2016年3月31日木曜日

ことばの「権力」と「温かい力」 (卒業論文抄録挨拶文)



ことばの「権力」と「温かい力」


平成26-27年度英語文化系コース主任
柳瀬陽介


  慣例にしたがってコース主任として卒業論文抄録の挨拶文を書きます。この抄録の題目一覧を眺めていると、皆さんの顔が浮かんできます。特に私がゼミで直接担当したゼミ生や、中間発表や最終口頭試験で接した皆さんの思考の軌跡や主張の作法などが思い起こされます。

  皆さんはこうして卒論を完成させることで無事卒業資格要件の一つを充たすことができました。他の要件を充たしていればの話ですが、これで皆さんも大卒という権力を得ることができます。権力とは大げさなことばのように思えますが、実際、大卒という資格がなければ就くことができない職業もあったり、大卒かそうでないかで給料が違ったりすることもあるわけですから、皆さんが得る大卒資格は、社会的に認められた一つの権力だと言えると思います。

  どうぞ皆さんはこの権力を適正に使用してください。この権力に基づき他人に何かを要求する場合は、自分のその要求が適切な理由・根拠に基づき、望ましい目的へと合理的につながっているかを吟味してください。教師でしたら、当たり前のように宿題や課題を児童・生徒・学生に対して要求しますが、これも一つの権力行使です。教師は、その要求が妥当なものかを自己吟味する必要があります。こう書きながら、大学における私自身の権力行使はどうなのだろうと思うと少し恐ろしくもありますが、そういった自己省察を忘れないことが、たとえ小さなものであれ権力を行使する人間には必要なことだと思います。

  さらに昨今は、何事につけやたらと評価をすることが推奨されています(それでいて、その流れ自体についての評価はあまり聞きませんが、それは別の話としましょう)。他人の努力に対して一定の制度的評価を下すことも権力行使の一つです。この権力行使は、人を一喜一憂させる、結構罪作りなものです。私もつい先日まで後期の成績をつけていたところですから、これもどうだったのだろうと改めて職業人としての自分の権力性に思いを馳せます。

  権力は下手に使うと人を不幸にもするものですが、近代社会の制度を活用して生きる私たちに権力は不可欠です。火力や電力がなければ暮らせないように、権力がなければ近代生活をおくることができません。権力は、使い方によれば凶器にもなりますが、それは刃物も同じことです。人間はおそらく石器時代から刃物と共に暮らしてきました。長い歴史を通じて、刃物は確実に進歩しましたが、それと同程度に刃物の使い方も進歩したと思いたいところです。ことばによる権力の創出と行使も、人類史と共に進歩しましたが、私たちはことばそのものだけでなく、ことばの使用についても智慧をつけたいものだと思います。いや、ICTといった伝播手段や、実験や統計といった論証手段が進歩し、ことばがもちうる権力性が高まっている以上、権力的なことばの使用に対する智慧を深めることは、ことばの権力を有する者にとって必須の課題でしょう。

  と、ここまで、ことばがもつ力を (一つにはアレントの著作翻訳の訳語にしたがって)「権力」と称してきましたが、ことばが持ちうる力は社会制度的な権力だけに限りません。社会制度とは無関係に、私たちを勇気づけ支え合う力もことばはもっています。

  実は先日、私のゼミでは、三回目のゼミ合宿を行いましたが、そこではそんな力を感じることがでました。参加者はそれぞれに自分が好きなことや気になっていることについて20分の発表をしましたが、連続三回目の参加となる修士2年次生 (およびOBとOG) などは、さすがに発表をしていても、その中に自分の姿をよりいっそう明らかにしてくれていました。お互いに知っているつもりの間柄でも、そのようにことばで自らのことを、勇気をもって明確に語り、周りもそれに対して自らの正直な思いをことばに託して語り合うと、そこには何ともいえない力 --温かいい力-- がみなぎります。その力に支えられて、何気ない食事での会話やレクリエーションでのことばのやり取りにも温かい力が感じられました。

  ことばは権力をもつ前に、このように温かい力をもつものなのでしょう。その多くは家族や親しい友人の間に見られるものでしょうが、時に見知らぬ人の間にも、ことばを通じて、このような温かい力が働くことを私たちは知っています。ことばの権力は、本来、このような温かい力に基づき、温かい力を守り育むためだけに使われるべきものではないのでしょうか。

  皆さんのこれからが、ことばの温かい力に充たされますように。そして皆さんの権力行使が、そんな温かい力を育むものとなりますように。






ゼミ合宿で行った休暇村大久野島の玄関前でのうさぎ 






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