2011年11月29日火曜日

Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である




何度か耳にしたことはあるけれど、"multi-competence"(「多言語能力」ととりあえず訳しておく)の概念のことをきちんと調べていなかったことは不覚だった。日本の英語教育にとって、非常に重要な概念ではないか!

私も慌ててノートのようなものをつくったけど、幸い、提唱者のVivian Cook自身が専用のウェブサイトを用意しているから、この概念について知りたい方はこちらをどうぞ。





あるいは、私が2009年初頭以来懸念し(高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出)、昨日も悲観的な見解を書いた(「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について)について、より直接的に考えるためには、このページを先に読んだ方がいいかもしれない。





この論文(草稿)の大切な所を、ごくごく簡単にまとめておくと、次のようになる(まとめは乱暴なものなので、英語教育関係者はきちんと上のページの原文を読んでくださいね。この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい。私は浅薄で声高な人の「ギロン」が嫌いです)。



・「外国語授業では基本的に母国語を使うな」という主張は、19世紀末の言語教育改革(直接法などを生み出した改革)以来のもので、それはオーディオ・リンガル法などにも受け継がれ、20世紀の不問の伝統となった。

・言語教育の改革を標榜する者はこの主張を受け継ぎ、教室での母国語使用を敵視するが、学習の現実を知る教師は母国語を使い続けた(そして「改革者」から非難を浴びせられ続けた)。

・「外国語の授業は、外国語だけで行うべき」という主張の前提は、整理するなら、(1)第一言語獲得からの類推、(2)第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観、(3)教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、といったものである。

・前提(1)の第一言語獲得からの類推だが、これは既に第一言語の知識を備え知的にも 社会的にも成熟している第二言語学習者を、言語獲得中の幼児と同じものだとみなす、あまりも乱暴な考えである。

・前提(2)の第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観は、1980年代以降の数々の実証的研究で否定されている。第二言語使用において第一言語は様々な形で影響しているし、逆に第一言語使用においても第二言語の影響は見られる。第一言語は、ヴィゴツキーの用語を借りるならば、第二言語学習の'mediation'として有効活用できる。そもそも授業中に第一言語を使わないことによって、学習者の心の中の第一言語の影響が消え去るわけではない。

・前提(3)の教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、については、ある程度は当たっているが、「クラスルーム英語」は非常に定型的なものに過ぎないことを忘れてはならない。

・第一言語は、文法説明、教室のマネジメント、生徒個々人との関係づくり、より細やかに学力を見るテスト、生徒の個人学習・グループ活動、などで活用できる。


あと、Cookは第一言語を効果的に使った実践例についても報告しているけれど、これは明治中期以来の英語教育の伝統を誇る日本の教師の知恵の方がはるかに優れているように私は思えます(報告は短いものなので、即断はできませんが)。

また、Cookも言っているように、二言語間での翻訳やコードスイッチングは、モノリンガルのネイティブ・スピーカーにはできない、第二言語使用者特有の能力である。

加えて、第一言語の影響が、週数時間の英語の授業を受けただけではなかなか消え難いのは、私も最近「"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて」や、2010年6月掲載の「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―」などで書いた通り。

と、書き始めたらきりがないので、ここで終えるけれど、とりあえずは上のサイトをご覧ください。



このような理解は、もし今後、高校現場で指導要領の文字面しか理解していない「偉い方々」が無理矢理に「授業は英語で!」と強要した場合に、生徒の「わかる授業・できる授業」を守るための武器となるでしょう。











Video by TESOLacademic.org (http://www.tesolacademic.org/)








2011年11月28日月曜日

「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について




■"Subtractive bilingualism"ならぬ"subtractive monolingualism"(「引き算になる単一言語使用」)


12月11日(日)に関西大学で行われる翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム(および講演)の準備の一環として、Tim McNamara (2011) のMultilingualism in Education: A Poststructuralist Critiqueを読んでいたら、ちょっと恐ろしい可能性が頭に浮かんでしまった。頭を整理させるため、そしてできれば皆さんにも考えていただくために、ここに簡単にその可能性をまとめておきたい。

その恐ろしい可能性とは、"subtractive monolingualism"(「引き算になる単一言語使用」)である。

通常、私たちは"additive bilingualism"や"subtractive bilingualism"(「足し算になる二言語使用」「引き算になる二言語使用」)のことを話す。例えば学校で日本語だけでなく英語も教えることが肯定的結果をもたらすなら、それは"additive bilingualism"であり、下手に英語を教えることによって第一言語である日本語習得に悪影響が出て第二言語の英語習得もままならないとすれば、それは"subtractive bilingualism"である。だがこの論文の用語は、"subtractive monolingualism"である。

この現象を報告しているのは、McNamara自身ではなく、彼が引用をしているWilliams (2010)だ。Williamsについて、私はMcNamaraが文献情報に掲載しただけのこと(注1)しかしらず、原典を確認できないので、ここではMcNamaraの引用をもとにまとめる。



■アフリカ諸国はなぜ現地語を軽視し続けようとしたのか

Williamsによると、彼が調査したMalawi, Zambia, and Rwandaでは、それぞれの政府が初等教育(小学校)で、現地の言葉よりも英語を重視し、教科を英語で教えるようにしている。だが、これらの国では小学校4~5年生になった時でさえ、多くの子ども(MalawiとZambiaで約75%、Rwandadeで95%)が英語で書かれた教科書の説明を読むことができない(433ページ)。

これらの国の教育関係者は、このような危険性を懸念し、現地語を重視するように再三に渡り政府に進言していたのだが、政府はこの進言を無視し続けた。

Williamsは、これらの政府が重視しているのは、(1)経済発展(economic development)、(2)言語的統合(unification)、(3)国民からの承認(authentification)であり、その根底には国の生き残り(survival)がある(433ページ)。これらの懸念が、小学校から教育を英語で行うことにつながっている。

(1)の経済発展は、産業という点で直接に英語の強化につながる。(2)の言語的統合は、アフリカではあまりにも多数の現地語が話されているので、国を言語的に統合しようとすれば、国外の(旧植民地宗主国の)言語(この場合は英語)を採択しようということであり、それはそのまま英語による教育の強化につながる。これら二つの懸念と英語教育のつながりは、まあ理解できる。

しかし現実社会の狡猾(sinister)さを示すのが、(3)の国民からの承認である。どんな国とて国民からの承認・支持がなければ安定はしない。だからこれらの国も、上記の(1)や(2)の理由から英語による教育を国民に訴える。英語による教育をしなければ、これからはやっていけない、と説く。国民世論は圧倒的にその政府方針を支持する。

しかしその教育の実情は上の数字が示すように、国民の大半が切り捨てられるものである。もっぱら英語で小学校教育が行われるものの、多くの子どもはその教科書すらまともに読めないままである。現地語はほとんど教えられていないから、現地語の読み書き能力もついていない。英語という単一言語に集中したモノリンガル教育を行った結果は、まさに引き算である。現地語による小学校教育ならついたであろう学力さえ、多くの子どもは失ってしまっている。

だが、現実社会の狡猾なところは、少数の子どもは英語を習得し、国外とのビジネや国内での統括管理などを行うエリートの切符を手にいれていることである。

Williamsはこの状況を記述するのに、Myers-Scotton (1990)の"Elite closure"(エリートの囲い込み)という用語を引用する。「少数の支配的エスタブリッシュメントが、自分と自分の家族には通用する高度な英語教育を確保しているが、その教育が実際に意味していることは、その教育は国民の大多数にとって不適切なものであり、国民のほとんどは恩恵を得ないことである」(注3)のが、この英語教育の実態であるというわけだ。



■悲観的に、アフリカの状況に日本の近未来を重ねあわせてみると

私が冒頭で恐ろしい可能性と言ったのは、このアフリカの状況に似た状況に日本も陥るかもしれないということだ。無論、アフリカ諸国と日本は様々な条件で異なる。特に、日本は近代日本語で言語的に(ほぼ)統一されている点では、アフリカ諸国と決定的に違う。だから私の悲観をどうぞ笑ってください。しかしその「言語的統一」を国内での話ではなく、諸外国との話にすれば、上記のアフリカ政府の(1)~(3)の懸念は、日本政府の懸念となるようにも思える。

すなわち、やや誇張して言えば、日本の教育行政者が次のように論を展開することも可能だとさえ、悲観主義者の私には思えてくる。


(1)'これからの日本の経済発展のためには英語は不可欠です。

(2)'通商圏での言語は、中国語・韓国語・タイ語・ロシア語等々とたくさんにあり、それらの言語をすべてマスターするのは困難ですから、言語統一を英語ではかる必要があります(これは他の国もそう考えていることであります)。英語は必須なのです。

(3)'これらの要因からすると、従来とは全く質の異なる、高度な英語教育が必要です。となれば、小・中・高の英語の授業は基本的に英語でやるべきだと思いませんか。授業も定期試験・入学試験も「オール・イングリッシュ」でなくてはなりません。従来のように日本語を使うような授業では英語力はつかないのです。大学も(少なくとも一部の大学・学部は)日本語ではなく英語ですべての授業とすべての試験を実施するべきです。 ― 国民の皆さん、政府は、教師の尻を叩いて(できない教師はクビにして)このような体制を実現させますから、税金負担と教師批判に協力してください。ご子息の未来のためです!



