2013年10月28日月曜日

Aims in Education (Chapter 8 of Democracy and Education)




[この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからします
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)









なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。


■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。











第8章:教育における ねらい
(Chapter Eight: Aims in Education)





1. ねらいの性質 (The Nature of an Aim)

■ 教育のねらいとは、個々人が生涯にわたって教育を続けることであるが、そういった教育は、民主主義的な社会でのみ達成できる。

The account of education given in our earlier chapters virtually anticipated the results reached in a discussion of the purport of education in a democratic community. For it assumed that the aim of education is to enable individuals to continue their education -- or that the object and reward of learning is continued capacity for growth. Now this idea cannot be applied to all the members of a society except where intercourse of man with man is mutual, and except where there is adequate provision for the reconstruction of social habits and institutions by means of wide stimulation arising from equitably distributed interests. And this means a democratic society. (p. 96)

⇒民主主義的社会の特徴として、ここでデューイは、人々の関係が一方的でなく相互的であることと、社会的な習慣や制度を再構成する方法が備えられていることを挙げている。



■ この章では、教育のねらいが内から生じる場合と、外から押し付けられる場合について比較検討する。

We are rather concerned with the contrast which exists when aims belong within the process in which they operate and when they are set up from without. And the latter state of affairs must obtain when social relationships are not equitably balanced. For in that case, some portions of the whole social group will find their aims determined by an external dictation; their aims will not arise from the free growth of their own experience, and their nominal aims will be means to more ulterior ends of others rather than truly their own. (p. 96)

⇒教育を、生命 (life) の内発的な成長から考えるデューイは、この章で、近年ますます横行している教育のねらいを、外から押し付けることについて徹底的に批判している。デューイに即して、現代の教育について批判的に考えたい ―もちろん、自ら下す批判に対しても批判的に考えたい。



■ 単なる「結果」 (result) と「到達点」 (end) は異なる。「結果」とは、単なる状態であり、そこでは前後のつながりの重要性が考えられていない。

Our first question is to define the nature of an aim so far as it falls within an activity, instead of being furnished from without. We approach the definition by a contrast of mere results with ends. Any exhibition of energy has results. The wind blows about the sands of the desert; the position of the grains is changed. Here is a result, an effect, but not an end. For there is nothing in the outcome which completes or fulfills what went before it. There is mere spatial redistribution. One state of affairs is just as good as any other. Consequently there is no basis upon which to select an earlier state of affairs as a beginning, a later as an end, and to consider what intervenes as a process of transformation and realization. (pp. 96-97)

⇒ "End"をここでは「到達点」と訳したが、「目標点」という訳語も考えられる。だが、いずれにせよ、"end"はまさにendであり、終結的・限定的な概念であると解釈している。ちなみに日本語では「目的」と「目標」がしばしば同義語として扱われるが、「数値目標」とは言っても「数値目的」とは言わないから、「目標」ということばの方が終結的・限定的な概念をもつと考えられる。



■ 子どもの行いが、教師や授業計画によって外から定められている時には、教育のねらいについて語ることはできない。他方、子どもが勝手気ままに前後見境なく行動している時にも教育のねらいについて語ることはできない。ねらいとは、順序と秩序のある活動がある時に語ることができるものである。

To talk about an educational aim when approximately each act of a pupil is dictated by the teacher, when the only order in the sequence of his acts is that which comes from the assignment of lessons and the giving of directions by another, is to talk nonsense. It is equally fatal to an aim to permit capricious or discontinuous action in the name of spontaneous self-expression. An aim implies an orderly and ordered activity, one in which the order consists in the progressive completing of a process. Given an activity having a time span and cumulative growth within the time succession, an aim means foresight in advance of the end or possible termination. (p. 97)

⇒ ここでの「ねらい」 (aim) は、第3章での「指導」 (direction) と関連した概念であるように思える。

「指導は、行為が真なる意味での反応となるようにするため、行為を集中させ定めることである。このために、無駄で混乱のもとになる動きを取り除かねばならない。」
Direction involves a focusing and fixating of action in order that it may be truly a response, and this requires an elimination of unnecessary and confusing movements. (p. 24)

■ 結果の見通し (foresight) がない時に教育のねらいについて語ることはできない。ねらい (aim) は、教育の活動に到達点 (end) と指導 (direction) を与える。

Hence it is nonsense to talk about the aim of education --or any other undertaking-- where conditions do not permit of foresight of results, and do not stimulate a person to look ahead to see what the outcome of a given activity is to be. In the next place the aim as a foreseen end gives direction to the activity; it is not an idle view of a mere spectator, but influences the steps taken to reach the end. (p. 98)

⇒「ねらい」-「見通し」-「指導」-「到達点」というつながりが見える。



■ ねらいをもつということは、知性をもって行動するということ

⇒デューイによる"mind"の定義が出ている箇所なので全訳。

結論をまとめると、ねらいをもって行うということは、知的に (intelligently) 行うということである。行いの終点 (terminus) を見通すということは、観察すること、選択すること、対象と私たちの対応力 (capacities) を秩序づけることの基盤をもつということである。これらのことを行うことは、知性 (mind) をもつということである。知性とは、まさに、事実と事実の関係性を知覚することによって制御される意図的で目的志向的 (intentional purposeful) な活動だからである。何かをしようという知性をもつということは、未来の可能性を見通すことである。達成しようとすることへの計画をもつことである。計画実行を可能にする手段と計画の障害になるものに気づくことである。もしくはこう言えるだろう。漠然としたやる気 (aspiration) ではない、本当の知性とは、何が助けとなり何が困難となるかを考慮する計画をもつということである。

The net conclusion is that acting with an aim is all one with acting intelligently. To foresee a terminus of an act is to have a basis upon which to observe, to select, and to order objects and our own capacities. To do these things means to have a mind -- for mind is precisely intentional purposeful activity controlled by perception of facts and their relationships to one another. To have a mind to do a thing is to foresee a future possibility; it is to have a plan for its accomplishment; it is to note the means which make the plan capable of execution and the obstructions in the way,-- or, if it is really a mind to do the thing and not a vague aspiration -- it is to have a plan which takes account of resources and difficulties. (p. 99)

⇒"Mind"の訳は、1980年代には「精神」と「心」で揺れていたが、今ではすっかり「心」に落ち着いたようにみえる。しかし、英語の"mind"と日本語の「こころ」の語感はやはり異なり、前者は主知的、後者は情緒的であるように思える。ここの"mind"はことさらに主知的な意味で使われているので、「心」ではなく「知性」と訳した(「マインド」というカタカナ表記は使うべきでないと個人的には考えている)。



■ 知性は、ねらいや目的と関連している。

⇒ここも「知性」の定義なので全訳。

知性とは、現在の状況を未来の結果につなげ、未来の帰結を現在の状況につなげる対応力である。これらの特性こそが、ねらい (aim) や目的 (purpose)をもつことの意味である。

Mind is capacity to refer present conditions to future results, and future consequences to present conditions. And these traits are just what is meant by having an aim or a purpose. (p. 99)

⇒"Purpose" は「目的」と訳したが、"aim" (「ねらい」と併記されている語であり、「目的」と「ねらい」のどちらも、「到達点」や「目標」ほど限定的ではない。

「目的」と「目標」については、弓道では射手は「的」を「ねらう」が、その際には中心の黒丸という「標(しるし)」を具体的な「到達点」と定めて矢を射る、と考えればいいのかもしれない。

ちなみに、"mind"は可算名詞として使われる時と、不可算名詞で使われる時があるのに注意。



■ 感情 (feelings)で、次に何が起こるかを予期することは知性の欠如である。知的 (intelligent) であるとは、計画をたてるために「立ち止まり、よく見て、よく聞く」ことである。

A man is stupid or blind or unintelligent -- lacking in mind-- just in the degree in which in any activity he does not know what he is about, namely, the probable consequences of his acts. A man is imperfectly intelligent when he contents himself with looser guesses about the outcome than is needful, just taking a chance with his luck, or when he forms plans apart from study of the actual conditions, including his own capacities. Such relative absence of mind means to make our feelings the measure of what is to happen. To be intelligent we must "stop, look, listen" in making the plan of an activity. (p. 99)

⇒ここの知性・知的であることの定義には、正直、違和感を覚える。私はやはり「知る者は言わず、言う者は知らず」(老子)といった文化圏に育ち、武術といった文化に(まったくのオタク・素人ながら)接しているので、デューイのこの「知性・知的であること」についての断定には少しついていけない。感情 (feeling) や情動 (emotion) に従うことこそが深い意味での「知」であるとも考えているからである。

と、ここで私は武術オタクなので、定番のブルース・リー先生wの有名な "Don't think. Feel."の動画を貼り付けるのであった(笑)。





さらに悪乗り脱線・オタク的コジツケ解釈をすると、ブルース・リーは、単なる演武ではなく、実際に人を倒すことができる武術をするためには、"emotional content" (情動の中身)が必要と言っている。ここで彼は頭を指してこのことばを言っているが、台詞が"emotions" (情動)なら、全身を漠然と示すような手を胸の前にかざすような演技も可能だっただろう。ともあれ"emotional content" (情動の中身)とは、身体の隅々で生じているemotions(情動)が反映された脳の状態を指していると考えられる。

だがその"emotional content" とは"anger"といった、明確に対象や理由や主観などを有する概念的な情動ではなく、もっと漠然とした全身で感じるものである。

実際、彼はうまくやり終えた弟子に向かって"That's it. How did it feel to you?"と言っており、"How did you feel?"とは言っていない。あくまでも"emotional content"が動因であり、人称代名詞で表される主観 (subject) が動因ではない。

さらに、その問いかけに"Let me think."と応じた弟子をすぐさま叩き、"Don't think. Feel."と叱責するブルース・リーにとって、実際の敵を倒す武術の知とは、分析的な計画をもつことでもなく、「立ち止まり、よく見て、よく聞く」ことでもない。

