2011年5月5日木曜日

日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。(その3:傲慢で無能な日本の「偉い人」は近代日本が抱える深刻な問題)





この記事は、その1その2の続きです。








■今、日本の大人は、どのような未来を子どもに渡そうとしているのか

本日は「子どもの日」で、毎日新聞は一面トップに子どもの笑顔を掲載しました。その笑顔を見ていると、私たち大人は、この子どもたちにどのような日本を、どのような顔で手渡したらいいのだろう、と本当に考え込んでしまいました。

この原発人災での政治家、官僚、東電幹部の対応を見ていると、「日本、もうオワタwww」と冷笑的態度をとって、私自身の精神の安定をとりたくもなりますが、私は教育学部で教員養成をするということで給料を得ています。この給料を得ている以上、私は日本の未来に対して冷笑的・揶揄的あるいは悲観的な態度にとどまり続けることは許されません。ですから、蟷螂の斧のようにこのシリーズ記事も書きます。

ここでは、日本の「偉い人」の傲慢さと無能さは、今回初めて明らかになったのではなく、近代日本がずっと抱えている宿痾的課題であるとする論を簡単に紹介します。

この認識を共有したいのは、悲観的態度を正当化するためではなく、現代日本が抱える問題の大きさを正面から捉え、教育は何ができるかをきちんと考えるためです。


■一人や二人の指導者の問題ではない

今回の、政治家、官僚、東電幹部などの、自分(あるいは自分の組織)の保身ばかりしか考えていないような態度、姑息な言い訳、表面だけの平身低頭さとその裏腹の時折見せる傲岸な表情、などなどを見ていると、その人々を本当に個人批判したくなります。しかし、それを具体的に始めたら、もう止まりませんので、ここでは4月5日の記事でも示したTIME誌の見解を(部分的に)再掲します。


日本を駄目にしたのは、あの首相だとかこの首相だという問題ではない。日本の問題は、以前からそうであったのだが、入り組んだ権力基盤をもつ体制(エスタブリッシュメント)である。この体制は、官僚・公務員、自民党大物などの政治家、裁判官・弁護士・検事のすべての法曹関係者、守られ続けている経済的既得権益、そして(決して見逃してはいけない!)ジャーナリスト、といったメンバーから構成されている権力構造である。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/04/no.html
※上は原文に忠実に「自民党」と書きましたが、現状を見ると民主党の多くも同じ穴のムジナであることは明白です。


つまり、日本の「偉い人」の組織文化に、無能で傲岸な人間を輩出し続ける仕組みが組み込まれていると考えるべきでしょう。


■90年代後半の金融危機との類似

今回の原発人災 (次回がないことを! 特に浜岡原発で!!) での「偉い人」だけが、無能で問題を悪化させているだけでないことを、「逍花」氏は4/14に2つの「第二の敗戦-原発事故と金融危機」という記事で指摘しています。


しかし今回の原発事故は、1990年代後半に「第二の敗戦」と言われた金融危機と構造が非常に似ている。

それは、強力な許認可権を持っている監督省庁と産業界の馴れ合いであり、処理スキームの構築が後手に回り、情報開示をおろそかにしたことで危機の影響が拡大したことである。また、金融危機の際に多額の公的資金が投入され国民負担が生じたように、今回も何らかの形で国民負担が求められそうだ。
http://news.livedoor.com/article/detail/5488917/


ここでは官庁と産業界の馴れ合いが、国民に被害を与えていることが指摘されていますが、「偉い人」の怠慢はそれだけには限りません。



■日本の「偉い人」の癒着と国民軽視は55年体制以来?

