2011年5月29日日曜日

ECRR(欧州放射線リスク委員会)は信頼できるのか?




Twitterで知ったブログ「buveryの日記」(http://d.hatena.ne.jp/buvery/)は非常に啓発的でした。


■科学とは絶対的な真理ではない

「2011-05-18 LNT仮説は、大規模低度被曝の推測の役に立たない」(http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518)の記事の中で、著者は、次のように述べていますが、私はこの科学観は正しいと考えます。


■科学は正しいか正しくないか分からない所を、確かめながら、これでどうか、と考える作業。

放射線防護と少し離れますが、私の持論を書きます。世間の人が科学と言っていることは、何か難しいことだけれど、正しいと分かっている(筈の)こと、という意味です。少し前のマルクス主義者の人たちが言っていた、『科学的社会主義』の、『科学』はそういう意味です。しかし、科学が実際に行われているところでは、正しいか、正しくないか分からないところばかり。分かってしまったことなんて科学ではどうでも良いことなんです。常に情報は不足していて、あれじゃないか、これじゃないか考えるのが科学の実際です。世の中に出ている論文なんて半分くらい間違っています。何年か経つと間違った論文は誰も引用しなくなって捨てられていく、それだけのことです。
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518




■科学が、(科学以外の)特定の価値観と結合することは危険

私は昨日の記事で、科学者は科学者としての論理を崩さず、科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とし、その機能を自壊させてまで政治家(もしくは市民)と結託するべきでないといった主張をしましたが、このことはbuvery氏の次のような主張につながると考えます。


■科学と倫理は関係ない。『いわゆる科学的真理』と『いわゆる社会的倫理』が結びつくと問答無用のファッショな社会になる。

科学の方法の内部には倫理はありますが、社会的な意味での倫理は全く別問題で、科学そのもので社会倫理を規定する事はできません。例えば、今回でも、『ドイツ政府の研究では原発近傍5キロで小児白血病は2倍になる』話は、何度も出てきていますが、あれは、先日私の書いたHaatsch, 2008のことです。論文を読むと、決して原発の放射能で白血病が増えるなどと断言できるような代物ではない。そういうものを金科玉条たてにとって、社会的倫理を結合させるような人種は、芯からファッショな人種で、時代が時代なら『モンペをはかないと非国民』とか、『ユダヤ人は劣等人種』とか言っていた人たちです。後日また書くつもりですが、ECRRはそういう集団です。




■ECRRは信頼できるのか

なお、ここに出てくるECRR(European Committee on Radiation Risk)(http://www.euradcom.org/)について(日本語ウィキペディア英語ウィキペディア)については、私はこれまでRussia Today(http://rt.com/)でこのECRRのバスビー博士(Christopher Busby 英語ウィキペディア)のインタビューがよく出ていたこともあり、注目していました。

またこのECRRの「2010年勧告」(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR2010.html)については、後半部分の実際の自然科学的検討は読まずに、前半の哲学的・社会学的・歴史的論考を速読し、その充実に好印象を私はもちましたが、このブログ氏の以下のような記事を読むと、ECRRの主張を鵜呑みにすることは危険なようです。(記事のタイトルはやや扇情的ですが、内容は科学的なものです)。




2011-05-11 私がECRRを狂気の集団と呼ぶわけ
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110511

2011-05-15 5月6日ネイチャーニュース原発は白血病と関係ない
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110515

2011-05-20 ECRRの福島リスク計算は妄想の産物
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110520




■このブログのbuvery氏は偏向しているのか・・・ それはないだろう。

以上のようなbuvery氏の記事を読み、私は今後はECRRの主張に対して、批判的な意識を高めて接しようと思い始めました。しかし、この判断はbuvery氏の記事だけに基づくものです。buvery氏(@buvery)がもし(上記の主張と裏腹に)自分自身は強烈な価値観(例えば原発推進や徹底的政府擁護)に影響されているとしたらどうでしょう?

しかしその可能性はなさそうだと私は考えます。


2011-05-06 ICRPのいう正当化と最適化
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506


の記事で、buvery氏はICRPの正当化(justification)と最適化(optimization)について解説し(注)、次のように主張しています(まずは、見出しだけ引用します)


■ICRPの考えでは、ジャスティフィケーション(正当化)、オプチマイゼーション(最適化)が大事。

■郡山市や福島市の被曝は正当化できない。

■原発の被曝を医療被曝と比べることは筋違い。

■汚染地域に住む人たちの『得』は主観的なものだから、当事者本人にしか判断できない。

■文科省の決定は、ICRPの正当化原則に従っていない。

■文科省の20mSv/年以下なら安全、という宣伝はICRPの採用しているLNT仮説に反している。

■文科省はICRPのいう『最適化』を行っていない。

■ICRPが何もモニタも対策もとらなくて良いと言っているのは1mSv/年以下のところだけ。

■ICRP111で言っている参考値は、最適化するために使う指標。最適化(例えば除染や個人モニタ)をしないのなら、意味がない。

http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506


詳しくはブログ原文を読んでいただきたいのですが、とりわけ印象的な箇所を以下に引用します(太字強調は私が入れたものです)。


枝野長官などは、CTがどうの、医療X線がどうのと医療被曝と比べていましたが、ICRPの正当化原則から言えば、トンデモない。医療は、CTなどによる診断の利益と、放射線の害を比較して診断の利益が多い時に患者の納得づくで受けるもの。(中略)道を歩いている赤の他人にむりやりCT検査をして良いという話はない。今回の郡山市などでおきている公衆被曝は、何の益もない、何の同意もない、むりやりむき出し選択肢なしの被曝であって、比べる事自体がおかしい。


正当化原則から言えば、『不利益を被らないという間接的利益』があるのではないか。ただし、その利益の大きさは郡山市や福島市に住んでいる*当事者にしか判断できない*。だから、低度汚染地域に住むかどうかは、ICRPの正当化原則からすれば、地元民が決めるべきもの。目に見えない、主観でしか決められない利益と放射線の害を比べるわけだから、これは科学の話ではない。個人や集団の意思、つまり、住民の政治決定の話です。だからこそ、ICRP111は『住むか住まないかを決める参考線量』を決める時に利害関係者が決定に参加することを求めています。文科省が勝手に決めて良い事ではありません


だから、正しい質問は、『政府はどのような利益が被曝の害より大きいと主張しているのか?その利益は地元民が判断すべきものなのではないのか?』『文科省に地元の子供たちやその親の主観的利益を決める権利はあるのか?誰がその責任をどうとるのか?』『疎開した方が良いと判断した家族に政府はどのような措置、援助をとるのか?』になります。責任をとりたくないから、決定したプロセスを文科省は言いたくない。私はそれに腹がたつ。


LNT仮説を無視する以上、ICRPに準拠しているとは言えない。江川紹子さんが政府に質問していた『20mSv/年はICRPに確認したのか』に対しては、ICRPはどの数字であっても『それ以下は無害』とは原理上答えられない。従って、正しい質問は、『ICRPに準拠するとどんなに微量の放射線でもガンの確率はあるといっているが、なぜ文科省はICRPに準拠していると嘘をいうのか』になります。ある数字以下は『無害』と言っているのは文科省であって、ICRPではない

http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506




■私の価値観は脱原発、だからといって科学的知見をねじ曲げたくない。

ついでながら申し上げますと、私はこの度の事故を受けて、原発事故はたとえ発生確率が低くとも、リスクが非人道的なので、長い時間をかけて脱原発を総合的に目指すべきだと考えています。これは私の感情的な確信に基づく私の政治的意見です。

ですが同じように「脱原発」を訴えても、「すべての原発の即時停止」といった言い方には違和感を覚えます。スローガンとしては勇ましいですが、それが逆に思考停止を招き、原発事故以外のリスクを最終的には増大させしまうのではないかと懸念するからです。

私の意見に限らず、これだけ科学技術が発達し複合化した社会では、政治的見解にも科学技術の正しい理解が必要です。だからといって、科学技術の論理が政治的正解をもたらしてくれるわけではありません。科学技術は科学技術の論理で進展してゆくだけであり、科学技術をどう使うか(あるいは使わないか)は、その他の政治的、経済的、社会的、文化的、感情的などなどの様々な要因がそれぞれの論理で主張を展開する中で決定されるべきだと思います(その総合的な決定を、大きな意味での「政治」と呼ぶべきだと思います ―小さな意味での「政治」とは永田町界隈などで繰り広げられている活動です)。

高度に発展し複合化した社会では、誰も総合的な政策決定(大きな意味での政治)の正解がわかりません。

科学者、技術者、法曹関係者、経済人、文化人、職業政治家、一般の生活者などなどの社会的に分化された諸存在は、それぞれの機能を果たしながら、その機能では受け入れがたい他の諸機能の言動を、この世界の否定できない要因として受け入れなければなりません。

そうして諸機能が、世界全体を破壊しないという前提の上で、それぞれの機能を果たす中でなんとか決定がなされ、修正され、再決定されます。決して、ある種の政治家や科学者などが大きな政治の正解を知っているなどと期待すべきではありません。

最近で言うなら、科学者が政治家の代わりに為政者的発言をして科学を否定し人々に害を与えることは許されません。また、害を与えないにせよ、科学を歪めてしまうことは、長期的に見て社会を損ねます。

 ―こういったことを私は昨日の記事の後半で言いたく、言い尽くせていない感があったところに、この


「buveryの日記」
http://d.hatena.ne.jp/buvery/


を知ったのでこの記事を書きました。ECRRについてもどう考えるべきか迷っていたということも記事を書いた強い動機となりました。


なお、私がこの「buveryの日記」の存在を知ったのは、一色靖氏(@yasushi64 )のtweetからです。一色氏は、Twitterのプロフィールで


素人作家、生業は研究。工学博士(化学工学)ですがその後分野ワヤ…今は医療科学。三児を愛する父。嘘で誤解や偏見や風評が生まれるのは良しとせず怪しい情報は検証します。患者側、医療側にチャンネルを持ち医療福祉に関心あり。慢性B肝患者です。また重い鬱病を経験し治ってます。Queenファン歴30数年。小説はブログリンクからどうぞ
http://www.yasushi-studio.com/tweet/


と自己紹介されていますが、私は広瀬隆氏に対する一色氏の批判的見解を知って以来、一色氏のtweetsを貴重な情報源としています。


一色靖氏(@yasushi64 やbuvery氏(@buvery)のように科学的訓練を受け、かつ一般に向けて発信されている方々に感謝します。一色氏やbuvery氏のTwitterやブログをフォロー・RSS購読することをお勧めします。



(注)
ICRP見解については、日本原子力学会が2011/5/9付けで公表している「被曝による健康への影響と放射線防護基準の考え方」が、取り急ぎ知るためには役立つかと思います。http://www.aesj.or.jp/information/fnpp201103/com_housyasenbougo20110509R.pdf


追記 2011/06/01

一般社団法人サイエンス・メディア・センターは、以下のように、2011/5/25にジャーナリスト向けに発行したサイエンス・アラートを出していました。



ICRPとECRRそれぞれの勧告について:専門家コメント

http://smc-japan.org/?p=1941


山内知也教授(ECRR2010翻訳委員会, 神戸大学大学院海事科学研究科)と、津田敏秀教授(岡山大学大学院 環境学研究科(疫学、環境疫学、臨床疫学等))によるものです。

多元的な検討のためこちらもぜひお読みください。

科学者でない者としての私見ですが、ICRP,ECRRあるいは他のどの基準をとって考えようとも、危険が疑われる地域では、常識的な範囲の中でできるだけ内部被曝を避けるような方策を取ることは重要であると考えます。




追追記(2011/07/21)

buvery氏が新たに記事「イギリスの内部被曝調査委員会がクリス=バズビーをどう批判したのか」を追加したので、ここでもお知らせしておきます。





追追追記 (2011/11/25)

The Guardianがバスビー博士に関する批判記事を出しました。



Christopher Busby's wild claims hurt green movement and Green party

http://www.guardian.co.uk/environment/georgemonbiot/2011/nov/22/christopher-busby-nuclear-green-party?newsfeed=true


Post-Fukushima 'anti-radiation' pills condemned by scientists

http://www.guardian.co.uk/environment/2011/nov/21/christopher-busby-radiation-pills-fukushima


2011年5月28日土曜日

七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書(その2 隠蔽される事故原因と放射線障害)

この記事は「七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書」の続きです。



***



■今、日本で発足しようとしている事故調査・検討委員会

先日、政府は今回の原発事故の調査・検証委員会の委員長に「失敗学」で有名な畑村洋太郎氏を選びました。言うまでもなく、この委員会は、今後の賠償補償問題だけでなく、未来の原発政策に大きな影響を与えるものです。多元的で科学的な検討が必要です。

しかし、この畑村洋太郎氏は、原発事故の有様がかなり明らかになった今年の4/21の時点での産経新聞のインタビューで、次のように明言しています。


人類は原発を知り尽くしていない。だからこれからも事故は起きるだろうが、事故を克服して原発を使っていくべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110421/dst11042103130002-n1.htm


まさにこれから調査・検証しなければならない事象について、これだけ明確な方針を公言している人が事故調査・検証委員会の長に内定するというのは、私にとってはおかしなこととしか思えません。


それでも畑村氏は「失敗学」と自称する学問の創始者だから期待できるとする向きもあります。

しかしコンプライアンスを始めとして、的確な発言を繰り返している郷原信郎氏は、畑村氏起用についてわざわざ次のように発言しています(太字強調は私が付け加えました)。


しかし、注意しなければならないのは、畑村・失敗学は、従来の事故原因調査等とは考え方が全く異なるということだ。

事故の発生や拡大に関係する様々な要因を抽出し、そこから「本質安全」への道筋を明らかにしていくというのが「失敗から創造へ」という畑村・失敗学の基本的な考え方であり、「誰が悪かったのか、誰の責任か」ということは問題にしない。そこで、明らかにされる事実というのは、「そういう発想で事故原因を考えることが、安全につながる」という一つの「仮説」であり、事故原因と結果の因果関係を実証することではない

畑村先生を中心とする委員会の調査・検討が、今回の原発事故問題への対応や、今後の我が国の原発をめぐる政策に、活用されるためには、このような畑村・失敗学の基本的な考え方が調査に携わる関係者に理解されるだけではなく、国民に受け入れられる必要がある。

今後、委員会が立ち上げられ、そこでの議論が、必要に応じて公開されるであろうが、それを、従来の事故調査のような責任論や法的原因論の観点でとらえると、大きな違和感を生じることになる。

まず、「失敗学」の考え方について認識を共有することが必要だ。



郷原氏が言いたいのは、事故調査・検証委員会の委員長の学問的信念が、このように、事故再発を防ぐものではなく、どうやって失敗から安全を作りだすかというものであることを、国民はきちんと理解しているか、ということだと私は理解しました。私などは、この畑村・失敗学が、「原発安全神話改訂版」を創り上げるのではないか心配です。


また、この委員会のメンバーは以下のように発表されています。


柳田邦男・ドキュメンタリー作家 ▽ 古川道郎・福島県川俣町町長 ▽ 尾池和夫・前京大学長 ▽ 柿沼志津子・放射線医学総合研究所放射線防護研究センターチームリーダー ▽ 高須幸雄・前国連大使 ▽ 高野利雄・元名古屋高検検事長 ▽ 田中康郎・元札幌高裁長官 ▽ 林陽子弁護士 ▽ 吉岡斉・九州大副学長

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110528k0000m040075000c.html


それぞれのリンク先を見ていただければわかりますように、この中には原子力工学の研究者がいません。かろうじて柳田氏がドキュメンタリー作家として、吉岡氏が科学史・科学社会学研究者としての知識と経験をもっているぐらいです。このメンバーで、厳密な事故原因の調査と検証ができるのか、それほど楽観的になれません。