こう言われれば、不安に駆られた国民は、そういう英語教育政策をひょっとしたら熱狂的にサポートするかもしれない(もちろんそこには多くの御用学者の働きもあるのだろうが)。

しかし「純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観」でも少し述べたし、今度の翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウム(および講演)でも論ずるつもりだけれど、俗耳に入りやすい「英語の授業は英語で!日本語は極力使わない!!」といった単純なスローガンには警戒が必要だ。

日本語が骨身にしみている学習者に、短時間で通じる英語を使う能力をつけようと思うなら、日本語の特性に逆に着目し、日本語を説明言語として効果的に使ったほうが有効なのではないか。そもそも日本国の国民を育てるという発想なら、日本語の発想と英語の発想をうまく通言語的・通文化的に発揮できる言語的・文化的能力を育てるべきではないのだろうか(注4)。

だが「英語の授業は英語でやるのが当然」という単純なスローガンは強力だ。上のような周りくどく思える議論はスローガンの連呼にかき消される恐れもある(それは未だに英語教育の解決策といえば、しばしば「ネイティブ」「留学」という言葉しか出てこないことからも十分に予測されることだ)。

そうして小・中・高(そして大学)の英語教育の現場から日本語が事実上追放されると仮定しよう。そうなれば学校教育だけで英語をマスターすることは(よほど才能に恵まれた者を例外とするなら)およそ困難になると私は考える。

そうなると教育産業の出番だ。幼児期からの「英語のシャワー」、中・高生のためにわかりやすく丁寧に日本語で英語を教えてくれる塾・予備校あるいは参考書、快適な空間を演出する英会話スクール、さまざまな私費海外ホームステイ・留学プログラム、「英語力」を客観的に教えてくれる各種英語資格試験、さらにはその試験対策講座などなど、市場は学校英語教育の不備を補うべく、どんどん教育の世界に参入するだろう。

だがその教育産業の恩恵を得るのは、裕福な家庭の子供だけだ。中産階級がどんどん没落していることに関しては日本も世界の例外ではないが、そういった経済的余裕を失いつつある家庭も「子どもの未来のためなら」と今以上に教育への出費を増やすかもしれない(今の韓国がそうであるように)。そんな余裕などまったくない家庭の子どもは、教育産業からの助けを得られないままに、「オール・イングリッシュ」の授業に耐え続けなければならないかもしれない。ほとんど何もわからないお客さんとして。あるいは歌やゲームで適当に遊ばされる対象として。

良心的な英語教師は、学校英語教育だけでも子どもに英語力をつけたいと、日本語をうまく使って英語教育を試みるかもしれない。仮に高度な英語力はつかないにせよ、生徒との毎日を大切にし、生徒に理解や達成の喜びを実感させようと、日本語で解説し励ましながら英語の力を少しでもつけさせようとするかもしれない。

だがそこへ教育行政者は勧告にくる。「英語の授業は英語でやりなさい。これは民意です。民意に反する公務員はクビです」・・・。うん、どうも私は昨夜から悲観的になっている。

「英語の授業はすべて英語で」というある意味の「正論」も、もし暴走するなら「引き算になる単一言語使用」になるかもしれない。知能指数と経済資本・社会資本文化資本に恵まれた一部の者を除くならば、多くの学習者は英語もほとんど身につけることなく、適切に日本語も使って教えられていたならば身についていただろう通言語的・通文化的な力も、納得感も達成感も得られないままに学校を卒業する。

これは何度も言うように私の悲観だ。しかし、「コミュニカティブ」の掛け声で、ゲームのような活動ばかりやらされていた生徒が、片言の決まり文句と引き換えに、従来は育っていた読解力や思考力を失ったことを考えると、この「引き算になる単一言語使用」もそれほど荒唐無稽な想像ではないと私は考える。



■立ち止まって考えるべきなのでは

「教育の論理」「日本の英語教育の論理」「現場の論理」というものはあるはずだ。「教育の論理」は、「経済資本・社会資本・文化資本において貧しい家庭の子どもにもきちんとした教育を与えなければならない」という考えを含むだろう。「日本の英語教育の論理」は、「これから英語を話すことが当たり前になってゆく世界で、競争力を保ち発展させるためには、他国民が有し難い日本文化独特の発想を活かした形で英語発信を行う」という考えも含むのではないか。「現場の論理」には、「この生徒には、ひょっとしたらさらにグローバル化する社会の中ですらも英語を使った仕事をする可能性も少ないかもしれないが、せめて学校ではきちんと丁寧に対応し、人間としての尊厳を実感できるようにさせたい」といった思いも含まれるだろう。

ところが昨今は、経済的不安に駆られた大人は、「バスに乗り遅れるな」とばかりにグローバル資本主義競争に子どもを突入させようとしている。バスに乗れるのは1%、いや0.1%にしか過ぎないかもしれないのに。

私達がなすべきことは、むしろそういった社会体制を問い直すべきことなのかもしれないのに、大人は「自分の子どもだけは」と、1%(あるいは0.1%)の枠に子どもを入れることを目指す(あるいはその枠からのおこぼれを貰える席を目指す)。その特等席は、特例を除くなら、ほぼ既得者の子息だけで独占されているかもしれないのに(またおこぼれも、雀の涙ぐらいのものかもしれないのに)、大人はその特例の成り上がり有名人の「やればできるんです」という言葉に煽られて、持てるお金の多くを教育市場につぎ込む。つぎ込む金が尽きた親は自らの無力を嘆く。

お金のない家庭は、「どうせ・・・」と諦める。諦めて気楽に生きることができればいいのだが、農業・漁業・手工芸といった自活能力も失った近代人は、賃金を得ることでしか生きてゆけない。しかも幼少の頃からのテレビなどの洗脳で、人生を楽しむには商品を購入するしかないと思わされている。かくして低賃金・長時間労働の人生を選ばざる得なくなる。たまに買うコンビニのプレミアム・デザートを、ほとんど唯一の贅沢として・・・。

「ああ、なんだ、この希望のなさは」と人々は恨む。「こんなことなら、すべてを変えてくれそうな指導者に期待しよう」と、人々は博打のような他力本願を唯一の希望としてしまう。

だが今必要なことは、立ち止まって考えることではないのか。時代の狂騒から一歩引いて、人間が生きることについて考えなおすことではないのか・・・。


誰もが頷く時代の「正論」には気をつけよう。それこそは、この時代がはまった知的陥穽、イデオロギーなのかもしれないのだから。




(注1)
Williams, E. (2010, March). The politics of language policies in Africa: Why are the testimonies of testing ignored? In A. Davies (Chair), Starting a second language: Institutional second language learning and its dilemmas. Symposium conducted at the meeting of the American Association for Applied Linguistics, Atlanta, GA.

(注2)
Myers-Scotton, C. (1990). Elite closure as boundary maintenance: The case of Africa. In B. Weinstein (Ed.), Language policy and political development (pp. 25-42). Norwood, NJ: Ablex.

(注3)原文は"a small dominant establishment ensures that they and their families have access to high standards of English while inadequate education systems mean that this is largely denied to the mamjority"です(434ページに、原著論文7ページからの引用として掲載)です。ブログ記事ではずいぶん意訳しました。

(注4)ごめんなさい、このあたりは後日もう少し丁寧に論ずるつもりです。


参考記事
安田敏朗(2006)『「国語」の近代史』中公新書、および「英語の授業は英語で」のスローガン化に対する懸念
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html





2011年11月26日土曜日

"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて




ある中学生が書いた英文は、


I if become soccer player is play hard.


だった。

「ボクは、もしサッカー選手になったら、がんばってプレーしたい」の直訳的表現だろう。全国いたるところでこのような「英語」を書く中学生・高校生は見られる(いや、一部の大学生だってそうだろう)。


私は今、武術を教えていただいているが、私の技には穴だらけなのにもかかわらず、指導者は一番大切なことの指導だけに集中してくださる。私の技の欠点(例えば)7つを同時に指摘することなどせずに、その武術を成立させているもっとも大切な術理の体得だけに指導を絞り、なんとか私の技が武術の技として成立することに専心してくださる。

英語教師というのは、生徒よりはるかに英語ができるのだから、生徒の英語を見たらすぐにその間違いを指摘したがる。それもすべて。

しかし、もし私の武術の先生が私の技の間違いをすべて一時に指摘し修正しようとすれば私が意欲を失い自分は駄目だと思ってしまうように、多くの生徒も間違いをすべて指摘され修正を求められたら意欲や自信を失ってしまうかもしれない。(ついでながら言うと、もし私の武術の先生が、毎回秘かに「客観的なキジュン」で私の「関心・意欲・態度」を評価しており毎期末にそれを私に厳かに告げるのだとしたら、私はしらけるか呆れてしまうだろう。私が稽古に望んでいることはそのようなことではない ― 学校教育の慣行を、自分の武術稽古と重ねてみると違和感を感じることが多い ―)。

話を指導に戻すなら、指導者がやらなければならないことは、もっとも大切な点 ― そこを欠いては技が技として成立しない術理 ― が何かを見極め、そこを学習者が体得することに工夫を凝らすことだろう。


それでは中学英語にとって最も大切な点とは何だろう。中学英語での学習項目のうち、どこが駄目なら英語のコミュニケーションが成立しなくなるのだろう。


発音を除くなら、それはやはり語順だろう。あるベテラン中学教師にも同意していただいて意を強くしたが、まずは中学生に、英語とは、


S V Plus


の言語であることを体得させることだろう。

まず明確に主語(日本語の「主題」ではなく、agentであることが多い)を述べ、続いてすぐに動詞(多くはactionを表す)を述べる。続いて、そのSVのメッセージが必要とする限りの情報(Plus)を付け足す。当面必要とされる情報が埋められれば文は完成。そうでなければ必要な情報を適切な形式で追加する。この順番で必要にして最小限の単語を適切な形式で加えてゆく。(参考記事:「田地野彰先生と田尻悟郎先生それぞれによる学習英文法書」

無論、この原理以外にも大切なことはたくさんある。この原理以外を最も大切な原理と考える方もいらっしゃるかもしれないし、またこの原理を別の方法で表現される方もいらっしゃるかもしれない。だがともあれ、指導者は、英語でのコミュニケーションのために最も重要なことを見極め、そこの指導を徹底しなければならない。そしてそこがかなりの程度できるようになったら、次に大切なことの指導に移るようにすべきだろう。


いずれにせよ、日本の英語教育研究というのは、


I if become soccer player is play hard.


