2014年2月16日日曜日

C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社



[この記事は、言語文化教育研究所第13回研究集会大会 (2013年3月15日)でのシンポジウム「言語教育の目的と実践研究」での発表の準備の一環としてまとめたものです。発表ではもちろん実践研究のあり方についてできるだけ具体的に語りますが、月並みな結論に終わらないようにするためには、いったん『言語とは何か」「人間は言語をどう使っているのか」「人間を教育するとはどういうことか」「そもそも人間とはどういった存在か」といった根源的なことを考えておかねばならないと思ったので、こうしてユングについてまとめています。

教育という営みを、テクノロジーで代替できるし、教育技術のテクノロジー化こそが教育方法学の務めだとお考えの方々は、こういった根源的な試みを一笑に付すでしょうが、私がお会いしている優れた現場教師の言動を見たり、また、彼・彼女らからさまざまなエピソードを聞いたりするにつれ、教育とは根本のところで全人的な関わりであるという思いを私は強くしています。特にさまざまな問題を抱えた児童・生徒・学生は、ある瞬間に、教師にごまかしのない全人的な態度 ―建前や一般論をいったん取り払った上での向き合い― を求めます。ですから、教師は少なくとも時折は深いレベルで、この言語教育という営み、そして人間についての洞察を得る必要があると思っています。

というわけで、ご興味のある方は以下をお読みください。ご興味のない方はもちろん読まなくて結構ですが、それでもこういった試みの邪魔をすることだけは止めてください。私は、なぜ一部の人はこういった教育観や探究の試みを毛嫌いするのかについて時折考えたりしますが、そうなるとすでにユング心理学的内容に入ってしまうでしょうから、前書きはここで終えます]



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この本の構成は非常にしっかりしているので、以下、私はこの本の部と章を小見出しとして上げ、それらの中で私にとって特に印象的だった箇所についてまとめます。


第二版序言

この本(原題はDie Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewuβten)は、時折「ユング自身によるユング心理学入門」とも呼ばれると聞いていますが、ここで彼は「自我意識の無意識過程に対する関係」を記述し、とりわけ「無意識からの影響に対する意識人格の反応とみなしうる一連の現象」の研究を伝えようとしています(13ページ)。


第一部 意識に対する無意識の作用


第一章 個人的無意識と集合的無意識


無意識とは、フロイトが考えたように、抑圧された内容だけから構成されるものではなく、「意識の閾にまで到達しないあらゆる心的要素」も含むものとユングは説明します(19ページ)。無意識は、いわば人間の心の素材の宝庫とでも言えましょうか。
この点、英語教育などでは「無意識」とは、意識的に学習したスキルが、もはや注意を要さなくても執行できるようになった貯蔵庫ぐらいにしばしば考えられていますが、そういった無意識観とユングの無意識観は大きく異なります。私はユングにならって、無意識とは、言語表現・言語理解の素材の宝庫であり、そこからの豊かなメッセージに耳を澄ますことが言語使用のためには重要だと思います(中嶋洋一先生や田尻悟郎先生も、まずは生徒の心を動かして、生徒が自らの心(特に日頃意識されていない無意識の部分)からさまざまな素材を得させてから英語を使わせていました)。私は四半世紀前は情報処理的心理学の枠組みだけで考えており、そこでは無意識とは単に「注意を要さない心の働き」と考えられていましたが、今の私にはそのような考え方は単純すぎて話になりません。

さて、その無意識ですが、ユングは個人的無意識と集合的無意識の二つのレベルを設定します。個人的無意識の中にある素材とは、「一方では個人の生活における獲得物であり、他方では意識しようと思えば意識できた心的要因」であり、その意味で「個人的な性質をもっている」ものです(33ページ)。

これに対して集合的無意識とは、個人的無意識よりも深い層にあるもので、そこには超個人的、すなわち集合的な内容が含まれています(後に集合的な内容の例として、社会的に共有されている「ペルソナ」や、人類的に共有されている「元型」が示されます)。


第二章 無意識の同化に伴うさまざまな現象

さて私たちは日頃「意識的」に生活していますが、あまりにその意識性が私たちの人生を支配すると、無意識(特に集合的無意識)は、その人生の偏りを補償するために影響力を上げ、はなはだしい場合は、私たちの意識を同化してしまいます。いわば意識がほとんど無意識によって乗っ取られてしまうわけです(繰り返すようですが、ユングは意識と無意識の両方があってこその人間だと考えています)。そうなると私たちの意識は「自我肥大」(44ページ)を起こしてしまいます。本来の「私」 (=自我、Ich, I)を超えた集合的無意識が「私」になったように思えて、自我意識が肥大してしまうわけです。

