2014年2月14日金曜日

C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー



[この記事は、3月9日の「言語教育エキスポ2014」(PDFプログラム)で、9:00-10:30に開催される「シンポジウム4: 文学指導は学習者をどのように動機づけるか」の発表の準備の一貫としてまとめたものです。

このシンポジウムは、関戸冬彦(獨協大学),柳瀬陽介(広島大学),和田玲(順天中学・高等学校),鈴木章能(甲南女子大学),中垣恒太郎(大東文化大学)をメンバーとしています。趣旨は、以下の通りです。]

「今日英語教育では実用技能の向上を目指した授業が多いが,高校生,大学生に,人生や人間の真実を思考させなくてよいのだろうか。そこで文学教材の意義を問い直したい。文学教材の扱い方次第では,英語の技能向上にも寄与しつつ,学習者が自己拡大を感じることで積極的な学習姿勢の構築,動機づけ,が可能になるのではないか。これらの点を中心に,高校,大学での実践,英文学,英語教育の連携,を探るべく五人の論者で発表を行う」



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老松克博先生の入門書でも見事に示されているように、ユング心理学(あるいはユング思想)は、文芸作品理解を深めてくれる。ここではユングが文学芸術作品について書いた論文を集めた『創造する無意識―ユングの文芸論 (平凡社ライブラリー)』を私なりにまとめる。言うまでもなく、私はユングの専門家ではないので、私の誤解が入っているかもしれない。ご興味をもった方は、必ずご自身で書籍をご参照ください。



■ 象徴とは

芸術作品はしばしば「象徴」的な表現をするといわれる。この場合、「象徴」ということばを誤解しないことが重要である。フロイトは、ある無意識的背景の存在を示す意識内容を「象徴」と呼んだが、ユングはこの用法には賛成しない。フロイトの場合は、ある意識内容がある無意識的背景をいわば指し示しているだけであり、このような機能は、「徴表」あるいは「症候」の役割にすぎないとユングは批判する。

ユングによれば、「象徴」とは、「それ以外の形では、あるいはそれ以上の形ではまだ把握することのできない直観の表現」(18ページ)であり、「私たちの現下の理解力を越えた、より広くより高い意味の可能性であり示唆」(34ページ)である。私になりに言い換えれば、「象徴」とは、その内容を、何か他のものを指示することに還元してしまうことのできない表現であり、それ以外の形では、その汲みつくせない内容を表現できない表現となる。単なる指示記号において、形と意味は、指示記号と指示対象という形態で二分できるが、ユングのいう「象徴」において形と意味は分離できない。だが象徴の形と意味は同一であるわけではない。私たちの物理世界においては「象徴」はある形をとるが、それが意味することは、その形だけに還元されるわけではない。

別の言い方をするなら、芸術における表現は、やはり「象徴」的であるといえよう。ある音楽作品の、あるパートのある音色は、何か他の観念や物を表象 (re-present) しているわけでもなく、かといって、それは単なる空気振動に還元されるものでもない。それは「象徴」として、汲めども尽きせぬ何かを表現し続ける。

近代言語学の意味論では、やはりことばの意味を、何かの物理的対象物か観念対象を指示するものととらえることが多いかと思うが、そういった意味論では、文学や芸術の「意味」は理解できないだろう。これまで英語教育などで文学を語る場合、本来文学について考察するには適切ではない道具立て(例えば、こういった近代言語学的意味論、あるいは「英語力」指標としてのTOEICテストなど)を使うことがあまりにも多かったと思うので、ここで注意を喚起しておきたい。



■ 芸術家とは

さて、芸術家とはそういった象徴的表現を生み出す者であるが、芸術家は意識的なコントロールでそういった表現を計画的に産出しているわけではない。ユングは言う。

実際に芸術家を分析していますと、つねに繰り返し見せつけられるのは、無意識からやって来る芸術創作の衝動というものが、いかに強く、また気まぐれで、しかも一方的な有無をいわせぬものであるかということなのです。偉大な芸術家の創作衝動がいかに強く、当人の人間性の一切を引っさらい、健康や人間としてのごく普通の幸福を奪い取ってまでも、その作品に奉仕させるものであるかは、これまで多くの伝記作者が証明してきたところではなかったでしょうか。(29-30ページ)


いわば芸術家は、芸術表現に乗っ取られるわけである。ユングは、この無意識的な芸術的衝動を人間の心の中に生きる一つの生き物であると喩え、それを「自律的コンプレクス」と呼ぶ(この場合の「コンプレクス(コンプレックス)」とは、日常的な意味での一面的な「劣等感」ではなく、多面的な感情の錯綜である心的複合体を意味する)。上の引用に続けてユングはこう言う。

芸術家の心の中にあっていまだ生まれ出ていない作品は、一つの自然の力であって、暴君的な腕力を振るうか、自然が目的を貫くときのあの微妙な狡知を働かせるかして、創造の担い手である人間の個人的安危や禍福にはおかまいなしにおのれを貫こうとするのです。創造的なるものは人間の中に、大地に木が生えるように生きて育つのであって、貪欲に養分を吸い取ります。だから私たちは、創造的形成のプロセスを人間の心に植え付けられた一つの生き物であるとみなしていっこうに差し支えありません。分析心理学はこれを自律的コンプレクスと読んでいます。それは心の分離した一部分として、意識の支配を逃れた独立した心的生活を導き、そのエネルギー価に応じ、力に応じて、あるいは任意の方向に向かう意識のプロセスを妨害したり、あるいは自我より上位にある審判官として自我を思いのままに動かしたりするのです。(30ページ)[以上の引用の原著は、Über die Beziehungen der analytischen Psychologie zum dichterrischen Kunstwerk]


