下に掲載したまとめは、以下の公開研究集会の準備の一環で作ったお勉強ノートです。
公開研究集会:
外国語教師の身体作法
―学習者との身体的同調をうながすための実践的工夫―
7/15(日)京都外国語大学
この集会は無料で、外国語教育に興味をもつ方でしたらどなたでも参加できるものですので、どうぞお気軽にご参加ください。
今回は、この本の第一章から第四章をまとめました。といいましてもとても選択的で恣意的なまとめですから、興味をもった方は必ず原著にあたってください。
David
McNeill (2005)
Gesture and Thought
University
of Chicago Press
******
CHAPTER 1
Why Gestures?
(なぜ身振りを研究するのか)
■ 身振りは思考と語りを促進する
前著 (Hand and Mind, 1992) は、いかに身振りが思考を表す
(reveal) かについてだったが、今回はいかに身振りが思考と語りを促進するか (fuel thought and speech) かについてである。身振りは、想いと言語の弁証法 (imagery-language dialectic) の構成要素 (ingredient) である。(Loc 107)
※ 私は、
"image" ということばは「想い」と訳す方が理解が進むのではないかと考えていますので、ここでも "imagery" を「想い」と訳しました。
関連記事:"Image"を敢えて「想い」と翻訳することにより何かが生まれるだろうか・・・
もちろん
"image" と "imagery" は異なる語形を有していますが、下の定義 (Merriam-Webster) などを見ると、両者は同義語として扱ってもいいのかと思い、今回は訳し分けていません。
IMAGE
5 a (1) : a mental picture or impression of something; (2) : a
mental conception held in common by members of a group and symbolic of a basic
attitude and orientation
IMAGERY
1 a : the product of image makers : images; also : the art of making
images
b : pictures produced by an imaging system
ただ、読み進めていると、どうもこの本では “image” がしばしば単数形や複数形を取り具体的形態をもつ存在として、
“imagery” が具体的形態をもつ以前の抽象的な存在として使い分けられているようです。
※ 「想いと言語の弁証法」は、後に「発話と想いの弁証法」と言い換えます。その理由などはおいおい述べます。
■ 言語と想いは分離不可能
この本の主題 (the
main theme) は、言語と想いは引き離すことができない (language is inseparable from imagery) ということで、これはダマシオ
(1994, 1999) に基づくものである。 (Loc 120)
■ 身振りは言語の一部
この本の一つのメッセージは、身振りは言語の一部 (part of language) だということだ。身振りを口頭言語 (spoken language) から切り離された記号体系 (code) や「身体言語」 ('body language') と考えることは間違っている。 (Loc 120)
■ 言語と身振りの弁証法
言語と身振りはある全体 (a
whole) の必須部分
(integral parts) であり、この複数の様態を有する単位 (multimodal unit) こそが言語そのものである。 (Loc 294)
■ 「言語」ということばの二義性
この本の査読者は、上記の弁証法で言語が部分でありながら全体であることの矛盾を指摘した。その矛盾を避けるために、用語法をもう少し正確にするなら、言語には二つの意味がある。
一つは、専門的-言語学的
(technical-linguistic) な意味で、「文法や単語などから構成される言語の静態的構造」 (those static structures of language consisting of grammar, words,
etc) であり、「言語と身振りの弁証法」はこの意味で使われている。
もう一つは伝統的で日常的な意味での言語であり、この意味においては身振りは言語の一部である。読者はこの二義性を理解してほしい。 (Loc 437)
※ とはいえ著者の主張はやはり、「言語と身振りが言語となる」という読み替えを招いてしまう。著者は、第一の専門的-言語学的な意味を、文法 (grammar) や speech (語り)と呼ぶことも適切ではないとしているが、私としてはこれを「言語形式」 (linguistic form) と呼ぶなら、「言語形式と身振りが言語となる」となり、表面的な矛盾は消え去るように思う。
この「言語形式」という用語を導入するなら、今までの議論も、「言語形式と想いは分離不可能であるが、その両者(言語形式-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは言語の一部である。言語形式-想いと身振りは言語の必須部分である」とまとめられるように思う。
あるいは逆に、第二の日常的な意味での言語を「発話」 (utterance) とするなら、これまでの議論は、「言語と想いは分離不可能であるが、その両者(言語-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは発話の一部である。言語-想いと身振りは発話の必須部分である」とまとめられるだろう。
