以下は、2015年度の「
コミュニケーション能力と英語教育」という授業評価のために
ポートフォリオとして提出された学部3年生の作品の一部です。
一部、「制作」(仕事)と「活動」、あるいは"different but equal"と"same but deviant"といった用語は、これらの作品を読むだけではわかりにくいかもしれませんが、そのまま掲載しておきます(もしご興味があれば、前者の用語対については「
人間と言語の全体性を回復するための実践研究」、後者の用語対に関しては『
アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析』をご参照ください)
ここに掲載したのは一部の印象的な作品だけですが、下にHSさんが書いているように、この授業を通じて直接対面しながら、あるいはBb9(電子掲示板)越しに、さまざまな対話ができたことは私自身とても勉強になりました。これからも対話を大切にした授業をしてゆこうと思います。
HSさん
「コミュニケーション能力と英語教育」の授業を通して、上でまとめたもののほかに、教訓として学んだことがあります。それは、多種多様な価値観の存在を認め、それらを丁寧に理解しようとする姿勢を大切にするということです。予習で全員共通の記事を読み、授業において全員が同じ時間・空間の中で一人の先生から講義を受けても、それに対して生まれる考えは人によって多種多様で、様々な視点があることに何度も驚かされました。自分と異なると反射的にその考えを疑ってしまうこともあれば、自分の考えが大勢の人と違うととたんに不安になることもあります。しかし、人は物事を経験に結びつけて理解しているとすれば、みんなそれぞれ違う人生を歩んできたのだから、人によって理解の仕方や考え方が異なるのは当たり前です。偏った思考に陥らないためにも、様々な角度からものごとを見る姿勢を持ち続けようと思います。
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コミュニケーション能力と英語教育ポートフォリオ
広島大学教育学部英語文化系コース EJ
※私はこの授業の自己評価をA-とします。
1.「教室は生き物である」
このポートフォリオでは本講義を通じて私が考えるようになったことをまとめようと思います。本講義、そして教育実習を受ける前の私は今思えばとても頭でっ
かちであったように感じます。私は教壇に立つという経験がないままに大学で理論や技術を学んできました。大学で受ける講義や英語教育に関連する本に載って
いる理論や技法、授業案のようなものはとても説得力があるように思え、あたかも「この教え方をすれば絶対に生徒の英語力は伸びる!」ように感じてしまって
いました。
しかし、教育実習を経験して今まで学んできたことをそのままやればよいという考えは間違っていたことに気づきま
した。実際に教壇に立ってみると、生徒たちの表情や教室の雰囲気というのは簡単なきっかけで、輝きだすし、一瞬にして暗くなることを、身をもって感じまし
た。理論や技能を学ぶことは教師として絶対に必要なことなのは間違いありません。しかし、それ以上に大切なことは「教室は生き物だ」ということを常に意識
することだと思います。
大学の講義で習うような理論や技能は確かにたくさんのデータを取って、研究を重ねたうえで成り立っ
ているということは確かです。しかし、「データ化する」という過程の中には切り捨てなければならないもの、割り切らなければならないものがたくさんありま
す(このことは授業の中でも多くの人が口にしていたことです)。いま自分なりに考えてみると、それらの割り切られてしまったもの、切り捨てられてしまった
ものというのが、「人間味(人間らしさ)」なのではないかと強く感じます。偉い学者や大学教授の方が編み出した理論や授業技術というものに出会ってしまう
とそれに飛びついてしまいがちになってしまいます。教育実習中の私がそうでした。
しかし、それを実際に授業でやってみても
生徒の反応がイマイチだったことが多くありました。クラスというのは40人の個人が集まって成り立っている集団です。先ほども「教室は生き物である」と書
きましたが、クラスというのは1つ1つ異なる色というものを持っています。クラスによって好みが分かれることなんて当たり前のことだし、同じクラスでも日
によって表情を変えることなんてざらにあることだと思います。このように異なる生物である教室が日本に数えきれないほどあるのに、1つの教え方が全部のク
ラスに同じような効果を与えるなんてありえないと思います。
私は実習中、そのことに気づいていなかったために、目先の理論
や指導法に飛びついてしまいました。教育実習生という立場では1つのクラスに単発で授業をすることがほとんどで、クラスの特徴、生徒一人一人の性格などを
考慮に入れることが難しいかもしれません。しかし、今考えてみると、指導教官のアドバイスや大学で得た知識などに頼ってしまうばかりではなく、自分なりに
「生徒たちはどのような教え方をしたら、興味を持ってくれるだろうか。」などといったことを「自分なりに考える」ということすべきであったと深く反省して
おります。いい授業を作るために必要なことは、生徒をよく観察し、生徒の一人ひとりを理解することで「生徒が求めている授業」というのを肌で感じることで
はないかと思います。「教室は生き物だ」ということを常に頭において、その生き物の変化に敏感でありたいと切に願うばかりです。
2 コミュニケーション能力とは
英語科においてコミュニケーション活動と呼ばれているものは本当にコミュニケーション能力の育成に役に立っているのかというのは本講義を受ける前から疑問
に思っていました。今の中学校学習指導要領では目標として「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」とありま
す。高等学校学習指導要領においては「情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う」とあります。4技能を鍛えるこ
とは英語を学ぶ上で必要不可欠なことだとは思います。
しかし、コミュニケーションの手段であるこれらの技能をコミュニケー
ション能力であるとして目標にしてしまっているのではないかと私は思います。さらに高校の目標を見てみると「情報を伝えられればよい」というように私には
感じられます。今の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力とはなんなのか」はっきり定義しないまま、形式的な表現ばかりをつかった表面上の情報のや
り取りを「コミュニケーション活動」としているように思えます。
本講義の中で、「物体を使う力」「心を読む力」そして「言
語を使う力」についてのお話がありました。これらの要素を掛け合わせることで私たちのコミュニケーションは成り立っています。これらの要素をコミュニケー
ション能力の基盤であると捉え、授業も工夫すべきではないかと思います。私は特に「心を読む力」というのが大切なのではないかと感じます。日々の生活の中
で、「こいつ言葉には出さないけど、絶対なんか怒ってるわ」と感じたりすることは多くあります。それ以外にも皮肉だったり、言葉通りの意味ではなく、裏の
意味を考えないといけない場面は非常に多くあります。今英語の授業で行われているコミュニケーション活動では「心を読む力」が身につくようにはとても思え
ません。
講義の中でも話にありましたが、「心を読む力」の育成に文学作品は非常に大きな役割を果たすのではないかと思いま
す。中学校くらいの頃からずっと感じていたことではありますが、教科書の中の文学的教材というのは少なすぎるように感じます。あってもせいぜい1つか2つ
です。これはなぜなのか考えてみると、やはり文学がコミュニケーションの敵だと捕らえられてしまっていることが原因ではないかと思います。文学作品を用い
る授業では教授法として文法訳読式を用いると決めつけて受け取られ、教師からの一方通行な授業になってしまうと考えられてしまっていることも原因ではない
かと思います。しかし、文学作品にはコミュニケーション能力育成の大きな可能性が秘められていると思います。文学作品というのは作者と読者のコミュニケー
