2012年2月24日金曜日

飼い犬に芸を教えるように、私たちは自分のからだに新しい動きを教える






■和田玲先生からのお返事


前回の記事をきっかけに敬愛する先生にメールを出して、その先生からいただいたお返事は前回の記事末尾に掲載した通りですが、実はもう一人の敬愛する先生である和田玲先生(参考記事:その1その2)にもひさしぶりにもメールを出しました。その和田先生からもお返事をいただけました。この文章も私だけで読むにはもったいないので、ここに先生の許可を得た上で転載します。



「動き」というものは、生得的なものではないから、きちんと訓練し、その動きに習熟しなければなりません。このあたりは、理屈を理解(Input)し、しっかり習熟(Intake)するという英語教育の流れと変わらないものですよね。

別の例で言えば、僕らがテコンドーの試合に出る前には、対戦相手の動きや癖を知って、こちらがどのような場面を生みだし(僕はよく「ストーリー展開」と言う言い方をしています)、そこでどのような「動き」をしたら、相手を仕留められるかを理解し、その体系を体に覚え込ませる訳です。が、その時点では「意識」が主なんですね。まだ「練習」ですから。

しかし、それを何度も何度も繰り返し「習熟」度を深めていくと、やがて体はある場面に対して反射的に動き出すものです(Output)。意識を体が上回るような感覚にさえなります。

ちなみに僕が自分のコンディションを測る時には、「意識」がとらえる瞬間スピードと「体」が勝手に動きだす瞬間スピードのどちらが早いかで認識していました。格闘家には皆、そんなところがあるのではないでしょうか?調子が悪いときには「意識」が先行し、体がそれに遅れてついてくる感覚です。あるいは意識も体も同時にある対象をとらえながらも、体が求める速度でついてきてくれなかったりするわけです。そういう場合には、相手に打撃を加えることはできず、逆にカウンターを受けやすくなり、こちらが窮地に立たされたりしまいます。

全国大会・準決勝以上のレベルでは、「意識」と「動き」のコンディションは皆、相当高いレベルで整えてきているものなので、次は相手をひっかける「思考」の上下で勝負は決まります(思考のプロセスは、「①観察→②分析→③原則を導く抽象作業→④戦略」という感じです。デカルトみたいですが、これがない選手は絶対にチャンピオンにはなれません。一流の選手達は、この思考作業の鋭さを「センス」と呼びます。僕と同年のある選手は169センチの小柄な体系であったにもかかわらず、このセンスの鋭さでライト・ミドル・ヘビーの三階級を制覇してしまいました。この点は、優れた画家や音楽家や小説家、そして教育家も同じだろうと思います)。

結局、教育実践、とりわけテンポの良い、優れた授業実践者というのは、この「観察・分析・総合」というデカルト的思考を持っていて、そこから導かれた戦略(授業プランにあたるものでしょうか?)を体に覚え込ませていきます(リハーサルor経験値によって)。したがって、授業者が意識を越えた領域で勝負できないようでは、結局、あまり良い成果をあげることはできないということを僕は教壇に立つようになってから、すごくよくわかりました。先生方は概してこういったことをあまり意識されていないようにも思えます。

公開(実験)授業に臨むやけに緊張している先生方や研究授業前の教育実習生などは、そのための習熟作業ができていない時点で、「予選敗退」という所なのではないかと僕はいつも思っています(習熟作業が済んでいる実践家は、通常「緊張」などしません。むしろ自分がイメージした通りにストーリーを展開していくだけなのですから)。実践に習熟している授業者には、迷う間もなく、勝手に(=「自然の力に任せて」)教室内に必要な指示やインストラクションを投げかけていくものなのではないかと思います。

教育実践にもこの「習熟作業」がとても大切なのだということを示唆する意味で、僕は先日の柳瀬先生のブログはとても意義深いものだと感じました。あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)。




■私なりの論点整理

蛇足的に、私なりに上の文章のポイントをまとめるとしたら次のようになりますでしょうか。



(1) 新しい動きをからだに教える時には、私たちは意識を使う。

(2) しかし習熟すれば、からだの始動(非自覚的な状況認識と運動開始)の方が、意識の始動(自覚的な状況認知と自由意志の発動)より早くなる(=気がついた時にはからだの方が動いている)。

(3) 熟達者は皆、意識よりもからだの方が先に動くようになっているので、熟達者同士で勝負をする際には、からだのレベルではなく、観察・分析・思考による戦略のレベルで勝敗が決ることが多い。

(4) 授業においても優れた教師は、教育的技術(「技」)においても意識よりもからだの方が先に動くまで習熟をなし、かつ、これまでの観察・分析・思考から、戦略(「授業プラン」)をもって授業に立っている。

(5) 熟達教師は、たいていの行動を、意識する以前に開始させている(=「意識を越えた領域で勝負」できている)。だがその一方で、大局的な授業プランは忘れていない。意識は、細々とした行動のコントロールのために常時使われるのではなく、大局観の整理・検討のために時折使われるだけである。

(6) 初心者教師は、往々にしてからだの「習熟」が不十分なまま、頭の中の意識的な「授業プラン」だけで勝負しようとするが、実際は細々とした教育技術の執行に意識を取られてしまい、やがては大局観を失い、失敗する。教育実践でも教育的技術の「習熟作業」が重要である。

(7) 熟達者とは、多くの行動を、意識を使わずに、からだにいわば自律的に動いてもらって行う。熟達者は、意識をせいぜい時折思考レベルの大局観の整理・検討に使うぐらいであり、ほとんどの行動を、ただ端的に行なっている。





■意識とからだの間接的な関係

授業論として大切なポイントは何より(5)と(6)ですが、私としては(2)について注目したいと思います(この(2)について、私が和田先生の意図を誤解しているのでなければいいのですが)。

よく「自動化」などの習熟は、意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになることだ、などと言います。

しかし、この時に注意しておきたいのは、習熟させる新しい動きは、意識による教示に促されて学ばれるとはいうものの、「意識による教示」は「からだが覚える動き」と質の異なるもの、あるいはカテゴリーを異にするものだということです。

前回の記事でも意識とからだの関係を、「象使いの少年と象」や「飼い主と犬」にたとえる神経科学や神経倫理学の考え方を紹介しましたが、意識がからだに新しい動きを教えるのは、象使いの少年が象に新しい動きを教えるようなもの、あるいは飼い主が犬に新しい芸を教えるようなもので、象使い・飼い主の人間言語と、象・犬の言語(というより思考回路・神経回路)は異なると私は考えます。

象や犬は、象使いや飼い主の教示意図をある程度は理解できるのでしょうが、象使いや飼い主の人間言語をそのまま自分の身体に適用して新しい動きを覚えるわけではありません。象・犬は、不可解な人間の言語の意図をぼんやりと理解し、象・犬なりに新しい動きを試しては新たに象使い・飼い主からのフィードバック(例「よし、それでいい」という褒美や、「違う」という罰など ―ちなみに、褒美や罰などの身体的フィードバックは、人間言語と違って象や犬にもよくわかる原始的レベルのものです―)を得て新しい動きを自得・体得するとは言えませんでしょうか。

この関係は、実は意識と(自分の)からだの間にも成立しているのではないか、というのが私の論点です。意識はそれなりに自分のからだを思う通りに動かそうと指示を与えます(指示を明瞭なものにするために指示はしばしば言語化されます)。しかし、新しい動きを成立させるのは、その意識のことばではなく、あくまでもからだの動きです。

意識のことば(=自分自身への指令)とからだの動きは、もちろん関係しています。ですが、思うようにからだが動かない例からよくわかるように、意識と身体は直結していません(直結しているように思えるのは、習熟した動きの場合です。しかしその場合は意識よりもむしろからだの方が先に動くのは上で確認した通りです)。

意識は、あたかも象使いや飼い主が、象や犬に辛抱強く新しい動きを教えるように、短気を起こさずに、身体が身体自身の能力で意識が意図したように動いてくれるようになるのを待つ、あるいはそのように動くように環境を整備してやる、ことぐらいしかできないと考えるべきなのではないでしょうか。意識とからだは関連しているしつながっているが、直結していない ― 意識のことばを身体はうまく理解できないし、身体のことばを意識はぼんやりとしか理解できない ― と考えておいた方が何かとうまく説明ができるのではないか、というのが私の考えですし、anomalous monismについてきちんと理解しておきたいと思う所以です。

私の初歩レベルの武術稽古にしても、今は「まずは右足を出して」などと意識で動きを確認しながら新しい技を繰り返し練習していますが、おそらく私のからだは「まずは右足を出して」といった意識のことばを理解しているのではなく、意識のことばとは別種類の、いわば神経回路言語を理解しているのではないかと思います。つまり私の意識が「まずは右足を出して」などと言っている間に、私のからだは自然とその時の私と相手の身体構造の関係からして、重力の流れを断たない最小抵抗の動きを感知しそれを学習しているのではないかと思います。意識のことばと、からだのことばは違うというのがここの(比喩的)論点です。さもなければ、思わぬ時に意識も間に合わない瞬時にからだの方が勝手に動いて、最適の動きをできるようにはなりません。再度たとえを使いますなら、飼い主は飼い主の思考と言語で話し、犬は犬の思考と言語で自己理解しているとでも言えましょうか。


■自動化で意識がなくなるのではない

上で自動化を「意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになること」と簡単に定義しましたが、これまでの議論からすると、「意識的に行なっていたこと」とは<からだへの間接的な指示>であり、「意識しなくても(=無意識に)できるようになること」とは<からだが自分でできるようになったこと>となります。後者が達成されると、<からだへの間接的な指示>という前者の意識の働きは不要になりますが、このことは意識の働きが消える・消えなくてはならないことを必ずしも意味するわけではありません。意識は、おそらくは本来の仕事であるはずの、思考レベルで明らかになった大局観と現状が齟齬をきたしていないかをチェックする高次レベルのことのために使われるはずです。

読者の皆さんの中には、「何をそんなに細かなことを議論しているのだ」と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、意識の働きとからだの働きをきちんと理解していないと、技能習得において意識を過剰あるいは過少に働かせたり、からだを過少あるいは過剰に働かせたりという、理に合わないことをしてしまうのではないかと考えていますので、このような考察をとりあえずはブログを使って行なっています。

意識とからだの関係を考える際には、武術でもスポーツでも、音楽でも芸術でも、とにかく心と身体をまるごとに使っている経験があると、その経験を基盤に考えることができますので、便利です。和田先生もメールの最後に「あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)」と書いていらっしゃいますが、このような説明は、(大げさに言うなら)心身一如(あるいは心身一如を目指したこと)の経験がある人にはすぐわかるし、そんな経験などまったくない頭でっかちで、無味乾燥の記号操作が知性だと信じているような方には、まるで何を言っているのかわからないものなのかもしれません。この意味で、私は子ども時代に、子どもが強いられてではなくて、自発的に何かに熱中することの重要性を強く感じますが、それはまた別稿で。



追記

私は約20年前、英語教育の世界で哲学(ウィトゲンシュタイン)の話をし始めた当初、ずいぶん冷たい扱いを受けました(世間には「私はそんなことわからない」と誇らしげに語り、その理解できない事を話す人間を悪し様に言い、さらには冷たい仕打ちをする方もいらっしゃるものだということをその時に学び、今日に至っています)。