その一つの例が社会的な職務や肩書といった、個人を超えた集合的なペルソナに自我を同化させてしまい、もはや仕事以外には自分を規定するものがなくなったような状態です(極端な例としてユングがあげているのは「朕は国家なり」です)(44-45ページ)。
他方、自我が「内的なヴィジョンの中に没入し、周りの世界など眼中から消えてしまう人」(50ページ)もいます。「集合的なイメージの魅惑する力」である元型に乗っ取られてしまい、まわりからすれば不可解なほどの人格の変化を起こすわけです。


第三章 集合的心の部分としてのペルソナ

もちろんペルソナや元型は私たちを常に完全に乗っ取ってしまうわけではありません。ペルソナとは「個人と社会との間に結ばれた一種の妥協」(67ページ)であり、社会生活を営む私たちは、それぞれのペルソナ(たとえば教師としてのペルソナ)を演じて社会生活を機能させます。

しかしその社会的仮面の役割があまりにも強くなりすぎ、人がその仮面を脱ぐことができなくなれば、その人本来の可能性が著しく損なわれます。そうすると無意識のさまざまな側面は、その偏りを補償しようと、その人に各種の(ペルソナに自我を乗っ取られたその人には予想しがたい種類の)反応を引き起こします。しかし人はなかなかその無意識からの警告の意味を理解できず、ペルソナに一層しがみついてしまうという例は、私たちの身の回りにもたくさんあるかと思います。



第四章 集合的心から個性を解放する試み

(一つのペルソナに限らない)豊かな無意識は、救済する観念やヴィジョンや内なる声をもって、生に新しい方向を与えます。しかし、そのメッセージを理解しきれないと、人間はそのメッセージに新たに取り込まれてしまうか、あるいはそれを拒否し続け、様々な障害を抱えます。ユングがこの章であげている二つの障害の例は、ペルソナの退行的復元と集合的心との同一化です。

肥大してしまったペルソナ以外の部分の無意識からのメッセージ―それは心理的な形を取ることもあれば身体的な形を取ることもあります―に翻弄される人は、苦しくなり、そのペルソナから逃れようとしますが、単にペルソナを退行的に復元してしまうことがあります。つまり「おびえた子どもの精神状態で、明らかに自分の能力以下の下っ端仕事に就き、前よりはるかに小さい人格の枠内で社会的名声をなんとか繕おうと努力する」(77ページ)わけです。しかし、これでは小さなレベルで問題を繰り返しているだけであり、その人がその人本来の個性を開花させることはできません。やがて無意識はその人に新たな警告を送ってくるでしょう。
もう一つの例である集合的心との同一化では、逆に自我が改革者や預言者や殉教者といった誇大妄想的なさらなる自我肥大を引き起こします。

社会的な妥協として有用なペルソナも、それが強大になると人間の生を損ねます。無意識は、その人にその人らしい個性的な生を実現させようと、さまざまなメッセージを送りますが、そのメッセージを理解しそこねると、人はその症状に苦しみ対処療法を続けてやがて疲弊したり、同じ問題をより小さなあるいはより大きなレベルで繰り返します。
私たちはどうにかして、自分本来の生き方を見つけること―個性化―への途を見つけなければ、人生の不全感は大きくなるばかりです。




第二部 個性化


第一章 無意識の機能


個性化とは、個性、すなわち「私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさ」を有した存在になること、「自分自身の自己になること」、「自己自身になること」、「自己実現」であるとユングは説明します(93ページ)。

逆に言うと、上であげた苦しい状況とは、本来の自己が拒まれている自己疎外の状況です。それが社会的な役割(ペルソナ)であれ、内的ヴィジョン(元型イメージ)であれ、そればかりに自分が乗っ取られてしまうのは、自己疎外に他なりません。

この自己疎外から自己を救い、個性化を助けることができるのが無意識であるとユングは考えます(もちろんその働きに気がつかないと、無意識は不如意な邪魔者としか思えないことは繰り返し述べているとおりです)。