もちろん西洋的な考え方なら、武術の技を単純な訓練で培われる「生理的な反応」としてとらえ、知性・知的であることではないとするかもしれないが、知性を現実世界への対応と定義づけるなら、知的であることが常に、「立ち止まり分析的・意図的な計画を立てること」ではないと言えるだろう。

ブルース・リーは動画でさらに、"Think"を月に向けた指にたとえ、"It is like a fingure pointing away to the moon. Don't concentrate on the finger, or you'll miss all that heavenly glory."とも言っている。「考えること」に囚われてしまうと、大いなる知性は発揮できない、という意味とも解釈できる。

ちなみに、ブルース・リーは単なるアクション俳優ではなく、幼少期から詠春拳を葉問(イップ・マン)から学び、ワシントン大学では哲学を専攻していた。

ちなみに、この解説を偉そうにしている人間は、複数の武道・武術を学ぶもどれ一つとしてものにならず、哲学の正式な教育も受けたことがないのに、哲学的に聞こえる戯言を好んで語るオタクに過ぎない(爆)。将来、この解説も、この人間の暗黒史を構成する格好のエピソードとなるであろうwww



■ 意識は意図的・観察的・計画的、というデューイの定義

⇒デューイが「意識」について定義しているところなので、全訳。

意識的である (to be conscious) ということは、私たちが関わっていること (what we are about) を自覚している (to be aware)ことである。意識とは、活動の意図的・観察的・計画的特性を意味する。意識 (consciousness)とは、周りの様子 (scene) をぼんやりと見つめていることではないし、物理的対象によって生じた印象をただもっていることでもない。意識とは、活動の目的的な性質を示す名称であり、活動がねらいによって指導されている事実を示す名称である。

To be conscious is to be aware of what we are about; conscious signifies the deliberate, observant, planning traits of activity. Consciousness is nothing which we have which gazes idly on the scene around one or which has impressions made upon it by physical things; it is a name for the purposeful quality of an activity, for the fact that it is directed by an aim. (p. 99)

⇒ここの「意識」の定義についても、私は違和感を覚える。というのも私は神経科学のダマシオやエーデルマンの意識論に依拠しており、そこでの"core consciousness"や"primary consciousness"は、上記のような特性を持っていないからだ。デューイは、ダマシオやエーデルマンなら"extended consciousness"や"higher-order consciousness"と表現する意識の側面のみをもっぱら「意識」と考えていたと思われる。

関連記事
Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"
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"wider than the sky" by Gerald Edelman
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2. よいねらいの基準 (The Criteria of Good Aims)

■ 基準 (1) 既存の条件に基づいたものでなくてはならない。

(1) The aim set up must be an outgrowth of existing conditions. It must be based upon a consideration of what is already going on; upon the resources and difficulties of the situation. (p. 100)

⇒ねらいは、学習者のこれまでに基づいたものでなくてはならない。



■ しかし、多くの教育理論はしばしば基準(1)に反している。

Theories about the proper end of our activities -- educational and moral theories -- often violate this principle. They assume ends lying outside our activities; ends foreign to the concrete makeup of the situation; ends which issue from some outside source. Then the problem is to bring our activities to bear upon the realization of these externally supplied ends. They are something for which we ought to act. In any case such "aims" limit intelligence; they are not the expression of mind in foresight, observation, and choice of the better among alternative possibilities. They limit intelligence because, given ready-made, they must be imposed by some authority external to intelligence, leaving to the latter nothing but a mechanical choice of means. (p. 100)

⇒学習者の外側から、学習者のこれまでとは無関係に課されるねらいは、学習者の知性の発揮の妨げになる。しかし、昨今の教育目標は、このような悪いねらいが多いのではないか。



■ 基準 (2):ねらいはとりあえずのものであり、状況に合わせて柔軟に変更されなければならない。

(2) We have spoken as if aims could be completely formed prior to the attempt to realize them. This impression must now be qualified. The aim as it first emerges is a mere tentative sketch. The act of striving to realize it tests its worth. If it suffices to direct activity successfully, nothing more is required, since its whole function is to set a mark in advance; and at times a mere hint may suffice. But usually -- at least in complicated situations -- acting upon it brings to light conditions which had been overlooked. This calls for revision of the original aim; it has to be added to and subtracted from. An aim must, then, be flexible; it must be capable of alteration to meet circumstances. (p. 100)

⇒しかしながら、昨今の風潮は、教育上のねらいをできるだけ標準化・制度化し、可能ならば全国同じものとしようとしていないか?もちろん、ねらいが非常に抽象的な「理念」のレベルでのものならば、そのような統一化にも長所はあるだろうが、ねらいが、学習者に具体的な活動を全国一斉に統一的にさせようとするものなら、それは個々の学校・学級・学習者の状況の差異をないものとし、本来はその差異に対応すべき教員の力量の発揮を抑圧するものと言えないだろうか。



■ 外から押し付けられるねらいの頑なさ

⇒現代の「教育目標設定」の風潮に対する批判として重要だと思うので全訳。

行為の過程の外側から設定された到達点は、常に頑ななものである。外部から挿入されるか押し付けられた到達点は、状況の具体的な条件とうまく関係づけられることがない。学習者が行為する中で起こることが、到達点を肯定も否定も変更もしない。そのような到達点は、強いられるのみである。状況に適応することなくねらいが達成されなくとも、理由は状況がおかしいからとされ、到達点が状況にそぐわないことは決して理由とされない。

An end established externally to the process of action is always rigid. Being inserted or imposed from without, it is not supposed to have a working relationship to the concrete conditions of the situation. What happens in the course of action neither confirms, refutes, nor alters it. Such an end can only be insisted upon. The failure that results from its lack of adaptation is attributed simply to the perverseness of conditions, not to the fact that the end is not reasonable under the circumstances. (p. 100)

⇒外から押し付けられるねらいは、不変・不動のものさしと考えられていると言えよう。



■ よいねらいとは、試行的で柔軟なもの

⇒ここも全訳

よいねらいは、生徒の経験の状態を踏まえ、処遇計画を試行的に定めるものの、計画の是非を常に考え、状況が変わると計画を修正する。つまり、よいねらいとは、実験的なものであり、それゆえに行為の中で試されるにつれ常に成長していくものである。

A good aim surveys the present state of experience of pupils, and forming a tentative plan of treatment, keeps the plan constantly in view and yet modifies it as conditions develop. The aim, in short, is experimental, and hence constantly growing as it is tested in action. (p. 101)

⇒しかし、現代では「中期目標」なるものなど定められたが最後、状況がどう変わっても、目標が金科玉条のように扱われ、とにかく数値目標を達成することが求められることが多いのではないか。



■ 基準 (3):ねらいは活動を自由にする

(3) The aim must always represent a freeing of activities. The term end in view is suggestive, for it puts before the mind the termination or conclusion of some process. The only way in which we can define an activity is by putting before ourselves the objects in which it terminates --as one's aim in shooting is the target. But we must remember that the object is only a mark or sign by which the mind specifies the activity one desires to carry out.

⇒But以下を全訳:しかし、対象とは、知性が自ら遂行したい活動を具体的に定めるために使う指標もしくは記号に過ぎないことを私達は覚えておかなければならない。

■ 兎狩りにおいても、到達点は兎そのものではなく、兎を撃つことである。もちろん、私達はねらいを定めるのに兎を対象にするが、銃の照準具も対象にする。これらの異なる対象を使って、私達は自ら行う活動を指導 (direct) する。

Strictly speaking, not the target but hitting the target is the end in view; one takes aim by means of the target, but also by the sight on the gun. The different objects which are thought of are means of directing the activity. Thus one aims at, say, a rabbit; what he wants is to shoot straight: a certain kind of activity. Or, if it is the rabbit he wants, it is not rabbit apart from his activity, but as a factor in activity; he wants to eat the rabbit, or to show it as evidence of his marksmanship -- he wants to do something with it. (p. 101) ⇒ねらいとしているのは、兎そのものではなく、兎狩りという活動である。



■ 対象そのものが到達点ではない。対象は、活動をうまく続けるために使われるだけである。

⇒全訳

到達点とは、対象を使って何かを成すことであり、物事の諸関連から切り離された対象そのものではない。対象とは、活動をうまく続けるための能動的な到達点の一つの段階にすぎない。これが上に述べた「活動を自由にする」の意味である。

The doing with the thing, not the thing in isolation, is his end. The object is but a phase of the active end,-- continuing the activity successfully. This is what is meant by the phrase, used above, "freeing activity." (p. 101)

⇒例えば、これまで英語を勉強しても思うように英語が身につかなかった学習者が「英語が少しでも使えるようになる」というねらい (aim) を定めたとしよう。その際に、学習者は、これまで興味をもちながらも、漠然としか見ていなかったTED動画を100本見ることをとりあえずの到達点 (end) の一つとして設定するかもしれない。その到達点に到達するために学習者は、お薦めTED動画集サイトを英語の勉強の対象 (object)として定めるかもしれない。

だが、お薦めTED動画集サイトという対象が、学習者にとっての到達点であるわけではない(サイトを隅々まで読んだことで、学習者は到達点に到達するわけではない)。また、TED動画100本視聴という一つの到達点が、学習者のねらいではない。TED動画を100本見ることは、学習者のねらいを達成するための一つの目安に過ぎない。ねらいは「英語が少しでも使えるようになる」こと、つまり英語使用を学び続け英語使用を向上させつづけることであろう。



■ 活動が続くための過程としての到達点と対照的なのは、活動の外から押し付けられた不動の到達点である。こういった到達点は固定的で、獲得し所有されるべきものとなる。

In contrast with fulfilling some process in order that activity may go on, stands the static character of an end which is imposed from without the activity. It is always conceived of as fixed; it is something to be attained and possessed. (p. 101)

⇒上の例を続けるなら、TED動画100本視聴というのは、本人がこれまでの学習歴などを考慮して自ら定めた到達点であるが(もちろん、学習者をよく知る指導者がこの到達点を提示し、学習者がこれに同意したと考えてもよい)、それとは異なりまったく外発的に大学がTOEFLiBT100点を卒業のための到達点として定めたとしよう。このように外側から押し付けられた到達点は、固定的で、学習者は何が何でもこの得点を取らなければならないとなる。だが、この到達点に到達した時に、一部の学習者は燃え尽きたようになり、英語を使うこと、英語を使うために学び続けること、に意欲を失うかもしれない。いやそれ以前に多くの学習者は到達点に到達するための対象として選ばれたTOEFL対策問題集に執着し振り回され、英語使用・英語学習の意欲を失ってしまうかもしれない。

