2014年2月27日木曜日

3月15日(土)言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」

以下、お知らせです。

3月15日(土)言語文化教育研究会 研究集会シンポジウム
大会テーマ:実践研究の新しい地平(早稲田大学11号館)

シンポジウムテーマ:言語教育の目的と実践研究
難波博孝(広島大学)国語教育
柳瀬陽介(広島大学)英語教育
塩谷奈緒子(東京電機大学)日本語教育
細川英雄(早稲田大学)言語文化教育 コーディネート・司会





シンポジウム開催趣旨 
細川英雄
(言語文化教育研究所、早稲田大学)

このシンポジウムでは、言語教育の目的と実践研究の関係について討論する。
2013年10月27日(日)に第125回全国大学国語教育学会(広島大学)で行われたラウンドテーブル「言語教育と生きること」の議論において、言語教育の目的とは何かという課題に到達した。

*言語教育(英語、国語、日本語教育)のめざすものは?
・これまでの言語教育で失われたものを取り戻すため?
・生きる主体性を取り戻すため?
・生き延びるため?
・救いのため?
・「ことばの市民」として生きるため?
(当日の発表レジュメより)

このシンポジウムでは、この課題をさらに進展させ、それぞれの言語教育の目的と実践研究の関係について議論を展開したい。

まずそれぞれの立場から話題提供をいただき、討論の場を形成する。国語・英語・日本語の教育世界で、それぞれに行われている実践研究について紹介いただくとともに、その実践研究が言語教育の目的とどのような関係にあるかについて、これからの言語教育の方向性を視野に入れつつ考えていく。

そのうえで、今後の言語教育のあるべき方向性について、それぞれの立場からの提言をいただき、言語教育学としての未来像を構築したい。




生きることについて考える、生きる活動としての日本語教育実践研究

塩谷 奈緒子
(東京電機大学)

1.日本語教育界における実践研究

日本語教育界において実践研究への本格的な取り組みが始まったのは1990年代のことである。しかし、未だ教育実践と直接関わる研究は少なく、実践と研究は切り離されたものとして扱われることが多い。あるいは、教育実践を扱ったように見える研究でも、そこでは既成の「理論の実践化」や「実践の典型化」(佐藤, 1998)、「関連する科学理論の試行」(石黒, 2004)等が行われていることも多い。そして、これらの背後には、個体能力主義的な学習観や、応用・効率主義的な教育観が潜んでいると言える。


2.実践研究の捉え直し

2-1.「考え方」としての実践研究

 このような中、細川(2010)は、実践=研究という立場を打ち出し、実践研究とは「教育活動の設計・実施・振り返りのプロセス」を作り、「自らの教室設計とその設計を支える教育観」を問い直し、「教育を社会にひらく」行為であると述べる。また、舘岡(2010)は、それは「一連の動きの繰り返しの中で、ある程度、普遍的な「理論(原則)を生成」していくことでもあり、「現場で起きていることを解釈したり理解したりするプロセスそのもの」でもあると言う。もっとも、これらは実践研究の「考え方」であるため、それを具体的にどう捉え、どう構築するかは、一人一人の実践研究者の課題となる。

2-2.私にとっての実践研究

まず、私は教育実践を、日常的な生活実践と同じく、様々な人や物や概念等の人工物
(コール, 2002, p.168)に媒介され、それらと活動主体が相互作用、相互行為をする過程で生じる動的で関係的で全体的な現象/活動システム―それ自体が他の社会を包み、包まれる、複雑で豊かな一つの社会―として捉える(塩谷, 2008)。

次に、私にとっての実践研究は、以下のような様々な事項を様々な人との間で考え、行動していく一連の営みである:自分はどんな思想や価値観(言語・文化・社会・学習・教育・世界・人間・自己観等)を持ち、なぜ日本語教育を行うのか(日本語教育観、日本語教育の目的、問題意識等);自分が関わる個々の実践とそれを取り巻く社会状況(実践参加者、使用可能なリソース、共に実践する教員、その他教職員、教育機関、さらにそれらをまた取り巻く社会等)をどう捉え、自分の日本語教育の目的との関係性において、それぞれの実践をどう設計(実践の目標設定および人工物の構築)するのか;自分がそれぞれの実践にどう参加し(相互行為)、それを参加者たちとどう作り、作りかえていくのか(人工物・相互行為の再構築);上記の一連の考えと行動をどう辿り、解釈し直すのか(授業記録の確認/録音データの文字化・分析/開示・議論等);振り返りの結果をどう次の/他の実践に還元するのか。

これらの営みは、教室内外を問わず、実践参加者や他の日本語教師、その他教職員や友人知人、見知らぬ人(研究論文講読や情報検索等)等、様々な人との間で行われる。そして、これらは、上記の個々の営みやプロセス全体、また、自分の実践や実践を取り巻く社会や他者や自分自身への見方、働きかけ方を変え、その結果、自分自身や相手・対象も変わっていく。そして、この試みを繰り返し行うことによって、個々の問題および教育実践そのものがより「全体性」、「具体性」(茂呂,2003, p.37-42)を帯びたものとして再構成されていく。


3.実践研究と日本語教育の目的

私にとっての実践研究とは、実践研究者として、人として、他者との対話を通して、教育実践や参加者について考え、日本語学習や教育や教師について考え、言語や文化や社会について考え、ひいては、人間について、世界について、自分について、生きることについて考える日々の営みである。それは同時に、実践研究者として、人として、言葉を介して他者と共に、教育実践やその他の日常実践を生き、それらを作り、言葉や文化や社会を作り、自己を作り、作りかえていく日常の生きる営みである。同じことは、私が行う日本語教育でもなされるし(そこでは、学習者が他者との対話を通して他者や世界や自分や生きることについて考え、言葉を介して他者と社会を作り共に生きる経験ができるよう、教育実践環境を作る)、教師養成のための教育実践(塩谷, 2013)でも同じである。

日本語教師がそれぞれの豊かな経験をもとに、日本語教育と自分との関係(私はなぜこの教育実践を行うのか、私は日本語教育で何がしたいのか)、ひいては、それらを行う自分(私はどのように生きていきたいのか)について考え、自立的かつ協働的に、自由にしかし責任を持って実践研究を行っていくなら、より豊かな教室社会、教育機関社会、日本語教育の世界がひらけるのではないかと私は思う。





人間と言語の全体性を回復するための実践研究

柳瀬陽介
(広島大学)

 教育の目的が人と社会の成長である(デューイ)ことからするならば、言語教育の目的とは、言語を通じて人と社会の成長を図ることになる。ここで、言語とは、人の「からだ」(非意識・無意識)、「こころ」(中核意識)、「あたま」(拡張意識)の間をつなぎ、さらに人間を外界の人や物にも内界の人や物にもつなぐ媒体であると考える [下図参照]と、言語教育とは、言語により、人の「からだ」「こころ」「あたま」をつなぎ、外界と内界の人や物ともつなぐことによって、人と社会の成長を十全なものにすることを目指すべきとなる。








 ダマシオなどの論によれば言語の基盤は、「からだ」(非意識)の情動 (emotion) が、「こころ」(中核意識)で感情 (feeling) として感知されることである。その情動・感情に、他者とのコミュニケーションから言語の表現が与えられる。「あたま」(拡張意識)は、習得した言語を整理し、言語コミュニケーションの可能性を広げる。

 さらに言語は、人間が自らの外部に知覚する物理対象の外界についてだけでなく、自らの内部にイメージとして知覚する内界についても用いられる。言語は、現時点の外界の物理対象だけではなく、内界で自由に想像される現在・過去・未来の可能的対象に対しても表現をもち、なおかつその表現が統語的組み合わせと比喩的組み合わせを経て創造的に文が生成される。人間が知覚する世界は物理世界よりもはるかに多元的で豊かなものになる。

 ところが、資本主義的発想と合理主義に基づく現代社会の中で、マークシート試験といった正解を一つに収束する制度が言語教育の基盤となることにより、「からだ」と内界が抑圧されがちになる。資本主義的発想は質を捨象し量を基盤とする思考法であるが、合理主義はさらに「割り切れないこと」 (the irrational) 、つまりは数字や言語で画定しきれないことを考察の外に置く。「からだ」の情動は、一元的に言語化しがたいもので、繊細で多義的な言語で表現せざるを得ないが、そういった「割り切れない」表現は、マークシート試験得点をものさしとする現代の言語教育では軽視される。内界の自由な知覚対象は、外界の物理的知覚対象と異なり、第三者的同定が困難なものであるが、それがゆえに「客観的な」採点には適しないとして打ち捨てられる。今や資本主義的競争のために合理的に執行される言語教育は、人間と言語の全体性を損ない、その歪みを維持・増長し、人間を抑圧しかねない制度となりつつあるのかもしれない。

 この抑圧は学習者だけでなく、教師にまで及ぶ。言語教育の実践研究は、この抑圧による歪みから回復するため、「あたま」と外界だけに関する実証主義的な言説だけでなく、「からだ」と内界も重視する言説をも目指さなければならない。本発表では、過去の実際の実践研究から、「からだ」と内界を重視した事例を紹介し、人間と言語の全体性を回復するための実践研究がどうあるべきかを考察する。





臨床国語教育への誘い

難波博孝
(広島大学)

 私は、「臨床国語教育」の実践と研究を行っていました。最近、細川英雄先生のお仕事を知り、日本語教育で同じような仕事をされていることを知り、かなり感激しています。まずは、自分が考えている「臨床国語教育」について、以前書いた文章を紹介することで、その導入としたいと考えます。以下は、難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社「はじめに」の一部です。

 「国語教育」は変わった領域だと思う。教科教育、つまり、学校のさまざまな教科の教育について考え実行する分野の一つを形成する分野が、国語教育には確かにある(この分野を、「国語科教育」ということがある)。

ところが、国語を学ぶ時間は、国語科の授業だけに終わるわけではない。国語科以外の教科の時間も、特別活動でも、総合的な学習の時間でも、学習者は国語を使い新たな言葉を知っている。国語科よりもはるかに多い時間で、学習者は国語を学んでいるのである。となると、「国語教育」は、学校教育全ての活動における、国語を学ぶこと、となる。

ところが、学習者は、学校を出ても、国語 ―もうこの語は学校を出ると変なので「日本語」という語を使うことにする― 日本語をずっと聞き続け、使い続ける。つまり生活の場面で日本語を使って生きている。そこでは学校では学ばない膨大なことを学んでいるだろう。学習者は、生きている限り、日本語の中にいる。つまり、ずっと「国語教育」(論理的には「日本語教育」といった方がいいのだが、この語は第2言語としての日本語の教育に専用使用されているので、再び「国語」の語が戻ってくる)の中で、中に、生きているのである。この位置に立つと、「学習者」という概念が既に拡張されていることがわかる。「学習者」は、第一言語としての日本語を使用する全ての人、ということになる(子どもも、大人も、もちろん教師も)。

「国語教育」を実践することは、生きることとほぼ同義であり、「国語教育」を研究することは、人生を研究することとほぼ同義なのである。しかし、これではあまりに壮大で漠然としてしまう。

そこで、多くの「国語教育」関係者(実践者・研究者)は、大体の場合、国語科に照準を合わせ、国語科の授業実践や授業研究・それに類した研究を行っている。(中略)

けれども、国語教育関係者でも、忘れがちになる。ついつい自分が直面している、国語科、あるいは、その中のさらに狭い部分に限定して、実践したり研究したりしている、と、つい思ってしまう。

忘れないようにしなくてはいけない。教室で授業している学習者と教師の向こうには、国語教室を出て生活している彼らがいることを。だからこそ国語教室を充実させなくてはいけないことを。

私は、「国語教育」が本来持っている、国語科以外の教科・学校場面・そのほか全ての生活場面における国語(日本語)の教育についての実践と考察、という核心を、「国語教育」関係者やその他の関係者が忘れないようにするために、はっきり記銘するために、「臨床」という言葉を、あえて「国語教育」に冠しようと思う。ここの「床」は、したがって、さまざまな国語(日本語)教育の場面全て(例えば子どもが母に叱られるとき、その子どもがテレビを視聴するとき、その子どもが友達と喧嘩するとき・・・・)をも指している。つまり生きている場面全てである。