無意識は「折にふれ、あるいは症状として、あるいは行為や意見や情動や空想や夢となって現れ」(98ページ)ます。ここで大切なのは、そういった無意識は、意識的な自我を補償しようとしているのであって、それと対立しようとしているわけではないことです。ユングは言います。

今日の経験が示すかぎりわれわれは、無意識的諸過程が意識に対して補償的な関係にあると主張できよう。「補償的」という。「対照的」といわない。なぜなら、意識と無意識とは、必ずしも互いに対立するのではなく、むしろ互いに補いあってひとつの全体、すなわち自己を形づくるからである。この定義によれば、自己とは、意識的自我より上に位する大きさをもつことになる。それは、意識的心だけではなく、無意識的心をも包括し、それゆえ、われわれもまたそうであるような一個の人格ということができる。われわれは、それぞれに部分的な魂をもっていると考えることができよう。そこでわれわれにとって自分自身をたとえばペルソナとして見ることはたやすい。しかし、われわれが自己として何ものであるか明らかにすることは、われわれの想像力を超えている。それには、さしずめ部分が全体を把握することができねばならない。われわれには、自己というものを近似的にさえ意識することが望めない。われわれがどんなに多く意識化することができようとも、さらに、無意識という無規定的で規定不可能な量は依然として存在するだろう。そして、それをのおいては自己の全体像はありえないからである。こうして自己は常にわれわれの上位にあるものであり続けるであろう。(99-100ページ)

ユングによれば、自己とは、意識と無意識の両方を包括するものであり、私たちはその姿を明確に意識することができません。私たちの自己規定は、自己のほんの一部を示しているものでしかありません。ですが、その自己になろうとすることが自己実現すなわち個性化であり、それは定義上、終わらない過程であるといえましょう(この意味で、通俗的な意味で言われている「自己実現」は、「自我実現」と呼ぶべきかもしれません。そばしば,それは意識的な自分が把握している希望を実現するだけの浅いものでしかないからです)。

自己のうち、意識と無意識が占める量を考えるなら、圧倒的に多いのは無意識です。だから自己実現・個性化のためには、あるいは自己疎外の苦しさから逃れるためには、無意識からのメッセージを理解しなければならないことは再三再四述べているとおりです。だが、意識的心だけを得意とする心は、このメッセージをなかなか理解できません。

無意識の知恵は本能的なものであって、無意識は分化した機能をもっていない。それは、われわれが「思考」ということばで理解しているような仕方では思考するわけではない。無意識は単に意識状態に応えるイメージを創り出し、そのイメージは多くの観念と感情を含んだものであって、これをなんと呼ぼうと、合理主義的な思慮の産物とは似ても似つかぬものなのだ。そのようなイメージとはむしろ、芸術的なヴィジョンと呼ぶことができよう。(108ページ)

無意識の、いわば芸術的なヴィジョンは、「割り切れないもの」 (the irrational) であり(関連記事:全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について)、合理性には回収されません。

さらに、それはいわば独自の生命をもち、私たちにとって実在するものです。外界の物理的対象と同じく(だが違った様態で)内界の心的対象は、私たちにとっての現実です。私たちの意識的心による支配を超えた、独自の実在物です。

およそ創造的な人間であれば、意のままにならないという点こそが、創造的な思想の本質的な特徴であることを知っているはずである。無意識は、単なる反応や反映ではなく、自立的で生産的な活動であるからだ。したがってその経験領域は、一つの独自な世界であり、一個の実在であって、その実在は、われわれがそれに働きかけるのと同じように、われわれにも働きかけると言ってよい。それは外部世界という経験領域についてそう言えるのとまったく同じことである。そして、具体的な事物が外の世界の構成要素であるとすれば、内なる世界を構成するのは心的要素なのである。(112-113ページ)


その心的実在物は、しばしば、元型イメージとして形を取ります。それは男性にとってアニマ、女性にとってアニムスという形を取ることが多いです。


第二章 アニマとアニムス

通常、男性にとっては女性的特徴を可能な限り抑圧することが社会的に推奨されています(また、女性にとっては男性的特徴を隠すことが奨励されています―もっとも男性的な近代社会で働かざるを得ない女性にとっては問題はもっと複雑とも思えますが、これについては後に述べます)。

男性が抑圧する女性的性質は、当然無意識に蓄積され、それは女性のイマーゴ(イメージ)、あるいは魂(die Seeleドイツ語では女性名詞)と呼ばれる無意識的要求の貯蔵所になります。男性はしばしばこの無意識的女性性を投影しやすい女性を恋愛対象に選びます。(118-119ページ)

