差異によると云わねばなりません。前者の有想よりも後者の無想が、より清い境地にあるからです。意識よりも無心が、さらに深いものを含むからです。主我の念よりも忘我の念の方が、より深い基礎となるからです。在銘よりも無銘の方が、より安らかな境地にあるからです。作為よりも必然が、一層厚く美を保証するからです。個性よりも伝統が、より大きな根底と云えるからです。人知は賢くとも、より賢い叡智が自然に潜むからです。人知に守られる富貴な品より、自然に守られる民藝品の方に、より確かさがあることに何の不思議もないわけです。(31ページ)
そもそもあのわずかな高価な貴族的な品物の、ほとんどすべてに見られる通有の欠点は、一つに意識の超過により、一つに自我の跳梁によるのです。一言で云えば工夫作為の弊なのです。(73ページ)
繰り返すが、この審美は「貴族が悪くて、民衆が正しい」といったイデオロギー的なものではない。柳は日本民藝館のコレクションが、民衆的工藝品となったことを、(1) 美しいものを集めたら結果的にそれが民衆的工藝品であった、(2) 貴族的な品に美しいものがないわけではないが、それらの例外的存在はすべて「民藝美」の特徴である単純さや素朴さを備えていた、と説明する(106-107ページ)。
「民藝の美の特質」を柳は別箇所で、実用性、廉価性、平常性、健康性、単純性、協力性、国民性の7つの観点から説明する。 (127-132ページ)。このうち、6番目の協力性は、個人主義以外の人間のあり方を忘れがちな近現代人にとって、非常に重要な指摘であるように私には思える。
第六は協力性の美をここに見出すということです。近世の美術品は作者の名を誇ります。他の誰にもできないような仕事であって個性の表現を示すものだと考えられます。それ故仕事は自分の名において作られるのです。ですが元来かかる習慣は個人主義が発生した後の現象で、誰も知る通り、東洋でも西洋でも昔はどんな優れた作にも名は記してありません。宗教時代のことでしたから、吾が名を誇る気持ちはなかったのです。民藝の世界に来ると再び無銘の領域に来るのです。作者は一々自己の名を記しません。このことは作者の不浄な野心や慾望を拭い去って、それを無心な清浄なものにしてくれるのです。しかもそれは大勢の人の協力の仕事なのです。これは工藝の性質自身が要求することなのです。焼物の例を取れば轆轤を引く者、削る者、描く者、焼く者、各々持ち場があって、それ等の人達が協力して仕事が完成されるのです。民藝品は個人の所産ではなく、多くの人達の協力的所産だということに大きな意義があるのです。将来の美学は、個人で美を産むということより、大勢で協力して美を産むということの方が、もっと大きな理念だということを教えねばならないと思います。個人の名誉よりも全体の名誉をもっと重く見るべきです。それ故人々は無銘品の価値をもっと見直さなければなりません。(130-131ページ)。
私は「英語教育学」と一部の人々が呼ぶ分野で仕事をしている人間だが、しばしば高名な先生の講話にうんざりし、有名な先生の研究発表に退屈している。「英語教育達人セミナー」などのように「無名」の現場教員が、互いに語り合っている場所の方にはるかに深い知恵があることを痛感している。もちろん有名者の話が常に駄目で、無名者の話が常に素晴らしいというわけではないが、高名・有名な人の話には、しばしば「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」が見えるように思えて辟易することが多い。(少なくとも私は、自分の「意識の超過」や「自我の跳梁」、あるいは「工夫作為の弊」には自分でも嫌気がさしている。)
美に関する柳の論考は、真や善に関する教育実践に関しても当てはまるのではないかと思わざるを得ない。
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2009年9月10日木曜日
甲野善紀先生・森田真生氏による教育・学びの本質を問うセミナー
甲野善紀先生は、私が私淑して10年以上になる方ですが、甲野先生がご推薦なさる人物を私もたどって、その期待が裏切られたことはありません。
先日、あるセミナーに参加して、甲野先生に初めてお会いすることができたのですが、甲野先生は、およそ「素」の方でした。世間で有名になった人間というのは、たいてい硬軟さまざま形で示威的になります。あるいは自分は示威的ではないということを示そうとして、妙に示威的であったりします。私が二日間で見た甲野先生は、そのような人間的弱さとは無縁の方でした。「素」であることにより、示威的でもなんでもない―というより示威というのが馬鹿らしく思えてしまう―強さをお持ちの方でした。
武術の実技指導でも、甲野先生は、私たち周りの人間に技を解説しながらも、それ以上に、ご自身の身体で武術を確認し、探究しているようでした。そうやっているうちに、甲野先生がふと「ああ、そうか」と静かにつぶやき、新たな動きを試されていましたが、それは甲野先生が以下のようにおっしゃるほどの大転換でした。私はその甲野先生の大転換を目の当たりにすることができた僥倖を本当に喜んでいます。
内田樹先生が、『先生はえらい (ちくまプリマー新書)』でおっしゃるように、「教師」には、「トレーナー」と「師」の2種類に分けることができます。「トレーナー」は、あなたに明確な到達点を示します。「ここまでできれば良い」と伝え、その技術を伝授しますが、その到達点(end)に学習者が達すれば、全ての活動は終了(end)になります。「トレーナー」の教育活動は、training(訓練)と言うべきでしょう。
それに対して、「師」は、あなたが向かうべき方向を示すが、そこにend(到達点)はないことを示します。師自らもその方向に向かい、探究しているわけです。そういった「師」の教育活動こそがeducation(教えること、啓発すること)ではないのでしょうか。深い意味での学びとは、trainingではなくeducationによってのみ引き出されるのではないでしょうか。
そういった意味で、まさに「師」である甲野先生は、現在、森田真生氏という1985年生まれの若者に注目されています。森田氏は、バスケットばかりやっていた中学生時代にバスケット指導に来た甲野先生に出会い―甲野先生の探究は、狭い意味の武術を超え、各種スポーツや音楽演奏、あるいは介護の動きなどの多方面に展開しています―、その後東京大学文科Ⅱ類に入学(2004年)、東京大学工学部システム創成学科知能社会システムコースへ進学決定(2005年)、東京大学工学部卒業(2008年)、直後に東京大学理学部数学科に学士入学した俊英です。
森田氏は、現在学ぶ数学について次のように語っています。
現在、教育の場である大学までもが、金(予算)の話ばかりする人間に牛耳られようとしています(私は悲観的過ぎるのでしょうか。それとも小児的なのでしょうか)。大学は基本的にtrainingの場ではなく、educationの場であるはずのなのですが、ますます「すぐに役立つ知識・技能」を効率よく伝えるだけのtrainingだけの場所になりつつあります。
そういった「大学」で育てられ、educationの喜びも知らず、trainingの世俗的効用ばかりを気にする若者が現在大量生産されている懸念を私は有しています。そういった若者、あるいはその若者を育てている教師にとっては、上の森田氏の見解など意味不明の妄言のように思えるかもしれません。しかし本来、学ぶということは、心身を澄まして、場合によっては全霊を尽くして行なうことなのではないでしょうか。教師も学習者も、少なくともその深奥さの片鱗は体感する必要はないでしょうか。
現代日本に席巻している、知識・技能を市場価格に還元して、その価格を高めることばかり考えているような「教育」は、どこかでdead-endにぶち当たるような気がします。ちょうどハチが突然に大量死してしまったように。
そのハチの大量死を描いたジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)の紹介記事でも書きましたように、甲野先生と森田氏が、9/19(土)は福岡県福岡市で、9/21(月・祝)は広島県福山市で公開対談会を開催されます。
およそ「教育」「学ぶこと」に関心のある方は、ぜひご参加下さい。私も福山市の対談会には参加する予定です。
甲野先生による森田氏の詳しい紹介は、下記の記事をご覧下さい。
http://www.shouseikan.com/zuikan0909.htm#2
先日、あるセミナーに参加して、甲野先生に初めてお会いすることができたのですが、甲野先生は、およそ「素」の方でした。世間で有名になった人間というのは、たいてい硬軟さまざま形で示威的になります。あるいは自分は示威的ではないということを示そうとして、妙に示威的であったりします。私が二日間で見た甲野先生は、そのような人間的弱さとは無縁の方でした。「素」であることにより、示威的でもなんでもない―というより示威というのが馬鹿らしく思えてしまう―強さをお持ちの方でした。