といった目の前の現実から始めなければ、砂上の楼閣だろう。




追記

S V Plus 以前の大切な点の一つは、アルファベットの弁別的特徴distincitve feature)だろう。

たとえばこのフォントでの"a"は、"d"と右側の縦線の曲がり具合により弁別されるが、この曲がり具合はどのくらい小さくなれば"d"となるのだろう。あるいはこの縦線が短くなればそれは"a"(このフォントのような曲線でなく、短い右縦線を使う「エィ」)と認識されるが、その垂直線はどのくらい短ければ「エィ」でどのくらい長ければ"d"なのだろう。アルファベットの26文字は、相互にどのように弁別されるのだろう。また、それぞれの文字のプロトタイプの特徴とは何なのだろう。

こういった実践研究は、きっと過去にもなされてきたのだろうと思うけど、残念ながら私は知らない。誰かご存知でしたら教えていただけませんか? もしそんな研究が過去にはなかったら(今は忙しくて実現可能性があまり高くないけど)、一緒に研究しませんか?





2011年11月24日木曜日

内田樹氏による根本的な教育論が今重大な意味をもつ




きたる11月27日の大阪市長選挙は、橋下徹氏の維新の会による「教育基本条例」をめぐる戦いでもあり、この選挙の結果は、今後の日本の教育のあり方に大きな影響を与えることが予測されます。

政治活動に関してはかなり抑制的な態度を貫いてきた内田樹氏も、橋下徹氏の教育観に強い懸念を示し、この度、長文の声明をブログに掲載しました。



平松さんの支援集会で話したこと
http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php



この声明は、時局的・政局的なものではなく、教育に関する根本的な原則論でありますので、日頃内田氏の言説に興味を持つ方も、持たない方もぜひご一読いただきたく思います。これは大阪だけの問題ではありません。ましてや橋本氏・平松氏といった個人の問題でもありません。日本の教育、ひいては未来をどう考えるかという問題です。


以下は、私なりに印象に残った箇所を抜粋したものです。ただし太字でつけた見出しは私がつけたものであり、内田氏によるものではありません。



ビジネスは失敗すればやり直すことが活力。しかし人間の教育にやり直しはきかない。


人体実験ができない以上、教育現場ができるのは、「マイナーチェンジ」だけです。子供たちの成長に合わせてゆっくり変えてゆく。経験的に「これでまあ大丈夫」という教育方法を実践しつつ、微調整してゆく。

たしかに社会は急激に変化していきます。政治だって変わる。でも、そうした外の社会の変化のスピードに学校は合わせちゃいけないんです。ビジネスなら、新しいビジネスモデルを取り入れて、起業して、市場にその適否の判断を委ねるということができる。それはすぐわかる。ビジネスにおいては「マーケットは間違えない」というルールでゲームをやってますから。正しければ儲かり、間違っていれば倒産する。それだけのことです。でも、実際には設立された株式会社のうち、20年後まで生き残っているのは100社に1社程度でしょう。会社ならそれでいい。でも、こっちは生身の人間が相手なんです。1%なんていう歩留まりで教育モデルを試すわけにはゆきません。100人中99人は「教育に失敗しました」というようなことを教師は言う訳にはゆかない。

教育はビジネスと同日には論じられないというのは、そういうことです。失敗が許されないんです。だから、「長い経験によって、これはまあ大丈夫だということがわかっているやりかた」をベースにして、少しずつ微調整する以外に手立てがない。それに対して、「社会の変化のスピードに対応してない」というような批判を向けるのは、ナンセンスなんです。生身の人間が相手なんですから。ちょっと動かしてみて、間違ったらすぐに戻れるようなように慎重にやってみて、上手く行ったなと思ったら、「こういうやり方、割といいですよ」ということをアナウンスして、また少し進める。尺取り虫のような、こういう緩慢な方法しか教育現場には許されないのです。それが政治や市場と全く違うところなんですが、この一番基本的なことがなかなかご理解頂けない。






教育の目的は社会を支える成熟した公民を育てること。成熟した公民がいない社会では、ビジネスも政治も私利私欲にまみれた餓鬼の営みとなる。


教育というのは我々のこの共同体の次世代の「フルメンバー」たりうる人を育成し、継続的に供給するためのものです。政治イデオロギーとも、金儲けとも関係ない。それ以前の話なんです。みなさんが楽しく政治やビジネスができるような社会のそもそもの基礎づくりとして学校は存在する。

子供たちは商品じゃないし、人材でもない。彼らは次代の我々の共同体のメンバーです。それを作り出さなければいけない。社会を担う成熟した公民をきちんと育成してゆかなければ、この共同体そのものが保たないから。

裁判が正邪の「裁き」を下すように、医療が「癒し」の機能を担うように、教育は「学び」の機能を担うものです。裁き、癒し、そして学び、これは人類が誕生したときから、その最初の人間集団から既に存在していたはずです。

裁きのシステムと医療のシステムと教育のシステムを持っていた集団は効果的にその成員たちを守ることができ、衣食住のような生活資源をフェアに分配できた。そういう集団だけが生き残り、裁きや癒しや学びのシステムを持たなかった集団は滅びていった。当然ですね。集団内部で正邪理非の判定が行われない、怪我しても病気をしても誰もケアしてくれない、大人たちは子供たちを放置して、生き延びるための技術も知識も教えない・・・そんな社会集団が存続できたはずがない。

制度資本というのは、そういう太古的なものなんです。代議制民主主義や資本主義ができるよりはるかに昔から存在した。だから、それに今の政治イデオロギーやビジネスモデルが適用できるはずがないんです。

教育の目的は、ですから、そういう古代的な集団を思い浮かべればすぐ理解できるはずです。狩猟や採取で生きている集団なら、大人は子供たちに狩りの仕方を教える、食べられる植物と毒草や毒キノコの見分け方を教える、火の起こし方、道具の作り方、気象の見方、集団における正しいふるまい方を教えた。生きて行く上での基本的な技術を、ある程度の年齢になれば必ず年長者が組織的に子供たちに教えたはずなんです。子供たちに自分のたちが祖先から伝えられたものを継承しておかないと、その集団そのものが存続し得ないから。学校教育の機能もそれと同じです。集団そのものを存続させるための知恵と力を子供たちに授けること、これに尽くされる。

学校教育の目的は、次世代においてこの集団を支える成熟した市民を一定数(全部とはいいません)、継続的に供給していくことです。それが教育の第一目的です。最初で最後の目的です。それ以外の目的は全て副次的なものに過ぎません。

ですから、ある教育方法について、その適否を吟味する基準があるとすれば、それは提唱されたその教育方法に従った場合、子供たちの公民的成熟にどのようなプラス効果があるのか、それを見る以外にない。あなたが提唱されるその教育方法を適用すると、子供たちが成熟した市民に育つ上で、どのような効果が期待されるのか、その見通しをまずお聞かせ願いたい。そう問うべきだと僕は思います。

しかし、今行われている教育についての議論の中で、「子供たちの公民的成熟に資するかどうか」という基準に基づいて教育実践の適否を論じる人はほとんどいない。

今日は会場にメディアの方もいらしているので申し上げますが、教育について議論する新聞やテレビ番組が多く存在しますが、今のような基準から教育改革の適否を論じたメディアを見たことがない。こういうことをやると点数が上がる、偏差値が上がる、英語ができるようになる、読解力が上がる。たしかにそんな話はしている。きっとそれが教育の全部だと思っているんでしょう。でも、そんなものが一体何になるのか。そんなものを僕は教育の目的だとは思っていません。






競争で無理やり学力テストの点数を上げても、子どもが自ら学び自分と周囲の人々を幸せにしようとする意欲と力がますます下がってしまっては本末転倒。


今の日本の子供たちは劇的に学力が低下しています。それは僕も認めます。でも、その人たちの言っている「学力」と僕が言っている「学力」はたぶん全く別のことです。彼らが「学力」と読んでいるのは、単に成績のこと、点数のことです。

確かに、そういう意味での学力も下がっている。これは事実です。絶対的な知識の学力は二〇年前に比べて確かに下がっています。予備校では同学齢集団に、毎年同時期に同じ難度の模試を受けさせます。偏差値は同学齢集団内部のポジションを示す数値ですから、それをみても「学力」の経年変化はわからないが、試験の素点を見れば絶対学力の変化がわかります。それによると、素点は毎年下がっている。20年前からずっと下がり続けている。

でも、問題はそのことではないんです。成績が下がっていることより「学ぶ力」が劣化していることが問題なんです。ふつう「学力」というのは点数のことです。数値で示されるものです。でも、そんなものでは学力の一部分しか測定できない。「学ぶ力」そのものは測定できない。

学ぶ力とは何か。乾いたスポンジが水を吸うように、自分が有用だと思う知識や技術や情報をどんどん貪欲に吸い込んで、自分自身の生きる知恵と力を高めていって、共同体を支え得るだけの公民的成熟を果たすこと。それを「学ぶ力」という。僕はそう理解しています。






人間の成長・成熟、つまり教育の効果とは、予測・計画できるものではない。予測し計画できる教育の結果ばかりを出そうとする者は、教育について根本的に錯誤をしている。


成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。というのは、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行動を説明することができるようになるということだからです。だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがない。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。
 
教育の効果というのは事後的にしか分からない。ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかった。たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。その時点ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。

そういう非常にダイナミックなかたちで教育の価値、教育のアウトカムは現実化する。ですからもし教育に意味があるとすれば、それは教育を受けた人がそれによって成長したということです。成長しなければ、教育の意味は発見されないし、認知されないし、言葉にならない。






教育は商品でない。ビジネス・市場のメタファーで教育を語ってはいけない。


ですから、知識や技術で得る免状や資格といったものが、教育の目的だと考えるのは完全な誤解です。どうして、そんな誤りが起こるのか。それは、ビジネス・マインドで教育を考えるからです。教育を商品とみなしているからです。

子供たちが五〇分間黙って授業を聞くとか、校則を守るとか、教師に対して恭順な態度を示すとか、そういうことは彼らにとって「苦役」だと考えられている。これが子供たちが学校に差し出す「代価」です。これだけの代価を払っているのだから、それにふさわしい商品を出せ、と。そういう「商取引」のスキームで今の子供たちは教育を見ています。