現在では「英語教育にも哲学は必要ですね」と言い始める方は何人か出現しましたが、身体論についてはそのような方はまだ数える程です。私の被害妄想でなければいいのですが、こういった身体論もしばらくはそのような扱いを受けるでしょう。しかし、広い世間にはきっとわかってくださる方がいらっしゃいますから、私はそういった一握りの方々のために文章を書きます(そして自分の錯誤を正してゆきます)。「身体論などわからない」と豪語される方、具体的な疑問や反論はお受けします。しかし具体的な論点が一切わからないのなら、せめて邪魔だけはしないでください。







追追記

「意識とからだは別のことばをしゃべっている」ことに関して別の例をあげますなら、私が大学1年生の時に、英語のRの音を訓練したときのことを思い出します。意識の方では発音教本に基づき「日本語の時のように、舌で上顎を弾かないようにして、舌を巻いて上顎に接触させないままに息を出す」などということばをしゃべっておりましたが、その通りに口舌をなかなか動かせない(私は少なくとも数ヶ月ぐらいしないとこのように口舌を動かすことができませんでした)からだのことばは、(意識のことばからすれば)「うーぁーぉー」ぐらいにしか聞こえない新しい身体感覚(身体マップ)の獲得への試みでした。私の意識は「舌を巻いて上顎に・・・」などと語りつつつ、私のからだは「うーぁーぉー」などと語っていたように思います。





受験対策より、何か熱中できることの方が大切




私の新しいゼミ生には、演劇経験のある者や、これまでずっと剣道に打ち込んできた者、はては自称「ギターバカ」などがいますが(笑)、技能習得については、彼・彼女らにはそれぞれの経験を引き合いに出して説明をするとすぐに納得してもらえるので助かります。

「ギターバカ」の学生さんは、実はある私立進学校の出身なのですが、その学校では教室に「目指せ偏差値70以上」と大書されたポスターが掲げられ、志望校に特化した受験指導がなされ、勉強について自分で考える必要はまったくといっていいほどなかったそうです。私のゼミ生は、そんな学校に行きながらも、時間はできるだけギターに使い、受験勉強には必要最小限の時間しか使わなかったそうです。

その結果、歩いていてもギター演奏のことについて考えているような自称「ギターバカ」になったそうですが、私は彼にギターがあって本当によかったと思っています。もし彼にギターのように自分の感性と思考のすべてを捧げられるような対象がなかったら、彼は受験には合格するものの、自分で感じることも考えることもできない「単に広大に来ただけのバカ」になっていたのではないかと恐れるからです(「バカ」「バカ」と乱暴な言葉を多用してごめんなさい。しかし少なくとも彼と私の間では信頼関係ができていますので、この言葉を使っています)。

彼(および他のゼミ生)は、それぞれの心身没入経験がありますから、それを基盤に感じて考えることができます。ですから、これから読書と執筆の経験を積み重ねてゆけば、学術的にも成長できるものと思います。ですが、もし学生さんが、これまで「砂を噛むような思い」あるいは「紙を食べるような思い」をして我慢しながら丸暗記を繰り返し、自分の感性を殺し、思考力を根絶やしにしていた結果、現在の大学に来たのでしたら、基盤となるべき自らの心身が育っていないのですから、言葉を振り回すだけのような文章を書くだけに終わるかもしれないと私は怖れます。

世間の多くの人は大学合格を、とりあえずの教育のゴールと考えますが、大学で教鞭を取る私からすれば、大学合格は単なる通過点に過ぎず、要はどれだけのことが「身についている・身につけることができるか」だと痛感しています。

身についていない丸暗記の学力では、対応力が育ちません。丸暗記だけの学生さんは、まさに頭でっかちで、身体的感性が育っていません。身体的感性が育っていないから、知的感性が乏しく、心の底からの内発的な学習意欲がありません。だから大学での勉強も、まさに「勉め強いる」ものとなり、単位を取るだけのためにできるだけ要領よく短時間で済ませ、後にはさっぱり何も残らないものになります(あるいは人に褒められたいがためという外発的動機づけでしか勉強しません)。ですから生きるための力はほとんど育っていないのですが、自分自身では学校で好成績をとったのだから優秀なはずだというプライドがあるため、余計にその落差に苦しんだりしかねません。

と、ずいぶん勝手なことを言いましたが、私の率直な意見を言いますなら、大学に来るまでは、できるだけ自分の心身のすべてを捧げて熱中するような経験を優先し、しかしそれだけでは世間的に通用しにくいから最低限の勉強と受験対策をしてもらった方が、後々伸びると思います。逆に、受験対策を最大化し、自分の心身で感じることも考える事も抑圧したままに大学に来ると、たとえ大学はこれまでの要領で卒業することができたとしても、その後の人生で何かと苦労するのではないでしょうか。

日本が人口増に伴い右肩上がりで安定的に経済成長していた頃は、「大学に合格さえすれば」人生の(経済的)成功は約束されたように思われてきたかもしれませんが、日本が人口減に向かい、さらにグローバルな資本主義競争にさらされている昨今「大学に合格さえすれば」と、若い人の心身をすり減らすような受験対策ばかりすることは実は非常に危険なことではないかと私は危惧します。






追記

そういえば、私は動画紹介サイトで、過去にこう書いていました。


私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思います。この世界の中の身体を基盤とした直観知の発達を抜きに、ペーパーテストの点数だけ上げても、そんな「エリート」は現実世界で役に立たない(時に現実世界の障害になる)からです。
http://greatpresentationvideos.blogspot.com/2011/10/rsa-animate-divided-brain.html


からだをまるごと使った経験がますます少なくなり、塾ではどうしても即効的なテスト得点向上が目指されるだけに、体育・音楽・芸術・技術家庭などのからだと心をまるごと育てる科目がどんどん重要になってくると思います。昨今の「教育改革」は、まるで逆のベクトルをもっているようですが。





2012年2月21日火曜日

2/25(土)広島市の達セミで「ティーム広島」、再結成!!




来る2/25(土)に広島市内で英語教育達人セミナーが開催されます。「ティーム広島」が再結成されます。


・日 時: 2月25日(土)10時~16時
・場 所: 広島クリスタルプラザ 10階会議室
     (〒730-0037 広島県広島市中区中町8番18号)
・参加費: 全国一律 3000円(学部生 1000円 院生 2000円)
・内 容:
10:00~11:00 第1講座 「生徒を動かすマネジメント」
        胡子美由紀 (広島市立早稲田中学校)
11:15~12:15 第2講座 「発信力を鍛える授業」
        道面和枝 (廿日市市立大野東中学校)
12:15~14:00 ランチ(皆で食べに行きましょう)
14:00~15:00 第3講座 「必ず成功する家庭学習指導」
  上山晋平 (福山市立福山中・高等学校)
15:15~16:30 第4講座 「The ワードカンター」
        西 巌弘 (広島市立舟入高等学校)


この広島の先生方は、皆、普通の学校に勤務しながら、達セミで自らを高め、DVDを出し、それぞれ単著も出版しました。

別段、出版することだけが偉いわけではありませんし、出版活動などせずとも素晴らしい先生が沢山いらっしゃることは重々承知していますが、DVDや単著を世に問うということは一朝一夕でできることではありません。長年の試行錯誤、涙と笑顔、思考と反省、試みと修正などがあって初めてできることです。

いやそれだけではありません。この四人に、今回はあいにく参加できない森川 幸智子さん(DVDは「入試に対応する自己表現力を育成する英語Ⅱの組み立て」)を含めた五人は、お互いに励まし合い助け合いながら教師としての力量を高めています。だからこそ「ティーム広島」と呼ばれているわけです。

そうして世に出したDVDや著書も、非常に好評です。以下、上記の登場順に並べます。




個人的にも私はこれらの広島の先生方にいつもいろいろ教えていただいて、また温かい言葉や支援もしていただいています。しかし、本来なら上の著書についてもきちんとした紹介記事を書くべきなのですが、まだそれすらもできていません(その他にも私の不義理はひどく、年頭に年賀状を頂いたたくさんの方々にまだお返事すら書けていない体たらくです。私の社会的不義理・非礼・無礼に関してはもうお詫びする他ありません)。

今回もぜひ参加したいのですが、あいにくこの日には大学の仕事がありますので、参加できません。せめてこのブログの記事などを通じて、盛会を祈念したいと思います。

この日の都合が空いている皆さん、ぜひご参加を!





野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判




武術ヲタとしての興味関心で「野口体操」で知られる野口三千三(のぐち・みちぞう)氏の著作を、約20年ぶりに読み返したら、まあ、驚くほど面白かったです。私などが不器用に武術の稽古で模索している事が明確に言語化されており、神経科学のAntonio Damasioが述べている意識・非意識の構造が直観的に見事に語られており、言語についても私が薄ぼんやりと最近感じ始めていたことが明瞭に(神経科学的知見とも適う形で)述べられ、ポスト近代的な批判的考察も約40年前になされていました。まあ、すごい人というものはいるものだ、と感嘆せざるを得ません(私は野口氏の深さを20年前にはほとんど理解できていませんでした)。

とりあえず持っていなかった主要文献はすべて手に入れ、読み始めたらもう止まりません。一読した後で、アンダーラインを引いた箇所をノートに書き写していったらその分量は、2万字(原稿用紙50枚)以上になりました。そのうち、ここでは武術的関心ではなく、言語教育的関心から興味深いと思われる引用をごく一部だけご紹介します。(というより、この記事は、3月4日の京都での講演(生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト・シンポジウム「Intelligenceを高める英語教育を求めて」)と、3月11日のJALT広島支部での講演(Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts))の下準備です)。



■身体で納得しない限り言葉を発さない実践家

野口氏の経歴に関しては、自然の中で育ったこと、貧乏の中で猛勉強し優秀な成績で認められ東京体育専門学校助教授になったこと、敗戦で精神的虚脱に陥ったこと、身体を病み体育教師としては再起できないとまで思われていた中で、後年「野口体操」として知られるようになる身体運動を見出したこと、東京芸術大学で様々な出会いをしたこと、などなどたくさん述べるべきことがありますが、ここでは「野口体操」を見出した頃の以下の言葉だけを引用します。


今迄のすべての体操を、そしてその体操をとおして生きるという生き方を全部捨ててしまおう。他人がどう言ったとか、昔の人がどう言ったとか、そんなことはどうでもいい。とにかく、自分の信じられることだけ、自分が確かめられることだけで再構築していこう。これこそ今からの自分の生きる生き方だ、という確信が知らず知らずのうちに固まってきたのです。(野口 1977, 35)


3.11以降、多くの人が生き方を変えたと思いますが、太平洋戦争の焼け野原とその後の病気という強烈な体験は、野口氏の生き方を徹底的に鍛えたように思えます。私は現場で徹底的に具体的に考える実践家を尊敬していますが、野口氏はそのような実践家の中でも超一流の方であったと思います。



■運動の主動力は筋肉でなく重力。筋肉の働きは受容・調整・伝達

空手では、新垣清先生の『沖縄武道空手の極意―今よみがえる沖縄古伝空手の極意』の四冊シリーズが、空手の力は重力を主とするものであることを、理論的にも具体的にも詳しく示していますが、野口氏も「動き」とはまさに「重」さの「力」(「重」+「力」=「動」)であることを明確に述べています。

地球上でからだの動きの原動力は、からだの重さが筋肉の収縮力よりも、より基礎的で重要なものである。重さは意識しようがしまいが、望もうが望むまいが、たえず地球の中心の方向へ働きつづけている。重さがあってはじめて動きが成り立つのである。 (野口 2003, 270)