武術の実技指導でも、甲野先生は、私たち周りの人間に技を解説しながらも、それ以上に、ご自身の身体で武術を確認し、探究しているようでした。そうやっているうちに、甲野先生がふと「ああ、そうか」と静かにつぶやき、新たな動きを試されていましたが、それは甲野先生が以下のようにおっしゃるほどの大転換でした。私はその甲野先生の大転換を目の当たりにすることができた僥倖を本当に喜んでいます。
突然降ってきたような予想外の展開に、私自身ひどく驚いたというのは、昨年の5月の末、岡山でそれまで30年以上刀を持つのに左右の手を離していた状態から、両手を寄せた持ち方に大改訂した時もそうだったが、今回の展開は、あの時とは状況がかなり違う上、その影響が剣術のみではなく、私の技の全体系に直に及ぶという点では、更に大規模な変革になるのではないかと思う。
というのも、まだその全体像を理解するのには、かなりの時間がかかると思われるからであるが、そのホンの入り口ですでに大きな変化があるからである。それにしてもこんな事をよく気づいたものだと、その事がまず不思議である。
http://www.shouseikan.com/zuikan0908.htm#5
内田樹先生が、『先生はえらい (ちくまプリマー新書)』でおっしゃるように、「教師」には、「トレーナー」と「師」の2種類に分けることができます。「トレーナー」は、あなたに明確な到達点を示します。「ここまでできれば良い」と伝え、その技術を伝授しますが、その到達点(end)に学習者が達すれば、全ての活動は終了(end)になります。「トレーナー」の教育活動は、training(訓練)と言うべきでしょう。
それに対して、「師」は、あなたが向かうべき方向を示すが、そこにend(到達点)はないことを示します。師自らもその方向に向かい、探究しているわけです。そういった「師」の教育活動こそがeducation(教えること、啓発すること)ではないのでしょうか。深い意味での学びとは、trainingではなくeducationによってのみ引き出されるのではないでしょうか。
そういった意味で、まさに「師」である甲野先生は、現在、森田真生氏という1985年生まれの若者に注目されています。森田氏は、バスケットばかりやっていた中学生時代にバスケット指導に来た甲野先生に出会い―甲野先生の探究は、狭い意味の武術を超え、各種スポーツや音楽演奏、あるいは介護の動きなどの多方面に展開しています―、その後東京大学文科Ⅱ類に入学(2004年)、東京大学工学部システム創成学科知能社会システムコースへ進学決定(2005年)、東京大学工学部卒業(2008年)、直後に東京大学理学部数学科に学士入学した俊英です。
森田氏は、現在学ぶ数学について次のように語っています。
文系・理系という分け方があるが、高校時代までの私はそのどちらであったかというと、実はそのどちらでもなく、生粋の体育会系であった。
勉強は授業中以外にはほとんどせず、ただひたすら毎日バスケに打ち込んでいた。
そんな青春を過ごし、頭で考えることよりも身体で感覚することの方を信頼していた私にとっては、数学が目指す「絶対的真理」も、究極的な「完成」も、どうしようもなく胡散臭く思えた。
頭でっかちの天才たちが、その才能をもてはやされながら巨大なパズルを解いていくのはそれはそれでいいとして、そうしたところで人生の本当のなぞ、「わたしたちはなぜ生きているのか」、「なんのために生きるべきであるか」ということには少しも答えられないであろう。
そのように考えていたのである。
その私が、どういうわけか今では数学をしている。
それも一日のうち食べる時間と寝る時間を除いてはほとんど数学しかしていない。
なぜこのように、私の数学に対する態度が一転したかといえば、それはあるとき幸運にも、真の意味での数学に出会うことができたからである。
(中略)
「数学とはこころの学問であり、その目指すところは己のこころを見つめ、それを整えるということである。したがって計算や論理は数学の手段であってその本体ではない。
数学の本体は、数学的対象にじっくりと注意を注ぎ、その声に耳を澄ませるこころの姿勢そのものにある。そのためには自己自身のうちに数学的現象の世界を生み、育て、それを耕していかなければならない。そのような意味で、数学とは一部の天才たちの占有物などでは決してなく、個々がそれぞれのこころのうちに展開するひとつの内的な世界とそれとの交流を意味する。
したがって数学は職業数学者だけのためではなく、よりよく生きることを志すすべての人に開かれているべき、ひとつの実践であり、方法である。
また、こうした意味での実践としての数学に終わりはなく、したがって完成あるいは完結ということはありえない。」
http://www.shouseikan.com/zuikan0909.htm#2
現在、教育の場である大学までもが、金(予算)の話ばかりする人間に牛耳られようとしています(私は悲観的過ぎるのでしょうか。それとも小児的なのでしょうか)。大学は基本的にtrainingの場ではなく、educationの場であるはずのなのですが、ますます「すぐに役立つ知識・技能」を効率よく伝えるだけのtrainingだけの場所になりつつあります。
そういった「大学」で育てられ、educationの喜びも知らず、trainingの世俗的効用ばかりを気にする若者が現在大量生産されている懸念を私は有しています。そういった若者、あるいはその若者を育てている教師にとっては、上の森田氏の見解など意味不明の妄言のように思えるかもしれません。しかし本来、学ぶということは、心身を澄まして、場合によっては全霊を尽くして行なうことなのではないでしょうか。教師も学習者も、少なくともその深奥さの片鱗は体感する必要はないでしょうか。
現代日本に席巻している、知識・技能を市場価格に還元して、その価格を高めることばかり考えているような「教育」は、どこかでdead-endにぶち当たるような気がします。ちょうどハチが突然に大量死してしまったように。
そのハチの大量死を描いたジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)の紹介記事でも書きましたように、甲野先生と森田氏が、9/19(土)は福岡県福岡市で、9/21(月・祝)は広島県福山市で公開対談会を開催されます。
およそ「教育」「学ぶこと」に関心のある方は、ぜひご参加下さい。私も福山市の対談会には参加する予定です。
甲野先生による森田氏の詳しい紹介は、下記の記事をご覧下さい。
http://www.shouseikan.com/zuikan0909.htm#2
2009年9月9日水曜日
文科省用語などの英訳リスト
***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
***広報***
ちなみにこの掲示板では、時にこのような掲載エラーが生じます。私としても原因を特定できず、私個人もしばしば掲載を諦めています。
今回、このように掲示板に掲載されない投稿をこのブログに掲載するのは、(2)に含まれている情報が重要で、多くの人に共有されるべきだと考えたからです。掲示板に掲載されなかった投稿のすべてを、このようにブログに転載するわけではありませんので、予めご了承下さい。転載の判断は私が個人で行ないます。
********
(1)
文科省用語などの英訳リスト
投稿者---大津由紀雄(2009/09/08 07:54:04)
http://oyukio.blogspot.com/
ある用向きで英語教育に関する英文を書いているのですが、面倒なのは
いろいろな用語の英訳です。学習指導要領は一部暫定版ですが、文科省の
サイトに英訳が載っているので便利ですが、それだけでは不足です。
どなたかそうした用語の日英対照表のようなものをご存知でしたら、
ご教示いただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
(例)道徳などの「領域」
********
(2)
常連さんのお一人から以下の貴重な情報をいただきました。
ご当人の意向を受け、以下、「匿名さん」とさせていただきます。
まず、
Course of study for elementary schools in Japan
Course of study for lower secondary schools in Japan
Course of study for upper secondary schools in Japan
Published in 1983, Educational and Cultural Exchange Division,
UNESCO and International Affairs Dept., Science and International
Affairs Bureau, Ministry of Education, Science and Culture, Govt.