実際に、「子供たちは消費者です。彼らクライアントのニーズに見合うようなより質の高い教育商品教育サービスを提供するのが学校の使命です」と平然と言い放つ学校関係者がいます。メディアもそういう言葉を無批判に垂れ流している。教育とは商取引の一種である、というのが現在もっとも流布している教育についての誤解です。申し訳ないけれど、そういうことを言う人たちは、教育の本質を全く分かっていない。教育は商品ではありません。






日本が国際社会で尊敬を受けていないのは金儲けが下手だからではない。成熟した大人がいないからだ。


日本は世界三位の経済大国ですよ。これだけの経済大国でありながら、世界に対してなんら強い指南力を発揮できないでいる。国際社会で侮られている。それは事実です。でも、それは日本に「金がない」からじゃありません。軍事力がないからでもない。日本に大人がいないからです。国際社会の中の子供だと思われているからです。成功した他国のモデルをどうやって真似たらいいか、それをきょろきょろ探している。最小限の努力で最大限の利益を得るためにはどうしたらいいのか、そればかり考えている。国際社会における威信がそんなに「せこく」て、小利口なふるまい方をする国に寄せられるはずがないじゃないですか。国際社会から十分な敬意を寄せられたいと、本気で思うなら、二一世紀の国際社会を導くような骨太の、雄渾な、品格のある、「世界はかくあるべきだ」というヴィジョンを提示するしかない。国力というのは、そういうものじゃないんですか?マレーシアのマハティールだって、シンガポールのリー・クワン・ユーだって、小国の元首であるにもかかわらず、世界中がその言動に注目していた。経済力や軍事力のせいじゃないですよ。国際社会が傾聴するに足るだけの堂々たるヴィジョンを語ったからです。日本の総理大臣のステートメントに誰も耳を貸さないのは、中身がないからです。どうやったら儲かるのか、どうやったら「バスに乗り遅れずに済むか」というようなことだけ考えている人間の話を誰がまじめに聞きますか。
日本が国際社会で「負けて」いるのは、金儲けが下手だからじゃありません。国際社会を導いてゆくという気概がないからです。「バスに乗り遅れちゃいけない」というような言葉を政治家が口走るということは、自分でバスを設計して、路線を決め、運転し、乗る人を集めるという発想が彼らにはまったくないということを暴露している。すでに他人がルールを決めたゲームの中でどうやってうまく立ち回るかだけ考えている。そんな国の人間の話を誰が聞くものですか。誰がその指南力に服しようとするものですか。






これまでの新自由主義の歪みが、数々の金融危機や民衆デモで世界中で明らかになっている今、さらに新自由主義的に社会の連帯を破壊することは歴史の流れを読み違えている。


これからはどうやって共同体を再生させてゆくか、乏しい資源をどうやってフェアにわかちあうか、競争的環境を抑制して、お互いに支援し合い、扶助し合うネットワークをどう構築するかということが喫緊の政治課題となる。そういう歴史的状況の大きな変化が始まっているんです。そんな歴史的激動のときに、「人参と鞭」のような古典的な道具を持ち出してきて、社会的連帯の解体を進めようとする歴史感覚の悪さに僕はつよい不安を感じるのです。



教師の皆さん、保護者の皆さん、今学校で学ぶ生徒・学生の皆さん、教育の恩恵を受けるすべての皆さん、今一度教育について根源的に考えませんか。






2011年11月23日水曜日

佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて




松井孝志先生が事務局長を勤める「第4回 山口県英語教育フォーラム」で佐藤綾子(さとう・りょうこ)先生と萩原一郎(はぎわら・いちろう)先生のお話を聞く機会に恵まれました。お二人のお話を聞いて感じたことをここに書きます。


まずは佐藤綾子先生から。

佐藤先生は、「自然体」とことさらに表現することがおこがましいような自然体の先生でした。発問がすばらしく、これは生徒が先生を慕うだろうし、その中で生徒は自然と力をつけてくるだろうと思わざるを得ませんでした。


■発問の筋の良さ

発問というのは、下手をするとどうも理屈だけで考えたものになり、教師の意図が染みこんでしまった"loaded question"になったり、教師の解釈で学びをねじ曲げてしまうような"leading question"になります。ところが佐藤先生の発問は自然です。発問の内容も仕方も、無理がなく、このような発問には自然と人は心を寄せるだろうと思いました。

発問は内容だけでなく、仕方(口調なども含む問いかけ方)も重要ですから、佐藤先生の発問をここに文章だけで再現するのは不可能なのですが、発問の内容だけここに簡単に掲載します。


例えば中学校1年生の次のような本文があります。


Emi: Good morning.
Ms. Green: Good morning.
Emi: I'm Emi.
Ms. Green: I'm Ann Green.


この本文を佐藤先生は「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返るために読む」ことに使います。

そこで発問をしてゆき、さらに

I'm Shinnosuke. 
I'm Giant. 
I'm Norimaki Arare. 
I'm a cat. 


といった例文を追加し、強引に教師の意図に生徒を強引に連れ込むのではなく、自然と生徒の気づきを促してゆきます(皆さんでしたら、上の英文でどう発問をしますか?)

佐藤先生の場合では、生徒は

・日本語には自分を表す言葉がたくさんある。
・だれが・だれに・どんな場面でが大切
・省略しても意味が通じる
・一つの単語に一つの意味ではない。
・記号が違う(句読点とピリオド)


ことなどに気づき、「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返る」ことができるようになっています。



あるいは同じく中学校一年生の次の本文では、きちんと音読させる指示で「書き手の意図を読むために音読する授業」を成立させます。以下の本文は折り紙を見ながらの対話です。


Mike: What's this?
Judy: I don't know. Is it an animal?
Mike: Yes, it is. It's a rabbit.
Judy: Really?


佐藤先生は「具体的な状況をイメージしないとどう音読すればよいか決められない」と言います。上のように簡単な英文であればあるほど、このことは当てはまります。

ところが昨今の英語教育系は音読といえばとかく「トレーニング系」の音読ばかりが流行し、書き手のメッセージ(意図・場面・状況など)をリアルに思い描くための手段としての音読、話し手の思いを伝えうとすることにより読解が深まる音読が、おろそかになってしまっています。

極端な言い方をすれば、上記の英文を、MikeとJudyの気持が手に取るようにわかるように音読できる英語教師はどれぐらいいるでしょう。これは正確な発音とは別の、しかしおそらくはそれよりも重要な問題です。佐藤先生はこの大切なことを見失わない言語的感性が鋭敏です。



二年生の英文では、「言葉のはたらきに気づくことで書き手の感動を読む授業」を目指します。例えば次の英文のうち、一文だけを取り上げて発問するとすれば皆さんでしたらどの文を選びますか。そしてそれをどのような問いで、どのような問いかけ方で生徒に働きかけますか?


I enjoyed "Baseball Dogs" very much. Rio jumped into the water and brought a baseball back to the boat. Rio looked really happy. I didn't know about BARK before. It's a team of dogs like Rio. They were once street dogs, but they practiced hard and learned a lot. Now they have their own home and a job.


佐藤先生は、ある箇所の問いから、生徒にこの書き手の心を読み解くための気づきを生み出し、さらにそこから自然に発問を展開させる中で、生徒に他の箇所にも書き手の心がどのように表現されているかを次々に気づかせてゆきます。これも見事でした(こういった発問がマニュアル化することを防ぐため、ここでは発問の箇所も伏せます。皆さんならどこの箇所を、どのように問いかけますか ― もちろん問いも問いかけ方も一つは限りませんし、何より生徒の反応により発問の発展は異なるものですが ―)。



■自然な感性がものさし

このように発問があまりにも見事 ― というよりも自然 ― なので、私は質疑応答の時に真っ先に手を上げて、多くの英語教師が、Teaching Manualや各種理論に振り回されて妙な発問ばかりをつくりあげてしまうのに、どうしてそのように筋の良い発問ができるのか・展開できるのか、と問いました。秘密を知りたかったのです。

ところが答えはこちらが拍子抜けしてしまうほどにあっさりとしたものでした。「発問は私一人で考えたものというより、同僚の先生方に聞いたりするうちに、自然とできあがってくるものです」 ― この言葉を佐藤先生は、おそらくは謙遜や照れでなく率直な気持でさらりとおっしゃいました。これがすごい。私が冒頭で、「『自然体』とことさらに表現することがおこがましいような自然体」と申し上げたのはこういった事態をさしています。

もしかすると佐藤先生は、『千と千尋の神隠し』の千尋のように、自然と人々が心を寄せるような自然な感性を失っていないのかもしれません。



■鏡に姿を映すような自己認識

私が佐藤先生とは今回お会いしただけなのに、上記のような佐藤先生の感性についてのことを申し上げますのも、佐藤先生がご自身「教師年表を作ってみませんか」と提唱する中で披露したエピソードに、先生の感性のあり方が示されていたように思えるからです。

例えば、新任1-4年目の時機を振り返り、佐藤先生はそれを「勘違いの時期」と呼びます。その頃は「先生」と呼ばれるだけで嬉しく、せいぜい有名な先生のいいとこ取りをパッチワークで行うだけだったそうです。その頃の自分を佐藤先生は「こういう授業をしたい、とは思っても、こういう生徒を育てたいという願いがなかった」と振り返ります。そしておっしゃったのが「遠くの有名な先生ではなく、身近な同僚の先生に相談すべきだった」と言うことです。この台詞も私は深いと思います。

そんな中、佐藤先生はある時にある人に「よくそんな英語力で教師になりましたね」と言われたそうです。ところが佐藤先生はその台詞に反発することなく、「英語学習者の一人として教壇に立つこと」の重要性に開眼します。この素直さがすばらしい。

さらにある授業では、「誘いを断る英文を書きなさい」という指示で、多くの生徒が模範解答の"I have a lot of things to do".などと書く中で、ある生徒は「アイビジー」とbe動詞なしでしかもカタカナで書きます。これを見た佐藤先生は「これでいい。むしろ発想が素晴らしい。こんな発想ができる生徒を育てたい」と思ったそうです。この感性が素晴らしいと、感性の濁った私などは驚嘆してしまいます。

