■科学とは絶対的な真理ではない
「2011-05-18 LNT仮説は、大規模低度被曝の推測の役に立たない」(http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518)の記事の中で、著者は、次のように述べていますが、私はこの科学観は正しいと考えます。
■科学は正しいか正しくないか分からない所を、確かめながら、これでどうか、と考える作業。
放射線防護と少し離れますが、私の持論を書きます。世間の人が科学と言っていることは、何か難しいことだけれど、正しいと分かっている(筈の)こと、という意味です。少し前のマルクス主義者の人たちが言っていた、『科学的社会主義』の、『科学』はそういう意味です。しかし、科学が実際に行われているところでは、正しいか、正しくないか分からないところばかり。分かってしまったことなんて科学ではどうでも良いことなんです。常に情報は不足していて、あれじゃないか、これじゃないか考えるのが科学の実際です。世の中に出ている論文なんて半分くらい間違っています。何年か経つと間違った論文は誰も引用しなくなって捨てられていく、それだけのことです。
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518
■科学が、(科学以外の)特定の価値観と結合することは危険
私は昨日の記事で、科学者は科学者としての論理を崩さず、科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とし、その機能を自壊させてまで政治家(もしくは市民)と結託するべきでないといった主張をしましたが、このことはbuvery氏の次のような主張につながると考えます。
■科学と倫理は関係ない。『いわゆる科学的真理』と『いわゆる社会的倫理』が結びつくと問答無用のファッショな社会になる。
科学の方法の内部には倫理はありますが、社会的な意味での倫理は全く別問題で、科学そのもので社会倫理を規定する事はできません。例えば、今回でも、『ドイツ政府の研究では原発近傍5キロで小児白血病は2倍になる』話は、何度も出てきていますが、あれは、先日私の書いたHaatsch, 2008のことです。論文を読むと、決して原発の放射能で白血病が増えるなどと断言できるような代物ではない。そういうものを金科玉条たてにとって、社会的倫理を結合させるような人種は、芯からファッショな人種で、時代が時代なら『モンペをはかないと非国民』とか、『ユダヤ人は劣等人種』とか言っていた人たちです。後日また書くつもりですが、ECRRはそういう集団です。
■ECRRは信頼できるのか
なお、ここに出てくるECRR(European Committee on Radiation Risk)(http://www.euradcom.org/)について(日本語ウィキペディア、英語ウィキペディア)については、私はこれまでRussia Today(http://rt.com/)でこのECRRのバスビー博士(Christopher Busby 英語ウィキペディア)のインタビューがよく出ていたこともあり、注目していました。
またこのECRRの「2010年勧告」(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR2010.html)については、後半部分の実際の自然科学的検討は読まずに、前半の哲学的・社会学的・歴史的論考を速読し、その充実に好印象を私はもちましたが、このブログ氏の以下のような記事を読むと、ECRRの主張を鵜呑みにすることは危険なようです。(記事のタイトルはやや扇情的ですが、内容は科学的なものです)。
2011-05-11 私がECRRを狂気の集団と呼ぶわけ
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110511
2011-05-15 5月6日ネイチャーニュース原発は白血病と関係ない
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110515
2011-05-20 ECRRの福島リスク計算は妄想の産物
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110520
■このブログのbuvery氏は偏向しているのか・・・ それはないだろう。
以上のようなbuvery氏の記事を読み、私は今後はECRRの主張に対して、批判的な意識を高めて接しようと思い始めました。しかし、この判断はbuvery氏の記事だけに基づくものです。buvery氏(@buvery)がもし(上記の主張と裏腹に)自分自身は強烈な価値観(例えば原発推進や徹底的政府擁護)に影響されているとしたらどうでしょう?
