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2018年10月14日日曜日

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して



2018年10月7日(日)に愛知淑徳大学で開催されました第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加しました。ここではその感想を私なりにまとめておきたいと思います。



■ ことばの力

開会式に続く10:20-12:00の登壇発表では、なんと17組の当事者研究の取り組みが報告されました。私は最初「このスケジュールではまともな発表は無理だろう」と思っていましたが、若干時間オーバーした組もあれど、どの発表も6分という枠組みの中で独自の世界を示したのは驚きでした。短い時間の発表でも、安直なまとめやおざなりなことばが出ずに、自らの身体から出てくることばが連続しました。私はいっときも集中を欠くことなく、ずっと聞き続け、時に大笑いしながら、ぐっと胸の奥で発表者の想いをかみしめていました。

それぞれの当事者が抱える問題(=「苦労」)はさまざまでしたが、どの発表からもことばの力を感じました。複数の障害をかかえるある発表者は、達観したというよりは突き抜けたような明るさで自らの苦労を語り続け、聴衆の方が圧倒されていました。この明るさは、彼女が自らを客体化することばを豊かにもっていることから生じているように思えます。アルコール依存症のある当事者は--その方によれば彼はアル中ではない、なぜなら「アル中とは料理酒まで飲んでしまうやつだから」とのこと(苦笑)ーーは、仲間からもらうことばの力によってその方なりのペースでの生き方を獲得しているように思えました。ある性的マイノリティの方も、自分の声を受け止めてくれるたくさんの仲間がいたからこそ、カミングアウトをすることができ、それにより自分の性別認識に関する自分と周りの人のギャップという問題を減らすことができたとおっしゃっていました。

これらのことばの力は、当事者研究のことばの使い方・作法によっても生じているように思えます。下手をしたら愁嘆場の嘆きや屈辱感にまみれた告白になりかねない自らの問題を、当事者研究はあくまでも「研究」として、当事者が、自分を、いや自分の問題を対象化して語ります--抄録集に掲げられた「当事者研究の理念」の最後は「『人』と『こと(問題)』をわける」です--。私の周りにいたある聴衆からは「まるで修士論文の発表みたいだね」という声があがっていましたが、今回の抄録集も「苦労のプロフィール」「研究の動機・目的」「研究の方法」「研究の経過と内容」「考察(わかったことや課題)」「まとめ・感想(研究してよかったこと、苦労したこと、さらによくする点など)」という形式で統一されていました。

ただ、当事者研究の発表は通常の論文発表とはいろいろな点で大きく違います。その一つはユーモアです。「当事者研究の理念」にも「『笑い』の力ーーユーモアの大切さ」が掲げられています。

・当事者研究という場には、不思議と笑いとユーモアが溢れています。
・「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと」と言われるように、ユーモアには、苦しい現実から距離をとり、苦労に打ちひしがれないために人間に供えられた力であり、究極の”生きる勇気”だとも言われています。(抄録集 p. 10)

上の説明の「不思議と」という表現に私は共感します。どの発表者も、笑いをとろうとはしていません。語っているうちに、思わず自分でも笑ってしまうような表現法になり、それにつられて聴衆も、世間の常識・良識からすれば「笑ってはいけない」ところなのについつい笑ってしまっているようです。このユーモアの共有によって、全員が苦労に対するある態度を確立しているようです。考えてみれば、ユーモアを共有する共同体には、どこにも生きる覚悟と品のある知性を感じることができます。この生きる態度が当事者研究の特徴の一つかもしれません。

先程とは別のアルコール依存症の方は、みずからを「くま」と喩え、アルコールを「エサ」と呼び、どのように自分が「サボローくん」に乗っ取られ「冬眠」してしまうかという「苦労」を、それまでの人生で蓄積されてしまっていた「裏切る/裏切られる」という二分法的思考の観点から分析していました。その方の当事者研究を聞いていても、ユーモアに溢れた語り方は、自己分析にとってなにか本質的な役割を果たしているのではないかと思えます。

複数の発表者が自分の苦労について「なにかいいネーミング(病名)があれば教えてください」と聴衆に訴えていましたが、このことから考えても、ユーモアをもって自己分析することは、高度な知性(=対象との距離のとり方と対象の捉え方)を必要とするものだということがわかります。「病名」とは、それがうまく決まれば、研究の焦点がぴたりと定まるようなもの--学術論文の研究課題 (Research Question) に匹敵するようなもの--であることがうかがえます。ユーモアをもって自らを語るという言語使用については今後きちんと考えたいと思いました。

ユーモアの延長上にはあるのでしょうが、それとは少し異なる語り方として「エンターテイメント」としての語りがあるかと思います。ある発表者(ケアする立場の方)は、自分の苦労を正面から語れずに、どうしても「エーカッコシー」 --A(C) --になってしまうことが自分の問題だと語っていました(笑)。別の方は「本当に伝えたい素直でかっこ悪いことば」が語れず「ホップ・ステップ・スリップ」して、当事者研究ではしばしば「爆発」と称される問題行動しまうと語っていました。この方の「爆発」を「エンターテイメント」と呼ぶのは適切ではないかもしれませんが、お二人を見ていると、いわゆる「エンターテイメント」的な表現というものも、「自分に直面することができない自分」を守りながら表現する、ある意味で正直な表現方法ではないかとも思えてきました。

ここにあげたのは、私ができたメモを基に再構成できたエピソードだけですが、当事者研究の語り方、コミュニケーションのあり方については、まがりなりにも言語教育に携わっている私としてはきちんと考察しなければと思わされるものでした。



■ 自律性

登壇発表を見ていてもう一つ強く感じたのは、「自律性」  (autonomy) についてです。弱い立場におかれ社会的烙印を押されていた多くの従来の当事者は、医者などの専門家から病名を宣告されそれを自らのアイデンティティとして生きざるをえないような立場に追い込まれていました。しかし当事者研究は、その病名宣告という言語行為を簒奪というか奪い取り (appropriate) 、自分が自分の「病名」というアイデンティティを自分で決定するという言語行為を作り出しました。かつてJames Brownは  "I'm black and I'm proud" と歌いましたが、当事者研究はそのようにことばの意味の反転をするだけでなく、新たな病名ということばを創造することすらやっています。奪われかけたことばの力を奪い返すだけでなく、それに新しい力を加えています。

さらに、当事者研究は、当事者の生き方を専門家からの「処方」に委ねてそれに従うだけ(従わなければ叱責される)という生き方を、当事者が自らの意志で自分の問題に対して向かい合い、周りからの支援を得ながら自分の助け方を自分で決めるという生き方に転換させているように思えます。だからといって当事者研究は医者などの専門家の働きを否定しているわけではありません。そうではなく、自分が抱える問題をあくまでも自分の問題として、自分が主体的に対応することを選び、専門家も含めた周りの人々の知恵を借りながら、「自分の苦労を自分の苦労として味わう」のが当事者研究だと私は理解しました。

「当事者」をどう英訳するかについては、私はずっと考え続けていることですが、この観点からすると「当事者」は "owners of problems" とも訳せるのではとも考え始めました。「苦労」を自らの苦労として引き受けて、それと共に生きる術を自ら、周りと共に探究していくのが当事者研究と言えるかと思います--当事者研究の理念の一つは「自分自身で、ともに」です--。

「これが自律性でなかったら、何が自律性なのだろう」というのが当事者研究についての私の思いです。



■ 当事者研究の源流

登壇発表の後には、向谷地生良先生と熊谷晋一郎先生の話がありました。


向谷地先生は、約40年前の浦河赤十字病院精神科病棟の写真をスクリーンに示しながらお話を始めましたが、そこには「精神科への入通院の経験を生き抜いた若者の生きようとする知恵の集積が当事者研究の源流です」と書かれていました。向谷地先生は次に昔の集合写真を見せながら、静かで落ち着いた語り口で「この人は・・・、この人は・・・」とご自身が関わった方々(すでに物故)の思い出も語りました。その方々は「人の苦悩が最大化した状態」としての精神疾患を生き抜いた方々です。「単純な『いい/悪い』を超えた意味の世界を見つけたい」、「『和解』が当事者研究が目指すものだ」とも向谷地先生は語っておられました。

このお話は、「英語教師の当事者研究」といった形で当事者研究を見よう見まねでやっているような私にとって、非常に重いものでした。

関連記事
樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html
英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/09/blog-post_8.html

しばしば「当事者研究には決まった方法はない」とも言われます。今回の大会でも「当事者研究には正しいメソッドはないのだから、感じるままにやることが大切」といった発言もありました。しかし、たとえ形は融通無碍・変幻自在に行うとしても、その精神(魂)だけは受け継がねばならないのではないかと私は自戒しました。私はこれからも当事者研究に学び続けてゆこうと思っていますが、当事者研究の源流だけは肝に銘じておかねばと思っています。



■ 「語りを公開する」という革命

続く熊谷先生は、向谷地先生のお話を「過去を振り返ることで未来を切り開くもの」として受け止めたと述べた上で、「当事者」と共通点の多い身体障害者のことについて語りました。自ら身体障害者である熊谷先生は、「障害は私たちの身体の内にではなく、外にある」として社会の変革を志向した障害者運動を高く評価しつつも、それが障害者の自立-- "independence" と私は翻訳しました--を目指すあまりに、障害者の孤立を招いたのではないかという問題提起をされました。

その点、当事者研究は、仲間を必要としている依存症の自助グループなどを参考にしたこともあり、当事者が孤立してしまうことが構造的に防がれていると熊谷先生はおっしゃいました。(英語で言うなら、当事者研究などの自助グループが目指しているのは "interdependence" と言えるかもしれません)。

ウィキペディア:アルコホーリクス・アノニマス


近年、日本でも注目されているオープン・ダイアローグも、問題を抱える者が孤立しないチーム体制を組んでいます。しかし、そこで語られる内容は、原則として非公開です。ですが、当事者研究はその語りを公開するという途を選んでいます。これは革命的なことではないかと熊谷先生はコメントされていました。

ウィキペディア:オープン・ダイアローグ


もちろん語りを公開しない方がよい場合もあるでしょう。ですから「当事者研究の方がオープン・ダイアローグよりもすごいのだ!」などという幼稚なことをここで言っているわけではありません(笑)。ただ、当事者の語りを公共空間にもたらすという言語行為が拓く世界の可能性については、しっかりと考えてゆくべきでしょう。

「当事者研究では情けなさや弱さがキラキラしている」とも熊谷先生はおっしゃっていました。熊谷先生といった方が当事者研究を研究しているということは本当に大きなことかと思います。

東京大学先端科学技術研究センター 当事者研究Lab
http://touken.org/



■ 一人称的あるいは二人称的な当事者経験

当事者研究発表会は、通常の学会のようでいて通常の学会とは明らかに異なる会でしたが、相違点の一つは(当たり前のことではありますが)、当事者研究では当事者の苦労から切り離された第三者的な語り方が決してされないということです。これは発表者の発言からだけでなく、質疑応答や発表の間の雑談でも感じられたことでした。当事者研究発表会で語る人々は、発表者ならもちろん第一人称的に当事者経験をしている者として、質問をする人なら「同じでもなく違うでもなく」その当事者と正面から向き合う第二人称的な当事者経験をしている者としてことばを発しているように思えました。もし当事者研究の場に、活字から知っただけのような専門用語を振り回す人がいたとしたら、その人のことばはどこか場から浮いてしまって、そのことばは力を得ないのではないかと想像します。これが通常の学会と異なることの一つでしょう。

当事者研究とは、それが発表者であれ聴衆であれ、まずは自らの身で感じることが必要であるように思えます。当事者研究の理念の一つである「研究は頭でしない、身体でする」というのは、実際の行動の変容、そしてそれに伴う認識の変容を大切にしようという意味だと私は理解していますが、これを私なりに大幅に言い換えるなら、「当事者研究を活字に閉じ込めてはいけない。当事者研究は自分で生きるもの」となるかもしれません。



