先日、浦河べてるの家の当事者研究と作業の様子を見学させていただきました。忙しい中、私たち訪問者を歓待してくださったべてるの家の皆さまには、改めて厚く御礼申し上げます。
やはり実際に見学・観察させていただくといろいろなことが学べました。以後、少しずつその学びをこのブログでも共有していこうと思いますが、本日は取り急ぎ、当事者研究についてまとめます。(と言っても、訪問から一ヶ月半も後にこの記事を掲載しています。この夏は本当に忙しかった)。
当事者研究についてまとめるといっても、現在の私は、当事者研究を、教育実習生や新人教員などの(英語)教育で弱い立場に置かれがちな人々を「当事者」として捉え直して研究の主体になっていただくことを関心としておりますので、以下のまとめは、私がべてるの家で学んだことを、その関心から編集しなおして加筆したものです(私は、今後、研究会や学会で英語教師が当事者研究ができるような文化の育成を目指しています)。特に今回は、当事者研究の理念(基本的な考え方)についてまとめますが、これらは、べてるの家から『苦労を希望に変える当事者研究 --理念編--』(監修 べてるしあわせ研究所、発行2012年)にまとめられている15の理念を、私なりに(つまりは、英語教師用に)書き換えたものです。べてるの家で採用されている理念の正確な表現を知りたい方は、『苦労を希望に変える当事者研究 --理念編--』を販売しているカフェぶらぶら(http://cafeburabura.info/otoiawase.html)などにお問い合わせください。
15の理念の表現の一部を私なりに書き換えて(*印がついたA4とB1とC2)、なおかつ、それらの順番なども私なりに組み替えて整理したのが、下の図になります。ここでは、現実世界で問題を抱える人間が当事者としての初心をもって研究を進めることを決意し(A)、その当事者を当事者研究をする仲間としての流儀を共有している共同体(B)が受け入れ、研究という視点から現実問題について発想し(C)、当事者研究を行ってゆく(D)という流れで、当事者研究の理念を整理しています。
それでは、それぞれの項目について解説を加えます。繰り返しますが、この解説は、英語教師(の卵)が当事者研究を実践するために私がまとめなおして加筆したものですから、べてるの家で行われている当事者研究の忠実なまとめではありません。下の理念に見るべきものがあれば、それはすべてべてるの家の功績ですし、もしおかしなことがあればそれはすべて私の責任です。この点を十分にご理解いただいた上でどうぞお読み進めください。
A 当事者の初心
英語科の教育実習生や新人教師は、いろいろな点で弱い立場に追い込まれています(もしくは、弱い立場にいると思い込まされています)。まず教育内容の英語ですが、たいていの人にとってそれは不如意な外国語であり、知識にしても技能にしてもいつまでたってもなかなか自信がもてません。教育実習生でしたら、複数の教員から異なる指示や価値観を示され、どれにしたがってゆけばいいのかわからなくなることもあります。新人教師でしたら、赴任校の思考・行動様式に慣れず、その地域の児童・生徒の実態もうまく把握できないまま、結果を求められ保護者対応をしなくてはならなかったりします。自分の理想を貫こうとして失敗することもあるでしょうし、逆に過剰に適応をはかるあまり、それまで学んだことを全否定してしまい、自分らしさまで失ってしまうこともあります。うまくいかないことが続くと、自分を責めたりもしてしまいます。「自分はダメだ」と思い込んでしまうと、周囲からのサポートもうまく受け入れられなくなることもあります。長年の夢であったはずの英語教師の仕事について「英語教師は楽しい」と思えずに、自分は苦労ばかりしていると悲観することも珍しくありません。
当事者研究では、そういった「苦労」を「研究」という視点から捉え直し、事態の改善を目指します。当事者研究は、まず自分が苦労を担っていながらも、それを研究によって打開しようとする主体的な「当事者」としての初心をもつことからはじまります。この「当事者の初心」には、「弱さの情報公開」、「 自分自身で、共に」、「 自分の苦労をみんなの苦労に」、「 ユーモアで笑う力」の四項目があります。
A1 「弱さの情報公開」
教師という職業は、教師としての「正しさ」や「強さ」を周りから求められがちですから、自分の間違いや弱さを認めにくい立場にあります。自らの間違いや弱さを認めた瞬間に、児童・生徒・保護者・管理者からの信頼を失ってしまうと恐れてしまいがちです(もちろんこの恐れにはある程度の妥当性がありますが)。
ですから一部の教師は、自分の間違いや弱さを見ないようにして、感受性を鈍麻させ「問題なんかない。学校や授業なんてだいたいこんなもんだ」と一種の居直りをしてしまうこともあります。あるいは自分の間違いや弱さを、さらに弱い立場の児童・生徒に転嫁して --学級崩壊でも起きない限り、通常は教師の方が児童・生徒より強い立場にあります-- 「この学校・この子どもたちがダメなのだ」と教育の可能性を否定することもあります(もちろんそうでも思っていないと自分が潰れてしまうと思うこともありますが)。
一方、学会や雑誌などでは華々しい成功例ばかりが語られがちです。教師のための研究会・研修会でも、「どうやって成功したか」という筋書きで発表することが求められたりします。ですから、何らかの事情で自分の実践報告をしなければならなくなった新人教師は、自分が抱える問題や自分が感じている自分の弱さを隠して、見栄えのよい側面だけを、大学で覚えた(あるいは泥縄式で学んだ)流儀で数量データにして発表を無難にすませます(そして発表後に徒労感を覚えます)。
