学生さんに書いてもらったレポートの中で印象深い箇所をいくつか抜粋してここで紹介します。
まずは、「
言語コミュニケーション力論と英語授業」のレポートから。
3年生Mさん
授業で田尻悟郎先生の英語スピーチ授業を拝見したとき、最初に感じたのは単純に生徒の英語力の高さに対する驚きであった。私が中学生のときのことを思うと、教科書を音読することはよくしていたが自分の英語で話せと言われると途端に何も言えなくなっていた。なので、ビデオの中の生徒たちはよほど英語力が高いのだろうと思った。確かにそれもあるのだろうが、しかし彼らが活き活きと自分の英語を話していたのは何も英語力が高いからという理由だけではないのだと思い直した。彼らには話すことがあり、それを聞いている人に伝えたいというコミュニケーションの基本があった。
3年生 Y君
蒔田先生や田尻先生のビデオ視聴を通して、先生たちの実践を目の当たりにして多くのことを考えさせられた、それぞれ独自の良さがもちろんあるが、幾つかの共通点があるように感じた。
一つ目の共通点として、お二方の先生とも授業内での自分の見せ方をきっちりと意識的に定めて授業を行っているということだ。蒔田先生は自分を大きく見せないであったり、自分がまず楽しむであったり、先生が生徒の前でジタバタしているところを見せると言った考えからわかるように、自分をしっかり一度客体化して見ていることがわかる。田尻先生は、教師はエンターテイナーであると言っているが、この考えも蒔田先生と同じように自分がどう見えているか、見られているかということをしっかり意識していることが分かる。これは、お二方の先生とも言葉だけでなく、教室内の雰囲気や、それぞれの気分、教師の表情や、声の調子など様々なものがコミュニケーションに影響していることを理解しているからであると感じた。自分から生徒の前で身振り手振りを入れながら、やや大げさとも見えるくらいのリアクションをとる。先生がまずお手本として、コミュニケーションの仕方を見せているという印象を持った。先生が行うのを見ていた生徒は、やはりそれをみてコミュニケーションを学ぶ。このためか、お二方の先生の生徒たちは、ビデオの中でほとんど恥ずかしがることもなく、楽しそうに時に大げさに、感情をこめて音読や発表に取り組んでいた。これは、先生の姿を日ごろ見ながら少しずつ、コミュニケーションとは言葉だけでなく、身体を使って表現するものなのだということを学びとっていったからではないかと考える。
3年生 Mさん
2.3 講義内でのフィードバック
講義の中で先生方の授業実践のVTRを見たあとに、その内容について意見交換した際のフィードバックをまとめる。この協議のキーワードは「経験」「信頼関係」「自分のスタイル」であったように思う。
2.3.1「経験」
教師という仕事は理論やテクニックだけでは成り立たない仕事である。教師自身の失敗体験を含む、様々な経験を積み重ねることで教師としてのスキルを身につけることができる。しかしながら経験だけでよい教師になれるわけではない。経験したことをしっかり反省・分析し、その結果をきちんと整理して次に生かすことが重要なのである。経験・反省・分析・整理というサイクルを絶えず繰り返すことで教師の技量が向上し得る。
2.3.2「信頼関係」
生徒と信頼関係を気付くためには教師の働きかけが大きな意味を持つ。蒔田先生も、田尻先生も、生徒一人一人を見つめる視点を常に持っていると感じた。しっかり生徒と向き合い、相手に応じた方法でこつこつと信頼関係を築いていく。短時間でできるようなことではないが、生徒にとって適切なタイミングを見逃さず、最良の支援を行う。それを積み重ねていくことが重要なのである。授業の主体はあくまでも生徒であり、教師はその補助をする役割を担っているのだ。授業は教科指導だけを行うものではないということはすでに述べたが、授業を含め学校教育の中で生徒指導は中核をなすものと言える。この生徒指導を行うためには、生徒と教師の間でしっかりとした信頼関係があることが欠かせない。
2.3.3「自分のスタイル」