of Japan (Tokyo, Japan)
「竹田明彦著『学校用語英語小事典』(大修館) など多くの書籍で
資料としてあげられています。この小事典では、「少し古いが
学習指導要領の細かな点まで英語に直されているので、貴重な
参考資料である」とコメントがついていました」という匿名さんの
コメントが添えられていました。
(大津補注)「仮訳」という形ですが、今回の学習指導要領の一部の英訳が
文科省のサイトに掲載されていますね。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/index.htm
「辞典で言うと、竹田氏の上述の小事典の他、(中略)参考になるで
しょうか」というコメント付で挙げておられるのが、
全国海外教育事情研究会編著『日英教育用語辞典―海外教育視察必携 (1985年)』ジアース教育新社
(大津補注)便利そうですね。ぜひ手に入れたいと思います。
「辞書ほどの精度ではなく、用語の対照程度でいいのであれば、
筑波大学教育開発国際協力研究センター(CRICED) が
作成している、以下のビジュアル教材が参考になるかも知れません」
というコメントつきで挙げてくださったつぎのサイトですが、けっこう、
便利です。使えますね。
http://www.criced.tsukuba.ac.jp/keiei/index_e.html
http://www.criced.tsukuba.ac.jp/keiei/index.html
こういう貴重な情報をすぐに提供していただけるということに心から
感謝です。匿名さん、ありがとうございました。
大津由紀雄
追記 (2009/09/10)
掲示板「広場」に追加情報が掲載されました。フローだけではなくストックとして活用したい情報だと判断しましたので、ここに転載します。
*****(3)Re:文科省用語などの英訳リスト投稿者---よしやす(2009/09/09 23:09:58)すでにご存知かもしれませんし、私が読みこなせていないものをご紹介するのもと思い、躊躇しておりましたが、昨晩見つけていた資料をご紹介申し上げます。少し守備範囲が広い資料なのですが…。【補注: 文部科学省白書一覧へ飛ぶ。文部科学白書(英文)もある】*****(4)Re:文科省用語などの英訳リスト投稿者---terracao(2009/09/10 00:24:54)英語教育専門というわけではありませんが、こんな本もあります。小向敦子『ペダゴジカル英語―教職のスペシャリストを目指して』(信山社、二〇〇二)
仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
アレントに関して、現代日本の視点から書かれた入門書です。値段も手頃ですし、何より私は下に引用するようなアレント観に共感しますので、最初の一冊として読む本としてお薦めしたく思います。
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政治哲学に「現状を打破するオルターナティブ」を期待する読者は、そうした彼女 [=アレント] のはっきりしない姿勢にかなり苛々させられてしまう。しかし自分の考えを「唯一の正しいオルターナティブ」として読者に押し付けるべきではないという姿勢を保ち続けることこそが、彼女なりの世界観・価値観の帰結と見ることもできる。「全体主義」が、西欧近代が不可避的に抱えている矛盾を凝縮した現象だとすれば、それを克服できるオルターナティブを一理論家が呈示するというのは、ある意味、極めて僭越な振る舞いである。それを承知しているからこそ、アーレントは敢えて処方箋らしきものを示そうとしなかったのだ、と私には思われる―そう思えるか否かが、アーレントのファンになるかどうかの分岐点になるだろう。(34-35ページ)
私なりのアーレント理解に基づく私の見解では、誰の世界観が一番ましで、信用できるかが問題ではない。そういう発想自体がズレている。肝心なのは、各人が自分なりの世界観を持ってしまうのは不可避であることを自覚したうえで、それが「現実」に対する唯一の説明ではないことを認めることである。(57ページ)
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E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
アレントのよき理解者であり伝記作家でもあるヤング=ブルエールによって書かれ、アレントの『全体主義的の起源』、『人間の条件』、『精神の生活』を三大書として、それらを中心にアレントを語る本書は、アレントについて興味をもった人が手にするには非常にまとまった本かとも思います。
著者のアレント理解は、例えば次のような箇所に現れています。
日本の英語教育界では、紋切り型の言葉遣いで思考放棄することが奨励されているようにすら思える時を、しばしば経験しますので、私にとって上のようなアレントは非常に魅力的です。
著者は続けます。
私は最近ナラティブに関心を持っていますが、ナラティブあるいは語るということは、決して無責任で奔放な放言ではないことをここで再確認する必要があるでしょう。また私は詩に対しても分析に対しても能力を有しませんが、せめてアレントに憧れる―私はここで敢えて青臭い言葉を使います―ことで、自分を律したいと思います。
アレントの注目すべき論点は、権力に関するものですが、著者はそれを次のようにまとめています。
折からも政権交代で、私たち日本に住む者は、自由と権力をどう使いこなすかを試されようとしています。そういった観点から読んでも面白い本ではないでしょうか。
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著者のアレント理解は、例えば次のような箇所に現れています。
新しい概念は絶えず新しい現実に適合したものにならなければならない。そうでなければ、思考を束縛するものにもなりうる。アーレントが思考や言葉に求めたのは、新しい世界に適していること、極り文句を失効させうること、考えなしに受け入れられた思想を拒否すること、紋切り型の分析を打ち破ること、嘘や官僚的まやかしを暴露しうること、そして、人々がプロパガンダによるイメージへの依存から脱するのを助けうることである。(12ページ)
日本の英語教育界では、紋切り型の言葉遣いで思考放棄することが奨励されているようにすら思える時を、しばしば経験しますので、私にとって上のようなアレントは非常に魅力的です。
著者は続けます。
ふつう詩人や詩的思想家たちは、言葉が私たちを無思考への誘惑から解放するという期待のもとで生きている。彼らは、「出来事の内なる真実」を表しつつ、実際に起こったことを物語る責任を担う。ハンナ・アーレントは、そうした稀な存在だった。詩への才能と愛をもった思想家でありながら、詩人というよりもむしろ分析者で実践を重んじていた。そして、物事を構成要素に分解し、それらがどのように作用しているかを見せるために、区別し差異化するという手法をとった。(12ページ)
私は最近ナラティブに関心を持っていますが、ナラティブあるいは語るということは、決して無責任で奔放な放言ではないことをここで再確認する必要があるでしょう。また私は詩に対しても分析に対しても能力を有しませんが、せめてアレントに憧れる―私はここで敢えて青臭い言葉を使います―ことで、自分を律したいと思います。
アレントの注目すべき論点は、権力に関するものですが、著者はそれを次のようにまとめています。
人間の自由がどのように経験され保存されたかを理解しようというアーレントの努力にとって重要な論点は、政治について考えたり政治を既定する際には、二つの根本的な類型があるということだ。一方では、政治とは統治であり、特定の人びと (一人であろうと二人であろうと多数であろうと) による脅しや暴力の使用を必要とするような他者の支配であると考えることができる。他方では、彼女がそうしたように、語り行為する存在として集まる時に人びとがもつ、権力の組織あるいは構成として、政治を考えることができる。彼女が強調するのは、構成された政体において人びとの権力をどう保存するのかということである。つまり、<権力は人民に> potestas in populo という考え方である。 (90-91ページ)