もちろん原子力工学研究者のほとんどは「原子力ムラ」の住人とも言われていますから、原子力工学者を入れていないとも主張できるかもしれません。しかしそれでしたら先日、参議院行政監査委員会で原子力工学専門家として証言をした「原子力ムラ」の住人ではない小出裕章氏(京都大学助教)などの人材を招くこともできたはずです。




このように、(1)委員長畑村氏の個人的信念(原発継続)、(2)同氏の学問的信念(対象となる技術の安全化を目標とする)、(3)委員会メンバーに原子力工学の専門家がいない、といった理由から、私はこの委員会が、きちんと事故原因の調査・検証をできないのではないかと懸念しています。(※首相官邸の見解はhttp://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201105/27_p.htmlで読むことができます。)



しかし、それはまだわからないことと今はしておきます。それよりも、ここではチェルノブイリの事故調査で実際に何が起こったかを、七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書からまとめてみたいと思います。




■ソ連政府が事故の数ヵ月後にIAEAに提出した報告書は、事故を運転員のミスとした。

1986年8月にIAEAで行われた「チェルノブイリ原発事故国際検討会議」にソ連政府が提出した報告は、「事故の第一義的原因は、発電部署の要員たちが犯してしまった、まったくありうべからざる指示違反、運転規則の組合わせだった」というものでした(85ページ)



■5年後の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、事故は運転員のミスではなく、制御棒の構造によるものだとした。

しかしながら事故から5年たった1991年の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、1986年の事故調査報告とはまったく反対の結論を出します。事故は運転員のミスによるものではなく、原子炉の構造上の欠陥であったとしたのです。

この背後にはもちろん1991年のソ連崩壊があるでしょう。しかしシュテインベルク報告は、単にソ連が崩壊したから、ソ連の公式発表を否定したというものではなさそうです。七沢氏は、この画期的ともいえる報告が出た背景について次のように述べています。


まず、彼自身がチェルノブイリ原発の元運転員であり、その職場の仲間が被災し、生命を失ってまでも「国賊」扱いされてきたことへの深い憤りが原点にあることは疑いない。それに加えて、彼自身、ソ連政府事故調査委員会に協力して、自己原因調査のプロセスを見てきたことにも由来している。

私とのインタビューを、シュテインベルクは衝撃的な証言で結んだ。


「実は原子炉の欠陥が真の事故原因だったことは、86年の5月の段階で、政府の事故調査委員会、そしてソ連政府の上層部にまでも、十分よく知らされていたのです。その証拠に、事故後すぐにRBMK型原子炉の制御棒の改良をしています。それにもかかわらずソ連政府はあの当時、意識的に偽の情報を世界の前に、そしてソビエト国民の前に出していたのです」
(94ページ)





■ゴルバチョフの活躍と限界:政治家は真実よりも体制安定を選ぶ

もちろん86年の事故調査の際にもそれなりの調査はなされました。特にペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて改革に取り組んだゴルバチョフは、ソ連の守旧派の言いなりにはならないと独自の調査をし、それに勇気づけられていろいろな証言も出ました(120ページ)。しかしそんなゴルバチョフもかなりの真相を知りながら、事故原因は運転員のミスとする報告書を最終的には出してしまいます。そのあたりの事情を、ルイシコフ(元)首相は、七沢氏に語ります。


「ゴルバチョフは政治家です。彼が情報を発表するにせよ、その内容をどうするかは別の問題です。もしあの時、チェルノブイリ型原子炉が危険であることを発表してしまったら、ソ連国内のすべての同型原子炉が停止へと追い込まれたでしょう。そうなったら国を支える電力供給はどうなりますか。(中略)このような事故が起きたからといって、原発の重要性を忘れてしまうようではいけないのです」(127-128ページ)


七沢氏は93年に京都でゴルバチョフ氏と会い、彼自身から次の言葉を引き出しています(もちろんのことながら、この時点で彼は公的な政治権力の地位を失っています)


「政治家というものは、こういう場合には社会に動揺を与えないことをまず第一に考えるものなのです。公表したあとの、社会的影響を深く考慮すべきだという意見が、政治局の大勢だったのです」(129ページ)


政治家個人の倫理性や道徳性がいかに高かろうと、政治家が政治家である限り、必ず限界はあると考えるべきでしょう。



■IAEAは原子力の平和的利用を推進することを目的とする団体

しかし86年にソ連の報告書がIAEAの席上に出された時に、それには何の検討も加えられなかったのでしょうか。もちろんそういうわけではありません。IAEAの席上には原子力技術の専門家もおり、ソ連の報告書に対しては500を越える質問状が寄せられました。1日目にはすべての質問に答えると豪語したソ連のレガソフ代表も、原子炉の構造に関する質問も含まれたこの質問攻勢には弱り果て、会議の進行役に対してモスクワに帰ると言い出し、会議は中断されました。(141ページ)

この事態に対してIAEAのブリックス事務長はレガソフを始めとしたソ連の代表団をプライベートに夕食会に招待し「ソビエトがすべての質問に答えるだけの十分な準備ができていない事情は理解した。だから、答えられない質問は、モスクワに持ち帰り、あとで回答してくれればよい」と提案します。IAEAとしてもソ連代表が本当に帰国してしまったら困るからです。(141ページ)これ以外のさまざまな政治的妥協・功利によりIAEAは厳密な検証の場とはなりませんでした。



■IAEAを切り抜けたレガソフは2年後に自殺をした

しかしそうやってIAEA会議を切り抜けたレガソフも、その後良心の呵責を感じはじめ、またソビエト科学のためには体制の改革が必要と国内で唱え始めました。しかし彼の改革案はことごとく受け入れられず彼は村八分状態になります(154ページ)。そして彼はチェルノブイリ事故のちょうど二年後の1988年4月26日の深夜に自宅で首吊り自殺します。(153ページ)

七沢氏はレガソフの死を次のように総括します。


レガソフはその最晩年に、チェルノブイリ原発事故を招いた真の原因は長年国を支配した官僚体制がその内部に宿した病巣、「体制を維持するためには秘密を守り通し、民をかえりみない」という倒錯的な矛盾にあったことを見抜いていたに違いない。(155ページ)





■放射線障害調査も歪められた

調査はもちろん被曝住民に対してもおこなわれます。七沢氏がようやく公開されたカルテを調べたところ、避難民が検査のために入院した5月初旬には「放射線障害」という診断が目立っていました。しかし退院時には診断名は「神経血管疲労」に変わっていました。(235ページ)

七沢氏はコビィルカ医師長の証言を得ます。


「「神経血管疲労」という病名をつけることになったのは、ソ連保健省からの通達があったからです。「事故の規模はそれほど大きくないから、住民に放射線障害に関した病気は起こらない」という指示があり、われわれ現場の医師は、「放射線障害」と診断することを禁止されたのです。それで、ほとんどすべての患者に対して、上からの指示通り「神経血管疲労」の診断名を書きました。どんな症状が出ていても、判で押したようにこの病名になったのです。当時、医療分野は共産党とKGBのコントロール下にありましたから、医療検査の結果は特別の部屋に保存されて、機密扱いを受けたのです」(235ページ)




■IAEAは住民被曝被害の再検討に際して、ソ連政府の差し出すデータばかりを使った。

しかし、こういった診断に対してはさすがに国内で批判が高まります。そういった国民世論に対抗するため、ソ連政府は国際的な学者グループをIAEAに派遣してもらって調査してもらうことにしました(238ページ)。しかしその調査結果は、ソ連の対応は、避難と食物制限については、放射線防護の観点からは必要な範囲を超えており、もう少し緩和すべきである、また汚染地帯の住民が陥っているのは「放射能恐怖症」という心理的な病だとするものでした(239ページ)。こういった結果が出た背景にはIAEAが基本的に原子力推進を目的とすることがあると私などは考えますが、七沢氏は、こういった結果が現在は国際的に批判されているのは、第一にIAEAがの調査はソ連政府の委託と出資によるもので、独自の調査は少なく、ほとんどがソ連政府の差し出すデータの評価に終始したこと、第二に調査から大量に被曝した者を除外したことにあると書いています(239-240ページ)。

七沢氏は、IAEAのブリックス事務局長から次の証言を得ます。


「IAEAとは、加盟国の政府の利益と意向を代表する組織であり、各国の国民や、世界の市民のための組織ではありません。もちろん民主的国家においては、政府は国民の利益を代表しますから、間接的には人々の利益につながるはずなのですが・・・」 (240ページ)



追記 2011/05/29

ソ連政府によるチェルノブイリ事故調査に対して批判が高まり、ソ連政府はIAEAによる調査を依頼し、国民世論の鎮静を図りました。IAEA調査団の長は被爆地「ヒロシマ」の重松逸造氏だっただけに、地元の期待は高かったが、実際はどうだったか。ジャーナリスト広河隆一氏@RyuichiHirokawa の取材に基づくテレビ報道。






■政府と人々は、根源的には対立していると考えるべき。

以上のようなことから、私なりにまとめをしますと、次のようになります。


●政府(政治家・官僚)というものは、いざという時は多少国民を犠牲にしても、国家体制の安寧を優先する。これは政治家・官僚に倫理性・道徳性を期待することでは是正できない傾向と考えるべきである。

●事故調査や医療調査は、その後の政策や賠償金に関わることもあり、政治的な介入が必ずあると考えておいたほうがよい。

●「国際機関」といえど、その設置目的をよく考えるべきであり、政治から自由であるなどと期待すべきではない。

●そういった「政治」の行き過ぎを是正するのは、人々の勇気ある発言であり抵抗である。

●政治家・官僚とて人の子であり、時に良心の呵責に耐えかねて自壊することもある。


日本人の多くは「徳治主義」が好きなので、知識も人徳も備えた政治家が権力の座につき、善政をしてくれることを期待します。「○○は駄目だ。でも△△なら・・・」と次々に政治家の待望論が出ます。

しかし、政治家は少なくとも政権を握る限り、少数を捨て多数を生かすという判断をするように動機づけられています。また官僚は、言われたことだけをやり自ら失敗をしないようにする文化で暮らしていますから、積極的に少数者を救うために人道的に立ち上がることはないでしょう。むしろ少数を救うために多数を犠牲にしようとする為政者、人道的信念から越権的な行為をする官僚は、それぞれ為政者、官僚としての機能不全として追放されると見るべきでしょう。



■自らの論理を越えた圧力が知恵を生み出す

とはいえ、それはあくまでも一般的な傾向であり、実際の判断にはいろいろな裁量の余地があります。「無理だ。少数の犠牲に目をつぶるしかない」と政治家や官僚が思っても、それは彼・彼女らが自分たちの頭でそう判断しているだけであり、「そのような犠牲は許されない」と強烈な圧力がかかれば思っても見なかった知恵が出ることはしばしばあることです。

「文句ばかり言う自称『市民』の勝手に付き合っては現実は乗りきれない」と苦々しく言い捨てる政治家・官僚はしばしばいますが、彼・彼女らは、本当は自分の無能を密かに自覚し、自分たちが限界と思っている限度を超えて思考し・行動することを怖がり嫌がっているのかもしれません。

本来、公務員は「公僕」つまりは"public servant"です。難しいとされる試験あるいは過酷な選挙戦を経て安定した身分を得ていることの裏面は、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)つまりはエリートの重い責務を負っていることです。ところが人間はしばしば自分に甘くなるもの。だから市民は政治家・官僚に自分たちが当然受けるべき憲法上の権利を堂々と要求できます。



■ルーマンの機能分化論的な政治観

私はルーマンの社会論を妥当と考えている者ですから、それを解釈して、多元的な機能行使を現実的な理想と考えます。つまり官僚は官僚として現行制度の忠実な執行を自らの機能とします。政治家は政治家として政策決定や立法などを自らの機能とします。科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とします。国民は国民として自らの憲法上の権利が損なわれないことを求め続けることを自らの機能とします。

ここで大切なのは、政治家も官僚も、あるいは科学者も国民も、どれとしてすべてを総括する立場には立っていないということです。政治家はしばしば、科学者の真理や国民の権利請求を面倒くさいものと考えます(官僚の愚直な仕事さえ時に嫌がります)。官僚はしばしば、政治家の新政策を嫌がります(科学者の真理や国民の権利請求などは余計に面倒くさいものです)。科学者はしばしば、政治家や官僚の要求を科学的に受け入れがたいものとみなし、国民の要求を荒唐無稽なものと考えます。国民はしばしば、政治家・官僚・科学者の行動を不十分なものとしか考えません。

ですが、ここでもし政治家が、官僚・科学者・国民の要求をすべて満たしたと称したら、それは巨大な嘘を述べており、傾聴すべきさまざまな声を抑圧していると考えるべきでしょう。「偉大なる指導者」は全体主義にしか登場しません。民主主義政体の指導者は常に批判を受ける者です。

また科学者が、政治家・官僚に都合のいい説ばかりを述べ始めたら、彼・彼女は科学者として自殺し「御用学者」というエセ学者になったにすぎません。御用学者はエセ科学者として国民を犠牲にし、政治家・官僚にばかり都合のいい制度に奉仕し、自らの安寧や栄光をそこで得ます。

国民にしても、もし国民が衆愚化し、さらには暴徒化するなら、政治家、官僚、科学者それぞれの立場からすればとても許容できないような政治を要求することとなり、社会は自壊します。民主主義政体の最大のリスクは国民の衆愚化・暴徒化であす。政府・官僚はそれを防ぐため権力行使をしなければいけませんし、科学者は国民をできるだけ啓蒙しなくてはなりません。

つまり、複雑に発達した現代社会における「政治」とは、政治家、官僚、科学者、国民のどれもが単独で健全に実行できるものではありません。ましてや一人あるいは少数の指導者が善政を行うことなど考えてもいけません。


■それぞれがそれぞれの存在の機能あるいは「良心」を失ってはいけない

「政治」とは、誰も正解がわからないし、誰もすべてを統括できない問いであり、為政者だけに委ねては危険です。「政治」を行うには、為政者、官僚、科学者、国民(あるいは経済人、文化人などなどの存在)が、それぞれの機能をできるだけ忠実に果たそうとし、かつ社会全体の機能を破壊してしまわないようにして行われるべきだと考えます。

社会全体が損なわれないように自らの機能を果たすには、それぞれの存在は、他の機能を有する他の存在の、自らの機能では理解しがたい・受け入れがたい機能を、何とか自分の機能が自壊しないように翻訳して理解し・受け入れ、自らの機能を継続しなければなりません。

原子力工学者を例にとりますと、原子力工学者は、国策に邁進する政治家、利益ばかりを求める経済人、絶対安全などを求める国民、限られた権限と予算しか与えない官僚などといった、科学技術の論理だけでは度し難いし受け入れがたい声を聞きながら、それでも科学技術の論理だけは崩さずに、科学者・技術者としての「良心」を失わずに言動しなければなりません。そこで科学者・技術者が自らの論理や良心を捨てれば、「原子力ムラ」の住人のようになり、やがては今回のような取り返しの付かない人災を生み出してしまいます。

他方、為政者・官僚・経済人も、科学者・技術者としての良心を失わない者を邪魔者として扱い、自分たちの言う事を聞く科学者・技術者(=エセ学者・御用学者)を創り上げようと懐柔などはしてはいけません。さもないと今回のように政権・統治機構・経済活動自体が壊れかねないようになってしまいます。国民も夢物語のような話ばかりする科学者・技術者を求めてはいけません。さもないとどこかで大きな破綻がきます。

