教育研究が、およそ実践的な側面を扱う限り、その実践に自らの時間ーということは人生ーを捧げている人間に関わらざるをえません。
通俗的理解では「研究」は人間的側面や主観性をできるだけ排除する、つまり研究を非人間化 (dehumanize) することが「科学」であると思われていることも多いようですが、人間を単なる物理的存在(モノ)として捉える自然科学ならともかく、人間を人格的な存在として捉え、それを研究する研究者自身も同じように人格的存在である人文社会学なら、そのように人間的側面や主観性を抑圧した方法は不適切かと思われます。「モノ」に対する一方向的な認識論ではない、主観性を捨て去ることができない人間と人間の間の双方向的あるいは弁証法的な認識論が必要です。
アレントの言語論に通じるル=グヴィンの言語論
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/10/blog-post_25.html
「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」のスライドとレジメ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2015/05/blog-post_27.html
柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/12/2014-12-pp-14-28.html
J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/j-postl-2014.html
仮に、実践者が実践することを、教育実践への「一人称的関わり」とすれば、私はこの関わりに基づくことばを、実践研究に欠くべからざる要素とみなしています。
もちろん、実践者の一人称的関わりをすべて排除して、大多数の実践者に第三者的に一斉調査をするような研究もあるでしょう。しかし、それは実践からある程度の距離をとった、あるいは実践とは隔絶された、実践に「ついて」の研究であり、(例えば、教師の平均労働時間など)実践者に貴重な情報を与えても、実践的な洞察や指針を与える研究--実践研究--ではありえないと私は感じています。
河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/04/2009.html
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫それでは実践者が語ることばを私はそのまま鵜呑みにしているのかと言えば、そういうわけではありません。といっても実践者のことを疑ってかかるわけでもありません。ただ、実践者のことばは、彼・彼女が埋め込まれている状況を前提としたものが多いので、その状況をよく知らない私は、きちんと納得できないのです。また、実践者が曖昧な表現をした場合、その意味合いをどのように限定しどこまで広げるべきかはにわかには判断できません。
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/2009_25.html
河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/2010.html
河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/2009.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/02/cg-1995.html
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/02/cg-1996.html
ですから、私はしばしば一人称的語りをする実践者に、<私とあなた>という関係で二人称的に関わります。実践者という<あなた>の主観を、<私>の主観という「地」 (ground) に浮かび上がった「図」 (figure) としながら理解を試みます。時にその「図-地」の関係性を反転させて、私自身の主観を問い直しながら、<あなた>と<私>で共有できる理解を生み出します。そしてその理解をできるだけ言語化します。それは<私>から<あなた>への問いかけから始まり、次第に<私とあなた>の協働作業となる語り合いです。
その語り合いの場に、もし誰か他の人がいたらー第三者がいたらー、<私>はその第三者にもわかってもらえるような言語化を試みるでしょう。その第三者に対しても<私>は二人称的関わりを始めるわけです。実践への一人称的関わりをもつ実践者の話を、実践者に対して二人称的に関わる自分がまずは理解し、それから、その理解を別方向の二人称的関わりをしている第三者的な聞き手にも伝わるように言語化をする努力をし始めるわけです。
そうなれば、実践に対して一人称的関わりをする実践者と、その実践者に対して二人称的関わりを行う対話相手という<私>と<あなた>の関係から、第三者にも理解される三人称的な知見が生じてくるとはならないでしょうか。
この第三者は、実践者である一人称的存在(「第一者」)と、実践者に尋ねる二人称的存在(「第二者」)の両者を理解しようとする第三者です。アダム・スミスの言い方を借りるなら「公平な観察者」 (impartial spectator)、あるいは「利害のない傍観者」 (indifferent by-standar) になるでしょうか。 これは、第一者と第二者の主観を否定・排除するような第三者ではありません。第一者と第二者の主観も踏まえた上で、「公平に」あるいは「利害のない立場」から両者の言い分を理解する第三者です。
アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/08/17902013.html
こういう第三者にとっての知見なら、実践者とその実践者の話を横で聞く第三者のそれぞれに対して二人称的関わりをする第二者の働きによって生まれるのではないか、というのが私がこの小文で述べようとしていることです。
こういった第三者的知見は、通俗的理解における自然科学的態度のように誰の主観も否定・排除したような第三者的知見とは異なりますが、それでも第三者的知見の一種、言ってみるなら人文社会学的な第三者的知見とは言えませんでしょうか。
なかなかうまく言えないので自分でももどかしいのですが、第6回こども英語教育研究会に出席して、英語教育研究・言語教育研究をする自分にとって、実践へ一人称的関わりをしている実践者との二人称的関わりは不可欠だという思いが強くなり、この駄文をしたためました。そしてその第一者と第二者の間のコミュニケーションが、第三者を意識した時、人文社会的な第三者的知見は生まれているのかもしれないのかもしれないというのが私が述べたかったことです。
おそまつ。
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