もちろん二義的になりうる「言語」という用語を使わないようにするなら、「言語形式と想いは分離不可能であるが、その両者(言語形式-想い)は身振りと弁証法的関係で結ばれる。身振りは発話の一部である。言語形式-想いと身振りは発話の必須部分である」となる。
以上の用語の関係性を図示すると下のようになる。
図1: McNeilによる言語・ジェスチャー・想いの関係性
しかし、こうしてみると、「想いと言語(形式)の弁証法」と言っても、その両者の総合に相当する単位が見られないし、身振りと想いも切り離せないのではないか、といった疑問も湧いてくる。そこでMcNeilが述べていることからは少し逸脱するが、「想いと言語(形式)の弁証法」は削除し、弁証法は「身振りと言語(形式)の弁証法」だけにとどめたのが図2である。
図2:発話に発展する身振りと言語要素
図2についての解説をさらに述べると言語(形式)という用語は、言語(要素)に換えられている。言語(形式)と言語(要素)の違いは、前者の言語(形式)が(広義の)言語の形式性を表象する抽象的概念であるのに対して、後者の言語(要素)は語・句あるいは定型的な句・文など、話者が使用する具体的な言語のまとまりを表している概念であることである。具体的な想いは、抽象的な意味での言語(形式)にではなく、具体的な言語(要素)に結合しているものと考えると、想いと隣接するのは言語(要素)とするべきだと考えた。また、さまざまな形態をとる身振りと想いも分離不可能と考え、想いは身振りにも隣接させた。
しかし、さらに考えるなら、想いとは具体的形象性に乏しいものであり、それぞれの具体的な言語(要素)や身振り(形態)に個別に対応しているものと考えるべきではないのかもしれない。想いは話者が漠然と自覚している、あるいは自覚しつつある心模様 (mental pattern) (もしくは神経模様 (neural pattern))
―Damasioのaspect
dualismの議論を参照のこと― であるとすれば、想いはまとめて図示した方がいいかもしれない。その心模様としての想いが、言語(形式)と身振りという二つの異なる様態の手段・媒体で少しずつ形象性を得つつ相互に影響を与えながら(広義の)言語(あるいは発話)として表現されるというのが図3である。
図3:想いを共通基盤とし、発話・語りに発展する身振りと言語形式
CHAPTER 2
How Gesture Carry Meaning
(いかにして身振りは意味を担うのか)
■ 共起表現性
(co-expressiveness)
身振りと言語形式は共起表現
(co-expressive) であるが、冗長 (redundant) ではない。両者は同じ底流にある観念単位 (the same underlying idea unit)
を、独自のやり方で、あるいは独自の観点 (aspect) からから表現 (express) する。 (Loc 463)
※ この「同じ底流にある観念単位」といった表現からしても、上記の図では図3が一番よいのではないかと考えられる。
※ 上記の「言語形式」の原語は “speech” である。通常私は “speech” に「語り」という訳語を与えることが多いが、この本の著者は
“speech” にはきちんとした定義は与えていないので、ここではこの用語をこれまでの趣旨と整合性が取れるように「言語形式」と訳した。以下もこの方針を貫いている。
■ 同時性
(synchrony)
身振りと言語形式は、共起表現的であるだけでなく、同時的 (synchronous) でもある。身振りと言語形式という共起表現的な象徴 (co-expressive symbols) は、同じ瞬間に提示される。一つの底流にある観念が、身振りと言語形式において同時に (simultaneously) 提示されるのである。話している時に心 (the mind) は同じことを二つのやり方で行っている。二つの別のこと (two separate things) を行っているわけではない。(Loc 463)
※
"Synchrony"と似た用語にユングの "synchronicity" (共時性)があるが、両者は異なるものだろうから、前者の訳語は「同時性」とした。
■ 生まれつき目が見えない人も発話の際に身振りをする
生まれつき目が見えない人
(the congenitally blind) も発話の際に身振りをすることは、言語形式と身振りのつながり (bond) の証拠であるように思える。これらの人は他人の身振りを観察したことがないからである。 (Loc 523)
■ 言語形式の使用が許されない場合の身振りは、通常のように語っている時の身振りとは異なる
言語形式の使用が許されない場合になんとか意味を伝えようとする (communicating meaning) 場合の身振りは、いつもの語ることが許されている場合の身振りと異なる。このことも言語形式と身振りの強い結びつき (tight binding) を示していると思われる。
■ 観察者の視点
(OVPT) と登場人物の視点
(CVPT)
身振りを行う際の視点には二つある。一つは観察者の視点 (observer viewpoint: OVPT) もしくは三人称の視点 (the third-person point of view) であり、この場合、手は物語る行為 (narration) の中での対象物 (entities) を表象 (represent) している。 (Loc 666)
もうひとつは登場人物の視点