ションであり、そして読者同士のコミュニケーションにもなり得ると私は思います。作者にはいろんな想いがあってそれらを文学の中に吹き込んでいるように思
います。それらを読むことでなにかを感じること、作者は何を考えていたのだろうと考えることは非常に大切なことだと思います。また、文学というのは幅広い
解釈の可能性を与えてくれます。その解釈を巡って読者同士で語り合うことは立派なコミュニケーションであると思います。ウォリック大学に教英のプログラム
で留学したさいに、「ジェーン・エアー」に関する解釈についてディスカッションをしたことがありました。そのときに、他の生徒の自分とは異なる解釈を知る
ことで、作品の捉え方が変わったりしてとても有意義に感じたことを覚えています。
コミュニケーション能力というものを単な
る情報の伝達を円滑にする能力として捉えるのではなく、様々な状況やテクストの中での相手(読者や作者)とかかわる能力だと考えると、文学作品の活用とい
うことをもう少し考えてみる必要があると思います。この「文学作品とコミュニケーション能力の関係」については卒業論文のテーマとして研究しようと思って
います。英語の学習の中に文学作品を有効的に活用する方法を考えていきたいと思います。
3.身体・対話の大切さ
本講義では身体、そして対話の大切さについて深く考えさせられました。教師の仕事というのは文字通り生徒に対して何かを教授することです。そのためには教
師の声を生徒に届かせなければなりません。声を届かせる難しさというのは実習を通じて身をもって感じました。生徒に聴いてもらおうと思って声を張り上げて
も生徒は知らんぷりだったりすることは珍しくありませんでした。しかしこれは私自身が「どうせ実習生の授業なんてきいてくれないだろうな」と心のどこかで
思っていて、それが生徒に私の体を通じて伝わってしまったからではないかと今となっては思います。
人の話を聞くとき私たち
は声だけを聴いているわけではありません。話している人の体の動き、そして表情から私たちは何かを感じ取ろうとしています。どの教師も生徒に何かを伝えた
いという思いがあるからこそ、教師という職業を志しているはずです。その意志があれば、何かを生徒に伝えようとするときに自然と身体からあふれ出るものが
あるはずですし、無意識に体が動くはずだと思います。声を届かせるために身体を使おう使おうと意識することは難しいことではないかと、個人的な考えですが
私は思っています。
竹内敏晴さんと野口三千三さんが言っているように、身体を動かそうとするよりも自分の中にある重心とい
うものに敏感でなりたいと強く思います。自分の中にある重心とは私は意志であったり、信念や想いではないかと思います。重心が体のあっちこっちに行ってし
まうようでは自分の言葉の重さが失われてしまうように感じます。言ってることがコロコロ変わるような奴は信用できないのと同じです。自分の重心を常に体の
中心におけるように心掛けることが身体を使うということではないのかなぁと私なりに講義を通じて考えるようになりました。
教
育というのは人と人との温かい営みだと私は思っています。教師は生徒に何かを教授するという立場から、生徒を正しい道に導くという役割がある一方で、生徒
を対象としてみてしまう危険性を秘めているようにも思います。教育というのは教師と生徒という立場の違いはあれど、対等な人間同士の営みであるべきだと思
います。教師が上、生徒が下というような身分上の差の様なものが学校教育の中に色濃く出てしまうと、生徒は本当の自分というものを出せずに成長していって
しまうことになる恐れがあります。自分自身の学校生活を振り返ってみても、自分の考えではなく、先生に気に入られるような答えばかりを考えてしまっていた
ようにも思えます。生徒の声を聴くためにも対等な立場として生徒と対話する機会が学校の中にもっとあればいいのにと思います。
生
徒と良好な関係を築く第一歩は生徒の声を聴くことだと思います。生徒の本音の聞くためには教師が「言いたいことを言っていいんだよ」と身体を、心を生徒に
対して常に開いておかなければならないと思います。「対話」を通じてお互いのことを深く知ることができるという点を考えるともっと対話というのが重視され
てもよいはずではないかとは思いますが、いまの社会では対話は軽んじられているように思えます。会議などではいかに効率よく、解決策までたどり着けるのか
という点が重要視されています。企業のような利益をもとめる場ではそれでも良いかもしれません。しかし、教育というのは人を育てることを目指しているわけ
であり、お金などの利益を目的としているわけではありません。企業的な考えが教育にも流れ込んでしまうことは危険なことではないかと思います。対話をする
ことで生徒のより深いところまで知ることができ、良好な人間関係を築き上げることができるのではないでしょうか。
何回も書
いてしまっていますが、教育とは人と人との温かい営みです。そして基盤となるのは人間関係だと思います。(くさい言葉で書くと「絆」となるかもしれませ
ん。)対話というのは時間がかかるものかもしれませんが、私たちは時間を問題視するべきではないと思います。人間関係を築き上げるのに時間がかかるのは当
たり前ですから。
4.最後に
私は物事をあまり深く考えることが苦手です。楽観的に
生きているように思えますし、深く熟考しないといけない問題なのに、熟考せずに物事を判断してしまい後で後悔するということは少なくありません。しかし、
本講義だけでなく柳瀬先生の講義を通じて自分なりに考えることの大切さがわかりました。特に哲学は自分とは縁のないものだと感じていましたが、英語教育に
哲学が強く結びついているということに気付きました。私は小説はよく読みますが、哲学的な本には手を付けることがありませんでしたが、本講義を機に、いろ
いろな哲学関連の書籍を読むようになりました。本をたくさん読んでいると今まで自分の知らなかった世界を知ることができ、自分の生きている世界が少しづつ
広がっていく感覚になります。これからも本をたくさん読み、自分なりに考える習慣を心掛けていきたいと思います。
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コミュニケーション能力と英語教育 ポートフォリオ
MK
1. はじめに
本ポートフォリオは、木曜日1コマの授業「コミュニケーションと英語教育」で学んだことを通しての私の自己変容を大きなテーマとして、そこから繋がる3つの柱(①英語教育について ②言語文化について ③哲学について)について、柳瀬先生、一緒に授業を受けている皆さん、そしてこの文章を書いている自分、書いたあとの自分を宛先に記述したものです。予習記事や、私がbb9で書いた記事を見ながら考えていきたいと思います。
2. 英語教育について
2.1 授業観の変容
昨年9月と10月に教育実習を経験し、実践の場で苦しみ抜いた経験と、それを持って読んだ予習記事は、明らかに私達の英語教育観を激しく揺さぶり、変容させたものだと思います。研究授業を通して生徒理解の重要性に気づいた私は、第一回授業の予習でこのように述べています。
「良好な関係を生徒と作っていくための土台としての生徒理解は、すべての教育活動の礎でもあるように思います。」
『教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ』や、『当事者研究とオープンダイアローグ』などの記事でみたように、教師と生徒の関係性のなかにあまりにも、客観主義的な科学の考え方を適用しすぎることは、学校や授業内での教育活動のあり方を「Aの問題を持った生徒にはA’の対応を取れば解決できる(できなければおかしい)」というものに傾けてしまう恐れがあります。教育実習を終え、授業を受けたうえでの私の授業観の根本は、上記の「生徒理解」から、「教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係」(1/7予習記事)へと変容を遂げています。
