この本については、べてるの家が出しているメールマガジン(ウェブマガジン)『ホップステップだうん!』 (Vol.159) で知りました。
そこでは向谷地生良先生がウンガー氏の講演を取り上げながら、レジリアンスをもっぱら「心理的なモデル」として扱うのではなく、「人と環境」を重視するソーシャルワークの視点で考えることの重要性を説いていました。(下の動画は、私の研究仲間が教えてくれたものです)。
以下は、この本のいくつかの章について作ったお勉強ノートです。 「(p. 5) 」といった表記は、はこの本のページ数を表しています。 →以下の記述は、本書のまとめや引用を受けての私の蛇足です。
いつも以上に、私の誤解・誤読を怖れます。また、以下のまとめや引用が元々の文脈を離れて別の意味合いで理解されてしまうことも怖れます。以下の話題に興味がある方は必ずご自分で原著をご参照ください。
なお「レジリアンス」は「レジリエンス」ともしばしば表記されます。前者はフランス語の発音に、後者は英語の発音に由来するようで、本書では日本語の発音のしやすさから前者が用いられています。ですからこのまとめでも前者の表記を使うことにします。
加藤敏
「現代精神医学におけるレジリアンス概念の意義」
(pp.1-23)
■ DSM批判
Andresasen (2007) によれば、DSMの問題点としては、(1)診断クライテリアが限られた症状しか含んでいない、(2)患者の病歴や生活史を聞くことがなされなくなり、患者に対して非人間化作用 (dehumanizing effect) を及ぼしている、(3)信頼性 (reliability) を達成するために妥当性 (validity) が犠牲にされていること、があげられる。
DSM and the Death of Phenomenology in America: An Example of Unintended Consequences
Nancy C. Andreasen
Schizophrenia Bulletin, Volume 33, Issue 1, 1 January 2007, Pages 108-112, https://doi.org/10.1093/schbul/sbl054
この批判は、生物学的(医学)還元モデルの行き過ぎに対する反省に根ざしていると考えられるが、レジリアンスは、患者の生物学的身体における自己修復(あるいは自己組織化)と捉えられる。さらには言語をもちいる文化的身体における実存的主体としての自己再構成(あるいは自己組織化)と把握できる。この点でレジリアンスは時宣を得ている。(p.5)
→個人的には、一見もっとも無害に思える (3) の影響が大きいと考える。私の分野(英語教育)で言うなら、言語テストでも、「客観テスト」であることを標榜するあまり、(3) から (1) を生み出し、その結果、(2) といった人間的側面を扱うことを忘れつつあるように思う。
■ 現在の日本の精神科医療批判
「極端なことを承知で敢えて言えば、 現在の日本の精神科医療は精神科患者に対する過剰な「障害化」と「脱主体化」の方向に進んでいる観をぬぐえない。(中略)前向きの治療を進めていくうえでは、「障害化」をできるだけ防ぐべく、レジリアンスを踏まえて、主体化、ひいては責任化 (responsibilisation) を促す治療指針が肝要である。」 (p. 20)
→たとえば以下の論文では、"responsibilisation"という概念は批判的・否定的に扱われているが、上の引用は、あまりにも「脱主体化」されてしまった患者の人間性を取り戻すための概念として使われている。この "responsibilisation" は当事者研究の「苦労を取り戻す」につながる概念だと私は解釈している。
Neo-Liberalism and Responsibilisation in the Discourse of Social Service Workers
Linda Liebenberg Michael Ungar Janice Ikeda
The British Journal of Social Work, Volume 45, Issue 3, 1 April 2015, Pages 1006-1021,
https://doi.org/10.1093/bjsw/bct172
田辺英
「医学哲学からみた発病モデルと回復(レジリアンス)モデル」
(pp.51-74)
■ 二つのモデル
臨床医学での病気・治療に対する味方には、「発病過程」を重視する立場(発病モデル)と、「回復過程」を重視する立場(回復モデル)がある。 (p. 52)
■ 発病モデル
現代医学は、「根本原因を措定し、それを発見し、その原因を消滅(解消)すること」をほとんどの疾病に対する治療戦略の中心としている点において、発病モデルに基づいているといえる。このモデルでは、病気や症状は身体の「故障」とみなされることが多い。 (p. 53)
→教育界でも、教師からすれば思うように学ばない子に対して、教師はしばしば「なにが悪いのだろう」「どこがおかしいのだろう」と考え、その原因とみなされる要因を除去・修繕することで解決を図ろうとすることはしばしばある。
■ 回復モデル
回復モデルは、「歴史的には以下のような主張から混成されることが多い。つまり、1.症状は生体の適応形態の一つである、2.生体には自然治癒力が存在する、3.回復は発病の逆過程ではない、4.生体には環境に適応する能力が存在する、5.治療は病因を排除することでなく生体の適応能力を適切に導くことである、などの主張群である。」。この回復モデルを「レジリアンスモデル」と呼ぶこともできるだろう。 (p. 53)
→武術オタクである私(苦笑)は、1-5の主張をごくごく当たり前のこととみなしているが、西洋医学ではこれらの考え方は主流ではない。
→教育に適用して(やや安直に)語るなら、1は「問題行動には意味がある」、2は「どんな子どもも自らの成長を欲している」、3は「問題を引き起こしたと思われる要因を取り除いても事態は必ずしも改善しない」、4は「子どもにも思わぬ適応能力がある」、5は「教育とは環境を整えることによって子どもの成長を促すこと」(デューイ)ぐらいに読み替えることができるだろうか。
→1980年代に読んだアメリカの大衆小説--今、タイトルを思い出せない--の中では、アメリカ式経営と日本式経営が極端な対比で描かれ後者が絶賛されていた。それによると、組織で問題が起こった場合、アメリカでは "Who fucked up?" と問われ、日本では "What went wrong?"と問われるそうだ(あくまでもその小説の登場人物の見解です。品のない表現をお許しください)。
もしかすると前者の問いは発病モデルにつながるのかもしれない。後者の問いを好意的に解釈するなら、単純な原因も快刀乱麻の解決法もないことを自覚しながら複合的なシステムの中での出来事を観察し、あちこちを操作しながら全体的になんとかなるように調整するやり方といえるだろうか。