ですが社会に過剰適応したペルソナをもつ男性は、そのペルソナとの同一化ゆえに、「魂の欠如」に苦しみます(しばしばその苦しみは私生活に隠されています)。ユングは、強固なペルソナに苦しむ男性の心の中に結晶化したイメージをアニマと名付けます。

男性のあるべき理想像としてのペルソナは、女性的な弱さによって補償される。個体は外的に、強い男性を演じる一方、内的には女性に、つまりアニマになる。ペルソナに対抗するのはほかならぬアニマだからである。(128ページ)

ゲーテの「永遠なる女性」とはアニマの表現なのかもしれません(関連記事:Doing and Being)。ですがアニマの無意識性が強いままなら、それはゲーテをも(ましてや通常の人間をも)乗っ取ってしまうかもしれません(一つのわかりやすい例が、「女が腐ったような奴」になってしまうということです)。男性は、貴重なアニマを受け入れつつ、それを自らとは区別しなければなりません(あるいは自らがアニマを投影している女性と、投影されたアニマを区別した上で、さらにそのアニマを自分自身と混同しないようにしなければなりません)。

個性化、つまり、自己実現のためには、自分や他者に対する見せかけの姿を自らと区別できなければならないが、同様にまた自らをアニマから区別することも必要で、それにはまず、この無意識との眼にみえぬ関係組織であるアニマを意識化しなければならない。意識していないものから自らを区別することはできないのだから。(129ページ)

心の内奥からくるものは、まさに自分の心そのものからくるものと人は思ってしまいがちです。ですが、外界での集合的無意識であるペルソナの要求と、自分自身の欲することを区別することが可能かつ重要であるように、(主に男性にとっての)内界での集合的無意識であるアニマの要求と自分自身の欲求を区別することも必要であるし、また可能でもあります(130ページ)。

とはいえ、これは必ずしも容易ではありません。およそ自律的コンプレックス(=独自の生命を持っているように心の内で動く感情的複合体)についてはすべてそうだといえますが、アニマも一個の人格のように思え、それがゆえに容易に一人の女性に投影されがちです(「なべて無意識的なものは投影される」とはユングの言葉です)(132ページ)。

しかし私たちにとって必要なのは、自分がペルソナと違うばかりでなく、アニマとも違うことを認識することです(さもないと私たちは無意識的元型イメージに憑依されてしまいます)。近代人は、外界ばかり眺めたがるので、内界にあるものは闇の中におかれたままになりがちですが、外界に向けるのと同じだけの集中力と批判精神をもって私たちは内界の様子を観察しなければなりません(134ページ)。「世界は外にもあれば内にもあり、外なるものにも内なるものにも等しく実在性がある」(136ページ)わけです。そして外界に天変地異や戦争や疫病が起こるように、内界においてもいつ同じようなことが起こるかわかりません(145ページ)。

と、ここまでユングは男性にとっての無意識的女性性であるアニマについて語ってきましたが、話題を女性にとっての無意識的男性性であるアニムスに移します。

ユングは「ひとことでいいあらわすならば、アニマが気分を作り出すのに対して、アニムスは意見を作り出す」と表現します(149ページ)。アニムスはアニマと違って、一人の人物に擬人化されるのでなく、複数の人物として現れやすいとユングは言います(たしか、この洞察に至ったのはユング夫人の方が最初だったと私は記憶していますが、今、確認はできません)。ユングによれば、男性は概して普遍的なものの方が個人的なものより身近であり、女性が配偶者に求めるほどの単独性を男性は女性には求めません。だから逆に男性の無意識でのアニマには、情熱的な排他性がつきまといます。逆に女性の無意識のアニムスには不特定多数性がつきまといます(155ページ)。

この集団は、「常にすぐさま意見を供給してくれるさまざまな想定のいっぱいつまった宝庫」です(150ページ)。しかしアニムスも(女性に)憑依しがちなものであり、憑依された女性は、深い知性ではなく枝葉末節のことを本題に祭り上げるような一言居士的な人物となってしまいます。ですが女性もアニムスを自覚し、それを自らと区別するなら、アニムスは内面での着想機能として有効に働くでしょう(153ページ)。