(character viewpoint: CVPT) もしくは一人称の視点 (the first-person point of view) であり、この場合、手は登場人物の手となり、話者は身振り空間 (the gesture space) の中に入り込み登場人物の役割を演じる。 (Loc 681)
■ 身振りの分類は弁証法的分析にはほとんど役立たない
弁証法的分析
(dialectic analysis) にとって重要なのは、身振りの分類 (gesture classification) ではなく、身振りの内容 (content) の方である。 (Loc 740)
■ たいていの身振りは複数の分類項に属している
たいていの身振りは複数の様相を有している (multifaceted) 。映像的な身振り (iconicity) は直示的身振り (deixis) と結びついていたり、直示的身振りは比喩的身振り (metaphoricity) と結びついていたりもする。 (Loc 754)
■ 身振りはカテゴリーではなく次元で考えるべき
身振りは、カテゴリー別に分類するのではなく、次元 (dimensions) で考えるべきだ。この次元的アプローチ (the dimensional approach) なら、身振りをコード分類 (gesture coding) する際に、どれか一つに入れてしまわなければならないなどと思うこともなくなる。 (Loc 754)
■ 映像-比喩-直示-拍子の四重奏
身振りの次元は、映像-比喩-直示-拍子の四重奏 (the
iconic-metaphoric-deictic-beat quartet) として考えるといいだろう。 (Loc 754)
※ しかしすぐに下にあるように、著者は次元を五つに増やしている。
■ 身振りの中の抽象性
比喩的身振りは、抽象的な想い
(images of the abstract) を提示する。 (Loc 770)
直示的身振りも、大人が行うものは多くが抽象的指示 (abstract pointing) である。これは比喩的身振りでもあり、この身振りで示される空間と場所 (locus) は、非空間的な意味 (a nonspatial meaning) を提示 (present) するために用いられている。 (Loc 784)
拍子も、話 (speech)
のリズムと共に刻まれるだけのもののように思われるが、実は話の重要なポイントを示すためにも使われている。 (Loc 799)
■ 身振りの次元:映像性、比喩性、直示性、経時的協調性、社会的相互作用性
一つの身振りの中に複数の身振りの記号論的特徴 (semiotic properties) が見られることから考えると、一つ身振りは分類のどれか一つに分けられるものではなく、多次元的なものであると考えられるべきである。
身振りの次元には、映像性
(iconicity)、比喩性 (metaphoricity)、直示性 (deixis) 、経時的強調性 (temporal highlighting)、社会的相互作用性 (social interactivity) が考えられる。 (Loc 814)
身振りはこれらの次元でそれぞれの値を取ると考える方がいいだろう。 (Loc 830)
■ 身振りの意味と機能の解釈
身振りの意味と機能は、身振りがどのような具体的形態 (the form)をとり、どのように時空間的に展開され (deployment in space and time)、話をする際のどのような文脈 (the context of speaking) で使われているのかといった要因で解釈される。どの分類 (type) に属するかということで解釈されることはない。
■ 比喩と比喩的身振りが思考と言語において果たす役割
Lakoff & Johnson (1980) が言うように、比喩は人間の概念化 (human conceptualization) を拡張する手段である。 (Loc 876)
比喩的身振りは、想いとしての形を取りにくい意味 (meanings that are not themselves imaginable) に形を与える。比喩と比喩的身振りは、抽象的内容 (abstract content) と想い (imagery) を近づけ、言語がこの種の情報を提示することができる力を高める点で非常に重要である。 (Loc 906)
■ 慣習的身振りの慣習性を示す4つの特徴
※ “Emblem”は「慣習的身振り」と訳すべきか「定型的身振り」と訳すべきか迷っています。
たとえば “OK” という親指と人差指で円を作る慣習的身振り(エンブレム)は以下の4つの点で慣習性が高いことが分かる。
(a) 必須形態 (obligatory form):もし親指と中指で円を作ってしまえば別の意味(「精確さ」(precision))を表す表現になってしまう。
(b) 恣意形態 (arbitrary form):親指とくっつけるのが人差し指でなければならない必然性はない。
(c) 文化特有性 (cultural specificity):他の文化ではこの身振りはまったく他の意味をもちうる。
(d) 形態と意味は予め組み合わされている (prespecified meaning paired with the form):形態と意味の組み合わせは固定的で形態素のような働きをする。
(Loc 936-953)
※ (a) と (d)、および (b) と (c) はそれぞれ似たことを述べていると私は理解しています。
■ すべての身振りは話し手のためであると同時に聞き手のためでもある