第一回授業で言い尽くすことができなかったことについて今考えてみると、私が研究授業を行ったクラスで実感として「良い授業が」できたなと思えた原因は、教師と生徒の信頼関係を比較的短い期間でできるだけ形作ることができたことにあると思います。教育実習生は、持っている授業が通常5つほどなので、一つ一つの授業を別々のクラスですることが多く、一回きりの授業が教師にとっても生徒にとっても、最初で最後の授業となります。しかし、私が研究授業を行ったクラスでは、指導教員に授業を増やしていただき研究授業を含めて三回授業をする機会がありました。その中で最も心がけていたのは、「生徒とできるだけ言葉をかわす」ことでした。授業前の十分間や授業後の僅かな時間、そして机間巡視中に、多くの生徒に言葉をかけたり(「おいおい白紙やんけ」「これはテスト的にはバツだけど俺は百点回答だと思う」など)、授業中笑いを誘うような提示の仕方を考えたり、ここでは、それまでに学んだ授業構成や指導の理論ではなく、人と人が好意的に関わりあうためにどうするか、どうコミュニケーションするか、が考えられていたようです。
その結果、十分ではないとはいえ私と生徒の間には「この先生にならついていける」と思えるような信頼関係が構成され、授業的には失敗の、生徒の取り組みとしては成功の、そんな研究授業ができたのはでないかと思います。
「『良い授業』は緻密な授業計画と教師の豊富な知識だけではなく、生徒との関係、クラスとの関係があってこそ「良い授業だったね」ということができると思います。「良い授業」を構成するものの中で最も重要な要素こそが、教師と生徒の良い関係、つまり信頼関係ではないか」(1/7振り返り)
つまり、私達みんな、人間と人間、主体と主体が関わっていく中でいい加減にしちゃいけないことって、あるよね。1対40人、みたいな数字でばっかり考えるんじゃなくて、「私とあなたとあなたとあなたと・・・・・あなた」が関わっていく空間での一回きりの祝祭的な授業をつくれたら、という気持ちで授業を作っていきたいな、と思うようになりました。
2.2合理主義と非合理主義
自然科学的手法に則って物事を見ることが教育現場では絶対に悪手である、という極端なことを学んだのだ、というわけには行きません。。五十万人ほどの大学入試志望者を期間内で評価してゆくためには、ある程度割りきって客観的に、時間内で学力を測るための方法を策定しなければなりません。
膨大な物事をとりあえず割り切るための割り切り主義は必ず必要です。ただ、ものごとをテキパキと無思慮に割り切っていくようなことは避けなければなりません。そしてもちろん、割り切れないからといっていつまでも答えを保留するようなおこともあってはなりません。
ここで難しいのは極端な合理主義、極端な非合理主義どちらに居着いてもよくないのだということです。本質的に割り切れない世界のことをわかっていながら、割り切っていかなければならないことが多いです。私達は、合理主義と非合理主義に引き裂かれつつ生きていくことを学んだのだということができます。
3. ことばの文化について
3.1 しゃべくるだけがコミュニケーションではない
「原初体験と表現の喪失」を読んで、ハッとしたのが、そういえばコミュニケーションコミュニケーションと言っているけれど、広い意味で考えたら口で話して意図を伝える、それだけがコミュニケーションではないな、ということです。コミュニケーションの媒体は言語のみにかぎらず、「モノや商品やお金、あるいは突き蹴りや投げ」もあると柳瀬先生は授業用ホームページの冒頭でおっしゃっています。
「コミュニケーション能力の三次元的理解」で、身体・物体、心、言語の三次元の合成ベクトルでコミュニケーション能力について捉え直しました。これまでの私の理解では、コミュニケーションを四技能で表せるような言語の側面のみで、捉えていたように思います。
言語文化系コースに在籍している自分としては、広義のコミュニケーションのなかでも言葉を媒介にした「芸術」についての興味が授業を受けながら高まってきました。
3.2 コミュニケーションとしての短歌
このセメスター中に出会った「短歌」という芸術は、私がコミュニケーションについて考える上で非常に重要な役割を果たしたのではないかとおもっています。教国の友達に穂村弘の歌集『ラインマーカーズ』を貸してもらったことがきっかけだったのですが、そこで現代短歌と歌人・穂村弘の魅力にドハマリして彼のエッセイをどんどん買い漁るようになってしまいました。
穂村弘は『世界音痴』で、みんなが生きている世界に入っていくことができない、世界からの疎外感を中学生時代から感じてきたと述べます(みんなが衣替えした次の日に衣替えをする、怖くてベッドから起き上がることができない)。そんな中出会った短歌を使うことによって、自分に見える世界が言葉にできたことについて『短歌という爆弾』で述べ…と、ここまで書いて思い出したのですが、この話って『綾屋紗月さんの世界』で綾屋さんが自分を記述する言葉を得ていく話とすごく似ていますね。
彼の詠む短歌は非常に難解なことで知られています。例えば
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
と、とても初見では意味がわからない(というかこれなどまだ分かりやすい方なのかもしれない)歌が歌集にはあふれています。
短歌の定形、五、七、五、七、七に、世界を自分のフィルターと言葉を使ってえがく、言葉にすることで、私達は単に言葉にする以上のものを伝えることができて、受け取った側も、作者が込めた以上のものを一首の短歌から受け取ることができる。そんなコミュニケーションのありかたとしての短歌に出会うことができ、そしてそれについてもっともっと理解を深めようと思うことができたのは、コミュニケーション論の授業でのコミュニケーションというものについての幅広い考察あってのものだと思います。
また、ことばによるコミュニケーション理解の深まりは、一年生の時から言われている「みずみずしい感性」を育てていくうえでも重要になると思います。文学作品、詩を通して、もっと私たちは世界理解を深く強いものにしていくことができると思います。
4. 哲学について
4.1 哲学への誘い
この授業では多くの記事を読んできましたが、特に思想家・哲学者に関する記事に惹きつけられる自分を見つけました。野口三千三や竹内敏晴の身体論、理性は身体の主人ではないこと、ハンナ・アレントの「複数性」についての話などがかなり面白く、勉強しなければならないこと、勉強したいことが膨大に増えていったような気持ちです。
とくに面白いと思っているのが、柳瀬先生の論文『「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」のように、哲学者の思想によって物事を読み論じるような方法で、なるほど、そのようにして哲学を英語教育に活用できるのだ、と感じました。
「ハンナ・アレントの「行動的生活」-労働・制作・活動による田尻実践の理解という、英語の授業から想像もしない場所に橋をかけるような壮大な授業だったなと思い返します。」(1/28振り返り)
昔に書かれたテクストなのに現代でも十分に使用に耐えること、英語教育の一授業実践を読み解く鍵になりうること、を考えると哲学から得られるものは多そうだし、自分でもそういったやり方ができるのではないか、例えば「思考・判断・表現についてレヴィ・ストロースやアレントのテクストを手がかりに考えてみる」というようなことができそうだな、と考えられたことが、私にとって大きな変容ではないかと思います。
4.2 テクストはテクストを呼ぶ
アレントについてもっと知りたい!と思ったことが、彼女の著作や解説書を読もうと思ったことのきっかけになりました(『今こそアーレントを読みなおす』は、大変面白く読みました)し、複数性の世界で人間が他者との交流を通して自己を発見する「活動」を学んで、他者論についての興味が生じてレヴィナスの他者論を学びたいと思うようになりました。(目下、内田樹による『レヴィナスと愛の現象学』『他者と死者』を読みなおしています)さらに、レヴィナスがその他者論を発展させていく礎となったフッサール現象学についても興味は増していき、そして現象学をかじっていく中でフッサールが現象学的還元において参考にしたデカルトのコギト命題へ・・・