もちろん現実世界では、外から強制されたことを渋々やっているうちに、その面白さを徐々に内的に感じるようになるということもありえるだろうが、原理的に考えるなら、ねらい-到達点-対象は内発的に定められるべきというのがデューイの考え。



■ 到達点が外から押し付けられる固定的なものとされると、活動が、活動以外の何か(=外から押し付けられた到達点)のために必要なものに過ぎないとされ、活動自身の意義や重要性が失われる。活動は到達点に達成するための必要悪となり、到達点や到達点に至る対象の方がそれで価値あるものとなってしまう。

When one has such a notion, activity is a mere unavoidable means to something else; it is not significant or important on its own account. As compared with the end it is but a necessary evil; something which must be gone through before one can reach the object which is alone worth while. (p. 101)

⇒上の例を続けると、TOEFLiBT100点という到達点やTOEFL対策問題集という対象ばかりが強調され、活動(=英語使用のための学び)が、もっぱら到達点や対象のためにしなければならないものとなり、活動そのものの喜びや価値が著しく矮小化され、仕方なしにやらなければならないことと成り下がってしまう。



■ 手段はとりあえずの到達点であり、到達点はさらなる成長のための手段である。

⇒全訳

言い換えるなら、ねらいを外から押し付けられるものと考えると、到達点とそこへ行くための手段を別々に分けて考えるようになってしまう。だが、自らを指導するために計画として活動の中で成長する到達点は、常に到達点であると同時に手段でもある。到達点と手段という区別は便宜上のものにすぎない。どんな手段も、達成されるまではとりあえずの到達点となる。どんな到達点も到達されるとすぐに活動をさらに進めるための手段となる。到達点と呼ぶのは、今従事している活動の将来への指導を示す時であり、手段と呼ぶのは現在のための指導を示す時である。到達点を手段と分けてしまうと、それだけ活動の意義が失われ、活動をできるならば避けたい苦役に貶めてしまう。

In other words, the external idea of the aim leads to a separation of means from end, while an end which grows up within an activity as plan for its direction is always both ends and means, the distinction being only one of convenience. Every means is a temporary end until we have attained it. Every end becomes a means of carrying activity further as soon as it is achieved. We call it end when it marks off the future direction of the activity in which we are engaged; means when it marks off the present direction. Every divorce of end from means diminishes by that much the significance of the activity and tends to reduce it to a drudgery from which one would escape if he could. (pp. 101-102)

⇒"Direction"ということばを、ここでは強引に「指導」と訳し続けている。







3. 教育への応用 (Applications in Education)

■ 農夫の仕事は、見通しをもって、さまざまな条件を活用すること。

There is nothing peculiar about educational aims. They are just like aims in any directed occupation. The educator, like the farmer, has certain things to do, certain resources with which to do, and certain obstacles with which to contend. The conditions with which the farmer deals, whether as obstacles or resources, have their own structure and operation independently of any purpose of his. Seeds sprout, rain falls, the sun shines, insects devour, blight comes, the seasons change. His aim is simply to utilize these various conditions; to make his activities and their energies work together, instead of against one another. It would be absurd if the farmer set up a purpose of farming, without any reference to these conditions of soil, climate, characteristic of plant growth, etc. His purpose is simply a foresight of the consequences of his energies connected with those of the things about him, a foresight used to direct his movements from day to day. Foresight of possible consequences leads to more careful and extensive observation of the nature and performances of the things he had to do with, and to laying out a plan -- that is, of a certain order in the acts to be performed. (p. 102)

⇒ねらいを考える上で、教育は他の仕事と特に変わることはないとデューイは述べている。私は教師は、教育関係者の言説ばかりに接するよりも、広く一般常識をつけておく方がはるかに大切だと思っている。「常識」という柔軟で計量化し難い知を軽く考えるべきではない。



■ 状況観察に基づく修正をしないねらいは有害無益

⇒現代日本では非常に貴重な意見だと思うので全訳。

親であれ教師であれ、[農夫と]同じことが教育者にもあてはまる。農夫が条件におかまいなしに農業の理想を掲げることが馬鹿げているのと同じように、教師が自分「独自」のねらいを子どもの成長の適切な対象として掲げるのは馬鹿げている。ねらいを掲げることは、農業であれ教育であれ、その昨日を実行する際に必要となる観察・予期・整理を行う責任を受け入れることを意味している。いかなるねらいも、それが活動を時々刻々と実行する際の観察・選択・計画を助ける限りにおいて価値をもつ。もしねらいが個人の常識にさからうものならば(外から押し付けられたり権威に基いて受け入れられたものだったりしたら、きっとそうなるものだが)、ねらいは害となる。

It is the same with the educator, whether parent or teacher. It is as absurd for the latter to set up his "own" aims as the proper objects of the growth of the children as it would be for the farmer to set up an ideal of farming irrespective of conditions. Aims mean acceptance of responsibility for the observations, anticipations, and arrangements required in carrying on a function -- whether farming or educating. Any aim is of value so far as it assists observation, choice, and planning in carrying on activity from moment to moment and hour to hour; if it gets in the way of the individual's own common sense (as it will surely do if imposed from without or accepted on authority) it does harm. (pp. 102-103)

⇒目の前の植物や土壌の観察をせずに、農協からもらったマニュアルばかり見ている農夫は愚かだろうが、そのような教師はいないだろうか?また、ここでも「常識」の大切さが訴えられている。



■ ⇒ここも大切なので全訳。

教育そのものにはねらいがないことを思い出しておくべきだろう。人間、親、教師などだけがねらいをもつのであって、教育といった抽象的観念がねらいをもつわけではない。したがって人間がもつ目的の多様性は限りないものであり、子どもによっても異なるし、子どもの成長によっても、教える物の経験の成長によっても異なる。言語で表現されるもっとも妥当なねらいでさえ、言語である以上、その言語表現そのものは、ねらいではなく、教育者にどのように観察し、見通し、自分がいる具体的状況の力を解放し指導するための示唆 (suggestions)であるということを認識しないなら、有害無益となる。

And it is well to remind ourselves that education as such has no aims. Only persons, parents, and teachers, etc., have aims, not an abstract idea like education. And consequently their purposes are indefinitely varied, differing with different children, changing as children grow and with the growth of experience on the part of the one who teaches. Even the most valid aims which can be put in words will, as words, do more harm than good unless one recognizes that they are not aims, but rather suggestions to educators as to how to observe, how to look ahead, and how to choose in liberating and directing the energies of the concrete situations in which they find themselves. (p. 103)

⇒しかし、現在日本では教育のねらいや目的の言語表現が一人歩きをして、その無批判的で機械的な適用が権力的・高圧的に強制されていないか。

ちなみにそのような適用を強要する人はまったく頭が悪いわけではない(そういった人は条文などをしばしば暗記している)。だが、そういった人は、自分の頭で考えることができない。自分のことばで語ることができないし、自分の責任で行動することもできない。そんな人が権力の座に居座る時に起こりうる災厄については十分考えたい。私達はお互いに考え語り行動する自由を行使し、その自由の結果を受け入れ合えるようにするという民主主義の文化を大切にしないと、なんだかひどいことが起こりそうで私は怖い。

古くはハンナ・アレントの古典的な作品を読んで欲しいし、近くは原子力ムラの「偉い人」たちについて考えてほしい。






追記 (2013/10/29)

映画『ハンナ・アレント』が日本でも公開されたらしく、それに関する記事が本日の毎日新聞に掲載されました(火論:ただ命令があれば=玉木研二)。この映画、早くDVDにならないかなぁ・・・

「私は命令に従ったまでです」「それが命令でした」「すべて命令次第です」「事務的に処理したのです」「私は一端を担ったにすぎません」「さまざまな部署が担当しました」……。
(中略)
思考の力を失い、機械的に命令や職務権限を果たしていく凡庸な軍人、官僚。それがホロコースト(大虐殺)を遂行可能にする動力ともなる。彼にとって犠牲者数は統計上の数字にすぎない。

http://mainichi.jp/opinion/news/20131029ddm003070090000c.html











■ よい教育上のねらいの特徴 (1)

全訳:よい教育所のねらいは、教育を受けるそれぞれの子どもの(生来の本能や生後獲得した習慣を含む)内在的な活動と必要にもとづいていなければならない。

(1) An educational aim must be founded upon the intrinsic activities and needs (including original instincts and acquired habits) of the given individual to be educated. (p. 103)

⇒ここでも生命の固有性にもとづく内発性が強調されている。



■ よい教育上のねらいの特徴 (2)

全訳:ねらいは、教示を受ける子どもの活動といかに協力関係を結べるかという方法に翻訳できなければならない。ねらいは、子どもの対応力を解放し結びつける (organize) ために必要な種類の環境を示さなければならない。

(2) An aim must be capable of translation into a method of cooperating with the activities of those undergoing instruction. It must suggest the kind of environment needed to liberate and to organize their capacities. (p. 104)

⇒ここでも環境が強調されている。

■ 外からねらいを押し付けると、教師と子どもの知性が抑圧される。

The vice of externally imposed ends has deep roots. Teachers receive them from superior authorities; these authorities accept them from what is current in the community. The teachers impose them upon children. As a first consequence, the intelligence of the teacher is not free; it is confined to receiving the aims laid down from above. Too rarely is the individual teacher so free from the dictation of authoritative supervisor, textbook on methods, prescribed course of study, etc., that he can let his mind come to close quarters with the pupil's mind and the subject matter. This distrust of the teacher's experience is then reflected in lack of confidence in the responses of pupils. The latter receive their aims through a double or treble external imposition, and are constantly confused by the conflict between the aims which are natural to their own experience at the time and those in which they are taught to acquiesce. (pp. 104-105)