当事者の初心の第一は、自分の弱さ(苦労や問題や失敗など)を情報公開しようとすることです(もちろんこれには、それを受け入れてくれる仲間の存在が前提となりますが、それは後で述べます)。べてるの家では、弱さには、人と人をつなげ、謙虚にさせ、その場に助け合いと知恵を生み出す力があると考えています(『苦労を希望に変える当事者研究 --理念編--』3ページ)。日常生活を振り返ってみても、人々がお互いの弱さを認め合い語り始めた時に、その場に何かしらの力が生まれてくる経験をしたことがある人も多いでしょう。
当事者研究は、まず自分の弱さを仲間と共有しようとすることから始まります。もちろんこの弱さの情報公開は、少しずつ行われるものです。無理して情報公開する必要はありません。また情報公開の際も、関係するすべての人の個人情報の扱いにも注意が必要です。しかし、まず自分には弱さがあり、それがゆえに苦労もしているという、考えてみれば人間として当たり前のことを認めて、それに関する情報を、事態改善のために公開しようと初心をもつことが、当事者の初心の第一です。
A2 「自分自身で、共に」
べてるの家の当事者研究では、非常に深い知恵が短いことばで語られることが時にありますが、私はこの理念はその一つだと思います。私の以下の説明が、この理念を十分に解説しているかどうかわかりませんが、私なりに説明してみます。
当事者とは、誰か偉い人からの診断や処方箋を待つばかりの受け身の存在ではありません。自らの問題は、自分なりに対処しようとする能動的で主体的な存在です。また、当事者は、自分の苦労を誰かに転嫁して、その人を悪者や弱者に仕立てあげるような無責任な人でもありません。自分の苦労は自分自身で引き受けた上で事態の改善を図る人です。また、当事者は孤立する人でもありません。自分の問題は多方面の諸問題につながり、一人の人間としての自分の苦労は、他の人にも共通(あるいは相似)した形で経験されているかもしれないと考えます。だから自分の知恵が他人の知恵となることもありますし、他人からの知恵が自分の知恵となることもあります。自分自身の問題を、自分自身の力だけでなく仲間の力と共に、自分自身のためだけでなく仲間のためにも、なんとか解決・解消してゆこうとします。これが「自分自身で、共に」の意味合いかと私は理解しています。
英語教育の文脈で言いますと、英語教師はしばしば、権威筋の専門家の指導に無批判的に従うことが求められます。もちろん専門家の指導には妥当なものも少なくありませんから、無批判的に従うことが功を奏することもあります。しかし大所高所からの権威筋の指導が、自分の学校や自分という人間に合わないことも多々あります。ですから、当事者研究は専門家の意見を全面肯定しそれに隷属することもなく、かといってそれを頑なに全面否定して逆にそれにしばられてしまうこともなく、自分自身で、しかし(弱さの情報公開を通じて)その自分を理解してくれる仲間と共に事態の改善を図ります。自分自身の主体性を捨てずに共に行うことを初心とするのが当事者の初心の二つ目です。
A3 自分の苦労をみんなの苦労に
この理念はもちろん、自分の苦労を誰かに押し付けて自分だけ楽をしようということではありません。自分が今経験している苦労は、他の多くの人々にとっても経験されている(あるいは将来経験される)苦労とつながっていると考えることです。「研究」という開かれた営みとして、当事者研究は、とにかく自分一人でなんとか苦労がなくなればいいと発想するのではなく、苦労そして苦労を抱える自分を研究の対象として客観視し --客観性について語り始めると長くなるので、その話はここでは割愛します--、自分の経験を他人の経験につながるものとして、それを仲間と共に多面的に観察・分析・考察します。自分も同じような苦労を抱えている(あるいは抱えていた)仲間は熱心かつ誠実に協力してくれるでしょう。そこに絆も生まれます。これが「自分の苦労をみんなの苦労に」の意味合いです。
英語教育の世界でも、これまで私が「それぞれが自分の失敗を語って、お互いに失敗から学び合える研究発表会があればいいんですけどね」などと提案すると、「それなら私も発表します。苦労したことはたくさんあるし、若い人に同じ苦労をしてほしくないんです」という教員は多くいます。新人教員も、これまでのように(それが何を意味するものであれ)「厳密な」形式での成功例の報告を求めると研究発表に尻込みする人ばかりになるでしょうが、「自分の失敗を一緒に冷静に見つめなおして、そこから何が学べるか一緒に研究しようよ。みんな失敗から学んでいるのだから」と誘えば、「それなら」と前向きになってくれるのではないかと思います。「自分の苦労をみんなの苦労に」して、やがては「他の人の苦労も自分の苦労として考える」共同体の一員になろうとすることが当事者の初心の三番目です。
A4 「ユーモアで笑う力」
ユーモアとは、他人を蔑視して冷たく笑うことではなく、苦しい状況にいる自分を「にもかかわらず」温かく笑うことです。べてるの家には「ユーモアとは究極の生きる勇気」ということばがあります(上掲書7ページ)。当事者の初心の最後は、ユーモアで笑うことにより、逆境の中で生きる力を得ようとすることです。
従来、弱者とされる人は、専門家や権威者に「お前は○○だ」と診断・評価され、その診断名・評価名を引き受けるしかないことがほとんどでした。しかし、べてるの家ですばらしいのは、そういった診断・評価を無視しないものの、自分なりに自分の状況をユーモアと共に命名する文化をもっていることです(これは言語行為論の観点から考えると、とても深い文化だと思いますが、それはまた後日の話とさせてください)。