野口氏は、筋肉の働きとは、重力(と身体構造との関係)によって生じる力を受容・調整・伝達することだと述べます。



意識と筋肉とをもった人間が、からだの動きにおいて犯す最大の誤りは、動きの主動力が筋肉の緊張収縮だと思いこんで(意識)いることだ。筋肉の収縮力の主な役割は動きの主動力をつくり出すことではなく、動きのきっかけをつくり出すこと(平衡関係を崩すこと)、動きを収めること(新しい平衡関係へと導くこと)、増幅・調整することなのだ。更に大切なことは、他の部分から伝えられてきた情報(エネルギー・重さ)を受け取り、筋肉自体を導管・導線として次の部分に伝える。その間に適切な増幅・調整をするという仕事なのだ。この情報(重さ・エネルギー)の受容・伝導の能力の重大さを気づいていないこと、したがって、その能力の訓練をしていないことが大変重大な問題なのだ。(野口 1977, 224)




■運動能力とは差異を活かす能力

運動能力が高いことを、私たちはしばしば「運動神経がいい」と呼び、あたかも脳の一方的な指令がきちんと身体に伝わることこそが運動能力であるように考えます。しかし野口氏によれば、運動能力とは、身体の平衡関係を崩すことによって生じた重力の力を身体の中で精妙に感知し、その力がもっとも効率よく伝わる身体状態を次々に見出すことができる力です。

私は今ある武術を教えていただいている中で「力を抜いた動き」を教えられながらなかなか体得できませんが、その武術的な動きの記述としても、次の引用は膝をうちたいぐらいに得心できるものでした。


運動能力が高いということは、その動きに必要な状態の差異を、自分のからだのなかに、自由に創り出すことのできる能力である。自分のからだのなかにその動きに最適なエネルギーの通り道を空けることでもある。(羽鳥 2002, 60) および(羽鳥 2004, 28)




■意識のなすべきことは、非意識的身体がよく働く環境を準備すること

武術的関心からしますと他にも「生卵のように立つ」や「両側がどんなに重かろうと天秤の均衡は小指一本で崩すことができる」、あるいは「極小部分・極短時間・極小エネルギーの緊張」とか、「動きのエネルギーの主力は、空間的には、直接仕事をするある部分よりも、より地球に接する所(足場)に近い部分から出し、時間的には、仕事をするときよりも、より前の時間に出されていなければならない」とかなどなど紹介したいことはたくさんありますが、著作権とこのブログの性格を考え、ここからは意識論の紹介に移ってゆきます(野口氏の武術的といってもいい運動論の要約は、野口 (2003, 270-272) にまとめられています)。

武術でも外国語学習でも、私たちは意識を使ってうまく身体を動かそうとしますが、意識は身体の直接の主人ではないと野口氏は考えます。神経科学や神経倫理学(neuroethics)でも、意識(自由意志)と身体の関係を「象の上に乗っている少年と、乗られている象」や「飼い主と犬」の関係にたとえたりします。少年が本当にぎこちなく間接的にしか象を操れないように、あるいは飼い主が犬の行動を完全にはコントロールできないように(しかし飼い主は犬の行動に対して責任を負わなければならないように)、意識(自由意志)は身体の動きを間接的できわめて拙いやり方でしか制御できませんがとりあえずはagencyのありかとされています(意識の身体に対する不如意な関係はanomalous monism (Stanford Encyclopedia of Philosophy, Wikipedia) の考え方がうまく説明しているのではないかと私は考えています)。というより、むしろ意識(自由意志)が身体に対してできることは、身体が活動しやすい環境を整えることだけのようにも思えてきます。少なくとも第一言語獲得に関してはチョムスキーも同じようなことを述べていますが、私は第二言語獲得に関しても意識の限定性をきちんと考えるべきだと思っています。


意識的にやるとうまくいかない、ということは当然のことで「人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ」ということであり、「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。(野口 2003, 255)




■「心」の常態は非意識。意識は心の特別態。

私たちの多くはデカルト以来、自意識こそがすべての根底のように考える枠組みの中で生きていますが、神経科学が言うように、私たちの存在と活動の基盤は非意識的心身であり、意識はその非意識的心身の特別態だと考えるべきなのかもしれません。下も野口氏の言葉です(注:細かい話になりますが、下の「自己」の定義はDamasioの定義とは異なります)。


こころの主体は意識ではなく、非意識の自己の総体である。意識・意志・・・は、その非意識の作り出した道具であり機械である。(野口 2003, 48)


「意識と非意識」と言えば、前者が常態で後者が特別態のようにも思えますが、むしろDaniel KahnemanがThinking, Fast and Slowで述べるように、非意識の働きの方をSystem 1、意識の働きの方をSystem 2として、非意識(System 1) の先発性を常に明確に意識した方がいいのかもしれません。


私は、意識的自己というのは、生きものにとってむしろ特殊な存在状態であって、非意識的自己とは、その特殊な意識的自己という状態を除いたきわめて広いすべてを含んだもので、特別に下とか前とか深い所とかに限定されるものではなく、自分という存在状態にとって、いつでもどこでも遍満して在るというべきものだと考えている。意識はこの非意識的自己が必要とするとき、いつでもみずからの力により、みずからの中に創り出し、必要がなくなった時には再び非意識的自己の総体の中に吸収されるもので、意識は非意識的自己のひとつの存在様式と考えるべきだと思う。実際には意識という働きの必要性が絶えず起こっては消え、消えては起こるので、一定の意識というものが存在しているように、意識の状態にある非意識が意識するだけのことであろう。(野口 2003, 50-51)




■身体こそ自己の基盤

非意識が心身の基盤とはいえ、意識が重要な働きをすることは否定できません。しかしその意識とは、デカルトが考えたように非物理的存在ではなく、身体という物理的基盤で生じるものです。Damasioも言うように、身体(の状態の変化)こそが意識の基盤です。


からだを通して感じられる「実感」に基づいた自己の感覚を「身体的自己」とするならば、これこそが「私が私である」という意識の基盤となるものだという確信を、私は野口体操を通して発見することができた。(羽鳥 2003, 40)




■言語の基盤も身体

意識の基盤が身体であるのですから、意識を伴う言語も、その起源は身体にあります。身体の変化・動きこそが言語になって立ち上がってくるのです。


すべてのことば(抽象言語をふくむ)は、その発生をたどると、必ずからだの直接体験にたどりつく。(野口 2003, 5)




■言語はからだの動きの一部

日頃私たちは言語の記号性ばかり考えて、言語をもっぱら抽象的に考えてしまいます。しかし言語は身体の動きの表れなのですから、言語は、身体内部の蠢き・身体全体の動きの一部、呼吸と発声で顕在化された身体の現れと考えるべきでしょう。言語は身体全体の動きとともにはじめて十全に理解されます。


私は、音声言語・文字言語だけが言葉ではなく、からだの動きもことばであると考えている。そして、身ぶり、手ぶり、顔の表情などのように、外側に大きく、はっきり現れるものだけがからだの動きではない、とも考えている。身ぶりの本質は、心や内臓も含めたからだの中身の変化である。(中略)自己の中の原初生命体の情報という意味で「原初情報」と呼ぶのがふさわしいと私は思う。
 この原初情報がことばを必要とするときに初めて、ことばを選ぶ作業が開始され、そのことによって初めて意識の世界のものとなる。そして、ある言葉が選ばれる(内言)と、新しいからだの変化・動きが生まれてだんだん育ち、呼吸・発声となり、いわゆる音声言語(外言)となって現われる。からだの動きはもともとことばにつける付録ではなく、動きもことばそれ自体なのである。思考の便宜上、ことばと動きを分けていうならば、ことばはからだの動きであり、からだの動きはことばであると言える。もしこう言いきれないとすれば、その人にとってそのことばは、習いはじめの外国語のようなものであると言えよう。すべてのことばは必ずからだの動きを内に含み、それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚をもっているのである。(野口 2003, 224-225)




■言語的感性と身体的感性

人は身体の変化を言葉にします。言葉は一刻に一語しか述べられませんが、その一語が立ち現れるまでの身体の蠢き・動きの内的感覚を私たちは大切にするべきでしょう。言葉を大切にするというのは、言葉に伴う身体の変化 ―ほとんどは内的で微細で精妙な変化― に対して鋭敏であるということでしょう。


ことばを大切にするということは、ことばを選んでしまった後で(動きを選んでしまった後で)、そのことば(動き)をいくら大切にしても、もうおそい。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。何かを選ぶということは、それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。その姿勢があるとき、それが選ばれたことばを発するときのからだの中身のあり方を決定し、その中身のあり方によってからだの動きが生まれ、捨てられたものをも含むような呼吸・発声となり、そのことばの微妙なニュアンスを含ませるものとなるのだと言えよう。(野口 2003, 225-226)



■近代の問い直し(ポスト近代的思考)

このような身体論・意識論・言語論をもつ野口氏は「近代」に対しても鵜呑みにしようとせず、批判的態度を保ちます。以下は、野口氏が警戒するものです(原文では、それぞれの項目に対して「~の誤り」と書いてありますが、「誤り」というのは断定的すぎるのではないかと私は考えましたので、下の引用からは削除しています。


(1) 「理性・意識(意志)」至上主義
(2) 「共通・普遍」至上主義
(3) 「論理・科学・学問」絶対主義
(4) 「分析・計測・数値・統計」偏重主義
(5) 「絶対値・最大値・平均値」偏重主義
(6) 「欧米先進」至上主義
(7) オリンピック競技的在り方
(8) 二元論及び二分法的発想、線形論理(野口 2003, 285)




■競争原理の問い直し

近代的発想の一貫として、野口氏は「競争原理」に対しても批判的態度を保ちます。教育界でも「競争原理」がますます無批判的に称揚されようとしている昨今、野口氏の言葉に耳を傾けることは重要であると考えます。


「競争原理がすべていけない」ということではない、ということを念頭に次の話を聞いてください。まず、基準がなければ競争は成り立たない。スポーツの競争原理を成り立たせているのは、数字で測れる時間・巻尺で測れる空間の距離なんです。そうして得られる「一つの価値基準」のなかで一番を競う。それ以外の言葉にできないものはとらない。そうして得られる「一つの価値基準」のなかで一番を競う。それ以外の言葉にできないものはとらない。数字やグラフに表せないものは切り捨てるわけです。基準にしていることが、人間の運動能力のうちから、極めて狭い範囲、それも極めて抽象的な概念によって抽出されたことだ、ということに気づかなくなっているんです。より高く・より速く・より強く・より大きく、というギネスブック・オリンピック的価値観に「感覚汚染」されているんです。確かに競争原理は、勝つか負けるかしかないわけだから、はっきりしていますよね。そこが落とし穴なんです。そうした価値観による競争原理が、教育の場に入り込むのは相応しくない、と誰にもはっきり理解されながらも、尚且つ、競争原理に押し切られている。(羽鳥 2002, 328-329)




と、野口氏の著作のほんの一部を引用して紹介しましたが、私としては私の拙い紹介がかえって野口氏の著作の真価を損ねてしまうことを怖れます。少しでも興味をもった方は、ぜひ下も参考にして、野口氏の著作(および動画)に接して下さい。竹内敏晴氏も影響を受けるだけあって、本当に深い人です。