このように、経験を積まれて素晴らしい授業をする先生方の姿を見ると、誰しも「こんな授業がしてみたい!」と思うだろう。しかしながら、やみくもに模倣しても成功する可能性は低い。技術ばかりに目が行くが、技術の背景には多くの要素が存在することを忘れてはならない。その要素とは、教師自身のキャラクターや、生徒の実態、環境など様々である。先生方から学ぶべきことは、技術なのではなく、人間としてのかかわり方・人への思いやりなのではないだろうか。相手のことをよく考え、かつ自分に合った方法で指導することが最善なのである。
3年生Yさん
英語授業でのコミュニケーションを考えたとき、2009年7月の『新英語教育』に掲載されていた青森山田高校の小山美樹子先生の記事を思い出した。小山先生はリーディングの授業を例に挙げて、コミュニケーションという観点から、授業を英語のみで行うということについて疑問を投げかけていた。
以下に記事から引用する。
・・・「先生、あのさ、あのさ、なんて言ったらいいの。うーん、上手く言えないんだけどね。あーー」本当にもどかしそうに言葉を紡ごうと苦しんでいる。仲間と一緒に悩んでいる。中には自分の言いたいことを上手く言えないと「あー、わかんね」と短気を起こす子も出てくる。「わかんなくてもいいから、考えよう。わかんなくても考えるのと、わかんないからって考えるのをやめるのはとっても違うと思うよ」としか私は言えない。母語でさえこうなのだ。
英語の、特に高等学校の教科書には興味深い題材が多く用いられている。私たち大人が読んでも考えさせられるものはたくさんある。生徒たちがそこから内容を読み取り、それについて自分なりの考えや意見を持ち、それを何とか言葉で表現しようと葛藤する様は、まさに「べてるの家」で自分の考えを整理して何とか伝えようと考えて、言葉を見つけよう、選ぼうとしている様と限りなく近いといえるのではないだろうか。題材は間違いなく英語で書かれているのだから、そこから何か感じ取るには、まず内容を理解しなければならないし、その上で自分なりの意見を持てるような読み方をしなければならないからその意見を英語で表現できなくても立派にコミュニケーションをしている。というか、書かれている内容を自分の中で咀嚼し熟成させて、そこで生じた考えや思いを表現しようとすることは、私にとっては言語さえ超えたコミュニケーションのように思えてならない。そしてこのような読みを繰り返し行うことで「死ね」「むかつく」「すごい」「かわいい」といった言葉で多くの感情表現を済ませてしまうような子どもたちを少しでも減らすことにつながるのではないだろうか。
3年生 Wさん
先ほど述べた通り、感情と言葉は互いにコミュニケーションを取り合っています。コミュニケーションでは互いに相手に合わせていこう、歩み寄って心地よい関係を作っていこうとします。それはこの場合でも同じです。感情を上手に表す言葉が見つからない場合、言葉を感情に合わせるか、感情を言葉に合わせるかどちらかの方法で、感情と言葉はコミュニケーションをとっていきます。言葉を感情に合わせるということは、自分の複雑な気持ちや微妙なニュアンスを表す言葉を試行錯誤しながら探していくということです。言葉と感情のズレを解消するために、本を読んだり友人と話したり音楽を聞いたり古典を読んだり外国語に触れたり…このような活動を通して自分の感情をうまく言い表している言葉を積極的に探していきます。感情を言葉に合わせるというのは、違いのある複雑な感情を単純化してひとつにすることです。微妙な違いにとらわれるのではなく、感情を大まかに捉えることで、言葉と感情のズレを修正します。そのため自分の感情がどんどん単純化され貧しくなってしまいます。
3年生 Mさん
ここでは「自主セミナーを通じての成長」に沿って考えていきたいと思う。成功者の実践を「技」と呼び、「技」を取り入れるには大きく3つのポイントがあるのだと分かった。まず1つ目として、「技を言語化すること」2つ目「技の使いこなし方を会得すること」3つ目「技の前提を知ること」である。どれも私にとって「そうだったのか!」「どうして気付かなかったんだろう!」と刺激的で有益な情報であった。
(中略)