私なりに、私の状況を命名しますなら、私は「そううつ性抱え込み型突然電池切れダウン病」と共に生きています(笑)。「一気に仕事をこなしたり疲れて落ち込んでしまったりを繰り返しながらも、他人にうまく仕事を頼むことができずに無理を続け、いつか突然電池が切れたような状態になりダウンしてしまう」という状況を表現したものです。馬鹿なことを言っているなとお思いの方も多いかと思いますが、どうぞ皆さんもご自身の弱さをこのように病名で表現して、他人に自分は「○○病です」と言ってみてください(存外に勇気がいるものですよ)。でもその宣言の後押しをしてくれるのが、ユーモアです。ユーモアあふれる表現だからこそ、自分の弱点を人に対して口にすることができるのだと私は思います。仲間と共に、ユーモアをもって弱さを共有しようというのが当事者の初心の最後の項目です。
B 仲間の流儀
私が今回べてるの家を実際に見学して一番感じたのが仲間の存在の大切さでした。もちろん活字を通じても仲間の重要性について学んでいましたが --かつて私はそれを「第二者」(the second person)として概念化しようと思っていましたが、結局十分に考察できずに頓挫していました--、実際にべてるの家に足を踏み入れ、当事者研究や作業の現場を五感を通じて観察すると、仲間がいるからこそ当事者研究もできるのだという思いが強くなってきました。
西洋近代の考え方はだいたいにおいて「個人」を基盤にして物事を考えがちです。特に新自由主義が時代のイデオロギーとなって以来、問題は個々人が解決するものという思い込みが強くなってきました(発言の文脈はさておき、サッチャーの "There is no such thing as society"というのはすごい台詞でした (http://briandeer.com/social/thatcher-society.htm))。しかし、人間を他の動物と分けるもっとも重要な特徴は社会性です。問題解決においても研究においても、孤立した個人を単位として行うのではなく、仲間と共に行う文化を促進するべきではないでしょうか。べてるの家にはそのような仲間がいたことを私は今回の訪問で実感しました。
そのような仲間は一定の流儀を共有しています。その仲間の流儀を、ここでは「当事者の主観を受け入れる」、「 「人」と「こと」(問題)をわける」、「 初心対等」、「 前向きな無力」の四項目で説明してみます。
B1 当事者の主観を受け入れる*
教師の中には自己肯定感が少なく「とにかく私はダメなんです」と過剰に自分を責める人もいます。反対に、やたらと周りに責任転嫁して「あれが悪い、これが悪い」と不満を爆発させる人もいます。そんな時に私たちはしばしば「それは違うでしょう」と説得を試みますが、そのような試みは当人を頑なにするばかりでうまくいかないことが多いことは皆さんも経験上ご存知のことかと思います。
そもそも「それは違うでしょう」という反論もあなたの主観にすぎません。だとしたら、それが「正しい」か「間違っているか」はさておき、とりあえず当事者の主観を受け入れて、そもそも当事者にはどのような世界が見えているのかに耳を傾けて、なぜ・どのようにして当事者にはそのような世界が見えてくるのかを一緒に考えた方が生産的であるように思えます(現場教師の皆さんでしたら、生徒指導上、まずは当事者の言い分を聞くことが大切であることはわかっていただけるでしょう)。
こういった態度を理論的に考えるなら、対話に関するボームの考え方、「現実」に関するアレントの考え方、「二次観察」についてのルーマンの理論、あるいはオープンダイアローグの実践などと対比させながら考察を深めることが有益だと考えられます。そうやってこそ英語教育業界で薄っぺらな意味で流通している「コミュニケーション」ということばにも、本来そのことばが有する実質が与えられるのではないかと思いますが、それはまた別稿の仕事として、ここでは当事者研究の仲間の流儀の第一として、当事者の主観をまずは受け入れることをあげておきます。もちろん受け入れられて語り合っていくうちに、当事者のものの見方も変わってゆくことが多くありますが、それは後のこととして、まずは当事者をはなから否定せずにその人の見方を受け入れるわけです。
B2 「人」と「こと」(問題)をわける
このことは、「罪を憎んで人を憎まず」といった古くからの知恵でもあります。でもそれがなかなかできないからこそ、そしてそれができると事態はずいぶん改善されることからこそ、べてるの家でもこれを理念として掲げているのだろうと思います。何か問題が生じても、「問題を引き起こす○○さん」ではなく、「○○さんが抱えて困っている問題」に焦点を当てて、一緒にその問題について考えてゆくだけで、ある人の苦労をみんながもつかもしれない苦労として考える姿勢が得られるのではないでしょうか。
べてるの家では、人を評価せずにことがら(問題)に着目するのは、成功しても、失敗しても、人間の存在価値は変わらないからだとしていています(上掲書17ページ)。だから失敗が生じてもその「人」を責めずその「こと」に注目し、成功が生じてもその「人」ではなくその「こと」を褒めるとしています。これは学校教師としてもぜひ身につけるべき習慣かと思います。