『現代ビジネス』は、ニューヨークタイムズ東京支局長のマーティン・ファックラー氏の言葉として以下を引用しています。


誰も責任をとろうとせず、誰も誠意のある情報開示をしない。'55年体制下の日本では、こうした場面がよく見られましたが、今回はその最悪のケースを見ているようでした。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2372?page=5


「政権交代と憲法改正のない体制」ともいわれる「55年体制」は、日本から、民主的社会のためには必要な諸権力の緊張的対立を消失させ、政・官・法・財・学・メディアなどで権力を行使する「偉い人」が、相互に必要な牽制をすることより、お互い「なあなあ」で、お互いの空気を読み合う癒着構造、既得権益保護構造を生み出したと私は考えます。

癒着的既得権益保護構造では、相互批判をしないことが「物事がわかった」、「みんなのことをきちんと考えている」分別ある「大人」とされていますが、この場合の考えている「みんな」とは、自ら属する権益構造にいる「偉い人」だけであり、現場の人間のことなどはほとんど顧みられません。



■日本の「偉い人」が内向きでお互いの「空気」ばかり読み合い、問題を悪化させるのは第二次大戦でも同じだった

この日本の「偉い人」が、自分たちだけの世界の中で考え、その指示を現実世界に出して、現場の人間を苦労させることは、実は、第二次世界大戦でも多く見られたことでした。

4/25の毎日新聞は、内橋克人氏を取り上げ、彼が引用した、第二次大戦の敗因を分析した戦争史家の文章を再掲しています。


「有利な情報に耳を傾け、不利な情報は無視する(日本政府固有の)悪癖に由来するが、日本的な意思決定方式の欠陥を暴露したものであろう。会して議せず、議して決せず……。意思決定が遅く、一度決定すると容易に変更できない。変化の激しい戦争には最悪の方式で、常に手遅れを繰り返し、ついに命取りになった……」
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20110425ddm012070041000c.html


この第二次大戦での日本の「偉い人」に関しては、私も以前、「現代日本を考えるための新書5冊+α(2005/12/23)」という記事(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#051223)でまとめたことがあります。

ここではそこから二つだけ、引用を再掲します。


太平洋戦争を正邪で見るのではなく、この戦争のプロセスにひそんでいるこの国の体質を問い、私たちの社会観、人生観の不透明な部分に切り込んでみようというのが本書を著した理由である。あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そのことを見つめてみたいと私は思っているのだ。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。

戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく。現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって"良き反面教師"なのである。保坂(2005: 240-241)


保坂氏が上で指摘する現代にも残る日本の「何か」が、現在この瞬間も、政府の主観的願望のみの思考(wishful thinking)からくる場当たり的対応により、福島第一原発の現場復旧をしている現場の作業員や、国際的規準からすれば高すぎる放射線量でも「大丈夫」とされている福島の子どもたちの生命・健康への影響という形で出ているのではないかということを、私は懸念します。少なくとも、この「偉い人」の机上の空論は、第二次世界大戦で多くの日本兵の生命を奪いました。


日本軍は、制海権のないバシー海峡(台湾とフィリピン領パタン諸島(バシー諸島)との間にある海峡)に、兵員を満載したボロ船を送り続けた。船は多くが米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、数分から15秒程度で沈没し、ほとんどは助からなかった。船には船倉1坪(畳二帖)あたり14人(カイコ棚二段で7人ずつ)の日本兵が入れられ、便所も満足なものはなかった。この「押し込み率」はナチ収容所最悪の狂人房と同じである。日本軍は日本の船舶が実質上ゼロになるまで機械的にこの愚行を行い続けた。「やるだけのことはやった、思い残すことはない」というのが軍の首脳の言い訳であろう。
山本七平(2005: 35-70 ただし要約は柳瀬)


このような悲劇は、今、また繰り返されているのではないでしょうか。



■権力者の思考放棄こそが巨大な悲劇を起こしうる。

4/28の毎日新聞は、ルポライター鎌田慧氏の「想像力の欠如こそ原発体制の罪」(http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110428dde012040002000c.html)という言葉を紹介していますが、この「想像力の欠如」は、現在の日本の「偉い人」にも(そしてこれまで原発に関して真剣に考えることを怠ってきた私のような人間にも当てはまります)。