2つ目に「技の使いこなし方を会得すること」である。ここは自分でもなんとなく以前から思っていたことと近いことであった。「なんとなく」似ている、と感じたのは私がしっかりと言語化していなかったせいであろう。その技がうまく機能した状況と私が今いる状況とでは異なっているということ、少しずつ自分にあったものに改良していかねばならないことも承知していた。しかし、同じ技を工夫しながら使い続けること、技の先入観に支配されないことが私には欠けていたと思う。また「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」という教訓がとても印象的だった。一見矛盾しているような言葉だが、これまでのスポーツに置き換えると思い当たる節がある、そんな言葉であった。王老師の例はまさに私も経験したことのあるものだった。私は高校生のころかテニスをしていたが、始めたばかりのころ教わったフォームでやってみているはずなのに、その都度変わるアドバイスによく戸惑った。しかし練習を重ね経験を積むと、フォームはそのときの状況に合わせて最良の形に微調整するものだと気付いた。ボールが高く弾むと予測できたら、立ち位置をいつもより後ろにしたり、ボールを打つ位置を高めにしたり、という具合である。このように方法だけを言うのは簡単だが自分でその判断ができるようになるまでがなかなか簡単にはいかなかった。的確な判断をしたり、頭で考えた判断を実際行動に移したりすること、頭と身体のつながりを成立させるには回数をこなし経験を積むこと、ボールの跳ねる程度、自分の力がどのようにボールに反映されるかなどの癖を知り、予測できるようになる過程が必要であると思う。また自分自身の癖や傾向を知り、微調整することも必要ではないかと思う。このような経験があったので王老師の「私の言ったとおりにすれば間違いだ。しかし言うとおりにしなければもっと間違いだ」というエピソードに共感できた。しかし私はこのことをテニスには経験的に当てはめることはできていたが、学習などのことには応用することができていないことに気付いた。どうしてか、と考えてみるがなかなか簡潔な答えは思い浮かばず、しかしやはり私は学習面に関しては「技」を絶対的なものと考えてしまっていたのではないかと思う。また自分の学習に関してその癖や特徴をとらえられていなかったと思う。これは見直すべき点だと思うのだが、自分の癖はともかく、英語や教育についての傾向や癖といったものは多様で、膨大なものだと思うのでこれに関しては、このトピックで学んだように状況に合わせた対応をしなければならないと感じた。
3年生 N君
以上三つの点を踏まえた上で、私が教師に求められると考えることを一つ挙げて、このレポートのまとめとする。現代のこの複雑な社会で、教師が子供たちと関わりを持つ際に心がけるべきこと、それは「ゆっくり聞き」・「ゆっくり話させる」ということである。情報・科学技術の発達に伴い何もかもが便利化すると共に、ますます高速化しているこの現代社会で、生徒たちはその波に流されてしまい、自分たちの意見をゆっくりと整理し、しっかりと考えながら人に伝える機会は少なくなってしまっているのではないだろうか。それは相手が教師であっても同じである。しかし先述したように、教師は子供たちが他との間にもつ「関係」とは異なる新たな「関係」を作り出す相手・対称になる可能性をもっている。まず「ゆっくり聞く」姿勢で充分なラポールを形成し、「ゆっくり話す」対象と時間を与えることにより、生徒は自らを生きた言葉で表現し、自らを成長させることができるのではないだろうか。
また、上で「話すこと」の対象である教師にとっても、「ゆっくり聞く」ということはその発言についてゆっくり考える時間を与えられることになり、それにより深い生徒理解に繋がる。もちろんその発言が聞き手である教師の成長に繋がることもあるであろうし、それが多くの教師が「教師でありながら生徒から学ぶことのほうが多い」と述べる所以ではないだろうか。
3年生 Kさん