■文献情報

・羽鳥操(2003)『野口体操入門』岩波アクティブ新書
・羽鳥操・松尾哲矢(2007)『身体感覚をひらく』岩波ジュニア新書
↑野口体操への入門書として最適。

・野口三千三(2003)『原初生命体としての人間 野口体操の理論』岩波現代文庫(1972年に三笠書房より出版。1996年に改訂版が岩波書店・同時代ライブラリー版として出版)
↑野口氏の主著。野口氏に興味があるなら必読。

・羽鳥操(2002)『野口体操 感覚こそ力』春秋社
・羽鳥操(2004)『野口体操 ことばに貞く』春秋社
↑野口氏の弟子である羽鳥氏によってまとめられた本で、野口氏の言葉が多く掲載され、解説されてある。

・野口三千三(1977)『野口体操 からだに貞(き)く』柏樹社(2002年に春秋社から再刊)
・野口三千三(1979)『野口体操 おもさに貞く』柏樹社(2002年に春秋社から再刊)
↑野口氏の思考の軌跡がよくわかる本。

・野口三千三・養老孟司(2004) 『アーカイブス野口体操―野口三千三+養老孟司 (DVDブック)』春秋社
↑DVDで野口氏の話しぶりと体操の様子が実際に見れるのは貴重。

※野口体操の公式ホームページの、野口体操WEB LESSON(http://www.noguchi-taisou.jp/noguchitaisou/weblesson.html)や、「アーカイブズ野口体操」(http://www.noguchi-taisou.jp/noguchitaisou/movie.html)でもいくつかの動画を見ることができます。




追記

上の記事を書いたことを契機に、私が敬愛している先生にひさしぶりにメールを書きましたところ、その先生からお返事をいただきました。先生の許可を得て、そのお返事の言語教育に関する後半部分をここに転載いたします(一部の語句は変えております)。


個人的には、野口先生のからだ観、人間観、体操観、が大きな支えとなって、稽古が進みました(たいしたことができるわけではないのですけれど)。

ここに、竹内敏晴先生の「声論」などが私の中でからんできます。どれだけ小さな声で教室いっぱいに声を届けることができるか、授業で試したものでした。
竹内先生も昨年亡くなりましたね。

教師をしていて、声が後ろまで届かない、生徒のからだに届かない授業を参観することがあります。

昨年も、某校での英語授業参観をしました。授業の進行そのものもひどかったのですが、何よりも、教師二人の声が散り散りで見学者の私のからだに届かなかったのです。働きかけの意図を持った声を、ことばを、からだを、教師自身が創っていないのです。どこに向いているのか?少なくとも、目の前にいる生徒ではないでしょう。ひょっとすると、自分の閉じたからだの中で響いているだけなのかもしれません。

昨年12月、■■に参加し、声の届き方で気づいた点を講師ご本人に話しました。筋肉の過緊張が見られたので話を聞いていくと、かなり精神的にきつい状況だったことを述べられました。からだは正直です。

(中略)

「それ、知ってます」という言葉を使う若手に、「知ってる、とできる、の差は大きいよ」と言います。どれだけできるのか、と問われたら赤面しますが・・・。


このような話をしますと、よく得意げに「それって、『英語教育』の話じゃありませんよね」と言って、話を切り捨てる人がいますが、私にとって自分の知的生活・実践生活に縄張りをはってそこから一歩も出ないことで自分のプライドを保っている方のことを理解するのは困難です。私はそのように頑なな方に個人的な親愛の情を抱いたことは一度もありません(はからずも、このことが私自身が頑なな人間であることを示しているのですが 笑)。「からだ」や「声」といった根源的な事柄についても英語教師として考え続けたいと思います。







追追記

上記の先生からまたメールをいただきました。このブログ記事で書かれている内容は、多くの読者には理解されないのではないかとご懸念でした。


内容がかなり濃いので、おそらく読んでもピンと来る方は少ないのでは?と思いました。

私の書いた部分だけを若い人に読んでもらったところ、「声が届くというのは、大きな声を出すということですね」と言われました。

「音は大きければ届くけれど、それで声、言葉が届くとは限らない」という、なにやら禅問答のようなことを言ってしまいました。

声について、発声法について、人前で語ることを生業にしている人がもっと関心を持っていいのでは、とずっと思っています。


この点で、まさに昨日経験したことを書きますと、私は所用で、某電気量販店の代表電話番号に電話をかけました。開店時刻の10時丁度にかけたせいか、呼び出し音を10回以上鳴らさないと応答がありませんでした。

しかも、その応答は「はい。○○本店です」というものでしたが、私はそれを聞いて思わず「もしもし?」と応答せざるを得ませんでした。私に呼びかけている声にはまるで聞こえず、機械音声の自動再生かと思ったからです。私は直接口にこそ出しませんでしたが、私が思ったのは「もしもし、これ人間がしゃべっているんですか?」といった疑念でした(考えてみればこの店だけでなく、大企業の電話オペレーターはしばしばこのような発声をします)。

上の言い方を借りると、この女性オペレーターの音は私に明瞭に届いているのですが、声としてまったくといいほど伝わってきませんでした。(おまけに、その後に私が所用を伝えても、一度ではきちんと理解してくれませんでした。ひょっとしたらこのオペレーターは、「丁寧」に聞こえるようなことば遣いはしているものの、まともに声を出して、きちんと声を聞きとろうとはしていないのかもしれません)。

竹内敏晴氏が言っていることも、このようなことだと思います。

人に声を、ことばを、伝えるという根源的なところは、やはりきちんと自覚し、必要に応じて訓練しないと、授業も何も成立しにくいのではないかと思います。




2012年2月20日月曜日

国立国語研究所での招待講演の音声と補記




■音声ファイルの掲載


国立国語研究所での招待講演(単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ)を無事終えることができました。関係者の皆様、聴衆の皆様に感謝します。その時の音声ファイルを掲載しますので、ご興味のある方はスライドおよび予稿を見ながらお聞き下さい(講演は約60分です)。




■寄せられた質問への回答

講演の後にいくつかの質問が寄せられ、私はそれらに答えました。


Q1: あなたの言語観はヴィゴツキーやバフチンの言語論と大きく重なる部分があると思うのだが、どうだろう。

A1: ヴィゴツキーやバフチンについては、一時は非常に影響を受けたが、ロシア語が読めないので、きちんと勉強することを今は断念している。私が言語観で影響を受けたのは、ウィトゲンシュタイン、アレント、ルーマンである。

最近は(武術の関心もあって 笑)野口三千三を20年ぶりに読み、そこから再び竹内敏晴の言語観に強い興味を抱き始めた。また今回の講演で「過程」という言葉が出てきたが、そこからこれまた20年ぶりに時枝誠記の『国語学原論』を読み返したいと思っている。

これらの人々は、英語を中途半端な日本語にしながら考える私たちと違って、日本語で忠実に考えているから非常に面白い。竹内敏晴の例で、「手を出す」と「手が出る」や、「目をやる」と「目が行く」の違いがあるが、後者の日本語表現は、リベットの言う意識の後発性を例証しているようで非常に興味深い。これらの思想を、もしきちんと英語で表現できればこれはグローバル社会への一つの貢献と思っているので、日本に住む日本語母語話者としてこれらの作品は大切にしたい。また武術も含め(笑)、日本文化は本当に世界に誇るものをもっていると思う。


Q2:実在論的測定ばかりを強調しすぎるのはバカげているが、一方で存在論的探究を重んじると精神論がはびこるのではないか。言語は形あるものなので「測定」を放棄することは言語教育の敗北になるのでは。

A2: まったくその通りで、実在論的測定と存在論的探究の両方が必要。学生にもいつも「測れるものはきちんと測れ」と言っている。もちろん「ただし、その測定で考察がすべて終わるのかどうかは十分に吟味せよ」と付け足している。
付記:マックス・ウェーバーの「精神なき専門人 心情なき享楽人」(Fachmenschen ohne Geist, Genussmenschen ohne Herz)という言葉をふと思い出したので、ここにも書いておきます。上では「精神論」というのが悪い意味で使われており、私もそのように批判されるべき態度・言説があることは十分に承知しておりますが、他方で精神性といったことを放棄すること(時には冷笑すること)こそが専門家であるといった風情も時に見られます。「精神論」の無批判的な肯定・否定には共に警戒したいと思います。(2012/02/21)


Q3: 存在論的探究を授業方法に反映させるとしたらどういった方法が考えられるか。

A3: 評価を急がないことだと思う。私は先日、学部3年生相手のコミュニケーション能力論の半年間授業を終えたが、毎週の討議と感想提出、および期末レポートで学生それぞれと相互理解を深めることができたと思っている。その相互理解こそは、お互いの授業評価だと思うのだが、その一言では語れない理解も、制度上は「秀・優・良・可・不可」の5種類に分けなければならない。正直私はそれが苦痛だった。いろいろ言いたいことはあるのだが、例えば遅刻が多かったからなどの理由で評価を下げたりせざるを得なかった学生もいるが、その学生が後日「ああ、結局私は『良』(あるいは『可』)か」と、半年間(あるいはこれまでの三年間)で築きあげた「コミュニケーション能力」についての理解を単純な記号に還元してしまうかもしれないことが、私は非常に嫌だ。


Q4: 第二言語を学んで複合的言語自己が形成された場合、言語の特性によって人格そのものに影響が出るという研究はあるのだろうか。

A4:「人格」という概念は大きすぎるので、もう少し小さなレベルの例で答えたい。例えばLantolfが言っていることを、日本人を対象にして言えば、日本語は「歩いて行く」というように動作のmannerとpathを分けて表現することが多いが、英語ではそれらを"walk"という動詞一語で表現する。先日、田尻悟郎先生がNHKでティーンエージャー相手に英語を教えていたが、やはり「歩いて行く」というのは"go"を使わなくてはならないのではないかと思い込んで、すぐに"walk"という単語と結びつかなかったと言っていたが、これもそういった例として説明できると思う。




■シンポジウム全体総括の際にスライドで提示したキーワード(およびその簡単な説明)


・固定的状態の達成(終結的目標)か、均衡状態の維持発展(永続的目的)か:
要はendとorientationの違いをきちんと理解しようということだが(参考:「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」)、第二言語教育では、学習者はどの時点でも彼・彼女自身としての均衡を保っている存在として認められるべきであり、「言語知識がない欠損的存在」と見られるべきではないということは強調したい。どんな学習状態でも、学習者は複合的言語自己として、様々なコミュニケーションを取りうる存在である。

・コミュニケーションにおいて、 言語は重要な資源であるが、 目的ではない:
これは「言語コミュニケーション力の三次元的理解」(参考『危機に立つ日本の英語教育』所収論文)以来強調していることだが、コミュニケーションにおいて言語は重要な要素であるが、言語だけでコミュニケーションができるわけではない。言語知識を得ることが、それだけで言語教育の目的になるべきだとは考えない。


・「日本語母語話者」も「汚染」(デリダ)されているし、進化する:
以前のブログ記事(純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観)でも述べたように、理想化された「日本語母語話者」を固定的に考えることには批判的であるべきだと思う。どんな言語話者も他言語の影響を受けているし、またどんな言語も進化(変化)する。


・「多文化共生コミュニケーション能力」は「個人」に帰属できない能力:
「相互作用性」で述べたように、言語コミュニケーション力のある側面は、個人内だけに帰属する能力ではない。いわば「場」がもつ力というのもある(端的な例は、「べてるの家」でのコミュニケーションである)。


