以下は、日本語では『我と汝』として知られる
マルティン・ブーバーの著作 "Ich und du"の英訳版 "
I and Thou" のPart Iから恣意的に選んだ箇所を私なりに意訳したものです。意訳(あるいは便利なことばを使えば「超訳」)の際は、私の解釈に基づいて、著者の意図 (illocutionary act) と著者がねらっている効果 (perlocutionary effect) をできるだけわかりやすい日本語で表現することを試みました。その結果、いわゆる文字通りの意味を直訳した形にはなっていません。
また、そもそも翻訳を行う際は、英訳本からではなく、ドイツ語原本から翻訳するべきで、その際もさまざまな先行翻訳を参照しながら行うべきなのですが、私は前回の引っ越しの際にブーバー関係の本をダンボール箱に入れたままとなり、それを見つけ出すことができないのでこのように安直な翻訳(というより意訳や「超訳」)をしています。ドイツ語原本にも先行研究にも基づかない訳出にすぎませんが、私としては、以下の論考などを思い起こしながら、解釈を進めました。
「対話としての存在」(『ダイアローグの思想―ミハイル・バフチンの可能性』第二章)の抄訳
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/11/blog-post.html
このように二重三重にいいかげんな仕事ですが、以下の発表の際に、ブーバーの考えを参照したかったのでこのようなことをした次第です。
「言語教師認知研究における物語様式と二人称的アプローチ」(11/17(土)14-16時 熊本大学教育学部棟2
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/11/111714-162.html
今後落ち着いたらせめてドイツ語原本を参照してもう一度この訳出を検討したいと思います(ドイツ語原本だけは再注文したのですが、残念ながら入手は間に合いませんでした)。
以下、Kindle版からの引用ページ番号はいちいちつけていませんが、以下はすべて Part I からの引用です。→印に続く文章は私の蛇足です。
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人間にとって、世界は二層化している。これは、人間が取る二つの態度から生じている。
二つの態度は、人間が使う二つの原初語による。
原初語は別々の語ではなく、つながった語である。
一つの原初語は<私-あなた>である。
もう一つの原初語は<私-それ>である。この原初語は<私-彼>や<私-彼女>と言い換えることもできる。
このことから導かれるのは、人間にとっての<私>は二種類あるということである。
なぜなら、<私-あなた>の<私>と、<私-それ>の<私>は異なるからである。
→世界が二つのあり方を示すというだけでなく、私も二つのあり方を示すと言っていることに注意。
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原初語は対象を指示せずに関係性を示す。
原初語は、原初語とは独立に存在している対象を記述しているのではない。対象は、原初語が語られることにより生じる。
原初語は存在から語られる。
もし<あなた>という語が発せられたら、それと共に<私-あなた>のつながりの中の<私>も語られている。
もし<それ>という語が発せられたら、それと共に<私-それ>のつながりの中の<私>も語られている。
<私-あなた>という原初語が語られるときには必ず、あらゆる存在が関わる。
<私-それ>という原初語が語られるときに、あらゆる存在が関わることはない。
→ちなみに素朴な疑問として、この「ことばが世界を出現させる」といった発想と以下のような発想にはやはり共通点があるのだろうか・・・
"In the beginning was the Word, and the Word was with God, and
the Word was God. He was with God in the beginning. Through him all things were
made; without him nothing was made that has been made. In him was life, and
that life was the light of all mankind. The light shines in the darkness, and
the darkness has not overcome a it." (John 1:1-5) https://biblehub.com/niv/john/1.htm
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
(「ヨハネによる福音書」第1章1-5節)
→「原初語は存在から語られる」というのは、やはり抽象的なので表現なので、さらに意訳するなら「あらゆるものが存在しているという事実から原初語が生まれる」ぐらいだろうか。