翻訳:「身振りとは社会的相互作用から個人の認知への架け橋である。身振りが生じるためには、(実在もしくは想像上の)社会的他者 (a social other) が存在しなければならないが、同時に身振りは個人の認知の動態的な要素
(a dynamic element) でもある。」 (Loc 1041)
■ 想い (imagery)
の定義
想い (imagery) を、写真的な実在性 (photo realism) として考えてはいけない。(Loc 1073)
私たちにとっての「想い (imagery) 」の定義は「意味を直接的に体現している形象」 (a definition of imagery is that form directly embodies meaning) である。 (Loc
1087)
■ 身振りで表現される想い
(gesture imagery) の特徴
身振りは言語(形式)と組み合わさる (mesh)。両者は、底流に流れる同じ観念単位 (the same underlying idea unit) を異なる形態 (unlike forms) で提示する媒体 (medium) である。 (Loc 1087)
身振りで表現される想い (gesture imagery) は以下の5つの特徴をもつ。(Loc 1087-1102)
(a) 全域性 (global):身振りを構成する各部分のそれぞれの意味は、身振り全体 (the whole)の意味によって決定されている。これは言語においては、全体の意味が部分の意味によって決定されるのとは対照的である。
(b) 統合性
(synthetic):一つの身振りの意味は、語りのさまざまな部分 (segment) においても保たれたままである。
※ この部分は私なりに整合的な解釈をしようとして、本書の他の箇所での主張を考慮に入れて、ずいぶん意訳というか書き換えをしています。原文は
“A single gesture’s meaning is broken down in speech and
separated in different in different segments” (Loc1087) です。
(c) 瞬時性 (instantaneous):あるジェスチャーが展開 (unfold) するのにいくらかの時間がかかるにせよ、その意味は順次に構成される (build up meaning sequentially) ものではない。身振りの意味は最初から示されている。これは言語の意味が発語の順番にしたがって構成される (the ordered accumulation) のとは対照的である。
(d) 非構成性 (noncombinatoric):二つの身振りが同時に生起 (co-occur) し、それぞれが同じことを異なる観点から描写することはあるが、これらが統辞的に結合する (combine syntagmatically) ことはない。両者は共存 (coexist) するだけであり、両者の意味はそれぞれの全域性を保ったまま統一される (united globally)。両者は全体の中でそれぞれの意味を保つ。
※ 例えば右手が登場人物、左手がその登場人物が入ろうとしている空間を表現しようとするとき、上のような二つの身振りが同時発生する。
(e) 動態性 (dynamic):身振りで表現される想いは、語る文脈によって形成される (shaped) が、この文脈は言語的な文脈 (the linguistic context) であると同時に、より大きな談話の文脈 (the larger discourse context) でもある。言語的な文脈とは共起表現的で同時的な語り (the co-expressive, synchronous speech) のことであり、談話の文脈とは話者の記憶や意図を含むものである。身振りで表現される想いは、描写される出来事 (event) の反映であると同時にこの文脈の反映でもある。 (Loc 1102)
※ この動態性とは、言語的文脈や談話の文脈の展開に伴い身振りが変化していくこと、ぐらいの意味で理解していますが、正直、今ひとつすっきりと理解しているわけではありません。
CHAPTER 3
Two Dimensions
(言語の二つの次元)
■ 言語の二つの次元
これまで言語は二つの次元で考えられてきた。以下、それぞれの次元を表す伝統について記述する。
(Loc 1164)
■ 静態性で言語を認識する伝統 (the static tradition)
この伝統においては、言語はモノであり過程ではない (as a thing, not a process)
とみなされてきた。やや俗語的だが不正確ではない言い方 (a homely but not inaccurate word) をすれば、この次元を、言語の「モノ」的性質 (the ‘thinginess’ quality of language) と呼ぶこともできる。
(Loc 1164)
■ 動態性で言語を認識する伝統 (the dynamic tradition)
この伝統においては、言語は過程でありモノではないとみなされてきた。この次元を言語の「活動性」 (the ‘activity’ of language) と呼ぶこともできるが、私としては言語内存在性 (the ‘inhabiting’ of language) と呼ぶことにしたい。(Loc 1164)
■ これら二つの認識が同時に必要
私は、どちらか一つの認識だけでは不十分であり、これら二つの認識が同時に必要だと考えている。二つを同時に取り入れてこそ想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学 (the inherent dynamics of an imagery-language dialectic) が理解できる。 (Loc