「臨床国語教育」は、「国語教育」のことである。(後略)


【関連文献】
石黒広昭(2004)「フィールド学としての日本語教育実践研究」『日本語教育』120、pp. 1-12.
コール, M(2002)『文化心理学 発達・認知・活動への文化』(天野清訳)新曜社.
佐藤学(1998)「教師の実践的思考の中の心理学」佐伯胖・宮崎清隆・佐藤学・石黒広昭著『心理学と教育実践の間で』pp.9-56、東京大学出版会.
塩谷奈緒子(2008)『教室文化と日本語教育』明石書店.
     (2013)「11年後の私の言語文化教育―大学院における「言語文化教育研究」の実践から」『言語文化教育研究』11、pp. 13-67.http://gbkk.jpn.org/vol11.html#shioya
舘岡洋子(2010)「【緒言】「実践研究」は何をめざすか」『早稲田日本語教育学』7、pp. i-v.
細川英雄(2010)「実践研究は日本語教育に何をもたらすか」『早稲田日本語教育学』7、pp.69-81.
茂呂雄二(2001)「具体性と実践の抽出」『実践のエスノグラフィ』pp.22-58、金子書房.
難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社




追記

研究会事務局が録画・公開しているシンポジウム記録動画を下に貼り付けておきます。








付記

先日の「C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社」の記事でこのシンポジウムについて言及しましたところ、総合マネジメント事務所 Espace MUSE(http://www.espacemuse.com)代表の名島様より以下のメールをいただきました。私も内容に共感しましたので、その方の同意を得た上で、そのメールの一部をここに転載します



*****
(前略)
現在の日本の教育(者)は、より細分化され、分断され、おかしなことに人生とも乖離している側面が強くあるように思います。

「教育とは根本のところで全人的な関わりであるという思いを私は強くしています。特にさまざまな問題を抱えた児童・生徒・学生は、ある瞬間に、教師にごまかしのない全人的な態度 ―建前や一般論をいったん取り払った上での向き合い― を求めます。ですから、教師は少なくとも時折は深いレベルで、この言語教育という営み、そして人間についての洞察を得る必要があると思っています。」という先生のご意見は、まさにわたくしも思うところです。

私は日仏の文化関連の仕事をしております。

この仕事を通して、たとえフランス語がある程度できる日本人でも「グローバル人材」になかなかなれないのは、日本人に根付いてしまっている深刻で根本的な問題が原因であると考えるようになりました。

それは、日本人のどんな職業の人も往々にそうなのですが、人生に対する個としての姿勢や軸、哲学がないことです。

大卒でも非常に細分化された知識しかなく、国内では”自分には関係ない”と目を閉じてもすんできた問題が、フランスでは個としての意見と行動を求められることにストレスを感じ、またそれがなかなかできない日本人は多くいます。

政治、芸術、語学、歴史、科学、宗教、文化といった様々なテーマは、フランスではあくまで人間のためにあるのであり、個々人が自己を実現するために各自しっかりと学んでいます。

学問のための学問、政治家のための政治、といった分離は、フランスにおいて教育を受けた人材になればなるほど、自身の生に関わるテーマを切り捨てて発言する人物、人生と乖離して専門にとじこもる人物が信用されるのは難しいでしょう。

日本人ではこうした態度が教育を受けた者の中にもかなり見られること、そしてこの人生観や認識の仕方は、外国に行った日本人が単に辞書のように語学が脳内で変換できるようになるだけでは通用しない問題であることを、あまり日本の教育者が認識していないように思っておりましたので非常に憂慮しておりました。

このため、柳瀬先生をはじめとする先生方のみなさまのシンポジウムの趣旨を読み、共感した次第です。

Albert Jacquardというフランスの集団遺伝学の学者は、「教育の最終目的は“邂逅の知恵”を学生に授けることであることを決して忘れてはいけない」と言っております。

Jacquardのいう“邂逅の知恵”とは、“生きることの支えになるような感動的な(人に限らず本や芸術等も含めた)出会い”につながる知恵・知識です。

「感動」というと情動の問題、「出会い」というと運命論的な問題のように考えられがちですが、生きる支えとなり、力となるような感動的な出会いを個人が内部に落とし込むためには、世界を認識するための基礎を養う教育、それにより脳内に構成される豊かな世界観・人生観、世界への幅広い理解が必要不可欠です。本当の意味での感動的な出会いは、必ずしも即席で感じ取れるものばかりではないと考えます。IQを高める教育よりも、個人主体にとって生きる力となる教育は、私の理想とする教育のあり方です。

認識の枠をわざわざ狭めるような日本の教育の在り方は、最近の国内の政治および社会を見ていると如実に悪影響が出ていることを感じます。

政府主導の怪しい雰囲気になってきているにもかかわらず、それを止めるジャーナリスト、インテリ、そして国民が不在しています。

結局、各自が「考える力」をつけるような真の教育が日本の学校及び家庭でなされなかった結果であると言わざるを得ないと考えております。

非人間的行為を各自が見極め判断できるようになること、そしてそれに断固闘う意思をもつこと、日本が民主主義の国家でありたいならば、これらを各自が当たり前のようにできるようにならなければならず、これは教育の重要な役割であると考えます。

現在、私は自分の理想とする教育を実現したく、自分たちのグループでやれることをやっていこう、発信していこうとプロジェクトを考えているところです。

柳瀬先生は哲学を愛されているからでしょうか、思想に非常にフランスの風も感じました。

フランスはじめ欧州の学者は、19世紀末の量子力学の誕生による衝撃が日本よりも強かったのでしょうか、ニューサイエンスは行き詰ったと昨今言われているものの、日本に比べるとはるかにホーリスティックな思想で科学に取り組んでいる人々が多いようです。

何よりも、職業のためや肩書きのためではなく、「好きで好きで仕方がない」、「このテーマは自分の人生の必然だ」という感じで研究に励んでいる学者がフランスには多くおり、そうした人との出会いによって私も感動し、学び始めた学問も多くあります。

たまにブログから伺える柳瀬先生のご苦労は、きっとフランスのような雰囲気があるならば もっと気持ちよく進められるだろうなぁと勝手ながら考えたりもしておりました。

*****

第一回柳瀬ゼミ合同合宿を開催しました。




2014年2月22日(土曜)- 23日(日曜)に休暇村 帝釈峡、私のゼミとしては初めての合同合宿(学部3年生から修士課程2年までに、卒業生の一人も加わっての参加)を行いました。皆さんも予想以上に楽しんでくれましたし、私も本当に楽しかったです。発案・企画・運営などにかかわってくれたゼミ生、参加してくれたゼミ生ありがとうございます。何人かのゼミ生は所用で参加できませんでしたが、楽しかったので、ぜひ次はご参加ください。

合宿行事の中心は、参加者それぞれによる「自分が好きなこと」に関するプレゼンテーションです(質疑応答を入れて30分)。これは全員、時間が足りなくなるぐらい面白いものでした。やはり人は自分が好きなことについては喜びをもって語れます。そうなると聴衆も、仮に話題の一部が専門的すぎてわかりにくいところがあったとしても、どんどん引き込まれてゆきます。とにかく楽しかったです。

話題は多岐にわたりました。「ワイン」「写真」「スラムダンク(漫画)」「指輪物語(小説)」「コーヒー」「リーガルハイ(TVドラマ)」「ギター奏法」「麻雀」「バドミントン」「岡山県」「オーケストラ」です(ゼミに入ったばかりの3年生は自己紹介でしたが、これもかなり面白かった)。どれも独自の感性の働きや知的分析があり、おざなりなものは一つもありませんでした。

私は特別に時間をいただきまして、第一日目の最初の二時間で、私がシンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」(2014/3/9 早稲田大学)で話す予定の内容を、ワークショップ形式でペア討議・意見共有・討論なども加えながらお話しました。

二日目の最後の二時間では、「『もののけ姫』のユング的解釈」をこれまたワークショップ形式でお話しました(この話の内容は、いつか英語教育研究系以外の媒体に書ければと思っていますが、どうなるかわかりません。発表ではスライドももちろん使いましたが、ここでは公開しません。自分にとって大切な話を中途半端な形では示したくありませんので)。

このお話は、私がこれまで行ってきた講演の中でも一番自分では意義深く感じられたものでした(もっとも私の心に忠実な話でした)。これをゼミ生がとても熱心に聞いてくれたのは私にとっての心からの喜びでした。合宿からは三台の車に分乗して帰ったのですが、一台の車の中ではiPodで映画『もののけ姫』を再生しながら帰ったそうです(もちろん前方座席の人は音を聞くだけだったのですが)。大学到着前に、名残惜しくなってみんなで大学近くの中華料理屋で夕食を一緒にすることになったのですが、その車が中華料理屋にまさに到着する時に映画は終わったそうです。私はこういった意義深い偶然を大切に思います。

もちろん、合宿では座ってばかりいたわけでなく、一日目の夕方には、体育館企画があり、ドッジボールなどのレクリエーションを楽しみました。また、夜はトランプを楽しみました(ウィンクキラーは特に楽しかった!)。

二日目のお楽しみ企画は「貿易ゲーム」でしたが、これもみんな本気になって楽しみました。

なぜこれほど楽しかったかと私なりに振り返ってみますと、ゼミ生も私もみんな自分らしさを素直に出せたからかとも思います。もちろんそれと表裏一体になっているのは、みんながお互いの個性を自然に受け入れることができたことです。

自分が自分らしくあることを他人が自然に受け止めてくれたら、心が静かな喜びに満たされ、何をやっても楽しくなります。そして自分とは違う他人の個性がとても魅力的で大切なものに感じられます。そんな時空は本当にかけがえのないものです。そんな時空でお互いが素直に自分の素顔を出しあえて、お互いをより自然に受け入れられて、お互いの個性がどんどん発揮できたのは本当によかったです。

来年もまたやろうということになりました。これから楽しみです。改めてゼミ生の皆さんに感謝します。











付記

私はご存知の方も多いように仕事中毒人間で、その依存症からなかなか脱することができないのですが、ゼミ生による今回の合宿は、私にそこからの解放のドアを開けてくれたのかもしれません。学生を助けるのが教師のはずなのですが、実は教師は学生に助けられているということを痛感します。



追記

私のゼミ生が撮ってくれた写真の一枚です。感謝。














2014年2月24日月曜日

シンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」(2014/3/9 早稲田大学)予稿の公開



3月9日(日)に行われる「言語教育エキスポ2014」(案内(PDF))で、「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」 (9:00-10:30) というシンポジウムに登壇させていただきます。ここではそのシンポジウムの趣旨と、各登壇者の予稿を紹介させていただきます(予稿は発表順に並べます)。

私は現代日本の(英語)教育界では、もっともっと文学や芸術そして広く身体の重要性を訴えるべきだと考えていますので、今後はこういった企画には積極的に参加しようと思っております。

なおこのシンポジウムは2013年5月25日に日本英文学会で行ったシンポジウム(「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか )の流れをくむものであることを申し添えておきます(そのシンポジウムの報告と資料掲載はこちらをクリック)。





シンポジウム全体趣旨


今日英語 教育では実用技能の向上を目指した授業が多いが,高校生,大学生に,人生や人間の真実を思考させなくてよいのだろうか。そこで文学教材の意義を問い直したい。文学教材の扱い方次第では,英語の技能向上にも寄与しつつ,学習者が自己拡大を感じることで積極的な学習姿勢の構築,動機づけ,が可能になるのではないか。これらの点を中心に,高校,大学での実践,英文学,英語教育の連携,を探るべく五人の論者で発表を行う。





文学的な「声」の力で「からだ」と内界を取り戻す
―からだ・こころ・あたま と 外界・内界をつなぐことば―
柳瀬陽介 (広島大学)