学校教師には愚かなところがあり、テスト得点が低い子は「悪い子」で高い子は「よい子」という色眼鏡で物事を見ていることも少なくありません。テスト得点という「こと」とその得点を得た児童・生徒という「人」を混同しているわけです。また、私が敬愛しているある英語教師は、英語が不得意な生徒向けに販売されている高校の教科書を数多く読んだ上で「どうも英語教科書の多くは、英語力が低い生徒を精神的・人格的成熟も低いと思い込んでいるようだ」とも述べました。そのような「こと」と「人」の混同はいい結果をもたらしません。当事者研究の仲間の第二の流儀は、「こと」と「人」を峻別して、「こと」がどうであれ、「人」の存在そのものはそのまま受け入れることとなります。
B3 初心対等
これはべてるの家の造語かと思いますが、当事者研究では、たとえ経験豊かでたくさんの事例を知る専門家も権威筋として自分の解釈を押し付けるのではなく、全員が初心で対等な関係で協働的に研究を進めてゆくことの大切さを述べていることばであると私は理解しています。
たしかに問題には、ある程度の一般性というか共通性があり、経験豊かな人は問題の理解や改善に関して、そうでない人より知恵をもっています。しかしどんな問題も細部においては、その問題固有の事情を抱えており、その問題に苦しむ当事者のそれまでの人生も誰の人生とも同じものではないはずです。ですから、経験豊かな人も自分の判断をいきなり押し付けることなく、また経験の少ない仲間や当事者自身も臆することなく、対等な関係で語り合いを進めてゆくべきでしょう。私の尊敬する数々の実践者は皆一様にと言ってもいいぐらいに、他人の言うことに耳を傾ける習慣をもっています。話の途中で発言権を奪い「それはね、キミ」と自説を押し付けることもありません。
しかし英語教育の世界では多くの場合 --他の世界でも大同小異でしょうが--、専門家(研究者)や権威筋(教育行政官)がとにかく見解を押し付け「どうしてこれが理解できないかなぁ」、「やったら必ず成功するんですけど、よほどあなたのやり方が悪いのかなぁ」などと実践者を追い込むことが少なくありません(向こう気の強い実践者は「現実を知らない人間の戯言は面従腹背で聞き流せ」とばかりに受け流すことができますが、真面目で気の小さい実践者は「こんなに正しい方法について納得できない・うまく実践できない自分は本当にダメな人間だ」と自分を責めてしまいます。仮に専門家や権威筋の意見が概ね正しいにせよ、それを当事者が理解し実践するには当事者自身および当事者がおかれた状況への深い配慮が必要です。その配慮をもとにその当事者にかなった道を見出さなければ実践を改善することはできません(もちろん実践者を交換可能な部品と考えるなら、そんな面倒くさいことをせずとも部品交換すればいいだけとなるのでしょうが、少なくとも私は日本をそんな考えがはびこる社会にはしたくありません)。
私自身は、アレントの影響を受け、「異なるが対等」の関係が教育でも研究でも大切だと考えてきました(というよりこの考えが民主主義社会の根幹ですよね)。
当事者研究の仲間の第三の流儀である「初心対等」は、研究対象である人間とその社会的環境が複雑でさまざまな可能性に開かれた複合的 (complex) なものなのだから、経験豊かな者も乏しい者も共にみずみずしい初心でもって対等に語り合おうという考えとまとめられるかと思います。
B4 前向きな無力
これは「初心対等」と重なることの多い理念かと思いますが、これは多くの当事者の苦しみの中から生まれたAlcoholics Anonymousの「12のステップ」の謙虚な無力感に通じているようにも思えます(もっともべてるの家では「神」の概念がほとんど出ずに、笑いばかりが出ていますがw)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Twelve-step_program (英語)
http://aajapan.org/12steps/ (日本語)
私が好きなことばに「専門家とは、自分の知識と技能の限界を知る人」というものがあります。対象が複合的で、唯一の正解がなく誰も展開の完全な予測が立てられない場合には、専門家は自らの無力(あるいは知識と能力の限界)を謙虚に認めた上で、刻々と変わる複合的な状況に少しでも対応できるように、観察と試行の循環を繰り返すと私は考えています(複合的な現実問題を前に「○○さえやればうまくゆく!」と力説する人を私は信用していません)。
「誰も正解を知らないし、そもそも唯一の正解などない。だから知恵を出し合って、少しでも前に進もう」というのが、仲間の流儀の最後である「前向きな無力」の意味かと思います。前向きに自分たちの無力を認めるからこそ、それぞれの参加者は自分の思い込みから自由になり、すべての参加者の独自の貢献の可能性を活かせるのではないかとも思います。
C 研究の発想法
現実世界の問題で苦しんでいる人が当事者として研究する初心(A)を忘れず、その当事者が仲間としての流儀(B)を共有する共同体に迎え入れられ交流が始まり、両者の間に相互作用が生まれれば、当事者研究が始まります。その当事者研究は、従来のように、研究対象と研究主体が分離したものでもなく、研究主体が個人で行うものでもなく、原因と結果の因果関係を厳密に立証するというものでもありません。研究対象が研究主体でもあり、研究対象の主観世界を仲間と共に他人にも理解できる形で解明し、原因の厳密な特定よりも事態改善を優先する研究です --そもそも現実世界では、因果の鎖は相互に絡み合い、ある事柄は他の事柄の原因でもあり結果でもあります--。研究結果の「普遍性」や「再現性」や「定量性(数値化)」をいたずらに求めず、固有の事例が、ある歴史的・社会的文脈の中でどのように生じたかを、数値化しがたい側面も含めながら探究してゆく研究です。(このあたりについては、『当事者研究の研究』をお読みください)