⇒何度も繰り返して、恐縮だが、現代日本の教育は、このように教育の営みの外から数値目標や教条化した教育目的を押し付けることにより、教師が知性を発揮しにくい状況を作り出し、そのことにより子どもも知性を発揮できないようになっていないか。



■ 一人ひとりの「生きること」を認め合う民主主義の文化が教育には必要

全訳:一人ひとりの成長する経験の内在的な意義を認める民主的な基準が認められない限り、私達は、外圧的なねらいにどう適合するかということに知的に混乱するだろう。

Until the democratic criterion of the intrinsic significance of every growing experience is recognized, we shall be intellectually confused by the demand for adaptation to external aims. (p. 105)

⇒「民主的? 何言っているんですか?会社ならトップダウンの決定に従うのが当たり前でしょう!」ということばが、教育現場での教師の語り合いや認め合いを止める決め台詞になっていないか。一人ひとりの違いを認めながら、社会全体として「よい」方向を示すという民主主義の文化は、教育の現場でこそ重要だが、それがまず教師集団において抑圧・否定され、それが子どもへの抑圧や否定につながっていないか。

もっともこのような抑圧的な文化をもたらした遠因の一つとしては、「民主的」や「民主主義」ということばを曲解乱用し、ゴネたり妨害ばかりした一部の人間の行動があるだろう。「民主主義」ということばを私達はより深く理解し、時代に合わせて発展させなければならない。

■ よい教育上のねらいの特徴 (2)

(3) Educators have to be on their guard against ends that are alleged to be general and ultimate. Every activity, however specific, is, of course, general in its ramified connections, for it leads out indefinitely into other things. So far as a general idea makes us more alive to these connections, it cannot be too general. But "general" also means "abstract," or detached from all specific context. And such abstractness means remoteness, and throws us back, once more, upon teaching and learning as mere means of getting ready for an end disconnected from the means. (p. 105)

⇒「一般的」であり「究極である」と称するねらいに警戒せよ。どんな特定の活動も、さまざまに発展しうるのだから「一般的」であるが、そういった一般性は問題がない。だが、一般性が「抽象性」や具体的文脈からの乖離を意味するようになると、私達が批判した到達点と手段の分離に至ってしまう。

■ 真の意味で一般的なねらいとは、見通しを広げ、より多くのつながりを考慮に入れるもの。

That education is literally and all the time its own reward means that no alleged study or discipline is educative unless it is worth while in its own immediate having. A truly general aim broadens the outlook; it stimulates one to take more consequences (connections) into account. This means a wider and more flexible observation of means. (p. 105)

⇒デューイは、(a)結果的に広がっていくという意味での一般性、(b)抽象的で具体的状況から乖離した一般性、(c)積極的に見通しを広げとつながりを増やす一般性を区別していることになる。デューイが批判しているのは(b)のみ。



■ 良い意味での一般性をもった到達点が複数掲げられ、さまざまな問いと観察が促進される状況が望ましい。

Or, putting the matter in a slightly different way, one statement of an end may suggest certain questions and observations, and another statement another set of questions, calling for other observations. Then the more general ends we have, the better. One statement will emphasize what another slurs over. What a plurality of hypotheses does for the scientific investigator, a plurality of stated aims may do for the instructor. (p. 106)

⇒デューイはここも民主主義的文化の重要性を強調している。そして、民主主義的文化で重要なのは多元性 (plurality)である。







要約 (Summary)

An aim denotes the result of any natural process brought to consciousness and made a factor in determining present observation and choice of ways of acting. It signifies that an activity has become intelligent. Specifically it means foresight of the alternative consequences attendant upon acting in a given situation in different ways, and the use of what is anticipated to direct observation and experiment. A true aim is thus opposed at every point to an aim which is imposed upon a process of action from without. The latter is fixed and rigid; it is not a stimulus to intelligence in the given situation, but is an externally dictated order to do such and such things. Instead of connecting directly with present activities, it is remote, divorced from the means by which it is to be reached. Instead of suggesting a freer and better balanced activity, it is a limit set to activity. In education, the currency of these externally imposed aims is responsible for the emphasis put upon the notion of preparation for a remote future and for rendering the work of both teacher and pupil mechanical and slavish.

⇒できれば、この要約を各自、自分が納得できる日本語に翻訳して、教育における「ねらい」(あるいは「目的」)について、よく考えてほしい。

また、上記のデューイの"aim"観を踏まえた上で、改めてウィドウソンの立論を読んでほしい。

「教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/blog-post_4057.html









"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html





2013年10月17日木曜日

Education as Growth (Chapter 4 of Democracy and Education)




[この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからします
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)









なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。


■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです。













第4章: 成長としての教育

Chapter Four: Education as Growth


1 成長の条件 (The Conditions of Growth)

■ 成長の第一の条件は未成熟さ (immaturity)。当たり前のことのように思えるかもしれないが、未成熟さには否定的な意味だけでなく肯定的な意味もあることに注意。

The primary condition of growth is immaturity. This may seem to be a mere truism -- saying that a being can develop only in some point in which he is undeveloped. But the prefix "im" of the word immaturity means something positive, not a mere void or lack. It is noteworthy that the terms "capacity" and "potentiality" have a double meaning, one sense being negative, the other positive. Capacity may denote mere receptivity, like the capacity of a quart measure. We may mean by potentiality a merely dormant or quiescent state -- a capacity to become something different under external influences. But we also mean by capacity an ability, a power; and by potentiality potency, force. Now when we say that immaturity means the possibility of growth, we are not referring to absence of powers which may exist at a later time; we express a force positively present -- the ability to develop. (p. 40)

⇒"Capacity"は「対応力」、"potentiality"は「潜在性」と訳すことにする。両者ともに否定的な意味と肯定的な意味をもつ。

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■ 私たちは、子どもを大人と比べると何かが欠如している者としてだけでみなしがちであるが、子どもにはあるが大人にはないものもある。

Our tendency to take immaturity as mere lack, and growth as something which fills up the gap between the immature and the mature is due to regarding childhood comparatively, instead of intrinsically. We treat it simply as a privation because we are measuring it by adulthood as a fixed standard. This fixes attention upon what the child has not, and will not have till he becomes a man. This comparative standpoint is legitimate enough for some purposes, but if we make it final, the question arises whether we are not guilty of an overweening presumption. Children, if they could express themselves articulately and sincerely, would tell a different tale; and there is excellent adult authority for the conviction that for certain moral and intellectual purposes adults must become as little children. (p. 40)

⇒第二言語教育でも、第二言語話者を、第一言語話者と比べると欠如している者としかみない考え方は多い。近年は、そのことに対する批判がある。

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■ 子どもを欠如の点から否定的にしかとらえないと、成長のゴールは、理想の標準状態になってそれから変わらないことになってしまう。しかし変化できないことを大人は嘆く。なぜ大人が嘆く「変化できないこと・成長できないこと」を子どもの成長のゴールとしなければならないのか?

The seriousness of the assumption of the negative quality of the possibilities of immaturity is apparent when we reflect that it sets up as an ideal and standard a static end. The fulfillment of growing is taken to mean an accomplished growth: that is to say, an Ungrowth, something which is no longer growing. The futility of the assumption is seen in the fact that every adult resents the imputation of having no further possibilities of growth; and so far as he finds that they are closed to him mourns the fact as evidence of loss, instead of falling back on the achieved as adequate manifestation of power. Why an unequal measure for child and man? (pp. 40-41)



■ 成長とは生命が自らもつ力である。

⇒全訳

未成熟という概念を、比較の点から考えるのではなく、絶対的に考えるなら、それが意味するのは、肯定的な力や能力、つまりは成長できる (power to grow)である。教育学では、子どもから積極的な活動 (positive activities) を引き出すとか誘い出すとかいうが、そのようなことをする必要はない。生命あるところには必ず熱心で情熱的な活動があるのである。成長とは外からのものではなく、生命が自らなすものである。

Taken absolutely, instead of comparatively, immaturity designates a positive force or ability, -- the power to grow. We do not have to draw out or educe positive activities from a child, as some educational doctrines would have it. Where there is life, there are already eager and impassioned activities. Growth is not something done to them; it is something they do. (p. 41)

⇒"To educate = to draw out"を否定するなど、ここではかなり強い主張が見られる。



■ 動物の子どもは生後すぐにいろいろなことができるが、人間の子どもはそうではない。しかし、人間の子どもには社会的対応力 (social capacity) がある。

They [= the young of brute animals] are compelled, so to speak, to have physical gifts because they are lacking in social gifts. Human infants, on the other hand, can get along with physical incapacity just because of their social capacity. (p. 41)

⇒人間の社会的能力の高さについてはトマセロも力説している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/マイケル・トマセロ
Michael Tomasello



■ 子どもは、既存の社会的環境の中に単に物理的に放り込まれるのではなく、驚くべき社会的対応力で、周りの大人達からの協力を得るのである。

We sometimes talk and think as if they simply happened to be physically in a social environment; as if social forces exclusively existed in the adults who take care of them, they being passive recipients. If it were said that children are themselves marvelously endowed with power to enlist the cooperative attention of others, this would be thought to be a backhanded way of saying that others are marvelously attentive to the needs of children. But observation shows that children are gifted with an equipment of the first order for social intercourse. Few grown-up persons retain all of the flexible and sensitive ability of children to vibrate sympathetically with the attitudes and doings of those about them. (pp. 41-42)

■ 依存 (dependence) とは力であり、弱さではない。依存とは相互依存 (interdependence) である。むしろ私たちは独立(非依存 independence)の危険性についてよく考えるべきである。

From a social standpoint, dependence denotes a power rather than a weakness; it involves interdependence. There is always a danger that increased personal independence will decrease the social capacity of an individual. In making him more self-reliant, it may make him more self-sufficient; it may lead to aloofness and indifference. It often makes an individual so insensitive in his relations to others as to develop an illusion of being really able to stand and act alone -- an unnamed form of insanity which is responsible for a large part of the remediable suffering of the world. (p. 42)