要旨:ことばは、人間の「からだ」(非意識・無意識)、「こころ」(中核意識)、「あたま」(拡張意識)の間をつなぎ、さらに人間を外界にも内界にもつなぐ媒体である。だが、資本主義的発想が支配的な現代社会では、「からだ」と内的世界は抑圧されがちである。言語教育は、からだにも内界にもことばの通路を拓く必要がある。広義の文学的教材(歌)を実際の「声」で学習者の「からだ」にも直接訴えかける授業を本発表は提案する。

キーワード:身体論、意識論、歌の使用、マルクス、ユング、ダマシオ、エンデ



1 近代社会とは
近代社会を根底的に規定しているのはやはり資本主義的生活様式であろうが、そこでは「質」が軽視され万事が「量」で測られようとする(マルクス)。加えて西洋合理主義(「客観主義」)は、人間の「割り切れない」 (irrational) 部分を切り捨て、可視的・可触的で数量化可能な外界ばかりに人間の目を向けさせる。結果、人間の内界(異なる現実の想像・過去想起・未来空想など)は社会に抑圧される(ユング)。学校もますますグローバル資本主義体制への対応のための準備機関とみなされている。不登校・無気力や、いじめあるいは親による虐待なども近代社会の歪みの忠実な反映なのかもしれない。

2 英語教育の課題
そういった現状を踏まえ、ことばの教育としての英語教育は何をするべきか。まずはことばの本質を再認識しておきたい。ダマシオの神経科学的意識論の枠組(非意識・中核意識・拡張意識)を、日常語に翻訳するなら「からだ」・「こころ」・「あたま」と表現できるだろう。ことばは、「からだ」の内から生まれた情動 (emotion) が感じられ「こころ」となったところに、コミュニケーションを通じて他者から与えられるものである。「あたま」は、そのことばを整理はするものの、ことばの根源は「からだ」であり「こころ」である。人間のことばは、「からだ」・「こころ」・「あたま」をつなぎ、それらの中を自由に行き来することにより十全な働きを示す。

またことばは、エンデの『はてしない物語』が端的に示すように、外界と内界の間の往復を可能にする媒体でもある。エンデにしたがうなら、人間は内界への旅を失った時に活力を失い、外界への帰還を怠った時に生存の可能性を大きく損なう。

だが現代の英語教育は、非意識(無意識)的な「からだ」を抑圧し、身体を単に意識で操作・制御しなければならない対象としてしか捉えない。また「実用英語」の名の下に、外界に関する英語ならおよそ浅薄な内容でも称揚し、内界に関する英語(文学はその典型である)ならどんなに深い内容でも軽視しようとする。英語教育は現代社会の歪みを反映し、「からだ」と内界を抑圧し、英語ということばを「あたま」と外界だけの記号としてしまっている。結果、「こころ」は引き裂かれ、統合的存在としての人間が本来備えているやる気が損なわれてしまう。英語教育は「からだ」と内界を取り戻さなければならない。

3 英語の歌の可能性
本発表では、学習者の「からだ」に直接的に訴えかけ、内界への旅を誘う文学的な内容をもった歌 (Nick Cave and the Bad Seeds Wonderful Life)を使った実践の可能性について提案する。こういった歌は、現代社会の歪みをとりわけ鋭敏に感じている学習者にとってのよい教材となるかもしれない。




歌詞はこちらに掲載されていますが、私としては特に以下の部分を使うつもりです。


Come on, admit it, babe
It's a wonderful life
If you can find it
If you can find it
If you can find it
It's a wonderful life that you bring
Ooh it's a wonderful thing




注:ただし、流れによっては、The BeatlesのShe's leaving homeを題材に使うかもしれません。




その際は、発問例として以下などをあげます。発問のねらいは、イメージを喚起することによって、歌詞をメロディー・伴奏と共に味わうことです。

英語教育実践では歌うことが最後に付け加えられることが多いですが、私は感情を豊かに(そして繊細に)込めて歌うのは難しいと思うので、その時間があれば何度も歌を聞いて、イメージをより具体的に自分の心のなかに浮かべることの方が大切だと思っています。

もし、さらに時間があれば、歌詞を感情を込めて(歌うのではなく)朗読することや、自分で納得できる日本語に翻訳する活動を加えたいと思います。

設問:以下の質問に、あなたの自由なイメージで答えてください(正解はありません)。同時に可能な限り、そのイメージが出てきた基盤(歌詞の他の部分や自分が知っているエピソードなど)も一緒に提示してみてください。
(1) 彼女はどんな表情だろう(どんな女性だろう)。
(2) なぜ “the note that she hoped would say more” を残したのだろう。そこには何と書かれていただろう。
(3) ハンカチの描写からあなたは何を感じるだろうか。
(4) 彼女の両親はどんな人だろう。
(5) 彼女はこれまで家でどんなように暮らしていたのだろう。
(6) 彼女の父親と母親をもっと具体的にイメージしてみよう。
(7) 母親はどのように手紙を読んだのだろう。
(8) 母親はどのように “breaks down” したのだろう。
(9) 父親はどんな対応をしただろう。
(10) この “We”とは誰が言っているのだろうか。( “We”が本当に意味しているのは誰のことだろう)
(11) 金曜の朝、彼女はどんな表情だろう。
(12) 「男」とはどんな男性だろう(信頼できそうだろうか?)
(13) “What we did” “it”とは具体的にどんなことだったのだろう。
(14) 二つの“fun”とは具体的になんだろう。なぜ “joy”ではないのだろう。


参考文献 M.エンデ (1982) 『はてしない物語』岩波書店
A.ダマシオ (2013) 『自己が心にやってくる』早川書房
K.マルクス (2011) 『資本論 第1巻1』日経BP社
C.G.ユング (1987) 『タイプ論』みすず書房


※ 本発表は科研(課題番号24520622)の一部である。

付記:この発表のための関連記事には次のようなものがあります。
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html







高校英語における文学実践
―“ことばと出合う”高校生のための英詩入門講義―
和田玲 (順天中学高等学校(東京)・英語科教諭)

要旨:感動のある学びほど生徒のモチベーションを高めるものはない。教室における感動の引き出し方には様々なやり方があるが、言葉の学びを通じて生徒の心を主体的な学びへと掻き立てる一番の原動力は「知的好奇心」にある。文学教材を用いた実践にはその可能性がある。そこで、高3生のクラスで大学入試問題の解説から英詩を鑑賞する授業を試みた。教室のムードや生徒たちの反応などにも触れながら、一連の指導手順をご紹介したい。

キーワード:  高校、英詩入門,大学入試、知的好奇心、主体的学び、アクティブな授業



1 言葉の教育はこれでいいのか?(問題意識)
私は高校で英語を教えている。近年、高校英語の現場では英語運用能力の向上がしきりに求められている。それに伴い、高校英語の教室は急速にトレーニング重視の授業スタイルが目立つようになり、音読・暗唱・暗写といった機械的なトレーニングが重視されている。また、そこから得られた表現を用いて単元の目的となる表現活動をこなすことができれば、何とか今どきの授業は出来ていると思われがちである。しかし、生徒はそうした授業のあり方に心からのめり込み、これに喜びを感じているのだろうか。ここから自立的学習者は本当に生まれるのだろうか。言葉を学ぶとは、単に「覚えて使う」の機械的な繰り返しであってよいのだろうか。学習者の「モチベーション向上」という点においては疑問を感じない訳にはいかない。また「教育」(生徒の自己拡大)という点においても同様である。

2 知的好奇心を引き出す教材と指導手順(提案
モチベーションの観点からも教育の観点からも有意味な授業をしたいという願いは全ての教師に共通する。一方、生徒の中には、教師から知的好奇心を触発され、発見的な学びへと誘われることを期待している者も少なくない。だが、同時に高校生は現金な存在でもある。従って、なるべく彼らのニーズから逸脱しないやり方で我々が目指すゴールへと手引きする方法を考えなくてはならない。そこで、私はよく高三生には「大学入試問題から世界を拓く」という手法をとる。まずは知的な疑問を見出すことのできる入試問題を導入教材として提示する。そうした良問は意外なほど多くある。そそれらをうまく活用して、生徒の知的好奇心を掻き立てつつ、新たな発見へと導いていくのである。文学との出合いは、彼らにとって発見的学びの一つとなる。

3 高校生のための英詩入門(実践例)
多くの生徒が非常に積極的に取り組んでくれた「英詩の入門講義」の指導手順を簡単に紹介する。
①カミングスの詩を引用した大学入試問題(読解)
②カミングスの詩を読み解く(ディスカッション)
③詩の入門講義(松尾芭蕉と三好達治を使って)
④英詩朗読コンテスト(ブレイクを使って)
⑤英詩読解にチャレンジ(現代詩を使って)
⑥英詩作りにチャレンジ(5行詩の発表)
⑦大阪大学の読解問題にチャレンジ(詩論)


4 まとめ
 生徒は授業中、絶えず【①疑問もち、②興味を持ち、③推論し、④議論し、⑤発見し、⑥チャレンジし、⑦達成する】を繰り返すことで、終始アクティブに取り組んだ。授業後、他の詩も紹介してほしいという者や自分の好きな詩を紹介してくれる者もいた。言葉と出合うことを通じて、世界を拓いた瞬間とも言えよう。

引用・参考文献
奥井潔 (1979) 「ウイリアム・ブレイク:『恋の秘密』について」白山英米文学 No.4 東洋大学文学部紀要第32集
和田玲 (2010)『論理を読み解く英語リーディング』アルク、pp.272-282







学習者を夢中にさせる教材と活動例
―文学教材を用いた総合的リーディング授業実践報告―
関戸冬彦(立教大学全学共通カリキュラム)


要旨:リーディングの授業をより活性化させるためにはどのような方法や要因があるだろうか?教え方,教材,教員自身の個性や魅力,もちろんこれらのどれかひとつと限定できるものではない。しかし,学習者自らが読みたいと思い,かつ読んでいるうちに自分自身のことをも考えることのできる読み物であれば,それは対象言語を学習するといった枠を飛び越え,人生を考えるヒントにもなる。そうした教材を実際の活動例と共にご紹介したい。

キーワード: 文学,リーディング, 学習者, 教材,活動例



1 リーディング授業をめぐって
大学のリーディング授業では通例90分を15回ないし30回行う。オーソドックスなやり方としては大学生向け教科書を選定し,それらを1授業に1ユニットのペースで行い,訳や練習問題などを行い,学期末にテストを行う,で完結するというものであろう。中には多読的要素を取り入れ,リーディングマラソンのような活動と併用している場合もあるかもしれない。いずれにしても,自分が担当している学習者たちがそのリーディング教材に対してどのような思いを抱いているのか,またどれほど積極的に読もうとしているか,学習者の内側から学習を眺めることは,教育に欠かせない重要なポイントである。

2 具体的教材の紹介,提案
 そうした際,どのような教材であれば学習者に積極的な読みを促し,同時に英語に対する感覚を養わせ,ひいては読んでいる最中,あるいは読んだ後に何がしかの反応を心の中に呼び起こせるか,ということを考える必要がある。その一例として,本発表ではアメリカの作家,J.D.サリンジャーが書いたThe Catcher in the Ryeを用いた授業を紹介する。この小説は主人公の少年,ホールデン・コールフィールドの心の葛藤,子どもと大人との狭間で揺れ動く感情を追うといった内容だけに留まらず,ジョン・レノン殺害の犯人の愛読書であったことなど含め,学習者に多方面からの興味と関心を呼び起こす要素を孕んでいる。また,授業で扱うことで最終的には英語の本を最後まで読めたという達成感をも与えることにもなる。

3 実際の活動例 
とはいえ,そこまで至らしめるにはただ読めと本を与えるだけ,もしくは教室にて一文一文あてて訳させるだけ,というやり方では難しい。学習者が途中で挫折しないように,いやむしろ積極的に読むようにするためには活動の上での工夫が不可欠である。本発表では上級者向けの場合と中級者向けの2つの異なるペダゴギーを提案する。具体的な活動内容としては,英語による要約作成,各チャプターに対する質問の作成,またペアワークによる答え合わせ,チェックなど,英語の本を読むだけでなく,読んだ後に言語を駆使する活動を多く取り入れることを基本にしている。つまり,あくまで英語学習の授業であって文学作品を解説するためだけの授業ではないという点を留意しておきたい。なお,この授業は,動機づけ,情緒的発達ならびに英語力向上に有益であることが,学期末に行ったアンケート等から確認できる。

4 まとめ
  文学は人生における日常の身近な問題を題材としている。その身近さゆえに学習者は共感し,やる気を高め,英語力向上へと繋がっていくのである。

引用・参考文献
Salinger, J.D. (1951) The Catcher in the Rye. New York: Little, Brown.