国民について逆の見地から語りますと、国民は自らの機能である憲法上の権利請求をやめてはいけないと考えます。もし今回の原発人災で、福島の人にはかわいそうだけど、きちんと国が賠償したら国が立ちゆかなくなるから我慢してもらうしかないじゃないか、と思い始めたら、それは倫理的な罪を犯しはじめているだけでなく、国としてあるべき姿を国に失わせてしまうという国民の機能において失敗をしてしまうことだと考えます。福島の人々、不当に人間の尊厳を損なわれた人々が憲法上の権利請求をすることに対して、他の国民は倫理的な意味だけでなく、機能分化社会の存在論的な意味においても、支援するべきだと考えます。



■誰にも解がわからない。だから考える

「しかしどうすればいいのだ!大規模避難なんて急にできるわけがないじゃないか!」と怒り出す官僚もいることでしょう(いや、このような怒り方をする国民も結構います。彼・彼女らは国体という秩序が乱されることを非常に嫌います。私はこのように制度・秩序の維持を偏愛する自称「保守派」「現実主義者」を個人的には好きになれません)。

「わかりません」というのが私の正直な答えですし、それは誰にとってもそうでしょう。大規模避難→社会的混乱→財政破綻となるかもしれません。しかし大規模避難→社会的再構築→社会的再生となるかもしれません。また、財政破綻になったとしても、その財政破綻から新しい秩序・制度が生まれるかもしれません(歴史は、これまですべての政体・文明にそのように過酷な試練を与えてきました)。無責任で言っているのではありません。わからないから本気で考えよう、実行しよう、試行錯誤し、そこから急速に学ぼうと言っているのです。

自称「保守派」「現実主義者」の中には、「正しさ」が見えない状況を極度に嫌う人がいます。それは感情的性向なのか創造的知性の欠如なのかわかりませんが、たしかに時代によっては制度や秩序の「正しさ」が重視されるべき安定した時期もあります。しかし時代によっては、新しさ、ということは古い秩序の(部分的)破壊が必要な時があります。この「国難」の今はそんな時代だと私は考えます。

もちろんすべての新しいこと、革新的なことが無批判的に称揚されるべきではありません。そこは本来の保守主義、すなわち健全な知的懐疑主義が自制となり、革新の暴走を食い止めるべきです。真の保守主義者とは、変えるものを変えるために、変えてはいけないものを守るとも言われます。そういった意味の保守主義者(それは穏健な革新主義者と言い換えてもいい存在かと思います)が今、必要だと思います。

それでは守るものとは何か。それは人間の尊厳だと考えます。それを守るためには、これまでの文明的便益は多少犠牲になっても仕方ないと私は考えます。

私は考えます。わからないから考えます。







***












Revolution is tweeted now.  人間の尊厳を保つために

昨日(2011/05/27)Gil Scott-Heronという黒人音楽家が亡くなりました。彼を思い起こすこと(あるいは彼について新たに学ぶこと)により、私たちは日本においても、人間の尊厳を保つために何ができるかの指針が得られるのではないでしょうか。以下、私の話にしばしお付き合いください。




■黒人音楽は黒人の歴史と表裏一体

私は最初はジャズから入り、次にブルーズ、そして黒人音楽全般を好きになりました。好きな理由は最初はあくまで音楽的なものであり、特にリズムに私は惹かれていましたが、やがて


Say It Loud! A Celebration of Black Music in America [Box Set, Import, From US]





などで体系的に黒人音楽を聞くうちに、音楽と表裏一体である黒人の歴史 ―ここではそのまま「黒人」という表現を使います― を知るようになりました。

「自由の国アメリカ」で黒人が置かれていた立場というのは公民権運動以前ではそれはもうひどいものだったことは周知のことかと思いますたが、その状況を覆すべく立ち上がった公民権運動の市民(多くは黒人でしたが白人らもいました)の勇気・苦労はものすごいものでした。自宅に火炎瓶が投げ込まれ、人前で罵られ、さらには仲間であるはずの黒人からも「そんな必要はない」と言われました。

公民権運動について少しずつ知るにつれ、黒人音楽は私にとって特別な意味を持ち始めました。黒人音楽の多くは、人間の勇気と尊厳の表現です。



■最も印象的だった"The Revolution Will Not Be Televised"

上の"Say It Loud!"の中でも最も印象的だった曲の一つが、Gil Scott-Heronによる"The Revolution Will Not Be Televised"でした。黒人が、自らの尊厳を取り戻そうと活動しても、大手メディアがその活動を放送してくれやしない。"The Revolution Will Not Be Televised"(革命がテレビ放映されることはない)とGil Scott-Heronは何度も何度も繰り返します。この作品は後々のラップというジャンルの誕生にもつながりました。

奇しくも先日金曜日(2011/05/27)、そのGil Scott-Heronは62歳で亡くなりました。



そうして彼の"The Revolution Will Not Be Televised"という作品を改めて思い起こすと、実は、私たちには光が見えているのだと思えてきます。



■私たちは無力なのか?

現在の日本。日本の政財官マスメディアなどが、福島の人々を始めとした多くの被災者の苦しみを見てみぬふりをしようとしています(体制というのは放っておけばそうしがちです)。おとなしいとされる日本の人々も立ち上がり始め、声をあげています。あるいは次に近くの原発が暴発すれば自らの家族もあぶなくなると思い始めた人も声をあげはじめました。

その抵抗の中で、私たちは時に無力感を感じることがあります。しかし、今の私たちの苦労を、公民権運動の人々の苦難と比べることはできません。私たちははるかに恵まれています。

「記者クラブ」マスメディアは、体制よりであると言われ、それはかなりの程度正しい記述かと思いますが、しかしそれでも私たちが声を上げれば、マスメディアもその声を取り上げざるを得なくなっています。

Gil Scott-Heronの時代は"The Revolution Will Not Be Televised"だったかもしれません。

しかし今の日本では(日本国憲法に基づく私たちの抵抗(注)を仮に"the revolution"と呼ぶなら)



"The Revolution Will Be Televised."


です。


仮にテレビカメラが来るのに時間がかかるとしても、


"The Revolution Is Tweeted."


です。


人間としての当然の尊厳が踏みにじられているとしたら、立ち上がって発言し、行動してください。それが自分のことであれ、他人のことであれ。



■ ツイッターで発言してください。

根拠がある発言はできるだけ短縮URLをつけてその根拠を示してください。

発言できないならRT (Retweet)してください。

あるいはQT (Quote Retweet)であなたのアイコンと共にあなたの共感を示してください。

抗議したい相手にはReply (あなたの声を届かせたい相手の@マークをつけて発言) してください。

仲間を求め流れを作りたい時はハッシュタグ(#)をつけてください。


もちろん、今の日本の状況に問題を感じていないのなら発言する必要などありません。

しかし、もし現状がおかしいと思うのなら、今人間としての尊厳が踏みにじられている人々のために、そして自分の魂を腐られてしまわないために声を上げてください。


声を上げる勇気がないというのなら、下の歌詞を目で追いながら、Gil Scott-Heronの声を聞いてください。

人間らしい社会・人間らしい生き方とは何かを考え、言葉にし、それを実現してゆきませんか。








The Revolution Will Not Be Televised


You will not be able to stay home, brother.
You will not be able to plug in, turn on and cop out.
You will not be able to lose yourself on skag and skip,
Skip out for beer during commercials,
Because the revolution will not be televised.

The revolution will not be televised.
The revolution will not be brought to you by Xerox
In 4 parts without commercial interruptions.
The revolution will not show you pictures of Nixon
blowing a bugle and leading a charge by John
Mitchell, General Abrams and Spiro Agnew to eat
hog maws confiscated from a Harlem sanctuary.
The revolution will not be televised.

The revolution will not be brought to you by the
Schaefer Award Theatre and will not star Natalie
Woods and Steve McQueen or Bullwinkle and Julia.
The revolution will not give your mouth sex appeal.
The revolution will not get rid of the nubs.
The revolution will not make you look five pounds
thinner, because the revolution will not be televised, Brother.

There will be no pictures of you and Willie May
pushing that shopping cart down the block on the dead run,
or trying to slide that color television into a stolen ambulance.
NBC will not be able predict the winner at 8:32
or report from 29 districts.
The revolution will not be televised.

There will be no pictures of pigs shooting down
brothers in the instant replay.
There will be no pictures of pigs shooting down
brothers in the instant replay.
There will be no pictures of Whitney Young being
run out of Harlem on a rail with a brand new process.
There will be no slow motion or still life of Roy
Wilkens strolling through Watts in a Red, Black and
Green liberation jumpsuit that he had been saving
For just the proper occasion.

Green Acres, The Beverly Hillbillies, and Hooterville
Junction will no longer be so damned relevant, and
women will not care if Dick finally gets down with
Jane on Search for Tomorrow because Black people
will be in the street looking for a brighter day.
The revolution will not be televised.

There will be no highlights on the eleven o'clock
news and no pictures of hairy armed women
liberationists and Jackie Onassis blowing her nose.
The theme song will not be written by Jim Webb,
Francis Scott Key, nor sung by Glen Campbell, Tom
Jones, Johnny Cash, Englebert Humperdink, or the Rare Earth.
The revolution will not be televised.

The revolution will not be right back after a message
bbout a white tornado, white lightning, or white people.
You will not have to worry about a dove in your
bedroom, a tiger in your tank, or the giant in your toilet bowl.
The revolution will not go better with Coke.
The revolution will not fight the germs that may cause bad breath.
The revolution will put you in the driver's seat.

The revolution will not be televised, will not be televised,
will not be televised, will not be televised.
The revolution will be no re-run brothers;
The revolution will be live.

http://www.gilscottheron.com/lyrevol.html







日本国憲法 抜粋


第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html







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2011年5月25日水曜日

七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書

これは現在は、NHK文化研究所にいる七沢潔氏が1986年のチェルノブイリ事故発生から10年間に制作した10本あまりのテレビ番組のノートを基にして書かれた本(277ページ)で、原発問題が科学技術の問題である以上に政治の問題であること、科学技術が「政治化」されてしまっていることを明確に伝えています。

私はNHK教育テレビ(ETV)「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」のディレクターの一人であった七沢氏に興味をもち、この本を購入して読みました。現在、そしてこれからの近未来において、私たちが、他ならぬ日本政府から自らの健康・生命・暮らし・人生そして人間としての尊厳を守るために必読の書であると私は考えます。

以下、その概要をかいつまんでまとめますが、ぜひ皆さんもご自身でお読みください。


■チェルノブイリ事故においてソビエト政府が取った対応(情報の隠蔽や操作)は、現在の日本政府の対応と驚くほど似ている

この本の第一章「パニックを回避せよ」は、まさに日本政府が取り、今なお続けようとしている対応です。この本は1995年12月におきたもんじゅの事故を受けて書かれたものですが、七沢氏はこのもんじゅの事故を、以下ではチェルノブイリと「相似形の田舎芝居」と述べていますが、今回の東京電力福島原発事故は、チェルノブイリに匹敵する大事故となってしまいました。今こそこの本を読むべきと私が述べる次第です。


いま、チェルノブイリ原発事故という、二十世紀の終わりに人類が立ち止まって自らの姿を映し、見つめ直すべき歴史の鏡を、もう一度手にとり、そこにかかった曇をはらさなければならない。さもなくば、それから十年後に起こった相似形の田舎芝居は、茶番劇とは呼べない深刻な未来に直結するだろう。それは最悪の場合、「チェルノブイリ」の五年後にソ連が迎えた「国家の崩壊」という終幕である。(12ページ)




■原発事故において人々はあまりにも無力で、国家権力はあまりにも冷酷

七沢氏は一連の取材で、チェルノブイリ原発などの汚染地帯の現場も歩き、元チェルノブイリ原発所長、放射線測定技師、運転員、医師・看護婦、科学者、ゴルバチョフ元書記長、IAEA事務局長など百名以上にインタビューをしています(18ページ)。この取材の結論ともいえる記述が第一章にあります。


そして浮かび上がってきたのは、「誰も予想だにしなかったカタストロフ」を前にした時の人々の無力さと、目に見えず、においもしない放射能との絶望的な戦い、そしてどんなことをしてでも社会を維持しようとする国家権力の冷徹な姿だった。(18ページ)。


「システム」というのは、それが生命であれ、組織であれ、自らのシステムの自己保存をもっとも強力な機能としてもちます。システムは、自己のシステムを崩そうとする周りからの圧力には頑強に抵抗します。

政府も、政治家や官僚という生身の人間によって主に動かされていますが、その人間もシステムの部分として長年働くうちに、システムを守ることを第一に考えるようになります。現在の多くの政治家や官僚も、これまでの国や省のあり方が大幅に変わらないようにすることに必死で、そのあまりに、人々の生命が損なわれていることを見て見ぬふりをしているように思えます。



■チェルノブイリ事故の際のソビエト政府の対応

以下、第一章に書かれているソビエト政府の対応を時系列でまとめてみます。


●4月26日 深夜1時23分
チェルノブイリ原発四号炉が爆発

●4月26日 深夜2時頃
第一報を受けた、チェルノブイリ原発所長のブリュハーノフ氏がバスで発電所に向かう。その途中で四号炉の上部がないことに気づく。

●4月26日 深夜3時頃
プリピャチ市の市議会議長とウクライナ共産党プリピャチ市委員会第二書記が原発所長に会いに来る。所長は「非常に重大な事故が起こったので、住民を避難させなければならない」と主張。しかし二人の幹部は「避難するとなればパニックが起きる」として、上部組織であるキエフ州やモスクワからの指示を待つことにする。

●4月26日 午前11時まで
ウクライナが共産党キエフ州委員会第二書記やプリピャチのKGB支部長など上位者が多数現れはじめたが「パニックを起こすな。機密を保持せよ」と命令を出すだけ。

●4月26日 午後2時半
モスクワのルイシコフ・ソ連首相から一報をもらったウクライナ共和国のリャシコ首相は、かねてから実地していた避難テストの経験を活かせると判断し、1200台のバスと240台の自動車をプリピャチに向けて出発させる。(38ページ)

●4月26日 午後8時
ソ連政府事故調査委員会の委員長として任命されたソ連のエネルギー問題副首相のシチェルビナ氏がプリピャチ市に到着。ウクライナからのバスに対しては、その自発的な行動を一喝し、車を郊外に待機させた。(37-38ページ)

●4月26日 午後8時以降の夜
シチェルビナ氏が会議を招集。ウクライナ民間防衛軍司令官は、バスの手配もふくめて住民避難の計画案があると進言。ソ連保健省代表は避難の必要はないと主張。物理学者は原子炉で何が起こりつつあるかわからないと危険性を指摘。

シチェルビナ委員長は「避難をさせた場合、それが噂となって周辺の住民にパニックが起きないか。特にキエフの三百万住民が集団脱出をしたらどうなるか。外国にも知られてしまい、国家の権威は失墜し、秩序は崩壊する」と懸念し、決断を翌朝の会議まで持ち越すこととする。(40ページ)

●4月27日 午前10時
プリピャチ市からの住民避難を決定。(41ページ)

●4月27日 正午
ラウドスピーカーと有線ラジオで「原発事故により汚染が始まっていること」「三日間ほど町中の人が避難することになったので必要書類と三日分の衣服と食糧を携行すること」「戸締り、ガスの元栓をしめて落ち着いて行動すること」を市民に呼びかける。(41ページ)

●4月28日 夜
モスクワ放送が「チェルノブイリ原発で事故が発生し、原子炉一基が破損した」と初めて事故を公式に伝えた。(43ページ) しかし人口の多いキエフのことを気にして、せめて5月1日のメーデーのお祭りが終わるまでは詳しい情報は伝えないことにした。(44ページ)

●5月1日 午前十時
キエフでメーデー行進は予定通り始まる。その模様は国営テレビを通じて全ソ連および外国へも伝えられる。(46ページ)