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<私>がそれ自体で成立することはない。<私>は、<私-あなた>か<私-それ>の原初語において成立するだけである。
→「私」を、実体的に定義するのではなく、あくまでも関係的に措定する存在論と考えてよいのだろうか。
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私たちが何かを対象化するとき、世界は<私-それ>の原初語のもとにある。
<私-あなた>の原初語が語られると、世界は関係性の世界となる。
→このブーバーの発想と、ハイデガーの『存在と時間』の発想の共通点・相違点についてもいろいろ研究があるはずだろうけど、勉強していません。お恥ずかしいかぎり。
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関係性の世界が現れる領域は三つある。
一つ目は、自然と共にある生活である。ここでの関係性はことば以前の暗がりの中にある。生き物は私たちの前に移動してくるが、私たちとは出会わない。しかし私たちがその生き物を<あなた>と呼びかけるとき、私たちはことばを使い始める。
二つ目は、人間と共にある生活である。ここでの関係はことばによって明らかに示される。私は誰かを<あなた>とし、誰かに<あなた>とされる。
三つ目は、霊的存在と共にある生活である。ここでの関係性は見えにくいものであるが、やがて姿を現す。ことばは使われないが、やがてことばが生まれてくる。<あなた>は目に見えない。だが、私たちは呼びかけられていることを感じ、それに応える。何かを形作り、思考し、行動する。<私-あなた>という原初語は、私たちの存在そのもので語られるだけであって、そのことばが私たちの唇を震わせることはない。
→神学の議論としては、もちろん第三の領域の議論が一番大切だろうけど、私はとりあえず第二の領域(人間同士の生活)について考えます。具体的には、学習者や患者などを<私-それ>の関係で捉える研究法(仮に「三人称的アプローチ」と名づけます。あるいは「非人称的アプローチ」の方がいいのでしょうか)と、彼・彼女らをあくまでも<私-あなた>の関係で捉える研究法(「二人称的アプローチ」)についてです。
関連記事
実践に対する一人称的関わり、二人称的関わり、そして三人称的知見
河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
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もし私がある人に、私にとっての<あなた>として出会い、その人に<私-あなた>という原初語を使ったなら、その人は、その他のさまざまな対象の中にある一つの対象ではない。その人は[たとえば細胞といった]さまざまな対象から構成されている一つの対象でもない。
→<あなた>とは、その存在と<私>の関係から、すべてのものが関係づけられていくような端緒であるので、「その他大勢の中の一つ」でも「その他大勢のものから構成されている一つ」でもないと解釈しました。
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<私-あなた>という原初語は、あらゆる存在と共にしか語られない。あらゆる存在に近づきそれと融け合うことは、私が自分の意志で行えることではないが、かといってそれが私抜きで起こるわけでもない。それは、私は<あなた>との関係性の中で生じる。私が<あなた>と呼びかけるときに、私は<私>になる。
→誰かをかけがえのない<あなた>と呼ぶことから、すべての存在が私にとって意味深いものとなる可能性が始まるが、これは私一人の意志で一方的に生じることではなく、<私-あなた>の関係性、すなわち私があなたを「あなた」と呼び、あなたが私を「あなた」と呼ぶ同時相互的な関係性から生じると解釈した。
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関係性は相互的である。私にとっての<あなた>は私を動かすし、私もその<あなた>を動かす。
→「動かす」は
“affect” の苦し紛れの訳語。 ダマシオや彼がしばしば引用するスピノザ(の英訳)においては、“Affect” は名詞なら “emotion” (情動)と “feeling” (感情)を総括する語であり、動詞なら“emotion” (情動)や
“feeling” (感情)を通じて人に影響を与えることを表す語として使われているように思えるので、ここでは「情動」の一文字を使って「動かす」と訳した。しかし、もともとのドイツ語を知りたいです。
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関係性が尽きたり単なる手段に取って代わられたりしたら、<あなた>もその他の対象と同じような単なる一つの対象になってしまう。もっとも重要な対象であり続けるかもしれないが、それでもその他の対象と同じく、ある一定の大きさをもち、ある一定の限界のもとにある対象にすぎなくなる。