テクストがテクストを呼ぶような、欲望が欲望を点火するような、壮大な学びの中に自分が位置づけられようとしている興奮を覚えることができたことに、とても驚いています。柳瀬先生の記事を読む中で、先生が別に教える気もなかったし勉強させる気もなかったことについて学ぶことができる、そしてそれは、今のところは柳瀬先生の記事を読まなければ発動しなかった学びかもしれない。学びのダイナミズムを学ぶことができたのは、非常に大切な経験だったと思います。
哲学について とは書きましたが、もっと大きく「学びについて」と題したほうが良かったかも知れません。単純に、未知を知ることの愉悦を再確認できたという自己変容なのですが、死ぬまで学び続ける教師像をより具体的にすることができました。毎週HRのたびに、「今こんなことやってるんよ~」と見せびらかせるような先生になれたらと思います。
5. まとめ
ここまで3つのテーマについて自己変容を記述してきました。まだまだ書き足りていないこと、言語化できていないことが多くあるのですが、とりあえずはこの3つについて考えたことをもってこのポートフォリオを終わりたいと思います。この授業を通して、だけではないのですが私は少しずつ変わり続けているような気がします。
三年生が始まる前は、世界だけでなく教育界が、矛盾をはらみつつ存在していることに我慢がならず、そんな世界で生きていく事自体に嫌な気持ちがあったのですが、今ではもっとポジティブに考えることができるようになったと思います。様々な物事が複雑に絡み合う世界を、今より少しだけ愉快にできるような私として学びを深め、そんな仕事ができるような生徒をどんどん育てることができれば、結果的にみんな愉快に暮らして行けるようになるよね、と楽観的に考えています。
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コミュニケーション能力と英語教育 期末ポートフォリオ課題
「他分野から考える英語教育
-弓道と物語の領域から」
広島大学教育学部第三類英語文化系コース 3年 MY
0. はじめに
本ポートフォリオは広島大学教育学部第三類英語文化系コースの講義「コミュニケーション能力と英語教育」の期末課題として提出するものである。はじめにお断りしておきたいが、このポートフォリオは本講義の内容を網羅したものではない。むしろその断片を少しつっついたくらいの程度でしか講義の本筋には触れていない。私は今回あえてこの形式をとったが、それは自分自身の経験を最大限に生かしたポートフォリオの作成を考えたからである。本講義を受講する中で自分自身の体験を見つめ直し、その再分析、また英語教育におけるその応用を考察した結果を主に記述した。第一部「物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ」では、物語を読んだり書いたりすることを通して私が学んだこと、また英語教育における物語作品に対するアプローチを考察した。次の第二部「弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」」では、私自身が高校生時代に体験した弓道を通して学んだ心体経験を下敷きに、英語教育における「こころ」と「からだ」について端的に分析した。
あくまで狭い範囲でしか講義の本筋には触れていないが、英語教育をあえて一見遠く離れたように思える分野から考えることにより、常に新しい視点から英語教育について考えていく。こうした考え方がこのポートフォリオ作成の軸となった。英語教育は英語教育だけで自立できるものではない。さまざまな領域の考えや方法が複合的に影響し合って紡ぎ出されるものだ。本講義ではその重要性に改めて気づかされた。この感覚を決して忘れてはならないと思う。英語教育を考えるにあたって躓くことは多々あるだろうが、そんなときに本ポートフォリオで考察したことが補完的に働いてくれることを期待したい。また本ポートフォリオを読んだ人がそうした考えを持つきっかけになることも同じように期待している。このポートフォリオ自体が私自身の「活動」であり、「こころ」と「からだ」の体験であるからである。
なお、本ポートフォリオについては公開を許可することとする。ブログ記事等での公開により、さらに多くの英語教師、またその卵たちと共有できることを期待したい。
1. 物語を読むこと・書くこと―「活動」としての創作から英語教育へ
1.1 物語を読むこと
私は物語を読むことが好きだ。幼少の頃は日本の昔話を親から絵本で聞き、その後自分で読んだ。小学校のころになると図書館で小説を借りて読むようになった。中学校、高校、大学と長い年月が流れても、物語に対する気持ちは変わらなかった。むしろ、それは徐々に強まっていったし、おそらく今後も変わることはないだろう。物語は人の心を豊かにしてくれる様々な魅力を持った芸術であり、人間生活の文化的側面において重要な役割を持つ、そう考えている。物語は人の心的生活においてどのような役割を果たすのだろうか。ここでは私自身の経験に即して考察していきたい。
まず、活字になっている物語には基本的に流動的な映像は付されていない。絵本であれば各ページにシーンの情景を示す絵が添えられていたり、小説などでも時折挿絵が挿入されていたりすることがあるが、基本的には読者は物語の流れを頭の中で想像することになる。それは物語の語りとなる文章をもとに行われるが、その内容は読者それぞれに委ねられている。なぜなら、同じ文章に触れたとしても、それぞれの読者によって思い描く情景は変わってくるからである。たとえ10人の人間が「桃太郎」を読んだとしても、彼らが頭に描く桃太郎は10通りの姿をとるだろう。解釈の仕方によっては物語を読むということは作者の意図をくみ取るという考え方もできるが、それ以上に読者それぞれが考え、感じたように読むことを重視して良いだろう。こうした読みによって、読者は想像力を掻き立てられる。その三者三様の解釈を許容する性質は物語、とくに活字体のみで読まれるものの長所である。私自身、読むことが好きだったということに加え、親からそうした物語の大切さというものを時折話されていたことも今まで物語の重要性を考察しているきっかけとなった。自分の知らない世界が、その描写が写実的なものにしろ幻想的なものにしろ、頭の中で非常に強いリアリティーをもって再現される。物語を読むことによって想像される世界を体験するほうが、現実世界で体験するよりもむしろ現実感があると考えるものもいるくらいだから、物語が人の想像に働きかける力の強さには異論はないだろう。ハンナ・アーレントのいう「人間の条件」に即して考察すると、物語を読む際のこの段階は「制作」と呼ぶことができる。なぜなら、これは読者自身の心的充足を満たしてくれる。読むことは創造された作品を受容的に楽しむ行為と考えられるかもしれないが、実は読む行為も創造的である。作者が生み出した作品は読者の認識のフィルターを通して、いかようにもその姿を変える。その際に読者は作品を再創造するのだ。ここに物語のおもしろさがある。
物語には人の想像力を豊かにし、心的充足感を与えてくれる。物語が持つこの側面は高い評価に値すると考えてよいだろうが、しかしアーレントの人間の条件から考えるとこれだけでは不十分かもしれない。なぜなら、この段階までは人は孤立していても物語を楽しむことができる。手元に本があれば、たとえ独りでも想像の世界に耽溺していられるのである。しかしながら、これだけでは人間的な生活とはいえない。他者と関わってこその人間である。
しかし物語はもう一つ高次の段階へと人を導いてくれる。それは物語を読んだあとに他者と語ることだ。何を語ってもいい。単なる感想でもいいし、分析的なコメントをしても良い。登場人物について語ってもいいし、ストーリ―自体について語ってもいいのだ。とにかく自分がどう読んだかについて語ってみると良い。物語を読むという体験による喜びを誰かと分かちあうことに意味があると考えたい。自分とは違う読み方、自分とは違う感性の持ち主によるコメントはあなたの想像力になんらかの影響を良い形で及ぼすだろう。読み方によってその人の性格が分かるかもしれないし、世界に対する考えがわかるかもしれない。また、そうした他者の感性との差異から、自分自身についての理解も深まるのではないだろうか。こうした側面はハンナ・アーレントの人間の条件、3つ目の項目、「活動」と捉えることが可能だろう。個人的な楽しみ方だけでなく、他者とのコミュニケーションを促進し、さらに心的充足感を深めてくれる。物語を読むということは、想像世界と現実世界を橋渡しすることができるだけでなく、読者と読者のあいだに橋を架けてくれるのである。