しかしまあ、そういった認識論的考察は、従来の研究のあり方に固執する論客が来た時に改めて展開するとして、ここでは当事者研究をするにあたっての実践的な発想法について四点でまとめます。「見つめるから眺めるへ」、「癖は治すより活かす」、「経験は宝」、「自分を助ける仲間を助ける」の四つです。
C1 「見つめる」から「眺める」へ
私はこの身体的に表現された理念を最初に見た時に、「なるほど!」と膝を叩く思いでした。「見つめる」ということばで喚起されるイメージは、眉間にしわを寄せて、視野を狭くして対象だけを注視するものです。対象の細部に目が行けば行くほど、視野はますます狭くなり、その対象と周りの環境との関係がわからなくなってきます。それでいて、細部の中にはますます気になるものが見え始め、眉間のしわはもっと深くなります。
しかし「眺める」となると、ふっと身体の緊張がとけます。身体の緊張がとけると共に、心(発想)の頑なさもほぐれるようで、対象の周りの様子も目に入ってくるようですし、対象のこれまでとこれからという時間の流れについても思いが広がるようです。
絵画や写真や彫刻を見る時も、私たちは「見つめる」眼差しよりも「眺める」眼差しを大切にするかと思います。そういえば、宮本武蔵は『五輪書』の『水の巻』で「観の目強く、見の目弱く」と言っていました(「兵法の眼付と云事。目の付様ハ、大に廣く付る目なり。觀見二ツの事、觀の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也」)。五輪書研究会の訳では「兵法の眼付けという事。眼の付け方は、大きく広く付ける目である。「観」〔かん〕と「見」〔けん〕の二つの事(については)、「観」の目は強く、「見」の目は弱く、遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の専〔せん・第一とすべきこと〕である」となっています(http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g202.html)。私は単なる武術オタクで、武術の身体的理解も、古語の学術的理解もきわめて乏しいのでこれ以上の言及は避けるべきですが、ひょっとしたらべてるのこの理念も宮本武蔵が体得した知恵と通じているのかもしれません。
ともあれ、当事者研究の発想法としては、「見つめる」よりも「眺める」を優先し、緊張から解放された心身で、細部に拘泥せず事態の全体像を見失わないようにするべきだとなりましょうか(もちろん後日改めて、細部を見つめることも必要になってくるかもしれませんが)。近代科学が、細分化を原則としているだけに、この「見つめる」から「眺める」へという理念は、当事者研究の発想法の第一として忘れずにおいた方がいいのかもしれません。
英語教育にしても、例えば英語を読むのがどうも苦手という子がいた場合、心理言語学的アプローチなら「読むのが苦手」というのは、談話レベル・統語レベル・語彙レベルのどこでのことか、語彙レベルならそれは視覚的認識や聴覚的認識のどれに問題があるのか、聴覚的認識ならそれは音素認識そのものかそれとも意味想起が弱いのか、意味想起なら明示的意味想起だけが弱いのかそれとも暗示的意味想起も含めて弱いのか、そもそもそれは脳のどこの部位で生じているのか、そこではどんな物質の分泌が特徴的なのか、などなどと細分化が進んでゆきます(そしてその細分化の流れに乗っていれば、学会で受け入れられやすい論文を書く材料に困ることはありません)。
もちろんこのような細分化というか分析的アプローチには長所もたくさんあります。しかし物事には程度というものがあります。私は20代の頃は上のような心理言語学的アプローチに(ちょっとだけ)従事していましたが、このアプローチで突き進んでゆくなら現場からどんどん離れてしまうと危惧し、現実という複合性の高い対象について研究する限りは、物事の大局というか全体像を重んずる哲学的なアプローチを選択しました。この選択は間違っていなかったと今でも思っています。
と、私の話になってしまいましたので、話を戻しますと、当事者研究では「見つめる」ことよりも「眺める」ことを優先させています。「いや、近代科学では細分化こそが・・・」と眉間にしわをよせるよりは、ここはべてるの家での経験に敬意を払い、「見つめる」ことから「眺める」ことへと、私たちの心身のあり方を変えてみるべきでしょう。
C2 癖は治すより活かす*
近代的な発想では、個人の癖(著しい特徴)は矯正されるべき問題とみなされがちです。しかしもし個人の癖には、それが生じるなりのそれなりの事情があるとしたら、その癖を無理やり矯正したとしても、その根幹にあった事情が消えるわけでもなく、その事情はまた別の癖を生み出すだけなのかもしれません。
ここでも「見つめる」よりも「眺める」で、その個人全体およびその個人を取り巻く環境の全体を視野に入れることが有効なのかもしれませんが、発想法の第二は、癖を治すことに拘るよりも、それを活かすことができないか考えてみることです。
この発想法で私が思い出すのは、「最後の宮大工」と称された西岡常一氏です。
西岡氏は、宮大工の口伝として伝えられてきた「堂塔の木組みは寸法で組まず樹の癖で組め」(西岡常一・小川三夫・塩野米松 (1993) 『木のいのち木のこころ <天・地・人>』p.136)という建築の知恵を、棟梁として多くの大工を統率する人事の知恵にも活かします。(ちなみに、この本はまったくもってすばらしい本です。下手な学者の本など読まずに、この本を読んで心に残ったことばを忘れずに現場の経験から考えてゆくほうが、よほど教師としての力量があがると私は思っています)。
