私もアダルトチルドレン(アダルトチャイルド、以下、ACと略記)という用語は私も20年以上前から知っていたが、「要は大人になりきれない子どものことでしょ」ぐらいの誤解のままで、最近になるまでその含意を十分に知ることができていなかった。
だが知ってみると、この用語が示そうとしている事象は、思ったよりも広範囲でかつ深いレベルにまで影響を与えているようだ。いくつか本を読んだが、この二冊(以下『向きあう』、『変えていく』と略記)は読みやすく、また、問題を抱える人にとって有効だと思うので、ここに簡単に紹介する。
ACとは、もともとはアメリカで「アルコール依存症の親のもとで育った人」を指していたが、そういった人は子ども時代に、親の深刻な飲酒問題を何とか解決しよう、あるいは解決できないまでも何とか緊張を和らげようと必死の努力をする。中には自分が問題行動を起こしたり病気になったりして家族の関心をそちらに移し、無意識のうちに家庭の崩壊を食い止めようとする子どももいる。だが、いずれにせよ共通しているのは、親からの安定した愛情を得ることができず、「愛されたい」、「見捨てられたくない」という気持ちを強くもちながらもそれを心身の深いレベルで抑圧しているということだ(『向きあう』 10-11ページ)。
そういった子どもは、「ありのままの自分」を肯定されたことがほとんどないので、しばしば成人になっても、「自分主体ではなく、他人や周囲を主体とすることで自分を守ろう」とする。そういった生き方を著者は「共依存」と定義する。(『向きあう』 11ページ)
現在、ACはアルコール依存症の親のもとで育った人だけでなく、機能不全家族や、感情を抑圧された家族のもとで育った人たちを広く指すようになっている。(『向きあう』 12ページ)。
また、著者が注意を喚起するのは、日本社会はACと呼ばれてしまうような人を作り出しやすい社会であるということである (『向きあう』 12 ページ)。一つには日本社会では、(いまだ)個人より集団を優先し、その人らしくあることより、集団の中で期待される役割をきちんとこなすことが求められる(これは学校でも会社でもそうだろうし、多くの家庭でもそうかもしれない)。
また、何事もまわりとの比較で評価される社会でもある。この傾向の進行は、近年学校現場で激しく、多くの教師が「評価」をどうすればいいか悩む。なぜなら、近年求められている「評価」は、子どもの発達や特徴の個性記述ではなく、必ずといっていいほど「客観的」な「エビデンス」に基づいた、可能な限り数量化した評価だからだ。子どものあり方をそういった数値に還元してしまい、子どもにも親にも社会にも、その子どもの学びを、他と必ず比較されずにはすまない数値にしてしまうことに、子どもの様子をよく理解している教師ほど抵抗を覚える。だが制度化された社会的圧力は強く、子どもは子ども時代を通じて、数値で評価され続ける(私は評価と権力(の付与と剥奪)の関係についてしっかり考えたいが、その考察は他日に任せたい)。
さらに、日本文化は怒りや悲しみをあからさまに表現することを抑えることが社会的に要求されている。逆にいうなら、ハグなどの親愛の情の表現もいまだ少ない。
こういった状況では、ACと言うべき人は少なくないと著者は考えている。
だが「AC」とは汚名でも烙印でもない。「ACは病名ではありません。人格的な欠陥でもありません」(『向きあう』 13ページ)と著者は明言する。
ACとは、他人や自分という人間を都合よく決め付け、巧みに排除・否定する(他人の排除なら差別やいじめ、自分自身の否定なら自己疎外)ために使われる(べき)名称ではない。
ACという用語が広まるにつれ、誤解が生じていることを著者は懸念する。ACは親の子育ての不備を告発することばではなく、親や周囲の問題から自分自身の生き方へと視点を移すキーワードであると著者は訴える(『変えていく』 138ページ)。
私たちが過去をふりかえるのは、
親や家族を断罪するためではありません。
自分をあわれむためでもありません。
過去を書きかえるためでもありません。
私たちが過去をふりかえるのは、
自分を縛っている鎖がどこにつながるのかを
見つけだすためです。
そして、大人になった自分はもう、
その親に縛られる必要はないということを
知るためです。
(『向きあう』 26-27ページ)
