2009年9月4日金曜日

当事者が語るということ

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***



「べてるの家」の当事者研究からナラティブについて考えると、当事者が語るということがいかに重要なのかということがよくわかる。

「当事者」とは、べてるの家でいうならば統合失調症に苦しむ人である。従来は、治療と投薬の対象として、専門職(医者)から記述されたばかりの人間である。

もちろん統合失調症に苦しむ人間は、医者にいろいろと訴えはするのだが、それはせいぜい「幻聴」としてだけしか認められず、それをそっくりと減らすために投薬が行なわれる。「幻聴」の内的意味などはしばしばないがしろにされる。当事者は「○○症」という専門職だけが正確に語る特権を持つ用語に入れられるべき患者、あるいは症例とされる

べてるの家では、当事者が自らを語る。例えば、ある当事者は自らの幻聴妄想状態を「ぱぴぷぺぽ状態」などと称する。これはユーモアの導入といったレベルだけにとどめるべき話ではない。アイデンティティ、存在の問題であると私は考える。

ジョン・オースティン(John Austin)の古典的な言語哲学によれば―私は彼のHow to Do Things with Words(邦訳『言語と行為』)を約15年前に読んだきり再読する機会を逸している―、彼以前の言語哲学は、もっぱら言語表現を"constative"(事実確認的)なものとしてとらえてきた。例えば、「私は教師です」というのは、事実を確認的に記述しているだけとなる。

だが彼は言語表現には"performative"(行為遂行的)な側面があることを主張した。ある言語表現を使うということは、その言語表現が示す事態を宣言し、創り出そうとすることでもあるということだ。「私は教師です」という発話にせよ、もしそれが理不尽な生徒の選別に抗議したいという状況で発せられたのだとしたら<私はそのような選別には荷担しない>という宣言であり、そのような事態を自ら創り出すという行為となる。言語使用には事実確認的な側面と行為遂行的な側面があるが、両者はしばしば結びついていると考えるべきであろう。

ここで当事者の語りについて考えてみる。「当事者」とは、べてるの家の例が典型的に示すように、しばしば社会的なpower(「権力」という訳語をあてることにしておく)を十分に持ち得ていない者である。精神科医と統合失調症患者という関係で言えば、両者の間で会話があったとしても、結局患者が何であるかを記述・宣言できるのは医者であるとされる。患者の語りはせいぜい医者が参考にするものに過ぎない。患者とされる当事者は、自らのことばの事実確認的なpowerと行為遂行的なpowerを奪われる(注1)。

「当事者」を「弱者」としてとらえるならば、弱者が自らのことばのpowerを奪われていることも、当事者がことばのpowerを奪われていることにつながる。さまざまな社会的な関係でpowerを失った者は、しばしば自らの状態、自らが誰であるかを表現することさえ抑圧されてしまう。

凡庸な例だが、抑圧的な親と、抑圧された子の間の会話を想像してみよう。


親: いったいどうしたの!? 最近、何もしようとしないじゃない。一体何が不満なの!
子: ・・・
親: 黙っていないで、何か言いなさい!
子: ・・・ 何でもない・・・大丈夫・・・
親: 受験生なんだからもっとしっかりしなきゃダメでしょ。
子: ・・・


ここで子どもは、自らの状態を「何でもない。大丈夫」としか発言できないように追い込まれている。自らのアイデンティティも「受験生」としてしか認められないように抑圧されている。その他のことばで自らを表現しようとすれば、親にさまざまな方法で、そういった表現を撤回するように抑圧されてきたのだろう。(注2) ―この会話のベタベタなことばづかいは、読者の皆さんをしらけさせたかもしれないが、上のような会話は十分に想像可能であろう。

ここで弱者・当事者は、自らが自らのことばをつかって自らの存在を記述し、かつ同時に宣言することを禁じられている。彼/彼女は、物理的に世界に存在している。だが彼/彼女は、自らの認識を通じて世界を捉え、その世界の中に存在することを拒まれている。

彼/彼女には自らの人生・世界への所属感がないかもしれない。自らの人生・世界の所有感もないかもしれない。所属感も所有感もないままに物理的に存在するだけの彼/彼女は、自らの身体にリアリティを感じられないかもしれない。あるいは彼/彼女の身体は、そういった抑圧に非言語的に抗議すべく、さまざまな「病状」を示すかもしれない。

当事者が―当事者を「弱い」としか捉えないステレオタイプから自由になるため、今後「弱者」ということばは使わない―語るということは、当事者が、自分なりの世界、そして自分なりの自分を構築するということだ。そしてその構築は、当事者自身が選んだことばで記述=宣言されることによってなされる。

いや、ここで私たちは聞き手の役割を見失ってしまってはいけない。当事者が自らをことばで記述=宣言するということは、聞き手にもその記述=宣言した構築を認めてもらうよう働きかけるということだ。当事者なりの世界と自分のありようが、少なくとも可能なあり方の一つであることを聞き手に認めさせることだ。

しかし当事者がしばしば社会的に追い込まれた立場にあることは上述した通りである。かくして当事者は、自らの記述=宣言を聞き手に認めさせるという試みに自信が持てず、語ることをあきらめる。あるいは権力者が認める通俗的なことばしか語らないことを学ぶ。そうして当事者は自らのことばのpowerを失う。自分なりの人生・世界への所属感も所有感もなく、その事態を変革するpowerさえも失われた当事者は、自分の人生と世界をどのように感じるのだろうか。


当事者が語ることを積極的に推進する当事者研究あるいはナラティブ研究というのは、当事者のアイデンティティ、存在、powerという点からも重視されるべきではないだろうか。「研究は誰のために行なわれるのか?」という研究倫理の問いを、私たちはより深いレベルで考えるべきであろう。


(注1)
Austinはforceということばを用いるが、ここでは同義語としてpowerを用いる。

(注2)
あるいは子どもは、従来の親子関係を打ち崩すことばをまだ学んでいないのかもしれない。それならば、子どもは、「今ここ」を離れて、ことばのしなやかで強い力を学べる文学を読む必要があるだろう。




関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)

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