・相互作用における 両者の同調 (一つの系の二項):
合気道的な考え方だが(笑)、相互作用的にコミュニケーションをしている二者は、一つの系(システム)の中で構造的に関係づけられている二項(二つの要素)と考えることができる。


・「外国人」の日本語習得と、「日本人」の 日本語使用は連動しなくてはならない。 (「そもそも『外国人』、『日本人』とは何か):
The New York TimesDebateでも今やアメリカ人などの英語母語話者は、実利的な点からだけからしても、非母語話者の英語に慣れる必要があるという論が出ていた。外国語としての日本語を学ぶ「外国人」が増えるにつれ、「日本人」の日本語使用もその実態に合わせて変わらざるを得ないのではないか。(そもそも「外国人」や「日本人」といった概念も、国籍の有無だけで考えるならともかく、丁寧に考えていくと非常に漠然とした概念であることがわかる)。

・ハーバマス的理想的対話状況か、 ルーマンの差異によるコミュニケーションか:
「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」でも述べたが、コミュニケーションにおいて、理解の共有を目的と考えるのか(ハーバマス)、差異が次々にコミュニケーションを生み出すことを目的とするのか(ルーマン)という点は、きちんとおさえておく必要があると思う。

・一方が主体で他方が他者(管理)なのか、両方が主体でもあり他者でもある(共生)のか:
これまでともすれば授業においては教師だけが主体で、学習者は管理されるべき他者(=教師からすればよくわからない存在)と思われてきたきらいがあるが、教育においては、教師は主体として働きかけるが学習者からすれば他者であるし、学習者も主体として参加(あるいは非参加)しているが教師からすれば他者に思えるという両義性をきちんと理解するべきだと考える。「私は、他者にとっての他者である」という認識は「共生」のために重要である。

・私的評価と公的評価(制度化と権力化):
ポスター発表の中で「私たちは私的な評価を日常的に行なっている」という指摘があったが、まさにその通りだと思った。その中で、私たちはある種の評価を公的なものとしようとする。公的なものとするため評価は制度化され権力化されるが、その中で何が失われるのか、そもそもなぜその評価が権力をもつべきなのか、といった考察は重要だ。

・規範の具体的提示 (promoting appropriation)と、規範の権力性を無理やり認めさせること(enforcing the norm)の違い:
評価に対して批判的な態度を取るといっても、それは評価の規範(例えば標準的な日本語表現)の提示を禁ずるものでは決してない。教育から規範性を取り除くことはできない。教育において規範は抽象的にも具体的にも示されなければならない。だが、その提示と、その強制は異なる問題であると私は考える。



以上を簡単な報告とします。関係者の皆さんに改めて感謝します。





2012年2月16日木曜日

国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ



国立国語研究所で2月18日に講演させていただく機会(共同研究プロジェクト 公開シンポジウム「多文化共生社会における日本語教育研究」)をいただきました。予稿と発表スライドをようやく完成することができましたので、ここでも公開します。ご興味のある方はダウンロードしてください。




今回の私の講演は、「多文化共生社会における日本語教育研究」というプロジェクトの中でのものです。このテーマで何ができるかと考え、現時点での私の言語コミュニケーション力論を総括して報告し、その中でも多文化・多言語に関わることを少し丁寧に語ろうと決めました。


以下は、予稿をそのまま掲載したものです。





単一的言語コミュニケーション力論から
複合的言語コミュニケーション力論へ




柳瀬 陽介



1 これまでの単一的言語コミュニケーション力論

本発表は、多文化共生社会における日本語教育研究について考えるために、複数の言語が同じ一つの脳・心・身体において働く「複合的言語話者」 (plurilingual speaker)の複合的言語コミュニケーション力 (Ability of plurilingual communication) を検討することである。この検討の前段階として、これまでの単一的言語コミュニケーション力論 (Theories of ability of monolingual communication) ―あたかも学習者の脳・心・身体での目標言語のみしか検討しないようなモデル― について整理する。これまでの単一的言語コミュニケーション力論は、(1)個人内的なもの、(2)相互作用的なもの、(3)社会的なもの、の三段階に整理できる。


1.1 個人内的な言語コミュニケーション力論

個人内的な言語コミュニケーション力論* (Individualistic theories of linguistic communication)、応用言語学における論考のほとんどが採択している枠組みである。応用言語学の初期は要素並列型であったが、その後、力を二層で考える型が出てきた。(* これまでの言語コミュニケーション力論においては、 ‘linguistic’はほぼ同時に ‘monolingual’を含意しているので、以下も含めていちいち‘monolingual’という表記は付けないことにする)。


1.1.1 要素並列

要素並列型は、例えばコミュニケーション能力を、文法的能力・社会言語学的能力・ディスコース能力・方略的能力という四要素の列挙でもっぱら説明しようとするものである (Canale and Swain 1980, Canale 1983)。正確にはこれらの要素の「相互関係と相互作用」がコミュニケーション能力だとされているのだが、この論点はあまり前面に出ず、要素を並列させるだけで説明が終わる。遺憾ながら、日本の英語教育界においては、このレベルのコミュニケーション能力論がいまだに横行している。


1.1.2 知識と活用力の二層性

コミュニケーション能力論は、Widdowson (1983) の活用力 (capacity) 概念で次の段階に進んだ。彼は、コミュニケーション能力とは、固定的な言語的な知識 (彼の用語ではcompetence) を、状況に応じて動的にかつ創造的(creative)に活用する力 (capacity)であるとし、コミュニケーション能力を知識と活用力の二層で説明した。彼の論には、用語の上でChomskyの用語との齟齬があるという問題があるものの、この二層の発想はその後のBachman (1990)、Bachman and Palmer (1996, 2010)などにも受け継がれた(しかしBachmanはこの ‘capacity’ を ‘strategic competence’ と呼ぶなど、応用言語学における用語は必ずしも整理されているわけではない)。


1.2 相互作用的な言語コミュニケーション力論

上記のコミュニケーション能力論では、コミュニケーションとは、単に標準的とされる言語を発話するだけにとどまらず、特定の状況下での特定の相手に対して最適化された言語を発話し、かつその相手からの反応に応じてさらに言語発話を続けるという、Hymes (1973) も指摘していたコミュニケーションの相互作用 (interaction)(および創発 (emergence))といった課題に関する考察が十分ではない(ただしBachman and Palmer (2010) には若干の言及がある)。この課題を扱うのが、相互作用的な言語コミュニケーション力論 (Theories of ability of interactive linguistic communication) であり(柳瀬 2006, 2008, 2009)、この枠組では、「心を読む力」の働きが重視される。


1.2.1「心を読む力」

「心を読む力」(mind-reading ability)とは、もともと動物行動学・認知科学の概念であるが、人間は(非言語的にも言語的にも)相手の心を予測し、その予測に基づいてその相手・状況に最適な(あるいはもっとも関連性 (relevance) の高い)発話をしようとする。この力が不足していると、単に饒舌なだけで要領を得ない発話になる。


1.2.2 心・身・言の同調

相互作用的な言語コミュニケーション力論を単純化するなら


心を読む力 x 身体を使う力 x 言語知識


という掛け算で表現できる。ただしこの「掛け算」というのは比喩に過ぎない。この比喩が表し得ていないことの一つは、この三要因(心・身・言)が同調していなければならないことである。三要因を三次元空間の合成ベクトルとして表現すれば(柳瀬 2008, 2009)、この同調は含意されるが、しばしば「それでは『心を読む力』をどのように授業でつけたらいいのか」といった、一要因だけを単独で育てようとする質問が筆者に寄せられることから、この心・身・言の同調は必ずしも十分に理解されているとは言えない。


1.3 社会的な言語コミュニケーション力論

上記の論は、話者と聴者が同じ時空間で話しあう言語コミュニケーションを典型例として考えているが、昨今の情報革命は、異なる時空にいる者の間での言語コミュニケーションの機会を飛躍的に増やしている。そのような言語コミュニケーションを、社会学者ルーマンの用語法に倣って、社会的言語コミュニケーションと名づける。社会的言語コミュニケーションでは、心を読む力が、相互作用的言語コミュニケーションの時以上に、高度に要求される。

1.3.1 メディア生態学

言語コミュニケーションのメディアが、同じ時空での視聴覚から、紙、印刷製本、電子メディアなどと変化するにつれ、実は言語コミュニケーション自体も変化を受ける。私たちが諸メディアの中でどう生きて、どう生かされているかというメディア生態学は、言語コミュニケーションを考える上で必須の観点と言えよう。


1.3.2 音声言語と書記言語の区別

メディア生態学から明らかになることの一つは、音声言語と書記言語の違いである。両者は、しばしばmodeだけで区別され、それぞれのstyleの違いは看過されている。例えば親しい間柄でのメールなどはwritten-modeにおけるspeaking-style言語使用 (written-speaking) であり、学会口頭発表などはspoken-modeにおけるwriting-style言語使用 (spoken-writing) である。だが一部の第二言語教育者の間では、依然として前者は「ライティング」、後者は「スピーキング」として扱われかねない。ジャンル分析と共に、音声言語と書記言語の区別は、言語教育で今後重視されなければならない。



2 意識と身体の問題

言語コミュニケーション力論は以上のように、個人内的・相互作用的・社会的に展開してきたが、まだ本格的に複合的言語観を導入する以前に、検討するべき論点がある。それはメディア生態学が明らかにしたもう一つの論点である、人間における「意識」の出現によって導かれるものであり、言語習得・言語使用における意識と身体の関係を検討することである。

2.1 非意識の働き

意識と身体の関係について検討する場合、まず確認しておかなければならないのは意識の対概念である。対概念として、これまでは精神分析のフロイトの影響を強く受けた「無意識」 (unconsciousness) が使われてきたが、この用語が指すのは、現在意識されていない思考と感情の連合ともいうべきものであり、これが精神科医の促しなどにより後に意識化・言語化されることは周知の通りである。これに対して、身体の動きの多くは、どうあっても意識化・言語化できない、あるいは非常に漠然としか(しかも間接的・比喩的にしか)意識化・言語化できない働きである。これを神経科学では非意識 (nonconsciousness) と呼ぶ。筆者もこの非意識を意識の対概念として用いる。


2.1.1「自動化」の限界

第二言語教育では、しばしば教示された文法を、最初は意識的に想起しながら使って言語発話しているが、言語発話訓練(例えばパターン・プラクティス)を重ねることで次第に意識せずに発話できることを「自動化」と称している。だがこの「自動化」だけで言語コミュニケーション力がつくわけではない。「自動化」概念には、二つの限界がある: (1)最初の「意識」の時点で、そもそもまったく意識されていなかった数多の非意識の心身の働きを等閑視していること、(2)「自動化」されたことは、特定の言語表現が、それを使うようにという具体的な指示があった時に出現できるようになることだけであり、実際のコミュニケーションの時のように、その特定の言語表現を他の数多の言語表現の中から関連性の高いものとして選ぶ力(=活用力)は含まれていない。「自動化」だけで言語コミュニケーション力を説明することはできない。


2.1.2 意識の限界(KrashenとLibet)

クラッシェンは、意識的に学習した知識は、実際のコミュニケーションではエディターもしくはモニターとしてしか働かないとしたが、この直感的洞察はおそらく神経科学的にも正しい。例えばLibet (2004) は、私たちがある行動を起こそうとする自由意志 (free will)は、その行動に関する神経活動が開始された約0.5秒後に初めて意識されるものであり、意識の働きはその開始された行動を止める(veto)することに過ぎないことを実証的にも理論的にも明らかにした。意識の限界を第二言語教育者も的確に理解しておく必要がある。