学習指導要領などの教育言説でも「問題解決」といったことばがしばしば用いられるが、その「問題解決」のための思考やコミュニケーションは、「原因の特定とその根絶」といった発病モデル的な前提に立っていることが多いのではないだろうか。
経営コンサルティングにおいても、論理的な分析に基づくさまざまなモデルや理論を駆使して結局会社の経営をおかしくしてしまうことが多いことを知る、ある(元)コンサルタントは、要は、当事者・関係者の連携とコミュニケーションを促進することが一番大切と述懐している。
関連記事
カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014) 『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/2014.html
考えてみればカウンセリングも、問題に対して直接的な介入はしないままにその問題について直接的・間接的に語り続けるコミュニケーションを取り続けているうちに、いつのまにか新しい解釈や意味の確認が生じ、人格が再統合され、問題が解決とは言わないまでも解消あるいは後退してゆく歩みと言えるだろう。
関連記事
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/03/2009_25.html
今一度、言語教育関係者が想定している「コミュニケーション」のあり方を問い直してみたい。それは犯人(原因)探しのコミュニケーションになっていないだろうか。もっと私たちは、複合的な事態を受け入れその現実と共に生きるためのコミュニケーションのあり方について考えるべきではないだろうか。
■ 回復モデルの系譜
自然治癒力を想定する回復モデルの考え方は、古くはヒポクラテス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)、ガレノス (129年頃-200年頃)、近代ではシュタール (1659年-1734年)がある。 (pp. 57-62)。
■ 発病モデルの系譜
発病モデルは、「原子論的・機械論的自然観」に立ち、合目的性を徹底的に否定したアスクレピアデス(紀元前124年-60年)にたどることができる。彼は「自然は目的を持たず、自然治癒力現象はあったとしても単なる偶然であるという立場」に立っていたが、これは「驚くほど現代の医学思想と共通」している。(p. 58)
その後、近代となり、機械論的な説明原理が優勢となるにつれ、ボイル (1627年-1691年)も機械的な身体観を提示した。やがてモルガーニ(1682年-1771年)の器官病理学、ビシャ(1771年-1802年)の組織病理学、ウィルヒョウ(1821年-1902年)の細胞病理学と医学が発展するにつれ、病は、人間全体が病むものから、臓器・組織・細胞が病むものとみなされるようになった。
→目的論に関する安直な復習
コトバンク:目的論→教育とは、明らかに目的をもった行為であり、関係者はその目的の意味の理解に応じてさまざまな行為をとる。もし安直に、自然科学を目的論を否定した機械論に基づく営みと考えるなら、自然科学的な「教育の科学」とはどのようなものとなるのだろう。その科学では人間がもつ目的はどのように扱われるのだろう(今、きちんと考えるには疲れているので、とりあえずここに疑問として書き出しておく)。
https://kotobank.jp/word/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E8%AB%96-142248
ウィキペディア:目的論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E8%AB%96
Wikipedia: Teloology
https://en.wikipedia.org/wiki/Teleology
M.E.M. Haugland et al. (2007)
Psychological resilience factors:
Attitudes and behaviors that can help maintain well-being during stress
この本のp. 82には、以下の論文のp. 910にあるTable 3. Psychological resilience factors: Attitudes and behaviors that can help maintain well-being during stressの全訳が掲載されている。
Development and Psychopathology. 2007 Summer;19(3):889-920.
Psychobiological mechanisms of resilience: relevance to prevention and treatment of stress-related psychopathology.
Haglund ME, Nestadt PS, Cooper NS, Southwick SM, Charney DS.
DOI: 10.1017/S0954579407000430
ここでは、その表の6つの要因のタイトルだけを原語で引用しておく。
1. Positive attitude: optimism and sense of humor
2. Active coping: seeking solutions, managing emotions
3. Cognitive flexibility / cognitive reappraisal: finding meaning or value in adversity
4. Moral compass: embrace a set of core beliefs that few things can shatter
5. Physical exercise: engage in regular physical activity
6. Social support and role models or mentors
→すぐに気づくように、"psychological resilience factors"とはいえ、6のように一人の心の問題としては扱えない要因も入っている。この社会的要因をもっと重視するべきという方向で、コミュニケーションのあり方について再考できないかと思い、このお勉強ノートを作った次第。おそまつ。
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金原出版:『レジリアンス --現代精神医学の新しいパラダイム』
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