しかしその可能性はなさそうだと私は考えます。
2011-05-06 ICRPのいう正当化と最適化
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506
の記事で、buvery氏はICRPの正当化(justification)と最適化(optimization)について解説し(注)、次のように主張しています(まずは、見出しだけ引用します)
■ICRPの考えでは、ジャスティフィケーション(正当化)、オプチマイゼーション(最適化)が大事。
■郡山市や福島市の被曝は正当化できない。
■原発の被曝を医療被曝と比べることは筋違い。
■汚染地域に住む人たちの『得』は主観的なものだから、当事者本人にしか判断できない。
■文科省の決定は、ICRPの正当化原則に従っていない。
■文科省の20mSv/年以下なら安全、という宣伝はICRPの採用しているLNT仮説に反している。
■文科省はICRPのいう『最適化』を行っていない。
■ICRPが何もモニタも対策もとらなくて良いと言っているのは1mSv/年以下のところだけ。
■ICRP111で言っている参考値は、最適化するために使う指標。最適化(例えば除染や個人モニタ)をしないのなら、意味がない。
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506
詳しくはブログ原文を読んでいただきたいのですが、とりわけ印象的な箇所を以下に引用します(太字強調は私が入れたものです)。
枝野長官などは、CTがどうの、医療X線がどうのと医療被曝と比べていましたが、ICRPの正当化原則から言えば、トンデモない。医療は、CTなどによる診断の利益と、放射線の害を比較して診断の利益が多い時に患者の納得づくで受けるもの。(中略)道を歩いている赤の他人にむりやりCT検査をして良いという話はない。今回の郡山市などでおきている公衆被曝は、何の益もない、何の同意もない、むりやりむき出し選択肢なしの被曝であって、比べる事自体がおかしい。
正当化原則から言えば、『不利益を被らないという間接的利益』があるのではないか。ただし、その利益の大きさは郡山市や福島市に住んでいる*当事者にしか判断できない*。だから、低度汚染地域に住むかどうかは、ICRPの正当化原則からすれば、地元民が決めるべきもの。目に見えない、主観でしか決められない利益と放射線の害を比べるわけだから、これは科学の話ではない。個人や集団の意思、つまり、住民の政治決定の話です。だからこそ、ICRP111は『住むか住まないかを決める参考線量』を決める時に利害関係者が決定に参加することを求めています。文科省が勝手に決めて良い事ではありません。
だから、正しい質問は、『政府はどのような利益が被曝の害より大きいと主張しているのか?その利益は地元民が判断すべきものなのではないのか?』『文科省に地元の子供たちやその親の主観的利益を決める権利はあるのか?誰がその責任をどうとるのか?』『疎開した方が良いと判断した家族に政府はどのような措置、援助をとるのか?』になります。責任をとりたくないから、決定したプロセスを文科省は言いたくない。私はそれに腹がたつ。
LNT仮説を無視する以上、ICRPに準拠しているとは言えない。江川紹子さんが政府に質問していた『20mSv/年はICRPに確認したのか』に対しては、ICRPはどの数字であっても『それ以下は無害』とは原理上答えられない。従って、正しい質問は、『ICRPに準拠するとどんなに微量の放射線でもガンの確率はあるといっているが、なぜ文科省はICRPに準拠していると嘘をいうのか』になります。ある数字以下は『無害』と言っているのは文科省であって、ICRPではない。
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506
■私の価値観は脱原発、だからといって科学的知見をねじ曲げたくない。
ついでながら申し上げますと、私はこの度の事故を受けて、原発事故はたとえ発生確率が低くとも、リスクが非人道的なので、長い時間をかけて脱原発を総合的に目指すべきだと考えています。これは私の感情的な確信に基づく私の政治的意見です。
ですが同じように「脱原発」を訴えても、「すべての原発の即時停止」といった言い方には違和感を覚えます。スローガンとしては勇ましいですが、それが逆に思考停止を招き、原発事故以外のリスクを最終的には増大させしまうのではないかと懸念するからです。
私の意見に限らず、これだけ科学技術が発達し複合化した社会では、政治的見解にも科学技術の正しい理解が必要です。だからといって、科学技術の論理が政治的正解をもたらしてくれるわけではありません。科学技術は科学技術の論理で進展してゆくだけであり、科学技術をどう使うか(あるいは使わないか)は、その他の政治的、経済的、社会的、文化的、感情的などなどの様々な要因がそれぞれの論理で主張を展開する中で決定されるべきだと思います(その総合的な決定を、大きな意味での「政治」と呼ぶべきだと思います ―小さな意味での「政治」とは永田町界隈などで繰り広げられている活動です)。