2.1.3 System 1とSystem 2

ノーベル経済学賞 (2002年) 受賞者のKahneman (2011) は、社会心理学の見地から、非意識と意識の働きを、それぞれSystem 1、System 2というメタファーで語る。この用語法は、非意識の働きを根源的なものと考えることを促す点でも有効である。神経科学が明らかにするように、意識は非意識に依存するものであり、この点で通常の「意識」「非意識」という用語法は、前者を常態、後者を特別態と考えることを促すので好ましくない。


2.2 意識の働き

神経科学は、非意識の心の解明を主としているが、Damasio (2000, 2003, 2011) は意識や自己に関する神経科学的解明を行なっている。彼の解明の枠組みは、Edelman (2005, 2007) ―1972年ノーベル生理学賞― の解明の枠組みと共通するところを多くするものの、Edelmanよりも肌理の細かいものであるので、これからDamasioの枠組みをここでも採択する。


2.2.1 中核意識と中核自己

意識は、「対象」によって、生物の生命維持に危機を引き起こしかねない変化が、身体に生じた際に、その変化が中枢神経系に反映され、その反映が中核意識 (core consciousness) として現れる (中核意識を感じるものとしての自己 (core self) の感覚も同時に現れる)。生物が中核意識をもつことにより、非意識の自動的反応では対応しがたい状況へ対応する途が開かれた。


2.2.2 延長意識と自伝的自己

中核意識は「今・ここ」に関するものであるが、それは自伝的記憶(長期記憶)への素材を供給する。中核意識は、自伝的記憶を使いながら、「今・ここ」を越える自伝的自己 (autobiographical self) の感覚を生み出す。猿や犬などの動物も自伝的自己を有すると考えられるが、人間は、自伝的自己が言語というメディアを通じても形成されるので、過去・未来・可能世界に対してより複雑な自伝的自己をもつことができる。この自伝的自己の意識を延長意識 (extended consciousness)と呼ぶ。現代人は通常、「意識」という言葉で「延長意識」を、「自己」という言葉で「自伝的自己」を意味している。生物は、中核意識に加えて延長意識ももつことにより、学習という利点を得た。人間は延長意識に言語を用いることにより、その可能性を大きく広げた。

この「非意識の身体変化→中核意識→延長意識→言語化された延長意識」の発生を逆に考えるならば、第二言語学習も根源的なところで学習者の身体で感じられるものでなければ、第二言語は学習者の「身につかず」、単なる記号および記号操作の「棒暗記」だけにとどまりかねない。身体変化は、Damasioの用語では、「情動」 (emotion) であり、それを感じて中枢神経系に表象することが「感情」(feeling)であり、さらにその感情を認識 (know) することが中核意識となっている。これらの専門的な意味での情動・感情の働きも、これからの第二言語教育研究の課題である。


2.3 第一言語自己と第二言語習得

身体・意識・自己について上記のように整理すると、第二言語習得とは、第一言語が隈なく張り巡らされた自伝的自己(=第一言語自己)が、その(言語化された)延長意識をもって、新たに学ぶ第二言語という記号体系をいかにして無意識的身体に浸透させるか、という問題として定式化できる。


2.3.1 非意識機能を育てるために意識は何ができるか

この定式化では、意識とは、第二言語の習得・使用を直接的に構成するものではなく、非意識的な心身を、第二言語習得・使用に向けて整えてゆくための間接的な支援を行うものとなる。(付言するなら、こういった観点から従来の ‘consciousness-raising’ や ‘noticing’ といった概念も再検討されるべきであろう)。


2.3.2 第一言語自己と第二言語自己の関係

第二言語教育の一応のゴールは、学習者が第二言語でも自らを語り、他との関係性を構築・維持できること、つまりは第二言語自己(=第二言語での自伝的自己)を創り上げることとも言える。この際、第一言語自己と第二言語自己は、同一の身体に体現されている。この身体性も今後の研究課題の一つとなり得る。


2.4 言語の記号性と身体性

日本での英語教育という第二言語教育では特に、言語の記号性ばかりが強調され、身体性がないがしろにされてきた。しかし身体性を重視しなければ、言語の「体得」には繋がり難いだろう。

言語を身体性から考えることも重要である。同一言語内の語彙の関係性は、ソシュール以来言語学でも研究されてきた。また異言語間での語彙の関係性も、対照言語学といった形で研究されてきた。しかし言語を、その使用者の身体との関係から考えるという視点は、習得研究や教育学的研究においてこれまで十分に検討されてきたとは言えない。



3 複合的言語コミュニケーション力

「複合的言語コミュニケーション力」の考えは、以下に示すように、新聞論壇にも、学会言説にも、公共制度的言説にも登場するものであるが、この概念も上記の(個人内・相互作用的・社会的)言語コミュニケーション力論、意識・身体論に基づいて探究されるべきである。


3.1 NYT debate

最近のThe New York Times (2012年1月29日) は、ハーバード大学元学長Lawrence Summersの発言 (「英語のグローバル的普及を考えるなら、アメリカにとっての第二言語習得の価値は下がった」) を受けての、六名の発言を掲載した。現代の第二言語教育観を知るための一例として以下にそのうちの三名の意見を簡単に書く。Jacksonは、言語は、生きることの色彩を生み出すパレットであるという比喩を使い、多言語話者は単一言語話者よりも多くの色彩を生み出せるとした。Erardは、現実問題として既に英語は、母国語話者よりも非母国語話者をより多くのであるから、母国語話者は、非母国語話者の英語における音声・語彙選択・統語法などに慣れる実利的必要があるとも述べる。Suarez-Orozcoは、第二言語学習を、実利の点からではなく、この世界でどう生きるかという点から考えるべきと説く。これらの観点は、日本における第二言語教育(日本語教育、英語教育)においても示唆的である。


3.2 V. Cook

V. Cookは、「多言語能力」 (multi-competence) という概念を提唱し、これまでの第二言語教育における単一言語主義 (monolingualism) の偏りを指摘している。


3.2.1 単一言語話者はもちえない能力

多言語話者は、翻訳する能力をもつが、当然のことながらこれは単一言語話者ができない能力である。しかし、単一言語話者である母語話者を目標とし、彼・彼女らを理想的教師とすることが多かった従来の第二言語教育は、この翻訳能力を適切に評価していない。この事は、code-switchingなどについても当てはまる。


3.2.2 第二言語が変える第一言語

従来、第一言語の第二言語習得・使用への影響(干渉)は研究されてきたが、逆に、第二言語習得・使用が、第一言語の使用にどのように影響を与えているかは等閑視されてきた。この影響は「干渉」 (interference) といった否定的な用語で検討されるべきものではないだろう。一人の人間が複数の言語を使用することの方が当然視されるようになってきた現代社会において、第二言語教育に染みこんでしまっている単一言語主義を注意深く検討することが必要である。


3.3 欧州評議会

欧州評議会 (Council of Europe) は、 ‘plurilingualism’という造語 (日本では「複言語主義」と訳すことが多いし、筆者も実際そう訳していたが、下に述べる理由から文脈に応じて「複合的言語主義」「複合的言語使用」と訳す)。もとよりこれは欧州のあるべき姿に関する理念であるが、日本での第二言語教育においても示唆的である。(だが一方で昨年以来、ドイツや英国で特に目立ち始めた「多文化主義 (multiculturalism) は失敗であった」といった言説にも注意を払う必要がある)。

以下はCEFR英語版からの引用と拙訳である(強調は共に引用者による)。


Plurilingual and pluricultural competence refers to the ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct competences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001, p. 168)
複合的言語文化能力が意味するのは、複数の文化での経験をもつそれぞれの人間が、複数の言語をさまざまな度合いで使いこなすことができ、それぞれに社会的主体として、コミュニケーションの目的に応じて複数の言語を使い分け、複数の文化が混在する状況でのやりとりに参加することができることである。この能力は、それぞれに独立した別々の言語能力を積み木のように縦横に並べたものと考えてはならない。複合的言語文化能力は、一つの複合的な能力で、元々は複数の要素からできたのかもしれないがもはや分離することができない一つの化合物ともいえる能力であり、この能力を人は状況に応じて使いこなすのである。(拙訳)


この引用からわかるように、‘plurilingualism’では複数の言語と文化が不可逆的に化合していることが意味されているので、その含意を表現するため、「複言語」ではなく「複合的言語」という訳語を使うこととする。


3.3.1 多言語使用と複合的言語使用

「多言語使用」 (multilingualism) が、ある国で一つ以上の言語が公式的に使われているという制度的な概念であるのに対して、「複合的言語使用」 (plurilingualism) はある人間が、自身の生活において一つ以上の言語を使用している状態を指す。欧州評議会は、‘plurilingualism’という用語を、その状態を可能にしている事実的な能力概念としても、欧州が欧州として統合されるために重要と考える教育学的な価値概念としても、区別しながら使用している。日本における議論でも、事実概念と価値概念の区別は重要である。


3.3.2 母語話者規範からの離脱

複合的言語使用は、複数の言語を同等に使うのではなく、例えば複数の言語を、様々な用途目的のために、それぞれに異なる度合いで使用するものである。その度合は、母国語話者・母国語話者に準ずるものから極めて初歩的なものまで様々である。複合的言語主義は、学習者に様々な用途目的において一様に母国語話者並の言語力を求めるものではない。第二言語教育における単一言語主義は、学習者の第一言語を無視するだけでなく、目標言語の中の様々なジャンルという多様性を見失っている点でも批判されるべきである。どのジャンルにおいても一様に素晴らしい母語話者という理想的存在の能力を第二言語教育の規範とすることには警戒するべきではないのか。



4 複合的言語自己

第一言語自己と第二言語自己が、同一の身体に体現された時、それらは一つの複合的言語自己 (plurilingual self) と称することができる。ここではその複合的言語自己の特徴について検討する。


4.1 空間メタファーか化合物メタファーか

第二言語学習者の自己は、第一言語アイデンティティと第二言語アイデンティティの間にあるもの (“In-between-ness”) という空間メタファーで時折語られる(この発想は、第一言語と第二言語の間にある中間言語 (interlanguage) の発想の延長かもしれない)。しかし上記のCEFRからの引用部分から考えるなら、第二言語学習者の自己は、例えば二つの水素原子と一つの酸素原子によって形成された水といった化合物のメタファーで考えるべきではないだろうか。水は、水素原子と酸素原子によって構成されながら、それらの原子が単独では決して示さない特性を示す。また(電気分解といった特別な事がなされない限り)水は元の水素原子と酸素原子に戻ることはない。第二言語話者も、元々は第一言語の単一言語話者であったが、第二言語が「身についた」後は、第一言語の単一言語話者とも第二言語話者の単一言語話者とも異なる特性を示す。またそのような複言語的自己は、たとえ第一言語か第二言語のどちらかだけしか使わないように指示されても、単一言語話者として言語使用をすることはできない。複言語的自己は、いかなる単一言語的自己とも異なる独自の自己である。