●5月6日 
原発で第二の爆発の可能性が高まったがそれは機密とされ、シチェルビナ委員長は記者会見で「事故のあった原子炉にヘリコプターを使って、鉛などをまぜた四千トンの砂を投下したことで新たな放射能の放出は止まった。これ以上悪化する心配はない」と述べる。(60ページ)

この頃、キエフ市民が次々に町を脱出し始める。(61ページ)

●5月7日
ウクライナ共和国のロマネンコ保健大臣が地元テレビおよびプラウダ紙上のインタビューで情報開示。「風向きが変わったことでキエフ周辺で放射線が一定程度上昇。飲料水は大丈夫だが子どもを戸外で水遊びさせたり長時間外出させないこと、住宅を掃除すること。ただし放射線のレベルは人体に影響はない程度」などと述べる。(65ページ)

これは「パニックに拍車をかけるような演説をしてはいけない。人々を安心させるために演説するのだから」というウクライナ共産党中央委員会およびモスクワの検閲機関の手が入ったものだった。(65ページ) 

このロマネンコ発言をラジオ放送で聞いたソ連保健省の高官は激怒し、保健省役人を大挙してウクライナに派遣し、「あの演説は市民の不安を呼び起こす。する必要はなかった」とロマネンコ氏を糾弾。しかし後年、このロマネンコ演説は不十分な情報開示として批判された。(66ページ)

●5月7日
ウクライナ共産党シチェルビツキー書記長の依頼でモスクワの二人の専門家(科学者)がキエフに来る。住民保護策について意見を求められる。二人の意見は報告書にまとめられ市民の疎開や子どもの避難は必要ないとされた。(67-68ページ)

ウクライナ共和国最高会議議長シェフチェンコ女史はこの勧告に真っ向から反対。「あなたがた二人は自分の子どもや孫をここに住まわせますか」と問う。シェフチェンコ女史によれば二人の科学者は沈黙。(69ページ)

●5月9日
ウクライナ共和国は、モスクワの専門家が必要ないとした「疎開」や「避難」という言葉は使わずに、勧告にあった「夏休み」を繰り上げることとして、実質的に学童疎開を開始した。5月25日までに52万6千人の子どもと母親および妊婦が疎開をした。(70ページ)

●5月9日
ウクライナ共和国政府の実質的な疎開措置に対し、モスクワのソ連政府は露骨に不快感を表し、シチェルビツキー書記長に直接電話で警告を発する。

●5月13日
ソ連共産党事故処理緊急対策会議は、ウクライナ保健省が根拠のないあわてた行動と勧告を行ったと強い論調で批判。

●5月14日
ソ連保健省は、それまで決められていた住民の被曝許容線量を大幅に引き上げる。




■ソ連と日本の共通点

上のまとめに、ソ連と日本の共通点が見られるように思えます。


●原発の現場責任者は、混乱の中でも比較的的確に現状認識をしている。

●政府・役人はとにかく秩序維持を第一にして、できるだけ住民避難をさせまいとする。

●政府・役人は情報を隠すことによって、住民のパニックを抑えようとする。

●政府・役人は、少々の危険はあっても、公式行事を行いそれをTV放映することなどにより無事をアピールしようとする。

●政府・役人の情報統制にもかかわらず(あるいは情報統制ゆえに)住民はパニックを起こし始める。

●政府・役人は情報開示をせざるを得ない状況に追い込まれると、非常に間接的でわかりにくい表現で発表をする。ちょっと聞くと、それほど危険ではないような言い方をする。

●科学者の勧告も、常識的な問いかけ(自分の子どもでもそうするのか)の前には沈黙せざるを得ない。

●地方政府・自治体が、「秩序」優先の中央政府に反抗して、住民の安全を守ろうとする際も、中央政府の命令・指示に反しないような表現を使って、住民に指示を出さなければならない(中央政府の命令・指示が住民の安全にとって障害となる)。

●中央政府は、地方政府・自治体の独自行動に不快感を示す。

●中央政府は、「秩序」を守るためには、科学的であるはずの基準も平気で変える。



私は今回の政治家・官僚の一部は不作為により、後々刑事告発される、いやされるべきと思っていますが、このまとめを見てみますと、政治家・官僚の不作為は、個々人の性格だけから生じるのでなく、秩序をとにかく保ちたいとする、政府・省庁という組織のシステム的性質からも生じているのかなと思われます。

もちろん上にも見られるように気骨ある政治家は独自に人間を守ろうとします。ですから、不作為に耽る政治家・官僚の浅慮と冷酷さ、つまりは人間的想像力の欠如は厳しく批判されるでしょう。しかし一方で、政府・省庁という組織は、下手をすれば生きた人間を、システムの自己保存のための部品にしてしまうのではないかと私は考えてしまいます。

以上で一章のまとめを終ります。時間がないので本日はこれまで。残りは後日、まとめます。ただ、大切なことだけ予め述べておきますと、IAEAは、加盟国の政府の利益と意向を代表する組織であり、各国の国民や、世界の市民のための組織ではない、ということです。これはIAEA事務長の発言としてこの本の240ページに掲載されています。

今、日本では、IAEAの調査が事故の真相を明らかにしてくれるのではないかと期待が高まっていますが、少なくともチェルノブイリ事故ではそうでなかったことをこの本は示しています。

また以下の報道は、あたかもIAEAが気象庁のデータ公開を終了させたかのように読めますが、上記のIAEA理解が正しいなら、気象庁のデータ公開中止は、原発を推進しようとする日本政府が、同じように原発推進を考えるIAEAメンバーの他国政府と強調して、できるだけデータを隠して事故の被害を過小評価させようとしているとも考えられます。

繰り返しますが、どうぞこの本を読んでください。


気象庁が拡散予想を終了 IAEAの連絡で

 気象庁は25日、国際原子力機関(IAEA)からの要請を受けて作成していた福島第1原発からの放射性物質拡散予想について、IAEAから「要請を終了する」との連絡があったことを明らかにした。同庁は新たな要請が来るまで、予想の作成はしない。

 IAEAは、終了の理由を明らかにしていないという。

 気象庁の予測は、世界各国への影響を把握するためIAEAが要請。東日本大震災が発生した3月11日から1日1~3回、最近は週に3回程度予測しIAEAに報告しており、政府の指示で4月5日からは同庁ホームページで公表していた。

 ただ、予測の基礎的なデータは「72時間に1ベクレルのヨウ素131が放出」などと仮定の数値を使っているため、濃度などは実態を反映していないとしている。

 同庁によると、IAEAからの連絡は23日夜にあり「状況に変化のあった場合は、あらためて要請する」との内容。

2011/05/25 12:05 【共同通信】

http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011052501000356.html










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2011年5月16日月曜日

NHK教育テレビ(ETV)「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」をぜひネット配信や再放送でご覧ください。

昨夜5月15日にNHK教育テレビ(ETV)が放映した「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」はあまりに衝撃的でした。福島での放射線量の実態、それを知りながら危険な地域に住む住民に何の積極的な通知もしていない文部科学省と政府、これまで築きあげてきた暮らしや愛する動物を見捨てなければならない住民・・・私は見ていて怒りと涙でもう動けませんでした。

といっても番組は演出をできるだけ抑えたものです。この番組の衝撃は、あくまでも取材でわかった事実と映像によるものです。


NHKのホームページは以下のように、この番組を紹介しています。


1954年のビキニ事件以来、放射線観測の第一線に立ち続けてきた元理化学研究所の岡野眞治博士の全面的な協力のもと、元放射線医学研究所の研究官・木村真三博士、京都大学、広島大学、長崎大学の放射線観測、放射線医学を専門とする科学者達のネットワークと連係し、震災の3日後から放射能の測定を始め汚染地図を作成してきた。

(中略)

番組は、放射能汚染地図を作成してゆくプロセスを追いながら、原発災害から避難する人々、故郷に残る人々、それぞれの混乱と苦悩をみつめた2か月の記録である。
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0515.html



この調査の中心人物は木村真三博士ですが、木村氏は、チェルノブイリ調査や東海村臨界事故の調査をしていた研究者です。木村氏は、数年前まで放射線医学総合研究所の研究員でしたが、その後厚生労働省の研究所に移りました。

今回の事故で木村氏は、これまでの研究経歴から当然のことですが、自発的に放射線量の実態を調査しようとしたのですが、厚生労働省はそれを差し止めました。

木村氏はそれに抗議し、職場に辞職を出し、独自に調査を始めます。番組は、その木村氏を追う中で、福島で出会う人々の姿を描き出し、また木村氏、岡野氏、そして京都大学、広島大学、長崎大学の研究者が明らかにしてきた福島県での放射線量の実態を明らかにしています。(ただし番組最後で、木村氏らが東京電力福島第一原発の敷地の外でプルトニウムの測定をしたことが放映されましたがその測定結果は番組では知らされませんでした ― 木村氏らは敷地内での測定を東電側に拒否されました)

このtweetによると、「担当者に確かめたところ、プルトニウムの調査結果は番組に間に合わなかっただけで(あと一週間くらいはかかりそう)、他意も圧力もないとのことでした」そうです。(2011/05/16 14:53に追記)


ですから、この番組で明らかになった内容は、木村氏が研究者としての良心をかけて辞職して自ら調査を始めなければわからなかったものです(国は、こういった情報を隠蔽しようとしていたわけですから)。もちろん木村氏に協力した研究者、そして何よりこの取材をし、きちんと地上波で放映したNHKの勇気と良心も讃えられなければなりません。


そのNHKですが、この番組のディレクターは七沢潔氏だとされています(ごめんなさい確証は取れていません)。


その七沢潔氏(NHK放送文化研究所主任研究員)には、雑誌『世界』に連載された「テレビと原子力 戦後二大システムの五〇年」の記事に対して「科学ジャーナリスト大賞2009」が贈られています。


以下に、受賞時の挨拶が引用されていますが、七沢氏はここで、NHK内部でも原発問題を取材し続けると、上層部から圧力がかかり、人事異動の対象となることを明らかにしています



「1987年にチェルノブイリ原発事故が起きまして、放射能に汚染されたことを機に、ほとんど興味をもたなかった原子力という分野と出合うことになりました」

「20年間で、十何本かのドキュメンタリー番組を作ってきました。チェルノブイリ、日本各地の原発、東海村の臨界事故などの取材をしてきました。進めていくほど、科学自体のモデルより、人間社会がそれをどう用いているのかという点が、私が見つめるテーマになりました」

「取材では、喧々囂々の議論もありました。この線に抑えると経済が成り立たなくなるというような点に、さまざまな考え方があると思います。科学ははっきり識別できるほどしっかりできていないのではという疑問を抱きました」

「その安全は、根拠がしっかりしているのかという、そういう点が番組を作る出発点となりました」

「原発の番組から足が抜けられなくなり続けていると、上司が『長いこと、テレビでこういうことをやらないほうがよい』と言われました。原発事故がたくさん起きていた時期で、東海村の臨界事故も手がけましたが、放送研究所に行きなさいということになりました」

(中略)

「原子力報道で、企画が過ぎたりすると、どこかに異動が起きるという、ひとつのサンプルとして私があました。構造的な問題ですが、報道と原子力技術には、どこかでつながることが可能であると思います。そのシステムの中で、どう客観的な報道ができるか。私はその研究を続けなければと思っています」

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=1272


こういった圧力にもかかわらず、この放送を地上波で行ったNHKスタッフには心から御礼申し上げます。社会は皆さんのような良心をもった勇気ある方々によって支えられています。


この番組は、NHKオンデマンドで本日5/16から5/30まで見ることができると伝えられています。ネット環境がそろっている方はぜひご覧ください。(現時点ではまだ配信は始まっていないようです)。


NHKオンデマンド
https://www.nhk-ondemand.jp/



しかし、この番組は、日頃ネットから情報を得ていない方々こそ見るべきです(正直「NHKオンデマンド」はあまり使いやすくありません)。使いやすさだけでなく、元々ネットを使わない方もまだ多いわけですが、この番組は、福島およびその近郊に住む方々の暮らし・生命に直接関わるものです。ぜひお互いに何とか助けあって、この番組を視聴したり、この番組の内容をまとめた情報を共有したいものです。

もちろん一番いいのは、やはりこの番組の画像を見ることです。ツイッターでは「#nhk_rerun」という「ハッシュタグ」を加えて発信すれば、それはNHK関係者がその情報を見ると伝えられています。(自分が書き込んだ文章の後に半角スペースを空けて「#nhk_rerun」と打ち込んでください)。ぜひ、お年寄りでも視聴しやすい時間帯に地上波で再放送するべきです。(また放送を録画した人は、個人的な友人・知人にその録画をぜひ見せてあげてください)。

この番組はぜひ地上波ゴールデンタイムで再放送されるべきです。どうぞ「#nhk_rerun」のハッシュタグをつけてTwitterで発信してください



現時点で、この番組の内容を文字でよくまとめているサイトは私の知る限りあまりありませんが、以下のサイトは、番組を見ながらツイッターでつぶやいた人々の記録をtogetterでまとめたものです。ある程度の内容はわかると思います。




Togetter ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~
http://togetter.com/li/136141




原発人災事故が福島の自然を(半)永久的に損ねてしまったこと。

福島に住む人々の暮らしや愛する動物を失わせていたこと。

住む土地を追われた人々は、仕事も人間関係も失い、原発難民とならざるを得ないこと(震災の夜には東京での「帰宅難民」という表現を多用したマスメディアは、まだ「原発難民」という言葉は使っていません)。

未だに文部科学省が20mSv基準に拘るため、福島の子どもたちにはチェルノブイリ級の被曝リスクがあること(注1)。

国民の健康で文化的な最低限度の生活を守るべき(日本国憲法)、政府や文部科学省などの公務員が、「風評被害やパニックを恐れ」といった理由で、情報を隠蔽し、国民に自ら考え行動する権利を奪っていること。

現在の政権や文部科学省は、福島の国民の一部を、緩慢な見殺しにしているのではないかということ(これは「人道に対する罪」とさえ言えるのではないかということ)。


このようなことを考えると、今の日本には、もうとりかえしのつかないことが起こったと思わざるをえません。

ここで私たちは思考停止したくもなります(注2)。

しかし今こそ考えなければなりません。そして行動しなくてはなりません。

この状況の打開策の「正解」を知る個人や組織などどこにもありません。だからこそ今は衆知を合わせて、積極的な相互作用の中から、できるだけよい状況を創りださなければなりません。


まさに国難です。

このままでは、日本国という体制が、国民からの信を失い、国の形(「国体」)を失ってしまうかもしれません。その政治的・社会的・精神的崩壊が、国内外にどのような影響を与えるかを考えるなら、今こそ私たちは考え、行動し、お互いから学び合い、よりよい途を見つけなければなりません。


取り急ぎ、上記の番組を見てください。見ることができないのなら、「#nhk_rerun」のハッシュタグをつけてTwitterで発信してください


追記 2011/05/28

この番組の文字おこし(静止画像付き)が以下のサイトにまとめられています。このサイトに限らず今回の原発災害に関してウェブで超人的な活躍をしている、忌野清志郎を愛する@zamamiyagareiさんに心から感謝(このハンドルネームは、忌野清志郎の名言に由来しています)。







(注1)

今回の東京電力福島原発事故が、チェルノブイリを超える被害をもたらす可能性については、Russia Todayが、クリス・バスビー教授(Prof. Christopher Busby, Scientific Secretary of ECRR)へのインタビューで明らかにしています。


「3号機の爆発は核爆発」:クリス・バスビー教授インタビュー和訳、米国のエンジニアも核爆発説を支持
http://onihutari.blog60.fc2.com/blog-entry-45.html


には、Russia Todayの英語画像が埋めこまれ、そのインタビューの全文も和訳されていますが、そこから一部を引用します。




バスビー教授:私の意見では最低でも60kmから70kmの範囲で避難勧告をだすべきだと思います。70km地点で高濃度放射能を計測しているのです。その量はチェルノブイリの避難区域の数値より高いんです。東京やその南部の地域でも高い放射能が検出されていることから、チェルノブイリに比べてとても多くの人たちがリスクにさらされているのです。チェルノブイリの時は、風が北に向いたために首都のキエフに放射能の汚染があまり広がりませんでした。要するに影響を受ける人の数が全然違うということです。ベルリン(の国際会議)で発表したECRRのリスクモデルを使った計算方式によると、チェルノブイリ事故が原因で癌になった人の数は140万人でした。我々はほぼ同数の人たちが福島第一の件で癌を発病するであろうとみています。

司会:幾つものメディアで『長期的な健康被害はまだ分からない、しかし一般的に人間へのリスクは低いとみられている。』『福島第一での放射能汚染による健康被害は確認されていない。』というような事を聞きます。これはまだこうした判断をするには時期尚早ということなのか、それともあなた自身が過剰に反応をしているのかなどと言いそうな人もいそうですよね。

バスビー教授:時期尚早というわけではありません。チェルノブイリに関して言えば、疫学的に癌発病率の増加など様々な研究がなされています。歴史を無視する人たちがそれを繰り返してしまうのです。こういう話を軽視するのは、ほとんどが原子力産業の人たちです。多額の利権が絡んでますから。

(中略)

司会:最後に、海水への漏出の事がでてきたのでそれについて。チェルノブイリは陸地にあって、福島第一は海に面している。これは汚染が日本を離れて広範囲に広がるという観点からどのような意味をもつのでしょう?

