2009年9月4日金曜日

「書く」というナラティブ

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***




ある時、ある中学教師の手記―ナラティブ―を読んで驚いたことがある。その手記は、私がかつてある学会の口頭発表で聞いたものと同じであった。だがその手記で中学教師は、学会の口頭発表とは全く別人であり、静かな説得力を私に与えた。

学会発表に慣れない者にとって、学会口頭発表というモードは緊張するものである。衆人環視の中で、残り時間はベルで冷酷に知らされる。学会ではどのくらいの口調やユーモア、あるいは服装が許されるのかもよくわからないうちに、慣れない言葉遣いや服装で、時間内に整然と語ることが要求される。

さらに聞き手は、自らが信頼することができるのかわからない人間ばかりである。聴衆は「厳しい質問」をするのか、それとも共感的に受け入れてくれるのか―ボディランゲージに乏しい日本の聴衆から、そういった情報を発表時にフィードバックとして受けることは難しい。

私が聞いたその中学教師の発表も、口頭発表では正直「たいしたことを言っていないな」というものであった。しかしその中学教師が時間をかけて手記を読むと、私の印象は全く変わってしまった。教師のことばにリアリティが感じられた。


対面で語るというのは、意外に難しい。

だからカウンセラーは聞くための訓練を積む。それでもカウンセラーは時に語りを引き出せない。

特別な訓練も受けず、聞き手の気持ちに寄り添う細やかな感性も持ち合わせていない人間の前で語ることはおそろしく困難だ。聞き手はしばしば語り手を発言で遮る。遮らなくともさまざまな表情や仕草で聞き手をコントロールしたりする。学会のように一定時間のモノローグが保障されている場合でも、慣れない場所・文化という要因が語り手を抑圧する。

語り、ナラティブは、通常、話しことばを第一義に考える。だがその話しことばは、語り手が信頼できる聞き手を得てはじめて発せられることばである。そんな聞き手が不在の場合、あるいは聞き手の聞き手としての力量が不十分な場合、書くことというのは推奨されるべきであろう。

語り手が、一人落ち着いて、誰にも遮られることなく、ゆっくりとことばを紡ぎ出す。選ぶ。組み合わせる。そして書きつけ、読み返し、書き直す。

情報伝達という点からすれば、口頭による伝達の方が、書面による伝達より迅速かもしれない。口頭ならば即興でことばが出され、即座に理解されるからだ。

しかしことばを語るということは、予め確定的に存在する情報をいかに迅速に伝えるかということだけにはとどまらない。情報、というより「ことば」を見つけ出し、それが自分にしっくりくるかを自分で何度か確かめ、そうしてそれを他人にもわかる形で表すということだ。

そのためには、時間のかかる「書く」というモードが必要となることも多々ある。ナラティブ研究を、話しことばだけに限定するのは危険である。と同時に、私たちは、モードの違いがナラティブに与える影響についても自覚的に研究するべきであろう。

コミュニケーションを、モールス信号伝達の枠組みで考えることはもう止めたい。





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