1179)
※ 「想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学」については後に述べます。
※ 以下、この章ではソシュールとヴィゴツキーの言語論がやや詳しくまとめられていますが、まとめをまとめるのもおかしな話なので、ここではその記述は割愛します。
CHAPTER 4
Imagery-Language Dialectic
(想いと言語の弁証法)
CHAPTER 4.1
Dialectic and Material Carriers
(弁証法的で物質的な具現体)
■ 成長点 (growth
points: GPs)
翻訳:身振りとそれと同時に発せられる言語形式は言語的思考の構成要素である。これらは別のものであるが結合しており、これら二つが合併してヴィゴツキーが「成長点」と呼ぶ最小の単位になる。成長点は想いと言語の弁証法の最小単位である。 (The gesture and its synchronous speech are components of verbal
thinking, separate but combined, and they merge into minimal units of a
Vygotskian kind, termed here ‘growth points’ (GPs). The growth point is the
minimal unit of an imagery-language dialectic.) (Loc 1671)
※ 第三章では、「想いと言語の弁証法が内在的に有する動力学」 (the inherent dynamics of an imagery-language dialectic) について後述すると述べていましたが、ここでこの概念について少し考えます。「想いと言語の弁証法」とはこの本における重要概念ですが、他にも「身振りと言語の弁証法」という概念もあり、正直少しわかりにくいところです。
このわかりにくさはやはり「言語」 (language) の二義性から生じていると思います。上にも述べましたように、この本での「言語」は、言語学的な意味での「言語」すなわち「言語形式」 (linguistic form) と、日常的な意味での「言語」つまり「発話」 (utterance) のどちらかの意味で使われていますので、読者は「言語」がどちらを意味しているのかをその時々で判断しなければならず混乱します。
そこで私なりに二義性の解消をはかった言い換えをするなら、本書で語られている弁証法は、「想いと発話の弁証法」と「身振りと言語形式の弁証法」になります。下の図4は、前出の図3を少し改変したものです(左の四角が大きくなったのは、単に図のバランスをとるためです)。
図4: Imagery-language dialectic
and gesture language dialectic
さらにこの図4を日本語表記したのが下の図5です。「語り」と「言語形式」の違いを際立たせたかったので、弁証法の二項の言及の順番を換えています。
図5:語りと想いの弁証法、および言語形式と身振りの弁証法
ここで私なりの説明をまとめてみます。
まず言語形式と身振りの弁証法ですが、言語形式と身振りは、想いを基盤とするという点では共通し共起的表現として同時に発生もしますが、互いに質を異にする媒体ですから、それぞれが異なる様態で相補的かつ統一的に想いを表現します。このように言語形式と身振りの両方を連動させながら使うことが言語的思考です。言語的思考を経て、言語形式と身振りが併合され統一されたならばそれが発話となります。この言語形式と身振りの弁証法の「総合」―弁証法の用語です―として、あるいは言語的思考の具現化として表現された発話は、言語形式と身振りという異種の表現媒体が一体化したものです。この発話はまた、発話と想いの弁証法の総合あるいは具現化でもあります。発話と想いも、互いに質を異にする媒体であり、二つは完全に一致することはなく、互いに影響を与えながら発展していきます。この発話は、時間の経緯と共に断片的に生み出されますが、それは語りと想いの弁証法の最小単位(「成長点」)と呼べます。この成長点を次々に産出し、いわばそれを線としてつなぐことで、私たちは思考し続け発話をし続けます。
以上の説明は、現時点での私の限られた読書量にもとづくまとめですので、ひょっとしたら後日修正を必要とするかもしれません。しかし私はとにかく自分の仮説を形にしないと前に進めませんのでここに提示しておきます。
■ 意味は身振りの内に存在する (Merleau-Ponty, 1962)
身振りは、瞬時性・全域性を有し慣習的ではないことからもわかるように、単に言語形式の外側に付随しているもの (an external accompaniment) ではない(言語形式は順次的で分析であり構成的である)。身振りは意味の「表象」 (representation) ではない。意味は身振りの内に存在しているのである (meaning “inhabits” it)。また、身振りの内に存在する意味は言語形式にも存在している(Loc 1703)
■ 言語形式と身振りのどちらかが先行しているわけではない
翻訳:言語形式と身振りの弁証法において、言語形式と身振りのどちらかが先行しているというわけではない。どちらかがより基礎的であるというわけでもない。両者は共に必要である。身振りが言語形式に入力されるわけでもないし、言語形式が身振りに入力されるのでもない。両者は共に生じるのである。 (Neither language nor gesture is primary in this dialectic, nor is