バスビー教授:もうすでにアメリカでは放射性物質が検出されてますよ。ウランもプルトニウムもハワイやマリアナ諸島のエアーフィルターから数値がでています。さらに汚染された海水も海岸に届きますね。だからこれはとても深刻な問題だと言っているのです。しかし日本政府や原子力産業によって一連の事は軽視されています。とっても深刻なことなんですよ。この為に多くの人たちが病気にかかって亡くなってしまうのですから。

http://onihutari.blog60.fc2.com/blog-entry-45.html



英語がわかる人は、そのままそのRussia Todayの動画をご覧ください。





(注2)

精神科医の斎藤環氏は毎日新聞のコラム「時代の風」(2011/5/15)で、チェルノブイリでは、「麻痺的な宿命感」、どうにでもなれといった投げやりな気持ちが蔓延したと伝えています。このような思考停止に対して、もっとも有効なのは、斎藤氏もいうように、「正確な情報と知識」と「信頼に足る政策」です。国民はこれらを求め続けなければなりません。


チェルノブイリの報告で特異と思われるのは、強制的に避難を命じられた人々のトラウマと、被曝(ひばく)からの「生存者」ならぬ「犠牲者」のスティグマ(不名誉な烙印(らくいん))が深刻な精神的問題を引き起こしている点である。

 これに加えて、放射線の危険性に関する啓発不足や、汚染地域で安全に暮らすための正確な情報の欠落が、一部地域で「麻痺(まひ)的な宿命感」をもたらしたという。どうにでもなれ、という無常観に近いだろうか。

 心身症の症状が増加したという報告もある。さまざまな不定愁訴や、原因のはっきりしない身体の不調を訴える患者が増加したという。得体(えたい)の知れない放射線被害に対する心理的不安が反映されているのだろう。

 福島第1原発の事故を巡る状況には、こうした不安をかきたてる要素があまりにも多い。
 
(中略)

これを機会に、政府関係者には十分な自覚を促したい。あなた方が誰より有能な治療者たり得るということを。あなた方にしか処方できない薬が、少なくとも2種類あるのだ。すなわち、「正確な情報と知識」と、「信頼に足る政策」である。
http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20110515ddm002070090000c.html



しかしながら、文部科学省は


放射能を正しく理解するために
教育現場の皆様へ
文部科学省
平成23年4月20日
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/04/21/1305089_2.pdf


という文書で、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」について説明(p.17)した後、以下のようにと教職員に対して指示を出しています。


放射能のことをいつもいつも考えていると、その考えがストレスとなって、不安症状や心身の不調を起こします。

もし保護者が過剰に心配すると、子どもにも不安が伝わって、子どもの心身が不安定になります。

不確かな情報や、人の噂などの風評に惑わされず、学校から正しい知識と情報をもらって、毎日、明るく、楽しく仲良く、安心した生活を送ることが心身の病気を防ぐ一番よい方法です。(p. 18)
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/04/21/1305089_2.pdf





これに対して、大阪のある精神科医は以下のように抗議しています。

文部科学省のPTSD理解は誤っており、予防策としてもおかしい、というより、文部科学省の説明は、加害者がよく行う「被害者の口を封じ、あたかも被害の責任が被害者側にあるかのような論述」だとしています。


PTSD(心的外傷後ストレス障害)は過去の心的外傷が原因で発症しますから、現在進行形の事態に対してPTSDを持ち出すことはそもそもおかしな話です。

また、あたかも「放射能を心配しすぎて」PTSDになるかのような説明は
間違っています。「心配しすぎて」PTSDになったりすることはありません。

PTSDはレイプ、虐待、戦争体験、交通事故などなど、生命が危険にさらされる現実の出来事の後に生じる疾患です。

今、原発被害に関してPTSDを論じるのであれば、PTSDの予防ですから、「安全な場所に避難すること」と「事実を伝えること」が必要です。

ところが文科省のこの文書は「年間20mSVでも安全という間違った情報」を与え、「避難の必要はない」と言っていますから、PTSDの予防としても間違っています。

そもそも放射線の被曝による生命の危機を認めていません。

あまりのお粗末さにあきれてしまい、開いた口がふさがりません。

福島原発の事故の責任は国にあります。

この文章は加害者である国が、被害者の口を封じ、あたかも被害の責任が
被害者側にあるかのような論述を組み立てています。

これは、レイプでも幼児虐待でも加害者側がよくやるやり方です。

このやり方を繰り返されているうちに、被害者は被害を受けたという事実が見えなくなり、自分を責め、PTSDであることすらわからなくなってしまいます。

PTSDという疾患概念は、被害者が自分の症状と過去の出来事との関連に
気づくためのものです。

(中略)

福島の皆さんにこのことを知らせたいと思っています。

文科省に文書を撤回させることはできなくても、知識を広めることで文書を無効化してしまえたらと思います。

転送等していただけたらありがたいです。

チェルノブイリの事故の後、心身の不調を訴える人々に対してソ連が「放射能恐怖症」という精神科的な病名をつけて、放射線被曝の後遺症を認めようとしなかったことがありました。

それと同じことが日本でも起こるのではないかと心配しています。

放射線被曝の被害を矮小化しようとする国の態度は正さなければなりませんし、そのために精神医学が利用されることを防ぎたいと思っています。
http://d.hatena.ne.jp/eisberg/20110515








***












2011年5月15日日曜日

黒澤明(1952)『生きる』

映画『生きる』が、黒澤明監督の代表作の一つだということは当然知っていても、私はこの作品を「死を前にした市役所役人が、心を入れ替えて公園建設に励む」といった安直なヒューマンドラマだとばかり思い込んでいて、これまで見たことはありませんでした。見え見えの筋書きで感動などしたくなかったからです。

しかし、今回の福島の子どもへの放射線線量制限をめぐる、文部科学省官僚の対応を見ていると、最初は福島住民と共に驚き、憤怒を覚えましたが、私個人としては次第に呆れ、会見の場であのような語り方しかできない官僚に、情け無さを通り越して、憐れみさえ感じるようになりました。

なぜあのようにしか語れないのか・・・。

会見の場の官僚も、子どもをもつ親の気持ちがわからないわけではないはずなのに、どうしてあのように、役所の流儀を絶対視して、自らの無作為や無策をあたかも誇っているような言動を取るのか。なぜ陳情にくる住民を、あたかも「物事がわからない困った人たち」のように見下した態度を取るのか。自らもかつては子どもであり、高圧的な態度を生まれつきもっていたのではないはずなのに・・・。


「役所」という近代文化をもう一度考えなおしてみなければならないのではないかと考えるようになりました。そうしてその一環として『生きる』のDVDを注文し、今、見終えました。


よかった。やはりすごい作品でした。単純な感動モノ、勧善懲悪モノなどではありません(当たり前ですよね、自分の傲慢な思い込みに反省)。特に後半の、複数の通夜参列者の語りを基軸にしたストーリーテリングはすばらしい。主人公が貫き通そうとした生きることの尊厳が踏みにじられ、復権され、調子のいい話にされ、一喝され、懐柔され、骨抜きにされ、そして最後に・・・。

この語りの複数性と重層性は、この映画が訴えることの単純な要約や図式化を拒みます。黒澤明がこの『生きる』で言いたかったことは、やはりこの『生きる』という映画作品でしか表現できないというべきでしょう。この映画のどんな要約や評価も、それは派生的に生じた、別の表現に過ぎない(これも当たり前のことですね、ごめんなさい)。

しかし、一つだけ単純化したことを言うなら、この映画を通じて、笑う者、怒る者、泣く者、そして歌う者とはどんな人達かを見極めてください。

逆に、そういった感情を押し殺す者、あるいはそれらの感情をおざなりの社会的演技でしか表現しない者とはどんな人達かを観察してください。そしてあなたはどちらのような人になりたいのか、いや、現にどちらのような人なのかを自問してください。

特に、役所に勤める人は、この映画を10年に一度は見るべきかと思います。この場合の「役所」とは硬直化した組織のことであり、民間でも東電のような組織はここでいう「役所」の範疇に入ります。あるいは首を切られないことをいいことにして、ふんぞり返っている教員も見るべきでしょう(誠に遺憾ながら、教員にもそんな人はいます)。



映画のストーリーテリングは素晴らしく、画面の構図や転換などの映画文法は見事ですが、映画の前半は、戦後の復興期の風俗が、現代日本とあまりにも異なるので違和感を覚えるかもしれません。私も最初は、外国映画を見ているようでした。

さらに後半の通夜を基軸とした展開で、私はこの映画が、役人文化を描いたロシア映画のようにも思えてきました(ご承知のように、役人の生態はロシア文学のテーマの一つです)。

そうしてこの映画を一種、ロシア映画のようなものとして考え始めたら、私は急にこの映画がやはり私たちの日本映画なのだと感じられてきました。

ロシア映画が日本映画?

だって、現在の日本は、チェルノブイリ事故のソビエトそっくりではありませんか。


違う?

ま、確かに、事故対応が旧ソ連より遅く、役人の虚勢を国民の多くがまだ権威として信じているかもしれないという点で、確かに現代日本は旧ソ連とは違うかもしれませんが・・・





***












2011年5月14日土曜日

♪東電に入ろう♪(動画と歌詞) 私たちには歌がある。笑いがある。

おエライ人というのは、とにかく口達者です。正しい理屈を言っているようにしながら、要は自分の利益や立場を守っているだけの屁理屈をこねることに関しては鉄面皮の強さももっています(もうこの2カ月余りで、すっかりそのことはバレてしまいましたよね)。

そんな屁理屈を正面から論破することは必要ですが、それだけが私たちの抵抗の手段ではありません。


私たちには歌があります。笑いがあります。

歌うことで、笑うことで、私たちは抵抗し、人間らしい生活を取り戻すことができます。


歌うこと、笑うことは、言うまでもなく人間の暮らしに欠くべからざるものです(私は歌も笑いもない人生なんておくりたくありません)。


でも「偉い人」というのは、たいていの場合、歌も笑いも好きではありません。(あるいは良さがわからないのでしょうか。そういえば、お偉いさんの歌や笑いの趣味は悪いことが多いですよね)


それなら好都合。歌と笑いで抵抗しましょう。



でもその時には多少の作法が必要。

下の「東電に入ろう」の替え歌はすばらしいプロテスト・ソング(抵抗歌)ですが、その歌詞および歌い方にご注目下さい。


決して、歌を野蛮な攻撃にしていない。自らの正義を疑わない一方的な怒りにしていない。

ユーモアを保ち、余裕を失っていない。


この自己統御と自己省察が私たちの武器ですし、誇りです。


それにしてもこの「東電に入ろう」の歌詞と歌い方はすばらしい。特に7番や9番の言語感覚、歌唱のトーンは絶品です。どうぞお聞きください。そしてできれば共に歌ってください。







(1)
皆さんがたの中に
東京電力に入りたい人はいませんか
ひと旗あげたい人はいませんか
東電じゃ人材もとめてます

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(2)
スリルを味わいたい人いたら
いつでも東電にお越しください
ウランでもプルトニウムでもなんでもありますよ
下請け使えば平気です

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(3)
原発推進派のみなさんは
原子炉の真下にお集まりください
いますぐ体に悪いわけじゃありません
シャワーで洗えば平気です

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(4)
原発はクリーンなエネルギーです
プルトニウムはそんなに怖いもんじゃありません
放射能出すといっても半減期は
たったの2万と4千年です

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(5)
日本のエネルギーを支えるには
原子力に頼らないといけません
多少の被爆はやむをえません
イソジン飲んでおけば平気です

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(6)
使用済みの核燃料はぜんぶまとめて
ドラム缶に詰めたらだいじょうぶ
六ヶ所村のプールで冷やしてます
たったの300年のがまんです

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(7)
水が漏れてるけど騒ぐんじゃない
煙が出てるけどあわてるな
屋根が吹っ飛んだけど全然だいじょうぶ
とにかく塩水で冷やしてます

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(8)
いますぐ危険ってわけじゃないけど
牛乳も野菜も捨てましょう
政府のおエライさんが言ってます
補償は税金で払います

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る


(9)
ガイガーカウンタは売り切れてます
君たちそんなもの持っちゃダメですよ
放射線の値はこちらで発表します
信じる者は救われる

東電に入ろう 東電に入ろう
東電に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな東電に入って花と散る









ついでながらに、やはり忌野清志郎さん(The Timers)の替え歌 ”Summertime blues" と"Love me tender"をお聞きください。ここでも歌詞と歌い方がすばらしい。









暑い夏がそこまで来てる
みんなが海へくり出していく
人気のない所で泳いだら
原子力発電所が建っていた
さっぱりわかんねえ、何のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い (悪かったな、何だよ)
それでもテレビは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース

(原発という言い方も改めましょう。
何でも縮めるのは日本人の悪い癖です
正確に原子力発電所と呼ぼうではありませんか。
心配は要りません)


あくせく稼いで税金取られ
たまのバカンス田舎へ行けば
37個も建っている
原子力発電所がまだ増える
知らねえ内に漏れていた
あきれたもんだなサマータイム・ブルース

電力は余ってる、
要らねえ、もう要らねえ

電力は余ってる、
要らねえ、欲しくない

原子力は要らねえ、
危ねえ、欲しくない

要らねえ、要らねえ、欲しくない
要らねえ、要らねえ、

電力は余っているよ
要らねえ、危ねえ、










何言ってんだー、ふざけんじゃねー
核などいらねー
何言ってんだー、よせよ
だませやしねぇ
何言ってんだー、やめときな
いくら理屈をこねても
ほんの少し考えりゃ俺にもわかるさ

放射能はいらねえ、牛乳を飲みてぇ
何やってんだー、税金かえせ
目を覚ましな
たくみな言葉で一般庶民を
だまそうとしたが
今度のことでバレちゃった、その黒い腹

何やってんだー、偉そうに
世界の真ん中で
Oh my darling, I love you
長生きしてえな

Love me tender, love me true
Never let me go
Oh my darling, I love you
だまされちゃいけねぇ