→世間にこのような例はいくらでもありますから、私がここでいちいち解説を加える必要もないでしょう(笑)。
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子どもが最初にある対象を知覚して、それから、それと何らかの関係性に入るというのは正しくない。最初にあるのは、関係性を作り上げる試みである。子どもは、目の前に現れたものを手元に抱こうとして手を差し伸ばす。次に、関係性が現実のものとなる。ここでは<あなた>という語が、ことば抜きに、言語形式以前の形で発せられる。その<あなた>が対象化されるのは、<私>が対象化されるのと同様に、後のこととなる。この出会いの経験が分析され、<私-あなた>というつながりが二つに分かれた後のことである。
→たしかに、あるものとの関係性とは最初から身体的・情動的に成立しているものであり、それからそれの知覚そして命名が始めると考える方が自然であるように思える(私たちが子どものような世界との出会い方を忘れていない限りではあるが)。もちろん、その関係性はその後の相互交流によってさまざまに変化発展し、知覚も命名も変わるかもしれないが、生命にとって直接的な関係性が最初にあるというのは私にとってなんとなくわかります。
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人は、<あなた>を通じて<私>になる。人の前に現れるものは来ては去り、関係性にもとづく出来事が生じては消え去る。しかし、その変化の中で、<あなた>とつながっている何か--つまりは<私>--は変わらず存在する。その<私>の意識は、時が経つにつれ明確にそして強くなる。
→この論証もよく聞きます。さまざまなものとの出会いの中から私が生じるのであって、私がまず存在してからその他のものに遭遇するのではないという論法です。ちなみに「<私>は変わらず存在する」とありますが、これは「<私>という枠組みは変わらず存在する」ぐらいの意味であって、<私>(という枠組み)において経験されることは瞬間ごとに変化しているといえるでしょう。それなのに「『本当の私』とは何?」とか問い始めるからややこしくなる(笑)。
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<私-それ>の原初語で<私>を意識した人は、対象の前に立つことはあっても、その対象と互いにやり取りをする流れの中に入ることはない。その人は、時に拡大鏡をもちだして覗き込んでは、細かなことを観察し、それらを対象化する。時に双眼鏡をもちだして遠くから観察し、対象を一つの遠景として片付ける。観察する中で、その人は対象を自分から引き離し、その対象と二人きりである感情をもつことはない。その二人は他のあらゆる存在とつながっているという感情をもつこともない。二人きりであるという感情は関係性の中でしか覚えることができないし、あらゆる存在とつながっているという感情も関係性を通じてしか覚えることができない。
→こういった態度が、私が「三人称的アプローチ・非人称的アプローチ」という用語で表したい態度です。観察し分類はするけれど、その対象と観察者は隔絶され、そこに人格的な関係はありません。
ちなみに「その対象と二人きりである感情」は
“feeling of exclusiveness”、「あらゆる存在とつながっているという感情」は “feeling of universality” の訳ですが、これらは「おそらくこういう意味ではないか・・・」という私の単なる推測に基づく訳にすぎません。ドイツ語を参照したいところですが、ドイツ語でも同じような抽象表現かもしれません。
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人間にとって、世界は二層化している。これは、人間が取る二つの態度から生じている。
[<私-それ>という一つの態度においては、]人は自分の周りに存在しているものを、単に対象として、対象という存在として知覚する。また自分の周りで起こることを、単に出来事として、出来事でしかない行為として知覚する。対象は特性によって構成され、出来事は瞬間によって構成される。対象は場所に、出来事は時間に存在する。対象も出来事もそのほかの対象や出来事によって区別されるだけであり、その他の対象や出来事によって測定され比較される。その人は、秩序づけられてはいるが自分とは切り離された世界を知覚する。だが、この世界は、濃度と持続性をもった、いくぶん信頼できる世界ではある。この世界の構成は、何度も調査して明るみに出すことができる。目をつぶれば見えないが、目を開ければ検証することができる。あなたが望むなら、このようにして世界を傍観し自分の魂を閉ざすこともできるが、そうすれば、この世界は常にそこにあり触れようと思えば触れることもできるものとなる。世界はあなたの対象であり、あなたが望む限り、対象であるにすぎない。あなたの心の中でも心の外でも、世界はあなたにとっての他人であり続ける。あなたはそれを知覚し、それを「真理」として認識する。世界もその認識を許す。だが世界が自らをあなたに明け渡すことはない。(中略)
