2016年3月7日月曜日

当事者研究とオープン・ダイアローグにおけるコミュニケーション (学生さんの感想)



以下は「コミュニケーション能力と英語教育」の最後の授業のための予習と、その授業の振り返りのコメントの一部です。この授業では当事者研究とオープン・ダイアローグにおけるコミュニケーションについて考えることを目標としました。

またもや親バカのようなコメントとなりますが、学生さんは深いことを書いてくれていると思います。これらのことばを私が丁寧に読み取ることが、私に課せられた最低限の責任かとも再認識させられました。





***予習コメントの一部***

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  今回の予習を行う中で、生徒が本当に必要としているコミュニケーションが何か見えてきたように思います。

  塾で教えている時に、何かを質問したり、分からないところを聞いたりしても、何の反応も示してくれない生徒に出会った経験があります。たまに反応してくれる時がありましたが、その時はとても不安そうな小さな声で話していました。私は、まず、この子のことを知ろうとせずには信頼関係も築けないと思ったので、好きなことや部活についてなど質問して聞き出す努力をしました。しかし、その子は私がいろいろ聞き出そうとすればするほど、黙り込んでしまい、どうしたらいいのだろうとわからなくなってしまったことを思い出しました

 予習記事の中に「コミュニケーションとは自分の言葉を通じて自分を語ることである」とありました。この記事を読んだ時、自分の行動が相手にとって、コミュニケーションを行うことを苦しくさせているのだと気付きました。なかなか言葉を発せてもらえないと、焦って次々質問してしまっていましたが、時間をとって相手が何か伝えようとするのをしっかり待つことがとても大切なのだと思いました。
  
 その待っている間には、相手にわかってもらえるのかという不安やどういう言葉で伝えたらいいのかなどという複数のことが渦めいていると思います。その時、自分が相手の言おうとしていることを勝手に想像して言ってしまったり、すぐに答えの選択肢を与えてしたりしてしまうと、相手は自分の気持ちを無視されたと感じてしまうかもしれないと思いました。コミュニケーションを通じて、相手のことを理解するために、相手を待つ時間や聞く姿勢を大切にしていきたいです。

 教師になったら様々なタイプの生徒と出会うことになると思います。中には問題行動を起こす生徒などもいるでしょう。ただ、いじめはだめだ、非行はだめだと表面上で怒ったり、教師の視点からだけで主張したりするのではなく、十分な時間をとって、一人一人の生徒の話にしっかり耳を傾けていきたいと思いました。生徒が本当の自分を見つけられるように手助けのできる教師になりたいと思います。
 



  「当事者研究」や「オープンダイアローグ」について読み、コミュニケーションは他者と関わることだけれど、他者だけではなく私たち自身にも様々な影響を与えるのだと思いました。

 「病気にはある意味で人間が根源的に抱えている,人間としての弱さなりから生まれてくる,とても大切な安全装置みたいな意味をもった部分があります。」とありました。病気や弱さがあるからこそ人はそれと向き合い、乗り越えようとすることで自分らしい生き方を見つけていくのではないかと思います。

  最近、「最高の人材の履歴書が必ずしも理想的でない理由」というある会社で人事部長を務めるレジーナ・ハートリーさんのスピーチを聞きました。そのスピーチは、エリートがたどるような道ではなく、様々な困難を乗り越え、寄り道をしてきた人の話をぜひ面接で聞いてみてください、というようなことが述べられています。「米国では調査対象となった 起業家の35%が 読字障害を持っていたのです 驚くのは心的外傷後成長の経験者である。これらの起業家の中には自分の学習障害は長所になっていて『望ましい欠陥』なのだと考えている人がいることです。・・・ 彼らはトラウマや苦難を自己形成の主要な要素として受入れるとともにそのような経験がなければ成功に必要な力や根性は身につかなかったかもしれないことを理解しています」

  自分自身の弱さを知り、どう苦しまないのかを考えるのではなく弱さを弱さとして受け容れ自分らしく生きていこうとすることは、こういった障害をもった人だけではなく多くの人にとって大切なことだと思います。学校の中では進路についての理想を語るばかりではなく、それぞれが自分の弱さや苦手なものを知り、決してそれは悪いことではなく生きていくためには大切なものであり、どう乗り越えていくのか、という過程を示唆することが大切ではないかと思いました。

  そして、そのためには「当事者研究」にあったように言葉にして自分を語るということが重要であると感じました。これまで、コミュニケーションというのは他者とつながるためのものだと思っていましたが、その大元をたどると自分自身と向き合うことである、ということがわかりました。「当事者が語るということ」の中で、抑圧的な親とその子供の会話の例が挙げられていましたが、子供の声に耳を傾けないということはその子供の言葉や表現することを奪ってしまうだけではなく、その子供が感じようとすることにも制限をかけてしまうのではないかと思いました。これまでの授業でもあったように、子供たちの発する声や言葉に耳を傾けることの大切さを改めて感じました。



  べてるの家のコミュニケーションの過程は教育的な視点から考えて、学べることが多くあると感じました。学校では生徒を全体としての生徒として教師との権力差を用いてコントロールしようとすることが多々あります。生徒は「自分の言葉」で語る場面が少なくなり、定型的な発言しかしなくなり、授業におけるコミュニケーションがなくなっていきます。べてるの家での取り組みは、その逆の方向性であると考えます。まず「言葉の獲得」ですが、自分のことを自分の言葉で語るというのは自身のアイデンティティーに関わってきます。言葉を獲得する部分から始めることで、「定型的な発言」からの脱却をし、自分のことを自分で語る言葉を獲得していくことが先決であると納得しました。

  次に「関係の獲得」です。獲得した言葉を用いて他者との関係を築き、広げ、深めていきます。べてるの家では「ミーティング」という時間でこの関係性が築かれています。この時間が自己表現と共感、支え合いの場となり、関係性をつくるきっかけになっています。教育においても(特にコミュニケーション能力の育成を謳っている英語教育ならばなおさら)このような関係性を築くための「場」の設定が重要になってくるのだと思います。授業で定型的に教えた表現をペアで練習するといったようなものではなく、それぞれが自分の言葉で語り合う場を作ることが出来れば、それこそがコミュニケーションの授業といえるものではないでしょうか。教師の役割はその「場」をいかに整えていくかというところにあるのだと考えました。そうして語り合いが始まれば、そこにアレントのpower、自発的な活力が生まれ、それが英語力を含めた様々な能力にプラスの影響を与えていくのだと考えました。