何やってんだー、偉そうに
世界のど真ん中で
Oh my darling, I love you
長生きしてえな





ちなみに、ザ・タイマーズにおける忌野清志郎さんの自己省察に基づく自己戯画化を経た上でのプロテスト・ソングはすばらしいです。清志郎さんはおそろしく頭が良く感受性が強い人だったのだと思います。ぜひゆっくり何度も聞くべき作品だと思います。














2011年5月10日火曜日

大友良英氏 「文化の役目について:震災と福島の人災を受けて」、そしてノイズミュージック

生まれは横浜ですが、福島に10年間住んでいた、ジャズ・ミュージシャンの大友良英氏は、今回の震災で居ても立ってもいられずに被災後の福島に行きました。大友氏の思いは以下のサイトに書かれています。



文化の役目について:震災と福島の人災を受けて

大友良英
2011年4月28日 東京芸術大学での特別講演から

http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html



以下、そこからの抜粋です。読みやすさのために、適宜改行を加えました。また太字強調も私が加えました。



おかしいよ。おかしいよっていうかさ、だって、殺りくに近いことが起こっているんだよ。ただし、ゆっくり殺すっていう、ものすごいDEATHな感じだよね。何十年かかけて殺す。死なないかもしれない。法に触れないやり方でジワジワと住めなくしたり。オレはこれは、非人道的な事態だと思うんです。

なのに、いまだにテレビを見ると、火力発電だってCO2を出すでしょうとか、そういう話になるんですよ。火力発電がCO2出すのはその通りで、原発にも欠点もあるし、いいところもあるんだと思う。だけどこれは、非人道的な事態だということを、オレは、はっきり言った方がいいと思うんです。人殺しに近い、と僕は思っているんですよね。

実際に、ナイフでグッて刺すと分かりやすいけど、そういう分かりやすい事態ではないことはとても厄介で。ナイフで刺すという例えはこの先もしていきますけど、すごく分かりやすいじゃない。ナイフでグッて刺したら、それは良くないよなって思いますよね。刺された人は、それは良くないよなって思う暇もなく、痛てっ!となると思うんですけど、これが、ものすごく長いスパンをかけて起こっている、と僕は思っているんです。


それだけじゃなくて、いきなり住む場所を奪われるということも起きている。水力発電も同じじゃないかという意見もありますが、水力発電で村が消滅することとは、僕は、比べちゃいけないと思います。水力発電の場合も非人道的かもしれないけど、合意の下に形成されている。

だけど、今回の事態は、少なくとも合意ではないし、明らかに非人道的な事態が今、起こっているんだと思います。僕はそのことをまず、みんなに押さえておいてもらいたいと思っています。原発推進でも反対でもいいです。それは、それぞれが考えることだけど、少なくとも今、福島では、非人道的なことが起こっていて、僕は、非人道的なことは良くない、と思ってます。それが、イコール原発が良くないかどうかということは、僕が今ここで言うことじゃない。それぞれが判断すればいいと思ってますが、まずそこは押さえておいてください。その上で話を進めたいと思います。


(中略)


それで実際に福島に行って、人と会うと、みんな、ずいぶん話すんです。すごく明るく見える。だけど、話せば話すほど、これはもう僕だけの感じ方かもしれないですけど、それはもう、福島で会った人、ほぼ全員に言えるんですけど、会った人に対してすごく失礼な例えになったら申し訳ないんだけど、もうみんな心に傷を受けてるというか、心から血がだらだら流れているような感じがして。僕は今までにこんな人たち、見たことがないと思った。それは、家が壊れたり、追い出されて住めなくなった人たちじゃなくてもですよ。


(中略)


福島に行って、福島の人たちと話して一番感じたのは、多くの人がものすごい被害者感情にさいなまれている。みんなが最初に共通して話すのは、風評被害のことなんです。実際に、風評被害はありましたよね。農作物が売れないとか、ホテルで宿泊を拒否されるとか。

ほかにもたくさんあったと思うけど、福島で広がっている風評被害はそのレベルを超えていて、オレが聞いたことないのもあったんですよ。東京駅で福島の人だけにバッヂをつけようという話が進行してるとか。こんなの、東京ではほとんど誰も言ってないけど、福島ではみんなに、東京じゃそういうこと言ってるでしょって言われるんですよ。あと、福島の女の子とは結婚しないとか。それも1人だけじゃないんですよ、何人にも言われたんです。

郡山市でも福島市でも。そういう話が向こうでブワッと広がって、こっちで言われている以上の状態になっている。これはすごく象徴的だと思うんです。オレが思うにそれは多分、どうしていいか分からない、自分たちは孤立しているという感覚、見捨てられているという感覚だと思うんですよね。現実に今それが、起こりつつあると思うんです


(中略)


だけど、ナイフで差されたけがならお医者さんのところに連れて行って縫えばいいよね。だけど今回のけがは、僕は、福島だけの話ではなくて、東京の人も含まれると思うけど、やっぱり「心」だと思うんですよね。

「心」とか、オレ、今まであんまり、恥ずかしくて使わなかった言葉なんだけど、心の傷を治していくのは精神科のお医者さんだって言われるかもしれないけど、そういう傷とも違うんですよね。個人の問題ではなく全体が傷を負っている。その大きな原因は、これはもう素朴に、自信を失っていることだと思うんですよ


(中略)


福島っていう名前が、不名誉な名前のままだったら、多分、福島の人たちはやっていけなくて、自信喪失したままだと。あともうひとつ、とても心配してるのは、すでに起こっていると思うけど、福島が切り捨てられていく。さっきも言ったけど、ほかが復興で明るい方向に向かってますよね。そのときに、復興に向かっていない福島のことは、やっぱり伏せておきたいという感情が働くと思うんですよ。そうすると、これまで日本でいろいろ起こってきた公害病と一緒になってしまって、そこの地域だけで起こっている特殊な事情だということにして、ふたを閉めていく。手厚く補償はするけれど、とりあえずこれはその地域の問題だということで収められていく。


だけど僕は本当に言いたい。これは福島だけの問題なのか。日本だけの問題ですらないと思ってる。チェルノブイリのときと一緒だと思う。オレ、これ、原発反対運動に持っていきたくて言ってるんじゃないですよ。そういうことじゃなくて、これは福島だけの問題じゃないとオレは思ってるんです。

だけどそれを、福島だけの問題じゃないと言うためにはどうしたらいいか、ということですよね。ここでオレが、いくら福島だけの問題じゃないと言ったって、説得力はないですから。オレは、そういう意味では、チェルノブイリの方たちには本当に失礼だけど、チェルノブイリの名前は今までずっとネガティブなままで、例えば、原発をなくすための運動の象徴の名前として、オレたちもチェルノブイリを見習え、にはなってないと思うんですよ。なぜかといえば、チェルノブイリからは文化が出てないからだとオレは思ってるのね。あるのかもしれないけど伝わってないと思ってて、もしあったらゴメンなさい。オレ、こういうこと、今まですごく無知だったから。

だけど、原発とはまた違う問題ですけど、広島は「No More Hiroshima」と言われるけど、それが不名誉な響きではない感じがしてるんですよね。平和運動の象徴として、広島の人たちは誇りを取り戻したような気がしている。だったら、福島という名前を、ポジティブな名前に転換していけばいいんじゃないか、と思ったんですよ。今、せっかくネームバリューが最高にあるんだから。


(中略)

福島の名前をポジティブに転換していくということを具体的にやるのはすごく大変だと思うんだけど、日本で侍が刀を捨てて明治維新をしてからたった数十年で飛行機が実用化してるんですよね。そう考えると、できるんじゃねえか。100年後はどうせオレ死んじゃうから、無責任に言ってるんですけど。だけど、夢見る自由はあるだろう、というのがひとつ。その夢見る自由を失ったら、本当に福島は死んでいくと思うんだよ

オレ、福島に住み続けろと言ってるんじゃないですよ。放射能が本当に危険な場所に、オレたちは夢見る自由があると言って住み続けてはいけない気もしてる。放射能を除去する技術ができない限り、住めない場所があるのは事実だと思うんです。

だけど、福島が全部住めなくなっているわけではないので、そのことを冷静に見つつ、住めないとなったときは、ものすごい厳しいけれど、それを判断することも必要で、それをごまかす文化じゃダメだと思うんですよ。ちゃんと見る。それは文化だけの話ではなくて、科学や政治も協同してやっていかなければならないことだと思う。福島という言葉をポジティブに変えていくために、オレはおそらく、科学や政治だけでは絶対に不可能で、文化の役目だと思ってる

(中略)


でも、不謹慎なこと、言いたいよねぇ。あれ、同意を求められない(笑)。オレ、福島に行って現状を見て、それでもすごい不謹慎なこと言いたくなったよ。だって不謹慎だよ、この世の中のほうがよっぽど。こんな非人道的な事態を前に、非人道的とは誰も言わなくて、原発どうしましょうとか、テレビでのんきなこと言ってるんだよ。原発の良いところはですねぇとか。そりゃ良いところもあるよね。コストが安いとか。賠償金のことを考えなけりゃ、めっちゃ安いよね。賠償金どうすんだよって。

朝日新聞に東浩紀さんが寄稿した「原発20キロ圏で考える」<朝日新聞 2011年4月26日(火)号 朝刊・文化欄>という文章を読んだ人いる? 原発の避難指示区域を取材して、小学校にランドセルがそのときのまま置いてあるところを見てきたレポートなんだけど、原発のコストにはここにランドセル置き去りにしなければならなかった子どもたちの分は入っていない。オレ、本当にその通りだと思う。家を無くした人に家を与えるコストは入るかもしれないけれど、子どもたちの心に残った傷のコスト、あるいは、僕らだってさ、臆病と言われるかもしれないけど、水道から放射能が出たと言われたとき、ビビったよね。オレ、やっべぇ、と思った。そういうコストは入ってないよね。こんな人として当たり前のことも通用しないなんて世の中の方がよっぽど不謹慎だよ。


(中略)


和合さん [注:福島在住の詩人、和合亮一氏。震災直後からのツィートが話題になる(@wago2828)] と会ったときに、和合さんがすごく象徴的なことを言っていた。「もう自分は壊れてもいい」と言ったんです。

それは、「死んでもいい」という意味に取れるかもしれないけど、もうちょっと狭い意味にとらえると、詩人としての自分のキャリアはどうでもいい。現代詩とか何とかっていうのもどうでもいいっていうことだ、と僕は解釈したんです。

その気持ちはすごくよく分かって、オレも、もともとそういうことはどうでもいいと思ってたけど、もっとどうでもいいというか、そんなことより、今、本当に必要なものは何か、だと思う。自分がこれからそういう中で、音楽で何をやっていくか、ということを考えていくしかない。これでも音楽家ですから。


(中略)


最後にもう一度繰り返します。今福島で起こってるこの事態に対してどうしていくか、そこからどう未来を見つけて行くか。私たちの未来はそのことに本当にかかっていると思います。

そしてそれが出来るのは、今この事態を最も身にしてみて体験している福島の人たちであり、この事態を引き起こしてしまった我々だと思うんです

将来「FUKUSHIMA」という言葉が、ネガティブな響きのままでいるか、それとも新しい未来を切り開く先駆けになった名誉ある地名として世に残るのかに私たちの未来はかかってると言っても過言ではありません。今この過酷な現実をどう解釈し、どう未来を切り開いてくか。文化の役目はそこにあると思ってます

http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/fukushima.html





「心の傷」などという言葉を聞くと、「だから感情論は困る。もっと大局的に見て、合理的に考えなければ」などと、したり顔で語る「識者」はいます。

しかしその「合理性」にどれだけの実質があるというのでしょう。原子力ムラの「合理性」とは、自らが利権のためにこうあって欲しいという主観的願望の上に立てられた計算でした。多様な要因が連関する世界の複合性(complexity)は、だれも予測も制御もできないものなのに、自らの見たい世界像だけを見続けそれを「現実だ」と言い、それが今回のように覆されると「想定外だった」と言い続ける ― 人間の合理性なんてせいぜいそんなものでしょう。


しかし、見えない放射能に怯え、外出もままならない生活。原発の近くでは避難を余儀なくされ、家族のように思っていた動物が餓死や共食いを含めた悲惨な状況に追いやられ、しかももう二度と故郷に帰ることができなくなるかもしれない。地域の共同体はすでにばらばらに引き裂かれている。さらには将来、さまざまな健康障害を患うかもしれない。それなのに裁判での立証などを考えれば、東電や国からの補償もないかもしれない ― これは目の前の現実です。すくなくとも「大局的な合理性」とやらよりも、はっきりとくっきりと見える現実です。


3月11日以来、「これが日本なのか」と思わされる機会がたびたびあります。しかしとりわけ恐ろしいことは、日本人の多くが福島(および被災地)のことを考えないことを、静かに選びつつあるのではないかという可能性です。

大友氏が言うように、今、福島で起こっていることは非人道的なことだと思います。しかし、そのことから目を逸らし続けることはもっと非人道的なことなのかもしれません。


といいつつも、被災から逃れた私などはずいぶん気楽な暮らしをしています。気晴らしも多くあります。義援金やブログ・ツイッター以外では、被災地のために何をしているわけでもありません。しかし、福島およびその他の東北の被災地に対して思考停止だけはしたくありません。目の前の快適さを理由にして。



大友良英氏に関する主な情報は以下の通りです。


大友良英のJAMJAM日記 2011-05-09 プロジェクトFUKUSHIMA! スタート
http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20110509

PROJECT fUKUSHIMA! 公式ホームページ
http://www.pj-fukushima.jp/index.html


大友良英さんのツイッター
@otomojamjam



なお、上のような感性をもつ大友良英氏はどんな音楽をやっているのだろう、と思い少し調べてみたら、ノイズミュージックやフリー・ジャズなどで活躍されているようです(ウィキペディア)。私はDerek Bailey(Wikipedia)は好きで、6~7枚ぐらいCDをもっているのですが、大友氏のことは知りませんでした。

アマゾンで調べると、エリック・ドルフィーの新解釈をやったり(「ONJOプレイズ・エリック・ドルフィー・アウト・トゥ・ランチ」)、カヒミ・カリィと共演したり(Muhlifein [DVD])されています。私はエリック・ドルフィーもカヒミ・カリィも好きなので、とりあえずこの2作品は注文しました。ご興味のある方はYouTube検索すると、いくつかの(非公式)音源を聞くことができます。


ノイズミュージックとは、私にとって正気を保つための試みであるように思えます(少なくとも私がDerek Baileyを聞くのはそのような時です)。

「これが日本なのか」と愕然とし続けている昨今、私ももう一度ノイズミュージックを聴き始めようかと思います。


これからの福島、東北、そして日本の、長い長い再生の道のりにおいて文化が果たしうることも考え続けたいと思います。












新人教員として高校で働き始めた元ゼミ生からのメール

先日、中学校で働き始めた新卒ゼミ生からのメールを掲載しましたが、今度は高校で働き始めた新卒ゼミ生からメールをもらいました。彼女もこの3月に学部を卒業したばかりです。新人教員がどう育つか、周りがどう育てるかというのはとても大切な事なので、本人の許可を得てここで掲載します。


柳瀬先生

お久しぶりです。お元気ですか?