one more basic than the other. Both are necessary; gesture is not input to
speech, nor is speech input to gesture; they occur together.) (Loc 1723)
■ 物質的具現 (material
carrier)
Vygotsky (1986) の用語である「物質的具現体」 (material carrier) とは、具体的な行為や物質的な経験において意味を身体化すること (the embodiment of meaning in a concrete enactment or material
experience) である。物質的具現体によって何かを象徴化する際の表象能力が高まるように思える。 (A material carrier appears to enhance the symbolization’s
representational power.) この考えからするなら、身振りの現実の動き自体 (actual motion of the gesture
itself) が意味の一つの次元であることになる。身振りとは想いの「表現」 (expression) や「表象」 (representation) ではなく、身振りこそが想いそのもの (is the very image) であるとなる。この観点からするなら、身振りとは、思いがもっとも物質的に自然に身体化された形態 (the most developed -- that is, most materially, naturally embodied
-- form) であることになる。 (Loc 1803)
※ 大変恥ずかしながら私はヴィゴツキーをきちんと読んでいないので、この「物質的具現」といった訳語が適切なのかどうかわかりません。自らの不勉強を改めて恥じます。
■ 身振りや単語は、思考の表現というよりは、思考の一形態としての思考そのものである
ハイデガー的な考え方からすれば、身振りは表象ではない、もしくは表象だけにとどまるものではない (a gesture is not a representation, or is not only such)。身振りは存在の一つの形態である。 (it is a form of being) 身振り(および単語など)は、それ自身が思考が取りうる形態の一つの形態をとった思考である。 (themselves thinking in one of its many forms) これらは単に思考の表現というのではなくて、思考そのもの、つまり認知的存在そのものである。 (not only expressions of thought, but thought, i.e., cognitive being, itself) (Loc 1819)
CHAPTER
4.2
The
Growth Point
(成長点)
■ 成長点の定義
成長点とは言語カテゴリー的構成要素と想いに関する構成要素 (linguistic categorial and imagistic components) の両方を有すまとまり
(package) であり、これらの構成要素をどちかか一方に還元してしまうことはできない。成長点は、ヴィゴツキーが言う意味での最小単位であり、全体であるという特性を保つ (retains the property of being a whole) 最小のまとまりである。想いと語りの全体を、私たちは言語形式と身振りが共起表現的、同時的、かつ一体的に発生することのうちに見出す (we see in synchronized combination of co-expressive speech and
gestures)。
成長点という概念は、コミュニケーション上の出来事 (communicative events) の全体性 (totality) 、特に言語形式と身振りが同時に共起表現として生じること (speech-gesture synchrony and co-expressivity) から推測できる。記号論的に述べるなら、成長点は、想いと形態という正反対のものの結合であり、思考と発話を促進させる良性の不安定さ (benign instability that fuels thought and speech) を作り出す。この結合を成長点と呼ぶのは、これが話すための(あるいは話す最中の)思考のための最初の形態 (the initial form of thinking) であり、そこから思考が組織化される動的な過程が創発するからである。 (a dynamic process of organization emerges) (Loc 1959)
■ 「意味」の意味
翻訳:意味においては二つのものが連携して扱われる。一つは差異化された焦点であり、もう一つは、焦点を差異化する対立物からなる領域である。この意味の概念を、焦点と背景の関係性以外に還元することはできない。焦点も背景もこの関係性を成立させるために構築されたものである。この意味概念は、意味は「連想」であるとか「強化された習慣」であるとか心の中のある場所にある「内容」であるといった意味の古典的見解とは大きく異なる。
(The meaning is two things taken jointly, including both the
point differentiated and the field of oppositions from which it is