  今回の予習記事を読んだ中で最も印象的だったのは、「べてるの家」での言葉を獲得してゆくプロセスです。これは「べてるの家」にとどまらず、我々にも当てはまるからです。まず当事者が自分の気持ちに気づき、それを言葉として表現できるようになるところから始まる、という点に共感できました。例えば人間が強烈な恐怖などの現実の壁にぶつかるとそれを脳が勝手に押さえつけようとする、という事は聞いたことがあります。そのような状態になってしなった人にとって、その傷を再度えぐるようなことは非常につらい事だと思います。その時にそれを助けるのが、下野さんの言う周囲の環境なのだと思います。学校でもなかなか自分の感情を表現したり、気持ちを伝えたりすることができない生徒はいると思いますが、教師や保護者、クラスの生徒がどのように接するかでそのような生徒が自分の気持ちを表現できるようになるかどうかが決まるのではないでしょうか。自分の中にも、言葉としては知っていても実際にその言葉をどのように使うかを本当は知らない言葉があるのでは、と気づき始めました

  そして、そのような言葉を獲得するための人間関係もおおいに納得できます。先日友人三人と飲みにいき、お互いの今後の進路や教育に対する考えなどを語りました。この時まさに人間関係から自分の中の、あるいは他者からのことば、ことばがまとまってできた表現、表現がまとまってできた考えがあぶりだされたように思います。同じような境遇の仲間という関係があった上で自分の中にもやもやとしていた概念のようなものがことばとして表出された時なんともいない新鮮な気分になりました

  今回の体験からも自分から全力でことばを発するという事をもっと意識して行おうと思いました。



  今回は、「べてるの家」関連図書5冊の内の1冊である『降りていく生き方』(横川和夫)で述べられている「当事者性」に関して考察を深めました。横川氏による「よく考えてみると、私たちも日常生活のなかで、当事者性を無視されたり、ないがしろにされたりしているのではないだろうか。」という指摘はあまりに重くガーンと私の上にのしかかりました。こと学校教育の場では、確かに学習者がどんなものに関心を持っており、何を学びたいのかという当事者性はしばしば軽視される傾向にあると考えます。小学校に入学する際も、中学校に進学する際も履修しなければならない教科・科目は決まっています(決められています)が、たとえそれら以外の分野に関心があったとしても学校ではその分野の授業をしてはくれないでしょう。(私は義務教育で例えば恐竜の授業・恐竜のテストといったものを受けたことはありません。)

 加えて、横川氏は「興味や関心があるなしにかかわらず、教科書にもりこまれた内容を画一的に教え込む授業が進められている。」と痛烈な批判をしています。英語教育で考えるならば、英語に一切の関心を持たない学習者(もしくは「英語なんか嫌いだ」という負の関心を持つ学習者)に対しても英語の授業・英語のテストは行われます。これらのことから、小学校に入学した時点で既に学ぶべき教科は指定され、たとえ関心がなくても勉強を強いられるとしたら長い年月をかけて当事者性は奪われていくことになります。しかし、私が小学生であって頃は国語・算数・理科・社会等々を勉強することに何の疑いもありませんでした。自分が気づかない内にジワリジワリと当事者性が奪われていくことが実に恐ろしいことなのかもしれません。

 横川氏は先の具体例に加えて、早期教育に力を入れる保護者の例を挙げています。子どもの将来を思って、塾に通い詰めにさせることが実はその子どもの当事者性を奪っているというのはなんとも皮肉的だと考えます近代社会における「上へのベクトル」は進歩・発展・上昇ですが、この場合の自分の子どもをいわゆる有名中学や有名高校に進学させたいというのも個別具体的な「上へのベクトル」であると言うことができると思います。「上へのベクトル」のみを見据えて目の前の子どもの当事者性に目を向けることができないという保護者が増えているのだとしたら、それは危惧されるべきことなのではないでしょうか。(少子化の煽りを受けているにも拘わらず、都内中学受験者数は例年ほぼ変わらず、盤石な人気を保っていることからも想像することができます。)「当事者性」に関して、教師も保護者も、そして当事者自身も考えていかなければならないだろうと感じました。



  当事者研究の中での『「人間とは弱いものなのだ」という事実に向き合い、そのなかで「弱さ」のもつ可能性と底力を用いた生き方を選択する。』という言葉に強い印象が残りました。フィンランドに留学している時、フィンランドの教育方針には、’Every student needs some help.’という考え方が根本にあるという話を何度も聞きました。日本とは違い、国費の多くを教育にかけているフィンランドでは、約20人の1クラスが2つに分かれたり、さらに支援が必要な生徒は違う教室での学習や場合によっては違う学校に行ったりと一人一人に合った支援が行われていました。誰もが支援を必要としているという認識から、誰もが自分の「弱さ」を認め、その中で何ができるのかを考えることができていたのだと思います。日本では、支援を必要とする生徒は「特別」であり、あれもこれもできないからというように思われがちです。誰もが持っている「弱さ」を認め、そこから可能性を見つけ出せるような環境を整え、自ら自分の「弱さ」を見つけられるようにすることが必要なのだと感じました。

 またオープンダイアローグに関しては、当事者が自分の思いをしっかりと伝えられるように聞き手の反応、どのような言語を使うかということが大事になってくるのだと思いました。よく、標準語で話すよりも方言で話している時の方が自分の感情を表現しやすいというようなことを耳にします。このことから、専門家たちが、当事者が日常的に使っている言語を自分たちの発言に織り込むように工夫している理由が分かります。よりよい人間関係を構築するためにも、当事者(学校で言うなら生徒)により適切な言語を使用することが必要なのだと思いました。

  外国語である英語で会話をする時には、普段使っていない言語であるため、そこから関係を気付くことは大変なことだと思います。しかしそのような環境でも、お互いに思っていることを伝えられる教室環境を整えることが必要なのではと感じました。



  今回の記事では、極限状態の「当事者」が語る言葉について考えました。

  教師の仕事は、英語を教える以前に、生徒との関わり合いが土台となります。生徒は実に様々で、今回の記事のように、自分の語る言葉に抑制をかけた(もしくはかけられた)生徒も少なくありません。英語教育について学ぶうえで、このようなことについて考えるのは必要不可欠であると感じました。

  問題を抱えた当事者がそれを解決しようとするとき、周りとの関係が必要であることは、私たちが周りとの関係で自我を保っていることに等しいと思います。私たちは、一人ぼっちでは自分のことがわかりません。他者との関わり合いの中で、自我を育成・維持することができています。よって、当事者の問題を解決しよう と思った際、まずしなければいけないのは、当事者との関係づくりであると考えます。当事者との関係を築いて、当事者が自身の言葉を話すことができるように なる第一歩を手助けする必要があります