■ 感性と理性、あるいは身体のメッセージと歴史の知恵を大切にしよう

ここから学校教育という、元々の当事者研究とは異なる文脈で当事者研究を行う私の関心に引き寄せた考えを書きます。

学校教育に関する私の懸念の一つは、学校で使われることばが、知性先行のものばかりになっており、感性と理性から乖離しつつあるのではないかということです。ここでの感性・知性・理性の三分法はカント以来の常識的なものですが、それなりの定義は以下のとおりです。

感性 (Sinnlichkeit, sensibility):何かの対象に接した際に、そこから前-分析的な直感(=意味の端緒)を得る働き。
知性 (Verstand, understanding):感性からの直感を思考により概念(=具体的で分析的な意味)を得る働き。
理性 (Vernunft, reason):知性のさまざまな概念をまとめて理念(=抽象的で包括的な意味)を得る働き。

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html


ことばという概念に基づく表現は、本来、うまくまとまらないままに身体で感じられる直感に基づくものですが、近代教育では学習内容が膨大になり記号化されて教えられるため、ことばが自らの身体感覚に基づかないまま、操作されるべき記号として扱われてしまうことはデューイが100年前から指摘していることでもあります。

Education as a Necessity of Life (Chapter 1 of Democracy and Education)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/education-as-necessity-of-life-chapter.html

このような問題意識から、私は学校で使われることばを、できるだけ自らの身体で感じることができるものにしなければならないと考えています。その意味で私は英語教育は小学校「から」変えなくてはならないと論じました。




とはいえ、知性の操作だけで語られるようなことばが横行してしまっている学校現場では、下手をすれば教師も学習者も、うわべの話はしても本質的な話は決してしないことになりかねません。教師は、職員室でプロ野球やカフェの話はしても授業の苦しみを語らない(語れない)ようであったり、学習者はSNSではつながっても自分の正直な気持ちは語らない(語れない)ようであったりすることは珍しくないと思います。

そんな中で学校教育現場に、下手に当事者研究をもちこんでも、それは上滑りのまがい物になったり、せいぜい言って上述のような悩みのエンターテイメント化になるだけなのかもしれません。これまで私と共同研究者は卒業直前の教師志望学生に当事者研究を導入し、今の所、それなりの手応えを感じていますが、ひょっとしたらそれは、彼ら・彼女らが本来もつことばの力を十分に活かせていない実践なのかもしれません。

今年の私たちなりの当事者研究の試みは12月から始まりますが、今の所私が考えているのは、以下の原則を導入することです。


(1) 身体のメッセージをもっと大切にしよう

語る人の表情や姿勢、聞く自分の身体の情動の様子をもっと観察しよう。それらが表現しようとしていることばにならない想いを大切にしよう。

(2) おざなりなことばを控えよう

沈黙を埋めるためにおざなりのことばを安直に発することなく、ことばが身体から湧き上がってくるのを待とう。頭の中だけで考えたような薄っぺらなことばで自分たちの真実をごまかさないようにしよう。

(3) 自らの表現を当事者研究の原則に照らし合わせよう

身体で表現してしまった自分の情動も、ついつい発してしまった自分のことばも、それが互いの可能性を豊かにするためになっているかどうかを、当事者研究の原則に照らし合わせてみよう。


(1) ~ (3) はそれぞれ、感性、知性、理性に対応させているつもりです。基本的な考えは、感性の蠢きを大切にし、感性と切り離された知性の濫用を止め、理性で感性と知性の動きを反省しようということです。具体的には、沈黙の間に流れる気持ちを大切にし、それに薄っぺらのことばではない確かなことばを与え、互いの弱さについてユーモアをもって探究しよう、より安心できる生き方を探そう、ということになりますでしょうか。

もちろん、これらの原則を強調することにより、参加者の発言が抑制的になりすぎて、重苦しい雰囲気になってしまうかもしれません。その重苦しい空気の中で発せられることばこそが貴重なものだとしても、お手軽なことばだけを使い続けてきたような学生さんにとっては、このような場は苦しいものになってしまうかもしれません。

今年度の私たちの当事者研究実践にはまだ時間がありますから、これらの点については共同研究者とよく考えてゆきたいと思います。


と、最後は自分たちの研究の話になってしまいましたが、非常に実りの多い当事者研究の大会でした。上のまとめでその会で学んだことをすべて表現したとはとても思えません。今後共、当事者研究の営みから学び、言語教育研究者のはしくれとしてことばとコミュニケーションについて考え続けたいと思います。




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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html






2013年4月3日水曜日

石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院



「当事者研究」というのを、私はべてるの家の実践や綾屋紗月さんなどから学びましたが、この研究方法は教育研究にとって大きなインパクトをもつと感じてきました。この本は、哲学を専攻する複数の研究者が、当事者研究の意味合いについて論考し、また当事者研究をこれまでやってきた方々も改めて当事者研究とは何なのかを振り返り、またそれらの哲学者と当事者が話し合った本です。以下、敬称はすべて「さん」で統一して、この本を私なりにまとめてみます。



■当事者研究とは何か

当事者研究が何であるのかについては、べてるの家や綾屋紗月さんあるいは熊谷晋一郎さんの本でも語られていますが、この本でも改めて当事者研究について論じられています。

石原孝二さんは、当事者研究を「苦悩を抱える当事者が、苦悩や問題に対して『研究』という態度において向き合うことを意味」し、これまでの「専門知の成果を一応は受け入れながらも、その意味を当事者の視点から捉え直していく」研究であり、「専門知と対立するのではなく、しかし、その意味をずらしていく」もの(石原 2013a, p.5)であると規定しています。さら、当事者が「自らの問題に向き合い、仲間と共に、『研究』」し、「当事者が語りを取り戻すことによって、自己を再定義し、人とのつながりを回復することを促すという機能をもつ」(石原 2013b, p.12)としています。

ここで注意を払っておきたいことばの一つが「研究」で、石原さんは浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)を引用しつつ、「自分を見つめるとか、反省する」といった当事者が自分を追い込んでしまうようなことばではなく、まさに「研究」するということばを使うことに、当事者の「冒険心をくすぐる」何かがある、という点に注意を喚起しています(石原 2013b, p.16)。(「研究」についてはさらに後述)。

また当事者研究が「仲間と共に」行うものであることにも注意が必要です。当事者研究は、当事者が自分の問題に向き合うものでありながら、(決して冷徹な第三者ではない)「仲間」を必要としていることは、「自分自身で、共に」というべてるの家の当事者研究のキャッチフレーズでも表現されています(石原 2013b, p.22)。

熊谷晋一郎さんは、この「自分自身で、共に」という理念を次のように短く表現しています。


私は、私のことをよく知らない。

私が何者であるか、私が何を行うかを、仲間と共に探る。 (熊谷 2013a, p.219)



脳性まひの当事者である熊谷さん(東京都人権啓発センターによるインタビューはこちら、読売新聞によるインタビューはこちら)は、さらに、ことばを仲間(=無関心な第三者ではないが、だからといって当事者の特異性をよく理解できるわけではない、しかし関心はもってくれている他者)に向けて、自分の経験を語ることについて分析します。ことばは自分自身から出てきただけではまだ十全な力はもたず、目の前の他者に受け入れられたときにはじめて自己理解が明瞭になると語っています(ここを熊谷さんは「輪郭が与えられる」、「表現を与えられた」と受動態で表現していることにも注目したいと思います)。


他者に向けて、これまで一度も表現してこなかった自分自身の経験を語り始める。上げるでもなく、下げるでもなく、ただ、知りたいという関心を寄せ続けてくれる他者のたたずまいに促されるようにして、私は、言葉を探る。

否定されれば痛い。共感されれば嘘くさい。

どうせ私のことなんか誰もわかってくれない、というおびえの中で、恐る恐る不定形だった経験に形を当てはめてみる。ある表現は、他者に受け止められず素通りする。言いよどみながらも、いろいろな言葉や動きを試してみるうちに、その表現のいくつかが目の前の他者に、はっきりと、強く受け止められる。その瞬間、あるのかどうかもはっきりしなかった体験に、輪郭が与えられる。そして、表現を与えられたことによって、私は、私の体験が何であったのか、ひいては私が何だったのかを、以前よりもいっそう明確に知ることになる。 (熊谷 2013b, p.302)


こうなりますと、当事者研究の重要な特徴としては、(1)当事者自身が、(2)仲間の力を借りながら、(3)自分自身の問題を対象にして、(4)「研究」してゆくものともまとめられそうです。しかし「研究」ということばに違和感を覚える方も多いかもしれません。ここでいう「研究」は、自然科学研究とは異なるように思えるからです。この問題を次節でまとめます。



■当事者研究と科学

石原さんは哲学者として、「科学」は「研究」の下位概念であり、「科学」は「研究」の一種に過ぎないことを指摘します。


「研究」とは事象や実践に対して、そこに没入することなく、観察的・認識的な態度をとることである。この態度には、事象に対して能動的に働きかけ(実験を行い)、その結果を観察することによって認識を得るということも含まれる。

他方、「科学」は「研究」のそうした側面も共有しながらも、そのプロセスと結果に普遍性と再現性が求められるという点や、定量的な評価を行うことに特徴がある(そのため、個別的なものに関しては、「研究」の対象とはなり得ても、科学的探究の対象となることは難しい。なお当事者研究と個別性の関係については、第2章を参照されたい)。その意味では「科学的研究」としての「科学」は、「研究」の下位概念であるといえる。(石原 2013b, p.59)


つまり、自然科学といった「科学」とは、(1)普遍性、(2)再現性、(3)定量性(数値化)を要求するいわば特殊な研究だというわけです。

ギブソンについての著作も多々ある哲学者の河野哲也さんは、上にも言及された第2章で、当事者研究(そして後に述べるように教育研究なども含めた人間研究)に普遍性や再現性を求めることがそもそもおかしいのではないかと論じます。

人間を扱う科学は、普遍的であることを目指す必要は特にない。

発達する歴史的過程を持つ存在は、反復しないユニークな存在である。生命現象のような成長・発展するシステムにおいては、反復する現象は全体の文脈から人工的に切り離された部分的過程においてしか見出されない。たとえば、生命全体の反応としての病理は、厳密には一回的である。それゆえに、同じ薬剤や治療法が、患者により、患者の状態により、病の進行の度合いにより、有効であったりなかったりする。(河野 2013, p.101)


もちろんたとえば治験のように、ある医薬品の効果を見るために大量の患者を対象にして、その結果を統計的に分析する方法もあります(ちなみに、英語教育研究で「科学的」と言われる研究のほとんどは、治験レベルの厳密な方法論を採択していないものにすぎないことは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」で論じたとおりです)。ですが、治験でわかることはあくまでも「マクロ的に考えればこの医薬品が効果的である確率が高い」ということであり、「この私という医者(あるいは私たちの場合でしたら教師)が、この患者(児童・生徒・学生)にいつ何をどのように行うべきか」ということに具体的には答えてくれません。治験などの研究が示してくれるのは、あくまでも一般的な指針です。

私見ですが、教師の多くはそういった一般的な指針を超えたレベルの、他ならぬ自分という人間がその力量において、目の前のこの学習者という個性に対して、学級・学校や家庭や地域社会といった個性的な状況を背景にして、今、どのように振る舞うべきか、そして自分がどう変化(成長)するべきか、という点で悩んでいるのではないかと思います。もし教育研究がそんな教師を支援することを重要な任務とするのなら、教育研究者は一般的な指針に過ぎない研究結果を鉄則のように実践者に押し付けてはならず、むしろ実践者と共に(そう、まさにこの当事者研究のように)語り合い、考えることではないでしょうか。

しかし英語教育の少なくとも一部の研究者は、文部科学省の教育政策に適った研究結果を、これ幸いとばかりに水戸黄門の印籠のように示し、さまざまな状況で努力している実践者を一元的に管理(というより抑圧)する手助けばかりしているように思えます。私が当事者研究に興味を持ち続けているのも、英語教育界のこういった実践者軽視の傾向に我慢がならないからです。