建築の知恵とは、木は育った場所の日当たりや風向きなどによってどうしても捻れなどの癖がでるが、それを無視して寸法だけ合わせた建物を建てても長持ちはしないので、例えば左に捻れを戻そうとする木と右に捻れを戻そうとする木を組み合わせて部材同士の力で癖を封じて建物全体のゆがみを防ぐ、というものです。西岡氏は次のようにも言っています。
「近ごろの大工は寸法はやかましくいいますが、木の癖は問題にしていまへんな。寸法どおりに組み上げるのは誰でもできまっせ。そのときの寸法だけでは建物が長くは持たないことは長いこと大工をやっていたらわかるはずですが、いつまでもそのままですな。」(上掲書、p.137)この建築の知恵は、人事の知恵とつながると西岡氏は考えています。さまざまな大工をまとめる棟梁としての経験を振り返り西岡氏はこう言います。
「[大工の中には]性根の曲がったのもおりますわ。それでも辞めさせたりはしませんな。また学校の先生のように、性根が曲がっているから直してやろうということもありませんな。その人はそれでもちゃんとした職人ですし、性根というのは直せるもんやないんですわ。やっぱり包容して、その人なりの場所に入れて働いてもらうんですな。曲がったものは曲がったなりに、曲がったところに合う所にはめ込んでやらな、いかんですな。人とうまくやっていけなくても使い道はあるんです。だからといって甘やかしているんや、おませんで。厳しいところは厳しくせんとな。」(上掲書、p.101)
気に入らんから使わん、というわけにはいかんのです。自分の気に入るものだけで造るんでは、木の癖を見抜いてその癖を生かせという口伝に反しますやろ。癖はいかんのだというのは間違っていますのや。癖は使いにくいけど、生かせばすぐれたものになるんですな。それを辞めさせ、あるいは取り除いていたら、いいもんはできんのです。」(上掲書、p.103)
これももちろん程度問題でしょうが、「癖は取り除かねばならない」、「性根は直さねばならない」としか考えないよりも、「癖は活かすもの」、「性根は直せるものではない」と考えた方が生産的なことはたくさんあるでしょう。教員集団を考えても、自分自身を含めた教員は一癖も二癖もある人ばかりでしょう(苦笑)。性根はなかなか直らないことは私たちも熟知しているはずです。
若い児童や生徒はもちろん可塑性がありますし、そもそも教師は児童や生徒によい変化をもたらすことが使命ですから、大人相手ほどの変化に対する悲観も必要ないでしょう。しかし、根本的な気質や才能や興味というものはやはりあるものです(言い方を変えれば、それは「個性」です)。問題視されがちな「癖」を「個性」と考え、それを活かすことを当事者研究でも発想すべきでしょう。
その際に重要なのが、人間の単位をどう考えるかということです。人間の単位とは聞き慣れない表現かもしれませんが、人間について考える際に、人間を個人的存在として考えるか、社会的存在として考えるかということです。人間を社会的存在、つまりは複数の人々との協働の中で生きざるを得ない存在として捉えるならば、「癖を活かす」ことも、他の人の癖とのうまい組み合わせで考えることができますから、それほど難しくはないと思います。ですが、人間を個人的存在、つまり基本的に他人との協働抜きに一人だけで独立して生きる存在として考えるなら、「癖を活かす」という発想にはなりにくいでしょう。複数の人間の中で長所や短所を補い合うという発想ではなく、人間をあたかも完全に交換可能な大量生産部品のように考えてしまいがちだからです。
ですが、昨今は教育 --人を育てること-- をますます標準的な「人材」を生産するように考える傾向が強まっています(標準化された「客観的」な評価を学校生活の至るところにはりめぐらせていることがその傾向を助長しています)。そんな中では特に、古来の知恵につながる「癖は治すより活かす」という当事者研究の第二の発想法は貴重だと私は考えます(実践することは、それほど容易なことではありませんが)。
C3 経験は宝
宝なのは成功経験だけでなく、失敗経験も宝です。これはシリコンバレーでも言われていることだとどこかで聞いたことがありますが、失敗経験は、その失敗を自分自身に帰するのではなくその出来事に帰して(B2 「人」と「こと」(問題)をわける)冷静に反省するなら、それは自分だけでなく他人も益する知恵となります。もちろん失敗すると人間は落ち込んでしまいますから、そこを、「A1 弱さの情報公開」、「A2 自分自身で、共に」、「A3 自分の苦労をみんなの苦労に」、「A4 ユーモアで笑う力」という当事者としての初心を忘れずにいることで、落ち込むことをできるだけ避けます。そうやって自分の失敗経験を「B 仲間の流儀」を備えた人たちに受け入れてもらいつつ語ることによって、失敗経験を振り返ると、それは皆んなにとっての宝となります。
英語教育でも教育実習生や新人は失敗する(うまくいかない)ことが日常的なわけですから、その日常的な出来事を恥ずかしいこと・隠すべきこと・忘れるべきことと考えてしまうのではなくて、むしろ「宝」と考えることによって現実的に前向きな態度が取れるのではないでしょうか。
むしろ怖いのは成功体験かもしれません。「失意泰然、得意淡然」とも言われますが、得意に思っている時は人間は傲慢になりがちで、成功を当たり前と思い、分析心や観察力を失いがちです。英語教師の世界でも、ある学校で長年うまくいっていた人ほど、新任校で困惑してしまうことはよく聞く話です。もちろん成功経験に際しても淡然としてその過程を分析すれば、それは宝になります。
