2009年9月30日水曜日

シンポジウムで使われる専門用語の整理

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***





10/11のシンポジウムについて、現在、登壇予定者の間でメールを交換して準備をしていますが、その中で、私のテーマ説明の中で使われている関連用語の差異が明確でないのではないかという指摘が出てきました。

ここではそういった混乱を避けるため、私なりの用語の使い分けを説明し、用語の整理をします。 主な観点は次の3つです。


(1) "Narrative"関連の用語 の使い分けについて (ナラティブ / 語り / 語り合い / 言説 / 発言)

(2) "Power" 関連の用語の使い分けについて (パワー/ 力 / 権力)

(3) 「語りのパワー」、「語りの権力」という言葉の違和感について


これらの用語は明らかに関連していながら、それぞれ英語 (カタカナ語)、和語、漢語であり、各々がもつ意味・陰影に違いが生じてきます。その違いの受け取り方が、各人で異なると、シンポジウムでのコミュニケーションにも支障が出てくるのではないかというのが、ご指摘下さった方の懸念です。


総論的に答えますならば、私の用語使用法は、現代日本語の一般的用法に倣い、英語 (カタカナ語)、和語、漢語に、それぞれ次のような役割を持たせています。


英語 (カタカナ語) : 英語の概念をできるだけ忠実に表現しようとして、日本語の中でもわざと英語スペリング、あるいはその代用としてカタカナ表記を使う。

和語 : 日本語話者の生活実感にできるだけ近いニュアンスをもたせるために使用する。上の英語 (カタカナ語) や下の漢語だけの文章では、どうしても「しっくりとくる」表現、あるいは「腑に落ちる」表現がしにくいので、和語を使う。

漢語 : 西洋・東洋を問わず、海外から入ってきた学術的あるいは抽象的概念を表現するために用いる。英語 (カタカナ語)で通さないのは、少しでも日本語的な表現で学術的概念を表したいから。和語にしてしまわないのは、敢えて和語的な生活実感から離れた漢語を使うことによって、その概念が、未だ和語的な文化にしみわたっていない違和感を表現できるから。この違和感の創出により、私(たち)が「消化しよう」とする概念が、まだ「かみ砕かれていない」という状況が示される。この意味で、漢語表現は、英語 (カタカナ語)表現と和語表現の中間にあるといえる。


以上の総論を受けた上で、先にあげた3つの観点について、私の説明と整理を以下に試みます。自分なりに最大限に簡明に説明するつもりですが、説明は理論的になりますことを予めお断りしておきます。

もし理論的な話題に興味がないのでしたら、どうぞ下は読まないで下さい。シンポジウムでもこのような理論的な話は極力避けます。このような理論がわかっていないとシンポジウムが楽しめないようなことにはしませんから、どうぞご安心して当日はご参加下さい。下記は、シンポジウムの舞台裏、あるいは舞台下を支える柱です。当日はそんな裏や下を気にしないで、舞台だけを楽しめるよういします。ですから、以下は、舞台裏や舞台下が気になる方のための記述です。





(1) "Narrative"関連の用語 の使い分けについて (ナラティブ / 語り / 語り合い / 言説 / 発言)


これらの用語は以下のように使い分けられています。


■ナラティブ

・英語の "narrative"の代用表現として用いる。英語表現がもつニュアンスをことさらに強調したい場合は "narrative" とアルファベットで表記するが、そうでない場合はカタカナで表記する。

・そもそも "narrative" という語を導入したい理由は、英語圏での "narrative" 研究の豊穣さを、日本語圏にも導入したいから。英語圏では、人文系、社会系はもとより、医療系といった分野でも "narrative" という用語が重要な意味で使われる。

・私が理解する "narrative" の基本的意味は、「ある人が、ある人(々)に向ける人格的で相互作用的な語り」。

・下位区分するなら、「(1) 語るという出来事 (storytelling) およびその構造や機能と、(2) 語られた内容 (story しばしば「物語」と訳す)」に分けられるが、多くの場合、「ナラティブ」は、これら二つを包含する意味で使われる。

・補注を加えるなら、ナラティブには、「(a) 話し言葉で語られるもの、(b) 話し言葉で語られ、後に書き記されるもの、(c)最初から書かれるもの」がある。ナラティブの典型例は(a)であるが、研究の対象となる場合は、しばしば(b)や(c)が用いられる(なお、「書き記される言葉」は、多くの場合(概念的な)「書き言葉」ではなく、日常の「話し言葉」であることにも注意されたい)。