と、この話題になるとどうしても熱くなり脱線しました。話を元に戻しましょう。

人間や生命といった複雑な現象において普遍的な知見を求めることは、人間あるいは生命をその文脈から人工的に切り取ってしまうことを招き、そうやって得られた知見を応用しても、皮肉なことにそれが「普遍的」に正しいわけではないというのが上の論点でした。

このことはそのまま、人間に関する研究が再現性を要求することへの疑問につながってきます。現象の再現性は、単純な因果法則(線形的な法則性)によって(のみ)現象が引き起こされることを前提としています。しかし、人間の営みにおいては(少なくとも、私たちが日常的に認識しているような大きなレベルでの営みにおいては)、単純な因果法則(線形的な法則性)が要求する初期条件と周辺条件の厳密な同一性など存在しません。

線形的な法則性が当てはまるためには、初期条件と周辺(境界)条件がすべて同じでなければならない。だが、厳密に同一の条件など実験室の中ですら存在しないし、現実の事例には数えきれないほどの複雑な要因が絡み合っている。複数の法則が絡み合って絡み合って成立している事態には、単純な線形的な因果性は成立しなくなる。(河野 2013, p. 102)


もちろん統計的な知見を求める研究では、厳密に統制できない諸条件を、ランダム要因として処理します。しかしその処理をするためには、サンプリングがきちんとしていなければなりません(一番の理想はもちろんランダムサンプリングです)。しかし少なくとも英語教育研究の「科学的」と言われる実験研究で、きちんとしたサンプリングがなされているものはほとんどありません。ですからそういった研究の結果が示しているのは、例えばある教育方法の有効性の「普遍的」な「再現性」ではなく、その教育方法が特定の対象・時期・環境などにおいて、危険率5%以下で有効であることが示されたという事例研究に過ぎません。

それなのに英語教育の学会誌の匿名査読者の少なからずが、未だに量的研究の体裁をとっていない研究を見れば、ほぼ反射的に「普遍性・一般性がない」と断定し否定的な裁定を下してしまいがちです。このことは、その査読者が実は量的研究についてもよく理解していないことを示しています。こういった査読者の無理解が、「研究は数値化が絶対に必要」という無思考的な態度を蔓延させ、日本の英語教育研究を停滞・堕落させ、それでなくても少なかった実践者からの英語教育研究への信頼をますます小さくしています。

さらに、人間の日常的な営み(端的には歴史)においては、多様な要因が偶発的に絡み合うため、再現性や普遍性が得られないことは、複雑性の研究からも明確に論じられています。欧米の応用言語学界では複雑性もはや常識になっていますが、日本の英語教育界では、不勉強からか意図的な無視からか、複雑性の論考についてはほとんど聞かれません。複雑性に関する理解の欠如が、ますます日本の英語教育研究の頑なさを強めています。

これで英語教育研究界と英語教育実践界とがきれいに断絶してくれていればまだ救われるのですが、フーコーもいうように、近代では「科学的であること」がしばしば権力の源泉として利用されます。かくして、実践に対して十分な理解をしていない英語教育研究界が、時々の権力者の意向にしたがって、実践者を不当に支配することは珍しくありません。これらのことは、数々のすぐれた実践者を知り敬愛している私としてはどうあっても肯定できません。

いけね、また熱くなっちゃった(←またハゲるぞ)。

話は、人間を対象とし、問題状況の中にいる当事者を支援する研究において、普遍性や再現性を要求することは筋違いだということでした。そういった研究において、例えば「3」は(たとえ「2+1」と分解されることがあっても)どこにいっても「3」であり、個性的な質を有しない(あるいはまったく考慮しない)という定量性を厳密に求めることもおかしなことでしょう(例えば、5件法のアンケートの数量化は、自然科学からすれば認められないような杜撰さです。さらに順序尺度に過ぎないその数値を四則計算することも、統計学的には認められない(だが心理学研究などでは慣行として認められている)だけのことに過ぎません)。

こうなると、厳密な意味での科学で要求される、普遍性・再現性・定量性を、当事者研究といった研究に求めることは間違っていると結論せざるをえません。求めることは、研究や科学に対する理解(=科学哲学)を欠いた者が、当事者が研究する権利を社会的に奪うという、正義にもとることです。

石原さんは当事者研究についてこう言いいます。

当事者研究は、病気に関する語り、研究する権利を専門家の手から取り戻そうとするのである。そのような当事者研究に対して、それは科学的研究の作法を踏まえていないからやるべきではないと主張することは、当事者の語りを抑圧し、「研究」する権利を奪うことになる。 (石原 2013b, p.58)


上の引用では「病気に関する語り」とありますが、病気に限らない問題を抱える当事者もいるわけですから、この引用は、実践者が自分が抱える問題に対して、必ずしも専門家に依存しなくても、自ら(仲間と共に)「研究」する権利を、浅薄な科学理解によって奪ってはならない宣言ともいえます。

誤解してほしくないのは、この当事者研究の宣言は、第三者的な自然科学を否定するものではないということです。自然科学的にアプローチすることによってのみ判明する知見もたくさんあります。しかしそれは、「当事者だからこそできる体験理解と言語化があることをいささかも否定するものではない」(池田 2013, p.126)わけです。それにもかかわらず当事者による解明を否定することに、現象学のフッサールやハイデガーが「学問の危機」を感じたわけです。



■当事者研究と教育研究

こうして考えると、教育研究を自然科学に似せようとすること、あるいは教育研究を自然科学の判断基準で裁定してしまうことの間違いが明らかになってきます。

第2章を執筆した哲学者の河野さんは、特別支援教育(特に運動障害や自閉症スペクトラムをもった子どもたちへの支援)に関心をもちかかわってきました。そこで河野さんが学んできたことは、「いわゆる『客観的』な理論知が実践の現場でしばしばいかに無力であるかということ」(河野 2013, p.75)でした。

それらの科学では当事者を、死物と同じような客体として扱い、操作する対象と見なす傾向がある。人間の生活を断片化して、そこに外側から線型的 [ママ] な変化を引き起こそうとする。こうした考え方に欠けているのは、当事者が一人の主体であり、自発的行為者であり、生活をより良いものへと改善するのは彼ら自身をおいて他にないのだという発想である。

本来、教育やリハビリテーションは、自己教育を推進し、自律的な生活を獲得するためにある。したがって、それらにかかわる知は、人間を行為者として捉え、当人の立場から当人の活動を支援するようなものでない限り、最終的に有効なものになりえない。(河野 2013, p. 75)

デューイも背景にしながら、河野さんは、生命の自己規定、さらに意識をもった生命の自覚的自己規定を確認して、医療や教育が当事者に対してできること(逆に言うとそこを踏み越えてはならない範囲)を明確にします。

生命は自ら規範を設定する。さらに、意識を持った生命は自覚的に規範を設定する。意識をもった生命である人間は、目的を自分で設定・再設定することによって発達していくのである。

したがって、医療や教育といった分野は、本人の規範設定、すなわち、当事者による目的設定をないがしろにして行える学問ではありえない。医療や教育は、当事者を成長「させる」ことなどできはしない。当事者が自ら発達する過程を、側面から支援し、促進するものでしかありえない。自律性の要求は、権利や正義のような倫理的レベルでの要請である以前に、意識をもった生命の根源的な欲求である。したがって、医療や教育の本質は、生命の内在する力を引き出し支援するという意味でのファシリテーションであるべきであり、実際、この力に寄り添う以外の介入法はありえないのである。(河野 2013, p.86)


デューイの『民主主義と教育』も生命という観点から論考を始め、今読んでも新鮮な教育哲学(およびコミュニケーション論)を提示しています。私は恥ずかしながらこれまでデューイを本格的に読んだことがなく、最近(レイコフとジョンソンによるたびたびの言及に促されて)ようやく読んだのですが、実に啓発的な論考を展開しています。ちょっと前までの私も含めて多くの人はデューイについて一知半解で「ああ、あれね」と打ち捨ててしまっているのではないでしょうか。幸い"Democracy and Education"は著作権が切れていくらでも引用ができますので、私は今年度後半に修士課程の授業で"Democracy and Education"を用い、その講義ノートはできるだけこのブログに掲載する予定です。

話を教育研究のあり方に戻しますと、もちろん教育や学習を対象とした自然科学はありえますが(例えば神経科学)、だからといって研究教育研究を自然科学研究と同一視することはおかしなことであり、むしろ当事者を支援するという教師の立場からすれば、当事者研究といった研究のあり方の方が適切ではないかということでした。

河野さんは当事者研究には「独自の客観性」があると言います。

ここでの [=当事者研究での] 客観性とは、没価値的な「客観性」ではない。そうではなく、べてるの家で行われているのは、自己客観化・自己対象化である。当事者研究において目指されているのは、一人称的立場を絶対的権威として打ち立て、他者を無用の存在にすることではない。当事者研究における自己学習は、自己対象化の過程にほかならず、自己の状態を知るための適切な基準を設定することである。そのためには、当事者同士で話し合い、互いの問題やそれに関する情報やそれに対する対処法を共有し、比較し合うことが必要とされる。(河野 2013, p.106)


しばしば「客観的」であることは、三人称的立場に徹して、さらにその三人称たる研究者の主観も一切消してしまうことだと信じられていますが、そんなことは無理なことです(どんな研究者も自分の興味・関心そして価値観の枠組みでしか物事を認識していません。たとえそれが無自覚的に継承されたものであるにせよ)。そういった俗信はさらに拡大し、一人称的立場からの発言は「主観的」に過ぎないものであり、すべからく研究のエビデンスとしては認められない、となりがちです。

しかし、当事者研究は、当事者が自分自身の問題を研究するという一人称の立場からの研究でありながら、仲間という二人称の人物を「自己の状態を知るための適切な基準」の一つとして求め、自己対象化という客観化を目指します。日本語ですと「対象」と「客観的」は別のことばに思えますが、英語でしたら"object"と"objective"で同根のことばです。当事者研究は、理念として自己客観化・自己対象化という客観性を有し、方法論としても仲間との語り合いの中で「受け止められる」ことばを探すという方法を有している、「客観的」な「研究」です(私の「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」は、この「語り合い」に関する私なりのまとめです)。

何度も繰り返しますが、この当事者研究の客観性を、自然科学の客観性で判断することは間違いです。カテゴリー錯誤(category mistake)であるとも言えましょう。



書く時間がなかなか見つけられず報告できていませんが、先日のAAAL 2013のInvited Colloquiaの一つBridging the Gap: Cognitive and Social Approaches in Applied Linguistics では、欧米の応用言語学界の言い方にしたがえば"cognitivist"(日本の言い方なら「量的研究者」)の独善性はもはやとうてい認められず、"epistemological diversity"が学会の常識となった感がありました。このことは昨年のAddressing the Multilingual Turn: Implications for SLA, TESOL and Bilingual Educationでも十分に感じられていたことです。David BlockのThe Social Turn in Second Language Acquisitionや、Dwight AtkinsonのAlternative Apporoaches to Second Language Acquisitionなどで示されている研究の多様性は、欧米の応用言語学界では完全に浸透したといえますが、日本の英語教育学界ではほとんど話題にすらなりません(というより「認識論」といったことばを使った途端、「ここは哲学を話す場所ではない!」とプリプリ怒り出す御仁さえいかねません)。

日本の英語教育界が、はやく独善的で浅薄な量的研究至上主義を脱して、教師と学習者の支援という社会的要請に忠実な研究が促進される体制になりますように。

そのためにも、この本(および関連図書)の一読を私としては願う次第です。




















参照文献(すべて本書所収の章)

池田喬 (2013) 研究とは何か、当事者とは誰か pp.113-149.
石原孝二 (2013a) 「はじめに」 pp.3-10.
石原孝二 (2013b) 「当事者研究とは何か その理念と展開」 pp.11-72.
河野哲也 (2013) 当事者研究の優位性  pp.73-112.
熊谷晋一郎 (2013a) 痛みから始める当事者研究  pp.217-291.
熊谷晋一郎 (2013b) エピローグ 当事者研究が語り始める pp.302-307.