  このような極限状態は自分に関係ないと思いがちですが、自分の身にも案外簡単に起こるものなのではないでしょうか。私たちの他者との関係は目に見えないもの なので、強い関係でも一瞬にして壊れてしまうこともあります。そんな時、私たちはたとえ短時間でも、自分を見失ってしまったり、自分の言葉を抑圧してしま うことがあります。そんな時助けてくれるのはやはり他者の関係による手助けなのですが、こんなことを繰り返すうちに、他者との関係は非常に繊細なものであ ることに気が付きます。しかし、だからこそ貴重で、いつも大切にしなければならないものなのだと思います



  アレントの「活動」「語り」に繋がるものとして今回の予習記事における「当事者研究」「オープンダイアローグ」を理解しました。自然科学的手法を万能のものとしてすべての物事に適用していくことは必ずしも正しくないということ、英語教育界においてもしばしば無批判に「(1)普遍性、(2)再現性、(3)定量性(数値化)を要求する」手法が受け入れられていることがあるということについては以前の予習記事でも読んだ覚えがあります。

 当事者研究のなかで、当事者は仲間とともに自己を「研究」することで、奪われた「自らのことばの事実確認的なpowerと行為遂行的なpower」を取り戻します。(当事者が語るということ)当事者たちが、専門家と対峙した際に「自らの状態、自らが誰であるかを表現することさえ抑圧されてしまう」としたら、とんでもないことです。教員と生徒の関わりでこれを考えると、生徒が何者であるのか、どんな状態にあるのかということは教員により権力的に規定されてしまいます。実はこんな場面は、日常のいたるところで見られるものなのかもしれないというのが恐ろしいことです

 言語の持つ権力により、私たちは他者の語りを阻害してしまうかもしれないという危機感は、ことばを教える教師になるならば常に持っておくべきものなのかもしれません



  私には問題行動を起こす児童・生徒と直接対面し解決策を模索した経験はありません。しかしながら、そうした子供たちと話をするときに、やはり私の、他者からの、つまり当事者の外側からの視点で話をしてしまう、ということを想像してしまいます。それはある意味で客観的な視点なのかもしれませんが、それだけで根本的な解決が訪れるわけではありません。まず、子供たちが自分自身の内側を見て、そこから自分自身を一つの対象としてとらえること。その対象化を手助けするのが教師の役目になってくるかと思います。実際に自分自身を対象化して考えることに関しては教師自身、いや人間誰しもが困難を覚えることではないでしょうか

  問題行動を行う子供たちは、もしかするとそのような行動を行うことのない他の子供たちよりもずっと敏感に、詳細に世界をとらえているかもしれませんし、自分自身に正直になることができているのではないでしょうか。しかし、それを彼らが自覚できているわけではないでしょう。そのような自分自身を対象化し、まずは受け入れる。それは他者との対話を通じて行われるため、教師はまず子供たちの声を聴かなければなりません。教師は「こうすればいいよ」と一方的に、専門家の立場から助言を与えれば良いわけではなく、「聴く」ことによって子供が自分自身に気づく場を拵える役目を持っています。それをきっかけに子供たちが自分を振り返って、自分自身で解決策を見いだせることが最も重要なのではないでしょうか。

  また、余談ですが、「聴く」ということは単に耳を使って聞くことではありません。それは「聴」という字を見るとわかります。「聴」には「耳」の他に「目」という字が含まれています。人の話すときは「耳」だけでなく「目」も使わなければならない。話すときはちゃんと相手の眼を見ろ、ということはよく耳にします。しかし、実はそれでもまだ足りなくて、この二つに加えて「心」も必要となります。相手と心を通わせようとする姿勢は聴く行為に不可欠なのです。「耳」と「目」と「心」、これらを総動員して始めて「聴」くことが「十」分になるのではないでしょうか。(これは私が小学校の全校集会で校長先生からお聞きした話に「心」と「十」分のくだりを追加したものです)


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  今回の予習記事を読んで、教育というのは「対等な人間同士のあたたかな営み」なのだということに改めて気づかされました。多くの人が「先生」と「生徒」と教室内を分けてしまったときに、そこには「先生」が上で「生徒」が下といったような格差のようなものを頭の中にイメージしてしまうと思います。いままでの長い教育の歴史から、「先生はえらい。だから先生に従わなければならない。」といったようなイメージがぬぐいきれなのは仕方ないし、もしかしたら不可能かもしれません。

  しかし、これから教師になろうとしている私たちは、教室内の営みは「先生」と「生徒」という立場は異なるものの、同じ対等な人間なのだという感覚をしっかりと持つ必要があると思います。先生は生徒に教えを授けなければならないという使命があるゆえに、多くの先生が生徒を教える「対象」として捉えてしまっているのではないかと思います。僕の感覚として、生徒を「対象」として捉えてしまった瞬間に生徒たちの中から人間的な性質がすべて奪われてしまうかのような感じがします。そして、「対象」として生徒を捉えてしまうことにより、生徒に何かを与えるという行為は出来たとしても、「生徒たちから何かを授けてもらおう」という考えが永遠に教師たちの頭から失われてしまうようにさえも感じます
 
  教師の仕事は確かに「教える」ことだと思います。しかし、生徒たちも教師と同じ1人の人間であり、彼らたちが持っている可能性というのは想像を超えるものであるように思えます。生徒たちは「対象」ではなく「主体」であると記事の中にもありました。教師(そして教師になろうとしている私たち)は「主体」である生徒たちからも学ぼうという姿勢を持たなければならないと思います。そのような姿勢を持たずに生徒の声に耳を傾けようというのは甚だおかしなことのように感じます。

 教師と生徒が対等な人間として、そしてお互いがお互いから学びあう関係性を築くために必要なことが「対話」なのだと記事を読んで私は理解しました。教師が生徒を「対象」とみなしているようでは、コトバは教師から生徒に対して一方通行になってしまいます(教師が生徒たちから何かを得ようとしていないからこのような一方通行になるのだと私は考えています)。教師と生徒間の「対話」がなされることであたたかな人間らしい関係性が教室の中に生まれるのだと思います。
 