折からも政権交代で、私たち日本に住む者は、自由と権力をどう使いこなすかを試されようとしています。そういった観点から読んでも面白い本ではないでしょうか。
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2009年9月8日火曜日
信田さよ子『依存症』文春新書
現代の人間は、実にさまざまなものに依存しているように思える。
古典的にはアルコール、タバコ、ギャンブル、性行動。最近ならショッピングやダイエット(と結びついた摂食障害)、各種の反復行動。自傷、ひきこもり。あるいは盗癖や暴力、そして薬物。そこまで反社会的にならずとも、恋愛や支配的人間関係、などなど。
共通しているのは、それらへの依存が悪いことであるということを本人も周りの人間もわかっているということだ。しかし本人は止められない。周りの人間も止めさせられない。
カウンセラーとして依存症の人たちに打ちのめされながらも、依存症という現象に不思議な魅力を感じ続けている著者が記したこの新書は、共感的理解と理論的洞察に満ちている。人間理解のための本として一気に面白く読めた。
システム論の導入(100ページ)や、自分を肯定できるストーリーを見いだした時に回復の兆しが見えること(139ページ)も面白いが、私がもっとも魅了されたのは、依存症を近代精神との関係から論じた箇所である。
資本主義社会以外の社会のあり方をほとんど知らない私たちにとって、マルクスの分析でも通過しなければ、上記の資本主義批判はぴんとこないかもしれない(だから私たちはきちんとマルクスを読まなければならない)。だからここでは「資本主義社会」ではなく「過酷な状況」として私なりの言い換えを試みよう。
ある過酷な状況にいる人は、その状況のコントロールを周りから期待されるようにはできない。コントロールを是とする社会の精神に染まった彼/彼女は、状況の打開を、セルフコントロールに求める。自分自身なら完全にコントロールできるはずだと信じる。そして、自分自身をぎりぎりにまで追い込む。だが生身の人間はそんな無理には耐えられない。
やがて彼/彼女は、禁断の快楽にしばし身を委ねる。そうせざるを得ないからだ。身を委ねることへの自責とその快感のギャップに彼/彼女ははまる。同じように、コントロールを是とする近代的思考から解放されていない周りの人間は、そんな彼/彼女は意志が弱いのだと批判する。快楽の手段を彼/彼女から遠ざける。
彼/彼女はますます追い込まれ、快楽を欲する。そして皮肉なことに、周囲の人間によって否定され遠ざけられた快楽の手段を手にすることは、周りの人間への復讐的含意ももち、彼/彼女の有能感―ある意味のセルフコントロールの感覚―を高める。さらにそうして手に入れた快楽の手段を、自分が羽目をはずさずに楽しめればよりいっそう自分のセルフコントロール感は高まるはずと考える・・・だがなかなかそうはいかず、悪い循環は強化される。
だから回復の手段の一つはセルフコントロールの考えを放棄することなのかもしれない。Alcoholics Anonymous (AA)が「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」ということを第一に宣言するように。
いずれにせよ依存症に対する新たな理解―言ってみるなら物語―を与えてくれる本です。面白かった。
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古典的にはアルコール、タバコ、ギャンブル、性行動。最近ならショッピングやダイエット(と結びついた摂食障害)、各種の反復行動。自傷、ひきこもり。あるいは盗癖や暴力、そして薬物。そこまで反社会的にならずとも、恋愛や支配的人間関係、などなど。
共通しているのは、それらへの依存が悪いことであるということを本人も周りの人間もわかっているということだ。しかし本人は止められない。周りの人間も止めさせられない。
カウンセラーとして依存症の人たちに打ちのめされながらも、依存症という現象に不思議な魅力を感じ続けている著者が記したこの新書は、共感的理解と理論的洞察に満ちている。人間理解のための本として一気に面白く読めた。
システム論の導入(100ページ)や、自分を肯定できるストーリーを見いだした時に回復の兆しが見えること(139ページ)も面白いが、私がもっとも魅了されたのは、依存症を近代精神との関係から論じた箇所である。
依存症の人たちは何よりも時代の、資本主義の要請に忠実だった人である。セルフコントロールへの強迫的な忠実さ、向上心、絶え間ない前進・・・昨日より今日、今日より明日という生き方、これは現実の自分を絶えず否定していくことによって初めて可能な生き方である。このように実に不健康な生き方を続けていくためには、セルフコントロールを時間限定つきで解放することが必要になる。それは主客一致、理性の機能の減退によってもたらされる。アルコールによる酔いはまさにセルフコントロール過剰な人にとっては、目的を満たす最適の薬物なのであった。そもそも自分で自分を支配するなどという、不可能に近い課題を誰よりも真面目に遂行しようとする生真面目な人ほど、それからの束の間の解放の快感に誰よりも敏感に反応したのだろう。
摂食障害の人たちに会っているとそれはもっと明確である。自分の食欲を完璧に支配し、体重も支配し尽くしたかのようなあの体型は、セルフコントロールの金字塔だ。繰り返される自己否定の言葉「私ってなんてだめなんでしょう」、その反動として彼女たちに与えられた過食という食欲コントロールの喪失行動は、まるでアルコール依存症の人たちが酒を延々と飲み続ける行動のようだ。
巷で言われるように依存症の人たちは決して意志が弱い人たちなのではなくて、とことんまで意志の力を発揮し自分と戦った人たちなのである。それは繰り返しになるが資本主義社会が我々日本人に要請したことの忠実な実践なのであった。(177-178ページ)。
資本主義社会以外の社会のあり方をほとんど知らない私たちにとって、マルクスの分析でも通過しなければ、上記の資本主義批判はぴんとこないかもしれない(だから私たちはきちんとマルクスを読まなければならない)。だからここでは「資本主義社会」ではなく「過酷な状況」として私なりの言い換えを試みよう。
ある過酷な状況にいる人は、その状況のコントロールを周りから期待されるようにはできない。コントロールを是とする社会の精神に染まった彼/彼女は、状況の打開を、セルフコントロールに求める。自分自身なら完全にコントロールできるはずだと信じる。そして、自分自身をぎりぎりにまで追い込む。だが生身の人間はそんな無理には耐えられない。
やがて彼/彼女は、禁断の快楽にしばし身を委ねる。そうせざるを得ないからだ。身を委ねることへの自責とその快感のギャップに彼/彼女ははまる。同じように、コントロールを是とする近代的思考から解放されていない周りの人間は、そんな彼/彼女は意志が弱いのだと批判する。快楽の手段を彼/彼女から遠ざける。
彼/彼女はますます追い込まれ、快楽を欲する。そして皮肉なことに、周囲の人間によって否定され遠ざけられた快楽の手段を手にすることは、周りの人間への復讐的含意ももち、彼/彼女の有能感―ある意味のセルフコントロールの感覚―を高める。さらにそうして手に入れた快楽の手段を、自分が羽目をはずさずに楽しめればよりいっそう自分のセルフコントロール感は高まるはずと考える・・・だがなかなかそうはいかず、悪い循環は強化される。
だから回復の手段の一つはセルフコントロールの考えを放棄することなのかもしれない。Alcoholics Anonymous (AA)が「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」ということを第一に宣言するように。
いずれにせよ依存症に対する新たな理解―言ってみるなら物語―を与えてくれる本です。面白かった。
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大塚謙二『成功する英語授業! 50の活動&お助けプリント』明治図書
***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
***広報***
大塚謙二『成功する英語授業!50の活動&お助けプリント』明治図書
です。