⇒"Independence"に対して、ここではかなり批判的なことばが並べられている。

ちなみに「自立とは依存先の数を増やすことです」とは、当事者研究を行う熊谷晋一郎氏や綾屋紗月氏らが述べること。以下の毎日新聞の連載「生きる物語:「弱さ」の向こう側 1~10」はぜひ読んで下さい。
http://mainichi.jp/feature/ikirumonogatari/archive/

関連記事
石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html



■ 可塑性 (plasticity)とは、経験から学ぶ能力、新たに自らの中に性向を育てる力であり、これなしに新たな習慣を獲得することはできない。

The specific adaptability of an immature creature for growth constitutes his plasticity. ... It is essentially the ability to learn from experience; the power to retain from one experience something which is of avail in coping with the difficulties of a later situation. This means power to modify actions on the basis of the results of prior experiences, the power to develop dispositions. Without it, the acquisition of habits is impossible. (pp. 42-43)

⇒しかし、後に何が役立つかを知るのは、少なくとも個人では困難なはず。そうなると、plasticityとは何かを経験している時に未来に向けて培われるものというより、事後的に過去の経験から学んでいたことを想起して培われるものというべきだろうか?(純粋な疑問)。



⇒全訳

幼児には、試行可能な本能的反応が多数あり、またそれらの反応と共に経験をすることができる。これらの多数の可能性は、時に重なりあって逆効果になるかもしれないが、基本的には幼児を利するものである。ある行為を、既成のものとしてではなく、新たなものとして学ぶ場合、状況の変化に応じて、必要な行為の要因は変わり、要因の組み合わせも変化する。ある行いを学ぶ際に、他の状況でもその行いを使うことができるような方法が生まれることにより、進歩は継続しうる。しかし、より重要なのは、人間は学ぶ習慣を獲得するということだ。人間は学ぶことを学ぶ。

The infant has the advantage of the multitude of instinctive tentative reactions and of the experiences that accompany them, even though he is at a temporary disadvantage because they cross one another. In learning an action, instead of having it given ready-made, one of necessity learns to vary its factors, to make varied combinations of them, according to change of circumstances. A possibility of continuing progress is opened up by the fact that in learning one act, methods are developed good for use in other situations. Still more important is the fact that the human being acquires a habit of learning. He learns to learn. (pp. 43-44)

⇒この箇所、特に"In learning an action, instead of having it given ready-made, one of necessity learns to vary its factors, to make varied combinations of them, according to change of circumstances"の文は、今ひとつ自分なりの納得感がありません。どなたか説明してもらえると助かります。 m(_ _)m







2. 成長の表れとしての習慣 (Habits as Expressions of Growth)

■ 習慣とは、行為で使う身体の部位を通じて、環境を能動的に管理すること (an active control of the environment through control of the organs of action)。習慣について考える際に、身体を管理することばかり考えて、環境を管理することを忘れてはいけない。

We have already noted that plasticity is the capacity to retain and carry over from prior experience factors which modify subsequent activities. This signifies the capacity to acquire habits, or develop definite dispositions. We have now to consider the salient features of habits. In the first place, a habit is a form of executive skill, of efficiency in doing. A habit means an ability to use natural conditions as means to ends. It is an active control of the environment through control of the organs of action. We are perhaps apt to emphasize the control of the body at the expense of control of the environment. We think of walking, talking, playing the piano, the specialized skills characteristic of the etcher, the surgeon, the bridge-builder, as if they were simply ease, deftness, and accuracy on the part of the organism. They are that, of course; but the measure of the value of these qualities lies in the economical and effective control of the environment which they secure. To be able to walk is to have certain properties of nature at our disposal -- and so with all other habits. (pp. 44)

⇒ここでも環境および環境の活用が強調されている。ちなみに、これまでの訳語との一貫性を重んじ、ここでの"control"も「管理」と訳したが、少し奇異な日本語になったかもしれない。



■ 習慣とは、個人が環境に順応すること (adjustment)だが、それは目標を達成するために能動的に順応を手段として管理するということである。順応とは、ただ受け身に環境に同調すること (conformity)ではない。

Education is not infrequently defined as consisting in the acquisition of those habits that effect an adjustment of an individual and his environment. The definition expresses an essential phase of growth. But it is essential that adjustment be understood in its active sense of control of means for achieving ends. If we think of a habit simply as a change wrought in the organism, ignoring the fact that this change consists in ability to effect subsequent changes in the environment, we shall be led to think of "adjustment" as a conformity to environment as wax conforms to the seal which impresses it. (p. 45)

⇒デューイは、環境の重要性を語っても、人間が環境から一方的に影響を受けるとは言っていない。人間と環境の相互作用性を強調していると言えようか(あるいは、ルーマンのシステム理論でいう「環境」(Umwelt, environment) -つまりはシステム以外の部分-との混同を恐れながら言うと、デューイは、人間は身の回りの環境(デューイの意味であり、ルーマンの意味ではない)と一つのシステムを構成することで行動していると言えようか。うーん、これだとアフォーダンスで説明した方がいいのだろうか(←自分で墓穴を掘るな、アホ)。



■ 常習の受動性は相対的なもので、私たちが物事に慣れる際は、まず能動的に物事を使用することから始める。

⇒(理解に)困った時の全訳で、翻訳してみる。

常習という意味での習慣は、相対的に受動的であるにすぎない。私たちは身近のなもの、例えば洋服や靴や手袋に慣れる。雰囲気にも、それがそれなりに安定していたら慣れる。日頃よく会う人にも慣れる、等などである。身近なものを変化させる能力と無関係なままに生物にもたらされる変化である、環境への同調 (conformity)とは、そういった常習の中でも特異 (marked) なものである。そういった順応(能動的な順応と区別するために同化 (accomodation) と呼んでもいいかもしれない)の特性を、身近なものを能動的に使う習慣に混じらせてはいけないということの他には、常習については二つのことを特記しておきたい。一つ目のことは、私たちが物事に慣れるのは、まず使用してからであるということだ。

Habit as habituation is indeed something relatively passive; we get used to our surroundings -- to our clothing, our shoes, and gloves; to the atmosphere as long as it is fairly equable; to our daily associates, etc. Conformity to the environment, a change wrought in the organism without reference to ability to modify surroundings, is a marked trait of such habituations. Aside from the fact that we are not entitled to carry over the traits of such adjustments (which might well be called accommodations, to mark them off from active adjustments) into habits of active use of our surroundings, two features of habituations are worth notice. In the first place, we get used to things by first using them. (p. 45) ⇒"Marked"はいわゆる「有標の」という意味だと解釈し、「特異な」と訳した。



■ 常習は私たちの順応や反応の背景となり、常習という背景があるから特定の習慣も効果的に執行できる。

⇒似たような用語が並んでわかりにくいので、ここも愚直に翻訳。オイラ、書いてみないとなかなか理解できないのよ。

知らない町に慣れることを考えてみよう。最初のうちは刺激が多すぎて、変な反応もたくさんしてしまう。だんだんと、自分に関連のある種類の刺激だけが選ばれるようになり、他のものは目立たなくなる。私たちはもう後者の刺激に反応しなくなったと言ってもいいが、もっと正確にいうなら、私たちは後者の刺激に対して一貫した反応をするようになったと言えるだろう。つまり、順応が均衡状態に落ち着いたのだ。これが [常習について特記すべき] 二つ目のことで、このように落ち着いた順応が背景となって、具体的な順応が機会に応じて生じるということだ。私たちは環境をすべて変えようなどとは思っていない。私たちが当たり前に思い、既存のものとして受け入れるものはたくさんある。この背景があってこそ、私たちは必要とする変化をもたらすために、ある点に私たちの活動を集中できるのだ。したがって、常習とは、私たちが当座のところは修正する必要を感じていない、環境への順応であり、この常習によって私たちの能動的な習慣が効果的になるのだ。

Consider getting used to a strange city. At first, there is excessive stimulation and excessive and ill-adapted response. Gradually certain stimuli are selected because of their relevancy, and others are degraded. We can say either that we do not respond to them any longer, or more truly that we have effected a persistent response to them -- an equilibrium of adjustment. This means, in the second place, that this enduring adjustment supplies the background upon which are made specific adjustments, as occasion arises. We are never interested in changing the whole environment; there is much that we take for granted and accept just as it already is. Upon this background our activities focus at certain points in an endeavor to introduce needed changes. Habituation is thus our adjustment to an environment which at the time we are not concerned with modifying, and which supplies a leverage to our active habits. (pp. 45-46)



■ 最後に、適応 (adaptation) とは、私たちの活動が環境へと適応することであるのと同時に、環境が私たちの活動に適応することである。

Adaptation, in fine, is quite as much adaptation of the environment to our own activities as of our activities to the environment. A savage tribe manages to live on a desert plain. It adapts itself. But its adaptation involves a maximum of accepting, tolerating, putting up with things as they are, a maximum of passive acquiescence, and a minimum of active control, of subjection to use. A civilized people enters upon the scene. It also adapts itself. It introduces irrigation; it searches the world for plants and animals that will flourish under such conditions; it improves, by careful selection, those which are growing there. As a consequence, the wilderness blossoms as a rose. The savage is merely habituated; the civilized man has habits which transform the environment.



