2009年9月8日火曜日

信田さよ子『依存症』文春新書

現代の人間は、実にさまざまなものに依存しているように思える。

古典的にはアルコール、タバコ、ギャンブル、性行動。最近ならショッピングやダイエット(と結びついた摂食障害)、各種の反復行動。自傷、ひきこもり。あるいは盗癖や暴力、そして薬物。そこまで反社会的にならずとも、恋愛や支配的人間関係、などなど。

共通しているのは、それらへの依存が悪いことであるということを本人も周りの人間もわかっているということだ。しかし本人は止められない。周りの人間も止めさせられない。

カウンセラーとして依存症の人たちに打ちのめされながらも、依存症という現象に不思議な魅力を感じ続けている著者が記したこの新書は、共感的理解と理論的洞察に満ちている。人間理解のための本として一気に面白く読めた。

システム論の導入(100ページ)や、自分を肯定できるストーリーを見いだした時に回復の兆しが見えること(139ページ)も面白いが、私がもっとも魅了されたのは、依存症を近代精神との関係から論じた箇所である。

依存症の人たちは何よりも時代の、資本主義の要請に忠実だった人である。セルフコントロールへの強迫的な忠実さ、向上心、絶え間ない前進・・・昨日より今日、今日より明日という生き方、これは現実の自分を絶えず否定していくことによって初めて可能な生き方である。このように実に不健康な生き方を続けていくためには、セルフコントロールを時間限定つきで解放することが必要になる。それは主客一致、理性の機能の減退によってもたらされる。アルコールによる酔いはまさにセルフコントロール過剰な人にとっては、目的を満たす最適の薬物なのであった。そもそも自分で自分を支配するなどという、不可能に近い課題を誰よりも真面目に遂行しようとする生真面目な人ほど、それからの束の間の解放の快感に誰よりも敏感に反応したのだろう。

摂食障害の人たちに会っているとそれはもっと明確である。自分の食欲を完璧に支配し、体重も支配し尽くしたかのようなあの体型は、セルフコントロールの金字塔だ。繰り返される自己否定の言葉「私ってなんてだめなんでしょう」、その反動として彼女たちに与えられた過食という食欲コントロールの喪失行動は、まるでアルコール依存症の人たちが酒を延々と飲み続ける行動のようだ。

巷で言われるように依存症の人たちは決して意志が弱い人たちなのではなくて、とことんまで意志の力を発揮し自分と戦った人たちなのである。それは繰り返しになるが資本主義社会が我々日本人に要請したことの忠実な実践なのであった。(177-178ページ)。


資本主義社会以外の社会のあり方をほとんど知らない私たちにとって、マルクスの分析でも通過しなければ、上記の資本主義批判はぴんとこないかもしれない(だから私たちはきちんとマルクスを読まなければならない)。だからここでは「資本主義社会」ではなく「過酷な状況」として私なりの言い換えを試みよう。

ある過酷な状況にいる人は、その状況のコントロールを周りから期待されるようにはできない。コントロールを是とする社会の精神に染まった彼/彼女は、状況の打開を、セルフコントロールに求める。自分自身なら完全にコントロールできるはずだと信じる。そして、自分自身をぎりぎりにまで追い込む。だが生身の人間はそんな無理には耐えられない。

やがて彼/彼女は、禁断の快楽にしばし身を委ねる。そうせざるを得ないからだ。身を委ねることへの自責とその快感のギャップに彼/彼女ははまる。同じように、コントロールを是とする近代的思考から解放されていない周りの人間は、そんな彼/彼女は意志が弱いのだと批判する。快楽の手段を彼/彼女から遠ざける。

彼/彼女はますます追い込まれ、快楽を欲する。そして皮肉なことに、周囲の人間によって否定され遠ざけられた快楽の手段を手にすることは、周りの人間への復讐的含意ももち、彼/彼女の有能感―ある意味のセルフコントロールの感覚―を高める。さらにそうして手に入れた快楽の手段を、自分が羽目をはずさずに楽しめればよりいっそう自分のセルフコントロール感は高まるはずと考える・・・だがなかなかそうはいかず、悪い循環は強化される。

だから回復の手段の一つはセルフコントロールの考えを放棄することなのかもしれない。Alcoholics Anonymous (AA)が「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。」ということを第一に宣言するように。


いずれにせよ依存症に対する新たな理解―言ってみるなら物語―を与えてくれる本です。面白かった。


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