ペーパーバック・リーディングの導入
―「ティーン向け小説」を素材にした教育実践とその可能性について―
中垣恒太郎(大東文化大学)


要旨:ティーン向け小説を素材にしたペーパーバック・リーディングの導入により、物語を読み、物語を/について語る楽しみを通して、いかにして多様なスキルを学習者に伝達することが可能であるのだろうか。自立英語学習法としての役割・意義についても意識しつつ、具体的な素材、手法を交えた授業実践の一例を提起することにより、ペーパーバック・リーディングの可能性(と現状の課題)を展望してみたい。

キーワード: ティーン小説、コンテクストを読む力、類推する力、物語る力、検索する力



1 物語を読み、物語を/について語る楽しみ
現在、大学の授業ではGraded Readers と称する、多読用の英語教材の導入が活発になされており、すでに一定の成果を挙げている。こうしたGraded Readersによる多読英語教育の成果を踏まえながら、本報告ではペーパーバックにより、物語を読む楽しさをいかに伝達できるかを具体的に展望してみたい。従来から英語に関心の高い学習者にとって、字幕なしで英語圏の映画を楽しんで鑑賞したい、ペーパーバックにより洋書を楽しんで読めるようになりたい、という願望・目標はよく示され、実際に実践されている。

しかしながら、Graded Readersにより、多読の経験を相当程度、積んできた者であっても、英語圏における一般向けの物語を実際に読みこなすまでには、大きなギャップに戸惑うであることが現状であろう。大学での英語教育の目標は現在、きわめて多様であるが、その一つとしていずれ学校での英語学習から自立して、英語に触れる「自立英語学習法」の道筋を示す役割がある。その中でGraded Readersから一歩進んだ、ペーパーバックによる物語を読む楽しさをいかにして伝達していくことができるかどうかを考えてみたい。本報告では広義の「文学」として「青春小説」を素材とすることを提案する。あるいは、「Graded Readers」から古典的な「文学」作品へと接続する間の段階と捉えてもいいだろう。加えて、アメリカにおいては、「YA(ヤングアダルト)小説/ティーン小説」はティーンネイジャーの文化の中で大きな役割をはたしてきており、十代の学校生活を異文化比較の観点から考察していくことも主要な眼目の一つとなる。

2 そもそも物語を素材とすることの有効性とは?
 これまでにおいても、英語教育に文学の素材を導入することの意義について改めて指摘されてきているように、英語を学習していく上で、物語を読み、物語について語り、さらに自身が物語る上で、ストーリーテリングの手法を通して、物語から多くを学ぶことができる。また、物語がいつ、どのような状況で語られているのかを常に意識することによって、「コンテクストを読む力」を養うことも重要であり、様々に「類推・推測する力」を身に着けていくことも期待される。現在はインターネットによる検索エンジンが発達しているが、「検索するスキル」は意外なほどまでに伴っていないのが現状ではないか。物語を楽しむ上で、有効な固有名詞を検索する勘所をつかむことも、ペーパーバック・リーディングの主要な観点となるだろう。

中でも「YA小説」は大学での学習者にとって身近な素材であり、物語を読み、物語について語り、さらに自らの物語を語る有効な素材となるのではないか。主教材・副教材としての、ワークシートの導入などを含めた実践例(Ann Brashares, The Sisterhood of the Traveling Pants, 2001)などを挙げ、フロアの方々をも交えた情報交換を期待したい。「ティーン・フィルム」と称される映画翻案作品との連動も有効であろう。

参考文献
佐藤まりあ『読みながら英語力がつくやさしい洋書ガイド』(コスモピア、2013)。
水野邦太郎監修『大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!』(アルク、2010)。 
渡辺由佳里『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア、2013)。
『英語教育』「特集・英語教育に文学を」(2004年10月増刊号)。








英語圏文学の使い方
―「生きる喜び」を感じる英語授業―
鈴木章能(甲南女子大学文学部)




1 生きる喜びのない学校生活
ユニセフが調査した「先進国における子どもの幸せ」によると,日本が他国と大きく異なる点が一つある。それは学校の中で存在価値がないといった社会的排除の主観的認識が他国に比べて圧倒的に高い点である。次点の国の約3倍もある。学校は生徒学生にとって生活の大半を過ごす場であるため,彼らの多くは生きる喜びを感じられない人生を送っていることになる。これでは授業も面白くなくなる。学びのモチベーション向上には社会的排除の主観的認識をまず軽減せねばならない。教室の中で他者との関係を生き(言語の役割),互いに共感理解し,個々が自分の存在価値を認識し,生きる喜びを感じられるような授業が必要である。

2 生きる喜びを見出せる教材とタスク
上記の授業の実現には,情緒に訴え,生きる喜びが見出せる人間模様が描かれた,繰り返し読むに足る名文名著を教材にするのが有効であろう。但し,英文を読むことが自己目的化し,読解力を数値化するための事実発問が繰り返されるだけでは読む喜びや読解力自体が低下する。本来,テクストは脱構築で構成されており,その意味で言語は「文学的」なのだから。事実発問と評価・推論発問をバランスよく混ぜ,教室内での交流はもちろん,英文を読むこと自体が他者との関係に生きること,また他者との関係に生きることが社会的排除の主観的認識の軽減となる工夫が必要である。

3 文字通りの「文学」作品を用いた実践例
例えば,Oヘンリーの「賢者の贈り物」を用い,そこに書かれた人間の素晴らしい点を事実発問にし,それを基に,教室内の他者の長所を見つけさせ,英語で褒めあうという頂上タスクを設ける。実際,この授業を行うか否かで学習者の学びに大きな差が出た。行ったクラスでは学習者同士の絆や発表への意欲が強まり,予習率は100%になり,「授業に出ることが楽しい」という回答も全員から得た。その後,サマーセットモームの「政略結婚」を用いると,学習者たちは「幸せとは期待しないこと」というテーゼについて,褒めあった経験を礎に活発な議論をした。また,別の文学作品で人間の愚かさを事実発問にし,推論発問として,愚かな行いをする人を主観的に峻別する代わりに,他者の内的な論理や情緒に沿って考えるというロジャーズ的な共感的理解を行わせると,素直な自己批判も出た。

4 まとめ―生きる喜び・生き直しを起点に
 様々な人間の本音や理想,生き方が書かれた「文学的」英文を読み,他者との関係を生きる頂上タスクを工夫することで社会的排除の主観的認識は軽減され,英語学習のモチベーションが向上すると考えられる。

引用・参考文献
Damasio, A. R. (2005) Descartes’ error: Emotion, reason, and the human brain. NY: Penguin.
De Man, P. (1982) Allegories of reading. NH: Yale UP.
生き方が見える高校英語授業改革プロジェクト(http://www.ecrproject.com).2013.11.18アクセス.
桑村テレサ(近刊)「生き方が見えてくる英語授業―ジャック・ラカンの理論から考える―」『片平』49.
UNICEFイノチェンティ研究所 (2010)「『Report Card 7』研究報告書 先進国における子どもの幸せ―生活と福祉の総合的評価―」国立教育政策研究所・国際研究・協力部.


※本研究はJSPS科研費23531265, 25370672の助成を受けたものである。















2014年2月21日金曜日

信田さよ子 (2013) 『愛情という名の支配 [新装版]』 海竜社




1997年に出版され、その後文庫化もされたが、長く読み継がれているので新装版として再刊された書籍である(文庫版は今は絶版)。著者は、もし今書きなおすとしたら、当時はまだ事情が明らかでなかったDV(ドメスティック・バイオレンス)について説明を加えたいとするが、基本姿勢は変わらないので当時のまま出版したとのこと。実際、読んでも、古臭さはまったく感じられず、この「愛情」あるいは「善意」や「正論」の形を借りた「支配」の問題は、日本社会がもっと意識化しなければならないものだと思わされる。

本書の55-57ページには、本書の特徴の一つであるアダルト・チルドレン(以下、AC)の定義がある。それを、(少し抽象的な言葉でまず表現するなら)いわば関係論的・偶発的・言語行為的に行うことを著者は提唱し、ACを個人帰属的・単純因果論的・他者断定的に行わないことを勧める。

第一の関係論的定義というのは、ACは、他者との関係性の中から生じたものであり、その人の性格や思考といった固有的で変容しがたい要因にACを帰属させないことである。「あの人は、ああいう人だからAC」とACを個人の特徴に帰属させるのではなく、あくまでも人がおかれた人間関係(特に親との関係)の中でACを考えるやり方である。

第二の偶発的定義というのは、親や家族の機能不全をACの一つの(しかし重要な)「起因」と考え、一定の親や家族をもつと必ずACになると単純因果的に考えないことを意味する。人は時に「あの親がACの原因だ」と親を犯人視してしまうが、それだと親を根本的に変容させないとACの苦しい状況は終わらないことになる。だが、実際、親は変わらなくてもその家族のACの状況は変わることが多くの症例で知られている。ゆえに、特定の親や家族関係は、ACという現象を発生させるにいたった起因の一つに過ぎないと考えることができる。もちろん起因の一つといっても、それは重大な起因であったのだが、大切なことは、それはACという結果を因果的に必ず引き起こしてしまう原因ではないので、ACに苦しむ者は、その状態から脱却することが可能であるということだ。

第三の言語行為的というのは、ACをよくあるように一定のチェックリストによって他者が判定したり診断する概念と考えるのではなく、あくまでも当事者(自分)が、そうであるかもしれないと自己認知・自己申告・自己宣言するものと捉えることである。言語行為(speech act)とは、言語を主体的に使いこなすことで新しい社会的現実を創り出すことだが、ここでは自らのAC宣言によって、自分が解放され「自分の中にあった謎が溶け、ジグソーパズルのピースが収まった感覚を持ち、楽になった」(57ページ)と感じることができるようになることがACという概念の適切な使い方だと著者は考えている。

この言語行為は、「べてるの家」の当事者研究でも見られる。従来、さまざまな問題に苦しむ当事者は、専門家(第三者)に「あなたは○○です」と「科学的」な判定を下され、それを自らのアイデンティティとして引き受けるしかなかったが、べてるの家では、そういった専門家の知識を参考にはしつつも、あくまでも当事者(自分)が、当事者を大切に思ってくれる人(いわば第二者)との語り合いの中から主体的に自分のアイデンティティを見出してゆく。「科学的真理」の立場からすれば、「主体性」などというものは「主観性」に過ぎず(実際、英語で表現しようとすると共に"subjectivity"となりかねない)、そんな概念をもちだすのは「非科学的」となるかもしれないが、現実世界の問題が解決する方法をできるだけ丁寧に探りだす試みを仮に学問と称するならば、当事者の主体性を重視することはきわめて学問的な態度である(倫理的であることは言うまでもない)。

以上を踏まえて、著者は「ACは肯定の言葉」、「ACは自分が生きづらいと感じた主観を肯定し、ACと自己認知して楽になったことを肯定するのです」(58ページ)とする。



関連記事
石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
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浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
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浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
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当事者が語るということ
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「べてるの家」関連図書5冊
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綾屋紗月さんの世界
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熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html




本書のもう一つの特徴として私がとらえたのは、本書は萌芽的でしかないものの、評価や理解あるいは正論の暴力性を示唆していることである。

著者は、カウンセリング現場で、周りからの「理解」「期待」「アドバイス」などに支配されて苦しんでいる人々に多く出会う。周りは「善意」や「正論」あるいはこの本のタイトルにも使われている言葉である「愛情」から、「理解」し「期待」し「アドバイス」をしているつもりかもしれないが、当事者にとってはそれは苦しいものであり、当事者はまさに「愛情という名の支配」を受ける。