とっておきのエピソードは、佐藤先生がある難聴の生徒に対応するために、パワーポイントスライドだけで、ほとんど英語の授業ができるようにした時期のことです。そのスライドの一部は講演会でも公開されましたが、そこでは「Be動詞はジャイアン、一般動詞はのび太。共に登場することはないが、(進行形などの時に)共に登場するとジャイアンがのび太に命令して、のび太の形を変えさせる」、「ジャイアンは強いから自分一人だけで疑問文を作れるが、のび太は弱いから疑問文をつくる時にドラえもん(Do)の助けが必要」などと見事なものでした(これこそ学習英文法!?)。

そうしてスライドを充実させてゆく中、ある時に佐藤先生は出張しなければならなくなり、ある先生に授業代行を頼むことになります。その先生に、「これだけで授業はできますから」とスライドファイルを渡した瞬間に、佐藤先生は、「自分はこれだけの教師だけでしかない。生徒とのインタラクションもない教師に過ぎない」と直覚したそうです。「また勘違いをしていた」と瞬時に自覚したそうです。

ここも素晴らしい。私なら他人にスライドを渡すだけで授業ができるようにまで準備した自分に驕り慢心してしまいそうなところを、佐藤先生は、他人に指摘されることもなく、自ら、直観的に自己像を得ます。これがすごい。

人間が自己を理解することは困難です。私などの人間は、まるで粘土で像を作り上げるようにやたらとこねくりまわして、いつのまにか「こうであってはならない。こうならなくては」と自己像から離れた虚像を作り上げ、それをもって自己像だと錯誤してしまいます。他の人は、油絵を重ね塗りするように、何度も描き足し描き足し迷ってしまうかもしれません。人によっては、さらさらと鉛筆書きするように少ないタッチで自分の本質を描くかもしれません。

でも私が佐藤先生の中に見たと信じているような人は、鏡が像を映すように自己像を得ます。そこには言葉も意識もなく、ただ前に立った者の姿が映るだけです。そんな自然な感性は、対人の仕事である教師にとって本質的な重要性をもつことではないかと思います。

とにかくいいお話を聞けました。皆さんの周囲にも佐藤先生のように派手さはないかもしれませんが、自然と場を良いものにしてくれる感性の持ち主である同僚がいらっしゃるかもしれません。私たちはそんな同僚にこそ学ぶべきなのかもしれません。



追記

間違いを恐れ上記の原稿を佐藤先生に事前にチェックしてもらいましたが(私はある方のことを書く時には、できるだけ事前にその方に原稿を見てもらうようにしています)、佐藤先生からは以下のようなお返事をいただきました。一部ですが、そのまま掲載することとします(この掲載についても許可を得ております)。


たくさんプラスに分析していただいてありがとうございます。誰のことだろう???と思えるくらい美化されているような。私は本当にだめなところがたくさんあって、多くの先生方との関わりの中で育てていただいたことの方がずっとずっと多く、「自分一人で授業を作れる」なんて変な自信をもってしまうことの愚かさを日々感じています。その辺りを加筆していただけるとありがたいです。

文字にすると実際よりも大きく見えてしまう怖さを感じつつ、さらに精進しなくては。。。と気を引き締めて頑張ります。先日の発表が、「あ~、またまた勘違い!」と思える日が来るのを楽しみにしつつ、実践を重ねていきたいと思います。

さとうりょうこ








次に萩原一郎先生についてです。


萩原先生のご発表は先生の30年近くの高校実践をまとめたものでしたので盛りだくさんでした。発表資料も大部にわたるものでしたので、ここでは特に印象的だったことだけを書きます。



■教師は価値判断抜きに生徒の応答を観察すべき

生徒は時に英語を次のように理解します。

Love begins at home
⇒家を愛し始める

It is only a drop in the ocean.
⇒海に落ちた

can't
⇒can it (「それができる」の縮約形)


あるいは次のような英文を書きます。

grandmother made accessory a lot of bought. (沖縄修学旅行レポートより)


こういった応答に対して「違うだろう、駄目じゃないか」と叱責することは誰でもできること(そして言っても詮無いこと)でしょうから、教育のプロとしての教師は、ここから生徒の理解の様子を分析するべきでしょう。ちょうど優れた医者が患者を観て「駄目じゃないか、こんな病気になって」などと言っても無用のことを言わずに、何がこのような症状を引き起こしているかを静かに推定するように。温かい表情で語る萩原先生も、「仁術」として授業を行なっているように思えました。



■まずは単語を音読できるように丁寧に指導する

英語の基礎訓練の一つは音読ですが、音読もそれぞれの単語が楽に読めないと、とても英語力をつける訓練にはなりません。しかしおそらくは言語の才能を平均以上に持つ英語教師は、英単語を読めることを当然に思い、単語が読めない生徒に寄り添うことを怠ってしまいます。

萩原先生は、単語の読み方(つまりはフォニックス)も丁寧に行います。生徒がある単語を読めないことがわかると、すぐさまに生徒が読める既修単語を引き出し、そこから分析的な類推で読めない単語を読めるようにします。

そのようにすぐにフォニックス指導ができる一つの要因は、萩原先生が教科書の本文を、すべて一つのファイルに入力していることに求められるでしょう。教科書全文が一つのファイルに入っていますから、例えば"ur"を検索すればその綴りを含む単語がすぐに取り出せます。

当たり前のようでいてとても便利な工夫です。一人で入力してもいいですが、他の教師と協力して入力して(教室内での利用および私的利用のみに限定して)ファイルを共有すれば何かと使い勝手のよいファイルとなるでしょう。丁寧に指導するにせよ、できるだけ仕事を合理化することが重要かと改めて思わされました。



■適宜、日本語で自分の思いを表現させることで、かえって英語を印象づける

萩原先生は、英語による自己表現を重視しています。しかし生徒の思いすべてを英語で表現させようとすることは、多くの生徒にとって負担が大きすぎます。そこで萩原先生がとっている手段は、一文だけ英語で表現させて、その英文に込めた思いは日本語で書かせる方法です。

たとえば「"I will not forget the day when ..."で『自分の忘れられない思い出』を書く」という課題では、生徒は"I will not forget the day when my sister was born", "I will not forget the day when my grandmother died", "I will not forget the day when I retired from club activities."といった英文を書きます。それぞれの生徒はその自分の英文に数行の日本語を付け加え、その英文に込めた思いや背景事情を、英語では表現できない精度で説明します。この追加で、英語も、書いた当人だけでなく読む他の生徒にとっても印象深いものになるかと思います。



■要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか

こうして山口県英語教育フォーラムでは、組田先生、佐藤先生、萩原先生の話を連続して聞くことができましたが、その三人で共通していることは、肩肘張らずに生徒の心に寄り添い、生徒の心を理解していることでした。教育方法・技術はすべてその理解に基づいて行われているようにも思えます。決して「最初に方法・技術ありき」ではないのです。

教師という職業においても、要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか、が問われているのかと思いました。四角四面の理屈で他人の心をつぶしがちな私としては大いに反省させられます。


このように豊かな学びの機会を主催してくださった、松井先生を始めとした「長州英語指導研究会」の皆さんと、協賛してくださった山口県鴻城高等学校様とベネッセコーポレーション様には心から感謝します。ありがとうございました。





2011年11月22日火曜日

組田幸一郎先生の講演を聞いて




組田幸一郎先生の話を、広島大学山口県英語教育フォーラムで聞くことができました。よかった。とてもよかった。私はこの二つの機会で4時間以上話を聞き、その前後の機会にもいろいろと組田先生の話を聞いたのですが、非常にためになりました。可能なら、二、三日かけて集中講義の形で聞きたかったです。参加者の反応も非常によかったです。

組田先生は、日頃は見捨てられ話題にされにくいトピックを扱っています。それは英語ができないままに進学してしまった生徒たちです。挫折感や劣等感に苛まされ、その上(私のように)そういった事情をきちんと理解していない教師に、言う方には悪意はなくとも聞く方からすれば自分の存在をまるごと否定されるような言葉をかけられてしまう生徒たちです。

こういったリメディアル英語教育について組田先生は、ひつじ書房の『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』でもかなり書いてくださっていますが、もちろんこのトピックはそれだけでは終わりません。今回の話は、この本を共に編集した私にとっても非常にためになるものでしたから、リメディアル英語教育についてほとんど何も知らない学生たちには、またとない学習機会になったことと思います。

教員になる人はほとんどの場合、露骨な言い方をしますなら、大学を出るだけの所与条件(家庭状況や知能指数など)に恵まれています。ですから、経済的にも認知的にも進学なんてまるで考えられない生徒の状況はなかなか理解できません。状況理解も難しいわけですから、心理的な共感はさらに困難です。そのような理解不足の中で、新任教師が、指導にとって最も重要な最初の数週間・数ヶ月を混乱したまま過ごすことは、その教師だけでなく、生徒にとっても、さらにはその生徒の保護者にとっても、いや誰にとっても幸福なことではありません。

ただこのリメディアル教育というのは、語りにくいトピックです。私は先ほどから「教育困難校」という表現を使ったものか、それとも使わずに済ませられるかと呻吟しながら文章を書いていますが、世の中にはさらに差別的な「底辺校」と言った表現すらあります。私たちのものさしを学力試験の偏差値から人間的成熟に変えるなら、「教育困難」や「底辺」といった言葉の使い方も変わってくるかと思うのですが、学力試験的学力観に偏った現代社会は、理の当然として存在する偏差値の「下半分」の学校に、とかく不名誉な烙印を押し、その学校の生徒と教師のやる気をそごうとしています。

今回、組田先生がお話下さった内容は、組田先生に改めて(できれば書籍の形で)文章化していただければ嬉しいと勝手ながら願っています。この話題は丁寧に、そして具体的に書かなければならないからです。これは私がまだ一人で考えているだけのことですが、私は可能なら、大学進学をしないことが当然視されている高校での英語教育についての本を編集して出版したく思っています。大学進学や学習指導要領などのタテマエが通じない現場でこそ、英語教育と英語教師の真価が問われるからです。そのような現場で、世間からの脚光もほとんど浴びることなく、知恵と努力と使命感ですばらしい実践をなさっている先生方の存在を私は承知しております。そのような現場に、その現場が当然受けるべき光を導きたく思っています。