選んだ理由などに関してはぜひ『英語教育 増刊号』の書評記事をお読みいただきたいのですが、私がこの本を特にここでご紹介したいのは、この本が、著者の大塚謙二先生のホームページとうまくリンクしているからです。
http://ok.ko.kg/
この本で教えられるパスワードを使うと、多くの教材がダウンロードできます。その他にも、パスワード無しでダウンロードできる教材もたくさんありますので、中学校英語の指導をなさっている方は、ぜひ上記ホームページを訪れて下さい。
「いい仕事をする先生になるための心得」といった抽象的な心構えから、たいへんに具体的ですぐに使えるワークシートなどまで多くの有益な文書がダウンロードできます。
大塚先生のように高い志を持って、自らの労苦の末の作品を他人に惜しみなく分け与える教師は日本の宝だと思います。
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ジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)、および甲野善紀氏・森田真生氏による教育の問い直し
「近代とは何か」「ポスト近代とは何か」というのは、もはや象牙の塔の中だけでの問いではない。
それは本書 (ジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』文藝春秋) が紹介しているように、みつばちが大量死し、数々の農作物が収穫できなくなることからも切実に問われるべき問いである。
みつばちの受粉は多くの農作物にとって必須の過程であり、農業を工業化し、大規模で効率的な生産を図るアメリカの農業では、みつばちをできるだけ効率的に使用した(ブロイラーの鶏の過酷な環境から連想してほしい)。
その農業の工業化にともなう、単純なテクノロジーの大規模な適用が複数絡み合った時、それがみつばちの生態系にどれだけの複合的な打撃を与えるかは、誰もも予測できなかったし、今なお正確には説明されていない。ただみつばちが大量死しているという事実は厳然としてある。
考えてみれば、サリドマイドにせよ、フロンガスにせよ、開発当時は「副作用の少ない安全な薬」「夢の化学物質」としてもてはやされた。しかしそれらが使われているうちに、人体や地球環境に対して、それらは深刻な被害をもたらすことが判明した。
これは、近代的発想が引き起こす危険の一例と言えるかもしれない。
それでは近代的発想とは何か。
思いつくがままに、近代を形作った主なキーワードをあげてみるなら、
などがあがる。これらは相互に関連しているように思える。
それは本書 (ジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』文藝春秋) が紹介しているように、みつばちが大量死し、数々の農作物が収穫できなくなることからも切実に問われるべき問いである。
みつばちの受粉は多くの農作物にとって必須の過程であり、農業を工業化し、大規模で効率的な生産を図るアメリカの農業では、みつばちをできるだけ効率的に使用した(ブロイラーの鶏の過酷な環境から連想してほしい)。
その農業の工業化にともなう、単純なテクノロジーの大規模な適用が複数絡み合った時、それがみつばちの生態系にどれだけの複合的な打撃を与えるかは、誰もも予測できなかったし、今なお正確には説明されていない。ただみつばちが大量死しているという事実は厳然としてある。
考えてみれば、サリドマイドにせよ、フロンガスにせよ、開発当時は「副作用の少ない安全な薬」「夢の化学物質」としてもてはやされた。しかしそれらが使われているうちに、人体や地球環境に対して、それらは深刻な被害をもたらすことが判明した。
これは、近代的発想が引き起こす危険の一例と言えるかもしれない。
それでは近代的発想とは何か。
思いつくがままに、近代を形作った主なキーワードをあげてみるなら、
主客二元論と個人の哲学
産業革命
資本主義
技術的合理性(目標合理性)
コロニアリズム
官僚制
全体主義
などがあがる。これらは相互に関連しているように思える。
(以下、ませた高校生が書くような文章をいい大人である私が書くことをお許し頂きたい。私はしばしば自分の蒙昧を恥をかくことによってしか克服できない)。
主客二元論と個人の哲学は、「私」という意識を世界からも、他者からも乖離させ、「私」が世界や他者に働きかけ、操作するという思考図式を定着させた。ここでの世界や他者は、しばしば「私」を疎外させるものとして現れ、「個人」は世界や他者と対立的に存在するという発想が浸透した。
世界や他者の操作という発想は、自然科学の適用というテクノロジーと相まって、産業革命を可能にした。「個人」は、あるいは「個人」が集合して一つの大きな個となった「組織」は、世界や他者のあり方を変え、他者や世界を巨大な工業生産装置に変えることを可能にした。
巨大な工業生産装置の作成は、巨大な資本を必要とした。巨大な資本も巨大な工業生産装置を必要とした。人間関係を、もっぱら商品を媒介とした関係とみなし、世界を際限のない資本蓄積競争の場とする資本主義は、近代的な哲学とテクノロジーによる工業化と共生関係を築き、共に発展した。
近代哲学・テクノロジー・資本主義の相互発展関係は、技術的合理性(目標合理性)という思考法に結実した。遅れて近代化した日本の大学などは、技術的合理性(目標合理性)に基づく知的営みをもっぱら学問と考えた。工学は、技術的合理性(目標合理性)を世界に対して適用する学問であり、法学・行政学あるいは後年の経営学などは、それを他者に対して適用する学問であった。後者によって発展した(広義の)官僚制は、資本主義による資本の蓄積と相まって、前者の大プロジェクトをこれまでになかった規模で実施することに成功した。
巨大な工業生産は、商品を買い、資本を自らに供給してくれる消費者をますます必要とした。市場は次々海外に作られた。非-近代哲学・テクノロジー・資本主義圏を、近代哲学・テクノロジー・資本主義圏に組入れることは、しばしば道義的にも正当化され、それは後年コロニアリズムとも呼ばれるようになった(この正当化の際にしばしばキリスト教やナショナリズムが用いられた)。
近代哲学・テクノロジー・資本主義、あるいはキリスト教信仰やナショナリズムの共有からはじき出された人々は、徹底的に「他者」とされた。「他者」を「私」の拡大世界(「組織」)に取り込むこと、あるいはそれが適わないなら「他者」を徹底的に排除すること、そのために技術合理性(目標合理性)に基づくテクノロジーや組織機能を最大限に活かすこと―こういった発想は、二度の世界大戦に結実した。
日独伊に典型的に見られるとされたこの発想は「全体主義」とも後年呼ばれるようになったが、これは日独伊に限られた話ではなく、ソ連をはじめとした国家にも見られた。あるいは市場による解決以外の発想を認めようとしない新自由主義にも見られたといっていいかもしれない。
総じて言うなら、20世紀までには多くの全体主義が勃興し、そして破綻した。全体主義は、近代哲学、産業革命、資本主義、技術的合理性(目標合理性)、官僚制、コロニアリズムなどの複合的な発展の一つの帰結であった。必然の結果とは言わないにせよ。
そうしているうちに、私たちは、「近代的」でない人間のありよう、世界のありようを想像することさえ困難になった。知的営みですら、わかりえないものを排除する全体主義的発想に強い影響を受けるようになった。
農業も、グローバル市場で大量販売できる工業生産的発想で行なわれ、自然科学の適用であるテクノロジーは、無批判的に進行した。みつばちは、われわれと共に世界を共有する生命としてでなく、テクノロジーの適用で効用を最大化できる対象とみなされた。その連鎖が複合的になった時に、みつばちは大量死した。
だが、幸い科学・学問と呼ばれる知的探究は、技術的合理性(目標合理性)に基づくものばかりではない。技術的合理性(目標合理性)や資本主義的利益から自由な知的探究は、エコロジー(ecology)や複合性(complexity)といった理論も生み出した―エコロジーや複合性の議論は、反-全体主義的でもある―。
また人間は、技術的合理性(目標合理性)や科学・学問からも自由な感性を保っていた。自他の変化を敏感にそして時に痛切に直知する感性は多くの人に保たれ、その感性によるさまざまな表現は、高度の感性を有しない人にも訴えかけた。