想像力を欠如させ、思考を停止させることこと ―特に権力行使にあたるものが思考を放棄すること― が巨大な悪につながることこそ、アレントが『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』で指摘したことです。

ユダヤ人への「死刑執行人」と言われたアイヒマンも、特段の人種差別主義者でもサディストでもありませんでした。しかし彼は、彼の立場で、単なる組織人を超えて人間として考えること、想像力を行使することを怠ったので、巨大な悪を引き起こす重要な契機となってしまったのです。

今回の、政治家、官僚、東電幹部、記者クラブに属する報道関係者などにも、おそらく根っからの極悪非道人はいないはずです。しかし権力者が、想像力を失い、自ら考えることを止め、「これまでこうだったから、こうするだけ」と居直るなら、それは取返しのつかない事態を招きうることは指摘しておかなければなりません。

もちろん現時点で、想像力を行使し、自ら考え、決断をすることは非常に困難なことです。誰も正解はわかりませんし、自らの決断が招きかねない二次的被害を考えると尻込みしてしまうでしょう。しかしそういった危機においてこそ、できるだけ被害の少ないを考え上げ、決断し、行動に移し、その責任を自ら担うという自己犠牲的な行動を選ぶ者こそが公共的な社会での「選良」の務めのはずです。

幕末から明治の日本は、山岡鉄舟や西郷隆盛といった人物をもちました。

『金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない』とは西郷隆盛の山岡鉄舟評ですが、これから日本が徹底的に自己改革をするにはこのように「始末に困る」真心の人が必要でしょう。


何も江戸時代のように、公人として恥ずべきことをすれば切腹をするべきだとまでは言いません。しかしそういう気概だけは失うべきではないでしょう。今、日本の「偉い人」そして普通の人が気概を失うことは、過去の日本人と未来の日本人のために、申開きのできないことをしてしまうことです。



■日本の強みと弱み

松本徹三氏は今回の震災が日本の強みと弱みを(再び)明らかにしたと言います。


強さは、平均的な日本人が天性持っている「我慢強さ」と「誠実さ」であり、これは草の根レベルで遺憾なく発揮された。多くの善意に溢れる人達が現場で頑張り、臨機応変に対応して結果を出した。一方、弱さは、一言で言えば、「リーダーシップの欠如」であり、これは「構想力と組織的な対応力の不足」「決断の遅さ」などという形で現れた。

例は悪いが、これは先の大戦での米軍による日本軍の評価と一致している。米軍の幕僚は、戦場における日本軍の臨機応変の対応力と忍耐力は高く評価しつつも、上層部が指導するワンパターンの戦略と戦術は全く評価していなかった。
http://news.livedoor.com/article/detail/5481962/



続けて松本氏は日本の「エスタブリッシュメント」の弱さを次のように総括します。


1)一旦方向が決まると、それに反する方向でのあらゆる議論が封殺され、想定されていない事態への備えが等閑にされること。(みんなが「空気」を読み、「まさか、そんなことは今更言い出せないでしょう」と言って、想定外の事態への備えを放棄してしまうこと。)

2)「権威者」が力を持ち、その下に厳然たるヒエラルキーが構成され、全てを「内輪の論理」で律して、外部への情報開示や外部からの批判やアドバイスを嫌うこと。(「そんな事はちゃんとやっていますから、外部の人は口を挟まないで下さい」という権威者側の姿勢が、無批判にまかり通ってしまうこと。)
http://news.livedoor.com/article/detail/5481962/


私は国立大学教員として「エスタブリッシュメント」の周縁に属していますが、この私も小学校英語教育に関しては1)の怯懦をもちました。また2)はしばしば周りで見聞きします。この「偉い人」の弱さを払拭する新しい組織文化の創出が日本には必要です。