 私自身、「対話」のすばらしさは高校時代に身をもって感じました。私は野球部に所属していたのですが、野球だけでなく多くのスポーツがそうであるように、そこでは「対話」が非常に重要な役割を担っています。試合のあとのミーティング、練習後の反省、新チーム発足の際の方針決めなどチーム内で話し合わなければならない機会は数えきれないほどありました。僕のチームは全体で50人ほどいたのですが、全員が全員同じ考えを持っているわけではなく、意見がまとまらずに口論になることも多々ありました。結果、全員が完全に納得する結論に達しないことももちろんありました。
 
 しかし、記事の中に「単一の見解で経験世界を支配しようとするのは極めて危険だと考えられます。私たちは最終解がないままに、互いに耳を傾けあい、お互いに相補いながらなんとか事態を乗り切ってゆくべきではないでしょうか」ともあるように、対話を続けることに意味があるのだと今では理解できます。「結論の出ない長い話し合いなんて無駄だ」という人が多数である今の世の中で、一度立ち止まってこのような考え方をすることが求められているのではないでしょうか。
 
 高校の野球部のとき、答えの見つからない話し合いを何度もしましたが、いまではそれが無駄であったとは全く思いません。その「対話」の中で異なる多数の意見を取り込むことでチームがうまく働くようになったことも確かであるし、何より考えは異なれど、みんながチームのことを真剣に考えているのだということを認識できるきっかけになったからです。
 
 このような経験から、教室内の教師-生徒間の対話ももっと重要視されるべきだと感じます。教室を作り出すのは教師だけではありません。授業を作るのは教師の力だけではありません。一人ひとりの生徒が「こうなってほしい、こうなるといいな」と感じていることが少なからずあると思います。全員が納得する結論には達することは出来ないかもしれませんが、教師が教室を支配するのではなく、生徒との対話を通じてともに教室を作り上げることができるといいなと切に願います







***振り返りコメントの一部(授業全体の振り返りも含む)***


  授業の中で「言葉のあり方に自分が表れている」や「言葉にすることで自分のことを他人にゆだねることができ、それが受け入れられたとき活力が生まれる」という言葉が心に残りました。問題行動を起こす生徒たちは、自分の弱さや悩みを抱えている場合が多いと思います。反抗することによって、教師に助けを求めているのだと思います。生徒の行為一つ一つには、メッセージがあるのだと改めて気づきました。それらをただ否定するのではなく、生徒の思いや悩みを受け入れて、生徒を支援していきたいです。

  また、問題行動を起こして自分の気持ちを表現できる生徒はよいが、それができない生徒はどうだろうと考えました。教室にいる40人を見渡せば、大部分を占めるといっていいのはあまり問題行動を起こさない、また自分のこともあまり表現できない生徒であると思います。表面上は、教師の話を聞いてくれて、他の生徒の邪魔をしない良い生徒として評価される一方で、一番注目されづらい存在です。こういう生徒こそ自分の悩みを内に秘めている可能性があるのではないでしょうか。どうしても問題行動など目立った行動を起こす生徒に目が言ってしまいがちになると思いますが、こういう生徒の様子の変化にも注目し、小さなサインやメッセージにも気付いていけるようにしていきたいです。


  この授業を受けて、コミュニケーションとは何かについて様々な視点から学び、自分の視野を広げることができました。今まで、コミュニケーションとは学習指導要領にあるキーワードということくらいの浅い理解しかできていませんでした。しかし、この授業を通じて、コミュニケーションとは心技体が一体となったもので、相手に伝えたいという気持ちがあってこそ成り立つものであるということを学びました。また、相手の言葉を受け取ったり、言葉で自分自身を表現したりすることで「活力」が生まれることも学びました。それは英語の教科に限ったことではなく、生徒と関わりの中で信頼関係を築くためにも、音楽やスポーツなどにおいても同じで、生きていく上で必要不可欠なものであると学びました

また、この授業のおかげで自分の今までの経験や背景が今の自分にどう結びついているのかについて考えられたのも良かったです。それらと哲学や英語教育を組み合わせて考えることで、今まで点としてバラバラだったものが線になってつながっていくように感じられました

この授業で学んだ様々なことを忘れず、これからの人生においても応用して、生かしていきたいと思います。貴重な学びの機会を与えていただき、本当にありがとうございました。



  私は、今回の授業で学校現場において問題行動を起こす子供について考えました。特に、「学校でキャラ作りを強いられ、自己を抑圧している子供たちがいるということ」について焦点を絞って考えたいと思います。

 「学校」という現場では、必ずしも全ての子供が自分をありのままに表現できる場でないのは私も経験上知っているつもりです(そして教員ももしかしたら学校での顔を作っているのではないでしょうか)。多くの子供はきちんと前を向いて授業を聞くでしょうが、ある子供は問題行動(授業中席を立ったり、注意散漫になっている)を取ったり、ある子供は授業中ぐったりしていたりということはよくあることではないでしょうか。しかし教員や指導者は問題行動を起こす子供の内に秘めた葛藤や苦しみなどに配慮しないまま叱ったり、矯正したりすることは多いと思います。結果、自分を表現できる場を失って学校に来られなくなる子供は相当数いると思います。

 当事者研究で大切なことは、対話を通して、言葉に耳を傾けることであると習いましたが、まさにこうした子供を理解するのにも対話が必要だと強く感じます。例えば、問題行動を起こす子供の中には家庭での不和や、複雑な家庭事情のために家庭でも自己を抑圧せざるを得ない状況にあったり、逆に明るく振舞っている子供でも、それは他のクラスメイトから強いられたキャラであり、自己を抑圧しているなど、事態はそんなに単純ではありません。そのようなときに教員までもが子どもの話に耳を傾けず、頭ごなしに叱るような子供の「敵」となるべきではないと考えます。すなわち子供を改心させることを必ずしも目標に据えるのでなく、子どもとの関係を作るために対話を行うべきと考えます。

 今、上に述べたことは、生徒の良き理解者である教師として当たり前に行うべきことかもしれませんが、改めて、学校現場に置き換えて考えることで対話の大切さについて今一度再認識することが出来ました。

  またこの授業を通じた私の所見を簡単に述べたいと思います。

 私は「思考し、それを表現する」ことの大切さをこの授業を通じ改めて感じました。私はどちらかというとせっかちで結論を早く下したいと思う方なので、多くの事例や抽象例を読んで、まとめるのは最初は容易なことではありませんでした。しかし、ある結論が見えている中でも、様々な事例 -具体的なものもあれば、抽象的なものもありましたが- を読んでいくうちに、自分の経験に落とし込んで、一つ一つの事柄を「自分のもの」として身体化していていく過程に喜びを感じました。これこそがまさに「思考」そのものであったと考えています