子どもを馬鹿にするわけではないが、子どもの話は多くの場合他愛もなく、伝えたい「相手」がいるから、伝えたい「内容」が生まれてくるのではないかと思う。私はこの関係性はとても大切ではないかと思う。伝えたい相手がいれば、伝えたいことを「考える」ことができるようになる。子どもがその日の出来事などを親に伝えるという生活の一場面は、実は子どものコミュニケーション能力の育成において非常に大きな役割を果たしているのではないかと思う。子ども同士でもコミュニケーション能力は育めるが、周りの大人とのコミュニケーションは、伝えたい「相手」としての存在の大きさと、大人の持つコミュニケーション力を子どもに伝授できるという点から、非常に大事だと思う。忙しい大人たちにとって、子どもの話をゆっくり聞く時間はないかもしれないが、子どもたちは伝えたい「相手」としての大人を必要としている。子どもの話は無意味だったり、わかりづらかったりすることも多く、またなかなか表現が見つからず時間を要することもあるが、「灰色の男」に惑わされることなく、大人が辛抱強く聞くことが大事だと思う。そうすれば、子どもは伝えるために考えることをやめない。このことは、教師にとっても同じことだと思う。授業を先に進めなければという焦りに駆られず、子どもたちの話に耳を傾けることが大切だと思った。ただし、一方で授業はやはり先に進めなければならないものなので、その折り合いが難しいとは思った。
3年生 Mさん
さてここでもう一度話題を日本における外国語教育に戻したい。冒頭部分でも述べた「日本人が十分なコミュニケーション能力を習得できない原因は、文法などの知識を教えることを授業の中心として十分なコミュニケーション活動をさせていないことにある」という批判について、デイヴィドソンの理論を用いて考えてみる。言語についての知識を与えることは事前理論を大きくすることにつながるが、実際に事前理論を基にして意味交渉を行わなくては即時理論の共有はありえない。即時理論を共有させるという能動的な行為を練習する場が授業におけるコミュニケーション活動にあたるだろう。しかし、デイヴィドソンの立場に立って考えると、私はここに日本の外国語教育に対する考え方の矛盾が存在しているように思えてならない。というのも、コミュニケーションにおいて間違いとは切り離せないものであり(実際第一言語でも日常的に起こっている)、間違いがあっても聞き手の徹底的な解釈によってコミュニケーションは成立すると考えられているのにも関わらず、日本の外国語教育が指す「コミュニケーション活動」とは得た言語知識を正しく使用することに重きを置いており間違いがあまり許容されていないからだ。言いかえるならば、日本の外国語教育における「コミュニケーション活動」とは「事前理論を正しく発信するための練習の場」、または「事前理論を正しい形で定着させる場」のことであり、言語的な正しさを始めから求めてしまっている。そもそも授業における「コミュニケーション活動」とは既習の言語知識を使って行える範囲でのやりとりが大半を占めているのではないだろうか。生徒が徹底的な解釈、あるいは何とかして相手の意図を理解しよう・相手に意図を伝えようとする試みを必要とするような状況下に置かれる機会が一体どれほどあるのか疑問である。もちろん、そのような日本の英語教育における「コミュニケーション活動」の中で即時理論が全く作られない、とは言えない。しかし、多くがお互い共通に持つ事前理論の範囲内のやりとりで終わってしまうため、相手の意図の解釈は困難なくとても容易になされてしまう場合が多いということである。このように、「目標をコミュニケーション能力の育成」としながらも、コミュニケーション中心ではなく言語知識中心とした考え方が根を張る授業には大きな矛盾があると言えるのではないだろうか。
3年生 Kさん