⇒類似概念をまとめると、次のようになるだろうか。

順応 (adjustment):環境に対する反応の一般的な語として使われる。能動的な順応、具体的な順応、(同調や同化とも呼べる)受け身の順応などさまざまなものがある。

適応 (adaptation): 私たちの活動が環境に応じて変化すると同時に、環境の方も私たちの活動に応じて変化すること。

習慣 (habit):身体を管理して使って、環境を能動的に管理して活用すること。

常習 (habituation):当座は修正する必要のない背景となったとすること。能動的に行う習慣は、常習という背景があることにより効果的に執行される。

同調 (conformity):常習の中でも特に受け身で、主体の能力などがほとんど関係しない環境に対する反応。

同化 (accomodation): 同調とほぼ同義。




■ 習慣は、運動だけでなく、知的・情動的性向においても生じる。習慣によって傾向性 (inclination) ができてくるが、これは習慣を行うことに関係する条件を能動的に好み選択することである。傾向性により、私たちは刺激が現れるのを待つまでもなく、習慣となっている行動を起こすような条件を見出す。

The significance of habit is not exhausted, however, in its executive and motor phase. It means formation of intellectual and emotional disposition as well as an increase in ease, economy, and efficiency of action. Any habit marks an inclination -- an active preference and choice for the conditions involved in its exercise. A habit does not wait, Micawber-like, for a stimulus to turn up so that it may get busy; it actively seeks for occasions to pass into full operation. If its expression is unduly blocked, inclination shows itself in uneasiness and intense craving. (p. 46)

⇒Micawberとは、DickensのDavid Copperfieldに出てくる楽天的な人物のこと。



■ 知的性向の習慣の力は強く、習慣を柔軟に変化させ、次々と成長に導く。

A habit also marks an intellectual disposition. Where there is a habit, there is acquaintance with the materials and equipment to which action is applied. There is a definite way of understanding the situations in which the habit operates. Modes of thought, of observation and reflection, enter as forms of skill and of desire into the habits that make a man an engineer, an architect, a physician, or a merchant. In unskilled forms of labor, the intellectual factors are at minimum precisely because the habits involved are not of a high grade. But there are habits of judging and reasoning as truly as of handling a tool, painting a picture, or conducting an experiment.

Such statements are, however, understatements. The habits of mind involved in habits of the eye and hand supply the latter with their significance. Above all, the intellectual element in a habit fixes the relation of the habit to varied and elastic use, and hence to continued growth. (pp. 46-47)



■ しかしながら悪い習慣 (bad habit) というのもある。悪い習慣とは、知性 (intelligence)から切り離されたものであり、私たちの可塑性を終わらせるものとなる。悪い習慣とは、私たちが所有しているものというより、私たちを所有しているものだと言える。

Habits reduce themselves to routine ways of acting, or degenerate into ways of action to which we are enslaved just in the degree in which intelligence is disconnected from them. Routine habits are unthinking habits: "bad" habits are habits so severed from reason that they are opposed to the conclusions of conscious deliberation and decision. As we have seen, the acquiring of habits is due to an original plasticity of our natures: to our ability to vary responses till we find an appropriate and efficient way of acting. Routine habits, and habits that possess us instead of our possessing them, are habits which put an end to plasticity. They mark the close of power to vary. (p. 47)



■ 性急な習慣形成の危険性

⇒重要なので全訳

外見だけの効率的な習慣、つまりは思考を伴わない運動技能を形成ために、機械的な動作と繰り返しに頼ってしまう近視眼的な方法は、成長に関わる身近なものについて自分を閉めだしてしまうことである。

The short-sighted method which falls back on mechanical routine and repetition to secure external efficiency of habit, motor skill without accompanying thought, marks a deliberate closing in of surroundings upon growth.(p. 48)







3 発達の概念化に関する教育的意味合い (The Educational Bearings of the Conception of Development)



■ 教育の到達点とは教育自身である。教育の到達点が、教育以外のどこかにあるわけではない (the educational process has no end beyond itself; it is its own end)。

⇒とても有名な箇所なので全訳。

教育とは発達である、とするなら、どのように発達をとらえるかが非常に重要になる。私たちの最終結論は、生きることとは発達することであり、発達すること、言い換えるなら成長することことが生きることである、というものだ。教育に関するように翻訳するなら、次のようになる。(i) 教育の過程に到達点はない。教育以外のどこかに教育の過程の到達点があるわけではない。教育の過程自身が教育の過程の到達点である。(ii) 教育の過程とは、再組織・再構築・変転の過程の一つである。

When it is said that education is development, everything depends upon how development is conceived. Our net conclusion is that life is development, and that developing, growing, is life. Translated into its educational equivalents, that means (i) that the educational process has no end beyond itself; it is its own end; and that (ii) the educational process is one of continual reorganizing, reconstructing, transforming. (p. 48)

⇒さらに言い換えるなら、教育は ―適切になされ、人間の成長や発達を促しているのならば― それ自身に価値があるのであり、教育の営み以外の何ものかによって、教育の価値を評価・測定される必要はない。教育は、一人の人間にとっても、社会全体にとっても、終わりのない過程であり、教育的観点以外の何かの到達点に達した時点で終るような営みではない。



■ 発達を、子どもが大人との差を埋めるもの、としてとらえることももちろん可能だが、それだけが発達ではない。大人も、自らの環境を変えるなど、発達をする。

1. Development when it is interpreted in comparative terms, that is, with respect to the special traits of child and adult life, means the direction of power into special channels: the formation of habits involving executive skill, definiteness of interest, and specific objects of observation and thought. But the comparative view is not final. The child has specific powers; to ignore that fact is to stunt or distort the organs upon which his growth depends. The adult uses his powers to transform his environment, thereby occasioning new stimuli which redirect his powers and keep them developing. Ignoring this fact means arrested development, a passive accommodation. Normal child and normal adult alike, in other words, are engaged in growing. The difference between them is not the difference between growth and no growth, but between the modes of growth appropriate to different conditions. (p. 48)



■ 科学や経済の問題などについては、子どもは大人らしくなれるように成長するべきだが、共感に充ちた好奇心、偏見のない反応のよさ、開かれた心、などに関しては、大人は子どもらしくなれるように成長するべきだ。

With respect to the development of powers devoted to coping with specific scientific and economic problems we may say the child should be growing in manhood. With respect to sympathetic curiosity, unbiased responsiveness, and openness of mind, we may say that the adult should be growing in childlikeness. One statement is as true as the other. (pp. 48-49)

⇒オイラの世代の多くの者は、佐野元春先生の「つまらない大人にはなりたくない」ということばに共感したのだよ (そして、そのことばを今でも忘れていないのだよ)(笑)







■ 教育のゴールを固定的なものと考えるところから間違いが始まる。

⇒ここも全訳。

これまで批判されてきた三つの考え、つまり ―未熟さを単なる欠如態とみなすこと、固定的な環境への静的な順応だけを考えること、習慣を変化しないものだと考えること ― は、すべて成長や発達に関する誤った考えとつながっている。つまり、成長や発達を、動かないゴールへ向かう動きと考えてしまっているのである。成長は到達点を有するものだと考えられ、成長自身が実は到達点であるとは考えられない。これらの考えは教育においては次のようになっている。第一に、子どもの本能的・生得的力をとらえ損なう。第二に、新たな状況に対応する積極性を発達させることを怠る。第三に、何かが自動的にできるようになるための機械的訓練などの方法をあまりに強調し過ぎて、一人の人間が個人として知覚できることが犠牲になっている。どの場合においても、大人の環境が子どもにとっての基準となっている。子どもは大人の環境の方向に向けて育てられなければならないのだ。

Three ideas which have been criticized, namely, the merely privative nature of immaturity, static adjustment to a fixed environment, and rigidity of habit, are all connected with a false idea of growth or development,--that it is a movement toward a fixed goal. Growth is regarded as having an end, instead of being an end. The educational counterparts of the three fallacious ideas are first, failure to take account of the instinctive or native powers of the young; secondly, failure to develop initiative in coping with novel situations; thirdly, an undue emphasis upon drill and other devices which secure automatic skill at the expense of personal perception. In all cases, the adult environment is accepted as a standard for the child. He is to be brought up to it. (p. 49)

⇒(1) 学習者の本能的・生得的な力の軽視、(2)新たな状況への対応力の軽視、(3)機械的訓練ばかりで個人的な知覚を軽視、というのは日本の英語教育でもまったくそのままあてはまる。ただし、日本の英語教育の場合は、「大人」でなく、ステレオタイプ的に固定化された「理想化されたネイティブ・スピーカー」なるものがゴールになっている(あるいはTOEICやTOEFLがゴールになっている)。



■ 教育方法が機械的になる時には、必ず教育以外の到達点へ到達させるための教育以外の圧力がかけられている。

⇒翻訳。

自然の本能は無視されるか厄介物あつかいされる。抑圧すべき面倒な特性であり、何があっても外的基準に同調させなければならないものとされる。ここでは同調こそがねらいなので、一人ひとりの子どもの個性は、脇にやられ、いたずらか無法状態を引き起こすものとみなされる。同調 (conformity) は、同一性 (uniformity) にまでなる。その結果、新しいことへの興味がなくなり、進歩を回避し、不確実で知られていないことを恐れるようになる。ここでは成長の到達点が、成長すること以外のところに設定されるため、子どもをそこに動かすために、教育以外の主体が (external agents) 導入される。教育の方法が機械的と批判される時には、必ず、教育以外の到達点に達するための教育以外の圧力がもちこまれている。

Natural instincts are either disregarded or treated as nuisances -- as obnoxious traits to be suppressed, or at all events to be brought into conformity with external standards. Since conformity is the aim, what is distinctively individual in a young person is brushed aside, or regarded as a source of mischief or anarchy. Conformity is made equivalent to uniformity. Consequently, there are induced lack of interest in the novel, aversion to progress, and dread of the uncertain and the unknown. Since the end of growth is outside of and beyond the process of growing, external agents have to be resorted to to induce movement toward it. Whenever a method of education is stigmatized as mechanical, we may be sure that external pressure is brought to bear to reach an external end. (p. 49)

⇒まるで、学ぶことが本当は好きでない先生しかいない受験進学校のようですなぁ。しかし20世紀初頭のアメリカって、このような批判が必要だったんだ・・・



■ 学校教育がなすべきことは、人が一生を通じて、自分が生きていることそのものから学び成長するようにすること。

⇒ここも大切だから翻訳。

現実では、成長は絶対的なものであり、成長は、より成長すること以外の何ものとも相対的関係にないのだから、教育もより教育を得ること以外の何ものにも従属しない。常套句に、教育は卒業と共に終わってはならないというものがある。この常套句が意味するのは、学校教育は、成長を確実にする力を作り上げて教育が続くことを確実にするべきだ、ということである。生きていること自体から学び、誰もが生きている過程の中で学べるように生きていることの条件を変えることが、学校が生み出しうる最良のことである。