ここで蛇足を加えて、近代社会で働く女性について考えてみます。新人女性教師が厳しい職場に赴任した時に、「ここではあなたは女であることを止めなければ、生き残ってはいけない」と言われたというエピソードを私は少なくとも複数知っています。そうなるとそういった女性は、職場で急激な変容が求められ、強固で男性的なペルソナが要求され、アニムスをそのペルソナに憑依させるかもしれません。となるとその女性は、外界での社会的対応のためにアニムス的ペルソナを使いこなさなければならないため、一層アニムスに乗っ取られてしまうかもしれません。そうやって「女闘士」や「氷の女王」となってしまった女性は(内面生活の幸福度はともかく)外界ではそれなりの社会的地位を築くでしょう。

ですが、そこまで無残に自らの女性性を抑圧できない女性は、外界でのアニムスとペルソナの横行に、自らのアニマを二重に蹂躙され、そのアニマは思わぬ形でその女性に憑依するかもしれなません(それは多くの場合、男性社会への適応の失敗を意味するかもしれません。それは女性らしさを大切にする彼女自身の失敗ではまったくないのですが)。

私は近代社会の、資本主義的性質の影響に対して批判的ですが、同じように近代社会の意識性・合理性・男性性にも批判的でなければならないと思います。あまりに歪んだ社会が、臨界点を超えた時の暴走は本当に恐ろしいからです。


第三章 自我とさまざまな無意識像とを区別する技術

私たちはペルソナであれ、アニマ・アニムスであれ、芸術的なヴィジョンであれ、それを受け入れつつも、それらの無意識的なイメージに乗っ取られてはなりません。「ヴィジョンの中のさまざまな形姿に対して、完全な意識をもって反応し、行動しつつ立ち向かうこと」(161ページ)が必要とユングは言います。

このあたりからユングはアクティブ・イマジネーション(能動的想像法)について語っています。無意識的な空想を覚醒状態で思い描き、その空想世界が出してくる状況に、自ら具体的に空想世界の中で対応してゆくセラピーです。空想に対してまじめに反応することにより、無意識に対して、無条件の現実的価値を与えます(167ページ)。


 






夜見る夢にせよ、昼間にふと浮かぶイメージにせよ、アクティブ・イマジネーションにせよ、外界的対応ばかりに追われる近代人はナンセンスとして馬鹿にしてしまいがちですが、私たちはそれと非近代人のように真摯に向き合うことを学ぶべきでしょう(と同時に、近代人としての作法も忘れてはならないことは言うまでもありません)。無意識の歪みが引き起こすと考えられる心身症に対しても、近代人は生理学的な対処療法しか行いませんが、私たちはもっと病の「意味」を考えるべきでしょう。ユングはある患者に対してこうまとめています。

私の患者の意識的態度は、あまりにも一方的に知的で理性的でありすぎたので、自然自身が彼の中で反抗し、彼の意識的価値世界全体を破滅させるに至った。だからといって彼は、自分自身を知的でなくすことはできないし、たとえば、感情のような他の機能にたよることもできない。要するにそれを持ちあわせていないからできないのである。無意識はそれをもっている。だから、われわれには、無意識にいわば指導権を委ね、自分から空想の形で意識内容に変ずる機会を与えてやるほかに手はない。これまで患者が自分の知性世界にしがみつき、自分でこれは病気だと思い込んで、それに対してもっともらしい理屈をこねて、身を守ってきたとするならば、今度はまさにその病に身を委ねなければならない。そして抑鬱が身にふりかかってきたならば、それを忘れようとして、むりやり仕事その他を自分に押しつけたりしてはならず、むしろ自分の抑鬱を受け容れ、いわばそれに発言させてやらなければならない。(165ページ)

(英語教育界での)近代的認識論(多くは論理実証主義を水で薄めたもの)は、無意識や内界など「現実」ではない、と言います。しかしユングに言わせれば「現実的とは、現実に働いているもののいいである (Wirklich aber ist, was wirkt)」(168ページ)となります。論理実証主義者ですら、馬鹿げた広場恐怖症やその他の心身症に捕らわれたりするとすれば、私たちは、内界や無意識の重要性をきちんと認識するべきでしょう。たとえそれが手持ちの認識論では扱い難い現象だとしても、私たちはまず現実世界の営みを直視し、そして必要に応じて認識論を変えなければなりません。