英語教育も、日頃は成績上位の「エリート」ばかりに注目しがちです。しかし日本の真価はエリートよりも庶民にあります。3.11以降に改めて明らかになったことは、日本のエリートが存外に無能である一方(過去記事:「日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。(その1:日本の「偉い人」)」)など今年4月5月の記事をお読みいただけたら幸いです)、被災地の「庶民」が見せた助け合いの心・我慢強さ・しなやかさ・回復力などは驚くべきのであったことです。諸外国メディアが、被災者の態度に感銘を受けたことは記憶に新しいと思います。

日本は、「庶民」の品位と教養が高いことをその国力の源泉としています。「庶民」が、利己主義の亡者でなく、他人を思いやる心を有していることが、近世以来諸外国の人々を驚かせていることです。

しかしその日本の国力とて未来永劫続くとは限りません。もし日本のエリートがこれ以上利己主義の亡者になり、「自己責任」や「競争原理」といった言葉を乱用し、人々を次々に切り捨て、一部の者だけが利権を恒常的に貪るような体制づくりをさらに進めていくなら、私たちは他人を思いやることではなく、他人を上手に見捨て切り捨てることこそが「学び」と錯誤するようになるかもしれません。古今東西の賢人がそろって戒めている我欲・我執がますますはびこり、日本の庶民の品位と教養も失われてゆくかもしれません。

学校の勉強が得意な者がいれば、不得意な者もいる。これは理の当然です。しかし、学校の勉強が人生や社会のすべてではない。だから学校の勉強ができない者も、自らの人生を幸福にし、その周りの仲間・共同体・社会を共に豊かなものにできるようなやり方で、きちんとした教育を受ける権利を有します。「すべて国民は、個人として尊重され」(日本国憲法第13条)、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し(同25条)、「法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(同26条)ことこそが、「この国のかたち」(constitution)です。



ごめんなさい。私の悪い癖で熱くなりすぎました。社会正義を語ろうとする者は、自らの中に「正義」という名のもとに結集してしまったものの凶々しさを十二分に自覚しておかないと、やがては自他を破壊してしまうのかもしれません。私たちは「正義」を忘れるわけにはいきませんが、他方「正義」ほどに恐ろしいものはないことは、歴史や文学が明らかにしている通りです。

この点、組田先生は、まるでジョージ秋山の漫画『浮浪雲』の主人公のように飄々とリメディアル英語教育を語りました(ちなみに組田先生を理解するためには、講演会だけでなく懇親会にも行く必要があることは一部関係者が激しく頷くところです(笑)。懇親会で示すような組田先生がなければ、組田先生も自らの正義に絡め取られてしまうのかもしれません(注1))。あるいは(格闘技に興味ない人ごめんなさい)、組田先生のスタイルはロシア武術のシステマにも似ています(注2)。力みのない自然体だから、俗世間の考えで固まってしまった私達からすれば、驚くほかないほど理にかなった動きが出てきます。





以下は、私なりに感じたことの駄文です。本格的な文章は、特に英語指導の具体的なあり方については、上にも書きましたように、できたら組田先生の出版物に待ちたいと思います。




■「正論」の怖さ

教師はついつい「正論」を語ります。しかも問題を抱えている生徒や保護者当人に対して。あたかもその当人が問題を理解していないように。そんな「正論」は当人にとって責めの言葉にしか聞こえません。だから当人は心を閉ざしてしまいます。時に敵対しようとします。そうすると教師は、「正論」を聞く耳持たないとは信じられないとばかりに、当人をますます否定的に扱います。

これは、私もしばしばやっていることです。お恥ずかしい限り。自分が未成熟だから、他人の欠点を受け入れられないのでしょう。あるいは自分が不安だから、他人を見下すことで精神の安定を得ようとしているのでしょうか。いや、自分の心身が焦燥しているから、そのイライラを他人にぶつけているだけなのかもしれません。いずれにせよ、これでは教師失格です。正論を言わなければならない教師こそ、正論の語り方、あるいは正論についての沈黙の守り方を学ばなければなりません。組田先生のエピソード(成功、そして失敗)は「正論」のあり方についていろいろと考えさせてくれるものでした。



■スローガンはいつ唱えられるのか

正論と重なるのがスローガンです。無能な人は管理階層の上に行けば行くほど、他人にスローガンを押し付けるようになります。もちろん、私達が五里霧中の状態にある時には、進むべき方向を簡明に示すスローガンは必要ですし有効です。ですが、私達は他人を管理する立場になると、必要以上にスローガンを乱用しようとします。

正論と同様、スローガンもひょっとしたら管理者の焦りであり不安なのかもしれません。青筋を立ててスローガンを連呼する人がいたら、気をつけましょう。私たちはその人がスローガンを連呼しなければならない社会構造を理解しようと努力しつつ、その社会構造が生み出す歪みを警戒し、冷静に社会構造の修正と改革を考えるべきでしょう。

社会構造あっての人間ではなく、人間あっての社会構造です。高度に複合化した現代社会で、全面的改革は不可能ですし、そのような試みはかえって悲劇を招くだけです。しかし、私達にやれることは、スローガンを連呼せざるを得ない人の歪みを敏感に察知し、そのような焦燥に静かに首を横に振ることです。一人の否定はわずかなものですが、多くの人々がそれぞれの機会にそれぞれのやり方で否定を重ねれば、それは確かな力になるはずです。スローガンの硬直した連呼には、力みのない静かな否定で応えたく思えます(無論、多くの人の否定にもかかわらず権力者が横暴を止めないなら、私たちは静かに次々と立ち上がるべきですが)。



■技法と心法

組田先生はさまざまなエピソードを紹介しながら「技術や理論が完璧だったら魂が揺さぶられるか」、「どうして英語教育では技術の話題が多くなってしまったのだろうか」と問いかけます。多くの英語教師は、大学受験や標準テストの数値、あるいは「英語ぐらいできないと・・・」といった自分でもきちんと検討したわけではない通俗的なスローガンや学習指導要領の片言隻句によって、いつのまにか自分が教師になった初心を忘れ、目の前の生徒の姿を正面から見ることを怠ってしまいます。

ある教育技術に心酔しはじめた英語教師は、技術だけを独立して語る不毛な技術論ばかりをネットや授業研究会や学会で重ねます。技術は、もちろんのこと、教師・生徒・学級のキャラクターや能力、発達段階や機運、そして何より教師の願い・哲学によって毒にも薬にもなります。そういった要素を「ノイズ」として切り捨てる研究は、数千・数万人対象のマクロな調査ならともかくも、数十人対象のミクロな調査では、何とも結論を出し難いものにすぎません。

しかし多くの英語教育関係者は、そのようなミクロな調査の結果だけをもって(時にはそういった調査なしの思い込みだけで)ある技術の卓越性を信じて疑わず、それを他人・他校に普及させようと、(言葉の悪い意味での)「宗教」的態度に堕してしまいます。そんな現状を踏まえて組田先生は、「技術を捨てる勇気も大切なのではないだろうか」と問いかけます。極論を言えば「ベースに生徒の成長を思う気持ちがあれば、どんな方法だって生徒にはプラスになる」からです。

「心」を忘れた技術論は不毛、時に有害、と言えましょうが、これが芸道で世界を驚嘆させた国で流行していることも皮肉なことです。いや、近世までの日本を否定しかねない勢いで西洋化を推進してきた英語教師の末裔だからこそ、私たちは心なき技術論に絡め取られてしまっているのでしょうか。

古来、日本は芸道の学びにおいて技法(技術論)と心法(心のあり方)を、表裏一体、不可分なものとして統一的に扱ってきました。武術にしても、ほんのわずかにしか学んでいない私のような半端者にすら、心法なしに決して技法は修得できないことが身をもってわかります(このあたりを最もよく伝えている流派が、前のエッセイで軽くふれた柳生新陰流かもしれません(注3))。

「近代化」されすぎてしまい、「ポスト近代」の視点で自らを振り返らない現代の私たちは、「技術だけでは駄目で心が大切だ」と言われれば、「ハイハイ、おっしゃる通り、心は大切ですよね」と表面だけは頷きつつも、技術(技法)は心(心法)と相即し不可分であることが理解できず、せいぜい技術論とは離れ独立した形で道徳的なお説教を聞こうとするだけです。そうではなく技法と心法が密接に具体的に融合している身心の文化こそが、西洋人を驚かせた近世日本人の文化であるわけです。

短兵急で一面的な西洋化・近代化は、時代のなさしめるところであったにせよ、21世紀の私たちは、日本文化が本来有していた近代以前のよさを思い出し、それを近代的に分析して、その前-近代的文化を西洋的近代に注入し、近代的な身心のあり方を内側から作り変えることができるのではないでしょうか。日本という国で英語教師をやっている私にとって、こういう課題は世界史的課題であるとさえ思えてきます。

と私の悪癖の熱くなる癖は暴走し、中2病まで再発症してしまいましたが(爆)、組田先生は、このあたりも「教える技術と心をつかむ技術は共通しているところが多い」とあっさりとおっしゃっています。私のような人間では、『浮浪雲』の青田先生よろしく四角四面にしか語れないところを、組田先生は飄々と語っていました。

もしかしたらその話し方こそが私達が身につけるべきことなのかもしれません。


⇒組田幸一郎先生ブログ「英語教育にもの申す

⇒組田幸一郎先生のエッセイも含む『成長する英語教師をめざして  新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』







(注1)にしてもさ・・・(爆)。

(注2)これも褒めすぎ(笑)。

(注3)ウェブで入手できる資料としては、加藤純一先生による「柳生新陰流の総合的研究 : 心法と技法の統一を中心として」(筑波大学博士 (体育科学) 学位論文・平成11年3月25日授与 (乙第1527号))があります。私も先ほど見つけて、まだ最初の部分しか読んでいませんが、備忘のためここにURLを記しておきます。