成功しても失敗しても経験はすべて宝、あるいはもっと正確に言うなら宝になりうると思うことは、毎日の実践を続ける力を与えてくれる考え方ではないでしょうか。
C4 自分を助ける仲間を助ける
苦しい状況では「自分を助ける」ことが必要です。時にそれは「自分を甘やかす」ことであり「自分をごまかす」ことかもしれません。でもそうでもしないと、自分がつぶれてしまうことはあります。だから「自分を助ける」ことを否定してはいけません。
しかし「自分を助ける」ことがあまりにも周りの仲間を困らせることにつながってしまっても困ります。周りの困惑や迷惑は、やがては自分にも返ってきて、短期的に「自分を助ける」ことが長期的に自分を窮地に陥らせることにつながりかねません。
だから「自分を助ける」にせよ、できるだけそれが「仲間を助ける」ようなやり方になるよう知恵をしぼるべきでしょう。知恵をしぼるといっても、もちろん当事者が一人でやるのではありません。どうやったら仲間が助かるのか・困らないのか、というのは案外当事者にとって盲点になっていることが多いかと思います。当事者が想像していたのとは異なる認識を周りはしていて、「えっ、こうすればいいの」、「それだけでよかったの」と当事者が驚くことは珍しくありません。ここでも語り合いが重要です。「当事者の初心」と「仲間の流儀」で率直に、肩をこわばらせて事態を「見つめる」のではなくゆったりと「眺めて」(C1)、自分の癖は必ずしも根治させる必要はなくむしろ活かす方法はないかと発想を転換し(C2)、「経験は宝」(C3)として知恵をめぐらせれば、きっと「自分を助ける」ことと「仲間を助ける」ことがつながってくると思います。
「そううつ性抱え込み型突然電池切れダウン病」の私は(笑)、「自分を助ける」ことが下手でダウンし、結果的に周りの仲間に迷惑をかけてしまうことが多々ありますが、これもよくありません。自分を助けることと他人を助けることが同時に成立するような文化づくりが必要でしょう。
英語教師を始めとした職業生活でも、自分を助けず頑張り続けた結果破綻して周りに迷惑をかけてしまう新人は多くいます。そういった時に周りは「どうして早く言ってくれなかったんだ」と責めたりしますが、ひょっとしたら周りは「自分のことは自分でしろ」といった助け合いを拒むような雰囲気を出していたのかもしれません。「自他両全」とは二宮尊徳のことばだそうですが、「自分を助けることが仲間を助ける」ことになり、「仲間を助けることが自分を助ける」ことになるように発送していこうというのがこの理念かと思います。
D 研究の実践法
このように「当事者の初心」(A)をもって、「仲間の流儀」(B)をわきまえた人々と語り合い、当事者研究の発想法(C)でもって語り合い・考え合うのが当事者研究ですが、この項目ではさらにその当事者研究を発展させるための三つの実践法、「D1 研究は頭でしない。身体でする」、「D2 ことばを変え、振る舞いを変える」、「D3 いつでも・どこでも・いつまでも」について簡単に説明します。
D1 研究は頭でしない。身体でする
この表現も私は最初に接した時、「あっ」というぐらい得心しましたが、このような表現は、わからない人には徹底的にわからないでしょう(笑)。それでも私なりに説明を試みますなら、要は「頭で考えず、身体で考える」ということかと思います。この場合の「頭」とはもちろん換喩(比喩の一種)で、私は日頃は「あたま」と表記していますが(柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』岩波書店)、「あたまで考える」という表現の意味するところは、今・ここの自分が身体で感じていることから超越的に離れて、抽象的な考えを巡らせる、ということです。もちろん、今・ここから離れることは研究にとって不可欠なことなのですが、他ならぬ自分が問題の渦中にある当事者研究の場合は、「あたま」で考えようとしてもなかなかうまくいかず、せいぜい、世間でよく言われていることを実感を込めずに口にするぐらいに終わりがちです。
当事者研究の場合は、ことさらに身体(「からだ」)で考えることが重要だと思います。「からだ」で考えるとは、明確な言語表現や想いになる以前の身体的な違和感や直感を大切にして、通俗的なことばでそれらを代弁しようとせずに、そういった身体実感にできるだけ忠実なことばが出てくることを待つこと、と表現できるかと思います。
「あたま」でしか考えない人は、新しいことを言っているようで、実際は、言い古されたことを旧態依然の図式でぐだぐだと述べているだけのことが多いように私は観察しています(そういった人は、言説の内容や表現だけでなく、その人自身のこわばった表情や身体作法から判別できるように私は思っています)。
それに対して「からだ」で考える人は(あるいは「からだ」でも考えることができる人は)、通説とは異なるものの、とても本質的なことをあっさりと言ったりします(それも涼し気な顔で)。ひょっとしたら研究一般への警句としても有効なのかもしれませんが、少なくとも当事者研究では「研究は頭でしない。身体でする」ことを大切にするべきでしょう。
D2 ことばを変え、振る舞いを変える
私たちはともすると、「自分」というものは、自分のことばや振る舞いとは独立して存在しており、その「自分」がことばや振る舞いを選んでいるだけだと思いがちです。しかし、「泣くから悲しい」ではありませんが、実際には、自分が使うことばによって、そして自分が行う振る舞いによって自分というものは作られるものです。ですからもし「自分はどうしようもなく変わらない」と思い込んでいるなら、その思い込みはとりあえずそのままにしておいてもいいですから、まずは自分のことばを変え、振る舞いを変えるべきでしょう。もちろん、その新しいことばや振る舞いに、強烈な違和感(「からだ」からの拒絶)があれば話は別ですが、新たなことばや振る舞いをしているうちに、存外と私たちは新しい自分を発見しているものかと思います。