「エスタブリッシュメント」に属していない人は、属している人にきちんとしたリーダーシップを求め続けることが必要です。以下は大西宏氏の指摘です。


東電にしても、官邸にしても、野党にしても、もし被災地で苦労されているコミュニティからの信頼を得ることができれば、その信頼の輪は当然広がっていきます。

なぜ信頼を得られないのでしょうか。それは、現場は、リスクを取って行動し組織を動かす人しか信頼しないからです。

東電の経営幹部や広報の人たちの対応を見ていると、リスクに立ち向かって力強くメッセージを発し、また行動ができない大企業病を感じます。おそらく思い切った行動にでて、失敗したとたんに出世競争から外され、復活できないという減点主義の文化が根づいた結果ではないでしょうか。

そしてそのことは官僚の人たちにも言えるでしょうし、政治家もそうなのかもしれません。

現在、日本が抱えているほんとうの危機は、こういった深刻な危機が訪れても、それに立ち向かおうとするリーダーの資質をもった人がでてこないことです。

今後とも、日本は未体験のリスクに脅かされますが、未体験であるか故に、これが絶対正しいと確証できることはありません。重要なことは、正しいか正しくないかではなく、リスクに正面から立ち向かいチャレンジすることです。間違っていればそれを学び修正すればいいのですから。

東日本の震災、また福島第一原発事故という未曽有の災害による日本の危機はリーダーとしての頭角を現すいい機会だと思いますが、もしでてこなかったら日本は危ういと感じています。
http://news.livedoor.com/article/detail/5509368/



今、福島の学校の放射線量の問題でも、多くの国民が怒りを表明し、国などによる適切な権力行使を求めていますが、残念ながら日本の「偉い人」の自己保身的弁明 ―ある人は「縦割りx思考停止x上から目線」による言動と表現しました― は、もう情けないばかりです。

しかしここで私たち大人は諦めてはなりません。未来の子どものためにも。過去の偉大な日本の祖先のためにも。

戦時や非常時に任務を遂行するときのリーダーがなすべきことは次のとおりだと言われいます。


1 あいまいな状況下においてもタイムリーに決断を下して行動する、

2 目的を明確に部下に伝達。ただし、どうやるかの実践は現場の判断にまかせる、

3 第一に任務の遂行。次いで、隊員全員を無事に帰還させる。自分のことは一番最後。
http://newmktg.typepad.jp/blog/2011/04/%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%A8%E6%9C%AC%E9%83%A8%E8%87%AA%E7%B2%9B%E3%81%A8%EF%BD%81%EF%BD%83%EF%BD%92%E5%BA%83%E5%91%8A%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%97.html


別にこのリーダーシップについては誰か権威筋からの引用を待つまでもなく、常識で考えて当たり前のことだと考えます。実際、今回の震災で、日本の自衛隊や消防隊はこういったリーダーシップに基づいて果敢に行動しようとしました。しかしそれに日本の「偉い人」が邪魔をしたのは今回の「その1」で書いた通りです。


今こそ日本の大人は希望を保つべきだと考えます。「偉い人」とは実は公僕です。日本国の主権者は国民です(4/28記事)。

この契機を活かして、近代日本が抱えてきて多くの犠牲を出した「無能で傲岸な偉い人」を減らし、放逐し、権力行使に携わる人を、真の意味で「選良」となし、人々の尊敬が自然に集まるように「偉い人」を教育することが、今、国民がなすべきことと私は考えます。

繰り返します。これは私たち個人のためでなく、福島の子ども、第一原発の復旧作業員のため、そして未来の子ども、過去の祖先のためです。今なすべきことをなしてこそ、私たちは自らの社会に対する誇りを取り戻せると考えます。

特に教師の皆さん、私たちは学校で何を教えるべきかをもう一度考えませんか?

「教科書を教える」とか「学習指導要領にそって教える」といった、一見遵法的でありながら、実は思考停止かもしれない答えで満足するのではなく、自分は、学校で何を、どのように教えるのか、それはなぜなのか、という教育のWHAT, HOW, WHYを問い続けることこそが教師の仕事の根底にあると思います。






この記事はその4に続きます。







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