4月になり、社会人になって「先生」として毎日学校に行くようになりました。「右も左もわからないということはこのことなんだ!」と日々感じました。
1か月経って、「何にもわからない」から「わからないことがたくさん」と思えるようにくらいには慣れました。

お察しのことと思いますが、私はこの1カ月よく泣きました(笑)(生徒の前では泣いてません)

社会人になってからよく長電話をするようになりました。
辛くなったときに話を聞いてくれたり心配してくれる友だちがいてくれて本当に良かったと思います。
大学で得たものの中で一番大切で大きなものです。

悩んでも辛くても止まれません。
授業は毎日あって、その50分は私がいないとどうしようもありません。
お給料をもらっている以上果たすべき責任を果たさなければいけません。

大学生はそれに比べると時間があります。自分で自由に調整できる時間があります。
今となっては、進路や勉強や人間関係について、時に立ち止まってじっくり考えることのできた大学時代はとても貴重な時間だったんだなと思います。

授業は課題点だらけです。
しかも「わかっている」のにできないことが多いのです。
目標のある授業、生徒の活動がメインの授業、達成感のある授業・・・
理想を口にするのは容易いけれど、それを実現するのはとても難しいということを痛感しています。

今私は目標や活動(what)を考えるだけで精いっぱいになっていますが、whatを実行するためには、そのためのステップをどう置くのか・そのステップをどう踏むのかというhowも考えなければなりません。
考えれていないのが現状です。

社会人1年目、教員1年目。
当たり前のことですが、ベテランの先生方と比べると、授業力・指導力は格段に低いです。

しかし、毎日授業があり、生徒の50分間に責任を持っています。
「授業力の不足を補うにはどうすればいいのか」「生徒を授業に引き付けるだけの力量がないならどうすればいいのか」と考えた時に、新人の私にできることは「しょうがないけえ、授業聞いちゃろうかぁ。協力しちゃろうかぁ」と生徒に思わせることかなと思いました。

教員1年目。
しかし、自分という人間としては22年目です。
「高校教師に必要なのは教科指導力」と言われますが(もちろんその通りでしょう。私にまだまだ不足している「教科指導力」をこれから高めなければなりません)教育は人と人との関わりの中で行われる以上、人間性は必ず問われます。
教員として自信が持てない部分は、自分という人間としてとして勝負しようと思っています。

具体的には、まず私が学校と授業を楽しむことが目標です。
これが私の今目指すべきステップです。

「楽しむこと」は肩に力が入りすぎていて忘れていたことであり、失敗や課題が積み重なる中でできなくなっていたことです。

手さぐりは続きます!

まだまだ書ききれていないことがたくさんあるので、また先生とお話ししたいと思います。
その時には、よろしくお願いします。
泣くかもしれませんが(笑)

季節の変わり目なので、お体にお気を付けください。

Y.Y.




社会人一年生というのは、もうそれだけで大変ですが、教員の場合、授業ではいきなり一人きりで教えます。当たり前だと思われるかもしれませんが、民間の会社でしたらたとえば新人がいきなり一人で営業周りをすることはないでしょう(少なくもともしっかりした会社では)。民間会社では、まず実際の仕事を離れた純粋な研修期間を経て、それから先輩社員に付き添う形で少しずつ仕事を覚えてゆきます。一人だけで仕事をするのはある程度の月日がたってからです。

しかし新人教員は、校務分掌の仕事もよくわからないまま、いきなり仕事場の最前線に放りこまれます。ベテランでも手を焼く教育困難校と言われる学校でも、授業中は一人で生徒を掌握しなければなりません。

「新任研修」といったものはありますが、業務の合間に研修に出たりしなければなりませんから、民間会社の純粋な研修とずいぶん違います。新人教員の一年目はしばしばかなり過酷です。

教員は児童・生徒を大切に育てることが仕事ですが、各自治体・教育委員会は大切に新人教員を育てているでしょうか。

新人教員の待遇改善のために具体的に行動できていない自分を恥ずかしく思います。













2011年5月9日月曜日

広島で戦後内部被曝の実情を見続けた内科医と、愛する福島を離れざるを得なかった女性の声


http://www.youtube.com/watch?v=tCV3beH_IWI&feature=player_embedded

ぜひ聞いてください。

二人とも名演説家ではないかもしれません。
また録音技術も完璧ではないかもしれません。

しかし、ここにはそれぞれの人生を核の放射線汚染により大きく影響された方々の生の声があります。

マスコミなどで、きれいに編集されたきれいな文章や録音に接するだけでなく、このような声にも耳を傾けてください。もし私たちが、きれいな文章や映像しか見たくないと思っているならそれは危険だと私は考えます。

この二人のスピーチは、「2011/04/24 原発なしで暮らしたい100万人アクション in ヒロシマ」でのものだとのことです。

私はこの動画の存在を以下のサイトで知りました。こちらもぜひ読んでください。





また、下に告知している被災地のラジオ放送なども聞いてください。ふくしまFMでも、音楽番組などの間に、淡々と各地の放射線量などがアナウンスされています。また、少しずつ地元の声を伝える放送も出てきました。インターネットを通じて、福島の人たちとできるだけ寄り添おうとすることはできます。


***












2011年5月7日土曜日

原発復旧作業に退役世代が志願するプロジェクト ― あなたはどう考え、行動しますか? ―

ここに東電原発の暴発を阻止するための、緊急課題があります。原発復旧作業への志願を求めるという課題です。図らずもこの課題は、倫理的な問題を呈しています。


サンデル教授風に言うならこうなります。


社会を危機から救うために、仕事から引退した世代の市民が明らかに危険な仕事に志願するプロジェクトを作った。

「若い人にこのような事はさせられない。志願してくる60歳以上の有志を募る。若い人にはこのプロジェクトを応援してほしい」

あなたはこのプロジェクトをどう考えるか。60歳以上のあなたはどう考え、どう行動するか。若いあなたはどう考え、どう行動するか。



しかしこれは空想上の問題ではありません。

引退した技術者である山田恭暉氏が、実際に行動しているプロジェクトです。



「福島原発 暴発阻止行動 プロジェクト」

http://park10.wakwak.com/~bouhatsusoshi/




詳しくは上記サイトをご覧頂きたいのですが、要旨は次のとおりです。


最悪のシナリオを避けるためには、どのような設備を作ることが必要か、放射能汚染を減らすためにどうしたらよいか、などなど、数多くの技術的課題があることはもちろんです。この点についても日本の最高の頭脳を結集した体制ができていないことは大きな問題です。

さらにもう一方では、最終的に汚染された環境下での設備建設・保守・運転のためには、数千人の訓練された有能な作業者を用意することが必要です。現在のような下請け・孫請けによる場当たり的な作業員集めで、数分間の仕事をして戻ってくるというようなことでできる仕事ではありません。

身体の面でも生活の面でも最も放射能被曝の害が少なくて済み、しかもこれまで現場での作業や技術の能力を蓄積してきた退役者たちが力を振り絞って、次の世代に負の遺産を残さないために働くことができるのではないでしょうか。

まず、私たち自身がこの仕事を担当する意志のあることを表明し、長期にわたる国の体制として退役した元技能者・技術者のボランティアによる行動隊を作ることを提案し要求していきたいと思います。

当面次のことを提案します。

1. この行動隊に参加していただける方を募集します。
原則として60歳以上、現場作業に耐える体力・経験を有すること

2. この行動隊を作ることに賛同し、応援していただける方を募集します。


これらの方々は、以下の内容をご記入いただきE-mail、FAXあるいは郵便でお送りください。

なお、このプロジェクトは直接的には国会や政府に対する働きかけと、広く人々にこの行動隊が必要であることを訴えることを活動の中心とします。状況が流動的なこともあり、進展に応じて様々な面への活動を広げていくこともありうると考えます。

また、この提案文を多くの方に転送していただくことをお願いします。

2011年4月

山田恭暉
134-0083 東京都江戸川区中葛西5-11-25-707
電話&FAX 03-5659-3063 携帯電話 090-3210-9056
メール   bouhatsusoshi@aj.wakwak.com




□福島原発暴発阻止行動隊に参加します

□福島原発暴発阻止行動隊に賛同し応援します

ご氏名

ご住所 〒

お電話

FAX

携帯電話

メールアドレス


http://park10.wakwak.com/~bouhatsusoshi/



この提言は、何より現実的な問題です。もし、このプロジェクトに賛同するなら、今すぐ行動してください。

行動にはいろいろ考えられます。


・このプロジェクトについてツイッターやブログで紹介する。

・このプロジェクトを友人や知り合いに教え、これについて考え議論し、できる行動を起こす。

・山田恭暉氏をツイッターでフォローし、応援・支援する(@officeyam

・以上に述べられているように、このプロジェクトに実際に参加するか、(後方支援的に)賛同し応援する。(下のインタビューで明らかにされているように、元技術者でなくても参加できます)。

・その他、考えられる様々なこと。


(私は、このブログの公開と共に、上記へ自分の氏名・住所などを告知して、正式にこのプロジェクトに賛同し応援します。理由は、私が年齢を重ねた時に、山田恭暉氏のような人間になりたいからです)



この提唱者の山田恭暉氏と賛同者を、フリージャーナリストの岩上安身氏が約1時間半にわたってインタビューしました(注)。



IWJの岩上安身さんによるインタビュー









Video streaming by Ustream



見ればすぐわかるように、とにかく淡々と語っています。自分を英雄視するような陶酔感などまったくありません(むしろその反対の極地です)。感情の高ぶりも90分間を通してまったくありません。



以下は私なりにまとめた発言の要旨です。


山田恭暉氏


●福島第一原発は、ロボットなどの機械だけでは、きちんとした復旧工事はできないことが技術屋の経験からわかる。

●放射線量被害のことを考えるなら、もう子どもを産まなくてすみ、細胞分裂も少なくなり個体への影響が比較的少ない我々世代がこの復旧工事に携わることがもっとも合理的。また私たちには必要な(あるいは関連した)技術・経験ももっている。

●私一人の力では、実際の復旧工事に参加すらできないから、このプロジェクトを立ち上げた。

●このプロジェクトは、国家プロジェクトにしなければならない。冷却作業は10年間は必要。そのためには予算も必要で、作業員の顔も見える形できちんと行うべきだ。

●悲壮感といったものはない。当たり前のことをやろうとしている。

●あることが正しいと信じたならば、それを行うだけだ。言葉に行動を伴わせているだけだ。

●異なる世代の人は、異なるように反応していただきたい。

●現場に行ってみたら怖くなるかもしれない。そこで止める人がいても責めない。

●できるだけの安全装備もつけて作業に臨みたい。このプロジェクトは「決死隊」や「特攻隊」といったものではない。生命を捨てることではなく、事態を収拾させることが目的。

●自己犠牲とは考えていない。理の当然のことを理の当然として行うわけで、これが技術屋。

●人間相手の戦争ではないので、この戦いに赴くことになんのためらいもない。

●しかしこの原発事故は、天災でなく、人災である。この事に対する思いはある。

●こういった作業には、人々の精神的な支援(心のつながり・支え合い)が必須。現時点で復旧作業している人々に、市民からの充分な精神的な支援が届いているか心配。

●報酬などはまったく目的でない。報酬を目的にすると、このような仕事はできない。

●このプロジェクトはとにかく事態を収拾することに集中する。原発継続や原発中止、脱原発などの話はしない。そのような議論は後でやる。

●政府や東電と対立しては、このプロジェクトは成功しない。政府とも東電とも協力体制を組みたい。




平井吉夫氏


●私は技術者ではないので(元々の本職は翻訳家)現地で後方的な支援をする。

●「世のため、人のため、国のため」とかいうより、「義侠心」。武道家(合気道指導者)ですから「義侠心」という言葉が大切です。

●この年齢になると、死への恐怖は、若い時とは変わっているので、若い時ほどの恐怖はない。

●若い自衛隊員を決死隊にしてはいけない。




佐々木さん


●通訳業を生業としていた。原子力関係の通訳もやった。

●このような志願に男性も女性もない(佐々木さんは女性)。

●若い人が身体を蝕んでゆくのを見るのは許せない。

●自分の世代は戦争責任を直接に問われなかったが、原発に関しては私たちの世代に責任がある。私たちが私たちの手で何かをしなくてはならない。




福島第一原発の復旧作業は今この瞬間も行われています。危険な作業で、実際に重度の被曝者も生じました。

しかし、政府やメディアは、この方々を ― 日本だけでなく、世界に対してもかけがえのない仕事をしている方々を ― 顔も名前もない存在にしています。

上のインタビューで私は知ったのですが、チェルノブイリ事故の時には作業に従事する現場の方々の顔はメディアで報道されました。その作業員の方々の少なからずは後遺症に苦しむことになったかと思いますが、少なくともその方々の顔を社会は直視しました。

ここからは私個人の考えですが、日本政府も、大手マスコミも、私たち市民も、このやらなければならない仕事を私たちの代わりにやっている方々を直視し、そういった方々について思考することを放棄していませんでしょうか。あるいは「日給○○万円」といった風説で、この仕事を金銭の問題に変えてしまっていませんでしょうか。


私見では、このプロジェクトは次のような倫理的な問題、社会・国家に関する問題を呈しています。



個人の利害・生命を越えた行為はあるのか。

社会・国家のための自己犠牲的な行為を、社会・国家はどう考え、処するべきか。




せめて、このプロジェクトのことについて考えてはみて下さいませんか?

そして何かを考えたら、それを言葉にして、行動にしてください。





(注)
このインタビューを行った岩上安身さんとIWJはツイッターをやっています。


岩上安身さん @iwakamiyasumi

IWJ @iwakami_staff




岩上安身さんは、この件に限らず、今回の震災について大手マスコミが伝えないすぐれた報道をしています。岩上さんはフリージャーナリストで、大組織の後ろ盾などなしに報道活動を行っています。ホームページは以下です。ぜひご覧になり、このジャーナリズムを支援したいなら、ぜひ金銭でも支援してください。(私は数週間前に寄付をしましたが、週明けにももう一度寄付をしようと思います)。


岩上安身オフィシャルサイト

http://iwakamiyasumi.com/


サポーター登録(無料)

http://iwakamiyasumi.com/archives/5652


寄付(カンパ)

http://iwakamiyasumi.com/archives/3338




追記

このプロジェクトに関する英語での紹介記事も書きました。下記URLをクリックしてください。


A veteran engineer calls for volunteers from other senior citizens for the repair of the Fukushima nuclear plants

http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/05/veteran-engineers-call-for-volunteers.html





***












2011年5月6日金曜日

自分の自己観察・自己記述を観察・記述する ― ルーマンのコミュニケーション論を背景として ―

本年度の「言語文化教育プロジェクト」(詳細はこちら)で、柳瀬グループが行う「自分の自己観察・自己記述を観察・記述する」の説明スライドと音声をここでも公開します。


■目的 「汝自身を知れ」

このプロジェクトの目的は、教師が自分自身をより的確に知り、自分が言語教師として振舞う時、生徒・学生に耳を傾ける時に、自分にはどのような傾向があるかをできるだけ自覚しておくようにすることです。一言で言えば「汝自身を知れ」です。



■方法 自己観察・自己記述の観察・記述を繰り返す

そのために、自らなぜ言語教師を目指すに至ったかを自己観察・自己記述し、その自己観察・自己記述をさらに観察しその特徴を記述するという過程を何度か繰り返します。



■理論背景の一つとしてのルーマン・コミュニケーション論

このプロジェクトの理論背景は(こちら)に書いている通りですが、下のスライドとそのスライドを説明した音声では、ルーマンのコミュニケーション論を説明しています。ご興味のある方はご覧ください。




なおルーマンに関する私の多くは、旧ホームページではこちら(まとめのページ)http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.htmlに掲載しています。このブログではこちら(「ルーマン」というラベル)にありますので、ご興味がもしあればご覧ください。














2011年5月5日木曜日

日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。(その5:英語教育の現場で考え、行動する)