「言語使用の面から見てのことばを獲得することは、同時に他者への関係性を獲得することである」というのはまさにその通りだと思った。自己表現のためのことばを獲得し、他者とコミュニケーションするなかで自己を発見することは、同時に自己を他者に対して開き、他者との関係性を獲得することができるのだ。べてるの家では話す場を設け、自分の思いをことばにする機会を何より大切にしていた。そして私は今まで「ことばを獲得」していく度に「怖い」と思っていた。普段から無感情であることを悩んでいたのだが、ことばをどんどん獲得していくことで自分の中に湧き上がってくるかもしれない感情を、感情論ではなく論理として分析してしまうのではないかと思って不安だった。「この気持ちはなんなんだろう」と、感情に素直に喜怒哀楽を体験してみたかった。確かに、ことばの獲得と感情は表裏一体である。しかし講義を受けて習得した言葉と、コミュニケーションの際に発することばの習得とは別であると学び、確かに学習上習得した語彙はすべて自分のことばになってはいないと痛感した。そこで自分の自己表現の弱さを認め、向き合っていかなければならないと思った。「弱さとは、強さが弱体化したものではなく、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとしての意味があり、価値がある。」と向谷地生良が述べているように、葛藤する力や悩む力自体の価値を認め、それらを語りを通して発することでことばを獲得し、自己発見や他者との関係性を獲得していくこともできるのだ。そのための語りの場こそ我々に必要なのだ。
3年生 Yさんついでのさらについでなのですが、本レポートを書く上で参照した私なりの名言集(?)の中から今回の授業に多少なりとも関係ありそうなことばの一例をあげて終わろうと思います。
・完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね 村上春樹 「風の歌を聴け」
・話したいことは山程あるけど なかなか言葉になっちゃくれないよ 話せたとしても 伝えられるのは いつでも 本音の少し手前 BUMP OF CHICKEN 「ベル」
・目の前に、くっきり見えているものしか信じられなくなるのが、いちばんつまらないし、いちばん悲しい いしいしんじ 「ポーの話」
・別の考えに触れたときの感じは、やっぱりいつでも衝撃的で、自分の世界が広がっていく気がするから よしもとばなな 「ハゴロモ」
・あたりさわりのない答えは 大抵の場合において愚な答えである 夏目漱石 「虞美人草」
・完全に自己を告白することは何人にもできることではない。
同時にまた自己を告白せずにはいかなる表現もできるものではない。 芥川龍之介 「侏儒の言葉」
・豊富な情報と、単調な生活から生まれてくるのは、短絡的な発想や憎悪だけだ 伊坂幸太郎 「魔王」
・だって知っている言葉はほんのちょっとで 感じれることは それよりも多くて ポルノグラフィティ 「パレット」
なお、
3年生S君のレポートは手堅くよくまとめてありますので、本人の許可を得て
ここから全文ダウンロードできるようにしました。
次に、
Critical Applied Linguisticsについての大学院生向けの授業でのレポートから。
M1 Yさん 1997年1月,規制緩和の一環として当時の文部省は「通学区域制度の弾力的運用について」を市町村教育委員会に指導通知し,公立の小・中学校においても申請をすれば通学区域外にある小・中学校に通うことができる公立学校選択制が始まった。2000年に入り全国に拡大し,2006年5月現在,小学校で240自治体,中学校で185自治体が導入している。この制度の理念は学校の閉鎖性と画一性を改め,「特色ある学校づくり」や「個性ある教育課程の編成」を目指すところにある。(朝日新聞掲載「キーワード」 )この制度によって日本の公教育は向上するのであろうか。「特色ある学校づくり」というと聞こえが良いが,逆を言うと学校の特色を十分にアピールできないと,児童・生徒,そしてその親に選んでもらえないということになる。これは企業的,資本主義的な概念の学校への導入である。ここで,ジャーナリストの斎藤貴男氏が著書『教育改革と新自由主義』の冒頭で示した例え話を引用したい。
ある食堂には,五百円の定食が四種類あります。あるとき,店主は「お客さんのニーズは多様化している。もっとメニューを増やそう」と思い,一万円の定食を二種類,五千円のものを二種類,三千円のものを二種類つくりました。そして,五百円の定食は二種類に減らしました。店主は言います。