differentiated. This concept of meaning is irreducibly a relationship of a
point to a background, both of which are constructed in order to make the
relationship possible, contrasts with the classic view of meaning as
‘association’ or ‘habit strength’ or ‘content’ at a mental address. (Loc
1989-2005)
※ この意味観は、ソシュールの意味観(特に差異の強調)的側面を強調したルーマンの意味観とも記述できるように思える。
CHAPTER
4.3
Extensions
of GP
(成長点の展開)
■ 身振りと言語形式の非同時性 (asynchronies)
ある調査によると発話の10%を超えないぐらいの割合で、身振りと言語形式が同期しないことがある。 (Loc 2437)
■ Kita (2000) のIPH (Information Packaging Theory)
Kita (2000) のIPH (Information Packaging Theory) は、文脈上のミスマッチ (a contextual mismatch) や記憶漏れ (memory lapse) やその他の破綻
(breakdown) において、身振りと言語形式の非同時性が観察される問題に取り組んでいるが、これは成長点理論が取り組んでいない問題である。
IPHでは、言語形式と身振りは独立した認知的流れ (independent cognitive streams) として考えられている。これらは同時に流れているがやがて絡み合う。 (running simultaneously and interweaving in time)
言語形式が出てこない (a
speech blockage) 時でも、身振りの流れは止まらない。やがて身振りは言語化 (linguistic encoding) が可能な情報にふさわしい形に変化する。つまり、ことばが出てこない時にも身振りは続くが、その身振りに助けられているうちにことばが見つかるわけである。 (The theory thus specifically applied to situations where speech
aborts, gesture continues, and then speech resumes, utilizing a new
gesture-induced information package.) (Loc 2437)
※ 「ことばが出てこない」というのは、外国語使用でしばしば生じることである。その際の身振りはどうなっているのだろうかについて、もっと調べたい。
CHAPTER
4.4
Social-Interactive
Context
(社会的・相互作用的文脈)
■ 身振りの共有とは連携的存在であり、それには真似と借用がある
ハイデガー的考え方をするなら、コミュニケーションとは認知的存在の同じ状態に連携的に存在することである。 (communication is joint inhabitance of the same state of cognitive
being). ある人が他人の身振りや言語形式―存在の物質的具現体―を取り入れたなら、その人は他人の言語的思考のある側面に存在し始めたのである。 (If one person assimilates another person’s gesture or speech, the
material carriers of being, this inhabits some aspect of this other person’s
verbal thinking). この連携的存在 (joint inhabitance) には真似と借用がある。(Loc 3009)
※ “Joint” の訳し方についてはよく困ります。ここでは「連携的」としておきました。以下の記事では複数の存在の間での相補性を強調した訳し方をしています。
オープンダイアローグの詩学
(THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
■ 真似 (mimicry)
真似とは人格的存在の間での同時性 (interpersonal synchrony) の過程 (a process) である。一人が話しながら行う身振りを、聞き手も同じように行うことである。(Irene Kimbara, 2002) (Loc 3009)
■ 借用 (appropriation)
ある人が特に身振りなしに言語形式を語る際に、他の人(聞き手)がその言語形式の共起的表現である身振りをその言語形式と同時に行う。(Nobuhiro Furuyama, 2000)。このようにして他人の言語形式に身振りを共起させた人は、身振りによって他人の言語形式を借用 (appropriate) したといえる。その人は身振りを使って他人の言語形式の内に存在しており、まるで他人と連携的にに一つの成長点を作っているかのようである。 (inhabited the speech of another, with the help of the gesture, as
if they were jointly creating a single GP). (Loc 3025)
借用には、他人の身振りに合わせて自分が言語形式を発することもある。 (Loc 3045)