 そしてそれを言語で表現することの難しさです。頭の中で、内容が呑みこめたと思っても、それを言語化するにはまた別の思考が必要です。これにも最初は四苦八苦していましたが、回を重ねるごとに、「ああ、自分はこのように思考していたんだ」と頭の中の思考の「霧」が晴れてとてもさわやかな気分になりました。思考に思考を重ねて、言葉が先鋭化され、洗練されていく過程に喜びを感じました

 しかし、これで「思考」をとぎらせてはいけません。ポートフォリオを作る過程でさらに思考を再構成しなければいけないからです。さらに一段階次元の高い思考をしたいと思います。



  前回の授業の振り返りコメントの中に「本当の意味でのコミュニケーションの意欲は、生徒からにじみ出るものではないか」というものがありました。単に意欲があるだけではなく「にじみ出る」としている点がこれまでの授業も踏まえてあり、共感できる部分でした。そのようなコミュニケーションの活動をクラスの中で行う際には生徒たちが躊躇することなく自己表現することのできる雰囲気が必要で、そのための生徒や教師、生徒同士の信頼関係の構築が重要だと思います。また、授業や学校の中で取り扱う内容は実生活とかけ離れた机上だけの内容であってもなりません。実生活に近いものである必要があり、生徒たちが必要としているものは何なのかに関心を寄せることが大切だと思います。そして、生徒たちの言葉が生徒たちの体からにじみ出るようなものにするためには、学校の中で生徒たちの感性を磨くことを大切にしていかなければなりません。しかし、評価ばかりに縛られ完璧であることや点数を稼ぐことばかりに目がいってしまうと、生徒それぞれが持つ想像力や独自の感性が育たない可能性もあります。学校教育と評価は切っても切り離せない関係にありますが、その在り方には十分注意をし子供たちの成長を妨げるものであってはならないと思います。

  当事者性については、「問題行動を行う子供と向き合う際に大切なことは、その生徒自身が自分自身と向き合うことではないか」という言葉が印象的でした。問題行動を行う子供に対してだけではなく、生徒と向き合う際にはアドバイスなども大切ですが、当事者である生徒が自分自身と向き合わなければ根本的な解決にはつながりません。コミュニケーションを取る際に、特に相談に乗ったりする場合には自分が主体となって話を進めていこうとするのではなく、相手が何を伝えようとしているのかや、言葉がなかなか出てこない場合にも言葉になるまで待つ、といったことを大切にしていく必要があると感じました


  この授業全体を通し、コミュニケーションや言語教育は人間の成長と深くかかわっているということを感じました。教育、英語教育、言語についてそれぞれに新たな視点が加わり、視野が広がったと思います。また、自分自身の経験や弱さについて考える機会も与えてくださり、自分自身の成長も感じることのできた期間でした。ポートフォリオの方で学んだことをしっかりとまとめたいと思います。



  自分の苦しい経験や思いを言えないために、問題行動を起こしてしまう生徒がいるというという話がありました。私も中学3年生の頃、本当に些細なことなのですが、家族にも友達にも先生にも言えない悩みがあり、学校に行きたくなく、いつもの通学路とは違い道を通り、遅刻ギリギリに登校している時期がありました。(実際に遅刻すると親に見つかり、怒られるのが怖く、時間には間に合うように行っていたのですが…)2年生の頃までは、唯一何でも話せる先生がいらっしゃり、何かあるとその先生に相談していたのですが、その先生が転勤され、なかなか相談できる相手がいませんでした。学校に行きたくなくなっていた時期が中学校卒業間近だったために、そのまま自然に解決することが出来ましたが、あの状態が続いていたら、もしかしたら「問題行動」を起こしていたかもしれません。その時に感じたのが、1、2年生の時のように話せる相手がいたらよかったのに、ということでした。
 
  自分の中にため込んでしまうと、いつかそれが爆発してしまいます。自分の弱さを見せられる関係にある友達を見つけることの大切さに改めて気づきました。同時に、これから教師になった時、生徒と弱さをさらけ出せる関係を築くことが必要なのだと感じました。「問題行動」を完全に見逃すことはできません。しかしそれをいつも頭ごなしに叱っていては根本的な解決にはなりません。教師と先生という立場ではなく、一人の人として、生徒との関係を築くことが必要なのだと思いました。そして、ことばを通して関係を築けるような環境を作っていこうと思いました。

 コミュニケーション能力と言語力は全く違うものであるということが言われました。学校のテストでは全てを測ることはできません。特にテストをする時には細かな場面設定を行い、その中でパフォーマンスし、それを評価することが求められています。しかし現実社会では、状況は複雑で、決まりきった場面に遭遇することはありません。そのような中で適切にコミュニケーションを取ることが出来る能力を付けることが求められるのだと思います。だからと言って、全く評価しないわけにもいきません。このバランス(中庸)をこれからも考えていかなければいけないのだと思いました



  今回の講義で、べてるの家の方が「下野君、日本語上手くなったね。」という言葉が印象に残りました。予習の段階ではあまり気にせずに読み流していましたが、授業中に再び読み返してみると「とても深い言葉だなぁ。」と感じました。私たち日本人は日本語の母語話者であるので何十年も生きていれば日本語は流ちょうにそしてより正確に話すことができて当然だと最初のほうは思っていたのですが、言葉を使いこなすというのは形式的な観点ではなくその話者が言葉を通して自分自身の活力を獲得していくことを指すのだと気づきました
 
  私自身もこれに似た経験をしたことがあります。大学に入るまで、私は自分の気持ちを言葉に出して、それを他人に受け入れてもらおうとすることを拒んでいました。いわゆる日本人の足並みをそろえて自分を押し殺していく典型的な例だと思っています。輪を乱してはいけない、だとか私はここで発言をするべきではない、だとかそういった理由をつけて自分の言葉を発することから逃れていました。そのせいで、授業中に出したイップスの例のように、逆に心を締め付けていたのです。それでも心が折れないようにと、何とか自分は強いのだと言い聞かせて気持ちを自分の中にしまい取り繕っていました。それが悪循環となってさらに自分を追い込み、選手をやめマネージャーに転向しようかとも考えました。しかし、周りは私のことを察してチームメイトが話を聞いてくれて、監督も相談に乗ってくれたのです。そこでようやく私は自分の言葉で語ることができたのです。その後、私は立ち直って選手として最後の大会にも出場することができました。今考えれば、私は語ることによって安堵感や前向きな気持ちを獲得していたのではないでしょうか。弱さを取り繕おうとしていても、そのメッキはすぐにはがれてしまいます。そうではなく、自分の弱さに向き合って言葉で語り合うという行為は人間が強く生きていくうえで欠かせない営みであるということを考えることができました