2011年11月13日日曜日

多田容子『新陰流サムライ仕事術』『自分を生かす古武術の心得』

風邪からの回復期に、軽い読み物をと思って読んだこの二冊は予想以上に面白いものでした。面白い点を語り始めるときりがないので、ここでは私の稼業である学校教育に関連していることについてのみ述べます。

***

学校を卒業する時に、生徒・学生は「自律的学習者」となっていなければならない、というのは最近の流行り言葉である。だが『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』の書評(大修館書店『英語教育2011年11月号』)でも書かせてもらったように、「自律的学習者」とは孤立した学習者ではない。自らを対象化しつつも、周りの人々や環境とうまく相互作用を引き起こすことができるのが「自律的学習者」だ。

社会では、「孤立的学習者」の秀才は大成できない。孤立的学習者の秀才は、一人で受験する試験で優秀な成績を収めるが、それは学校で必要なものをお膳立てされた上でのことであるに過ぎない。

しかし社会での学びは、学校での学びと異なる。「考える・調べる・尋ねる」でも書いたように、社会では働くことが本業であり、学ぶことを専門的に支援してくれる教師は基本的にはいない。社会人は自ら学ばなければならない。

だが自ら学ぶといっても、一人でやれることは限られてくる。やはり先輩・経験者から教えてもらいたい。師を見つけて教えを受けられれば最高なのだが・・・

しかし社会の先達は、職業的な教師ではない。先達も自分の仕事に忙しく、学校教師のように懇切丁寧に新人に教える暇など見いだせない。そもそも(特別に指導役を命ぜられていない限り)社会人に新人を教える義理も責任もない。

だが先達も鬼でも不人情でもない。自分自身も苦労してきたのだし、人間には社会的な協力心が備わっているのだから、新人を助けたい気持はある。だが、すべての新人に一から十まで教える時間はない。自ずと「見込みのある奴」だけが選ばれることになる。


このあたりの事情を『新陰流サムライ仕事術』は次のように記述する。


本当に全部、というか仕事の奥の奥まで理解する人なんて稀だ。昔の人はそれを知ってて、全員にカリカリ教えたりはしなかった。よく弟子を見ながら、その時に必要なことを説いていく。素質があって、技を盗む目もあって、やる気もあって、技を得ても謙虚で、その技をいい形で使える徳もある・・・そういう人を選ぶのさ。選ぶというか、そういう総合的に心ある人物にしか、教えても全体が理解、体得できねぇんだと思う。(159-160ページ)


最近は、一般社会の会社でも、どんどんとマニュアル主義がはびこって、マニュアルを配り、チェックリストに回答させたらそれで社員教育は終わりで、それで仕事を失敗したら後はその社員の「自己責任」といった嫌な風潮が蔓延しているようにも思えるけれど、本当に生産性の高い会社では、上記の引用な形で学びがなされているのではないだろうか。

こうなると社会での学びというのは、周りの先輩に思わず「教えたい」という気持を誘発することを本質の一つとしているのかもしれない。気持を誘発といっても、それはおべっかやらおべんちゃらによるものではない。真摯な探究心、筋の良い問い、我欲のない行動・・・そういった姿勢が、周りの気持をほぐし、周りの自然な協力心を引き出す。

社会での学びとは、場を活性化する能力、だと一般化できるかもしれない。新人が、拙き者が、その場に素直な気持をもたらし、場が生命力を取り戻すからだ。

このように社会での学びを「場を活性化する能力」とするなら、今の学校は、卒業するまでに生徒・学生にそのような能力を育んでいるのだろうか、という疑問が生じてくる。

悲観的にいうなら、指示されなければ1ミリたりとも動かないように甘やかされ、褒めてもらえなければ不貞腐れ叱られればハラスメントだと憤慨し、獲得した知識・技能は自分の権益のためだけにしか使わず、共同体や社会のことなどほとんど考えないような学習者を現代の学校は構造的に生み出す傾向にないだろうか。

各教科の先生は「説明責任」を果たしているという「エビデンス」を得るため、標準化されたテストの点数を上げることに専念する。得点向上のため、すべてをお膳立てする。部活や学校行事などの共同作業は、個人受験のテストには直接的には役に立たないのだから、そういった課外活動はせいぜい息抜きのためにやらせておくに留める・・・。

もしそのような教師が教育政策に後押しされますます増えるなら、日本の学校は社会で学ぶのが下手な若者ばかり輩出するだろう。それが日本社会の衰退につながることは言うまでもない。「いや、エビデンスをご覧ください。成果は上げたのです」と教育行政は言うかもしれない。ちょうどブラック・ジョークで医者が「手術は成功しました。患者はお亡くなりになりましたが」と言うように。


***

うーん、どうも自分の中に滞りがあり、うまく書けない。でもまあ、私の駄文はさておき、この多田氏の本は、私達の近現代的な凝り固まった心を軽くほぐしてくれます。語り口は軽妙で読みやすい。まあ、次のような言葉の意味がわかるだけでもいいとは思いませんか?(引用は私が勝手に現代仮名遣いに変えています)。



勝たんと一筋に思う、病なり。・・・
病を去らんと一筋に思ひ固まるも病なり。
何事も心の一筋に留まりたるを病とするなり。


病気にまかせて、病気のうちに交りて居るが、病気を去ったるなり。


本心と申すは、一所に留まらず、全身全体に延び広がりたる心にて候う。


幾千万の工夫をめぐらして、剛を父とし、弱を母とする。


行住坐臥、語裡黙裡、茶裡飯裡、工夫を怠らず。


一眼ニ足三丹四力






⇒『新陰流 サムライ仕事術』


⇒『自分を生かす古武術の心得』

二つの武術セミナー

立て続けに二つの武術セミナーに参加しました。単なる武術ヲタで、実際には何もできないに等しい私としては、私ができない技術について色々書くことは避け、その時私が(一知半解のまま)考えたことをここに書いておきます。こうして書いておけば後年私が読んで、自分がいかに愚かであったかを思い知ることができるでしょうから。


■刹那を無窮に生きる

武術の技は、決まる時には刹那の瞬間に決まります。しかしそれではその刹那の瞬間だけが良ければいいのかと言えば、そうではなく、その刹那の瞬間の前も後も重要です。言うまでもなく前が駄目なら刹那の技も出せず、後が駄目なら技が決まった直後に他の相手から攻撃を受けてしまうかもしれないからです。

ですから、技に至るまでも間断がなく、技が刹那の瞬間に完結した後も、動きの均衡は連綿と展開していなければなりません。

二つのセミナーでのそれぞれの先生方の動きは、まさに完全と言いたいような全体的調和の瞬間が間断なく連綿と続くものでした。一つの固定的な動きがずっと続いているのではなく、それぞれの瞬間において完結している刹那が、無窮に続いているといった感じです。

動きを見ている私たちは稠密な時間を過ごしているようでした。時間が日常的感覚とはまったく異なる濃い密度で過ぎてゆきます。自然な速度の普通の動きを日常的な時間で見ているはずなのに、スローモーションで見ているようです。それだけ身体の動きが緻密に細分化されているのでしょうか。

細分化されているといっても、動きに断絶はありません。まったく滑らかです。また断絶がないといっても、単調な直線運動でもありません。おそらくは瞬間ごとに身体全体が絶妙にその最適均衡を達成しつつ動くため、動きは微細で精妙な変化に満ちています。

今、こうやって文章を綴りながら、私はわずかながらでもお二人の先生の動きを思い出しているのですが、しかし私のイメージは非常に弱くおそらくは歪んでおり、文章力も拙いので、これ以上表現することはできません。ご興味を持たれた方は、ぜひ近代的スポーツとなってしまった「武道」とは異なる武術の達人の動きをぜひどこかでご覧くださいとぐらいしか言えません。あるいはミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことのある方は、モモが「時間の国」で見た「時間の花」を思い出してくだされば、私が言いたいことはわかっていただけるかもしれません。



■意識は自然を取り戻せるのか

人間は意識を持ち始め、さらには書き言葉、印刷媒体、さらに昨今では電子媒体も持つことで、意識を増幅・増大させ、世界を次々に標準化することを学びました。その結果、現代人は多くのテクノロジーを手にしています。

しかしそもそも方便でしかなかったはずの、標準化された認識は、蓄積されやがて固定化し惰性的に使われ始め、人間は自らの自然を損ねてしまったのかもしれません。標準化された発想でどこにもかしこにもテクノロジーを押し付けて、人間の外の自然を破壊し、人間の内の自然 ―感情であり思念であり身体の動き― もその精妙さを失ってしまったのではないかと思えます。

お二人の先生の動きを見て、お話を聞いていると、武術とはそんな人間の意識によって損なわれてしまった自然を回復する試みなのか、とも思えてきました。人間が本来もつ精妙さを取り戻せば、文明の怠惰により自然の感覚を失ってしまった近代人には驚くしかないような身体の動きと、それに伴う心の正明さを、人間は体現できるのではないでしょうか。それこそは生の喜びであり、身体による宗教的表現とすら言えるものなのかもしれません。

しかしこの自然の回復は、人間が動物化し、意識および意識から発展した理性を失うことによってはなされません。そうでなく、かつては自然を損ねた意識を捨て去ることなく、しかしながら意識の使い方を根源的に変えて、より高いレベルで意識を使いこなすことで自然を取り戻すことが武術だと思います。

スポーツ化された「武道」を武術によって相対化し、武術の理を身体で学ぶことは、そのまま近代を問い直すポスト近代的課題だと私は考えます。大げさな言い方になってしまいますが、日本に生まれた私は、誇りをもってこの課題に取り組んでゆきたいと考えています(←中2病 爆)。

2011年11月6日日曜日

増田俊也(2011)『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社

[私の場合、他人様から見れば愚にもつかぬ文章を自分自身のためだけに書くことは、自己回復と自己発見の試みだ。ここでは出張の行きがけに読んだ本のことを書いておく]