2.2 物語を書くこと
物語を読むという行為には、人間の生活を豊かにしてくれる「活動」としての役割がある。一見受容的に思えるこの行為が人と人とをつなぐことができることについては、世間一般的に役に立たないと言われがちな物語にも高い評価を与える必要があることを示している。では、この読む行為に加え、次に物語を書くという行為を考察したい。私自身の経験の中に物語を書くというものがあった。それは極々短い短編小説を書いてみたという経験だった。物語を読んだ経験は数えきれないほどあったものの、書くという経験はそれまで無かった。もちろん芸術家ではない私の経験なので、これで物語を書くという行為を正確に考察できるかは定かでないが、自分の経験を再分析することも兼ねて考えてみたい。
私は現在、物語を書こうと思ってもなかなか書けない。以前物語を書いたときは書きたいという衝動に駆られて書いたのである。この行為は物語を読む行為と似ている点がある。それは物語を頭の中で想像することによる心的充足である。物語を読む際にも想像力を掻き立てられるが、書く際にはそれ自体が原動力になる。自分でスト―リ―や登場人物を創造する、つまり物語に息を吹き込むのだ。自分の実体験や空想をもとに物語を作っていくわけであるが、あまり頭で考えすぎても書けないような気がする。凝った文章を書こうとすると、逆に考えすぎて一向にペンが進まない。最初はあくまでも自分で書きたいときに、書きたいように書くのが良い。だが、やはりこれも人間生活における「制作」に留まっている。物語を創造する行為は作者の想像力を最大限に活性化してくれるだろうし、それにより彼の感性はさらに豊かになるだろう。しかし、それは読む行為の場合と同じで、あくまで独りでもできることである。では、この後どうするか。読む行為と同じように「活動」を追求するならば、書いた作品をまず他者に読んでもらうことが必要である。そして読んでもらったあとに感想をもらう。ポジティブなものでもネガティブなものでもいいが、とにかく読んでくれた人からコメントをもらい、その人と作品について語り合うのである。空想を言語化した作品をさらに言語によって説明し直すこと自体さらに感性を豊かにするだろうし、また作者の主観により生まれた作品を、他者の認識のフィルターを通すことで異なった方向から評価することができる。他者との語りの中で自分の作品を再分析することができるのだ。この段階に達することにより、物語を書く行為は「活動」の領域にまで引き上げられる。この物語を自分で創るという行為は、自分自身何度も体験したことがあるわけではない。しかし確実に自分の人間生活の精神面において良い影響を与えてくれていると思う。また、こうした行為が与えてくれる喜びは身体的な体験となる。すべてのプロセスを体で感じることが必要である。その身体経験を他者と共有する。それは物語を読む場合も、そして書く場合にも同じように重要なのである。
2.3 物語とのつきあい―英語教育の中での使用
これまで物語を読む行為と書く行為、またそれらの行為がどのように「活動」となるかについて考察してきた。人間としての生活において、こうした物語との付き合いがいかに重要な役割を果たしてくれるかがご理解いただけるだろう。このように私たちの生活に欠かせない重要な文化である物語であるが、これは何も日常生活だけに限られることではない。ここでは最後に、英語教育の中で物語の良さを引き出すにはどのような点について考えることが必要かについて考察していきたい。
英語教育では英米文学作品をはじめ、各国の文学作品が英語に直されたものを題材に教材が作られていることがある。実際に英語科で使われている教科書を見てみると、たしかに文学作品が採用されていることがある。それは小説や詩など形式は様々であるが、問題はその扱われ方である。たしかに教科書に文学作品が含まれていること自体は少なくない、だいたいどの教科書にも一応含まれているのである。しかし、そのほとんどはオプション、つまり教科書内の単元の流れには直接関係ないことも多い。Further Readingといった、少し発展した教材として扱われていることが多い(実際はほとんど読まれていないのだと思う)。それは教材を扱う英語教師自身がそうした教材の扱い方がわからない、難解である、発問が用意されていない、そもそもいわゆる実践的なコミュニケ―ションにつながらない(と思われている)といった理由が原因である。こうした理由から日本の英語教育では文学作品が以前と比べて急速に姿を消しつつあることは否めない。だからどうした、そんな難解な教材あっても使えないだろうと考えられているのかもしれない。しかしやはり、上述のような物語との接触の中で人が経験する成長は、英語教育においても見過ごされてはならないのではないか。たしかに母語ではない言語で文学作品を読み解くことは教師にとってですら難解な場合がある。しかし現在ではより簡易な英語に直されていたり、映画化されていればそれが補助教材になったりと、いかようにも工夫のしかたはある。場合によっては部分的に原文を用いて、文学作品の原文が持つ言語形式の魅力に断片的に触れることも良いだろう。やはりそうした工夫を通して、学習者に物語を純粋に楽しむ経験を提供していきたい。それは物語を教材とすることを通してのみ味わうことのできる魅力の一つではないだろうか。そしてその体験を他の学習者と共有する機会も合わせて与えるといいだろう。物語を学習者と学習者をつなぐ「活動」の領域にまで引き上げる。文学作品の減少を危惧するものとして訴えていきたい良さがそこにあるのだ。
2. 弓道と英語教育から考える「こころ」と「からだ」
2.1 竹内敏晴の「心体」感覚
「弓道」とは単なる的中てではない。いや、的に矢を中てること自体は間違いではないが、究極的な目標はそこにはない。弓道とは精神修養の場である。それは弓道部員の一人として弓道に携わっていた高校生のときに、私が心で感じた身体経験そのものだった。
弓道は的に中ててなんぼ、外したら終わりと思われるかもしれない。たしかに試合では的中数がはっきりと勝敗を分ける。また仮に手元が数ミリ狂っただけで、的に当たるころにはそれが十センチ以上の狂いになるほどの精密な技芸であるため、まさに一瞬の失念ですべてが決まることもしばしばである。だから選手はみな極限まで集中力を高めるために日々鍛錬を積んでいる。しかし、ここで考えたいことは、それは副次的なものに過ぎないこと。矢をつがえ弓を引く動作が的に中てるために存在するのではない。むしろその逆、すべての動作とそれによる精神の変容過程のために的があり、試合がある。つまり、弓道の目的はこの一連の動作の中で「こころと「からだ」が融合することにある。
「こころ」と「からだ」の融合とはどういうことなのか。それは弓を引く以前からすでに起き始めている。当時、私が高校の弓道場で練習していたころ、練習開始時には部員全員で集りあいさつをしていた。弓道は礼を非常に重要視しているのだが、これも精神統一のためのものである。また、あいさつの直後に毎回1分間の黙想を行う。その当時はこれといって深く考察することはなかったが、今振り返るとこの黙想は「こころ」と「からだ」をつなぐために一度心を無の状態に帰すためにあったものだと気づいた。弓道では邪念は手元を狂わせ、体全体を狂わせる。的に中てようとする意識がかえって矢を的から遠ざけるのだ。的に意識をさらわれてしまえば、それが射形を崩す原因となってしまう。逆を言えば、正しい射形と精神状態で弓を引けば、的が見えなくても的を射抜くことも可能だと言われている。「からだ」に関して深い考察をされている竹内敏晴氏が弓道について述べることは、まさにその正しいあり方を示していると思われる。
私の場合は、弓を引いて、その記録を持っているけれども、的に当てるために弓を引いていたわけじゃないということに、その時に非常にはっきり気がついたんです。(「竹内敏晴ノート」、竹内 2010, 112-113)