  もう一点、これはコミュニケーション能力の授業でずっと話題になっていたのですが、物事を両極端に考えてしまうことの危険性については常に意識しておかなければならないというように感じました。特に今回で言えば、コミュニケーションとリハビリテーションの理念の違いです。英語教育においても同様にリハビリテーションのような教師の介入による専門的な知識・技能の教授や専門的な観点からの評価は必要です。しかし、教師がそのような立場に立つだけでは、正確な英語を話すことだけが目的となりかねません。そうではなく、英語はコミュニケーションを図るための手段であるはずです。以前”Never make fun of someone who speaks broken English. It means they know another language.”という言葉を聞きました。教師はある程度の英語力は評価しなければならないけれど、英語教育はそれだけで語ってはいけないということを肝に銘じておきたいです。この講義では、英語教師として両極端に走らず、どのように中庸を見つけていけばよいかを考えることができました。



  今回の授業での「病気は人間としての弱さなりから生まれてくる、とても大切な安全装置」という言葉が心に残りました。病気というのはマイナスなイメージがありますが、実は私たちを守ってくれているものです。例えば、それと似たものに、痛覚があります。もし私たちに痛覚が備わっていなかったら、危ないこと・ものに気が付かず、身はズタボロでみんな早くに死んでしまうでしょう。痛覚は、生きていくうえで必要なものです。
 
  そして心の場合は、『うつ病』や『引きこもり』で表現されます。悲しいこと・辛いことに耐えきれなくなったら心の病気になりますが、それは自分を守っている証拠で、自然なプロセスです。社会からはじき出されたような気分になるかもしれませんが、風邪をひいても必ず治るように、心の病気も必ず治ります。しかも、怪我や病気をすることで 身体が強くなっていくように、心も必ず強くなります。しかし、心の病気である当事者はそのことに気付けないので、周りで支えている人たちが常に覚えておく必要があります。そうすれば、周囲の人の焦りや戸惑いも軽くなるでしょう。私の好きな歌の歌詞に、「僕が僕を諦めたら もう痛みなどないんだ。それだけでこれら全てがたまらなく愛しいんだ」というものがあります。心が傷つくのは自分を大切に思っている証拠で、全く悪いことなんかじゃない、むしろ幸せだということを、どんな場面でも忘れないようにしたいです
 
 
  この授業を通しての感想ですが、今まで「哲学」というものの意味がいまいちわからなかったのが、この授業を通して何となくわかった(体感した?)ように思います。コミュニケーションの在り方や言葉の性質など、目に見えない・形にならないものについての記事を読んだり話し合ったりすることは大変困難でしたが、 これこそが哲学的思考を巡らせているのかなと感じました。また、そのようなものが私たちの生活(特に自分自身のことや他人との関係の面での生活)を豊かに することを知りました。生活を技術的に便利にするのは科学かもしれませんが、人間それだけでは満たされません。人間の心の範囲をより良いものにするため に、哲学は生まれたのかな…と考えます
 
  また、授業を通して一番学んだことは、人は関わり合って生きているということです。本当に当たり前のことですが、様々な角度からコミュニケーションについて学ぶことを重ねて、私が考えていたよりも遥かに他の人との関係で自分は成り立っていることを実感しました。そして、他の人かのら影響があるように、自分も他の人に影響を及ぼす存在です。自分の行動や発言には、気を配るべきだと反省しました。
 
  このように、この授業では生涯を通しての学びを得ることができました。授業で学んだ様々なことをこれからポートフォリオにまとめ、いつでも見直せるようにしたいと思います。ありがとうございました。



今回の授業の中で「自分を失ってしまったとき、自分自身を関係において回復し、自身を取り戻すしかない。」という言葉がとても印象に残りました。というのもこのような体験を実際に自分は経験したからです。

  自分は小学校2年生のころに野球を始めました。野球を始めたころから私はずっとレギュラーとして試合に出ることができました。小中とクラブチームではキャプテンも務めていて、自分でいうのもなんですが、当時は自分がチームの中心選手だという自覚がありました。しかし、高校では小中学校のときのようにすべてがうまくいくわけではありませんでした。高校3年生になったとき、1つ下の後輩にレギュラーを取られてしまい、試合に出ることが少なくなりました。今まで試合に出ることが当たり前だった自分にとって「補欠」の自分は受け入れがたいものであり、今振り返ってみると人生最大の挫折であったように感じます。
 
  当時野球が生活のほとんどを占めていた自分は、自信を失ってしまい、投げ出してしまおうかと思ったこともありました。しかし、そんな中でどのようにして自信を取り戻したのか考えてみると、授業の中でもあったようにチームメイトとの関係の中で取り戻したように思います。自分は今までグラウンドに立っている側だったので、ベンチで控え選手たちがどのような思いでいるのか理解できていませんでした。しかし、試合に出れない立場になって初めて、補欠の選手たちがどのような思いでいるのかわかりました。試合中ベンチを眺めてみると、みんな試合に出たいはずなのに、悔しい思いがあるはずなのに、試合に出ている選手に自分を託して必死に声をかけていました。そのとき初めて「試合に出ていなくても一緒に戦っている」という感覚が理解できたのだと思います。
 
  よく、「野球は9人でやるものではない。グランドの選手、ベンチの選手、スタンドの選手全員でやるものだ。」いいますが、自分はそのことを理解できていなかったのですが、試合に出れない他のチームメイトがそのことを私に教えてくれました。あるチームメイトが「試合に出たいのは当たり前だし、すごい悔しいけど、試合に出れなくてもやれることがある。グランドのやつらが苦しい時は俺たちがベンチから助けてあげることができるやろ。」と私にいったとき、試合に出れなければ意味がないと思っていた私の考えは180度変わりました。試合に出れなくても戦うことは出来るのです。そして、自信をほとんど失いかけていた私は、もう一度野球に対して真正面から取り組むことができたのだと思います。その後必死にレギュラーを取り返すべく努力をしましたが、結局最後の夏の大会では1ケタの背番号をつけることは出来ませんでした。しかし、チームメイトのおかげで私は試合には出れませんでしたが、自分の役割を果たすことができたと思います。

 自分が自信を失って自分が誰だかわからなくなったときに、自分の自信を回復するには他者との関係が不可欠です。私の場合は野球で自信を失い、野球におけるチームメイトとの関係の中で回復することができました。私はチームメイトに自分の思いを正直い話したし、チームメイトもそれに真剣に答えてくれた。そんな関係がなりたっていたからできたことだと思います