著者は(きわめて断片的で引用情報もない形ではあるが)ここでフーコーのことばを引く。



それ [=当事者の苦しさ] をよく表しているのが、哲学者ミッシェル・フーコー [表記は原文に従った]の言葉です。

「私たちは評価や正常化する判断が、社会制度の重要な機構としての、司法や拷問にとってかわった社会に生きている」

簡単に言うと、取っつかまえて牢屋に入れたり拷問するのではなく、評価されたり、これは正常化することですよ、と言ってアドバイスしたりすることが、実は拷問とか刑務所に入れられているのと同じ機能を果たしているということです。そういう社会に私たちは生きているということです。

「それは、間断なき視線にさらされた社会なのである」とも書いてあります。誰の視線かというと、他者の私たちを評価して、私たちを支配する人たちの目によって絶えずさらされているということです。 (114-115ページ)




教師という仕事をやっていると、たえず自分は「善意」と「正論」に基づいた「愛情」深い存在と自認し、児童・生徒・学生を「理解」し、「期待」をかけ、「アドバイス」したりする。もちろんそれらの認識や行為がすべて錯誤で邪悪なものであるとまでは言わない。しかし、時にそれらは、そこから外れる児童・生徒・学生を、自らの思うとおりにコントロールし、支配してしまうことにつながりかねないこと、そしてその支配を教師は自覚していないかもしれないことは、恐ろしい可能性ではあるが、その可能性については自己省察が必要だろう。

教師だけでなく、この本の主テーマである親、あるいは上司といった権力者は、やはりフーコーやアドラーについても少しは勉強しておいた方がいいのかもしれない(もちろん、「生兵法は大怪我のもと」ではあるのだが)。











だが、本書で描かれている多くの親、そして一部の教師や上司やその他の権力者は、正論にしがみつく。



その人たちがなぜ正論にしがみつくか。それ以外の軸を知らないからです。それ以外の軸とは何かと言うと、幸せか不幸せか、気持ちがいいか悪いか、呼吸が楽か苦しいか、という軸です。そういう軸をどこか軽視しているところがあります。幸せか不幸せかということを知らないと、正しいか間違っているかという軸にしがみつくことになります(122ページ)




繰り返すようだが、正論や「正しいか間違っているかという軸」が全く不要というのではないだろう。それは社会を動かしている知恵の一つだろう。だが、そればかりが判断基準だというのは怖い。その怖さは正論を声高に伝える権力者にはまったく感じられないが、その権力者に抑圧され支配され苦しむ者は心身で感じている。

「幸せか不幸せか、気持ちがいいか悪いか、呼吸が楽か苦しいか、という軸」、言ってみるなら「からだで感じる軸」を私たちは大切にしなければならない。というより優先すべきはからだで感じる軸だろう。正否の軸は、社会的便宜として形成されてきただけであり、その軸が多くの者を苦しめるのなら、そんな軸は捨ててしまうべきだ。



いろいろな意味で面白い本であった。上の記述は私の悪い癖で小難しい文章になってしまったが、本書の文章はとてもわかりやすいことを最後に付記しておく。














アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター(編) (1997) 『アダルト・チャイルドが自分と向きあう本』『アダルト・チャイルドが人生を変えていく本』アスク・ヒューマン・ケア




私もアダルトチルドレン(アダルトチャイルド、以下、ACと略記)という用語は私も20年以上前から知っていたが、「要は大人になりきれない子どものことでしょ」ぐらいの誤解のままで、最近になるまでその含意を十分に知ることができていなかった。

だが知ってみると、この用語が示そうとしている事象は、思ったよりも広範囲でかつ深いレベルにまで影響を与えているようだ。いくつか本を読んだが、この二冊(以下『向きあう』、『変えていく』と略記)は読みやすく、また、問題を抱える人にとって有効だと思うので、ここに簡単に紹介する。

ACとは、もともとはアメリカで「アルコール依存症の親のもとで育った人」を指していたが、そういった人は子ども時代に、親の深刻な飲酒問題を何とか解決しよう、あるいは解決できないまでも何とか緊張を和らげようと必死の努力をする。中には自分が問題行動を起こしたり病気になったりして家族の関心をそちらに移し、無意識のうちに家庭の崩壊を食い止めようとする子どももいる。だが、いずれにせよ共通しているのは、親からの安定した愛情を得ることができず、「愛されたい」、「見捨てられたくない」という気持ちを強くもちながらもそれを心身の深いレベルで抑圧しているということだ(『向きあう』 10-11ページ)。

そういった子どもは、「ありのままの自分」を肯定されたことがほとんどないので、しばしば成人になっても、「自分主体ではなく、他人や周囲を主体とすることで自分を守ろう」とする。そういった生き方を著者は「共依存」と定義する。(『向きあう』 11ページ)

現在、ACはアルコール依存症の親のもとで育った人だけでなく、機能不全家族や、感情を抑圧された家族のもとで育った人たちを広く指すようになっている。(『向きあう』 12ページ)。

また、著者が注意を喚起するのは、日本社会はACと呼ばれてしまうような人を作り出しやすい社会であるということである (『向きあう』 12 ページ)。一つには日本社会では、(いまだ)個人より集団を優先し、その人らしくあることより、集団の中で期待される役割をきちんとこなすことが求められる(これは学校でも会社でもそうだろうし、多くの家庭でもそうかもしれない)。

また、何事もまわりとの比較で評価される社会でもある。この傾向の進行は、近年学校現場で激しく、多くの教師が「評価」をどうすればいいか悩む。なぜなら、近年求められている「評価」は、子どもの発達や特徴の個性記述ではなく、必ずといっていいほど「客観的」な「エビデンス」に基づいた、可能な限り数量化した評価だからだ。子どものあり方をそういった数値に還元してしまい、子どもにも親にも社会にも、その子どもの学びを、他と必ず比較されずにはすまない数値にしてしまうことに、子どもの様子をよく理解している教師ほど抵抗を覚える。だが制度化された社会的圧力は強く、子どもは子ども時代を通じて、数値で評価され続ける(私は評価と権力(の付与と剥奪)の関係についてしっかり考えたいが、その考察は他日に任せたい)。

さらに、日本文化は怒りや悲しみをあからさまに表現することを抑えることが社会的に要求されている。逆にいうなら、ハグなどの親愛の情の表現もいまだ少ない。

こういった状況では、ACと言うべき人は少なくないと著者は考えている。

だが「AC」とは汚名でも烙印でもない。「ACは病名ではありません。人格的な欠陥でもありません」(『向きあう』 13ページ)と著者は明言する。

ACとは、他人や自分という人間を都合よく決め付け、巧みに排除・否定する(他人の排除なら差別やいじめ、自分自身の否定なら自己疎外)ために使われる(べき)名称ではない。

ACという用語が広まるにつれ、誤解が生じていることを著者は懸念する。ACは親の子育ての不備を告発することばではなく、親や周囲の問題から自分自身の生き方へと視点を移すキーワードであると著者は訴える(『変えていく』 138ページ)。

私たちが過去をふりかえるのは、
親や家族を断罪するためではありません。
自分をあわれむためでもありません。
過去を書きかえるためでもありません。

私たちが過去をふりかえるのは、
自分を縛っている鎖がどこにつながるのかを
見つけだすためです。
そして、大人になった自分はもう、
その親に縛られる必要はないということを
知るためです。
(『向きあう』 26-27ページ)


かくして、これらの本は、自分が苦しくても周囲の期待どおり走り続ける人、誰かに素直な気持ちを伝えることができない人、リラックスして人生を楽しむことができない人(『向きあう』 13ページ)、―そして、それらの特徴に加えて、不全な子ども時代を送ったという特徴をもった人に対して書かれている。

とはいえ、おそらくACに該当し、明らかに苦しんでいる人は、自らがACであるかもしれないことを時に頑なに否認する。自分の家族に問題があったかもしれないことを意固地なほどに否定する。その背景には、ACを生み出す家庭にはしばしば


話すな
信頼するな
感じるな


という不文律があるからだ(『向きあう』 41ページ)

「家族の問題を、他人はおろか、家族内でも語ってはいけない(なぜなら、語り始めると問題が明らかに露呈してしまうから)」、「家族以外の他人は信頼できない(なぜなら、もっとも身近なはずの家族の言動でさえ信頼できないのだから)」、「悲しみや怒りなどの感情を抱いてはいけない(なぜなら、誰もそういった感情を受け止めてくれず、それどころか、しばしばそういった感情はあからさまに否定され嘲笑されるから)」、というのはACを生み出してしまう家族で無意識のうちに形成されるルールであり、ACに該当する人は、成人後もそのルールに従ってしまい、自分自身に対しても、他人に対してもなかなか率直・素直になれない。

しかしそういった人も、率直に過去に向き合い、自らの再生を果たすことができると著者は多くの臨床的経験から確信し、この二冊の本を上梓している。著者は、『向きあう』を先に読んでから、『変えていく』に進むことを推奨している(後者だけでは、下手をするとそれが「よくあるアドバイス」にしか聞こえなくなるかもしれない)。

前者の『向きあう』もただ読めばいいというのではなく、必要を感じれば、時に読み進めることを中断したり、信頼できる親友やカウンセラーと語り合ったりしながら、ゆっくりと読むべきだと、著者はこれまた数々の臨床経験から勧める(言い忘れていたが、著者は「アスク・ヒューマン・ケア研修相談センター」である。ただし私はこのセンターについてこれ以上の知識はない)。



ASK Human Care inc.
http://www.a-h-c.jp/




大切なことは、読書に伴って過去を想起する際に、そこから生じる感情をそのままに味わうことである。著者は言う。

ACが自分を変えていくためには、深い感情のレベルで揺り動かされ、癒される体験が不可欠だと思うようになりました。それは、頭でわかるのとはちがうレベルの理解で、感じることが中心になります。この「感じる体験」に認知と行動が加わってはじめて、歯車が動きだすのです。(『向きあう』 134ページ)


しかし、救いをもっとも必要とする人に限って「感じる」ことができないのは、上記の「話すな・信頼するな・感じるな」の不文律などにより、その人が、身体の情動を抑圧することを長年にわたり学習しているからだ(関連記事:アレクサンダー・ローエン著、国永史子訳 (2008) 『からだは嘘をつかない』春秋社)。子ども時代の不全から抑うつ症状に苦しむ人は、「感じる」ことがなかなかできない。

最相葉月によるすぐれたドキュメンタリー『セラピスト』で、医師仲間から「ボーン・セラピスト」(生まれながらのセラピスト)と呼ばれたエピソードが紹介されている山中康裕は、うつ病を「人格の統一性は保たれているが、感情と人格が乖離」した状態と表現しているが、そういった人は感情を人格レベルで取り戻すことが重要であろう(ちなみに山中は、統合失調症を「本当の自己」と「にせの自己」が乖離してしまった状態、神経症を「人格そのものは保たれているが、過度に抑圧されたコンプレックスによって、何らかの考えに捉われたり、何らかの行動や症状に精神活動の一部を支配されている状態」、心身症を「体が病むという形をとることによって、精神が病むことを防いでいる」状態、と表現している(山中 1996, 201-203ページ)。

ともあれ、どこか人生が生きにくく、子ども時代に対して肯定的な感情をもてない人が、(自分を含めた)周りにいるなら、こういった本を読むことは、打開への途となるかもしれない。

























2014年2月16日日曜日

C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社



[この記事は、言語文化教育研究所第13回研究集会大会 (2013年3月15日)でのシンポジウム「言語教育の目的と実践研究」での発表の準備の一環としてまとめたものです。発表ではもちろん実践研究のあり方についてできるだけ具体的に語りますが、月並みな結論に終わらないようにするためには、いったん『言語とは何か」「人間は言語をどう使っているのか」「人間を教育するとはどういうことか」「そもそも人間とはどういった存在か」といった根源的なことを考えておかねばならないと思ったので、こうしてユングについてまとめています。