この記事はその4の続きです。





このシリーズの記事の最後として、ここでは英語教育の現場で今回の問題を考え、現場からできることを考えたいと思います。



■英語教育界の「偉い人」が広めようとした近年の政策

英語教育界にも、私がこのシリーズで批判しているような「偉い人」はたくさんいます。

近年、そういった「偉い人」が宣伝して現場を混乱させてきたものとしては次の三つが上げられます。



(1) 小学校への英語教育導入

(2) 「コミュニケーションへの関心意欲態度」の評価

(3) 高校の授業は「授業は英語で行なうことを基本とする」




最初に断っておきますが、私はこれらの英語教育方針が全面的に間違っているとは思いません。

(1)の小学校英語教育導入は、いずれは何らかの形で必要になっていたものと私も考えます。ただ導入するには、どのような教育をするべきなのかという抽象的な理念も、それに基づく具体的な準備(人材・教材)も必要なのに、それらなしに、「とにかく決まったのだから」と最初に政策ありきで押し切ったところからさまざまな問題は生じています。

「大規模政策とはそんなもの」というしたり顔が浮かびますが、はたしてそれは「現実的な態度」なのか、自分たちの準備不足を正当化する巧妙で高飛車な態度なのかは問い直す必要があります。

しかし(2)の「関心・意欲・態度」の評価については、正直私はほとんど意義を認めません。というより多くで報告されているように、この評価を真面目に実行しようとした教員こそ、この評価方法で授業運営・学級経営が乱れてしまっています。このことからすると有害無益だったとさえ言えます(やわらかい言葉でこの評価の批判をしているブログ記事はここ)。

このような批判に対して、(2)の宣伝者は、およそ細かなことを様々に述べ、この評価が適切であることを驚くべき多弁でもって語ろうとしましたが、そういった指示がおよそ現実的でないことは、多くの教師が経験する中で理解したと私は判断しています。

(3)の「授業は英語で」についても、10年、20年単位で考えれば、高校においても英語教師の英語発話量が増えるべきというのはその通りでしょう。しかしこれも拙速すぎて、今いきなりこれを実施しようとしたら、教区困難校では授業が成立せず、進学校でも知的な英語の読解に対応できず、中堅校ではもっと英語の授業が「会話ごっこ」化するだけでしょう。(私の当時のコメントはhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.htmlにあります)。

この政策に関しては寺島隆吉先生の強力な批判(『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー―』)などもあり、一年後の指導要領解説では拍子抜けするほどトーンダウンしています(そのあたりの状況についてはhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_05.htmlをご覧ください)。



■「偉い人」のコミュニケーションの特徴

しかし「偉い人」の、これらの政策を現場に普及させようとする際のコミュニケーションには問題があります。

簡単にまとめますと、原発安全神話の普及と同じようなコミュニケーションがなされてきたと言えるかと思います。特徴としては、


(a) 現在および過去の政策の間違いを決して認めようとしない

(b) 経験的にも認められていないし、学術的研究に基づいていないのにもかかわらず、政策をとにかく実行させようとする

(c) 批判・反論に対しては、とにかく多弁を弄し、言いくるめようとする。


などがあります。

(a)の無謬主義については、これまで学習指導要領の改訂は何度もありましたが、私は過去の指導要領の問題点を明確に指摘した公的文書を寡聞にして知りません(数行の言い訳などを私は意味していません。もし文科省がきちんと過去の指導要領の問題点を自己検証した文書があればぜひ教えてください)。新しい指導要領が出たら、とにかくその文言を現場教師に覚えさせようとして、過去の問題点を具体的に総括(自己検証)しません(さすがに言い逃れのような文章は上で述べた「授業は英語で」の解説にありましたがhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_05.html、これも基本的に「国はこれまで間違いをしたことはなく、皆さんが誤解をしていただけです」といった口調に終わっていると思います。

(b)の経験的でも学術的でもない政策を全国的に一気に普及させようとすることは、普及者がある時期に成功した個人的体験を「証拠」とばかりに、全国のさまざまな状況の学校に短期間で普及させようとする無理に見られます。この無理に、全国の多くの良心的な指導主事が悩んでいることは周知の通りです。

また、普及者が、普及させようとしている事項について、きちんと自ら学会発表をしている例も私は知りません(あったら教えてください)。もっとも私は実践に対する研究の限界性を強く感じている方ですが(参考:「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/08/blog-post_05.html)、できるだけ客観的であろうとする学術的態度は堅持するべきだと考えてます。

社会学者の橋本努先生は、「原発に責任、持てますか? トップをめぐる『政治』と『科学』http://synodos.livedoor.biz/archives/1750944.htmlの記事で、マックス・ウェーバーを引用しながら、学者(科学者)が知的に誠実でありながら、政策に関わろうとすることの根本的矛盾を説明していますが、英語教育研究にも(原子力工学と比べるならたとえ学問性は低くとも)その矛盾はあります。英語教育政策の普及者が研究者である場合も、残念ながらその研究者の学術的姿勢は大きく損なわれている(compromised)というべきでしょう。しかしそれにもかかわらず、その普及者は「○○大学教授」といった肩書きでその政策を宣伝します。

(c)の多弁を弄しての言いくるめは、これまでの原発推進でも数多く見られました。政策を批判する人に「困った人」「偏った人」とレッテルを貼る手法も英語教育界でも見られます。

しかしそういった言いくるめが、現実にはなんの力をもっていないことは、その4の記事http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/05/4.htmlで紹介した動画に示されている通りです。「言いくるめ」は語り手だけでなく、聞き手までも日本組織文化という「言語ゲーム」に従っているかぎり成り立っているわけで、聞き手がそのような馴れ合いや癒着を拒否した時に崩壊します。

福島の住民に突き上げられた文部官僚の答弁はほとんど形をなしていませんでした。政府の英語記者会見はついに外国人記者にそっぽを向かれました(まだ数人は外国人記者が来ていた会見で、ニューヨーク・タイムズの記者が「保安院は東電をうまくコントロールできていないのではないのか」と質問したのに対して、西山氏が「○○法によると東電は保安院の指示に従わなければならないことになっています」と木で鼻をくくったような回答をした時に、私も「こりゃ駄目だ。こんな会見なんて時間の無駄だ」と思いましたが、果たせるかな、日本政府はこれだけの重大な時期に、外国人記者に相手にされなくなりました)。



■しかし、英語教育界でも官と学は癒着

とはいえ、一部の英語教育政策普及者だけを批判するのは、不十分で偽善的です。

まず私のことから言いますと、私は(1)の小学校英語教育導入について、自分が広島市の導入に正式に関与し始めたころから、批判を抑えてきました。関与したのは、自分は比較的導入の困難を理解しているから、単なる「イケイケドンドン」の人間が関与するより私が関与するべきだと判断してのことです。正式に関与した以上、政策側に立ち、私も知的正直を自ら損ないました。

(2)の関心意欲態度に関しては、私はその批判を「大人の事情」という姑息な理由で控えていました。これこそ卑怯者の態度です。

こういった反省も心中密かに行っていたこともあって、(3)の「授業は英語で」についてはきちんと発言するべき時には発言したという自負はあります。しかし自分で気づかぬうちに知的正直さよりも保身を大切にしていたかもしれません(自分を正確に知るとは難しいことです)。


学会全体のことに話を移しますと、(1)~(3)あるいは他の問題でも、シンポジウムなどで徹底的に議論すればいいわけですが、ほとんどすべてのシンポジウムは、どこか「政策普及のための啓蒙目的」になってしまっています。

こういった英語教育界での官学の馴れ合いに対して、きちんと(そして巧みに)知的正直さを保ち続けているのは、私の知る限り、大津由紀雄先生、江利川春雄先生、寺島隆吉先生、(および非常に穏健な形で発言をしているので目立たない)金谷憲先生(参考:『英語教育熱 ―過熱心理を常識で冷ます』、などぐらいです(他にも直言を続けている方は多くいらっしゃいますが、ここは大きな政策批判をきちんとなさっていると考える方だけを上げました←業界的配慮。苦笑)。

私を含めた多くの英語教育「研究者」は官と学の緊張的対立(そして協調)よりも、なあなあ的馴れ合い・心地のよい内輪の世界を好んでいます。日本の英語教育の不全の大きな理由の一つはここにあると言ってもいいでしょう。

研究者にせよ、官僚にせよ、指導主事にせよ、現場教師にせよ、お互いに言うべきことは率直に(しかし礼儀正しく)述べ、隠し事を避け、間違いは認めそこから学び、対立相手の正しい点は謙虚に認め、それぞれがそれぞれの本分を果たす緊張的対立関係の中でコミュニケーションを図り、社会を形成するべきでしょう(私はルーマンの「コミュニケーション=社会」という考えに依拠しています)。

それなのに、英語教育界でも官と学がお互いにものわかりのよい空間を作り出し、そこの「空気」を読み合って、物事をなあなあにしてしまいます。しかし忘れてはならないのはその空間からは、しばしば現場の人間がはじき出されていることです。そもそも「空気」を読みあえる空間など狭いものでしかありえません。業界人が「空気」を読み合って、互いに「大人」になっていると、したり顔になっている時に、その業界人はその空間の外にいる人間について想像力を働かせ、考えることを怠っているのです。これが権力者がなしうる悪の始まりであることはその3の記事http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/05/3.htmlで述べた通りです。

そもそも「空気を読む」などということは狭い密閉空間でのみ可能なことと言えるでしょう。社会は多様で多彩で複合的で、そこに一種類だけの空気などありえません。大規模政策に関わる者が、自分は「空気を読んでいる」と思ったら、それは警戒信号として捉えるべきです。




■私たちが現場でできること

英語教育関係者が、仮に今回の原発人災に関して直接できることが少ないにせよ(でも皆無ではありません!)、英語教育については直接的に責任をもっています。今回の原発人災が、日本の組織文化全体の象徴であるとすれば、私たち英語教育関係者は、自らの持ち場でその組織文化を変革する責務をもっています。これは直接的な責任です。

というわけで、以下、私なりに考える、私たちが現場でできることをあげてみます。


<「偉い人」に対して>

●安易に首を縦に振らない

「偉い人」というのは、自分の影響力が、自分の実力からでなく、自分の(見せかけの)権威から来ていることを、実は自分自身よく知っています。その権威確認の方法が、日本人の癖とも言えるうなずきを見ることです。「偉い人」というのは、聴衆のうなずきを実は心中非常に求めています。

ですから、納得できなかったら首を縦に振らないでください。「偉い人」が権力行使をする際には、世間話をしているのではないわけですから、愛想で「うんうん」と首を縦に振る必要はありません。というより納得できないのにうなずくのはこの場合間違いだと私は考えます。

もちろん納得できたら賛同の意を表現するべきです。繰り返しますが、私がここで提案しているのは、よりよい社会形成のための健全な緊張的対立であり、教条的な敵対ではありません。



●わからないことは率直に「わからない」と発言する

「偉い人」が人をしばしば言いくるめようとすることは上に述べた通りです。そういう時、「偉い人」は、


(ア) とにかく多弁を弄する、

(イ) 難しい理屈を出してくる、

(ウ) 科学用語・法律条文などを振り回す、

(エ) わからないのは「困った人」だという雰囲気を作り出そうとする


といった方略を使います。

(ア)と(イ)に対しては、「簡潔に答えてください」と率直に言いましょう。これに限らず、「偉い人」というのは一般の人に対して、物事をわかりやすく説明するという一般的な知的責任を負っています。このような要求をするのに遠慮をする必要はありません。
※ただし、「素人にもわかるように話せ!」と居直ったり、ゴネたりするのは決してやるべきではありません。一般人もできるだけ理解しようと努力するという一般的な知的責任を負っています。

(ウ)に関して、疑わしいと思ったらその科学用語・法律条文を「後で専門家に聞きますので、正確におっしゃってください」と言って実際にきちんと調べてみましょう。調べる際にはウェブが有効ですから「ウェブに書いて他の人からの協力を仰ぎたいのですが、今のご発言をウェブに書いていいですか?」と聞くのも一法です。公権力の行使に関わる「偉い人」の発言は、公共的なものですから、「偉い人」は基本的に情報公開をするべきです。

(エ)に関しては、「偉い人」には老獪な人が多いので注意が必要です。日本の「偉い人」には、実力や人格でなく、巧妙な影響力操作により地位を得続けている人が少なくありませんから、(エ)の方略には気をつけなければなりません。

これに対しては、私は、唐突に思われるかもしれませんが、自らの身体の立身中正を保つことが基本だと思っています。(参考:「身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう」http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html)。自らの身心を清明にしていれば、「偉い人」の相手を小馬鹿にしたようなニヤケ顔や、相手を脅そうとするいけだかな態度にも、その「偉い人」の目をまっすぐに見ることにより対抗できると私は信じています。



<自分自身に対して>

●決して、教条的にならない

現場の人間のよさは、決して教条的でないことです。自分の考えや過去の慣例にこだわらず、柔軟に考え行動し、何よりも現場の問題を解決するために誠実に物事に対応するのが現場の良さだと私は考えています。

ですから、万が一、現場の人間が「自分は現場の人間だから正しい」、「現場に来ない『偉い人』の言う事に正しいことがあるはずがない」などと考えたらそれは間違いです。

現場の人間は、現場を知るからこそ謙虚に自分の間違いの可能性に対して心を開くべきです(「べき」というより、そうでなければ現場は勤まりません)。また、現場から離れて初めてわかること(いい意味での「大局観」)もあるはずです。傲慢であったり、自己中心的であったら現場で仕事はできません。現場の人間は誇りをもって謙虚に、しかし率直であるべきだと私は考え、自分も大学教育という現場にいる者として、そうあろうと努力しています。



<生徒・学生に対して>

●英語の読み書き、および読み書きに基づく対話ができるようにする。

英語教育こそが私たちの本分です。もはや今回の震災で、英語がきちんと使える人間が日本に多く必要であることがわかったことについては繰り返しません。偽りの会話ごっこや、外国人記者が誰も聞きに来ない政府記者会見のように儀式的な発話ではなく、きちんと自ら調べ考えたことを、明晰に述べ、相手からの質問や意見にも知的に誠実に答えられる英語力が、国民のより多くの層に、より高いレベルで必要です。知的に誠実な英語力をつけるためには、「日常会話」レベルだけに留まっては駄目で、きちんとした読み書きに基づいて、話し聞き対話ができるようにならなければいけません。

私たち英語教師は、それぞれの持場で、もっと英語教育の質を高めることが第一に大切だと考えます。



<ALTに対して>

●ALTともっと人間的な対話を重ねよう

英語教師にとって、最も身近な英語話者であるはずのALTと、英語教師は案外話をしていない(時にはテープレコーダー扱いしかしていない)ことは周知のとおりです。理由はいろいろあるかも知れませんが、その一つは(直言するなら)英語教師の英語力が低いからです。常套句でおざなりの会話をする以上の英語力がないから、深い話ができない、広い話題で話ができないわけです。

私たち英語教師は、ALTともっと語り合い、かつそれを契機として、もっと自分自身が寸暇を利用して英語を読み書きする習慣を少しでも育てるべきだと思います(とりあえず英語専用のTwitterを作るぐらいならすぐにできるでしょう)。



<暮らしの中で>

●コミュニケーションとは何かを暮らしの中で徹底的に考え、自ら試行錯誤し、反省しながらコミュニケーションの教育を続ける

これはほとんど自戒ですが、教師はある意味、自分以上の教育を行うことはできません。教師はまずもって自分自身の修養に努めるべき(同時にその「善」が暴走することを防ぐために、自己諧謔やユーモアのセンスを育むべき)だと考えます。

まずは教師自身、よき暮らしをしましょう。

と言っていたら、自分自身恥ずかしくなってきました。


このシリーズはこれで終ります。







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