私は本書の存在を知ってはいたが、題名からきっと興味本位の本だろうと決めつけていた。しかし、ある書評で本格的な評伝だと知り即購入し、新幹線の中で読んだ。素晴らしい本だった。ドキュメンタリーの傑作だと私は思う。

筆者の増田俊也は、稀代の柔道家であるこの木村政彦を愛している。しかしその愛は、在学時代に自らも柔道に勤しんだ筆者にとって敬意に充ちたものである。その敬意から筆者はあくまでも真実に忠実にあろうとする。それは各種の本の記述を鵜呑みすることなく、当時の新聞記事を地方版にまでわたって丁寧に読み、新事実を発見するというところにも現れている。その結果、二段組みで701ページの本書は一気に読めるものになっている。

木村政彦を中途半端にしか知らない大半の読者(私もそうだった)は、やはり力道山との一戦に注目するだろう。一体あの試合は何だったのか。背後に何があったのか。本書は冒頭でその試合の様子を再現した後、その秘密を明かそうと木村政彦の生涯をたどる。その過程で力道山、大山倍達、中村日出夫、塩田剛三、そして木村の師である牛島辰熊や、柔道に合気道的要素を取り入れる阿部謙四郎などの生涯も語られる。記述は重層的で多面的で、安直な決め付けを避ける。その中から戦前、戦中、戦後の社会のあり方が浮き上がってくる。さらに講道館正史では隠されていた柔道・柔術の諸事実が次々に明らかになってくる。現代の私達が持っている「柔道」の観念とはいかに一面的なものであるのかがわかる。

本書は、木村政彦と力道山の一戦を扱った第28章あたりで山を迎える。580ページで、一戦の背景を知りその映像を見た高阪剛のもらす一言に私もぐっときてしまった。そうしてついに筆者が下す582ページの結論に私は一瞬涙が出そうになり、新幹線の中でしばし本から目を離さなければならなかった。

だがその山を過ぎても本書は読者をぐいぐいひっぱる。それは本文最後の689ページで明かされる新事実があったからだ。さらに「あとがき」の後に掲載される一枚の写真。ここに写った男を、愛し敬せざることは私にはとてもできない。木村政彦こそは不世出の柔道家であった。まさに木村の前に木村なく、木村の後に木村なき存在であった。


来年から中学の体育で武道の一貫として柔道も教えられることになるという。武術の専門誌『月刊 秘伝2011年9月号』は、特集「武道教育とは何か?」で、中学校での安易な武道教育に対するに対する懸念を表明しているが、中学校で柔道を教える体育の先生にはぜひ本書を読んでいただきたい。

生徒が学ぶ柔道というのは、このような柔道家によって作り上げられてきた武道であることを理解していただきたい。さらには本書ではほとんど触れられていないが、木村の柔道とて、それなりに競技化された明治以降の柔道であり、明治以前の人の生き死にと直接に結びついていた柔術は、木村の柔道ですら到達し得ないかもしれない次元での深遠さと術理をもつものであったろうことも理解していただきたい(参考:内田樹『武道的思考』)。

もし中学への武道導入が、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(教育基本法)を目指すものならば、武道をスポーツと混同したまま教えることは許されないはずだ(まあ、この本を読むまで柔道のことについてほとんど知らなかった私が偉そうにお説教できる筋合いではないのですが ←馬鹿は死ななきゃ治らない 笑)



⇒『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』


追記

以下のビデオは、私がこの拙文を書く際に見つけたもので、本書にも出てくる人物の写真や映像が出るのは本当にありがたいのですが、いかんせんテレビ用に安直に作られ、やたらと糖衣をつけ、その反面語られるべき人間や社会の深部などは描いていません(特に力道山との一戦の描き方などは本書を読んだ私などからすれば腹立たしい程です)。下のビデオを見るだけで本書を読んだつもりになることだけはぜひお避け下さい。やはりテレビには明らかな限界がある。















『千と千尋の神隠し』

馬鹿は死ななきゃ治らない。今回も仕事しすぎて、ほぼ同時期に重なった4つの締め切りが終わると同時に風邪を引き、一週間はまともに仕事ができなくなった。締め切り前は、自分でも驚くぐらい集中できたのだけれど、それは危険信号であるということを、自分はまだ学習していないらしい。その結果、締め切りをなんとかクリアーすると同時にほぼダウン状態。自分でもよくこんなに寝れるなと思うぐらい寝たのだけれどなかなか体調が戻らない。文化の日も一日中横になっていたけど、さすがに24時間は眠れず、かといって本を読む気力もないので、宮崎アニメDVDを再視聴。『千と千尋の神隠し』。でもこれがよかった。

私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。

「嫌だ」とか「帰りたい」と言えばすぐに動物に変えられてしまう異界の中で、千尋は見ているこちらが驚くほど素直に自分の運命を受け容れる。他方、異界の登場人物の異形ぶりは、もう笑い出すぐらいのもので、これは映画を見ていただくしかないが、その異形は、初めて実社会で働くことになった新人が見る世界の象徴的表現としても見ることができる。もちろん実社会で働き始めた新人の労苦はこんなものではなく、睡眠時間を剥奪され、生徒に罵られ、学校の出来事に追い立てられ、事務仕事に忙殺されと、まさに文字通り身を削られるようなものであり、笑い事ではとてもないが、これは映画、娯楽作品。少女が感じる違和感を、寓話的にユーモラスに表現している。実社会というのは、まあ、いかがわしく摩訶不思議なところだ。

働かなければ動物にされてしまう異界で、石にかじりつくようにして仕事を得た千尋は、仕事場の主である湯婆婆(ゆばーば)に名前を奪われ、「千」(せん)と名付けられる。湯婆婆はこのように本当の名を奪うことにより、その者を支配するのだ。

やがて千は仕事場の大きなトラブルを押し付けられるが何とかそれをこなす。その一方で無知からとんでもない災厄を招いてしまう。世間知のない千にとってこの災厄を収めることなど不可能に思える。実際、私が少々世間知に長けた存在としてこの異界にいたなら、千は仕事を辞めるべきだとか、こうすればいい、ああすればいいと俗論を繰り返しているだけだろう。(このように役に立たぬ正論をまくしたてる御方は世間にごまんといる)。

しかし千は、自らの本当の名前を忘れていなかった。異界でくたくたに働かされる存在でありながら、少女の心を忘れていなかった。差し出される砂金を淡々と拒み、災厄の主であるカオナシに語りかける。それは誰もがやれなかったことだった。やがて頑固者の老人(釜爺(かまじい))、年上の気の強い同僚リン、小さなススワタリ(トトロの「まっくろくろすけ」)も自然に千(千尋)を助ける。打算などとはまったく関係なく自然に千(千尋)に心を寄せる。それは千(千尋)の心が、仕事の打算や利害得失とはまったく独立した、自然であるからだ。自然は自然を呼び、自然と自然は自然につながる。

千(千尋)はさらに、異界に来た当初自分を助けてくれたハクも助けようとする。釜爺はそれを見て「愛じゃよ、愛」というが、この愛は、いわゆる男女の性愛を超えたものである。ハクは、実は千尋が小さい頃に住んでいた地域の川を司る神であった。その神はかつて川で溺れかかった千尋を助けたし、その事を忘れてしまっていた千も竜に形を変え苦しむハクを助ける。両者とも共にそれは惻隠の情とも言うべき自然な行為で、そこに男女の性愛にしばしば見られるような自己陶酔や独占欲などはない。実際、ハクと最後に別れを告げなければならない千が言ったのは「また会える?」だけだった。千(千尋)は、内なる自然に生きる少女なのだ。

その少女はやがて、湯婆婆と仲の悪い双子の姉である銭婆(ぜにーば)のもとへと向かう。傍で見ている者にとって、これはもう荒唐無稽で無謀極まりない行為だが、千(千尋)は「だって銭婆に謝らなければならないから」と向かう。その際に災厄の主であったカオナシも同行させる。そんな千(千尋)に、湯婆婆のわがまま息子である「坊」はついて行く。

もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。

彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。

私達のこの世界でも、時に計算的合理性をはるかに超える出来事が生じる。小さくは職場のトラブル、大きくは今回の震災や原発人災。そんな時に、人々を救い、世界をかろうじて保つのは千尋のような自然な女性性なのかもしれない。男性性は近代社会においてあまりに肥大し過ぎてしまった。千尋のように、身体の自然により淡々と事をなす、あるいは事を待つ女性性、悪意はおろか善意とも無縁に、ただそのままに在ろうとする女性性こそが、世界の始まりからあったことであり、私たちはそれを忘れてはならないのかもしれない。

だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。

俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。




・・・と、自分の内の自然を忘れかけた仕事中毒は、治らぬ風邪の症状の中で、このようにただただ恥ずかしい文章を綴り、それをあろうことかブログに掲載するのであった。


馬鹿は死ななきゃ治らない。


追記

映画後半で、千が千尋の服を着て次々に問題解決をする様はすばらしい。まさに迷うことなくただ自然に事をなしてゆく。ハリウッド映画の文法なら、主人公が呻吟したり熟考したり、あるいは解答のヒントや幸運なアクシデントを外から得たりしなければならない状況で、千(千尋)は逡巡することなく行動し、またそれがことごとく的確なものである。

日本文化には心身定まり、何にも居つくことなく自在に動けば、それがすべて最適解になるという思想、そして事実があるけれど、この映画を見て多くの日本人が「なんでこんなに簡単に問題が解決するんだよぉ」、「フツー、そこでは悩むだろ」、「こんなヒントなしの正解なんてあり得ねー」などと思わず、「うん、こういう時は、こういうもんだ」と違和感なく話の筋を追って行ったら、私はそれこそが日本文化の底力だと思う。ウィキペディアによれば、この映画は、2011年現在でも日本国内の映画興行成績における歴代トップであるとのことだが、老若男女このような映画を楽しんで見ているとなれば、私はこの国の民度は極めて高いと思う。




⇒千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]