かくしてこの本の著者は、みつばちの大量死をテーマとする論考をまとめた。多くの読者がそれに反応した。甲野善紀氏もその一人で、この本の重要性を何度も訴えた。その繰り返しにより、私も手を取り、この本が訴えかけるテーマの大きさに驚いた―この本は、決して蜂蜜や農作物の高騰だけの問題ではない!―。
中学生の時に甲野善紀氏に影響を受け、現在は現在東京大学理学部数学科在籍中の森田真生氏は、この本の感想を私信で甲野氏に送る。それは現在、ウェブ上で見ることができる。彼はその私信の中で、教育について述べる。
この問いかけを重視した甲野氏は、森田氏との対談の場を設置し、それは公開されることとなった。
こういった近代の問い直し、そして新しい生き方の探究から私は目をそらすことができない。
主客二元論と個人の哲学は、「私」という意識を世界からも、他者からも乖離させ、「私」が世界や他者に働きかけ、操作するという思考図式を定着させた。ここでの世界や他者は、しばしば「私」を疎外させるものとして現れ、「個人」は世界や他者と対立的に存在するという発想が浸透した。
世界や他者の操作という発想は、自然科学の適用というテクノロジーと相まって、産業革命を可能にした。「個人」は、あるいは「個人」が集合して一つの大きな個となった「組織」は、世界や他者のあり方を変え、他者や世界を巨大な工業生産装置に変えることを可能にした。
巨大な工業生産装置の作成は、巨大な資本を必要とした。巨大な資本も巨大な工業生産装置を必要とした。人間関係を、もっぱら商品を媒介とした関係とみなし、世界を際限のない資本蓄積競争の場とする資本主義は、近代的な哲学とテクノロジーによる工業化と共生関係を築き、共に発展した。
近代哲学・テクノロジー・資本主義の相互発展関係は、技術的合理性(目標合理性)という思考法に結実した。遅れて近代化した日本の大学などは、技術的合理性(目標合理性)に基づく知的営みをもっぱら学問と考えた。工学は、技術的合理性(目標合理性)を世界に対して適用する学問であり、法学・行政学あるいは後年の経営学などは、それを他者に対して適用する学問であった。後者によって発展した(広義の)官僚制は、資本主義による資本の蓄積と相まって、前者の大プロジェクトをこれまでになかった規模で実施することに成功した。
巨大な工業生産は、商品を買い、資本を自らに供給してくれる消費者をますます必要とした。市場は次々海外に作られた。非-近代哲学・テクノロジー・資本主義圏を、近代哲学・テクノロジー・資本主義圏に組入れることは、しばしば道義的にも正当化され、それは後年コロニアリズムとも呼ばれるようになった(この正当化の際にしばしばキリスト教やナショナリズムが用いられた)。
近代哲学・テクノロジー・資本主義、あるいはキリスト教信仰やナショナリズムの共有からはじき出された人々は、徹底的に「他者」とされた。「他者」を「私」の拡大世界(「組織」)に取り込むこと、あるいはそれが適わないなら「他者」を徹底的に排除すること、そのために技術合理性(目標合理性)に基づくテクノロジーや組織機能を最大限に活かすこと―こういった発想は、二度の世界大戦に結実した。
日独伊に典型的に見られるとされたこの発想は「全体主義」とも後年呼ばれるようになったが、これは日独伊に限られた話ではなく、ソ連をはじめとした国家にも見られた。あるいは市場による解決以外の発想を認めようとしない新自由主義にも見られたといっていいかもしれない。
総じて言うなら、20世紀までには多くの全体主義が勃興し、そして破綻した。全体主義は、近代哲学、産業革命、資本主義、技術的合理性(目標合理性)、官僚制、コロニアリズムなどの複合的な発展の一つの帰結であった。必然の結果とは言わないにせよ。
そうしているうちに、私たちは、「近代的」でない人間のありよう、世界のありようを想像することさえ困難になった。知的営みですら、わかりえないものを排除する全体主義的発想に強い影響を受けるようになった。
農業も、グローバル市場で大量販売できる工業生産的発想で行なわれ、自然科学の適用であるテクノロジーは、無批判的に進行した。みつばちは、われわれと共に世界を共有する生命としてでなく、テクノロジーの適用で効用を最大化できる対象とみなされた。その連鎖が複合的になった時に、みつばちは大量死した。
だが、幸い科学・学問と呼ばれる知的探究は、技術的合理性(目標合理性)に基づくものばかりではない。技術的合理性(目標合理性)や資本主義的利益から自由な知的探究は、エコロジー(ecology)や複合性(complexity)といった理論も生み出した―エコロジーや複合性の議論は、反-全体主義的でもある―。
また人間は、技術的合理性(目標合理性)や科学・学問からも自由な感性を保っていた。自他の変化を敏感にそして時に痛切に直知する感性は多くの人に保たれ、その感性によるさまざまな表現は、高度の感性を有しない人にも訴えかけた。
かくしてこの本の著者は、みつばちの大量死をテーマとする論考をまとめた。多くの読者がそれに反応した。甲野善紀氏もその一人で、この本の重要性を何度も訴えた。その繰り返しにより、私も手を取り、この本が訴えかけるテーマの大きさに驚いた―この本は、決して蜂蜜や農作物の高騰だけの問題ではない!―。
中学生の時に甲野善紀氏に影響を受け、現在は現在東京大学理学部数学科在籍中の森田真生氏は、この本の感想を私信で甲野氏に送る。それは現在、ウェブ上で見ることができる。彼はその私信の中で、教育について述べる。
現代の教育システムを簡単に総括してしまうなら、「問題解決者の大量生産システム」と呼ぶことができるでしょう。
名のある大学の入試を突破し、数々の難しい資格を取得できる優秀な問題解決者が毎年何万人と生産されています。
一方で、優秀な問題提起者を育てる努力はほとんどなされてこなかったようです。
その結果は火を見るより明らか。
「陳腐な問題を、大量の問題解決者がこぞって解く」
という構図が生まれたのです。
・いかにして1円でも儲けるか
・いかにして1グラムでも多く生産するか
・いかにして1秒でも楽するか
問題提起者の不在により、このようなつまらない問題に大量の人材が人生を賭けて取り組んでいるのです。
・かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか
・作物に花が咲くとなぜ実がなるのか
・わたしたちはそもそもなんのためにいきているのか
このような根本的な問いを、創造的な形式で問いかける人がひとりでも多くいたら、世界はいまとは違った姿になっていたでしょう。
「かぼちゃの種からなぜかぼちゃができるのか」
そう問う余裕すらなくした人類が、ひとつでも多くのかぼちゃを生産するという面白みのない問いの「解決」に全力で取り組んできた結果が、『ハチはなぜ大量死したのか』に描かれている、いままさにわたしたちが生きている世界なのではないでしょうか。
http://www.shouseikan.com/zuikan0908.htm#4
この問いかけを重視した甲野氏は、森田氏との対談の場を設置し、それは公開されることとなった。
9/19(土)は福岡県福岡市で、9/21(月・祝)は広島県福山市で開催される。
こういった近代の問い直し、そして新しい生き方の探究から私は目をそらすことができない。
というより、森田氏の言う「陳腐な問題を、大量の問題解決者がこぞって解く」という記述は今の大学の現状を言い当てているようにもに思える。そしてその大学で、未来の市民も教師も教育される。
ご興味ある方は、ぜひ本を読むか、福岡市・福山市のセミナーにご参加下さい。
⇒『ハチはなぜ大量死したのか』
ご興味ある方は、ぜひ本を読むか、福岡市・福山市のセミナーにご参加下さい。
⇒『ハチはなぜ大量死したのか』
ロバート・B・ライシュ(2008)『暴走する資本主義』東洋経済新報社
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「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
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資本主義の暴走は20世紀前半にもありました。大企業が発展する一方、公害、長時間労働、低賃金、児童労働、不平等の拡大、小さな市町村の荒廃などの社会問題は深刻になりました(27ページ)。アメリカでさえ第一次大戦前には社会党員が10万人にまで増えました(29ページ)。