関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html


Social Turn in Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/david-block-2003-social-turn-in-second.html

Alternative Apporoaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/search/label/Index












追記

この記事を掲載した直後、ツイッターで以下のような講演会があることを知りました。日本の英語教育学界でも、このように量的研究に偏らずにきちんと研究なさっていらっしゃる方もいらっしゃいます。上で、私が「英語教育の少なくとも一部の研究者」や「匿名査読者の少なからず」と書いて批判したような研究者ばかりが、日本の英語教育学界を構成しているわけではないことを、付け加えておかねばならないと思い、ここに追記します。

やっぱ、熱くなっちゃいけないなぁ。(←もっとハゲるぞ)



「英語教育における質的研究の理論と実践」

講演者 : 高木 亜希子 (青山学院大学 准教授)

日 時 : 2013年4月13日(土) 15:00-16:30

場 所 : 青山学院大学 総研ビル9階第16会議室 
・交通アクセス:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/access/index.html
・キャンパスマップ:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/map/aoyama.html

参加費 : 無料

問合せ先 : JACET関東支部事務局
jacet-kanto-office@cl.aoyama.ac.jp

講演要旨 : 本発表では、英語教育における質的研究の理論と方法について理解を深めることを目的とする。研究を行う際、研究者は、理論的立ち位置を明確にした上で、研究計画を立て、目的に合った研究手法を選択する必要がある。具体的には、3つの理論的枠組みのうち、解釈的 (interpretive)、および批判的 (critical) 視点に立ち、どのように質的研究をデザインするか、(1)研究課題の設定、(2)データ収集の方法、(3)データ分析の方法、(4)研究の評価の観点から論じる。また、量的研究と質的研究の混合研究のあり方や質的研究と実践研究の関係についても言及する。

講演者略歴 : 高木亜希子(青山学院大学准教授) エクセター大学大学院博士課程修了。大阪教育大学准教授等を経て現職。専門は英語教育学。 現在関心のある研究テーマは、教師と学習者の成長。





2018年12月19日水曜日

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省



 英語教師志望者による当事者研究を促進するため、先日私は、ファシリテーターとして当事者研究に参加し、その様子を学生さんに見てもらいました。当事者研究のあり方を具体的に理解してもらうことが目的でした。ですが、自分自身で振り返ってみたり、学生さんからのフィードバックを受けてみたりすると、今回はあるべき当事者研究の姿から少し離れた当事者研究になっていたように思えます。昨年度の私は問題を抱える当事者として当事者研究に参加しましたが、その経験と比較すると、私にとってはファシリテーターである方が、自分の弱みを公開するよりもはるかに難しいことでした。

 以下、このような失敗を繰り返さないために、研究・当事者の主体性・物理的条件・パフォーマンス・エゴ・複数性という6つの視点から分析的に反省したいと思います。


(1) 研究

 私が今回ファシリテーターとして参加するにあたって、一番気にしていたのが、語り合いを「研究」にしなければならない、ということでした。私はこれまで学生さんとの個人面談をおそらく数百回行い、実際、先日も当事者研究を行う前にある人との個人面談を行っていました。特にその個人面談では、問題が大きかったため、私はその問題の様子を共感的に聞くことがほとんどでした。一つ二つは、「もし問題が悪化した場合は○○の方法を取ることも考えた方がよいかもしれない」といった助言はしましたが、基本的には共感的傾聴を行い、それが他の個人面談でも原則となっていると私は考えています。(ここでは詳細は割愛しますが、私も以前は助言が多かったのですが、ある時期を境に聞くことの方が多くなりました)。

 ですから私は個人面談についてはある程度の経験をもっています。しかし、私の認識では、個人面談と(当事者)研究は異なります。今書きながら洞察を得たのですが、研究に関する私の信念は、「ある明確な理解を得なければならない」、「そのためにはさまざまな仮説を次々に出して、それを一つ一つ検討することが有効である」といったもののようです。そのため、私は今回の当事者研究でファシリテーターとして次々に「それはこういうことだろうか?」、「一般的にはこのようなケースがよくあるが、それが当てはまるとは言えないだろうか?」、「この解釈はどうだろうか」といった仮説を提示しました。

 最終的にはそのように私が仮説的に提示した「病名」が問題を抱える当事者にもそれなりに受け入れられましたが、後の振り返りでは、当事者から「あまりに多くの仮説を出されて、それが外れていると、『この人は自分の話を聞いてくれていないのではないか』とすら思えてきた」という指摘がありました。これは今回の私の試みでもっとも反省すべき点だと思います。

 当事者研究は「研究」とはいえ、合理的に仮説生成・検証を繰り返すばかりの営みではないでしょう。当事者研究において重要なのは、ファシリテーターや聞き手が「仲間」になること、つまり、当事者の主観をしっかりと受け入れて、自分が本来は無力であるという謙虚な態度になることだと考えます。

 これは私が前の週に説明しただけでなく、先日の当事者研究の直前にも述べていたことでしたが、私は今回それを十分に体現できていなかったことになります。

 言い訳めいたことを述べるなら、私が日頃一人で行っている「研究」の習慣が、無意識のうちに当事者研究にも過剰に入り込んでいたのかもしれません。しかし当事者研究は、何らかの苦しみを抱えている「当事者」と共に行う営みですから、私は当事者の苦しみや気持ちにもっとよりそうべきだったのかもしれません。

 実は、当事者研究の最初に、当事者からの問題が提示されたとき、私の中では、(a) 当事者の「苦しい」というのはどのような状況であるかをもっと聞き出そうかという選択肢と、(b) 当事者のこの問題と類比的(アナロジカル)であるはずの別の問題との対比から考えてみるという選択肢の二つが私の心の中に去来していました。私は主知的に (b) を選びましたが、それが今回の当事者研究の流れを大きく決めてしまったのかもしれません。もっと情感的な (a) を選んでいたら多少は流れも変わっていたのかもしれません。

 ここで改めて向谷地生良先生による当事者研究のまとめを読み直すと、私の「研究」の理解が原因追求の方に傾き、問題への対処の方に向いていないことに気づきました。


当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)


 これを読み返してみると、当事者研究とは「ジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉える」ものであり「自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじ」、当事者が「「苦労の主人公」になること」を大切にしているといった表現が改めて目に入ってきます。どんな当事者も「自分の専門家」であるから、他の人間はむやみにその人から苦労を奪ってしまってはいけない(それはその人からその人の人生を奪うことなのかもしれない)とも思えてきます。向谷地先生は、当事者研究の最大のポイントは「当事者自身が、自らのかかえるさまざまな生きづらさに対して、周囲の過剰な保護や管理から脱して、自律的、研究的に担い、対処をしていこうとする前向きな動機を育て、持ち続けることにある」とも言います。

 そんな向谷地先生は、当事者研究の進め方を5段階にまとめています。私なりに言い換えますと次のようになります。


(a) 「問題」の理解:繰り返し生じる出来事のパターンを記述し、そこで起きている「問題」の意味(そのことが示しているかもしれない可能性)を探る。

(b) 従来の対処法の確認:これまで自分がその「問題」にどのように対処してきたかを確認する。

(c) 従来の対処法の評価:従来の対処法に満足しているかを確かめ、満足していなければ次のステップに進む。

(d) 新たな対処法の創造:新たな対処法を具体的に考案し、必要な場合はその練習をしてみる。

(e) 新たな対処法の検討:新たな対処法にも満足ゆかなければ、(a) に戻る。


図示したら次のようになりましょうか。



 こうしてまとめてみると、当事者研究とはきわめて実際的な研究であり、根本原因の究明などよりも、まずは自分をどうやって助けるかを考案する実務的な研究であるように思えます。ある意味、ブッダの「毒矢のたとえ」を思い起こさせます。


 例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。

あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/cula-malunkyaputta-sutta/


 かといって、当事者研究は、単なる問題解決だけを目指しているわけでもありません。(a) における「問題」の意味の理解が重要です。すなわち、世間的には「困った」とされる「問題」が当事者に提示しているかもしれない潜在的な可能性を探究することが当事者研究を、他の問題解決モデルとは異なるものにしていると思われます。

 ずいぶん長くなりました。次のポイントに移りましょう。


(2) 当事者の主体性

 上には私が自分の個人研究スタイルを当事者研究に持ち込んでしまったことについて書きましたが、さらに私が反省すべきことを新たに第二点としてまとめますなら、私は、次々に仮説を出すことで、当事者の主体性を奪ってしまっていたのかもしれません。(内容は少し上とかぶってしまうところもありますが、そこはご容赦ください)。

 当事者研究において大切なことは、to think "with" the person in focusであり、to think "for" the person in focusではありません。当事者と「共に」 考えるのであって、当事者の「代わりに」考えてしまってはいけません。

 もちろん当事者は自分自身の苦労の中で困惑して様々なものが見えにくくなっているわけですから、仲間が助け舟を出すことは重要です。しかしそれも程度問題で、やはり基本的な原則は、「当事者の苦労は当事者のものであり、他人がその苦労の解決を横取りしてはならない」というものではないでしょうか。

 この点で、仲間は当事者に代わって考えてしまうことに対しては抑制的であるべきかとも思えます。当事者の主体性が伸長するような環境を皆でつくりあげることが当事者研究の基盤であるように思えます。

 ここで当事者研究を超えて、教育指導について話を脱線させてしまうことをお許しください。私は個人で研究をしている以外に、学生さんの論文執筆についての教育指導をしています。論文はもちろん、学生さんが書くものですが、論文執筆に慣れない学生さんはしばしば(というよりほとんどの場合)どのようなストーリーで論文をまとめるかという筋道を見つけることがなかなかできません。

 私は学生さんの論文構想を聞きながらコメントをします。大人数での指導(大学院で「特研」と呼ばれる合同ゼミ)では個別の疑問点や一般的指針を述べるぐらいのコメントにとどまりますが、一対一の個人指導では、私はしばしば学生さんの代わりにストーリーを考えます。学生さんはそれを吟味し納得したら、それを学生さんが自分の論文のストーリーとして論文を執筆することがしばしばあります。

 研究の着想(ストーリー)を指導教官が示すことは、研究倫理上は問題ないと考えています。研究として大切なのは着想の後の論証であり実証であるからです。しかし学生さんの底力を上げるには、この方法はよくないとは実は私は長年自覚はしています。私は自らのストーリーを一切提示することなく、学生さんに大いに苦しんでもらうことの方が実は学生さんに対して親切なのではないかとも思っています。とはいえ、修学年数は限られていますし、留年するコストは非常に高いわけですから、私は締切優先で、自らのストーリーを学生さんに提示してしまっています。ですが、この私のやり方についても再検討が必要なのかもしれません。ストーリーの考案については、「すべてを学生さん(当事者)に委ねる」ぐらいに考えた方がいいのかもしれません。

 ただ、「すべてを委ねる」というのを理想化してもいけないと思います。武術の例で考えることをお許しください。武術において天才的な開祖は、弟子にほとんど何も教えず模範演技を示すだけのことが多くあります。しかしそれでは多くの人間が技を体得できないままになりますので、しばしば二代目は技を体系化したり言語化したりして教えます。そうでなければ、開祖の見事な技は継承されず、下手をすれば似て非なる猿真似ばかりが蔓延するからです。

 二代目による技の体系化・言語化により少なくとも一定数の弟子は開祖の技をそれなりに継承できます。ところが三代目・四代目・・・と、その「教える」文化が進むと、弟子はその体系化・言語化された内容を受け身で学ぶだけになります。そうなるとそれなりの技術は多くの人に習得されるようになるのですが、天才が出なくなります。技の革新がなくなり武術全体が停滞してしまいます。こうなるとやはり「教える」こと、すなわち弟子(当事者)が苦しんで考えながら発見する代わりに効率よくヒントや答えを与えてしまうことの弊害が出てくるように思えます。