教育という営みを、テクノロジーで代替できるし、教育技術のテクノロジー化こそが教育方法学の務めだとお考えの方々は、こういった根源的な試みを一笑に付すでしょうが、私がお会いしている優れた現場教師の言動を見たり、また、彼・彼女らからさまざまなエピソードを聞いたりするにつれ、教育とは根本のところで全人的な関わりであるという思いを私は強くしています。特にさまざまな問題を抱えた児童・生徒・学生は、ある瞬間に、教師にごまかしのない全人的な態度 ―建前や一般論をいったん取り払った上での向き合い― を求めます。ですから、教師は少なくとも時折は深いレベルで、この言語教育という営み、そして人間についての洞察を得る必要があると思っています。

というわけで、ご興味のある方は以下をお読みください。ご興味のない方はもちろん読まなくて結構ですが、それでもこういった試みの邪魔をすることだけは止めてください。私は、なぜ一部の人はこういった教育観や探究の試みを毛嫌いするのかについて時折考えたりしますが、そうなるとすでにユング心理学的内容に入ってしまうでしょうから、前書きはここで終えます]



*****


この本の構成は非常にしっかりしているので、以下、私はこの本の部と章を小見出しとして上げ、それらの中で私にとって特に印象的だった箇所についてまとめます。


第二版序言

この本(原題はDie Beziehungen zwischen dem Ich und dem Unbewuβten)は、時折「ユング自身によるユング心理学入門」とも呼ばれると聞いていますが、ここで彼は「自我意識の無意識過程に対する関係」を記述し、とりわけ「無意識からの影響に対する意識人格の反応とみなしうる一連の現象」の研究を伝えようとしています(13ページ)。


第一部 意識に対する無意識の作用


第一章 個人的無意識と集合的無意識


無意識とは、フロイトが考えたように、抑圧された内容だけから構成されるものではなく、「意識の閾にまで到達しないあらゆる心的要素」も含むものとユングは説明します(19ページ)。無意識は、いわば人間の心の素材の宝庫とでも言えましょうか。
この点、英語教育などでは「無意識」とは、意識的に学習したスキルが、もはや注意を要さなくても執行できるようになった貯蔵庫ぐらいにしばしば考えられていますが、そういった無意識観とユングの無意識観は大きく異なります。私はユングにならって、無意識とは、言語表現・言語理解の素材の宝庫であり、そこからの豊かなメッセージに耳を澄ますことが言語使用のためには重要だと思います(中嶋洋一先生や田尻悟郎先生も、まずは生徒の心を動かして、生徒が自らの心(特に日頃意識されていない無意識の部分)からさまざまな素材を得させてから英語を使わせていました)。私は四半世紀前は情報処理的心理学の枠組みだけで考えており、そこでは無意識とは単に「注意を要さない心の働き」と考えられていましたが、今の私にはそのような考え方は単純すぎて話になりません。

さて、その無意識ですが、ユングは個人的無意識と集合的無意識の二つのレベルを設定します。個人的無意識の中にある素材とは、「一方では個人の生活における獲得物であり、他方では意識しようと思えば意識できた心的要因」であり、その意味で「個人的な性質をもっている」ものです(33ページ)。

これに対して集合的無意識とは、個人的無意識よりも深い層にあるもので、そこには超個人的、すなわち集合的な内容が含まれています(後に集合的な内容の例として、社会的に共有されている「ペルソナ」や、人類的に共有されている「元型」が示されます)。


第二章 無意識の同化に伴うさまざまな現象

さて私たちは日頃「意識的」に生活していますが、あまりにその意識性が私たちの人生を支配すると、無意識(特に集合的無意識)は、その人生の偏りを補償するために影響力を上げ、はなはだしい場合は、私たちの意識を同化してしまいます。いわば意識がほとんど無意識によって乗っ取られてしまうわけです(繰り返すようですが、ユングは意識と無意識の両方があってこその人間だと考えています)。そうなると私たちの意識は「自我肥大」(44ページ)を起こしてしまいます。本来の「私」 (=自我、Ich, I)を超えた集合的無意識が「私」になったように思えて、自我意識が肥大してしまうわけです。

その一つの例が社会的な職務や肩書といった、個人を超えた集合的なペルソナに自我を同化させてしまい、もはや仕事以外には自分を規定するものがなくなったような状態です(極端な例としてユングがあげているのは「朕は国家なり」です)(44-45ページ)。
他方、自我が「内的なヴィジョンの中に没入し、周りの世界など眼中から消えてしまう人」(50ページ)もいます。「集合的なイメージの魅惑する力」である元型に乗っ取られてしまい、まわりからすれば不可解なほどの人格の変化を起こすわけです。


第三章 集合的心の部分としてのペルソナ

もちろんペルソナや元型は私たちを常に完全に乗っ取ってしまうわけではありません。ペルソナとは「個人と社会との間に結ばれた一種の妥協」(67ページ)であり、社会生活を営む私たちは、それぞれのペルソナ(たとえば教師としてのペルソナ)を演じて社会生活を機能させます。

しかしその社会的仮面の役割があまりにも強くなりすぎ、人がその仮面を脱ぐことができなくなれば、その人本来の可能性が著しく損なわれます。そうすると無意識のさまざまな側面は、その偏りを補償しようと、その人に各種の(ペルソナに自我を乗っ取られたその人には予想しがたい種類の)反応を引き起こします。しかし人はなかなかその無意識からの警告の意味を理解できず、ペルソナに一層しがみついてしまうという例は、私たちの身の回りにもたくさんあるかと思います。



第四章 集合的心から個性を解放する試み

(一つのペルソナに限らない)豊かな無意識は、救済する観念やヴィジョンや内なる声をもって、生に新しい方向を与えます。しかし、そのメッセージを理解しきれないと、人間はそのメッセージに新たに取り込まれてしまうか、あるいはそれを拒否し続け、様々な障害を抱えます。ユングがこの章であげている二つの障害の例は、ペルソナの退行的復元と集合的心との同一化です。

肥大してしまったペルソナ以外の部分の無意識からのメッセージ―それは心理的な形を取ることもあれば身体的な形を取ることもあります―に翻弄される人は、苦しくなり、そのペルソナから逃れようとしますが、単にペルソナを退行的に復元してしまうことがあります。つまり「おびえた子どもの精神状態で、明らかに自分の能力以下の下っ端仕事に就き、前よりはるかに小さい人格の枠内で社会的名声をなんとか繕おうと努力する」(77ページ)わけです。しかし、これでは小さなレベルで問題を繰り返しているだけであり、その人がその人本来の個性を開花させることはできません。やがて無意識はその人に新たな警告を送ってくるでしょう。
もう一つの例である集合的心との同一化では、逆に自我が改革者や預言者や殉教者といった誇大妄想的なさらなる自我肥大を引き起こします。

社会的な妥協として有用なペルソナも、それが強大になると人間の生を損ねます。無意識は、その人にその人らしい個性的な生を実現させようと、さまざまなメッセージを送りますが、そのメッセージを理解しそこねると、人はその症状に苦しみ対処療法を続けてやがて疲弊したり、同じ問題をより小さなあるいはより大きなレベルで繰り返します。
私たちはどうにかして、自分本来の生き方を見つけること―個性化―への途を見つけなければ、人生の不全感は大きくなるばかりです。




第二部 個性化


第一章 無意識の機能


個性化とは、個性、すなわち「私たちの内奥の究極的で何ものにも代えがたいユニークさ」を有した存在になること、「自分自身の自己になること」、「自己自身になること」、「自己実現」であるとユングは説明します(93ページ)。

逆に言うと、上であげた苦しい状況とは、本来の自己が拒まれている自己疎外の状況です。それが社会的な役割(ペルソナ)であれ、内的ヴィジョン(元型イメージ)であれ、そればかりに自分が乗っ取られてしまうのは、自己疎外に他なりません。

この自己疎外から自己を救い、個性化を助けることができるのが無意識であるとユングは考えます(もちろんその働きに気がつかないと、無意識は不如意な邪魔者としか思えないことは繰り返し述べているとおりです)。

無意識は「折にふれ、あるいは症状として、あるいは行為や意見や情動や空想や夢となって現れ」(98ページ)ます。ここで大切なのは、そういった無意識は、意識的な自我を補償しようとしているのであって、それと対立しようとしているわけではないことです。ユングは言います。

今日の経験が示すかぎりわれわれは、無意識的諸過程が意識に対して補償的な関係にあると主張できよう。「補償的」という。「対照的」といわない。なぜなら、意識と無意識とは、必ずしも互いに対立するのではなく、むしろ互いに補いあってひとつの全体、すなわち自己を形づくるからである。この定義によれば、自己とは、意識的自我より上に位する大きさをもつことになる。それは、意識的心だけではなく、無意識的心をも包括し、それゆえ、われわれもまたそうであるような一個の人格ということができる。われわれは、それぞれに部分的な魂をもっていると考えることができよう。そこでわれわれにとって自分自身をたとえばペルソナとして見ることはたやすい。しかし、われわれが自己として何ものであるか明らかにすることは、われわれの想像力を超えている。それには、さしずめ部分が全体を把握することができねばならない。われわれには、自己というものを近似的にさえ意識することが望めない。われわれがどんなに多く意識化することができようとも、さらに、無意識という無規定的で規定不可能な量は依然として存在するだろう。そして、それをのおいては自己の全体像はありえないからである。こうして自己は常にわれわれの上位にあるものであり続けるであろう。(99-100ページ)

ユングによれば、自己とは、意識と無意識の両方を包括するものであり、私たちはその姿を明確に意識することができません。私たちの自己規定は、自己のほんの一部を示しているものでしかありません。ですが、その自己になろうとすることが自己実現すなわち個性化であり、それは定義上、終わらない過程であるといえましょう(この意味で、通俗的な意味で言われている「自己実現」は、「自我実現」と呼ぶべきかもしれません。そばしば,それは意識的な自分が把握している希望を実現するだけの浅いものでしかないからです)。

自己のうち、意識と無意識が占める量を考えるなら、圧倒的に多いのは無意識です。だから自己実現・個性化のためには、あるいは自己疎外の苦しさから逃れるためには、無意識からのメッセージを理解しなければならないことは再三再四述べているとおりです。だが、意識的心だけを得意とする心は、このメッセージをなかなか理解できません。

無意識の知恵は本能的なものであって、無意識は分化した機能をもっていない。それは、われわれが「思考」ということばで理解しているような仕方では思考するわけではない。無意識は単に意識状態に応えるイメージを創り出し、そのイメージは多くの観念と感情を含んだものであって、これをなんと呼ぼうと、合理主義的な思慮の産物とは似ても似つかぬものなのだ。そのようなイメージとはむしろ、芸術的なヴィジョンと呼ぶことができよう。(108ページ)

無意識の、いわば芸術的なヴィジョンは、「割り切れないもの」 (the irrational) であり(関連記事:全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について)、合理性には回収されません。

さらに、それはいわば独自の生命をもち、私たちにとって実在するものです。外界の物理的対象と同じく(だが違った様態で)内界の心的対象は、私たちにとっての現実です。私たちの意識的心による支配を超えた、独自の実在物です。

およそ創造的な人間であれば、意のままにならないという点こそが、創造的な思想の本質的な特徴であることを知っているはずである。無意識は、単なる反応や反映ではなく、自立的で生産的な活動であるからだ。したがってその経験領域は、一つの独自な世界であり、一個の実在であって、その実在は、われわれがそれに働きかけるのと同じように、われわれにも働きかけると言ってよい。それは外部世界という経験領域についてそう言えるのとまったく同じことである。そして、具体的な事物が外の世界の構成要素であるとすれば、内なる世界を構成するのは心的要素なのである。(112-113ページ)


その心的実在物は、しばしば、元型イメージとして形を取ります。それは男性にとってアニマ、女性にとってアニムスという形を取ることが多いです。


第二章 アニマとアニムス

通常、男性にとっては女性的特徴を可能な限り抑圧することが社会的に推奨されています(また、女性にとっては男性的特徴を隠すことが奨励されています―もっとも男性的な近代社会で働かざるを得ない女性にとっては問題はもっと複雑とも思えますが、これについては後に述べます)。