2. Since in reality there is nothing to which growth is relative save more growth, there is nothing to which education is subordinate save more education. It is a commonplace to say that education should not cease when one leaves school. The point of this commonplace is that the purpose of school education is to insure the continuance of education by organizing the powers that insure growth. The inclination to learn from life itself and to make the conditions of life such that all will learn in the process of living is the finest product of schooling. (p. 49)

⇒実は、明日は組田幸一郎先生の講演会なのだけど、組田先生もほぼ同じことを言っている。てか、学校教育というものをきちんと考えたら、こうなるのではないのかなぁ。

でも、デューイがこう言ってから約100年たつけど、日本の教育はこのデューイの理想に少しずつ近づいていっているのだろうか、それとも、どんどん遠ざかっているのだろうか。

もし遠ざかっているのだとしたら、教師や教育関係者は、そのことにますます危機感をつのらせているのだろうか、それとも、ますます思考停止状態になっていっているのだろうか(人間らしく思考ができないなら、教師なんて機械と入れ替えた方がいいよね)。



■ 生き物は、どんな段階においても生きることに対して忠実で肯定的だ。教育とは、人間という生き物に、どんな年齢においても、よりよく生きるための条件が備えられるようにする企て。 生きることは成長することであるから、生き物はどの段階においても、生きることに忠実にまた肯定的に生きており、段階ごとの内在的な十全性と絶対的な要求を保っている。かくして、教育の意味とは、年齢を問わず、成長もしくは生きることのふさわしさを確実にする条件が備えられるようにする企てである、となる。

Since life means growth, a living creature lives as truly and positively at one stage as at another, with the same intrinsic fullness and the same absolute claims. Hence education means the enterprise of supplying the conditions which insure growth, or adequacy of life, irrespective of age. (p. 50)

⇒「生きること」 (life, living) というのは青臭いことばだけど、これを忘れた試みは教育の名前に値しない。現代酪農に関するこの記事は、今日、たまたま甲野善紀先生のツイッター(https://twitter.com/shouseikan)だけれど、ここでは牛が「生きること」をおよそ歪めた形で、牛がどんどん乳を出し霜降り肉をつけるように「成長」あるいは「発達」させられている。きつい言葉になってしまうけれど、現代の学校教育がもし子どもが「生きること」を無視し歪めているのは、そこでの「成長」や「発達」とは、狭い牛舎に詰め込まれてありとあらゆる化合物を注入されている牛の成長や発達と同じとすら言えるのではないか。



■ 要約 (Summary)

Power to grow depends upon need for others and plasticity. Both of these conditions are at their height in childhood and youth. Plasticity or the power to learn from experience means the formation of habits. Habits give control over the environment, power to utilize it for human purposes. Habits take the form both of habituation, or a general and persistent balance of organic activities with the surroundings, and of active capacities to readjust activity to meet new conditions. The former furnishes the background of growth; the latter constitute growing. Active habits involve thought, invention, and initiative in applying capacities to new aims. They are opposed to routine which marks an arrest of growth. Since growth is the characteristic of life, education is all one with growing; it has no end beyond itself. The criterion of the value of school education is the extent in which it creates a desire for continued growth and supplies means for making the desire effective in fact. (p. 51)

⇒デューイは、正直、あまりわかりやすい文章を書く人だとは思えないけど、こうして要約を書いてくれているのは、ありがたい。学生の皆さん、上の要約の英文だけで、高校生をうならせるような授業ができるだけの教養と英語力を培ってね(←オマエが培え)。








"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html









2013年10月13日日曜日

新ブログ「広大教英生がお薦めする英語動画集」を作りました



学生さんがパスワードを共有し、自分たちで記事を投稿・管理できるブログを新設しました。





広大教英生がお薦めする英語動画集

http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/






旧動画紹介ブログ(英語動画で高度な英語説明力をつけよう!)では、私にしか管理者権限がなかったので、私の多忙でせっかくの学生さんの投稿が公開されないままになっていたので、この新ブログを作りました。

にも書きましたように、パスワード漏洩などのリスクも多くありますが、この試みがうまくいって、学生さんの自主性が最大限に活かされて、ネット上に善意と知識が少しでも広まればと思っております。

学生(柳瀬の授業の受講生)の皆さんは、下記ページ(およびそこに埋め込まれているスライド)をよく読んで、記事を投稿して下さい。


記事の投稿方法(学生さんへの指示)
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/2013/10/blog-post_13.html





この試みがうまくいくように、再度お祈りします。





2013年10月8日火曜日

コミュニケーション能力と英語教育(2013年度)



この記事について:学部三年生用の授業「コミュニケーション能力と英語教育」 (木曜1/2限 K208教室) のためのファイル・リンク集です。


なお私は「言語コミュニケーション力」 (ability for linguistic communication) という言い方が理論的には適切ではないかと(少なくとも現在のところ)考えていますが、この用語は人口に膾炙していないので、新しい授業名でも、一般的に通用している「コミュニケーション能力」 (communicative competence) という用語を使いました (また商業的出版物においてもしばしば私はわかりやすさを優先させるため、この「コミュニケーション能力」という用語を使っています)。しかし私があくまでも興味をもっているのが言語 (特に第二言語) を主な媒体としたコミュニケーションです。「コミュニケーション」の媒体は言語に限らず、モノや商品やお金、あるいは突き蹴りや投げ(笑)もありますのでご注意を。







・凡例:記事・論文・書籍の名前の前に付けられた■、▲、★の記号はそれぞれ次のような意味を持っています。

■ 授業の前にきちんと読んで、そのまとめや感想などをWebCTシステムに書いておくべきもの(四角ですから「きちんと読め」と覚えて下さい)。

▲ 授業の前に参考程度に読んでおくべきもの(三角ですから、四角ほど「四角四面に読む必要はない」と覚えて下さい)。

★ S(秀)判定のための課題例(星印ですから「輝くSを取るためのもの」)と覚えて下さい。







第1回:イントロダクション

まず、和田玲先生という中堅実力教師のワークショップを観察した記事を読んで下さい。特に、「なぜ『つながる』ことはよいのか?」の項目は丁寧に読んで下さい。

■和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html

次に上記の記事との関連記事を読んで下さい。ただし(注)以下は武術ヲタ用ですので、読まなくて結構です。

■授業の「正中線」?
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/09/blog-post_23.html

また、極端な事例のように思えるかもしれませんが、教室でのコミュニケーションを考えるために、次の記事を読んで下さい。

■岩本茂樹『教育をぶっとばせ --反学校文化の輩たち--』文春新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/05/blog-post_27.html

次に、皆さんの先輩が、学校現場でどう豊かなコミュニケーションを取りながら活躍しているかについて読んでみましょう。

■教師と生徒の相互理解と相互認証 ― 広島大学英語文化教育学会での齋藤智子先生の発表
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html



この授業では、言語コミュニケーション、そしてそれを可能にしているとして私たちが想定しているコミュニケーション能力について様々な観点から検討します。一見難しく思える話題もあるかもしれませんが、できるだけわかりやすく解説します。一緒に考え、語り、書いて、観察力・分析力・思考力を上げて、それによって実践力を高めて、お互いによい社会を作れるように努力しましょう!



さて、コミュニケーション能力ですが、少なくともみなさんは、それを英語授業において育成する教育方法について他の授業で習ってきたはずです。多くの教育方法では、ねらいをできるだけ明確に定め、そのねらいを達成するために必要なのは何かを分析し、その分析に基づき教示 (instruction) や訓練 (training) や練習 (exercise) や活動 (activity) をします。教育方法の中には、その効果が「実験で証明された」と喧伝されているものもあります。この授業でも、いろいろな分析の仕方を導入します。分析は私たちの近代生活にとって必要不可欠な知的活動です。

しかし、最初にお断りしておきたいのは、分析に基づく方法にも限界があるということです。「分析」に対しては「統合」、「部分」に対しては「全体」が対概念となりますが、対概念抜きに分析と部分ばかりで考え行動してゆくと失敗します(逆に統合と全体にしか大切にせず、分析と部分を毛嫌いしてもうまくゆきません ―天才と呼ばれる人たちは分析と部分について考えずとも物事をすいすいやってのけることができますが、ここでは私たちはみんな凡人であるとして話を進めます)。

次の記事を読んで、皆さんがこれまで学んだ、分析に基づく部分の教示・訓練・練習・活動などをうまく相対化してください。

■ 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_7.html

■ 全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

▲ 科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/e-o.html

▲ 「実験研究は成功を連呼するのに、英語教育が一向に改善しないように見えるのはなぜなのか」という素朴な問いに対する答えの試み
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

▲ 農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/2.html

▲ 自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/2013.html







***








今年度(2013年度)は、昨年度の内容を一部修正し新しい記事を加え、評価方法を変えました。評価方法に関しては、以下をお読み下さい。



2013年度後期から私の授業ではポートフォリオ評価を導入します。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/2013.html




講義の流れは、(a)言語学・応用言語学の個人心理学的なコミュニケーション能力論の総括、(b)相互作用的・共同体的なコミュニケーション能力論の成立、(c)身体や意識といった観点からのコミュニケーション能力論の導入、(d)相互作用・共同体を超える「社会」の観点からのコミュニケーション能力論の展開、というものです。





イントロダクション (および、部分への分析と全体の統合について)

(a)言語学・応用言語学の個人心理学的なコミュニケーション能力論

カントとチョムスキー

応用言語学のコミュニケーション能力論

コミュニケーション能力の三次元的理解

(b)相互作用的・共同体的なコミュニケーション能力論

ヤーコブソンのコミュニケーション論

デイヴィドソンのコミュニケーション論

ウィトゲンシュタインのコミュニケーション論

(c)身体や意識といった観点からのコミュニケーション能力論

レイコフとジョンソンの身体論

日本の身体論(竹内敏晴、野口三千三を中心に)

ダマシオの身体論

言語使用と意識

(d)相互作用・共同体を超える「社会」の観点からのコミュニケーション能力論

間文化的コミュニケーションとしての翻訳

アレントのコミュニケーション論

「交換」から考える英語教育

ポートフォリオ評価(全員のポートフォリオを読み、相互評価を加えます)