 教師からの教示と学習者の自得のバランスには再考が必要だと思います。

 別の例で考えます。既に長くなりすぎたので、短くしか述べませんが、一見したら「教えない」授業をしている福島哲也先生も、実は実に細かく学習者に即した課題の開発と提示を行っています。実際、福島先生が生徒を観察しながらずっと行っているのは、生徒の思考などの分析とそれに基づく教材観察です。「教えない」ようでいて、学習者を放任してしまうのではなく、仲間との『学び合い』の力の中に巻き込むことで、個々の学習者の力を伸ばしています。(福島先生の実践については、これから少しずつ私なりに考察を進めてゆきたいと思っています)。

 また西岡常一氏に代表されるような宮大工の徒弟制度でも、師匠は模範を示すだけで、後は「自分でやれ」と突き放し、一切教えることはしません。しかし、その背後では、弟子の生活を保証する、まずは徹底的に「見習い」をさせて弟子の意欲(「師匠のようになりたい」という想い)を育む、弟子一人ひとりの個性を見極める、やらせる課題にも配慮がある、などなどの工夫があります。

 教師・師匠はすべてを教え込んでしまってはいけませんが、ただ何もしなくていいわけではありません。一見何もしないでいるようでいて、実は教師・弟子が行っていることの解明が重要だと思います。

 再び当事者研究の話に戻しますなら、当事者の代わりに仲間が解決案を考えてしまうような当事者研究は、当事者に一時的な問題対処の方法は与えても、当事者の潜在的な力を長期的には伸ばし損ねる怖れがあります。極端なことをいうなら、当事者を解決策を示してくれる仲間に依存させてしまう恐れすらあります。やはり当事者の主体性を最優先することを忘れてはならないでしょう。それでは当事者の主体性を育むためにはどうするべきか、というのが次の点につながります。


(3) エゴ

 「当事者の主体性を尊重する」と口で言うのは簡単ですが、当事者の独自の可能性に対する畏怖がなければ、このことを実行するのは容易ではないように思えます。もしファシリテーターや仲間に、少しでも「苦しんでいない私には、苦しんでいる当事者よりも当事者のことがよく見えているはずだ」、「当事者も私が示唆するような方法を取れば多少は苦しみから逃れられるだろう」といった思いがあれば、それは当事者が、当事者自身も含めて誰も予知できなかったような独自の個性的な発展をする可能性を否定してしまうことになります。当事者が、苦しみも喜びもすべて経験することによって自らの人生を開花させる主体性を奪ってしまうことになります。

 当事者の主体性を尊重するためには、ファシリテーターや仲間がエゴをできるだけ捨て去ることが重要であるように思えます。(これは私がエゴが強いから特に感じていることかもしれません)。エゴを捨て去ることは、当事者研究の15の原則(注)から言いますと、「前向きな無力さ」や「初心対等」などで示されているように私は理解しています。

 エゴ(自己中心性、過剰な自意識、自負、うぬぼれ)というのはやっかいなもので、私などは下手に研究職にいるものですから「自分は分析ができる!」と思い込み、上に述べたように、当事者の声にもっと寄り添い、ペースに合わせ、聞き出すよりも聞き入ることが疎かになってしまいました。反省です。

 また少し脱線になりますが、上でも少し述べた『学び合い』の福島先生のお話を聞いたりワークショップに参加したりして強く感じたことは、福島先生が授業からエゴをできるだけ消そうとしていることです。それは福島先生の「指導の軸足を自分ではなく、生徒におく」ということばからもうかがえますし、先生が生徒の「学びに向かう力」を喚起するのに必要な「人間(的な)関係」として上げている以下の4つの原則からもうかがうことができます。

i)    「コントロールしない」(子どもを思い通りに動かせる対象とは考えない)
ii)   「対等な関係」(子どもも教師も人間としては平等であるから互いに敬意を払い、悪かったら素直に謝る)
iii)  「疑わない」(「この子はどうせ○○なのではないか」と予断をもって裁かない)。
iv)  「多様性を認める」(教師が思い込んでいる人間のあり方以外にもいろんな人間のあり方があることを積極的に受け入れる)。


福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」


 この4つの原則を見ていると、これらはすべて当事者研究においてもファシリテーターや仲間が心得ておくべき大切な原則であるように思えます。

 あるいは先日たまたま見たツイートも思い起こされます。



 もしくは「対話」において重要なことの一つは「決めつけないこと」 (to suspend) であるとしたボームの対話論も想起されます。


感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から


 安直な一般化には気をつけるべきかもしれませんが、当事者研究も授業も技芸伝承も対話もすべてコミュニケーションだとしてまとめるなら、そこで大切なことの一つは、各人が互いを尊重し合うために、それぞれのエゴの暴走を抑制することなのかもしれません。

 しかしそのように「コミュニケーション」を総括してしまうと、なんだか砂糖でまぶされた、単なる「いい話」になってしまいそうです。二度目の脱線はここで終えて、私がファシリテーターとして参加した当事者研究の具体的な反省に戻りましょう。


(4) 物理的条件

 当事者研究のデモンストレーションの前に、私はその日の朝たまたま読んだ新聞記事から次の一節を紹介して、当事者研究のように対話を活かした実践が世界各地にあることを示しました。



These Men Are Waiting to Share Some Feelings With You. NYT. Dec.8, 2018

 そこには "sitting and listening intently"とありますが、私が参加したデモンストレーションは立ったまま行うものでした。これは教室全体に声を届けるにはよい方法だったのかもしれませんが、そのことにより傾聴することが少しおろそかになったのかもしれません。あるいは声を張る様式では伝えられないこともあるとも言うべきでしょうか。マイクを使ってささやいたりつぶやいたりすることも容易にして、対話を座って行ったとしたら、少しは落ち着いた雰囲気で当事者研究ができたのかもしれません。

 また当日は黒板に話の流れを書き込む係も一名入れたのですが、当事者とファシリテーターはほぼ常に黒板と書き込み係を背にしていたので、うまく黒板を使うことができなかったのも失敗でした。

 当事者研究の物理的な環境が「こうでなくてはならない」とまで厳格に定められる必要はないと思いますし、当事者研究を立って行うことも「あり」だとは思いますが--実際、私が浦河で見学した当事者研究では当事者とファシリテーターは立っていました--、心身ともに無駄な力を抜いて行えるような配慮は必要だと反省しました(少なくともマイクの利用は積極的に考えた方がいいのかもしれません)。


(5) パフォーマンス

 物理的環境以上に反省すべきは、今回の当事者研究が具体例提示ということもあり、必要以上に「パフォーマンス」になってしまったのではないかということです。当事者と話し合うこと以上に、話し合いの成果を示すことに力点がおかれてしまったことです。
 
 最初の失敗は、上の立ち方とも絡みますが、当事者が最初にファシリテーターである私の方ではなく、オーディエンスである学生さんの方を向いて話を始めたことを、ファシリテーターである私がそのままにしてしまったことかと思います。今回の当事者は教師であるため、自然といつものように学生さんの方を向いて語り始めたのかもしれません。もちろん、当事者とファシリテーターの時折のアイコンタクトはありましたが、下手をすると私ですら当事者ではなくオーディエンスの方を向いて発言していたかもしれません(特に、自らの仮説を開陳する時など)。

 くわしいことはビデオ録画を見てみないとわかりませんが、今、書きながらも、私は自らが語っている内容に関してオーディエンスの同意を求めるためにオーディエンスとアイコンタクトを取っていたことを思い出します。これには、「当事者研究の効果を学生さんにも実感してもらわなければならない」といった焦りが背後にあったと思います。

 焦りという点では、「この時間内に、何らか結論めいたものを示さなければならない」という焦りもありました。私が当事者の人となりと知的能力をよく知っていたというのもありましたが、私が短時間の間にさまざまな仮説や解釈を当事者に投げかけてしまった一端にはこの焦りがあったはずです。


(6) 複数性

 最後にこれは最初からわかっていたことではありますが、今回の当事者研究デモンストレーションは、当事者・ファシリテーター・書き込み係が一名ずつという体制でやってしまい、複数の聞き手(「仲間」)という存在を欠いてしまったということも反省すべき点です。

 もし複数の「仲間」が参加していたら、それぞれがそれぞれの見解を表明することで、認識の多様性も自然と担保されるでしょうし、特定の一人(今回はファシリテーター)が張り切りすぎることも防げたかと思います。

 私が昨年度の英語教師志望学生への当事者研究実践から学んだことの一つは、学生さんは複数の聞き手がいる当事者研究では、私との個人面談とは異なる顔を見せるということでした。昨年度の学生さんは私がチューターをしていたため、私は彼ら・彼女らをそれなりに理解していると自負していたのですが、複数の聞き手が関わる当事者研究では私の知らない学生さんの姿が何度も出てきました。これには、「聞き手が教師でなく学生である」ということも関連しているでしょうが、それ以上に、「当事者が、複数の人間による多様な認識枠組みで捉えられている」ということが大きかったのではないかと私は考えています。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より



 以上が私の反省です。別の角度から私の反省をまとめて学生さんに伝えたスライドのPDFもついでながら掲載しておきます。



 当事者研究についてわかっていたようで、実はわかっていなかったことが今回の収穫でした。これからも当事者研究について学んでゆこうと思います。


(注)当事者研究の15の原則

1: 「弱さ」の情報公開
2: 「自分自身で、ともに」
3: 経験は宝
4: "治す"よりも"活かす"
5: 「笑い」の力 -- ユーモアの大切さ
6: いつでも、どこでも、いつまでも
7: 自分の苦労をみんなの苦労に
8: 前向きな無力さ
9: 「見つめる」から「眺める」へ
10: 言葉を帰る、振る舞いを変える
11: 研究は頭でしない、身体でする
12: 自分を助ける、仲間を助ける
13: 初心対等
14: 主観・反転・"非"常識
15: 「人」と「こと(問題)」をわける

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浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
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熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
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樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
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2017年8月24日木曜日

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版



本書は編者の熊谷晋一郎氏が編集後記で述べるように、「当事者研究は具体的に与えられた名前ではない。むしろ、個別の技法に文脈を与えているような、より広汎な歴史・価値・理念・態度の総体である」ことを前提として、「当事者研究の輪郭を素描するために、当事者研究の歴史的・思想的源流をたどり、方法の多様性を記述し、最近の分野横断的な広がりを概観することを試みた」ものです。(p.204)  非常に充実した一冊であり、当事者研究の深さと広がりがよくわかります。

この記事では、その中でも、当事者研究実践のために特にすばらしい、綾屋紗月氏の「当事者研究をはじめよう! 当事者研究のやり方研究」 (pp.74-99) の一部(第4節「「べてるの家」と「ダルク女性ハウス」の形式の共通点)の8つのポイントを私なりにまとめながら、同書中のその他の箇所に言及をすることによって、この本を紹介します。8つのポイントのタイトル(太字化しています)は原文通りですが、そのまとめには私のことばがかなり入っていますので、興味をお持ちの方は、ぜひご自身でこの本をお読みいただき、正確な理解をなさってください。



*****


(1) 自分を開いて仲間と共有する ーー自分自身で、共に

集まりの冒頭で、問題を抱えた当事者(注1)だけでなく、参加者の全員がそれぞれの最近の経験などを語り、この場は誰もが「自分を開く」場であることを実感的に確認する。当事者研究が始まっても、参加者はその問題と自分の問題を関連付けたりして、当事者は自分の問題を語りながらも参加者と共に自分の問題についての洞察を深める。同時に、参加者は当事者の問題を聞きながらも、それについて関連している自分の問題についても考える。

(注1)私は英語教師なので、日本語の名詞表現を聞いても、時に「それは単数形の意味?それとも複数形の意味?」と疑問をいだいてしまいます。「当事者研究」の「当事者」も単数形なのか複数形なのか考えてしまいます。もし単数形なら「当事者」とは問題を抱えた人だけの意味になりますし、複数形なら問題を抱えた人とその人を仲間として認める共同体の人々全員となります。最初は、私は「当事者」とは前者の意味かと考えていましたが、本書を読んだりしていると、むしろ後者の意味かとも思えてきました。