男性が抑圧する女性的性質は、当然無意識に蓄積され、それは女性のイマーゴ(イメージ)、あるいは魂(die Seeleドイツ語では女性名詞)と呼ばれる無意識的要求の貯蔵所になります。男性はしばしばこの無意識的女性性を投影しやすい女性を恋愛対象に選びます。(118-119ページ)

ですが社会に過剰適応したペルソナをもつ男性は、そのペルソナとの同一化ゆえに、「魂の欠如」に苦しみます(しばしばその苦しみは私生活に隠されています)。ユングは、強固なペルソナに苦しむ男性の心の中に結晶化したイメージをアニマと名付けます。

男性のあるべき理想像としてのペルソナは、女性的な弱さによって補償される。個体は外的に、強い男性を演じる一方、内的には女性に、つまりアニマになる。ペルソナに対抗するのはほかならぬアニマだからである。(128ページ)

ゲーテの「永遠なる女性」とはアニマの表現なのかもしれません(関連記事:Doing and Being)。ですがアニマの無意識性が強いままなら、それはゲーテをも(ましてや通常の人間をも)乗っ取ってしまうかもしれません(一つのわかりやすい例が、「女が腐ったような奴」になってしまうということです)。男性は、貴重なアニマを受け入れつつ、それを自らとは区別しなければなりません(あるいは自らがアニマを投影している女性と、投影されたアニマを区別した上で、さらにそのアニマを自分自身と混同しないようにしなければなりません)。

個性化、つまり、自己実現のためには、自分や他者に対する見せかけの姿を自らと区別できなければならないが、同様にまた自らをアニマから区別することも必要で、それにはまず、この無意識との眼にみえぬ関係組織であるアニマを意識化しなければならない。意識していないものから自らを区別することはできないのだから。(129ページ)

心の内奥からくるものは、まさに自分の心そのものからくるものと人は思ってしまいがちです。ですが、外界での集合的無意識であるペルソナの要求と、自分自身の欲することを区別することが可能かつ重要であるように、(主に男性にとっての)内界での集合的無意識であるアニマの要求と自分自身の欲求を区別することも必要であるし、また可能でもあります(130ページ)。

とはいえ、これは必ずしも容易ではありません。およそ自律的コンプレックス(=独自の生命を持っているように心の内で動く感情的複合体)についてはすべてそうだといえますが、アニマも一個の人格のように思え、それがゆえに容易に一人の女性に投影されがちです(「なべて無意識的なものは投影される」とはユングの言葉です)(132ページ)。

しかし私たちにとって必要なのは、自分がペルソナと違うばかりでなく、アニマとも違うことを認識することです(さもないと私たちは無意識的元型イメージに憑依されてしまいます)。近代人は、外界ばかり眺めたがるので、内界にあるものは闇の中におかれたままになりがちですが、外界に向けるのと同じだけの集中力と批判精神をもって私たちは内界の様子を観察しなければなりません(134ページ)。「世界は外にもあれば内にもあり、外なるものにも内なるものにも等しく実在性がある」(136ページ)わけです。そして外界に天変地異や戦争や疫病が起こるように、内界においてもいつ同じようなことが起こるかわかりません(145ページ)。

と、ここまでユングは男性にとっての無意識的女性性であるアニマについて語ってきましたが、話題を女性にとっての無意識的男性性であるアニムスに移します。

ユングは「ひとことでいいあらわすならば、アニマが気分を作り出すのに対して、アニムスは意見を作り出す」と表現します(149ページ)。アニムスはアニマと違って、一人の人物に擬人化されるのでなく、複数の人物として現れやすいとユングは言います(たしか、この洞察に至ったのはユング夫人の方が最初だったと私は記憶していますが、今、確認はできません)。ユングによれば、男性は概して普遍的なものの方が個人的なものより身近であり、女性が配偶者に求めるほどの単独性を男性は女性には求めません。だから逆に男性の無意識でのアニマには、情熱的な排他性がつきまといます。逆に女性の無意識のアニムスには不特定多数性がつきまといます(155ページ)。

この集団は、「常にすぐさま意見を供給してくれるさまざまな想定のいっぱいつまった宝庫」です(150ページ)。しかしアニムスも(女性に)憑依しがちなものであり、憑依された女性は、深い知性ではなく枝葉末節のことを本題に祭り上げるような一言居士的な人物となってしまいます。ですが女性もアニムスを自覚し、それを自らと区別するなら、アニムスは内面での着想機能として有効に働くでしょう(153ページ)。

ここで蛇足を加えて、近代社会で働く女性について考えてみます。新人女性教師が厳しい職場に赴任した時に、「ここではあなたは女であることを止めなければ、生き残ってはいけない」と言われたというエピソードを私は少なくとも複数知っています。そうなるとそういった女性は、職場で急激な変容が求められ、強固で男性的なペルソナが要求され、アニムスをそのペルソナに憑依させるかもしれません。となるとその女性は、外界での社会的対応のためにアニムス的ペルソナを使いこなさなければならないため、一層アニムスに乗っ取られてしまうかもしれません。そうやって「女闘士」や「氷の女王」となってしまった女性は(内面生活の幸福度はともかく)外界ではそれなりの社会的地位を築くでしょう。

ですが、そこまで無残に自らの女性性を抑圧できない女性は、外界でのアニムスとペルソナの横行に、自らのアニマを二重に蹂躙され、そのアニマは思わぬ形でその女性に憑依するかもしれなません(それは多くの場合、男性社会への適応の失敗を意味するかもしれません。それは女性らしさを大切にする彼女自身の失敗ではまったくないのですが)。

私は近代社会の、資本主義的性質の影響に対して批判的ですが、同じように近代社会の意識性・合理性・男性性にも批判的でなければならないと思います。あまりに歪んだ社会が、臨界点を超えた時の暴走は本当に恐ろしいからです。


第三章 自我とさまざまな無意識像とを区別する技術

私たちはペルソナであれ、アニマ・アニムスであれ、芸術的なヴィジョンであれ、それを受け入れつつも、それらの無意識的なイメージに乗っ取られてはなりません。「ヴィジョンの中のさまざまな形姿に対して、完全な意識をもって反応し、行動しつつ立ち向かうこと」(161ページ)が必要とユングは言います。

このあたりからユングはアクティブ・イマジネーション(能動的想像法)について語っています。無意識的な空想を覚醒状態で思い描き、その空想世界が出してくる状況に、自ら具体的に空想世界の中で対応してゆくセラピーです。空想に対してまじめに反応することにより、無意識に対して、無条件の現実的価値を与えます(167ページ)。


 






夜見る夢にせよ、昼間にふと浮かぶイメージにせよ、アクティブ・イマジネーションにせよ、外界的対応ばかりに追われる近代人はナンセンスとして馬鹿にしてしまいがちですが、私たちはそれと非近代人のように真摯に向き合うことを学ぶべきでしょう(と同時に、近代人としての作法も忘れてはならないことは言うまでもありません)。無意識の歪みが引き起こすと考えられる心身症に対しても、近代人は生理学的な対処療法しか行いませんが、私たちはもっと病の「意味」を考えるべきでしょう。ユングはある患者に対してこうまとめています。

私の患者の意識的態度は、あまりにも一方的に知的で理性的でありすぎたので、自然自身が彼の中で反抗し、彼の意識的価値世界全体を破滅させるに至った。だからといって彼は、自分自身を知的でなくすことはできないし、たとえば、感情のような他の機能にたよることもできない。要するにそれを持ちあわせていないからできないのである。無意識はそれをもっている。だから、われわれには、無意識にいわば指導権を委ね、自分から空想の形で意識内容に変ずる機会を与えてやるほかに手はない。これまで患者が自分の知性世界にしがみつき、自分でこれは病気だと思い込んで、それに対してもっともらしい理屈をこねて、身を守ってきたとするならば、今度はまさにその病に身を委ねなければならない。そして抑鬱が身にふりかかってきたならば、それを忘れようとして、むりやり仕事その他を自分に押しつけたりしてはならず、むしろ自分の抑鬱を受け容れ、いわばそれに発言させてやらなければならない。(165ページ)

(英語教育界での)近代的認識論(多くは論理実証主義を水で薄めたもの)は、無意識や内界など「現実」ではない、と言います。しかしユングに言わせれば「現実的とは、現実に働いているもののいいである (Wirklich aber ist, was wirkt)」(168ページ)となります。論理実証主義者ですら、馬鹿げた広場恐怖症やその他の心身症に捕らわれたりするとすれば、私たちは、内界や無意識の重要性をきちんと認識するべきでしょう。たとえそれが手持ちの認識論では扱い難い現象だとしても、私たちはまず現実世界の営みを直視し、そして必要に応じて認識論を変えなければなりません。


無意識内容が了解されないと、「そこからは否定的な活動や人格化、つまり、アニムスとアニマの自律が生じてしまう。心の異常が生じ、よくある気分や「観念」から精神病にいたるまで、あらゆる段階の憑依状況が生じる」(180ページ)ともユングは警告します。しかし、空想の生起に積極的に関与することによって、本来無意識的な空想をたえず意識化しつづけるあらば、その結果、(1) 意識が拡張され、(2) 無意識の支配的影響が支配的に取り除かれ、(3) 人格の変化が生じる、とユングは臨床経験から結論づけています(171ページ)。アニマやアニムス、あるいはペルソナや元型イメージは、それら自身として認識し、それらが擬人化し自律化して、私たちの人生を乗っ取ってしまうことを防がなければなりません。



第四章 マナ人格

もしアニマやアニムスなどを意識化することができ、アニマやアニムスから力―ここでユングは「マナ」という用語を使っています―を取り除くことができたとしても、さらに落とし穴が一つあります。意識的自我がそのマナを引き受け、「マナ人格」となってしまうことです。マナ人格とは、集合的無意識の優性形質であって、英雄や酋長、魔術師や呪医や聖者、人間および精霊たちの支配者や、神の友といった形の力ある男性、あるいは太母(グレートマザー)の女性の元型(イメージ)です(185ページ)。

これは自我肥大に他なりません。自我が自らの分を超えた元型イメージと同一化してしまっているからです。ユングは、マナ人格について「自我はまったくアニマを克服してなどおらず、したがって、マナも獲得していないといわざるをえない。ただ新たな混交が生じたにすぎないのだ」(186ページ)と注意を喚起します。

自我はほかでもなくおのれがアニマに勝利を収めたと夢見たことによって、まさに「呪術師」の手に落ちたのである。それは無意識に対する自我の越権であった。そして自我の越権は無意識の越権を招来せずにはいない。(187ページ)

こうなれば問題が逆戻りです。私たちは自我の勝利という幻想を控えなければなりません。ですが自我がひたすらに自らの無力を主張すればいいともユングは考えません。

ひとが自らをマナ人格と同一視しないのはいいとして、その代わりにこんどはそれを具体化して、「絶対性」という(多くの人にとってきわめて心をそそられる)属性を持った、超現実的な「天上の父」に祭り上げてしまう可能性がある。こうなると無意識に対して、またしても絶対的優位が与えられるわけで(信仰の努力がそれに成功するならば!)、それによってあらゆる価値はそちらの方へ流れ去ってしまう。あとに残るのは、論理上、ただ、もうみじめで、劣等で、役立たずの罪深いだけの人間ばかりということになる。周知のように、この解決法は歴史的な世界観となってしまった。(197ページ)

マナ人格の解消は、「自我」や「天上の父」にではなく、「われわれ自身」に求められなければならないとユングは考えます(200ページ)(ユングは、身体レベルでの信仰を持っていなかった牧師の父をあまり尊敬できていませんでした)。「われわれ自身」とはもちろん意識的自我でもなく、無意識でもありません。それは外界と内界の諸力の間にはさまれて、存在し、生きている何かです。

私は、この中心を自己 (Selbst, self) と名づけた。知的には、自己は、心理学的概念にすぎない。それは、われわれにはそれそのものとしては把握できない、認識不可能の存在を表現するための構成概念である。それは、すでにその定義からして、われわれの理解力を超えている。呼ぼうと思えば、「われわれの内なる神」と呼んでもいいだろう。われわれの全精神生活は、まさにこの一点に解きがたいすべての端緒を発しているかに見え、あらゆる最高かつ究極の目標も、ひたすらこの一点をめざしているように思える。こうした逆説は、われわれが、みずからの理解力の彼方にあるものを言葉で言い表そうとするときには、常に避けることができない。(201ページ)。