→<それ>で構成されている世界はそれなりに「信頼できる」 (reliable) 世界であるというのは、テスト理論での「信頼性」
(reliability) と同じ意味だと解釈しました。つまり、「誰が測っても同じ」ぐらいの意味です。それはしばしば「真理」と呼ばれますが、それがあなたに世界の意味を伝えてくれることはない--世界についての情報を伝えることはあっても--ぐらいに私は解釈しています。
もしくは、[<私-あなた>という]もう一つの態度を取り、人は、存在するものに出会うこともできる。その存在するものは、その人の前に現れるまさに唯一の存在であり、その他の対象のどれもまさに存在している。存在するものは、それがその存在を発展させる中でその人にとってその存在を明らかにし、その発展が唯一無二の発展としてその人を動かす。その人にとって、その一つの存在以外には何も現れていないが、しかしその一つの存在は、その内にすべての世界をあなたに示す。測定や比較は消え去る。この測定不可能なものがどれぐらいあなたにとっての現実となるかはあなたの内にある問題となる。これらの出会いを合計したら世界が構成されるわけではないが、これら一つひとつの出会いは世界が秩序にみちていることを示す。これらの出会いはすべて互いに連結してはいるわけではないが、どの出会いもあなたが世界と連帯していることを納得させてくれる。しかし、このようにしてあなたのもとに現れる世界は信頼おけるものではない。というのも、それは常に新たな現れ方をするからである。この世界をことばにつなぎとめることはできない。この世界に固有の濃度はない。なぜならこの世界は他のすべてのものに浸透しているからである。この世界に一定の持続性はない。なぜならそれは呼ばれていないときに現れ、手元に固く抱いているときに消え去るからである。この世界を調査することはできない。もしあなたがこの世界を調査可能だと思うなら、あなたはそれを失うであろう。
→他ならぬ<私>にとっての唯一無二の<あなた>を通じて、他の存在者・存在物も<私>に関係づけられて意味ある存在になってゆく。そんな<あなた>は、「その内にすべての世界をあなたに示す」というのは
“it implicates the whole world” の訳。この訳をするときに思い浮かべていたのは、アーシュラ・レ・グヴィンの以下のことばです。
Science describes accurately from outside, poetry describes
accurately from inside. Science explicates, poetry implicates. Both celebrate
what they describe.
→比較はもちろんのこと測定も、ある対象を単位となる他の対象と比較することですから、唯一無二の<あなた>は測定不可能なものになります。その現実性は、<あなた>と関係づけられた<私>が理解するのみであり、第三者が「客観的」に理解するものではなくなります。人文学的には、あるいは日常的には当たり前のことだと思うのですが、私たちは仕事に追われる荒んだ毎日の中でこの感覚を忘れ、「結果は数字で表しなさい」という命令を受け入れ、やがては「数字に表せないものは結果ではない」とまで思うようになってしまいます。
関連記事
Robert Crease (2011) World in the balanceのエピローグの抄訳
Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring
culture)」の抄訳
Measurement and Its Discontentsの翻訳
創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
→<私>がさまざまな<あなた>と出会いながら世界を発見していく過程は、世界をもれなく体系的に記述するやり方ではありませんし、それらの<あなた>の関係性も少なくとも当初は明らかではないかもしれませんが、どの<あなた>の出会いも<私>と世界のつながりを示してくれるものです。
→このようにして<私>に現れてくる世界は、誰が見ても同じという意味で「信頼がおける」ものではない。それどころかこの世界は<私>にとっても常に区分・同定可能なものではない。この世界を「客観的」に描き尽くすことはできない。
***
<それ>の世界は[物理的な]時間と空間の文脈の中に設定される。
<あなた>の世界はそのどちらの文脈の中にも設定されない。
関係性が尽きた<あなた>は、必ず<それ>となってしまう。
関係性の中に入ってくる<それ>は、<あなた>になるかもしれない。
→<あなた>との関係性が断たれたときに<あなた>は必ず<それ>となるが、<それ>と関係性をもちはじめたとしてもそれが<あなた>になるかどうかはわからないというところには明らかな非対称性が示されています。
***
以上で私の思考の整理のためのノートをとりあえず終わります。
いつもながらおそまつ。