村上春樹には、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という逆説的なタイトルをもつエッセイ集があるが、この表現は、上の「人間の心に植え付けられた一つの生き物」あるいは「自律的コンプレクス」が動き回る時空(すなわち「夢」)をできるだけ明瞭に書き残すために、作家は覚醒しておかねばならないと読めば、まったく矛盾なく読める。そういえば何かのインタビューで、村上春樹はユング心理学者の河合隼雄氏ほど、物語を書くということの意味を理解してくれた人はいなかったと述べていた。また、冒頭にもあげた村上克博が熱心に紹介しているユング心理学のアクティブ・イマジネーション(active imagination)は、芸術的創作と重なるところの多いものである(というより、私には両者の違いがよくわからないほどだ)。










芸術家とて、日常生活では世俗人であり、世俗世界的な個性と特徴をもった存在であるが、彼が芸術創造をしている時、彼は世俗的個人ではなく、いわば「人間」という器であり、人間の無意識(特に集合的無意識)が姿を現すための道具とすらもいえるかもしれない。

芸術はあたかも衝動のように芸術家に生得のものであって、彼を捕え、道具として使役するのである。彼の内にあって意欲するものは、究極のところ個人としての彼自身ではなく、芸術作品なのである。個人としての芸術家はあれこれの気まぐれや意思や自分の目的をもつこともできるだろう。しかし芸術家としては、彼はより高次の意味において「人間」であるにすぎない。彼は普遍的人間なのである。無意識のうちに働いている人類の魂の、彼は担い手であり形成者なのである。(87-88ページ)[原著はPsychlogie und Dichtung]




■ 無意識の創造

こうなると芸術作品とは、人間の無意識が、人間の意識の力を借りて、自らを現したものといえよう。その無意識も、ユングは、私たちが通常言うような意味での「個人的無意識」だけでなく、それよりも深いレベルの「集合的無意識」(河合隼雄は「普遍的無意識」と訳した)も意味した。集合的無意識は、人間が種として共通にもっている生物学的・人類学的特性から、ある一定のイメージを生み出しやすい。ユングはそれを元型イメージと呼んだ(例えば龍は東西の文化で想像されているが、これも元型イメージの一つだろう)。元型イメージは、上で説明したような意味で「象徴」であり、尽きせぬものを私たちの心に喚起する。元型とは、そういった象徴を生み出す作用点として想定されている。

そうなると芸術作品とは、元型のイメージ化とも表現できる。その時代その地域の人間が、人間一般として損なってしまった無意識の元型が、その人々の生のバランスを取り戻し、生がより統合的になることを助けるために、芸術家という器を借りて、自らを表したのが芸術作品といえるだろう。[これら二つのパラグラフには、私独自の理解が多く入っていますから、特にご注意ください]。

創造のプロセスとは、少なくとも私たちに辿れる限りでは、元型の無意識の賦活であり、それを発展させ形づくって、完成した作品に仕上げることにほかなりません。原初的なイメージを造形するとは、言ってみれば現在の言葉に翻訳することであり、それによっていわば万人に、さもなくば汲み損ねたであろう生の最も深い源泉の入口が、再び見つけられるようになるのです。ここに芸術の社会的な意義があります。芸術は絶えず時代精神の教育に係っている、というのも、時代精神に最も書けた形姿を呼び出すからなのです。現在への不満から、芸術家の憧憬は内に向かい、時代の欠陥と一面性を有効に補償するのにちょうどふさわしい現像を無意識の中に探り当てるのです。この現像を捕え、無意識の深みから引き上げて意識に近づけるとき、現像の方も姿を変えて、現在の人間が把握しやすいように、その理解力に応じた形をとります。(46ページ)[原著は、Über die Beziehungen der analytischen Psychologie zum dichterrischen Kunstwerk]


ここには、ユングの基本的考えである、「無意識的な表現とは、意識の偏りを補償するために現れたものであり、意識はその意味をできるだけ認識することにより、人間はより十全な存在になれる」という自己実現(あるいは個性化)の理論がある。

少なくとも私にとって、ユングのこういった芸術理解は、納得いくものであった。芸術が、より意味をもつようになり、より私の生を助けてくれるものになったような気がする。拙いまとめをここに掲載するゆえんである。



■ 解釈の限界

しかしユングは自らの学説の教条化に対して常に批判的に警戒している。私たちも一知半解のユング理論を「真理」として振り回す愚(というより暴力)を恐れ、控えなければならない。ユングは言う。

心理学者はつねに、自説がまず何よりも自分自身の主観に含まれるものの表出であり、したがってそのまま一般に妥当するかのように言い立ててはならないことを銘記しなければならない。心の可能性という広大な領野にあっては、個々の研究者が解明に寄与できるのはさしあたりほんの一つの視点にすぎない。ということは、仮にこの一つの視点をたとえ要望としてでも一般に拘束力をもつ真理とするならば、客観に対して最悪の暴力を振るうことになるだろう。この上なく色彩豊かで、多くの形象と意味に満ちているのが実際心という現象であって、その充溢をたった一つの鏡に映し取ることなどできたものではない。また私たちはその叙述の中でけっして全体を把えることもできはしない。ただそのときどきに現象の総体のうちの、いくつかの部分だけを闡明(せんめい)することで満足するしかないのである。(52-53ページ)[原著は、Psychologie und Dichtung]




無意識を、私たちが意識的に理解し尽くしたと思うほどの傲慢もないだろう。私たちは無意識の力を尊び、そのメッセージを意識で少しずつ理解しようと試みながら、さらに無意識、換喩的に言うなら「からだ」の声を聞き続けるべきだろう。













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