(2) 自分の問題を自分の外に出す ーー外在化

「ヒト」(当事者)と「コト」(当事者が抱える問題)を分けて、問題を対象化・客観化して考える。当事者研究の進行役も「どういう苦労が得意ですか?」、「苦労の専門分野は何ですか?」と問いかけたり (p.76) 、「また火をつけちゃったんです」という発言に対しても「ああ、放火現象が起きたのね」などという言い換えをする (p.26) など、この問題の外在化を促進するようなことば遣いをしばしば行う。視覚的にも、ホワイトボードや模造紙と付箋などの方法で問題の外在化を支援する。

また、この論文には特に言及がなかったが、べてるの家では当事者が自分の問題行動に対して、ユーモアたっぷりの病名をつけているが、この命名も当事者に問題と向き合う余裕を与えていると考えられる。


(3) 興味・関心によるワクワク感

問題行動はぜひとも治したいといった構えではなく、その問題行動がなぜ生じるのかの仕組みを知りたいといった構えにより、問題行動と当事者の現在・過去の行動について研究的な好奇心を発揮して、その問題行動についての研究を楽しむ姿勢をもつ。

ちなみに本書で石原孝二氏は「当事者研究の哲学的・思想的基盤」 (pp.51-55) で、研究を「そのつどの環境によって生じる「問題」に単に対処するのではなく、事象そのものを探究するものである」 (p.52) と述べ、「当事者研究において、この研究的な態度は、問題を「棚上げ」するという機能をもっている。研究は問題を解決することを直接的な目的としない」 (p.53) としている。

この研究的な興味・関心という構えにより、問題の外在化・対象化・客観化はいっそう促進されるといえるだろう。


(4) 仲間の知恵の伝承

当事者も参加者も全員が対等な関係で話し合うが、それでも、その当事者研究共同体が歴史的・経験的に積み重ねてきた知恵や価値観は尊重し伝承しようとする。

これは私(柳瀬)が某所で当事者研究的な営みを導入したところ、そこでの指導者的立場の人が迷った点であった。全員の対等性を重視するあまり、指導者的立場の人は、当初、あたかも何も積極的に発言・助言するべきではないかのごとく思ってしまったが、当然ながら、人が共同体での長年の経験から得てきた知恵を共有したいと思うことは自然なことなので、ことさらに忌避的な態度をする必要はないと私は考えている。ただし決めつけたような助言を避けるのは当然のこと。


(5) 自分助けとして症状や問題行動を扱う

社会通念からすれば否定的にしか捉えられない問題行動も「自分助け」として、つまり自分が困難な状況に対応するために仕方なしに行っている反応としても捉え、問題行動にプラスの側面も見い出す。

同論文で綾屋氏は自らの実践(「おとえもじて」)において、「問題行動は悪いことだ」という既成概念にとらわれてしまうことを避けるため、当事者研究中に、呪文のように「問題行動にはメリットがある」「お前はすでに助けている」と頭のなかで唱えるようにしていると述べている (p.92)。

追い込まれた当事者が、社会通念・既成概念を覆すには、それとは異なる価値観を「呪文のように唱える」必要があるという証言は、重要なものだと考えられる。


(6) 発見を祝う

当事者研究を通して、新たな意味が発見されたこと、そしてそれが仲間と共有されたことがあれば、積極的にその意義を認め、祝う。

「意味」については、石原氏が前述論文においてDeegan (1988) (http://dx.doi.org/10.1037/h0099565) でのリカバリー (recovery) の定義を引用しているところが興味深い。それによるとリカバリーとは「障害がもたらす限界の内で、あるいはその限界を超えて、自己の新たな意味と目的を回復すること」である(注2)。

(注2) Deegan (1988) を参照しますと、以下のようにありました。

Disabled persons are not passive recipients of rehabilitation services. Rather, they experience themselves as recovering a new sense of self and of purpose within and beyond the limits of the disability. (p.11)

拙訳:あることができなくなった人は、リハビリ治療をただ受けるしかない受身的な存在ではない。 そうではなく、その人は、自分の能力の範囲内で、時にそれを超えて、自己と目的の新しい感覚を回復するのだ。
また、熊谷晋一郎氏は、国分功一郎氏との対談「きたるべき当事者研究  当事者研究の未来と中動態の世界」 (pp.12-34)の中で、次のように述べている。

当事者研究では「有意味性を奪われる」という表現をしますが、自分以外の他者に奪われてしまった症状・問題がもつ固有の「有意味性」を取り戻すことが、当事者研究の最初の着想であることを言い表したものです。 (p.21)

ここでも「意味」ということばが使われていますが、私はこういった用法での「意味」の意味を明らかにしたくて、先日、学会口頭発表をしました。

意識の統合情報理論からの基礎的意味理論
--英語教育における意味の矮小化に抗して--
全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/blog-post_9.html


(7) 目的意識をゆるめる

問題解決を目的として、他人や自分自身を支配してしまおうとするのではなく、一人ひとりの語りを否定せずに受け入れる中で、新しい発見に至る。

ちなみに、これはボームの対話論でも強調されていることでもある。

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念

感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から

ボームの対話論についての学生さんの感想


(8) 先行して警戒を解く

当事者研究の進行役などが、問題を抱えた当事者が自己開示をする前に、自分自身の弱さの情報公開を行う。専門家も専門知識をいったん捨ててしまって「丸腰で人に対して向き合っていくことが当事者研究の専門性」 (p.86) とも表現される。

ちなみに、これは昨年から今年の冬にかけて私が同僚の樫葉先生と、卒業直前の学部生に対して当事者研究を試みた時に、樫葉先生が直感的に行ったことでもある。樫葉先生によると、学生の様子を見るうちに、この学生さんたちに自らの弱みを見せることを要求する前に自分が弱みを見せないといけないのではないかと思い、自分自身の職業生活でもっとも苦しかった時代のことを話し始めた(これは授業予定にはないことであった)。その内容は、同僚の私でさえ初めて聞くことも含むもので、その自己開示は学生に大きな影響を与えた。



*****



このような当事者研究を、私は学校教師にとっても有用なものと考え、導入を試みていますが、この本には子どもによる当事者研究も提唱されています。(河野哲也「当事者研究と「教育学」」 pp.56-60)。河野氏はこう言います。

当事者研究は、いわゆる「障害」のある子どもたちに有効であるだけでなく、あらゆる子どもにとっても意義のあることに思われる。障害の有無は、くっきりと線が引けるものではなく、連続的で、誰もが何らかの度合いで障害を有しているという理由だけではない。子どもたちは、つねに勉強ができるかできないか、能力があるかないかという学校的な規準で自分が評価されることに怯えており、一定のレッテルを貼られた子どもたちは人生の始まりにおいてすでに諦めの気持ちさえもってしまう。勉強に関しても、現代の学校教育でもっとも深刻な問題とは、学ぶ意欲そのものが失われていることである。それは、なぜ学ばなければならないか、子どもたちはその意味や理由がわからないからである。(p.59)

実際、この本では狛江市立狛江第三小学校特別支援教室主任教諭の森村美和子氏による実践が「子どもの当事者研究」 8pp.133-136) として紹介されています。

またこの記事ではそれほど触れませんでしたが、熊谷晋一郎氏と国分功一郎氏による対談「きたるべき当事者研究  当事者研究の未来と中動態の世界」 (pp.12-34) は、世評に違わず、非常に充実したものでした。

当事者研究に興味をもつ人にとっての必読書がまた一冊増えたように思います。




 




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2019年1月30日水曜日

向谷地生良・浦河べてるの家 (2018) 『新 安心して絶望できる人生』(一麦出版社)



この本は2006年にNHK出版から発刊された書籍に巻末インタビューを加えて再刊された本ですが、今読み返してみると、2001年に始まった当事者研究の比較的初期のあり方というか原点を確認できるようで、とても勉強になりました。

ここでは私がこの本の(再)読解から学んだ、(1) 「研究」というモードに入ることによる変化、 (2) 当事者研究と似て非なるもの、 (3) ソーシャルワーカーのあり方、という三点についてまとめてみたいと思います。


(1) 「研究」というモードに入ることによる変化

当事者は、それぞれの悩みで苦しみ、その悩みあるいは弱さが引き起こす問題で周りに迷惑をかけたり自分を嫌いになってしまったりします。そんな当事者は、周りの人たちや自分自身とのコミュニケーションもうまくゆかなくなることが多いものです。しかし、そのコミュニケーションを「研究」というモードのコミュニケーションにすることにより、さまざまな変化が生じます。ここでは五つの変化について書いてみます。引用は同書(一麦社版)からのものです。


(1.1)  当事者研究共同体での直接のつながり

まず当事者は、同じように自分の問題について当事者研究を行っている仲間とのつながりを得ることができます。これまで隠していた自分の悩み・弱さを認め言語化して他人に開示することにより、その当事者は同じように自分の悩み・弱さを開示している仲間とつながります。そのつながりによって、当事者は仲間から何らかの支援を得ることができる可能性を得ます。それだけでなく、その仲間も「自分もその当事者を支援することができる」という可能性を得ます。孤立していれば無力感に苛まされていた人たちが、当事者研究でつながることにより、助け・助けられるという相互関係に入ります。当事者の共同体は、その関係性の中に「力」 (power) (少なくともその可能性)を感じることができます。

SOSをさえ出す力があれば、十分に生きていけると私たちは考えています。(中略)「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河流の言い方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で、生き抜く大切な条件になるのです。 (p. 25)

この直接の研究共同体的つながりは、これまでの当事者研究の歴史に支えられていますから、「これまでもいろんな問題があったが、なんとかしのげてきたのだから、この問題についても何とかなるだろう」というほのかな希望を生み出します。当事者は、繰り返し問題を引き起こしてしまうという絶望的な状況の中で、まさに「安心して絶望できる」わけです。


(1.2) 時代・社会のテーマに向き合っているという価値とのつながり

当事者研究は仲間という生身の人間とのつながりを作り出すだけはありません。当事者研究は、当事者が問題で苦しむ悩みを、人が人生において背負うべき苦労へと転換し、さらにはそれを自分たちが生きている時代・社会のテーマへと変化させてゆきます。当事者は、一人孤独に悩む存在という自己認識から、「弱さの情報公開」を通じて同じようにそれぞれの問題に苦しむ人たちと出会うことによって、「自分は生きる上でそれぞれの人がそれぞれのやり方で出会う苦労を経験しているのだ」というように自己認識を変えてゆきます。さらに研究を通じて、当事者の苦労の背後には、時代や社会の病ともいうべき諸要因があることに気づくと、自分がこの苦労を経験していることは、「自分はこの時代や社会がテーマとして抱えざるをえない問題を明らかにし、その改善を試みているのだ」と認識が変わります。「自分は先陣を切ってこの時代・社会のテーマに取り組んでいるのだ、この取り組みは同種の悩みを抱えている他の多くの人のためになるのだ」というようにも考えが変わります。

当事者研究とは、まさしく悩みを苦労に変え、苦労をテーマに変えていく作用をもっています。単純に病気だけを治したり、悩みを無くしたりするのではなく、生きづらさをかかえたときに、人とのつながりの中で意味をもってくる、病気そのものは無くならないかもしれないが、その苦労が意味をもって、まったく違った価値をもってくるという可能性が「当事者研究」という活動の中にあるようなきがします。 (p. 35)

自分が、直接に出会う人を超えて、まだ見ぬ同種の悩みを抱えている人たちにつながり、その人たちのためにもなるように時代・社会の抱える問題をテーマとして研究するのだという認識は、当事者をさらに力づけます。


