日本のうつ病対策は、投薬という生理学的アプローチばかりで、カウンセリングなどの心理学的アプローチはまだあまり制度化されておらず苦しむ者がそれほど利用しやすいものではない。さらにその人のワーク・ライフ・バランスなどに対して専門的に助言や支援をする社会的アプローチは、もっと少ないだろう。
だがそれよりも少ない、というより下手をするとほとんど認識されていないのは、身体へのアプローチである。
米国の精神科医アレクサンダー・ローエン (Alexander Lowen, 1910-2008)は、心とからだが機能のうえで同じであるという考えを基盤におき、特に呼吸と身体の動きが感情を決定するとして (p. 9)、からだのエクササイズを重視する。
近代的通念というものは、心と身体を分けて考えるものであるから ―しばしば大学などで人はそのように教え込まれる― 身体が心の問題に関係するという考え、ましてや、心の問題とは身体の問題だという考えまでになると、多くの人は抵抗を覚えるかもしれない。
しかし、環境はからだへの影響を通してのみ人に感じられる。人は自分のからだだけを感じることができるからである。人は、環境に対するからだの反応を感じ、その知覚を刺激物に投影しているに過ぎない (p. 42)。
スピノザ風に言えば、「心は身体の観念」であり、ダマシオ流に言えば、血流・神経・臓器・筋肉等などにおける身体内のさまざまな動き ―情動 (emotion)― こそが、心の基盤である。私にとっては、スピノザの表現よりも「心は身体の感情」という表現の方がぴったりとくる。
この意味で、心と身体を峻別する二元論的発想は、現実を捉えそこねる。ローエンも、精神疾患 (mental illness)は間違った名称であり、これは情動障害 (emotional disturbances)と呼ぶべきであるとする(注)。情動 (emotion) とは、接頭辞の「外へ」 (e) と、語幹の「動き」 (motion) から成る語であることから、彼は、情動障害とは人や世界に対して外に向かっていく (e-motion)能力がないことであると述べる。 (p. 30)
(注) 翻訳書では「情緒障害」という訳語が充てられていたが、用語の一貫性を保つため、ここでは「情動障害」とした。
もちろん、身体を重視するからといって、心理的要因を逆に切り捨てるということではない。心理は常に身体に影響し、また身体も常に心理に反映されるというところだろう(心身問題は語り始めるといくらでもややこしくなるから、ここではこれ以上議論はしない)。
だから、心理的に抑圧されている人は、身体にも抑圧が見られる。呼吸は誰でもやっていることだが、その呼吸一つとっても、無理がある。
ローエンは、十分に楽な呼吸ができない人は、しばしば、子どもの時に息を止めて泣き止み、肩をひき胸を緊張させて怒りを抑え、喉を絞めつけて叫び声を殺していたと、彼の臨床経験から推定する。そういった人たちは、呼吸から感情が生まれ、未だに克服できない自分の悲しみ、怒り、そして恐怖に触れることを恐れている。だから身体を硬くして楽に呼吸をせず、否定的な感情に呑み込まれることから逃げようとしているのだ (p. 13)。
人間は動物である以上、通常は、快をもとめ苦痛を避けるという「快/苦痛の原則」に従う。だが、意識的な知性をもつ人間は、さらに「現実原則」と呼ばれるものにも支配されている。将来その行為によりさらに大きな快感を得る、あるいはより大きな苦痛を避けることができると信じると、現在の快感を控え、苦痛に耐えるのが人間である(p. 241) 。
この現実原則は、いわゆるマシュマロ実験ともつながると私は理解しているが、マシュマロ実験が我慢できる子どもに肯定的なイメージ(後年の社会的評価や大学進学適性試験 (SAT) の成績など)を与えている一方、ローエンの「現実原則」は、敵意に満ちて自分を罰する親に向き合っても、親から見捨てられて孤独になることの方をより恐れる幼い子どもという否定的な文脈で語られている (p. 241)。
マシュマロ実験の子どもは、「今マシュマロを食べない」ということで、「後でさらにもう一つマシュマロを食べられる」というより大きな快を求めての選択をする。だが支配的・専横的・否定的な親に育てられた子どもは、「今、親からの抑圧を我慢」しさえすれば、「将来、親に見捨てられたり完全に拒絶される」というより大きな苦痛を避けるための選択をする。マシュマロ実験の子どもは、我慢という苦痛の後に二倍のマシュマロという大きな快を得て話はそこで終わるが、抑圧的な親に育てられた子どもは、見捨てられや拒絶という最大の恐怖に常に怯えながら、絶え間なく続く抑圧に耐え続ける。マシュマロ実験と違い、そんな子どもにとっての話は終わらない。