しかし私たちは自分のことば遣いや振る舞い方からなかなか抜けられない存在でもあります。そこで助けになるのが仲間という他人です。仲間は他人ですから、自分とは異なったことばや振る舞いを知っていることも多いでしょう。共感的で相互扶助的な関係性の中で、様々な人々の声や行動に接しているうちに、新しいことば遣いや振る舞い方も自然に体得されるかもしれません(ここでもまさに、研究は「自分自身で、共に」(A2) にするものと思えてきます。
また生意気なことを言いますが、私が近年の英語教育の集まりで辟易するのは、流行している研究用語や行政用語が紋切り型で使われ、身体実感がない同じことばが延々と繰り返されることです。また、研究発表でも、本当に面白そうに語る研究者は正直少なく、なんだか「私は有名な文献を引用し、推奨されている研究方法を採択していますから、批判しないでください」と言わんばかりの防御的な態度を身体作法で表しながら、研究の喜びがまったく伝わらないものも珍しくありません。
「ことばを変え、振る舞いを変える」といっても闇雲に変えろというわけではありません。その場その場、その時その時の自分と周りにとっての自然を発見できるように、ことばを変え、振る舞いを変えることだと私は理解しています。
もし自分ですら自分の表現や行動にお決まり感を覚えてきたら、それは他人から見ると相当に固陋になっている状態なのかもしれません。そうならないように、仲間と語り合い、そして時に仲間を超えて、ことばと振る舞いの芸術作品にも接するべきでしょう(芸術こそは、人間の自然さを求めた、因襲的慣習とは無縁の営みですから)。
D3 いつでも・どこでも・いつまでも
私は英語教師の当事者研究は、職員室でも、学校の廊下でも、学校行事の空き時間でも行えるのが理想だと思っています。私は『マスター・キートン』という漫画が大好きでしたが、そこで主人公の父親である飄々とした平賀太平(実はすごい動物学者)は、大学で職を得ることに再度失敗した考古学を志す平賀=キートン・太一(主人公)に、「落ち込むな。学問など、どこでもできる。便所でもできる」と言いましたが(記憶で書いているので、台詞の細部は違うかもしれません)、私はこの台詞を最初に読んだ時結構感動しました(笑)。
当事者研究は仲間と共にやった方がいい研究ですが、その初期段階は一人でもできます。また、仲間とやるにしても、落ち着いた場所でホワイトボードなどを使いながらやった方がいいわけですが、究極のところ、「いつでも・どこでも」できます。そして少しずつ自分に力が湧いてくるのを感じますから、「いつまでも」やれます。
英語教育の世界にしても、選ばれた少数の研究者だけが、なんだかものすごく知的に武装した研究をやって、実践者はその研究結果をうやうやしく受け取り、その研究結果が指示する通りに実践を行うというのは、研究対象の複合性を考えると明らかにおかしいし現実的ではないように思います(しかし、ひょっとしたら研究はその方向に進もうとしているのではないかと心配もしています)。
私はそれよりも、研究を、当事者研究という形で(あるいはそれに類した形で)実践者に開放し、それぞれの実践者 (狭義の当事者)が、それぞれに異なる状況で、さまざまな同僚や関係者(広義の当事者)と共に探究的な実践を行うことが --私はここでExploratory Practiceを念頭においた表現を使っています-- 有効だし、現実的だし、はるかに健全だと思います(というか、そもそも人類全体が大切にしている民主主義にかなっていますよね)。
ちなみに「当事者研究」とは英訳しにくい表現ですが、私はあっさりと "Empowerment Study" と意訳してしまうのも一つの手かと思っています。この "empowerment" という英語は、逆に日本語にしにくい表現で、「権限委譲」「権限付与」と訳してもぴったりこないし、かといって「エンパワメント」と単にカタカナ化するのも偉大なる明治の翻訳の先達に申し訳ないのですが、要は「弱体化されてしまった人々が、本来その人々が有している力・権力を発揮できるように仕向けること」という意味だと私は理解しています。当事者研究を "Toujisha Study" と表現するのも一つの手ですが、私は "Empowerment Study" という表現はそれなりに「当事者研究」の本質を表現したわかりやすい意訳かなとも思っています。ちなみに、「当事者」を訳するなら、私は "Challenged Person" でいいのではないかと思っています。(乞うご批判)
と、ここまで書いていてネットでチェックしていたら当事者研究を“TOJISHA-KENKYU(SELF-HELP-STUDIES)” としているサイトを見つけました(https://www.msi.co.jp/tmstudio/ito_thesis/18.pdf)。なるほど。これからも、英語表現についても考えつづけたいと思います。
以上が当事者研究の理念に関する私なりのまとめです。べてるの家で生まれた当事者研究がいろいろな場面で発展・進化してゆけば面白いのではないかと思います。
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