しかし戦後1950年代の爆発的な経済発展は、アメリカにおいて民主主義と大規模資本主義の両立という問題を雲散霧消させてしまいました(36ページ)。企業は賃金上昇と福利厚生の充実を進め、労使の対立は影を潜めました(47ページ)。しかしそれは市場をライバルにとられる心配がなかったからこそできた大盤振る舞いでした(62ページ)。
しかし1970年代半ばからアメリカの巨大寡占企業の地位がゆらぎ始めました。各種テクノロジー(特に輸送・通信技術)の発展により、消費者と投資家がこれまでにない力をもつシステムができあがったのです(70ページ、81ページ)。やがて「グローバル化」という言葉が人々の口にのぼるようになってきました。
高まる消費者の声にひたすら対応した企業(例えばウォルマート)はこの環境の中で強大になってゆきました。投資家の声に応えるためには、企業の最高経営責任者(CEO)は株主の利益を最大化することを選びました。その結果、1990年代の投資家の株保有期間は2年あまりでしたが、2002年には1年未満、2004年には半年になりました(96ページ)。
この超資本主義時代に生き残る企業は消費者と投資家にはとても親切です。ですがその代償は、労働者、市民、生活者といった消費者・投資家以外の存在を冷遇することです。またもや労働条件の悪化、不平等の拡大、地域社会の崩壊などの社会問題が深刻になりました。
社会問題を解決するのは政治の仕事でしょうが、暴走する資本主義を生き残る企業は、巨大な資金力で政治家の政策決定や科学者の専門的判断に影響を与えています。超資本主義の企業は政治と知識を買収しているのです(199ページ、215ページ)。
CSR (Corporate Social Responsibility; 企業の社会的責任)の動きが社会問題を解決するというのはおためごかしです。企業にとってCSRはブランドイメージを高め、競争力を維持するための必要悪です。市場原理に合わないことは決してしません。また悲しいことに消費者としての私たちの多くも、少しでも安い商品を買うのです。企業はその性質上、儲かることしかやりません。甘い期待からここを間違えては大変なことになります。
企業は政治の代わりになれません。ましてや学問の代わりにもなれません。
正義と真理の追究の営み--政治と学問--を企業の手から人間に取り戻さなければなりません。大金持ちなら永遠に消費者・投資家でいられるかもしれません。しかしそういった少数の人間だけが富み栄え、残りの大多数がどんどん没落し人間の尊厳さえ失いかねない社会は、人間らしい社会なのでしょうか。私たちはそういう社会を望んでいるのでしょうか。
政治と学問に共通する人類遺産である民主主義--正義と真理の前での人間の平等と自由--を私たち市民が守らなければ、この世はひどい社会になるかもしれないというのはジャック・アタリも言っていることでした。
著者のライシュは、ハーバード大学教授、ブランダイス大学教授などを経て、現在カリフォルニア大学バークレー校教授。クリントン政権で労働長官。『アメリカン・プロスペクト』の共同創立者兼編集者。『ニューヨーカー』『アトランティック・マンスリー』『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』『ウォールストリート・ジャーナル』などへの寄稿多数。2003年に経済・社会思想における先駆的業績によりバーツラフ・ハベル財団賞受賞。2008年5月『ウォールストリート・ジャーナル』紙で「最も影響力のある経営思想家20人」の1人に選ばれたそうです。この本は偏狭なイデオローグによる作品ではありません。
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2009年9月6日日曜日
映画「マグノリア」
微熱が続くので、こんな時でもなければ長い映画は見られないと思い、前から気になっていながら見る機会を逃していた映画「マグノリア」を見る。
見ながら必死で複数の人物と出来事を因果律で結びつけようとしている自分に途中で気がつく。
おそらく因果律に基づく合理的な整合性というのは、自分の予想以上に私の中に巣くっているのだろう。
人生も世界も、そんなに単純じゃないのにね。
もちろん単純に捉えることも可能だけれど、そうすると見えなくなってしまうことがたくさんあるのにね。
物事は「起こる」のよね。
複合性 (complexity) で説明するのが、現在のところもっとも妥当な説明法なのだろうけれど、それも後知恵であり、単一の視点だけで、振り返るまもなく実時間で行動している人間にとって、物事はただ「起こる」のよね。
だから、単純な因果律による説明はしばしば破綻し、それどころか意味づけさえうまくいかないのよね。
だから「全知全能」にて、人間には不可解な「神」を想像し、それへの信仰でなんとか乗り切ろうとするけど、それもいつもうまくゆくとは限らないのよね。
起こることを起こるがままに受け止め、ひとつひとつそれらに丁寧に対処できる人がいたら、その人は大人だと思う。
映画のラストシーンで、象徴的な天災(?)が起こるけど、3時間近く、この映画を見ていたら、「うん、そんなことも起こりうる」と妙に納得してしまった。
それから音楽はいい。この映画が一種のミュージカルになっていると言ってもいいぐらいに、映画と音楽がぴったりあっていた。
わけのわからない「文学」的な映画を見たいのでしたら、お薦めです。
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見ながら必死で複数の人物と出来事を因果律で結びつけようとしている自分に途中で気がつく。
おそらく因果律に基づく合理的な整合性というのは、自分の予想以上に私の中に巣くっているのだろう。
人生も世界も、そんなに単純じゃないのにね。
もちろん単純に捉えることも可能だけれど、そうすると見えなくなってしまうことがたくさんあるのにね。
物事は「起こる」のよね。
複合性 (complexity) で説明するのが、現在のところもっとも妥当な説明法なのだろうけれど、それも後知恵であり、単一の視点だけで、振り返るまもなく実時間で行動している人間にとって、物事はただ「起こる」のよね。
だから、単純な因果律による説明はしばしば破綻し、それどころか意味づけさえうまくいかないのよね。
だから「全知全能」にて、人間には不可解な「神」を想像し、それへの信仰でなんとか乗り切ろうとするけど、それもいつもうまくゆくとは限らないのよね。
起こることを起こるがままに受け止め、ひとつひとつそれらに丁寧に対処できる人がいたら、その人は大人だと思う。
映画のラストシーンで、象徴的な天災(?)が起こるけど、3時間近く、この映画を見ていたら、「うん、そんなことも起こりうる」と妙に納得してしまった。
それから音楽はいい。この映画が一種のミュージカルになっていると言ってもいいぐらいに、映画と音楽がぴったりあっていた。
わけのわからない「文学」的な映画を見たいのでしたら、お薦めです。
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2009年9月5日土曜日
偶然を待つということ
私は20-30代の頃、河合隼雄先生の著作を読みあさりましたが、最近再読した本の中の一節も、非常に印象深かったので、ここでもご紹介します。村上春樹氏との対談の中の一節です。
合理性の安易な肯定も否定もしないところに、河合先生の融通無碍さと深さを感じるように思います。
河合: ぼくは何をしているのかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。ぼくは治そうなんかせずに、ただずっと偶然を待っているんです。
村上: でも、偶然を待つというのはつらいですよね。
河合: そりゃつらいですよ。なんにもしないんだから。待っていて、うまいこと偶然が起こったら、そのときにはやっぱりパッパッとがんばらなくてはいけないんですけどもね。
『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』新潮文庫 148ページ
合理性の安易な肯定も否定もしないところに、河合先生の融通無碍さと深さを感じるように思います。
小倉慶郎『大学入試東大英語長文が5分で読めるようになる―英語通訳トレーニングシステム・3ステップ方式』語学春秋社