そういった抑圧に人間はそう耐え切れるものではない。だからやがて子どもは問題行動を起こす。その問題行動で子どもはやむにやまれぬ自己表現を果たす。
だが、社会的に「よい子」の役を演ずることに長けた子どもは、「よい子」を演じ続けることで、親からの要求に応じるのだが、「よい子」というのは、周りからも賞賛されるので、存外に長い期間にわたり、よい子を演じ続けることになる。やがてそれがその人のペルソナ(仮面)となる。
なるほどそのペルソナは、親からの過剰な要求と社会的な期待の両方に応じることができる便利な方便だが、その人の内面は抑圧され続けている。その内面は、いつか爆発する。だが、爆発の予兆を感じたその人は、よけいにペルソナを強化しようとする。となれば、抑圧された内面は、ペルソナでなくからだにおいて、やむにやまれぬ表現をする。
ローエンは言う。
うわべを繕っていれば、常にからだにストレスという負担がかかり、病気にかかりやすくなります。自分以外のものになろうとしているのですから、人格とからだがゆがみます。
このゆがみ (ストレス) が長期にわたりつづくと、からだの内部構造が破綻します。壊れるのはうわべではなく、からだの組織です。構造の統合性を犠牲にして、うわべが護られます。 (p. 245)
子どもの問題行動が、やむにやまれぬ表現であり、自己回復の叫びであると同様に、上記のような人の病気もある意味でその人にとって必要な表現であり、からだからの強力な自己回復への申し立てである。ローエンは、病気は常に、からだがストレスに対処できない状態を示している (p. 192) のであり、同時にそれは、からだがその統合性を回復しようとする試みであるとみなすべき (p. 194)とする。
無論、いくら必然性があるからといって、いきなり大きな病を得ることは好ましくない。病が修復困難なダメージをその人に与えるかもしれないからだ。
だから、過去や現在の抑圧に耐えるため感情を抑えようとしてからだをこわばらせている人は、毎日少しずつ、からだの声を聞いた方がいいだろう。テレビを切り、スマホをしまい、仕事を忘れ、短時間でも自分のからだを感じることを覚えなければならない。
もちろん抑圧された人は、「そんな時間などない」と抗弁する。だが、そのこわばった抗弁の表情こそが、逆に問題の重大性を示している。社会的効用が何もないように思える、自分のからだとの対話を行わねばならない。いわば、「からだの命を生きる」のだ。
からだの命を生きるとは、十分に感情に触れ、それを表現することです。そのためにはできるかぎり慢性的な筋肉の緊張を取り、その影響を受けないようにしなければなりません。自分のからだに起きていることを感じてください。そのためには、時間をかけてからだに取り組み、脚と大地を感じ、姿勢や呼吸に意識をもっていくことです。 (p. 247)
「からだは嘘をつかない」というのは至言である。ことばは時に嘘をつく。他人に対しても自分に対しても。
人間にとって、自分のからだが告げること以上の真実はない。
からだが何かを叫んできたら、とにもかくにもからだの声に従おう。
そしてからだが叫ばずともいいように、日々、呼吸を味わい、鼓動を感じ、からだの中の様々な動き ―つまり情動― を感じる時間をもとう。それは単にぼおっとしている時間かもしれない。しかし生き物としての人間にそういった時間は不可欠だ。
それすらも許さない他人や制度には、牙をむいてでも抵抗しよう。当事者が動けないなら、周りの人が牙をむこう。
それが人間の自然 (human nature) というものではないか。
■ 関連サイト
IIBA (International Institute for Bioenergetic Analysis)
http://bioenergetic-therapy.com/index.php/en/
Alexander Lowen Foundation
http://lowenfoundation.org/
BIPS (BIO Integral Psychotherapy School)
http://bodypsychotherapy.jp/bips.html
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