かくして、これらの本は、自分が苦しくても周囲の期待どおり走り続ける人、誰かに素直な気持ちを伝えることができない人、リラックスして人生を楽しむことができない人(『向きあう』 13ページ)、―そして、それらの特徴に加えて、不全な子ども時代を送ったという特徴をもった人に対して書かれている。
とはいえ、おそらくACに該当し、明らかに苦しんでいる人は、自らがACであるかもしれないことを時に頑なに否認する。自分の家族に問題があったかもしれないことを意固地なほどに否定する。その背景には、ACを生み出す家庭にはしばしば
話すな
信頼するな
感じるな
信頼するな
感じるな
という不文律があるからだ(『向きあう』 41ページ)
「家族の問題を、他人はおろか、家族内でも語ってはいけない(なぜなら、語り始めると問題が明らかに露呈してしまうから)」、「家族以外の他人は信頼できない(なぜなら、もっとも身近なはずの家族の言動でさえ信頼できないのだから)」、「悲しみや怒りなどの感情を抱いてはいけない(なぜなら、誰もそういった感情を受け止めてくれず、それどころか、しばしばそういった感情はあからさまに否定され嘲笑されるから)」、というのはACを生み出してしまう家族で無意識のうちに形成されるルールであり、ACに該当する人は、成人後もそのルールに従ってしまい、自分自身に対しても、他人に対してもなかなか率直・素直になれない。
しかしそういった人も、率直に過去に向き合い、自らの再生を果たすことができると著者は多くの臨床的経験から確信し、この二冊の本を上梓している。著者は、『向きあう』を先に読んでから、『変えていく』に進むことを推奨している(後者だけでは、下手をするとそれが「よくあるアドバイス」にしか聞こえなくなるかもしれない)。
前者の『向きあう』もただ読めばいいというのではなく、必要を感じれば、時に読み進めることを中断したり、信頼できる親友やカウンセラーと語り合ったりしながら、ゆっくりと読むべきだと、著者はこれまた数々の臨床経験から勧める(言い忘れていたが、著者は「アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター」である。ただし私はこのセンターについてこれ以上の知識はない)。
大切なことは、読書に伴って過去を想起する際に、そこから生じる感情をそのままに味わうことである。著者は言う。
ACが自分を変えていくためには、深い感情のレベルで揺り動かされ、癒される体験が不可欠だと思うようになりました。それは、頭でわかるのとはちがうレベルの理解で、感じることが中心になります。この「感じる体験」に認知と行動が加わってはじめて、歯車が動きだすのです。(『向きあう』 134ページ)
しかし、救いをもっとも必要とする人に限って「感じる」ことができないのは、上記の「話すな・信頼するな・感じるな」の不文律などにより、その人が、身体の情動を抑圧することを長年にわたり学習しているからだ(関連記事:アレクサンダー・ローエン著、国永史子訳 (2008) 『からだは嘘をつかない』春秋社)。子ども時代の不全から抑うつ症状に苦しむ人は、「感じる」ことがなかなかできない。
最相葉月によるすぐれたドキュメンタリー『セラピスト』で、医師仲間から「ボーン・セラピスト」(生まれながらのセラピスト)と呼ばれたエピソードが紹介されている山中康裕は、うつ病を「人格の統一性は保たれているが、感情と人格が乖離」した状態と表現しているが、そういった人は感情を人格レベルで取り戻すことが重要であろう(ちなみに山中は、統合失調症を「本当の自己」と「にせの自己」が乖離してしまった状態、神経症を「人格そのものは保たれているが、過度に抑圧されたコンプレックスによって、何らかの考えに捉われたり、何らかの行動や症状に精神活動の一部を支配されている状態」、心身症を「体が病むという形をとることによって、精神が病むことを防いでいる」状態、と表現している(山中 1996, 201-203ページ)。
ともあれ、どこか人生が生きにくく、子ども時代に対して肯定的な感情をもてない人が、(自分を含めた)周りにいるなら、こういった本を読むことは、打開への途となるかもしれない。
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