4.2 物体か過程か

「自己」は名詞で表現されるがゆえに、私たちはとかくそれを “substantive” (名詞=実詞=実体)、つまりは物体として考えがちである。しかしDamasioの意識論・身体論で確認したように、自己 (self) とは身体状態の変化という時間的差異により出現する過程であり、その時間的差異が知覚される限りにおいて自己は存在する(早い話が、身体状態の時間的差異が知覚されない熟睡状態では自己の感覚はない ― もちろん夢を見ている時は別であるが)。近代人の知性は、紙媒体といった無時間的なメディアによって大きく影響を受けているので、とかく無時間的な物体概念ばかりで物事を考え、時間的な過程概念を看過しがちである。複合的自己を考える際にもこの点を留意しなければならない。


4.3 自らとは異なるものとの共生

自己を過程的事象と考える枠組みの一つに、ルーマンのオートポイエーシス論がある。自己は、自らとは異なる「環境」 (Umwelt, environment) と接する中で、自らに自己言及する (先ほどの例なら、対象との出会いによる身体状態の変化に伴い古い身体状態を参照する) ことにより出現する。ルーマンは次のように表現している。


Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (Luhmann 1998, 2, p. 868)

The term “subject” does not designate a substance that, by its pure being, shoulders everything else, the subject is rather self-referentiality itself as the foundation of cognition and action. (Translated by Moeller (2011))

主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(馬場他訳 (2009, p.1166) )


複合的言語自己をオートポイエーシス・システムとして捉えると、それは単一言語的自己よりも複雑で複合的な自己であり、その複雑性・複合性に応じて、自らとは異なる「環境」(「他者」)とより柔軟に対応できる潜在性をもつものと論ずることができる。それは単純な生命体よりも複雑な生命体の方が、多様な環境に対応できることと同じである。



5 示唆

以上の抽象的論考から、以下のようなより具体的な示唆を導くことができる


5.1 実在論的測定と存在論的評価

現代の知的混乱の一つは、Gray (2011)が指摘するように、自明な存在 (例えば長さや質量) の測定である実在論的測定 (ontic measuring) ばかりが横行し、その存在に関して私たちがまだ探究を続けている対象 (例えば人格や能力) の評価である存在論的評価 (ontological measuring) までも、実在論的測定によって片付けてしまおうとしていることである(例えば、教師の良さを生徒のテストの点数の測定だけで評価しようとすることなど)。「説明責任」という風潮は、誰でもわかる測定で物事を判断することを促進しているが、「誰でもわかる」ということは「愚者でもわかる」ということであり、「愚者でもわかる」物差しばかり使っていて、物事の存在論的探究に基づいた判断を怠っていたなら、私たちの判断力は愚者のレベルにまで下がる。

第二言語教育としての日本の英語教育では、ともすればTOEICや進学実績などの「誰でもわかる」数値を最終的な物差しとしてしまう。それらを便宜的な物差しとして使うことは無論許されるべきだが、それらを最終的な判断基準として、第二言語教育が目指す(複合的)言語コミュニケーション力に関する存在論的探究がないがしろにされたならば、第二言語教育は低いレベルにとどまったままであろう。


5.2 目標と目的(End and Orientation)

実在的測定は、単一の視点からの計測であるから具体的な「目標」 (Zweck, end) として具体的・短期的な終結点として設定できる。しかし哲学的探究を含む存在論的評価は、複数の異なる視点からの吟味であり抽象的・長期的に私たちを方向づける(終結点を持たない)「目的」 (Ziel, goal, guideline, orientation) である (柳瀬 2009)。第二言語教育にも、例えばcan-do listのような「目標」も必要だが、「目的」について考え続けること、語り続けることを忘れてはならない。


5.3 第二言語教育というコミュニケーション

複合的言語自己は、理想的な「(単一主義的)母国語話者的自己」として無時間的な物体として同定できるものではない。複合的言語自己は、時間的な過程であり、固有の過去を有した現在の自己言及的生起であり、独自の(潜在的)未来を有するものである。この意味で第二言語教育は、時々の「目標」設定に伴う便宜的終結点をもつものの、最終的な終結点は「目的」としてはもたない。強いて言うなら、第二言語教育は ―いや、そもそも教育は― その瞬間ごとに「未来に開かれた完結」を迎え、「閉ざされた完結」をどの時点にももたない。この意味で、第二言語教育は第二言語を主とする複合的言語コミュニケーションのために行われるが、第二言語教育自体が一つの複合的言語コミュニケーションである。毎回の授業は、それぞれに「未完の完成品」である。



参考文献

柳瀬陽介 (2006) 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社
柳瀬陽介 (2008) 「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 JLTA Journal, 11, 77-95.(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html に草稿を掲載。言語コミュニケーション力に関する書誌情報はここを参照されたし。)
柳瀬陽介 (2009) 「現代社会における英語教育の人間形成について」『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 39, pp. 89-98.(http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html
ルーマン, N. 馬場靖雄他訳 (2009) 『社会の社会 1・2 』法政大学出版局
Bachman and Palmer (2010) Language assessment in practice. Oxford University Press ( http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html )
Council of Europe (2001) Common European framework of reference for language. Cambridge University Press.
Damasio, A. (2000) The feeling of what happens. Mariner Books.
Damasio, A. (2004) Looking for Spinoza .Vintage.
Damasio, A. (2010) Self comes to mind. Pantheon.
Edelman, G. (2005) Wider than the sky. Yale University Press.
Edelman, G. (2007) Second nature. Yale University Press.
Gray, M. (2011) Measurement and its discontents. The New York Times (October 22) http://www.nytimes.com/2011/10/23/opinion/sunday/measurement-and-its-discontents.html
Kahneman, D. (2011) Thinking, fast and slow Farrar Straus & Giroux
Libet (2004) Mind time Harvard University Press
Luhmann, N. (1998) Die Gesellschaft der Gesellschaft Suhrkamp Verlag
Moeller, Hans-Georg (2011). Luhmann Explained. Open Court.
The New York Times (2012) “English is global, so why learn Arabic?” (January 29) http://www.nytimes.com/roomfordebate/2012/01/29/is-learning-a-language-other-than-english-worthwhile



追記(2012/02/20):
「国立国語研究所での招待講演の音声と補記」の記事もお読みください。



2012年2月15日水曜日

相手にとって重要な知見を発見・説明・立証し、それを相手にとって最も親切な形で提示する

卒業生追い出しパーティも終わると、すぐに次の年度のゼミ活動が始まります。ゼミ活動では、学生さんが書く論文に対して、多くの時間をかけてさまざまな検討がなされ、教員である私からも多くのコメントが出されや添削がなされます。

しかし、なぜこのようなことをしなくてはならないのでしょう?なぜ学生さんは私(教員)から、いちいちコメントや添削を受けなければならないのでしょう?

ここではゼミ生の皆さんに、これからのゼミ活動を納得して行なってもらうために、ゼミ活動の中心である論文執筆が目指していることを簡単に説明します。



■論文執筆の意味

私たちが論文執筆に精魂込めるのは、論文執筆が次のことを意味しているからです。


相手にとって重要な知見を発見・説明・立証し、
それを相手にとって最も親切な形で提示する




■語句の解説

上記の論文執筆の定義に使われた語句を簡単に解説します。

・「相手」:
あなたのことを理解していない他人なのだが、あなたが自分の知的貢献でその人の役に立つことができると想定している人。
実際の論文の読者は、赤の他人である。だから、あなたはその赤の他人に向けて、自分がその人のために重要な知見を提示できるということを、タイトル・要約・序論などで、効果的に伝え、何よりも相手に読んでもらえる論文を書かなければならない。
論文の読者(「相手」)を、指導教員やゼミの友人などの、必ずあなたの論文を読むことになっている人と考えてはならない。論文の読者(「相手」)とは、あなたが論文を通じて初めて縁を切り開く他人である。
この意味で、論文は

It's not about you,
although it's written by you.

であることを理解して欲しい。

・「相手にとって重要な知見を発見」:
論文であなたが書く知見は、あなた個人にとって重要な知見であるだけではいけない。それだけに過ぎないなら、それは論文でなく、日記である。あなたは自分が伝える内容が、相手にとって重要であることを示さなければならない(このことは同時に、論文の知見は、個人的趣味ではなく、少しでも他の人々に開かれた知見でなければならないことを意味する)。
また「発見」という言葉は、相手がその知見を、まったく知らなかった・十分に理解していなかった・意義をわかっていなかった、等々であることを含意している。相手が既に十二分に知っていることを延々と述べてもそれは論文ではない(この独自性が必要という点で論文は「お勉強レポート」(自分が学んだことを示して単位を得るために提出するノート)とは決定的に異なる。
この「発見」、つまりはなぜ・どのような意味でこの論文は、論文の読者である相手が読む意義があるかを示すことを、「論文のWHY」を示すと称することにする。論文のWHYは、続いて説明するWHATとHOWと並んで、論文執筆の大切なポイントである。

・「知見を説明」:
論文(卒業論文・修士論文)は慣習上数十ページの長さをもっているから、伝える知見はそれなりの分量をもったものである。論文ではその内容を整理して精確に伝えなければならない。中心概念はもとより、派生概念も明確に定義し、伝える命題(「XはYである(XはZではない)」を、誤解されないように論じなければならない。これが論文のWHATである。

・「知見を立証」:
命題を論ずると上に書いたが、それは単にあなたが主張をするだけでなく、その主張を裏付ける証拠や理由を提示しなければならない(証拠とは具体物、理由とは抽象的な論証、と考えておいて下さい)。さらにその証拠や理由がなぜ妥当なものであるのか(証拠や理由とは名ばかりで、一人よがりの言い訳になっていないか)を示す必要がある。この命題立証のための、理由・証拠の提示およびその根拠の説明をここでは論文のHOWと称する。

まとめるなら、「相手にとって重要な知見を発見・説明・立証」するというのは、論文の内容を意味しているが、これは「あなたが特定し、あなたの論文を読むように招待した相手に、ある知見がなぜ大切か(WHY)、それは精確には何なのか(WHAT)、なぜあなたはそう言い切れるのか(HOW)を示すということになる。


・「相手にとって最も親切な形で提示」:
論文は、あなたが自分の好きなように書くものではない。よく初心者は、自分が調べたことをすべてそのままその順番で延々と書くが、読者はあなたの思考の経緯などに特別な関心をもっていない。あなたはタイトルや序論などで、どのような問題関心をもつ人間がこの論文を読むべきかを特定したのだから、その問題関心に忠実にまっすぐに最短距離で論証を行わなければならない。最短距離といっても、もちろん読者の読み続けようという気持ちを維持し高めるための、適切な工夫(概要・骨格の提示、読者が抱きそうな疑問への配慮、図表などでの整理、最後のまとめ、等々)は必要である。
要は、あなたの論文を読んでくれる相手が、できるだけ心地よく明快に論旨を追えるようにという根本精神を常に忘れず、いたるところでその精神から「どのように書けば読者にとって一番親切か」を具体的に考えながら論文を書くこと。参考文献の書き方などの枝葉末節は、この根本精神の延長に過ぎない。



■論文とは似て非なる書き物

以上のような説明から、次のような書き物はここでいう「論文」ではないことを理解して下さい。


読む人のことなどほとんど考えず、自分が調べたことや興味あることを、自分がいかにも知的に見えるようなやり方で書く


時々、論文を書くことは、「実験とか統計とか」いかにも研究っぽいことをやって、「この前どこかで読んだカッコいい言葉」を使ってまとめて、とにかくページ数を埋めること、と勘違いしたような学生さんもいます。そのような人にはならないように注意して下さい。