  今回の授業において、相手を理解するためには、相手を待つ時間・聞く姿勢をもつことが大切であるということを深く感じました。例えば初対面の相手に対して、あるいは何か普段とは様子が異なる友人に対して、その人のことを理解しようとすればするほど、質問攻めしてしまうことはよくあると思います。教育現場に置き換えて考えると、例えば問題行動を起こした生徒に対しては、まずその生徒に対して「なにをしたのか」「なんでそんなことをしたのか」を聞きたくなります。しかし、問題行動を起こした生徒にとっては、問題を起こすことはそれ自体に目的があったわけではなく、様々な要因からくる不安や、教師に対する不信感などを、何とかして外に出したいのに、その手段としての「ことば」が見つからないために起こった結果かもしれません。
 
  つまり、問題行動そのものに目を向けていては、根本的な問題解決に繋がらないことがあるのです。ここでは、生徒に自分自身と向き合い、自分を表現するための「ことば」を見つけていく時間を十分に与えることが必要であると理解しました。また、自分を表現する「ことば」を見つけることができたとしても、それを外に出す環境が整っているかも重要な問題となります。聞き手である教師としては、自分の価値観や生徒のイメージなどに過度に頼ることなく、「ことば」のありのままを受け止める姿勢も必要であると感じました。


  講義全体を通しての感想を述べたいと思います。私はこれまで本を読む習慣がなく、まとまった文章から新しい知識や情報を得たり、著者の考えを理解したりすることをあまりしてきませんでした。また、理解したことを自分の経験と結び付け、それを他の人と共有するために文章化することも、授業でレポートの課題が出ればやるくらいで、正直「字数書き切れば終わり」くらいの気持ちで取り組んでいました。しかし、本講義を通して触れた文章は、私にとっては大変難しいものが多く、真剣に頭を働かせなければ何が言いたいのかちんぷんかんぷんなものばかりでした。本講義においては、「~に例えるなら・~にあてはめて考えると…」と、いったん内容を抽象化したり、逆に具体にあてはめたりして、内容を理解していくことができました。
 
  また、文章化ということに関して、自分が伝えたいことを文章におこすことは、とても難しいことですが、一方でとても面白いプロセスであると感じました。予習・復習の際、ぼんやりと頭にある疑問や考えも文章化してみるとはっきりとしてきたり、逆に明確にわかっているとおもっていたことも言葉にしようとすれば理解が曖昧だったことに気づいたり、正しいと思っていたことも文章にしてみると筋が全く通っていないことに気づくことがあったからです



  今回の講義を受けて、問題行動を起こしてしまう子どもと周りの子供の気持ちに関して考えました。

  本日の講義に参加していた学生の方、もっと言えば広島大学で学んでいる人のほとんどは、私を含め小中高でしっかりと勉強し、問題行動とはなかなか縁遠い人が多いのではないかと思います。学校生活において割と真面目に過ごしてきた人にとって、先生に反抗したり、問題行動を起こすということはあってはならないことだったと思います。もちろん、そうした子供たちも反抗したい気持ちが全く起こらなかったわけではないと思いますが、大部分の人はそうした気持ちを抑圧し、その反抗心などを直接行動に反映させることは控えること多い。しかし、それは「反抗させてくれる場」というものが子供たちに与えられてなかったことが原因であることも多いのではないでしょうか。今学生である人たちも、小中高生時代に不良と呼ばれる子供たちが教師に対して反抗的な行動をとったさい、「自分が言いたいことを言ってくれた!」と思うことは一度ならずあったのではないでしょうか
 
  こうしたことから考えると、他の生徒からすると、問題行動を起こす生徒には迷惑をかけられることもあるが、時には自分の言いたいことをはっきりと言ってくれるような代弁者にもなり得るのだと思います。しかし、そのような自分に正直な代弁者も、一度問題行動を起こしてしまうと、やけに強いプライドが邪魔してなかなか元に戻れなくなってしまうのではないでしょうか。それはその生徒個人の問題である一方、そのような生徒の声を聴いてあげられる場所が無いことも原因です。自分が言うことを聞いてくれる人がいいから、問題行動という違う形式でメッセージを伝えているだけだと思います。
 
  だから私は、今回の講義の話し合いでも話しましたが、問題行動をとる子供は正直(自分の気持ちに正直に行動する)であり、素直じゃない(プライドが邪魔してなかなか元の状態に戻ってこられない)と考えました。こうした生徒、またすべての生徒のために、まず必要なのは生徒の声を聴く場。教師とまわりの生徒が「私たちはあなたの話を聴く準備ができているよ」といった姿勢が感じられる場であると思います。問題行動を起こす生徒であっても、彼らの声を頭から否定していては、生徒たちの代弁者の声をも止めてしまうことにつながります。どうすれば生徒が自分から話し、話す過程で自分の問題や弱さに気づくことができるのか、これが教育現場においては大きな課題になっていくのではないでしょうか。


 また、ここで「コミュニケーション能力と英語教育」の講義全体についての感想を述べたいと思います。

 最初に講義用のブログ記事全体をざっと見まわしたところ、「ヴィトゲンシュタイン」「身体」「チョムスキー」といった英語教育畑とは若干距離があるのかな(実際は重要な関係を持っていたことがわかりました)と思ったトピックが多いと感じた記憶があります。しかし、今講義を終えて振り返ってみると、英語教育を専攻すると言っても英語教育一辺倒では視野が狭ってしまうことを痛感しました。柳瀬先生がいつか教育学というのは色々な分野と強く関係しており、英語教育だけの狭い視野だけでは成り立たないということをおっしゃっていたことを思い出しました。応用できることは積極的に応用し、常に広い視野を持つことの重要性を改めて実感しました。また、いろいろな学問分野からアイデアを持ってきているとはいえ、そちらの分野のほうに引きずられることはなく、あくまでも現場のリスペクトを忘れない。身体感覚を非常に重要視されている点も、実践者である現場の教師の方々への強いリスペクトから来るものなのかなと思います。その点は先生の著書である『小学校からの英語教育をどうするか』を拝読した際にも感じられた点でした。