こうして見ると、ユングは近代の歪みを自覚し、非近代の人間のあり方に学びながら、新たな人間像を組み立てたと言えるでしょう。ですが、大切なことは、これはユングが机上で考えた人間像ではなく、多くの臨床経験の中から(そして自分の心的葛藤の中から)体系化したものであるということです。

ユングは再三再四、自分の理論(およびあらゆる心理学理論)が、一般的な真理として流布してしまうことを批判していましたので、ここでユング理論を振り回すことは避けなければなりませんが、人間理解の一つの視点としてユング心理学(あるいはユング思想)が非常に有効であることは間違いないと思います。






2014年2月14日金曜日

C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー



[この記事は、3月9日の「言語教育エキスポ2014」(PDFプログラム)で、9:00-10:30に開催される「シンポジウム4: 文学指導は学習者をどのように動機づけるか」の発表の準備の一貫としてまとめたものです。

このシンポジウムは、関戸冬彦(獨協大学),柳瀬陽介(広島大学),和田玲(順天中学・高等学校),鈴木章能(甲南女子大学),中垣恒太郎(大東文化大学)をメンバーとしています。趣旨は、以下の通りです。]

「今日英語教育では実用技能の向上を目指した授業が多いが,高校生,大学生に,人生や人間の真実を思考させなくてよいのだろうか。そこで文学教材の意義を問い直したい。文学教材の扱い方次第では,英語の技能向上にも寄与しつつ,学習者が自己拡大を感じることで積極的な学習姿勢の構築,動機づけ,が可能になるのではないか。これらの点を中心に,高校,大学での実践,英文学,英語教育の連携,を探るべく五人の論者で発表を行う」



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老松克博先生の入門書でも見事に示されているように、ユング心理学(あるいはユング思想)は、文芸作品理解を深めてくれる。ここではユングが文学芸術作品について書いた論文を集めた『創造する無意識―ユングの文芸論 (平凡社ライブラリー)』を私なりにまとめる。言うまでもなく、私はユングの専門家ではないので、私の誤解が入っているかもしれない。ご興味をもった方は、必ずご自身で書籍をご参照ください。



■ 象徴とは

芸術作品はしばしば「象徴」的な表現をするといわれる。この場合、「象徴」ということばを誤解しないことが重要である。フロイトは、ある無意識的背景の存在を示す意識内容を「象徴」と呼んだが、ユングはこの用法には賛成しない。フロイトの場合は、ある意識内容がある無意識的背景をいわば指し示しているだけであり、このような機能は、「徴表」あるいは「症候」の役割にすぎないとユングは批判する。

ユングによれば、「象徴」とは、「それ以外の形では、あるいはそれ以上の形ではまだ把握することのできない直観の表現」(18ページ)であり、「私たちの現下の理解力を越えた、より広くより高い意味の可能性であり示唆」(34ページ)である。私になりに言い換えれば、「象徴」とは、その内容を、何か他のものを指示することに還元してしまうことのできない表現であり、それ以外の形では、その汲みつくせない内容を表現できない表現となる。単なる指示記号において、形と意味は、指示記号と指示対象という形態で二分できるが、ユングのいう「象徴」において形と意味は分離できない。だが象徴の形と意味は同一であるわけではない。私たちの物理世界においては「象徴」はある形をとるが、それが意味することは、その形だけに還元されるわけではない。

別の言い方をするなら、芸術における表現は、やはり「象徴」的であるといえよう。ある音楽作品の、あるパートのある音色は、何か他の観念や物を表象 (re-present) しているわけでもなく、かといって、それは単なる空気振動に還元されるものでもない。それは「象徴」として、汲めども尽きせぬ何かを表現し続ける。

近代言語学の意味論では、やはりことばの意味を、何かの物理的対象物か観念対象を指示するものととらえることが多いかと思うが、そういった意味論では、文学や芸術の「意味」は理解できないだろう。これまで英語教育などで文学を語る場合、本来文学について考察するには適切ではない道具立て(例えば、こういった近代言語学的意味論、あるいは「英語力」指標としてのTOEICテストなど)を使うことがあまりにも多かったと思うので、ここで注意を喚起しておきたい。



■ 芸術家とは

さて、芸術家とはそういった象徴的表現を生み出す者であるが、芸術家は意識的なコントロールでそういった表現を計画的に産出しているわけではない。ユングは言う。

実際に芸術家を分析していますと、つねに繰り返し見せつけられるのは、無意識からやって来る芸術創作の衝動というものが、いかに強く、また気まぐれで、しかも一方的な有無をいわせぬものであるかということなのです。偉大な芸術家の創作衝動がいかに強く、当人の人間性の一切を引っさらい、健康や人間としてのごく普通の幸福を奪い取ってまでも、その作品に奉仕させるものであるかは、これまで多くの伝記作者が証明してきたところではなかったでしょうか。(29-30ページ)


いわば芸術家は、芸術表現に乗っ取られるわけである。ユングは、この無意識的な芸術的衝動を人間の心の中に生きる一つの生き物であると喩え、それを「自律的コンプレクス」と呼ぶ(この場合の「コンプレクス(コンプレックス)」とは、日常的な意味での一面的な「劣等感」ではなく、多面的な感情の錯綜である心的複合体を意味する)。上の引用に続けてユングはこう言う。

芸術家の心の中にあっていまだ生まれ出ていない作品は、一つの自然の力であって、暴君的な腕力を振るうか、自然が目的を貫くときのあの微妙な狡知を働かせるかして、創造の担い手である人間の個人的安危や禍福にはおかまいなしにおのれを貫こうとするのです。創造的なるものは人間の中に、大地に木が生えるように生きて育つのであって、貪欲に養分を吸い取ります。だから私たちは、創造的形成のプロセスを人間の心に植え付けられた一つの生き物であるとみなしていっこうに差し支えありません。分析心理学はこれを自律的コンプレクスと読んでいます。それは心の分離した一部分として、意識の支配を逃れた独立した心的生活を導き、そのエネルギー価に応じ、力に応じて、あるいは任意の方向に向かう意識のプロセスを妨害したり、あるいは自我より上位にある審判官として自我を思いのままに動かしたりするのです。(30ページ)[以上の引用の原著は、Über die Beziehungen der analytischen Psychologie zum dichterrischen Kunstwerk]


村上春樹には、「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」という逆説的なタイトルをもつエッセイ集があるが、この表現は、上の「人間の心に植え付けられた一つの生き物」あるいは「自律的コンプレクス」が動き回る時空(すなわち「夢」)をできるだけ明瞭に書き残すために、作家は覚醒しておかねばならないと読めば、まったく矛盾なく読める。そういえば何かのインタビューで、村上春樹はユング心理学者の河合隼雄氏ほど、物語を書くということの意味を理解してくれた人はいなかったと述べていた。また、冒頭にもあげた村上克博が熱心に紹介しているユング心理学のアクティブ・イマジネーション(active imagination)は、芸術的創作と重なるところの多いものである(というより、私には両者の違いがよくわからないほどだ)。










芸術家とて、日常生活では世俗人であり、世俗世界的な個性と特徴をもった存在であるが、彼が芸術創造をしている時、彼は世俗的個人ではなく、いわば「人間」という器であり、人間の無意識(特に集合的無意識)が姿を現すための道具とすらもいえるかもしれない。

芸術はあたかも衝動のように芸術家に生得のものであって、彼を捕え、道具として使役するのである。彼の内にあって意欲するものは、究極のところ個人としての彼自身ではなく、芸術作品なのである。個人としての芸術家はあれこれの気まぐれや意思や自分の目的をもつこともできるだろう。しかし芸術家としては、彼はより高次の意味において「人間」であるにすぎない。彼は普遍的人間なのである。無意識のうちに働いている人類の魂の、彼は担い手であり形成者なのである。(87-88ページ)[原著はPsychlogie und Dichtung]




■ 無意識の創造

こうなると芸術作品とは、人間の無意識が、人間の意識の力を借りて、自らを現したものといえよう。その無意識も、ユングは、私たちが通常言うような意味での「個人的無意識」だけでなく、それよりも深いレベルの「集合的無意識」(河合隼雄は「普遍的無意識」と訳した)も意味した。集合的無意識は、人間が種として共通にもっている生物学的・人類学的特性から、ある一定のイメージを生み出しやすい。ユングはそれを元型イメージと呼んだ(例えば龍は東西の文化で想像されているが、これも元型イメージの一つだろう)。元型イメージは、上で説明したような意味で「象徴」であり、尽きせぬものを私たちの心に喚起する。元型とは、そういった象徴を生み出す作用点として想定されている。

そうなると芸術作品とは、元型のイメージ化とも表現できる。その時代その地域の人間が、人間一般として損なってしまった無意識の元型が、その人々の生のバランスを取り戻し、生がより統合的になることを助けるために、芸術家という器を借りて、自らを表したのが芸術作品といえるだろう。[これら二つのパラグラフには、私独自の理解が多く入っていますから、特にご注意ください]。

創造のプロセスとは、少なくとも私たちに辿れる限りでは、元型の無意識の賦活であり、それを発展させ形づくって、完成した作品に仕上げることにほかなりません。原初的なイメージを造形するとは、言ってみれば現在の言葉に翻訳することであり、それによっていわば万人に、さもなくば汲み損ねたであろう生の最も深い源泉の入口が、再び見つけられるようになるのです。ここに芸術の社会的な意義があります。芸術は絶えず時代精神の教育に係っている、というのも、時代精神に最も書けた形姿を呼び出すからなのです。現在への不満から、芸術家の憧憬は内に向かい、時代の欠陥と一面性を有効に補償するのにちょうどふさわしい現像を無意識の中に探り当てるのです。この現像を捕え、無意識の深みから引き上げて意識に近づけるとき、現像の方も姿を変えて、現在の人間が把握しやすいように、その理解力に応じた形をとります。(46ページ)[原著は、Über die Beziehungen der analytischen Psychologie zum dichterrischen Kunstwerk]


ここには、ユングの基本的考えである、「無意識的な表現とは、意識の偏りを補償するために現れたものであり、意識はその意味をできるだけ認識することにより、人間はより十全な存在になれる」という自己実現(あるいは個性化)の理論がある。

少なくとも私にとって、ユングのこういった芸術理解は、納得いくものであった。芸術が、より意味をもつようになり、より私の生を助けてくれるものになったような気がする。拙いまとめをここに掲載するゆえんである。



■ 解釈の限界

しかしユングは自らの学説の教条化に対して常に批判的に警戒している。私たちも一知半解のユング理論を「真理」として振り回す愚(というより暴力)を恐れ、控えなければならない。ユングは言う。

心理学者はつねに、自説がまず何よりも自分自身の主観に含まれるものの表出であり、したがってそのまま一般に妥当するかのように言い立ててはならないことを銘記しなければならない。心の可能性という広大な領野にあっては、個々の研究者が解明に寄与できるのはさしあたりほんの一つの視点にすぎない。ということは、仮にこの一つの視点をたとえ要望としてでも一般に拘束力をもつ真理とするならば、客観に対して最悪の暴力を振るうことになるだろう。この上なく色彩豊かで、多くの形象と意味に満ちているのが実際心という現象であって、その充溢をたった一つの鏡に映し取ることなどできたものではない。また私たちはその叙述の中でけっして全体を把えることもできはしない。ただそのときどきに現象の総体のうちの、いくつかの部分だけを闡明(せんめい)することで満足するしかないのである。(52-53ページ)[原著は、Psychologie und Dichtung]




無意識を、私たちが意識的に理解し尽くしたと思うほどの傲慢もないだろう。私たちは無意識の力を尊び、そのメッセージを意識で少しずつ理解しようと試みながら、さらに無意識、換喩的に言うなら「からだ」の声を聞き続けるべきだろう。