竹内氏が上で述べているような感覚を常に持ち続けることは非常に難しいことである。試合ともなれば、中てよう中てようとする意識が高まることは自然なことですらある。しかし、一見矛盾しているような竹内氏のこの記述も、弓道を半ば極めたものであるからこそ述べられた感覚なのではないだろうか。
自分の実感からいうと、左手に弓を握って前へ押し、右手を弦で引っ張るでしょう。すると世界が水平に無限に広がっていくわけです。それで広がり広がって、あるところでビューっと矢が飛んでいく感じだった。水平だけでは駄目で、もちろん垂直にもやるわけだけど、五重十文字といいますが、無限に広がっていってはじめてぶち当たるある存在感みたいなものがあって、それがスポっと開いたとたんにパーンと当たっているということです。(「竹内敏晴ノート」、竹内2010, 112-113)
弓道では体を外へと徐々に開き、矢を引っ張ると同時に弓を押す動作も行われる。「会」と呼ばれるこの動作は、外見上ではほとんど識別できない体の内側の動作である。「世界が水平に広がっていく」という表現は、竹内氏の「からだ」の中で行われていた動きが彼の「こころ」とリンクした状態を表しているのではないだろうか。弓は腕で引くものではなく、こころで引くものと言われるのもこの状態を指した表現である。
矢を打ち終えたあとも、こころと体の融合は終わらない。打ち終えたあとの動作に残心、または残身というものがある。「心」と書いても「身」と書いても良いが、その際にこの動作がこれら両方の要素を備えているという認識を持っていなければならない。矢を打ち終えた後数秒間そのままの姿勢を保つこの動作は、心身ともに一息置く役割を持っている。この段階を終えて初めて、心体の融合が解かれる。的を射る位置に立ち、矢をつがえ、的を射抜き、最後に心体ともに休息を与える。この一連のプロセスの中でどれだけ集中力を保てるか、またプロセスをいつまで続けられるかが弓道の課題になる。高校生だった当時の私のような素人では到達しえない境地ではあるが、そんな中でも時たまに感じられる、いわゆる「神懸かり」的な状態が無いわけではなく、その場合はしっかりと的を射抜いていることが多い。それをどうやって成すかということについて説明することは非常に難しいし、他人がそのような状態になったことを説明してもらうときも、なかなかうまく表現できないようである。それは心的・身体的な状態を言葉で表すことがそもそも難しいわけであり、その一方でその状態をできるだけわかりやすく叙述している竹内氏については、弓道の腕前はもちろんであるが、ことばの表現力に関しても非常に卓越していると言えるだろう。
2.2 英語教育の「心体」感覚
弓道における心体感覚を簡単に要約することは難しい。もちろん竹内敏晴氏にとってですら、その詳細を明確に記述することは難しいはずだ。なぜなら心体感覚はそれを実際に体験することが最も明確なアクセスになるのであって、言語化すること自体本来ナンセンスなのかもしれない。しかしながら、それを自分なりに分析して言語化することは、自分自身の中でその状態を再分析し、さらなる心体感覚の体験への橋渡しになりうる。それは何も弓道に限ったことではないだろう。かなり唐突ではあるが、この心体感覚という一見不可解な現象は英語教育の中でも体験することができるものではないだろうか。
私は自分が中高生の時分に英語科授業の中で心体感覚というものを体験したことがない。そもそもスピーキングの機会が少なかったし、やはり自分が発していることばと自分が考えていることがリンクしていなかった。私たち生徒の口から発せられていたのは、教科書から引用した定型文を必死に覚えたものばかり。自分が伝えたいことを言語化するという感覚は無かった。もちろん、言語材料が少ない初期段階ではある程度機械的な定型文再生も必要であると思う。そこから英語の文法やリズムを学ぶこともできるので、最初の訓練としての段階ではあながち無碍にはできない。しかしそれだけでは教育にはならない。著書『小学校からの英語教育をどうするか』で柳瀬先生が述べられているように、まさに私たちが行っていたのは「引用ゲーム」だったのだ。心と体がリンクしていなので、ことばを発しても実感が無い。本来言語は自分が伝えたいことを伝えるため、意思疎通のために生まれたものであるのに、伝えたくもないことを口から発しなければならない。これでは定型文しか使えないようになるのはもちろん、そもそもの動機づけに欠けてしまっている。これは英語の4技能すべてにあてはまるものである。しかし、もちろん現場で働いている教師の方々がこのことを必ずしも軽視しているわけではないだろう。これには授業の形態、評価のシステム、学校制度など様々な要素が複合的に影響している。簡単に解決できるものでもないだろう。ではどうするか。
私は現場で働く教師ではない。ただの学生である。したがって、述べることがある程度机上の空論に成り得ることはやむをえない。心体の融合などといっても、しょせんは理論上の考察に過ぎない。しかしながら、そんな私にも確実に訴えられることが一つある。それは自分自身の心体感覚である。英語を使用するにあたって私が体験した、言語使用に伴う喜びとしての心体感覚である。私自身が伝えたいことを英語にできたときの、聞き手または読み手に伝えられたときの感覚においては、心と体は分離していない。本当の言語使用は身体経験を伴うものである。ただ音としての英語を発するわけではない。すべての感覚を総動員してはじめて言語使用は行われるのである。学習者に英語使用の持つ楽しさを生徒に味わってもらうには、まず私自身が持つこの経験を常に忘れないようにしなければならないと考えている。その体験が無ければ、それを生徒に体現してもらうためにはどのような方法が適切かイメージしづらいだろう。しかしイメージだけでも頭の片隅にあれば、それを下敷きに授業を考えることができるかもしれない。
私は心体感覚についてまず弓道を、次に英語教育を端的に考察した。一見全く異なるこの二つの領域だが、「こころ」と「からだ」という点に関して言えば、実は共通点が挙げられることがおわかりいただけると思う。心と体が乖離しているときは、弓道も英語教育も成功しない。この人間が持つ二つの重要な要素、心体という根源的な要素を軽視してはならない。ただの的あて、ただの引用ゲームは人間の営みとは言えないのである。しかし、かくいう私自身もこの問題に関しての考察においては、そのスタートライン付近でうろついているにすぎない。高校生だった私が体験した弓道の心体感覚の断片を、うまく英語教育に応用していくことを私の今後の課題としたい。
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ポートフォリオ
~第6セメスター「コミュニケーション能力と英語教育」を通して~
教育学部第三類英語文化系コース3年 AS
0. はじめに
このポートフォリオは第6セメスター開講「コミュニケーション能力と英語教育」(指導教員:柳瀬陽介教授)の講義を受講して私の思考を整理したものです。柳瀬先生はもちろんのこと、他の先生方、この講義の受講生、他の広島大学生、その他の学生にも自信を持って公開できるような、また自分自身(5年後10年後の自分も含む)が何度も読み返したくなるようなポートフォリオを作成することを目指しました。ポートフォリオの作成にあたって、この講義で学んだことの全てを整理しようとすると膨大な量になるであろうことが容易に想像し得るため、特に「何年経過しても考え続けたい」と私が思った議題を抽出して文章を書きました。(Bb9上の予習や振り返りで過去に書いたことの繰り返しは意図的に避けています。)
また、このポートフォリオに対してはA-(エーマイナス)の評価を希望いたします。
1. 英語教師の責務とは何なのか
英語教師の責務について考察するにあたり、まずは私自身の教育実習における体験を振り返ります。私が教育実習に臨むにあたり意識していたことは「たった数回の授業であっても、いかに生徒たちの英語力を向上させるか」ということでした。教育実習のシステム上、実習校一校につき、与えられる授業回数は5回です。(期間は2週間)加えて、その5回の授業において担当するクラスというのは全て異なっていました。要するに毎回の授業は、私(教育実習生)からすれば「初めて対面する生徒たち」であり、生徒たちからすれば「初めて見る実習生の先生」であったということです。ですが、授業を担当する教師が附属学校の先生であっても教育実習生であっても生徒にとってみれば1回の授業ということに変わりはありません。だからこそ、その1回の授業の中でいかに生徒の英語力(単語・文法の知識や発音など)を向上させるかということに拘っていました。しかし、私には「