「メニューを四種類から八種類に増やしました。しかも,これまでより高級な食材を使ったものも用意し,選択の幅を広げました。どうぞ,お好きなものをお選びください。」 (斎藤, 2004, p. 10)
政府や自治体はと言います。「通学区域の制限を緩めました。しかも,学校同士が特色を出しているので,選択の幅が広くなっています。どうぞ,お好きな学校を選んでください。」しかし実際に「お好きな学校」を選ぶことのできる家庭はどの程度あるだろうか。幼児の小学校選択はその親の教育意識,情報収集力,子どもを区域外の遠い学校に通わせることができるか(この中には単に距離的・時間的な負担だけでなく,通学にかかる費用や親による送り迎えができるかといった観点も含む)にかっかっているであろう。そもそも子どもの適性を若干6歳で見定めることができるとも考え難い。戦後の日本は,誰もが等しく教育を受けることができるようにと単線的な義務教育の6・3制を築き上げたが,早期学校選択制はこの平等な教育の機会を奪いかねない。
斎藤氏は自由競争に組み込まれていく学校の中にいる教師に関する問題として,教師は「『悪い学校』へ飛ばされないよう教育内容の良し悪しよりも管理職の顔色をまず伺う」(p. 53)ようになり,管理職は「親の人気取りと教育委員会の意向に従うことのみを優先する」(p. 53)ようになると懸念している。そして「まがりなりにも公教育が生きているといえなくもないのは,良心的な教師が踏ん張っているから」(p. 151)であるとして,次のようなメッセージを記している。
教師は,自分の仕事に誇りを持ってください。そして,[資本主義化し,民間企業が公教育に参加して来る中で]「民間ではこうだ」「企業ではこうしている」と言われても,「教育ではそれは通じない」という部分だけは,しっかりと抱きしめていてほしいと思います。(pp. 154)
現在教師の身には,教科教育以外の仕事,課題や問題と抱え切れないほどの重荷がのしかかっている。教科や生徒だけを見つめているわけにはいかず,財政界や親からの要望・圧力ともうまく折り合いをつけなくてはならない。そんな中でも,教師としては現状に流されず,甘えず,生徒の未来を1番に守るべきものとして教壇に立てたら良いと思う。
M1 Tさん
日本は先進国の中で、国からの教育支援が最も少ない国である。国立大学の学費の高さからもわかるように、日本では、ある程度の経済力がなければ満足のいく教育を受けることができないのが現実である。アメリカとカナダを基盤にした「教育政策研究所」(Education Policy Institute, EPI)がまとめた「グローバル高等教育ランキング2005」(Global Higher Education Rankings 2005)(※3)のデータによると、GDPに占める高等教育費への公的財政支出の対GDP比では、先進国の15カ国中最下位であり、教育費用は個人で負担という考えが比較的強い。政府からの支援が少ないうえに、教育費用の高さも日本の親たちを苦しめている要因である。AIU保険がまとめた「現在子育て経済考」(※4)というデータによると、公立幼稚園から国立大学まで、最も安いコースを歩んだとしても、子ども一人当たりにかかる教育費は1,345万円で、食費や服代などを含む基本養育費1,640万円と合わせると、ひとり当たり最低で2,985万円はかかる。もっとも高いとされる、私立中高から私立理系コースになると、教育費は4,424万円。基本養育費との合計は6,064万円である。平均年収300万円以下の母子家庭には到底払うことのできない額である。
・ (※3)Global Higher Education Ranking (2005)
・ (※4)AIU保険現代子育て経済考
教師は時代に応じた教育をしていくとともに、その背景にあるdiscourseの問題点を批判的に把握して、これからの教育について議論し続けることが重要である。その際に、本稿で取りあげたフレイレの理論や、斉藤、岸本の教育実践から得た知見を今後の英語教育のありかたを考えていく上で重要な視点の一つとなることを願う。
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