(1.3) 「観察者」という「ヒト」と自分の悩みという「コト」の分化

「研究」というモードがもたらす変化はつながりだけに限りません。当事者の悩みを虚心坦懐に観察しようとする仲間の視線や態度はやがて当事者自身にも乗り移ってゆきます。悩みの中で何が何やらわからない状況にあった当事者も、自分の悩みを対象化できるようになります。その対象化と共に生じるのが、その対象を観察する観察者としての自分です。当事者研究の原則の一つに「ヒトとコトを分ける」というものがありますが、当事者は仲間と共に研究というコミュニケーション・モードに入ることで、当事者の悩みという「コト」とそれを抱えている当事者という「ヒト」を分化させることを学んでいると言えるかもしれません。

一人だけでかかえる孤独な作業が「研究しよう」という言葉によって、いつの間にか共同作業に変わるのです。つまり「こだわり」や、「とらわれ」の歯車が、自分のかかえる苦労への興味や関心となって、観察者の視点をもって自分自身のかかえる生きづらさに向き合う勇気へと変えられるのです。 (p. 46)

当事者は自責感情に苛まされていることが多いものですが、もし研究というモードが、当事者自身を問題から引き離すことができて、少しでも自己否定感情を軽減させることができるとしたら、それはそれだけで素晴らしいことと言えるのではないでしょうか。

関連記事
[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―
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この論点は、座談会参加者(当事者研究実践者)一同が「うん、うん、そうだね」とうなずいた次の発言に端的に示されています。

島貫慎之:当事者研究は、研究をしようとした時点で少し楽になっているような気がします。自分のことをちょっと上から眺めるみたいな感じでやっていくと、解決はされなくても少し自分のことを客観的にみえて楽になってるような気がします。 (p. 198)


(1.4) 「コト」のスティグマを軽減し、「コト」を実験データとする

「ヒト」と「コト」を分けることができ、その「ヒト」が必ずしも否定されるべきものではないのだということが認識され始めたとしても、その「コト」にはやはり悪評・汚名(スティグマ)がついているものでしょう。しかしその「コト」とは、研究を進める上で必要なデータであると考えたら、その「コト」にも積極的な意味が出てきます。以下は座談会の中の発言です。

吉田めぐみ:昔だったら、自分だけがくだらない苦労をしていて、失敗ばっかりしてだめだと思ってたけど、当事者研究をやると、失敗するのが、失敗は怖いんだけど、失敗しても実験だからいっかっていうか、よくはないんだけど、何て言うんだろう。失敗はただの悪いものじゃなくなるっていうか。(笑) (p. 197)

この発言の後に別の参加者も同意します。

西坂自然:さっき吉田さんが言ってたけど、失敗しても大丈夫という感覚がすごく強くなってくるのと、失敗したときもこれは何かに使える材料を一個手に入れたっていう、一個だけじゃないと思うけど、いろんな材料を手に入れたっていう気持ちになれる。 (p. 199)

悩みや問題というコトが、実験データや研究の材料であるとしたら、そのコトが増えるということは確かに困ったことではあるのですが、他方で、研究を進める支えにもなります。このスティグマの軽減も当事者にとって大きな力になるでしょう。


(1.5) 自分自身に対する新たな認識

当事者研究を新たに取り入れたいと考えているある病院は、「当事者研究をやると今まで知らなかった自分が見えてきて辛くなるのではないか」という懸念を抱いたそうです。その問題提起を受けて、参加者の一人はこう言います。

斉藤優紀:自分も、やさしくない自分に気づくんですけど、やさしくない自分が私はものすごく好きだし、必要だったんですよ、私には。誰にでもやさしくしなきゃと思うから、自分はずっと苦しかったんですけど、ああ、意外とそんなことなかった、みたいな。 (p. 208)

ここで我流のユング風の解釈を差し込むなら、自分の弱さあるいは悩みは、自分自身(自己)の未発達領域(「影」)であり、それは時に、夢や白昼夢や幻聴、あるいは「おそろしく嫌な人物」(しばしば同性)として顕在化します(「おそろしく嫌な人物」は、自分の未発達領域(「影」)が投影されているからその人にはそのように映るわけです)。そこまで極端ではないにせよ、一般に、自分が不得意としていること(自分がこれまで見ようとしてこなかった「影」)は、嫌なものでしょう。しかしそれを自らの発達課題として正面から見据え、自分を再構築することが人間としての成長と考えられます。

C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

上の斉藤さんは、当事者研究によって、これまで自分が「影」としていた「やさしくない自分」に出会いましたが、その「やさしくない自分」は実は自分にとって必要な自分であることに気づきそんな自分も愛し始めます。この変化も「研究」というモードがもたらす変化だと私は考えます。(注)。

(注) ユングは心理療法 (Psychotherapie / psychothrapy) の四段階を、告白、解明、教育、変容 (Bekenntnis, Aufklärung, Erziehung, und Verwandlung / cofession, elucidation, education, and transformation)と説明していますが、この本の「救急車の乗り方の研究」(福島孝 協力:伊藤知之・向谷地生良) (pp. 164-176) はその見事な例示となっているようにも思えます。 「現代の心理療法の問題」 (pp. 27-64) C.G.ユング著・横山博監訳・大塚紳一郎訳 (2018) 『心理療法の実践』みすず書房に所収。(ドイツ語・英語でのユング全集では第16巻に所収)




(2)  当事者研究と似て非なるもの

この本から学んだもう一つのことは、当事者研究をよく理解していない人がやってしまう当事者研究とは似て非なるものです。それは端的に言うなら、「アドバイスという名の説教」 (p. 206) となります。たとえ善意からとはいえ、問題解決を急ぎ、当事者を理解することなく周りの人がその人自身の方法およびその背後にある価値観を押し付けてしまうことです。

座談会で斉藤さんも次のように述懐しています。

斉藤優紀:私は理念みたいなのがちゃんと自分に染み込んでいないときに、ひたすら問題を解決するための当事者研究とか、自分を無理させる研究みたいなのになっちゃったことがあって、何を研究するかのところで、結局、自分を大事にしないと、何か変になって苦しくなりましたね。 (p. 205)

実は、私も似たようなことをやってしまったので、「アドバイスという名の説教」だけはしないように心がけたいと思います。

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(3) ソーシャルワーカーとしてのあり方

あと、この本で非常に面白かったのは、今回の再刊に際して新たに付け加えられた対談で表明された、向谷地生良先生のソーシャルワーカーとしてのあり方です。カーリングの吉田知那美選手が好きな言葉として「安心して絶望できる人生」をあげていたことをきっかけにして行われた向谷地先生と吉田選手とのこの対談の中で、吉田選手は「カーリングは相手との接触がないので実際に戦っているのは自分たち自身である」、「自分たちの自己コントロールが一番キーになるスポーツである」といった趣旨の発言をします。それを受けて向谷地さんはこのように言います。

なるほどね。そういう面では、私はソーシャルワーカーなんですけど、非常に似た世界かもしれないですね。いろいろな人の困りごとの相談にのったり、複雑で揺り動く人間関係の中で、人の安心や生きやすさを実現するワーカーのしごとも、行き着くところは、自分とのつきあいが結果を左右します。 (p. 216)

カーリングとソーシャルワークでは、自分の「無力さ」を大事にすることも似ているのではないかと、向谷地先生は言います。

向谷地:ソーシャルワーカーの仕事でも、私は「無力さ」ってことを大事にしてるんですけど、前向きに「無力」であるからチームでやっていけるし、いい意味でプレイヤーとしても「無力さ」っていうものを認めあっているから一人で頑張らないで、ああいう「対話」が生まれたり、試合ができるのかなって私も思ったんですね、すごく似てるなって思って。そのへんはいかがですか?

吉田:いや、本当に私たちもそれを大事にしていて、その「無力さ」っていうフレーズはいま聞いて「あっ」て思って、真似したいなって思ったんですけど。(笑) (pp. 222-223)

「自分とのつきあい」を丁寧に行い自分の「無力さ」を自覚するということは、やや手垢にまみれた言い方をすれば「エゴを捨て謙虚になる」となるのかもしれません。表現はともかく、そのような認識で人が集まれば、一人でも不可能だとしか思えなかったことにも何とか対処方法が見つかるということが当事者研究(そして吉田知那美選手が認識するカーリング)が教えてくれることなのかもしれません。



 



追記
実はこの記事は、学会口頭発表準備の一つとして行いました。


中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

言語文化教育研究学会第5回年次大会
2019年3月9日(土) 13:15-13:45
早稲田大学早稲田キャンパス3号館709教室

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ご縁がありそうでしたら、ぜひお越しください。



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2018年10月20日土曜日

熊谷晋一郎 (2018) 『当事者研究と専門知 -- 生き延びるための知の再配置』(金剛出版)



 金剛出版の『臨床心理学増刊第10号』である『当事者研究と専門知 -- 生き延びるための知の再配置』は非常に読み応えある書籍でした。



■ 研究の共同創造
 この本は、「研究の共同創造 (co-production)」という視点で企画編集されました。共同創造とはもともと公的サービスの創出に市民が参画する実践だそうです。

Wikipedia: Co-production (public services)
https://en.wikipedia.org/wiki/Co-production_(public_services)
ウィキペディア:協働
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%83%8D

 公的サービスの共同創造では、市民はサービスの単なる受け手・消費者であるだけではなく、公的機関と共にサービスを企画・デザイン・運営・管理することにも参画します。

 私が関与している英語教育研究でいうなら、現在、学会で行われている研究のほとんどは研究者によって企画・実行・評価されています。英語教育研究を実践的な分野として考えるなら、英語教育の当事者である学習者や教師が切実に感じていることこそが研究のテーマになるべきですが、学会での研究はそういったニーズとはほぼ無関係に進められ、当事者は「自分たちが大切に思っていることがきちんと研究されればよいが・・・」と思いながらも、その思いは裏切られ続け、学会から興味をなくしています(当事者の中には、学会とは完全に独立して草の根で研究活動を始めているところもありますが、それはまた別の話として)。

 研究の共同創造の発想では、当事者が「このような研究がほしい」という企画を出し、研究者にそのテーマでの研究を依頼し(あるいは共に行い)、その研究を評価するという研究活動が推進されます。

 この本に話を戻しますと、この本はそういった共同創造の発想で、さまざまな困難を抱えた当事者がいわば "cross-disability"に当事者研究の課題を設定し、さまざまな研究者に原稿を依頼してできあがったものです。そしてその研究は編集責任者の熊谷氏によって総括されています。

 まずはこの共同創造という試みを知るだけでも、この本を読む価値はあると思います。

熊谷晋一郎「知の共同創造のための方法論」 (pp. 2-6)



■ 医学モデルの暴走

しかしもちろん当事者もこの本に貢献しています。その一つが、脳性まひという障害を共有する熊谷晋一郎氏(東京大学先端科学技術研究センター)と尾上浩二氏(Disabled People's International: DPI 日本支部)の対談です。


対談:継承すべき系譜1:運動 (pp. 28-38)

 ここでは「医学モデル」、つまり障害を疾病とみて、それを治し克服することに専念する考え方が暴走していた時代の恐怖が語られています。障害克服のためには、当事者は「生存権も人権も認められない医療の実験台のように扱われ」(尾上 p. 30)、「医療者だけでなく家族、当事者さえ医学モデルの内部でしか思考できなくなり、しかもそれが当事者を救おうとする善意の装いをまとっている」(尾上 p. 31)システムの恐ろしさです。
 暴走する医学モデルに対する障害者の抵抗の運動の長年の成果でもって、現在では障害者が医療実験台として自由を剥奪されるいわば「身体刑の時代」はほぼ終わりました。しかし今度は「生権力が作用する規律=訓練の時代」となり、当事者は「ほぼ自動的に自己反省を繰り返し、責任を一身に背負い、おのずと内向的になり、もはや怒りの声を上げる動因さえ根こそぎ奪われている」(熊谷 p. 31) とも言えます。