無意識内容が了解されないと、「そこからは否定的な活動や人格化、つまり、アニムスとアニマの自律が生じてしまう。心の異常が生じ、よくある気分や「観念」から精神病にいたるまで、あらゆる段階の憑依状況が生じる」(180ページ)ともユングは警告します。しかし、空想の生起に積極的に関与することによって、本来無意識的な空想をたえず意識化しつづけるあらば、その結果、(1) 意識が拡張され、(2) 無意識の支配的影響が支配的に取り除かれ、(3) 人格の変化が生じる、とユングは臨床経験から結論づけています(171ページ)。アニマやアニムス、あるいはペルソナや元型イメージは、それら自身として認識し、それらが擬人化し自律化して、私たちの人生を乗っ取ってしまうことを防がなければなりません。



第四章 マナ人格

もしアニマやアニムスなどを意識化することができ、アニマやアニムスから力―ここでユングは「マナ」という用語を使っています―を取り除くことができたとしても、さらに落とし穴が一つあります。意識的自我がそのマナを引き受け、「マナ人格」となってしまうことです。マナ人格とは、集合的無意識の優性形質であって、英雄や酋長、魔術師や呪医や聖者、人間および精霊たちの支配者や、神の友といった形の力ある男性、あるいは太母(グレートマザー)の女性の元型(イメージ)です(185ページ)。

これは自我肥大に他なりません。自我が自らの分を超えた元型イメージと同一化してしまっているからです。ユングは、マナ人格について「自我はまったくアニマを克服してなどおらず、したがって、マナも獲得していないといわざるをえない。ただ新たな混交が生じたにすぎないのだ」(186ページ)と注意を喚起します。

自我はほかでもなくおのれがアニマに勝利を収めたと夢見たことによって、まさに「呪術師」の手に落ちたのである。それは無意識に対する自我の越権であった。そして自我の越権は無意識の越権を招来せずにはいない。(187ページ)

こうなれば問題が逆戻りです。私たちは自我の勝利という幻想を控えなければなりません。ですが自我がひたすらに自らの無力を主張すればいいともユングは考えません。

ひとが自らをマナ人格と同一視しないのはいいとして、その代わりにこんどはそれを具体化して、「絶対性」という(多くの人にとってきわめて心をそそられる)属性を持った、超現実的な「天上の父」に祭り上げてしまう可能性がある。こうなると無意識に対して、またしても絶対的優位が与えられるわけで(信仰の努力がそれに成功するならば!)、それによってあらゆる価値はそちらの方へ流れ去ってしまう。あとに残るのは、論理上、ただ、もうみじめで、劣等で、役立たずの罪深いだけの人間ばかりということになる。周知のように、この解決法は歴史的な世界観となってしまった。(197ページ)

マナ人格の解消は、「自我」や「天上の父」にではなく、「われわれ自身」に求められなければならないとユングは考えます(200ページ)(ユングは、身体レベルでの信仰を持っていなかった牧師の父をあまり尊敬できていませんでした)。「われわれ自身」とはもちろん意識的自我でもなく、無意識でもありません。それは外界と内界の諸力の間にはさまれて、存在し、生きている何かです。

私は、この中心を自己 (Selbst, self) と名づけた。知的には、自己は、心理学的概念にすぎない。それは、われわれにはそれそのものとしては把握できない、認識不可能の存在を表現するための構成概念である。それは、すでにその定義からして、われわれの理解力を超えている。呼ぼうと思えば、「われわれの内なる神」と呼んでもいいだろう。われわれの全精神生活は、まさにこの一点に解きがたいすべての端緒を発しているかに見え、あらゆる最高かつ究極の目標も、ひたすらこの一点をめざしているように思える。こうした逆説は、われわれが、みずからの理解力の彼方にあるものを言葉で言い表そうとするときには、常に避けることができない。(201ページ)。

こうして見ると、ユングは近代の歪みを自覚し、非近代の人間のあり方に学びながら、新たな人間像を組み立てたと言えるでしょう。ですが、大切なことは、これはユングが机上で考えた人間像ではなく、多くの臨床経験の中から(そして自分の心的葛藤の中から)体系化したものであるということです。

ユングは再三再四、自分の理論(およびあらゆる心理学理論)が、一般的な真理として流布してしまうことを批判していましたので、ここでユング理論を振り回すことは避けなければなりませんが、人間理解の一つの視点としてユング心理学(あるいはユング思想)が非常に有効であることは間違いないと思います。






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