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「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
***広報***
ある敬愛する英語教師は、自ら英語を学び続ける中で、「そうか、基本的な知識とモチベーションがあり、正しい訓練方法さえ知っていれば英語は学べる。英語教師という存在はそれほどに必要ない」と思ったという
そうしてその先生は、自らの授業も、基本的な知識をわかりやすく学ばせて、モチベーションを高め、適切な訓練方法と訓練機会、そしてその成果を試す機会を提供するように変えていったように私は理解している。
それでは基本的な知識とモチベーションはさておくとして、正しい訓練方法とは何か。
通訳・翻訳業を経て現在大阪府立大学で教鞭をとる小倉慶郎先生は、訓練方法を
(1) クイック・レスポンス
(2) シャドーイング
(3) サイト・トランスレーション
だとする。通訳修業の経験に基づく信念である。
(1)は英語を見て日本語訳を言うのではなく、日本語訳を見た(聞いた)瞬間にすばやく英語を口頭再生することである。(2)は周知のとおりで、英語を聞きながらほぼ同時にその英語を口真似することである。(3)は訳読のように「返り読み」をするのではなく、チャンクごとに英語を見て、それをすぐに日本語に翻訳することだ。(2)と(3)を繰り返せば、「直読直解」に至ると小倉先生は言う。また、スピード重視の昨今の大学入試対策にもこの方法は非常に有効だと説く。
以前私が小倉先生の講演会を聞いて、その記事(2004/3/4掲載分をお探しください)を書いたご縁で、私はこの本をいただくことができました。私も外国語習得における身体的訓練の重要性を認識するのに人後には落ちません。ご興味のある方は、ぜひこのCD-ROMで780分のトレーニング用音声が収録されたこの本を手にとって下さい。
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追記 (2009/09/07)
上記の訓練法について数名の英語教師と意見交換をしました。
私なりにまとめてみると、次のことが言えます。
■上記訓練方法は、以下のような「基本」ができていないと無駄になる怖れがある。
(1) チャンク(英語の区切り)の中が構造的に意味理解できる
(2) 複数のチャンクの構造的意味理解を、さらに文単位で統合して理解できる
(3) 初見の英文を自力でチャンキングすること(チャンクに分けること)ができる
(1)と(2)は、日本語力、あるいは日本語・英語以前の「言語力」の領域と言えるかもしれませんが、確かにこういったレベルでつまずいている学習者は多いです。中学校の先生では(1)を教えるのに苦労されている方も多いでしょうし、高校の先生では(2)の学習者の力不足に驚く方も多いでしょう。このあたりは日本語の読書をきちんとさせることの方が近道であるような気がするのですが、これには確たる証拠があるわけではありません。
(3)も上記の訓練の落とし穴です。上記訓練ではチャンク(あるいはスラッシュ)は予め与えられているからです。チャンク(スラッシュ)なしに、いかに読めるようにするかというのが英語教師の課題であることは言うまでもありません。ただ、ひょっとしたら上記訓練を重ねることで、勘のいい学習者ならチャンキングの要領がわかってくるようになるかもしれません。ですが、これに対しても私は証拠をもっていません。
さらに追記しますと、上記訓練では日本語使用があります。新しい高校学習指導要領は、「授業は英語で行なうことを基本とする」とされていますが、このような日本語使用も禁止するのでしょうか。もしそうだとしたら、学習指導要領作成者は、
(a) 上記のような訓練方法と、「英語で基本的に行なう」授業を比較した場合、後者の効果は、前者の効果を否定できるぐらいに優れている(あるいは前者には効果がまったくないか、逆効果しかない)
(b) そのことは、高校英語教育のあらゆるレベルで真である
といったことに関して、確たる証拠を持っている必要があります。(またその際の「効果」とは何かについても、教育の目的論に基づいた吟味が必要でしょう)。
その証拠とは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」で紹介した分類で言えば、レベル5(「有識者」の推奨、あるいは言語学者や心理学者などの現場に関する知識・経験の乏しい「専門家」の推奨)ではとてもたりません。学習指導要領は、しばしば「法的拘束力」をもつとも喧伝されますが、もしそうならそれはきちんとしたエビデンスに基づいている必要があります。
私の考えは、英語教育実践の多様性と複合性からして、均一なエビデンス(エビデンスレベルで1aまたは2a)は得難いと思っています。したがって、少なくとも方法論に関する限り、学習指導要領にせよ何にせよ、機械的で無批判的な強制力は持たせるべきではないと考えます。
まあ、そういった強制力を意味しないことは「基本とする」という表現で担保されているというのが指導要領作成者の言い分でしょうが、民主党政権が登場することとなった現在、学習指導要領をはじめとした教育行政のあり方も根本的に考え直す必要があるでしょう。
主観的な能力論
甲野善紀先生は、身体運動の精妙さを解明する探求者である。彼の周りには多くの人間が引きつけられるがその中にはロボット工学者もいる。
ロボット工学者はロボット製作の実際的困難から、人間の身体運動がいかに精妙で複雑なものかを思い知らされる。そして人間の身体知を少しでもロボットに移植しようとする。
「しかし」、と甲野善紀氏は問いかける。
「人間のように動くロボットを作り上げたとして、私たちはそのロボットが自分の代わりに、例えば皿洗い―精妙で複雑な運動―をすることを傍観することで幸せになるのか」。
ある意味、SF的な、そして根源的な問いである。
「それよりも、自分の身体が、その精妙で複雑な動きをなしえていることを実感することの方が幸せではないのか」。
***
能力というのは、近代社会では「客観的」に考えられるべきものとされている。
他人との相対的評価にせよ、達成事項による絶対的評価にせよ、各人の能力は、「客観的」なものさしのの中に当てはめられ、各人ははじめて自分の能力の意義あるいは価値を知ることとなる。
しかしもちろん能力を「主観的」あるいは「主体的」に考えることは可能である。
他ならぬ自分が何かをできるということ。
その実感(あるいはクオリア)。
原理上、他人には覚知されず、客観的な枠組みにものらないとされるその主観的な感覚。
これこそが能力の本質と考えることは可能である。
そうして認識論を変えると、私たちの考えも変わる。
客観的能力論から考えれば、弱者の能力など憐れむべきものである。
障碍者、幼児、老人の能力など、正規分布の左端にまとめられるべき一種の外れ値である。
だが主観的能力論を採択してみよう。
いや、私が障碍者、幼児、老人だと仮定してみる。
私が何かできるということ。
自力だけにせよ、人の力を借りるにせよ、他ならぬ私が何かできるということ。そして、今現になしていることを実感しているということ。
私個人からすれば、この実感以上にリアリティのある基準はないようにも思える。
客観的能力論では、左端の外れ値だとしても、私の生命・人生にはこれ以上の実感はない。
学校教育が社会的選抜という機能を有していることは周知の通りである。
この全廃が考えがたい以上、客観的能力論が根絶してしまうことはないだろう。
だが一方で、会社の面接などでは、「客観的」なペーパー試験の成績がいかに当てにならないかは周知の通りである。多くの会社においてペーパー試験の「客観性」は、面接できる人数にまで人間を絞り込む、便利な目安に過ぎない。
社会で働き生きるために、能力の「客観的」な正確さよりも重要なのは、自らの能力を実感し、その実感に基づき、他人の能力実現を共感的に理解できることではないのか。つまりは自他共に幸福に働き、生きることではないのか。
しかし、教育研究の世界では、評価の「客観性」追求に傾倒している。
この傾倒には疑いが必要ではないのか。
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