 科学と善意の名のもとに、どのようなことがなされてきたかが垣間見えるこの対談は、科学と善意を売り物にする職に就く者が一度は読むべきものかと思います。教育の世界においても、ここまでの程度ではないにせよ、当事者を軽視するような制度や慣習はあるはずです。障害者はいわば、社会の歪みをもっとも早くもっとも鋭敏に感じざるを得ない存在かと思います(それを是正するのが社会のあるべき姿なのですが、それはさておき)。障害者の経験から、いわゆる「健常者」が学ぶべきことは大きいと思います。



■ 医師による医療人類学・社会学的自己省察

もう一つ私が非常に興味深く読んだ論考は、精神科医が自らを語った物語です。

熊倉陽介「医療者の内なるスティグマ -- 知の再配置の試みから」 (pp. 83-92)
(東京大学大学院医学系研究科精神保健分野)

 医師による医療人類学・社会学的自己省察ともいうべきこの物語りで私たちには精神医療に関する洞察を一気に深めることができます。そこでは「精神科という得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から、聴診器を身につけることによって身を守っていた」著者が、「こころという得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から身を守るべく、精神症状を客観的に評価したり診断したりするという別の鎧を手に入れて」精神科医となり、その結果、「人のこころには出会っていなかったように思う」 (p. 88) という述懐があります。医療という権力を帯びた場で、医療者の無知や偏見から、当事者がさらに傷を深める不幸についても語られています (p. 89)。「専門知識や職業人として求められる規範について、それによって得るものと失うものが求められる」 (p. 89) というのが著者の結論の一つですが、この結論が強い説得力をもって響いてきます。

 上と同じような蛇足的なアナロジーを付け加えてしまいますが、学校教師も、人間の成長という得体の知れないものと出会うことに対する不安と恐怖から、学力を客観的に評価したり診断したりするというテストという別の鎧を手に入れて、その得点向上に邁進することで学習者のこころと出会うことなく、少なからずの学習者がそれぞれに抱えている傷を深めているのかもしれません。

 英語教育においても、「そもそも英語力なんてこの私に必要なの?」「テストで測られている力が実際のコミュニケーションとずいぶん異なっているように思える」「英語の授業ではどんどんコンプレックスが強くなってしまうだけ」「英語力をつけるための塾も留学もお金がなければ何にもならない」といった矛盾はさまざまにあるはずです。

 世間で流通している英語教育にまつわる言説は、そんな矛盾に蓋をして実に美しく語られます。しかし、それは何に奉仕し何を抑圧している言説なのでしょうか。英語教育においても、熊倉氏のこの文章のように深い語りが語られ始めることを願っています。いや、願っているなどという他力本願ではなく、私自身も学校英語教育の矛盾を言語化するべきでしょう。

 英語教育学習者や英語教師などは、障害を抱えた方々から見れば「マジョリティ」かもしれませんが、マジョリティにはマジョリティなりの葛藤があり、それをうまく言語化しておかないと、いつか大変なことにつながりかねないというのが私の懸念です。実際、日本でもアメリカでも今まで「マジョリティ」とされてきた人々の鬱積がどんどん圧力を高めてきているように私には思えます。

マジョリティの当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/blog-post.html

 共同研究者と「英語教師の当事者研究」というテーマで研究活動を行っている私ですが、ある種の「マジョリティの当事者研究」という意識をもって研究を進めてゆくべきかとも思い始めています。

 その意味で、この本の野口裕二氏と大嶋栄子氏の論考から学んだことは、別のブログ記事で「英語教師の当事者研究」に即してまとめてみたいと思います。

 この記事では、その他の論考についても一切述べることができませんでしたが、とりあえず私なりのまとめと感想を述べました。ご興味のある方にはぜひ一読をお薦めしたい本です。








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8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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マジョリティの当事者研究
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2019年1月30日水曜日

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院


当事者研究や心理療法といった領域はある意味、究極の人文系の知恵の宝庫かなとも最近思っています。自然科学のように割り切って (rationalに)知識を伝えることができませんが、容易には割り切れないこと (the irrational) を丁寧に語る人文系の書物は、読者にテクストの意味の可能性を感じさせ想像させ、さらには(疑似)追体験させ、読者に徹底的に考えさせます。ですから人文系の書物は、速読することができません。読者は、語られたことばを丁寧に読みながら自分自身の積極的な解釈生み出してゆきます。

関連記事
3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―
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その意味で、この本も速読を許さない本でした。私はずいぶん前にこの本を読んで沢山のハイライトも引いていたのですが、ブログ記事にはまとめていませんでした。他の本と同じように多忙の中でまとめる時間を失ってしまったというのがその理由でしょうが、ひょっとしたら当時の自分はきちんとまとめることができなかったのかもしれません。ソーシャルワーカーとしての向谷地先生の実践が、安直なまとめを許さない深いもので、読者としての私にそれなりの経験や想像力を必要とするからです。

もちろん学会発表のために読み直した今回の読解でも、私はこの本を十分に消化したとは言えません。むしろ読めば読むほど、これまで「そんなに深刻に考えずとにかくやってみれば?」ぐらいに思ってきた当事者研究の奥深さを感じました。

以下のまとめは、当事者研究の表面をひっかくようなものにすぎませんが、学会発表の準備の一つとして、そして私なりにも実践を深めるための備忘録として書くものです。


この本のタイトルは「技法以前」で、帯には大きく「私は何をしてこなかったか」と書かれています。こういった実践においてはとかく「何をするべきか」という技法が語られますが、向谷地先生はそういった技法以前に、「<当事者>と<場>のもつ可能性を信じ」 (p. 5) ることが大切だと語ります。「それを信じることができないままに、問題解決の切り口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じる」 (p. 5) というのが向谷地先生の見立てです。「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想でこの本はまとめられています。

してはいけないことの一つは「神の手にならない」ことです。援助者には常に「問題解決の神の手になろうとする誘惑と、神の手になってほしいという当事者や家族からの期待」 (pp. 31-32) があります。しかし「当事者自身が、"自分を助けること"を助ける」 (p. 24) のが、援助者の基本です。支援者が当事者を一方的に支配・保護・管理して「神の手」のように当事者の問題をたちどころに消し去ってしまっては、当事者は「苦労を奪われて」しまいます。

この場合の「苦労」とはそれぞれの人間が生きる上で経験しなければならない経験であり、「生きることの意味」の源泉でもあります。 (p. 38) 当事者は「苦労を取り戻す」ことにより「自分を取り戻す」ことができます。そうして自分を取り戻してこそ、当事者は「人とつながる」ことができます。当事者から自分自身を奪い去り人とつながる機会も奪い去ってしまうような一方的で過剰な支援は支援者がやってはいけないことです。

関連記事
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて 
-- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
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当事者研究の支援者はそういった過剰な介入はしません。ではまったく何もしていないかといえばそうではなく、支援者は、当事者と当事者の共同体という場の可能性を「信じる」わけです。この「信じる」とは、具体的な証拠を確認してからの「信用する」とは異なります。「《信じる》という態度は、目に見えず、将来的な好転や可能性を引き出すのは困難であるという状況のなかで、にもかかわらず私たちが希望をもって見ようとするような振る舞い方である」 (pp. 51-52) と向谷地先生は述べます。つまり「根拠なく信じる」 (p. 52) こと、「期待の先取り」をせずに「困難な現実を生き抜くことの主役を当事者に"まかせる"」 (p. 71) ことです。

かくして支援者は当事者を「苦労の主人公」とするべくいろいろな工夫をします。その一つは身体的な実感や手応えが失われ形骸化してしまったような「傾聴」はしないことです。95ページでは向谷地先生の「五分で話が終わる方法」が示されていますが、ここで大切なのは、支援者が当事者の感情の受容だけにとらわれてだらだらと長時間聴いてしまわないことです。支援者は、当事者のさまざまな行動が「自分を助ける」ことであることを指摘し、もっと上手な「自分の助け方」を研究して、同じような苦労をしている人の役に立ってはもらえないだろうかと提案します。当事者の苦労を一方的に取り去ることはせずに、当事者を「苦労の主人公」としてその人の人生を取り戻させ、他人につながるように仕向けます。これが支援者が 「為している無為」です。

そうやって当事者が自分の人生の主人公として、他の仲間と共に当事者研究を行うようになれば、支援者もその他の当事者の仲間に混じって、一方的に傾聴するのではなく、一緒に考えながら聞きます。この「一緒に考えるという聴き方」について、当事者研究の実践者である西坂自然さんは次のようにまとめています。少々長い引用となりますが、私が勝手に要約したくない文章ですから、そのまま引用します。

 一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなります。相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。

 一緒に考えてくれるときの相手は、いつも自分と同じ目線の高さにいます。上から言われる感じも下から言われる感じもしません。「同じ目線だ」と感じます。それに「これが人間だ」と思ってうれしくなります。しかも「こんなちっぽけな自分のことを一緒に考えてくれるのはなぜか」とも思います。

 でもそうやって同じ目の高さで話してくれているうちに、私は「ああ、自分はそんなにちっぽけなものじゃなかったのかもしれない。こんなふうに一緒に考えてくれるということはこの人は自分の存在も自分のできる力も信じてくれているし認めてくれているんだ」と思います。だから一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います・・・。 (pp. 116-117)

かくして当事者研究では、一緒に考える聴き方を通じて、当事者の「自分の感情をどうにかしたい」という欲求と「問題を解決したい」という欲求 (p. 113) に応え、さらには、当事者が一人の人間として生きているという実在感 (reality) を感じたいという根底的な欲求にも応えます。もちろん当事者の欲求に応える支援者や仲間も、同時に自分という人間の実在感を感じていることは間違いありません。

ところで当事者研究の成立には向谷地先生の存在だけでなく、「治さない、治せない精神科医を目指しています」と標榜する川村敏明先生の存在も大きく関わっています。そんな川村先生があるときデイケアの七夕行事の短冊に書いたのは「病気でしあわせ、治りませんように」というきわめて逆説的なことばでした。(p. 211)

川村先生は処方する薬をできるだけ減らす精神科医ですが、それは当事者にとっては「苦労が増えた方がいい」と考えているからです。そう考えるのは、この本の巻末で向谷地先生・川村先生と対談しているリンゴ農家の木村秋則氏の表現を借りるなら、苦労が当事者の「自然の力を呼び覚ます」からです。

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自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで
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木村氏の自然栽培(無農薬・無施肥栽培)についてここでは詳しく述べませんが、植物(リンゴ)と土壌がもつ本来の力をできるだけ発揮してもらうため、農薬や肥料などをできるだけ与えないというのが基本的な考え方です。そうはいっても、そんな自然栽培にもいろいろなノウハウがあるでしょう。そんなノウハウを知りたいという要望に対して木村氏は「答えは自然の中に無数にある」と答えるそうです。 (p. 212)

答えは木村氏の頭の中にあるわけでもなく、ましてやどこかのマニュアルの中にあるわけでもないわけです。「謙虚な姿勢で自然を観察する中で、答えは自ずから出てくる。しかもその答えは一つだけではなく無数にある。それほどに自然は豊かである」というのがこのことばの背後にある思想だと私は解釈しています。

それでは「当事者の自然がもっている力とは何でしょう」。もっと一般化して言ってもいいかもしれません。「人間にとっての自然とは何でしょう」。実はこの問いは武術家の甲野善紀先生が立てた問いでもあります。近代社会の中であまりにも人工的な環境を作り出してしまった人間は、自らの自然な状態を忘れつつあります。当事者研究が取り戻す「自然の力」が、苦労があったとしても仲間と共に何とかそれに対処して成長することを目指す力だとしたら、社会的動物としての人間の本来の姿は、孤立して個人的な力を蓄える近代的人間像とは異なり、互いに気持ちを通わせることによって力を得て困難に打ち克ち成長するといった人間像なのかもしれません。

そういった人間像を、下の学会では「関係性レジリエンス」の考え方に求めて、当事者研究というコミュニケーションについての解明を進めたいと思っています。発表を聞きに来てくださったらとても嬉しく思います。



中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

言語文化教育研究学会第5回年次大会
2019年3月9日(土) 13:15-13:45
早稲田大学早稲田キャンパス3号館709教室

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