・したがってナラティブと異なる言語使用は、無人格的あるいは「客観主義」的なものである。文化心理学者のBruner (1986) は、ナラティブの思考法(the narrative mode)と、論理-科学的思考法(the paradigmatic or logico-scientific mode)と、対比的・相補的にとらえたが、私もこの対比にしたがって「ナラティブ」という言葉を用いている。


■語り / 語り合い

・私がナラティブ関連の文章で「語り」という言葉を用いる場合、「ナラティブ」のもつ基本的な意味(人格的で相互作用的な言語使用) を踏まえた上で、私たちの日常生活でしばしば「ナラティブ」は行なわれていることを示すために用いる。

・ 「語り合い」という言葉を使う場合は、特に「語り」の相互作用性を示すため。「語り」は、その性質上、きちんと聞いてくれる相手 (聞き手)を必要とする。「語り」は聞き手の存在により成立するもので、聞き手が変われば、しばしば「語り」 (語るという出来事の構造と機能、および語られる内容(=物語))も変わる。 したがって「語り」の相互作用性は重要であり、時折、その側面を強調するべき場合が生じる。「語り合い」という言葉はそのような場合に使用される。


■言説

・"Discourse"の訳語として用いる。カタカナの「ディスコース」を用いずに、「言説」という用語を用いるのは、フーコー的な含意を込めたいから(もちろんフーコーはフランス語で論考しているが、残念ながら私はフランス語ができないので、英語圏および日本語圏で理解されたフーコー像に基づき考察している)。

・フーコー的な意味での「言説」は、応用言語学的な意味での「ディスコース」や、通常の批判的言説分析 (Critical Discourse Analysis: CDA) の「言説・ディスコース」とは、意味あるいはニュアンスを異にする。 (Pennycook 1994)

・応用言語学での「ディスコース」は、「コミュニケーションで用いられる、一文を超えた言語の意味あるかたまり」を意味する程度である。

・多くの批判的言説分析(CDA)は、「言説」を権力の社会的関係によって決定されたものとしてとらえる。

・フーコー的な「言説」は、言説と権力の関係を強調する点でCDAと同じであるが、その言説と権力の関係を固定的・決定的なものと見ない点でCDAと異なる。

・フーコーは語る「主体」でさえも厳密な自己同一性を貫く個体ではなく、さまざまな社会的関係が交差する「場所」であるという(フーコー 1995)。換言するなら、フーコーは言説と社会的関係の権力の相互作用性・相互変容性を強調し、言説は社会的権力によって一方的に定められてしまうものではないと考えている。

・このフーコー的な言説と権力の相即関係を私は「言説」に込めている。

・フーコー的な意味合いを強調するならば、フランス語のカタカナ表記である「ディスクール」を用いることも考えられるが、「ディスクール」ではあまりにも日本語表現の中で「浮いて」しまうと考え、「言説」を選んだ。

・なお、「言説」と「ナラティブ」との関係を説明するなら、「言説」は包括的な表現であり、「ナラティブ」だけでなく、「論理-科学的思考法」に基づく学術論文、あるいはその他すべての言語使用を含む。したがって「言説」という用語は、言語使用一般が権力と強く関係していることを示したい時に「言語使用」といったことばの代わりに使われる。



■発言
特に理論的な意味を込めずに使っている。



以上の使い分けを踏まえた上で、今回のシンポジウムの趣旨を今一度書いてみますと、

「英語教師をめぐるさまざまな言説は、英語教師にさまざまな影響を与えているが、その主要な言説としては、論理-科学的思考法に基づく(量的エビデンスを主とする)学術論文がある。しかしそのエビデンス主導の学術論文が十分に英語教師の実践を支援しているかには検討の余地がある (柳瀬 2009)。一方、英語教師は一般に学術論文といった言説は不得手だが、語り、語り合う言語使用の文化は豊かにもっている。そういったナラティブがもつ可能性について、今回は検討したい」

となります。




(2) "Power" 関連の用語の使い分けについて (パワー/ 権力 / 力)

これらの用語は以下のような使い分けをしています。


■パワー

・政治学概念の英語の "power" の意味を日本語の中でできるだけ伝えるために用いるカタカナ表現。

・ 政治学的な意味での「パワー」 は、一般的には「他人に対する影響力」であるが、下位区分として、実体的定義と関係論的定義を区別することができる (この区別は、Crossley (2005) の "WHO vs. HOW" のパワー概念区別を翻案したものである。ちなみにその他の概念区別としては、例えば "power-over" (「(他人に何かを)させる力」) 対 "power-to" (「(自分が何かを)する力」)がある (Stanford Encyclopedia of Philosophy, ホロウェイ 2009) )。