 また、講義内での様々な分野からのアプローチは、それぞれの学生に新しい分野の開拓のきっかけを与えるものとなったかと思います。講義は終わったあとにクラスメートを講義内のことについて話していると、それぞれが自分の興味を持った分野に関して意見を交わしていました。ブログ記事に載っていた本を実際に買ったり、図書館で借りたりして読んでいる人もいました。やはり興味関心を持ったのも、柳瀬先生がそれぞれのトピックに関して非常に詳細に分析し、なおかつ自分の意見をしっかりと示していることが大きなきっかけとなっていると思います。やはり、学生は単なる知識の紹介だけでなく、その知識、トピックに関してその人がどのように考えているのかということは重要な興味関心の対象になるのではないでしょうか。 

 最後に基本的なことであるかもしれませんが、学生一人ひとりがしゃべった内容をうまく咀嚼し、他の生徒がより容易に理解できるようまとめていただいたこともこの講義の評価する点だと思います。大学の一斉講義ではなかなか学生一人ひとりの声を聴くことは難しいです。こうした場で知った様々なアイデアが、学生一人ひとりを成長させいきます。その意味で、本講義では学生が伝えたいことを他の学生や教師が聴く場をうまく設定させていただいたので、非常に感謝しております。





授業関連資料

授業用スライド
https://app.box.com/s/s1w8wiskeh46d7xi2eipfzqg4p1y744q


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4 件のコメント:

linkindog さんのコメント...

はじめまして。
私、広島大学の学生で、もうすぐ卒業する者です。いつも先生のブログを読んでいます。
たくさんの知的な刺激を受けています。どうもありがとうございます。
先生のご紹介で、『オーブンダイアローグとは何か』という本を1月1日に買って、読みました。
感動しました。
それを手がかりに、Collaborative Therapy: Relationships And Conversations That Make a Difference という本を探して、読みました。
これも感動した本です。

そしてこの2冊の本から学んだ知見を実生活に応用してみました。
すると私と周りの人の関係は、ガラリと変わりました。もちろんいい方向にです。
私を変えた本です。

私の今の理解で、『オーブンダイアローグとは何か』という本を、誤解を恐れずにまとめれば、「目の前の「この」人は、世界の真理である(少なくともその人にとって大事な事柄に関しては)」ということです。例えば、一般的に「人にやさしくする」ということは、「美徳」とされています。しかし、もし目の前の「この」人にとって、それは苦痛でしかないならば、「この」人にとって、「人にやさしくする」というのは、よくないことです。「この」人は正しいのです。従って、「この」人に向かって「人にやさしくしてください」という発言は、暴力です。
極端に言えば、「この」人は、万物の尺度です。礼儀、ルール、善悪、美醜などの「外の」基準は、「この」人の前で、無意味です。
私が考える唯一の例外は、「この」人のためになるものかどうかです。もちろん、2つの前提があります。ひとつ目は、特に「この」人にとって大事な事柄においてです。ふたつ目は、たとえ「この」人のためになるとしても、「この」人が心から納得する形でなければ、意味がないのです。
「この」人は世界の真理です。しかし私は、その人が真理とすることをまったく知らないのです。今まで私の知識は、「この」人の尺度で測られると、間違いだらけです。従って、「この」人と付き合うとき、慎重に、慎重に「この」人の声を聞き、勉強しなければならないのです。

このように極端に見える方法は、何度も予断や憶測から私を助けました。

「オーブンダイアローグ」はコミュニケーションのテクニックではなく、生き方そのものだと私は考えます。

以上です。

本のご紹介、どうもありがとうございます。

linkindog







柳瀬陽介 さんのコメント...

linkindogさん、

コメントをありがとうございました。
"Collaborative Therapy: Relationships And Conversations That Make a Difference"という本は、私はその存在すら知りませんでしたが面白そうなので注文して読んでみることにします。ご教示に感謝します。

それ独自で「万物の尺度」たる他人に、「外の」基準を押し付けるのは「暴力」だというのは面白い表現ですね。

そういう意味で、教師は「暴力」(あるいは「権力」と呼んだ方がいいかもしれません)を職業上使わざるを得ない存在ですね(これは警察官や自衛官が暴力を司る職業であるのと同じようなものだと私は考えています)。

教職の暴力性あるいは権力性をどう自覚し、それを活用するかというのはとても大切なことだと思います。これまでの教師論は、善意が強すぎて暴力性・権力性の自覚が足りなかったのではないかとも思います。暴力性・権力性に無自覚であることは、それを完全否定することと同様に危険なことだと思います。

その点で、私が最近読んで久しぶりに感動あるいは感服した本は、内田樹先生と光岡英稔先生の対談本である『生存教室 ディストピアを生き抜くために』 (集英社新書)です。

これは本当にすごい本です。やはり「からだ」で思考している人はすごいです(最近私は「あたま」だけで、あるいは小手先だけで書かれた文章に対する嫌悪感が強くなり、少々困っているぐらいですが、それはまた別の話として)。

この本もぜひ読んでください。私もブログに感想を書きたいのですが、近年、本当に時間がありません。

そして興味を持ったら、両先生がこのような思考をすることを可能にしている武術にもぜひ興味をもってください(笑)。

2016/03/09
柳瀬陽介

linkindog さんのコメント...

先生

『生存教室 ディストピアを生き抜くために』という本のご教示に、どうもありがとうございます。
探して読んでみます。
私も内田樹さんのファンなのです。「辺境ラジオ」は面白いラジオ番組です。

武術に興味を持っていますが、なかなか接する機縁がないですね。
そのかわりに、走りと坐禅に心を奪われています。
その楽しさは、もう、言えないものです。

ちなみに、私、別の研究科の留学生で、先生の授業を半年受けましたよ。
ご自慢の人差し指と中指を動かすジェスチャーは、いま街で出会う小さい子の注意をひくために、使わせて頂いています。
けっこう受けますよ。

柳瀬陽介 さんのコメント...

linkindogさん、
そうですか、他研究科の留学生でしたか。
私はてっきり他の学生さんかなと思い込んでいました。
いつかお会いした時に、よかったら正体を明かしてください(笑)。

坐禅もいいですね。
と言っても私は20代の頃、我流でやって一度お寺に行っただけで、あの頃は観念だけでやっていたと思います(一種の黒歴史です 汗)。

今、もしやるとしたら、おそらく身体を感じる訓練として行うかもしれませんが、もしやるとしたら、それよりも上記の光岡先生らが教えてくださっている韓氏意拳の稽古に行くべきでしょうね(私はここ二年ほど一応会員にはなっているのですが、ほとんど稽古に行っていません)。

もし機会があれば、ぜひ光岡先生や甲野善紀先生の講習会にご参加ください。

それでは!

2016/03/10
柳瀬陽介