ちなみに以下は2008年時点での私の総括です。読んでみてください。

▲ 言語コミュニケーション力論の構想
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html

大学院で私が担当する講義では、このコミュニケーション能力論をさらに発展させながら英語教育について根源的に考えてゆきます。2013年度は次の本を読んで、お互いに考え話し合っています。

★ Index to pages about Critical Applied Linguistics
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2010/10/index-to-calx-pages.html
★ Index to pages about Alternative Approaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/index-to-pages-about-alternative.html
★ John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html





授業では特に取り上げませんが、コミュニケーション(および言語)に関する副読本としては以下をお薦めします。

★ 末田清子・福田浩子(2003)『コミュニケーション学』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/02/2003.html

★ 小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html

▲ 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060307

★ 野矢茂樹・西村義樹 (2013) 『言語学の教室 ― 哲学者と学ぶ認知言語学』 (中公新書) 






・ダウンロード資料について:ダウンロードする資料で、引用が多いものは、公開すると著作権法にふれますから、授業を受けた人にだけパスワードを教えます。パスワードは授業の受講者以外には教えないでください。なお、著作権法にふれるおそれのないダウンロード資料にはパスワードはかけていません。



・授業の予習と復習:(a)予習として、この記事に指示された文献を読み(■は必須。▲は速読。★は意欲があれば読む)、そこで考えたことや感じたことをWebCTシステムに書きこむ。(b)授業中は講義を聞いてできるだけ討論をする。(c)復習として、授業後に考えたことやWebCTシステムに書きこむ ― これらの日々の読み書きがポートフォリオの素材となります。

WebCTシステムにはこちらが書き込む欄を作りますので、間違えないように書きこんで下さい。なお、(b)の講義を助けるためにできるだけ授業前日までに講義補助スライドをWebCTに掲示するようにします。参考にしてください。

なおWebCTシステムに投稿をする際は、いきなりWebCTシステム上に書き込むのではなく、いったんエディターやワープロで文章を完成させてからそれをコピーしてWebCTシステムに貼り付けてください。前者の方法ですと、誤って未完成原稿を投稿しあとで削除できなくなったりすることがありますし、後者の方法ですと、自分で文章をじっくり読んで推敲できます。後者の方法でお願いします。

また、優れたコメントや作品については、みなさんの名前を匿名化した上で、私のブログやツイッターで紹介させていただくことがあります。そういった公開に適さない内容を書いた場合は、その旨を書いておいて下さい(なお、WebCTシステムを部外者が見ることはできませんが、この授業の受講者は全員見ることができます)。

※たくさん読んで、考えて、書くことは大変ですが、それこそが勉強です。大学時代にしっかり勉強して下さい!皆さんの先輩方も以下のリンク先ページを見ていただけたら明白なように、読み・書き・考えることを続けることで、優れた観察力・分析力・思考力そして文章力をつけました。今年もお互いいい学びの共同体を作りましょう!



▲ 2011年度の学生さんのレポートから
「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011.html
「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」での学生さんの様々な気づき
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011_19.html
学生さんによる物語論・身体論・授業論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html
学生さんによる、スポーツから考える英語教育論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_6281.html
学生さんによる、音楽から考えるコミュニケーション論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_8814.html
学生さんの哲学的な文章(「「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」を受けて)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011_9057.html

▲ 2010年度の学生さんのレポートから
英語授業を具体的に分析し、自省する
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
英語教師であるということはどういうことか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_4340.html

▲ 2009年度の学生さんのレポートから
言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/critical-applied-linguistics.html








第2回:カントとチョムスキー

■「カントとチョムスキー」(授業用スライド)
https://app.box.com/s/qnxudpxqd6n06mif4kj4
■「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5.html
■チョムスキーに関するファイル(パスワード必要)
https://app.box.com/s/jbzfsxndbnukblpwrmqz
■「文法をカラダで覚える」とは何か
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4664.html

参考文献
★Chomsky, N. 1965. Aspects of the theory of syntax. Cambridge, Massachusetts: The MIT Press (第一章のセクション1,2,8のみ)
★Marc D. Hauser, Noam Chomsky and W. Tecumseh Fitch
The Faculty of Language: What Is It, Who Has It, and How Did It Evolve? http://www.sciencemag.org/content/298/5598/1569.short
★レイ・ジャッケンドフ(2004)『心のパターン』岩波書店
★レイ・ジャッケンドフ(2006)『言語の基盤―脳・意味・文法・進化』岩波書店
★1 Introduction and Key terms - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html
★2 Transcendental ideas - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html
★3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html
★4 Freedom - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html
★5 Principle of Pure Reason - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html







第3回:応用言語学のコミュニケーション能力論

■ Hymes, Canale & Swain, Widdowson and Bachman & Palmer (授業用スライド:パスワード必要)
https://app.box.com/s/vc1iqyoufo4ifpehf7v5
■ Hymes, Canale, Swainの論に関するファイル(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/7en2j1cs8l
■ 教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/blog-post_4057.html
■ WiddowsonとBachmanに関するPDFファイルのダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/2hhexdlyt0
▲ バックマンのCommunicative Language Abilityの図のダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/f08jx75sc2
▲ バックマンのLanguage Competenceの図のダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/ccjro3phbc
■ バックマンとパーマーの2010年に関する記事は
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html
この短いNTYのエッセイは非常に啓発的です。
■ Measurement and Its Discontents
http://www.nytimes.com/2011/10/23/opinion/sunday/measurement-and-its-discontents.html

参考文献
★Hymes, D. 1972. On Communicative Competence. In J. Pride and J. Holmes (eds.), Sociolinguistics: Selected readings (pp. 269-93). Harmondsworth: Penguin.
★Canale, M. and Swain. M. 1980. "Theoretical bases of communicative approaches to second language teaching and testing." Applied Linguistics, 1 (1): 1-47.(セクション1と3のみ)
★Canale, M. 1983. From communicative competence to communicative language pedagogy. In J. C. Richards and R. W. Schmidt (eds.), Language and Communication (pp. 2-27).  London: Longman.
★Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Press.(第1章のみ)
★Bachman, L. F. 1990. Fundamental considerations in language testing. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
★Bachman, L. F. and Palmer, A. S. 1996. Language testing in practice. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
★Bachman, L.f. and Palmer, A.S. 2010. Language Assessment in Practice. Oxford: Oxford University Press. (第3章のみ)







第4回:コミュニケーション能力の三次元的理解

■ 授業スライド:コミュニケーション能力の三次元的理解










■ 中学三年生向けの言語コミュニケーション力論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/blog-post_18.html
■ 「学校英語教育の見通し」(パスワードが必要です)
https://app.box.com/shared/rz8lkgkj4i
■ 『日本言語テスト学会』論文
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html






第5回:ヤーコブソンのコミュニケーション論

■ コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長 (ブログ記事)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/blog-post_26.html

■ コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長 (スライド)



■ Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/jakobson-1960-linguistics-and-poetics.html

■コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html

■小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html

■ コミュニケーションに関するヤーコブソン・モデルの展開 (論文)




▲ ヤーコブソン
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Jakobson
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロマーン・ヤーコブソン





第6回:デイヴィドソンのコミュニケーション論

■ 「コミュニケーションの極から考える」(2001/8/3)および「コミュニケーションという革新」(2001/5/20)
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay01.htmlのページにあります。スクロールかCtrl+Fで探してください。

■ デイヴィドソンのコミュニケーション能力論からのグローバル・エラー再考
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00027396

■ コミュニケーション能力論とデイヴィドソン哲学
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00028105

■ 二項対立の間でデイヴィドソンを考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/blog-post_13.html

■ 嘘をつくことができるのは、人間の言語だけである」という命題について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/12/blog-post_18.html 

■ 授業用スライド




★ Davidoson, D. 1973, ‘Radical Interpretation’, Dialectica, 27, reprinted in Davidson, 2001b.

★ Davidoson, D. 1986, ‘A Nice Derangement of Epitaphs’, in LePore (ed.), 1986, reprinted in Davidson, 2005a.

★ Davidoson, D. 2001, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford: Clarendon Press, 2nd edn.

★ Davidoson, D. 2005, Truth, Language and History: Philosophical Essays, with Introduction by Marcia Cavell, Oxford: Clarendon Press.

★ 『デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか』














第7回: ウィトゲンシュタイン



■ 「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

■ ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

■ 野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

 ■ 鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

■ ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

■ ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード(パスワード必要)
https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

■ 授業用スライド





▲ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html


参考文献

★永井均(1995)『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書





★鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)』講談社現代新書





★飯田隆(2005)『ウィトゲンシュタイン』講談社






第8回:レイコフとジョンソン



■授業用スライド


■ 身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

■ ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

■ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

■ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html



参考文献

★ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(1986)『レトリックと人生』大修館書店、もしくはこの原著Metaphors We Live by







★ ジョージ・レイコフ(1993)『認知意味論―言語から見た人間の心』紀伊国屋書店、もしくはこの原著Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind
 







★ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心のなかの身体 』紀伊国屋書店 もしくはこの原著The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason



★ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(2004)『肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』哲学書房、もしくはこの原著Philosophy In The Flesh














第9回: アレント




■ アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418
■ 「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html

■ E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/e-2008.html
■ 仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2009.html

■ 人間の条件としての複数性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_8473.html
■ この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post_24.html
■ 「政治」とは何であり、何でないのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html
■ アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html
■ 世界を心に閉じこめる近代人
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_1835.html
■ 欠陥商品としての「考える」こと
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_16.html



映画『ハンナ・アーレント』予告編


▲西洋哲学の寵児の政治的判断
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_10.html
▲人間、ハンナ・アレント
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/blog-post_12.html
および
▲アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけ:このエクセルファイルの概念図(パスワード不要)。

関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
■ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
■ ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
■ 「現代社会における英語教育の人間形成について―社会哲学的考察」を読んでください。
ついでに
■ 「当事者が語るということ」もどうぞ