・実体的定義での「パワー」は、「パワー」を誰かが所有して、他の人に一方的・強制的に行使するものと考える。この「パワー」はしばしば制度化されており、その制度にある者が「パワー」をもつと考えられる。一方的性格・強制的性格から、この「パワー」は、時折 "force" (「強制力」)あるいは "violence" (「暴力」) に重なる側面をもつ (アレント 1994)。

・関係論的定義での「パワー」は、語られることにより、人々の間に自然発生し、自由な言説空間で語られ続けることで循環し、強まる影響力を意味する。アレントやフーコーが強調した「パワー」観はこの関係論的定義であるといえる。アレントは、「パワー」が、ある特定の個人の「内」ではなく、語り合う人々の「間」で生じることを強調し、この「パワー」が民主的制度をつくりあげる根源だとした。フーコーは先に述べたようにこの「パワー」と言説の循環性を強調した。

・今回のシンポジウムでは関係論的な定義で「パワー」という用語を使いたい。


■権力

・政治学概念の「パワー」の翻訳語。したがって実体的定義でも関係論的定義でも使われうる。

・実体的定義での「権力」は、日本語としても熟していると思われる。「政治家よりも権力をもっているのは官僚だ」、「財界の権力から教育界は自由でない」、「警察権力こそが国家の基盤だ」などといった例文での「権力」ということばの使用には違和感はないであろう。

・関係論的定義での「パワー」に「権力」ということばを充てるなら、現状ではしばしば違和感が生じる。後述する「語りの権力」はその好例であろうし、私個人としてもアレントの『人間の条件』で使われている「権力」を、最初は実体的定義でとらえ、アレント的な関係論的定義でとらえることができなかったので、違和感を覚え、"power" の自分なりの翻訳語として「活力」を用いたほどである (柳瀬 2005)。


■力

・上記の関係論的定義での「パワー」の意味を、自然な日本語で表現したいときには「力」という言葉を使う場合がある。


これらの使い分けをもとに、シンポジウムの趣旨を再び表現するなら、

「人々が語り合う時には、そこに力がみなぎることを感じるだろう。その力は社会を変えるパワーとなりうる。人々が自由で民主的に語り合って生じてきた力・パワーこそは、民主主義的な権力の根源である。民主主義的な制度の権力は、この語りの力・パワーに基づいていなければならない。この関係を端的に表現するならば、語り、あるいは語り合いこそに権力がある、となる。今回のシンポジウムでは、英語教師の語りがもちうる力・パワー・権力についての検討を行ないたい」

となるだろう。




(3) 「語りのパワー」、「語りの権力」という言葉の違和感について

前節の最後では、「英語教師の語りがもちうる力・パワー・権力」という表現が見られた。 「語りの力」に比べて、「語りのパワー」あるいは「語りの権力」は日本語としては熟していないように思われる。

しかし私は敢えて「語りのパワー」ひいては「語りの権力」という表現を使いたい。それは「語りの力」こそは、関係論的定義でのパワーの正体であり、関係論的定義でのパワーが、実体的定義でのパワーの基礎になければならないという民主主義的な考えを信奉しているからである。

「語りの力」という表現が伝える、自然なニュアンスを、「語りのパワー」という表現が伝える社会・政治的意味に導入し、その「語りのパワー」という社会・政治的意味用法で、「語りの権力」という生硬な翻訳漢語表現を作り出す。その「語りの権力」という表現がもつ違和感で、語りの権力性を自覚的に行使することが、私たちが現実的に目指すべき方向であることを示したいと考えている。

「権」とは堅い表現のように思われるかもしれないが、私たちは「権利」「人権」といった翻訳漢語表現によって、さまざまな社会的関係を作り上げてきた。現在の社会から「権利」や「人権」概念が消滅したら、私たちのあり方は現在とはまったく異なったものになるだろう。民主主義政体において、人々は自らのことを決定してゆく「権」をもつ。その「権」を作り上げる力こそ「権力」である。そして語りこそは「権力」の根源であることを強調したい。





参考文献


・アレント、ハンナ著、志水速雄 (1994) 『人間の条件』ちくま学芸文庫

・フーコー、ミシェル著、中村雄二郎訳 (1995) 『知の考古学』河出書房新社

・ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 (2009)『権力を取らずに世界を変える』 同時代社

・柳瀬陽介 (2005) 「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」 『中国地区英語教育学会研究紀要』Number 30, pp.167-176

・柳瀬陽介 (2009) 「英語教育支援のためのエビデンスとナラティブ


・Bruner, Jerome (1986). Actual Minds, Possible Worlds. Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press.

・Pennycook, Alastair (1994). Incommensurable Discourses? Applied Linguistics 15(2):115-138. Oxford University Press.

Stanford Encyclopedia of Philosophy








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