英語を通して何かを学ぶ」という視点が欠如していたのです。強いて言うなれば、英語を通して英語のみを学ぶことを強制していたことになりますが、私の行った授業でたとえば、
今まで自分が学んできた言語である日本語に対する興味が湧いてきたという生徒は皆無だったのではないかと想像します。外国の文化に触れることで自国の文化に立ち返ることがしばしばあると思いますが、言語も同様だと考えます。ですが、教育実習中の私はAll Englishの授業形式も相まって英語を英語として切り離し、独立させていました。ましてや、
学ぶこと自体への今興味が湧く(learn to learn)ような授業とは到底言えませんでした。英語教師の責務を考えた時に、英語力をつけさせることは確かに重要なことです。(英語教師ですから・・・)ですが、それだけでは視野が狭いと言えるのかもしれません。英語の授業を通して、生徒に学ぶこと自体に興味を抱いてもらえるようにするのも英語教師の責務ではないかと考えるようになりました。
2. 授業において見られる「計算主義」に関して
「コミュニケーション能力と英語教育」の講義の中で柳瀬先生による
学校教育においては計算主義の傾向が強すぎるというご指摘を受け、改めて計算主義について考察しました。確かに教育実習中では授業の指導案、さらには細案を作成することに膨大な時間を費やしました。それは教育実習のシステム上、教育実習生に要請されることでもありましたし、なにより私自身が指導案や細案を作成しなければ不安だったのです。(中学校や高等学校で教壇に立つという経験の少なさから)しかし、先生もおっしゃるように
授業案どおりに綿密に授業をやろうとするとたいてい上手くいかないということを自身の体験から痛感しました。特に細案まで作成すると、そこには「自分がこのような発話をする、生徒はこのような応答をするだろう」という構想が台詞のように全て記載されています。(それらを作成するのにたいそうな苦労を味わったわけですが・・・)そのため、生徒からの想定外の発言に対して反応できないという場面が多々ありました。
予想外の出来事に対応していくことで授業が進化していくということを受容することができなければ、自分の自信の無さを細案で誤魔化してしまうような英語教師になってしまう可能性があると考えるようになりました。
3. 専門家のTrapにまつわる警告
専門家のTrapに関しては、このポートフォリオをおそらく読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に警告をするつもりで考察したいと思います。現在、学部での3年分の勉強を終えようとしている私は英語教育に関して専門家になりつつあると言ってもよいと考えています。1年後であれば学部での勉強をすべて終え2年後以降であれば英語教員として現場に出ているであろうと思いますが(願いますが)、その頃には今よりも高度な専門的知識を有していなければなりません。ですが、英語教育に関しての専門性を高めれば高めるほど、ある意味でその視野は固定されていきます。そして
大学在学中に4年間学んだことでもって英語教育の現実を全て知った気になるのも愚の骨頂だと言えるでしょう。だからこそ、「未来の自分、現場に出て自惚れちょったらいけんっちゃ!」とあえてこのポートフォリオには相応しくないであろう口調で未来の自分に警告します。専門的な勉強をするのはもちろん奨励されるべきであり、専門家としては当然のことですが時折、柳瀬先生の「
専門家はどれだけ自分の見識が狭いかを理解している謙虚な人」という言葉を思い出すべきでしょう。
4. ウィトゲンシュタイン的に技能を考えるということ
昨今の英語教育において、四技能をバランスよくということが叫ばれるようになってきていますが、そのことからも分かるように、まるで「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」の四つの技能区分しか存在しないかのような論調になっていると感じます。事実、私も受験生であった頃はそのような区分に関して何の疑問視もしていませんでした。しかし、柳瀬先生がおっしゃるように「投げる」「打つ」「走る」という要素を全て足しても「野球」が完成するわけではないのと同様に
「リーディング」「リスニング」「ライティング」「スピーキング」四技能全てを足しても「英語」が完成するわけではありません。そのためそれぞれの雑多な概念を
よくよく観察しなければならないでしょう。例えば、スピーチはスピーキングの技能だと考えるとそれはあまりに観察不足だと言えるのかもしれません。スピーチに関して言えば、メモを取るといった行為やスピーチの準備段階でマテリアルを読み情報収集するといった行為を無視して単純にスピーキングの技能だとひっくるめることはできないと考えます。
スピーチをスピーチとして観察することがこの場合は必要になってくるのです。
5. 「色々な音を拾い上げる」ということ
内田樹氏の
いろんな音を拾い上げることがコミュニケーションであるという理論に関して考察したいと思います。現実世界のやり取りを鑑みるとコミュニケーションには様々な「音」が存在しています。例えばどんなに言葉上では「元気だよ」と言っても普段よりも小さな声でボソボソと、しょんぼりとした低いトーンでその言葉を発したとしたら、実際は言葉と真逆の状態であるかもしれません。要するに同一の言葉でも、本当に元気な「元気だよ」もあればそれを偽った「元気だと」もあるということです。だとすれば、英語におけるスピーキングを流暢さ(Fluency)・正確さ(Accuracy)・複雑さ(Complexity)といった観点のみで測ろうとするのはそのような現実世界に即しておらず、乖離してしまっていることになるのではないでしょうか。同様に現実世界のやり取りはメタメッセージにあふれています。例えばどんなに恐ろしい脅迫めいた言葉を放ったとしても、その表情が笑顔でありリラックスした態度であれば、それは冗談であると判明します。この場合メ
タメッセージは非常に強力な役割を果たしており、メッセージ(言葉自体)よりも強いことが分かります。しかし、今日の英語教育ではメッセージばかりが取り上げられメタメッセージに焦点が当てられるということは滅多にないと言ってよいでしょう。(I see.という表現を教える際もそのメッセージの側面のみが切り取られています。) このことから
英語教育では現実世界と反してメッセージの方がメタメッセージよりも強力であるかのように扱われていることが分かります。この現実世界との反転を是正するために英語教師自身がメタメッセージの重要性を教える必要があるだろうと考えます。
6. 教科書や例文の捉え方に関して
教科書に対する認識として、
教科書で扱うやり取りは実際に現実世界で起こり得るものだと考える英語教師は少ないであろうと思います。現に私は中学生であった頃、実際に起こり得るものだというよりは、教科書という独立した世界の中でのやり取りだとう印象を抱いていました。そのような印象しか抱かなかった原因の一つは現実世界とのリンクを教わらなかったからであると分析します。
例文に関しても同様に、文法を教えるためのものであり現実世界とは乖離していました。教科書という独立した世界の中でやり取りが行われ、現実世界とは切り離されて例文が扱われ、それらのものが独立した定期テストという形で出題され、その得点が評価されていました。当時の私にとって現実世界から見た教科書の世界はまるでパラレルワールドであるかのようでした。「教科書のパラレルワールド化現象」を食い止めるにはそれに対する英語教師の認識から改めていかなければならないと考えました。(教師の認識が生徒の認識へと正の方向にも負の方向にも連鎖しやすいと考えるからです。)
7. 英語科における思考力とは何なのか?
