2009年9月4日金曜日

コミュニケーションに関する断片的思考

Narrative Based Medicineにおいて、ナラティブの形でのコミュニケーションこそが治療の過程であり治療そのものであるのはなぜか。


コミュニケーションとは世界のあり方に関する調停なのか。


コミュニケーションとは、混乱した世界のあり方について、語り手と聞き手の両者の働きかけによってある程度の秩序を見い出すことなのか。秩序さえなんとか見通せば、その部分部分に不幸や問題が見えるとしても、人間は世界とある程度の知的和解をすることができる。しかもその和解に同志が協力してくれたことに情緒的満足を感じることができる。これこそが治療なのか。


しかし世界のあり方に関するコミュニケーションの調停とは、世界のあり方の一義的で最終的な決定ではないだろう。


コミュニケーションとは控えめに言って、世界の複数性と複合性のある程度の縮減についての合意である。


コミュニケーションは、世界のあり方の複数性を認める。さもなければ、語り手と聞き手のどちらかは勝者に、どちらかは敗者にならなければならない。コミュニケーションとは、世界のあり方についてのある見解を他者に押しつけることではない。コミュニケーションは、世界はそのようにもありうるという世界の複数性の相互承認だ。

そしてそれぞれの世界のありようは、それぞれの複合性によって多様に、しばしば予想を超えて展開する。コミュニケーションはその展開を許すぐらいに開かれていなければならない。さもなければコミュニケーションは新たな世界の始まりとはならない。経験により私たちは、コミュニケーションは、これまでの中間的総括であり、新たな始まりであることを知っている。

コミュニケーションとは世界のあり方に関する、語り手と聞き手の間でのとりあえずの調停であり、そこに世界の複数性と複合性は保たれている。それらは世界のあり方について混乱しないですむぐらいに縮減されているだけだ。



世界のあり方の複数性と複合性を根絶し、差異を拒絶する一つのあり方だけを決定しようとするとき、コミュニケーションの試みはおそらく精神的な暴力となる。




2009/09/05追記

しかしなぜ 'communication'という語には適切な日本語翻訳語が与えられず、「コミュニケーション」というカタカナ語が使われているのか。

「コミュニケーション」は、従来の日本文化での「話し合い」「語り合い」―あるいは「寄合」―などには含まれない内容をもっていることを、日本語話者は秘かに感知しているのか。

そうだとすれば「寄合」などに見られ、コミュニケーションに見られないものとは何か。
―それは沈黙、あるいは異言の抑圧のうちに「合意」を形成することなのか―

あるいは「寄合」に見られず、コミュニケーションに見られるものとは何か。
―それは異言の存在を前提に「合意」を形成することなのか―

日本語文化は「コミュニケーション」というカタカナ語の導入と浸透と共に、見解の複数性との中で共生することを学んでいるのか。それとも古い文化の革袋に新しいカタカナ語のワインを注いでいるだけなのか。


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