■論文執筆を通じて目指すこと

人はとかく、自分が知っていることは、他人も知っているし興味あるだろうと思いがちです(少なくとも、子どもというものはそういうものです)。そのような考えをもったまま、ゼミ活動に臨むと、教師やゼミ仲間からの「言っていることがよくわからない」、「なぜそう考えるのかがわからない」、「他の考え方もある」といったコメントが、自分に対する人格攻撃のようにすら思えることがあります。

しかし教師やゼミ仲間は別にあなたを攻撃しているのではありません。逆にあなたを正確に理解しようとしているのです。ですが、子どものような自己中心的な考えをもち自己万能感にひたっていると、自分のことを自分が願うほどにわかってくれない相手に正面から向き合い、自分で言葉を選び直し、考えも一部変えながら、丁寧に論じていくことは、とても苦しいことです(だから子どもは母親に自分の主張が受け入れてもらえなかった時に、地団駄を踏んで泣き叫びます)。

ゼミ活動では、他人との関係性の中で、自分を正しく理解し、さらに自分を他人のためにうまく役立てることができるように訓練してゆきます。この訓練をうまくやってゆけば、周りの人の求めていることや必要としていることを的確に見極め、それに対して自分が何ができるかをきちんと自己評価して、自分がやれることをその人に対して、その人に最も親切なやり方で行うことができるようになります。そのように周りの人を幸せにすれば、自分も幸せに思えることでしょう(少なくとも周りの人はあなたのことを大切に思ってくれるはずです)。

もちろん論文の内容は、自分が個人的に興味をもったことから始まります(この素直な感性を誤魔化すと、あとで論文執筆が苦行になります)。個人生活では、自分なりに興味をもっていればそれだけでいいのですが、論文執筆という訓練では、その私的世界から一歩出て、他人に向けて自分が見つけた面白さを示します。慣れないうちは、他人を意識して考え書くことが苦しいかもしれませんが、その苦しさはあなたの知的成熟につながるものです。知的に成熟した人を、周りの人々は大切にします。なぜなら知的成熟は、他人を幸福にし、その人自身も幸福にするからです。自ら幸福であり、他人も幸福にできるような人間になることを、ゼミ活動を通じて目指しましょう。





2012年2月1日水曜日

川崎剛 (2010) 『社会科学系のための「優秀論文」作成術 ― プロの学術論文から卒論まで』勁草書房




■博士号はもちろん修士号獲得のためにも必読・必携


博士課程はもちろん、修士課程にいる大学院生にとって必読であり、常にそばに置いて折々に参照すべき本として、この『社会科学系のための「優秀論文」作成術―プロの学術論文から卒論まで』をお薦めします。

博士課程の院生が、この本に書かれているような知恵をもっていないことは、莫大な時間とお金を浪費することにつながりかねませんから、博士課程在籍者および博士課程に進学を考えている人はぜひ読んで下さい。

特に博士号取得を考えていない修士課程の院生も、ここに書かれているようなことを理解しないと、指導教官の助言が理解できず、非生産的な日々をおくることになりかねませんから、やはり読むことをお薦めします。いや一、二度読むだけでなく、院生控室や自分の机の上に常に置いて、日々の研究活動の中で、この本を一つの物差しにして、より生産的な日々をおくるよう、この本を十二分に活用して下さい。

卒業論文を書く学部生も、個人的にはぜひ読んでほしく思います。「学術論文は何をするものか」ということがわからずに、やみくもに学術論文を読んでも要領を得ないからです。著者のたとえ(vページ)を借りますならば、たとえあなたが少年野球しかしなくても、プロ野球選手の試合や練習がどのようなものであるかを理解することは、非常に重要なことです。同じ時間だけ練習をするにしても、理解が違うと効果はまったく異なってきますから。

しかし、正直言いますと、最近の一部の学生さんの読解力は、英語だけでなく日本語でも非常に低下しています。ですから、今まであまり本を読んだことのない学部生は、『これからレポート・卒論を書く若者のために』などを先に読んで下さい(参考記事:「当たり前」だけどなかなかできない「思考のマネジメント」)などを先に読んで下さい。



■ここでいう「社会科学系」とは?

と、本書を薦めても、学生さんの中には「ボクは『エーゴキョーイクガク』をやるので、『社会科学系』の本など読むのはイヤです。もっとすぐに使える本を教えて下さい」などと言う人もいます。そのような学生さんには、軽いめまいを覚えつつも、そこは職業的責任感で抑えて、「いたずらに世界を狭くすることは、短期間的に考えれば良さそうに見えても、長期的には確実に自分を愚かにするから、そのような狭量は止めた方がいい」と助言します。

そもそも、ここでいう「社会科学系」というのは、広い意味で使われていて、おそらくは「複数の人間が関わる事象であり、かつ、結論が単純に白か黒と決まる事態がまずない事象に関する学術的探究」ぐらいの意味だと私は理解しています。

本書のある箇所で、著者も次のように言っています。


現代の進んだ社会科学のもとでは、とある社会現象に関して一方の学説が明らかに100%正しく、他方が100%間違っているという状況はまれである。したがって検証の結果、総合的判断として一方のほうが他方よりも説得力があるというような型の議論を展開することとなる。あるいは何らかの条件をつけて判定を下すこととなる。いずれにせよ、ていねいで正確な表現方法が必要となろう。 (99ページ)


ですから、本書は言語教育系の学生さんにも広く薦められるものです。

もっとも、一部の例は著者の専門である国際政治学から取られていますので、そのあたりは隔靴掻痒の思いをすることもあるかもしれません。その場合は、著者がこの例を通じてどのようなことを主張しているのかを読み取って下さい。



■しかし、そもそもなぜ論文などというウザイものを書かなければならないのか?

しかし、なぜ大学・大学院というのは、これほどに論文を書くことを重視するのでしょう。論文なんて学者仲間だけで書いて読んでいればいいだけなのに・・・と思う学生さんもいるかもしれません。しかし、著者も言うように(少なくとも)北米系の大学・大学院は次のような認識をもっています。



体系的に議論を書くことができる人材
= 自力で考えぬくことができる人材
= 問題を指摘し解決策を提示することによって組織や社会をリードできる人材


(111ページ)


つまり、現在のように複雑な社会で活躍できる人材を育てようと思うなら、知的側面においては論文を書かせることが非常にいい訓練になるわけです。実社会でも、論文あるいは論文に準ずるような文書(例えば企画書など)を読んだり自ら作成したりする機会はあります。文書を作成せずとも、文書を書くように丁寧に考えるべき機会はたくさんあります。(私も学内外の実務で、論文読解と執筆で培った分析力と統合力があってよかったと思うことが多々あります)。

大学(ひどい場合には大学院)で、単位や資格を取るためだけに勉強しても、そうやって得た肩書きは何の役にも立ちません。かえって「あれで大卒・修士号・博士号かよ」と陰で笑われるだけです。ここは一つ、覚悟を決めて、しっかりと卒論・修論・博論を書いて、自分を組織的に訓練して下さい。

著者の川崎剛先生(http://www.sfu.ca/~kawasaki/)は、カナダの大学で15年間教鞭をとり、大学院時代も含めれば北米の大学システムで25年間もの間、厳しい競争的環境の中で活躍されている方です。どうぞ信頼して本書をお読みください。






■この本の概要

以下は、アマゾンに掲載されてあったこの本の目次に、私なりの言葉を付け足したものです(コロン以下が私の付言です)。この本の内容をあまり紹介してしまっては、著作権に違反しますし、私としてはこのような良書を書いた著者と出版した出版社にはきちんとした金銭的報酬が行くべきだと思いますので、私の付言はわざと言葉足らずに書いています。また私の付言の中には、私独自の言葉遣いも含まれていますから、どうぞ皆さん、ぜひ実際にご自分でこの本を買って読んで下さい。



第I部 社会科学論文の「型」をマスターする:「型」に即していないと、言葉を尽くしても・・・

第1章 まずは3つのPを念頭におく: Project, Persuasion, and Problem-Solving


第2章 論文の骨格をつくる: 四つの要素のどれを欠かしても・・・

1 目的 (the purpose/character of the paper):「概念の検討・整理」「仮説検証」「仮説創設」「新事実の提示」

2 中心命題 (the central thesis): 反論可能な命題を一つ立証

3 「問題と解決」の枠組み (research design): 問題分析・解決方法・方法実施(参考記事:Research Questionの探究としての研究論文

4 中心命題が持つ含意 (implications):立証の波及効果

5 まとめ



第3章 論文の細部を仕上げる:論文の機能とは何か(参考記事:論文の構成要素とコミュニケーション的機能

1 中心命題の説得力を最大限にする: 証拠を増やすための論証法・反論を織り込む・方法論の妥当性を示す

2 表現法で説得力を増強する:序論・本論・結論の機能を考える (The Craft of Researchも読むこと)

3 まとめ



第II部 学位・卒業論文の攻略法:卒論の段階から博論について理解しておく

第4章 博士論文攻略法:はじめての本格的学術作品

1 博士論文の基本的性格: Project

2 研究計画書作成段階での注意点: 先行研究と問題解決の見通し

3 研究計画書執行段階での注意点:執筆と口頭試問

4 おわりに


第5章 修士論文攻略法: 研究プロセスの確実な達成

1 修士論文の基本的性格:問題の発見よりも解決

2 修士論文の基本タイプ: 「概念の検討・整理」か「仮説検証」

3 修士論文作成上の注意点:タイムマネジメント

4 おわりに


第6章 卒業論文攻略法:「おさらい論文」や「オレの熱い思い」などは決して書かない(『これからレポート・卒論を書く若者のために』も参照)

1 卒業論文の基本的性格:基礎的な学術スキルの獲得

2 「古い仮説・新しいデータ」型論文のすすめ:わずかだが確実な貢献

3 卒業論文の骨格:序論・背景・立証・結論

4 おわりに


第III部 学術雑誌攻略法:研究者として生き残るために

第7章 学問の「実戦」を理解する

1 論文草稿が学術雑誌に掲載されるまでの過程:審査員とのコミュニケーション(『これから論文を書く若者のために 』も参照せよ)

2 審査員が求めているもの:完成度と学問的貢献

3 まとめ


第8章 投稿して次に備える:"The show must go on."

1 学術雑誌を選び,投稿する: 「なにがなんでもトップ・ジャーナル」とは考えない

2 論文生産システムを構築する: 複線的マネジメント

3 おわりに――システム思考の大切さ


付録

1 研究計画書の作成術:提出する前のチェックリスト

2 主なる問題発見法の一覧表:考え方のヒント

3 論文用・研究計画書用のチェックリスト:ここだけでもコピーして机の前に貼っておく

4 参考文献ガイド




上記の目次を見てもわかるように、折々に「まとめ」や「おわりに」があり、非常にわかりやすい構成となっています。ぜひご活用ください。

また、私は論文執筆入門として、The Craft of Researchを広く薦めていますが、川崎先生もこのThe Craft of Researchをカナダの大学でも使っているそうです。Craftと本書の違いは、前者がより入門的、後者がより専門的となるかと思います。















関連ページ

柳瀬旧ホームページ「教育」
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/education.html

柳瀬現ブログ「教育」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/%E6%95%99%E8%82%B2

卒論・修論・博論の書き方を解説したサイト
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/10/blog-post.html



追記(2012/02/22)

論文をまとめようとする際に、要は覚えやすい下のキーワードで自分の思考を鍛えればいいのかと思いましたので、ここにもそのキーワードを提示します。