近年の学校教育においては「思考力・判断力・表現力」を育むことが重視されていますが、英語科における思考力とは何かを考えた時に、それを定義することは中々難しいことであると考えます。私自身は「何らかの基準や根拠に基づいて論理的に物事を考え抜く力」であると考えていましたが、「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において柳瀬先生のおっしゃった言葉が私の定義を打ち崩すくらいに強烈なものでした。それは、
思考力とは(教師さえも予想しない)新しいものを生み出す力であるというものでした。とある研究授業での、鯉のぼりを英語で説明する際に生徒の口から咄嗟に出た”a big fish swimming in the sky”という表現は私の印象に残っていますが、このような表現を生み出す力こそ思考力と言えるのかもしれません。また、柳瀬先生は
思考力とは自分の経験と結びつかなければならないともおっしゃいましたが、この発言をした生徒は鯉のぼりに関する自分の経験を思考と結びつけています。英語教師は固定的に定まった知識としてのCompetenceだけをTrainingによって重視するのではなく、思考力としてのCapacityもEducationにより重視する必要があると考えています。確かに上記の独特な表現は教科書にも載っていなければ、文法やマークシートで測ることもできません。しかし、思考力というものをマークシートで測ろうとしたり、点数化しようとしたりしているのが今後の英語教育界隈の動向であるとしたら、思考力の本質を見落としている(もしくは気づいているがあえて目を瞑っている)と言えるのではないかと考えました。
8. 英語力と英語コミュニケーション力に関して
英語力と英語コミュニケーション力に関して、英語教師の視点で考察することはAll Englishでの授業が求められる現在の英語教育では非常に重要なことであると考えます。似て非なる両者の考え方を履き違えるのは危険でしょう。英語力による文法説明という場面を考えた時に、まるでネイティブスピーカーのようにペラペラと英語で解説できる力がそれに該当するかと思います。このようなスキルは時には必要でしょう。私は教育実習中のとある授業で、Warm-upや導入までを英語で行い、文法説明の段階に移行すると日本語に切り替えました。そのようにした理由は、英語による文法説明は生徒にとって理解するのが困難であろうと考えたと同時に、私自身にとっても英語による説明が困難だという考えが頭をよぎったからです。しかし、今まで私(実習生)の英語を聞き、生徒自らも英語を話すという場が出来上がっていた状況で、日本語が使用言語に切り替わると急に生徒の士気が低下していくのが見て取れました。(英語による流れが日本語により途切れると生徒は英語を使用したいと思うモチベーションが低下するというフィードバックを指導教員の先生から頂きました。) このような状況下では上記の英語力が必要なのかもしれません。しかし、英語力による文法説明は生徒の存在を排除した独りよがりの指導であるのではないでしょうか。英語教師に必要なことは英語コミュニケーション力に支えられた指導ができるとうことだと考えます。
英語コミュニケーション力というのは相手の表情や反応を見る力です。「みんなが分かっていなさそうな顔をしているな・・・この表現に言い換えてみよう。」などと試行錯誤することは生徒の存在を重視していると言えます。All Englishの授業が求められている今日だからこそ、
英語力と英語コミュニケーション力を混同するべきではないと考えました。自分がいかに英語力を発揮するのかという問題といかに相手の興味・反応によって表現や内容・方法を臨機応変に変えるのかという問題は別問題なのです。
9. Different but equalの考え方を目指して
私は「コミュニケーション能力と英語教育」の講義でこの言葉に出会えて良かったと感じています。今の英語教育が目指すべきはこのまさに
Different but equalの状態ではないでしょうか。そして、おそらくこのポートフォリオを読んでいるであろう1年後・5年後・10年後の私自身に向けて再度警告を発したいと思います。私は中学生の時にバスケットボール部に所属していたため、例えば体育でバスケがあった時やクラスマッチが催された時にはそれなりの活躍ができました。しかし、コートには多くのバスケ未経験者がいて彼らも未経験者ながら精一杯コートを走り回っていました。そこに違いはあっても権力差はありません。そのコート場にいた者がみな同じバスケという競技をプレーしており、それを楽しんでいたというだけなのです。これがサッカーの場合だとどうなるでしょう。私はサッカー経験者ではないため、決して上手とは言えませんがそれなりにピッチを駆け回ります。サッカー経験者はその経験を活かしそれなりに活躍をします。このケースも先ほどと同様だと考えます。つまり、
そこに違いはあっても権力差はありません。これを勉強で当てはめてバスケは英語、サッカーは数学とでもしましょう。先ほどのスポーツの例からも言えるように英語においても数学において元来は
Different but equalであるはずなのです。しかし、現在の英語教育においてはsame but deviantの考えが先行しているように感じます。英語を学習しているという点では同じだが、そこには権力差(偏差)があるというものです。確かに英語ができる生徒とそうではない生徒とで進学先等は変わってきます。それは英語教育においてsame but deviantの考えが蔓延しているからでしょう。だからこそ、このポートフォリオにそぐわないであろう口調で未来の私自身に向けて再度警告を発します。「未来の自分、生徒をsame but deviantに扱いよったらいけんで!」
10. 英語教育における「一人でできること」と「一人ではできないこと」に関して
「コミュニケーションと英語教育」の講義の中で印象的であった議題の一つです。
英語教育において自分を表現したことがあるか?と問われたら高校生までの私だったらまず間違いなく校内順位や偏差値といったワードが出てくることでしょう。「テストで○点取って校内順位において△位だった」「模試の偏差値が□だった」「英検で◎級を取得した」という具合に自分を表現していただろうと想像します。しかし、このように文字に起こしている最中にも気づきますが、上で表現されている自己は私という人間である必要はなく、代替可能な自己なのです。テスト・模試・資格試験の類のための勉強は一人でもできることです。私が中高生であった頃は一人でもできることをクラスの全員でやっていました。要するに教室という空間にクラスメートはいても、やっていることは「一人でもできること」だったのです。だからこそ、田尻実践における”My Treasure”スピーチのように「一人ではできないこと」を実感する場が必要なのだと考えます。
クラスメートが自分のことを聴いてくれているという安心感がある中で、自分という自己を表現することは「一人では決してできないこと」です。教師がそのような場を提供し、英語がその橋渡しになるとすれば、学校において英語を学ぶ意義は生徒にとっても理解し得るものになるだろうと確信しています。
11. おわりに
これまで「コミュニケーション能力と英語教育」の講義において私が学んできたことの中でも、とりわけ「何年経過しても考え続けたい」と感じた議題を抽出し思考を整理し文章としてアウトプットしてきました。このポートフォリオを締めくくる言葉として、第10回の講義で柳瀬先生がおっしゃった言葉を拝借いたします。「
現在の英語教育が全て完璧に上手くいっているとは言えない。全て上手くいってはいないからこそ考え続けなければならない。」先生が訴えかけているように、学部3年生を終えようとしている今も、広島大学を卒業するであろう1年後も、そして英語教員として働き出してからも、自分の頭で(自分の感性で)英語教育の向上について考え続けていかなければならないと私も考えます。このポートフォリオはその際の大きな手助けになるであろうと考えると、「書いてよかったなぁ」と素直に感じています。全13回にわたり刺激的な講義と思考する機会のご提供をありがとうございました。