高度に発展し複合化した社会では、誰も総合的な政策決定(大きな意味での政治)の正解がわかりません。
科学者、技術者、法曹関係者、経済人、文化人、職業政治家、一般の生活者などなどの社会的に分化された諸存在は、それぞれの機能を果たしながら、その機能では受け入れがたい他の諸機能の言動を、この世界の否定できない要因として受け入れなければなりません。
そうして諸機能が、世界全体を破壊しないという前提の上で、それぞれの機能を果たす中でなんとか決定がなされ、修正され、再決定されます。決して、ある種の政治家や科学者などが大きな政治の正解を知っているなどと期待すべきではありません。
最近で言うなら、科学者が政治家の代わりに為政者的発言をして科学を否定し人々に害を与えることは許されません。また、害を与えないにせよ、科学を歪めてしまうことは、長期的に見て社会を損ねます。
―こういったことを私は昨日の記事の後半で言いたく、言い尽くせていない感があったところに、この
「buveryの日記」
http://d.hatena.ne.jp/buvery/
を知ったのでこの記事を書きました。ECRRについてもどう考えるべきか迷っていたということも記事を書いた強い動機となりました。
なお、私がこの「buveryの日記」の存在を知ったのは、一色靖氏(@yasushi64 )のtweetからです。一色氏は、Twitterのプロフィールで
素人作家、生業は研究。工学博士(化学工学)ですがその後分野ワヤ…今は医療科学。三児を愛する父。嘘で誤解や偏見や風評が生まれるのは良しとせず怪しい情報は検証します。患者側、医療側にチャンネルを持ち医療福祉に関心あり。慢性B肝患者です。また重い鬱病を経験し治ってます。Queenファン歴30数年。小説はブログリンクからどうぞ
http://www.yasushi-studio.com/tweet/
と自己紹介されていますが、私は広瀬隆氏に対する一色氏の批判的見解を知って以来、一色氏のtweetsを貴重な情報源としています。
一色靖氏(@yasushi64 やbuvery氏(@buvery)のように科学的訓練を受け、かつ一般に向けて発信されている方々に感謝します。一色氏やbuvery氏のTwitterやブログをフォロー・RSS購読することをお勧めします。
(注)
ICRP見解については、日本原子力学会が2011/5/9付けで公表している「被曝による健康への影響と放射線防護基準の考え方」が、取り急ぎ知るためには役立つかと思います。http://www.aesj.or.jp/information/fnpp201103/com_housyasenbougo20110509R.pdf
追記 2011/06/01
一般社団法人サイエンス・メディア・センターは、以下のように、2011/5/25にジャーナリスト向けに発行したサイエンス・アラートを出していました。
山内知也教授(ECRR2010翻訳委員会, 神戸大学大学院海事科学研究科)と、津田敏秀教授(岡山大学大学院 環境学研究科(疫学、環境疫学、臨床疫学等))によるものです。
多元的な検討のためこちらもぜひお読みください。
科学者でない者としての私見ですが、ICRP,ECRRあるいは他のどの基準をとって考えようとも、危険が疑われる地域では、常識的な範囲の中でできるだけ内部被曝を避けるような方策を取ることは重要であると考えます。
追追記(2011/07/21)
buvery氏が新たに記事「イギリスの内部被曝調査委員会がクリス=バズビーをどう批判したのか」を追加したので、ここでもお知らせしておきます。
追追追記 (2011/11/25)
The Guardianがバスビー博士に関する批判記事を出しました。
Christopher Busby's wild claims hurt green movement and Green party
http://www.guardian.co.uk/environment/georgemonbiot/2011/nov/22/christopher-busby-nuclear-green-party?newsfeed=true
Post-Fukushima 'anti-radiation' pills condemned by scientists
http://www.guardian.co.uk/environment/2011/nov/21/christopher-busby-radiation-pills-fukushima