今回の全国英語教育学会では、企画に面白いものがありました。以下、私個人にとっての三つの収穫についてまとめます。ただ、以下の記述は私のメモと記憶に基づくものですから、誤りがあるかもしれないことを予めご了承ください(誤りが判明すればすぐに修正します)。
(1) 福田恵先生(徳島県美馬市立江原中学校)と加藤京子(東洋大学姫路中学高等学校)の発表
これは「4技能育成の基礎としての効果的な語彙指導を考える」(中部地区英語教育学会:授業研究フォーラム)での発表で、まずはこの企画・人選をした白畑知彦先生を讃えるべきでしょうし、また大学での実践を報告した小島ますみ先生(岐阜市立女子短期大学)についても言及すべきかと思います。しかし、私としてはいわば「現場叩き上げ」の福田先生と加藤先生のお話がもう圧倒的に面白かったので、以下はお二人の発表について短くまとめます。
とても単純にまとめてしまうとお二人に共通していたのは、語彙学習を機械的な丸暗記にせず、学習者の「意欲」を徹底的に大切にするということでした。最近では、意欲とは「客観テストで自分の得点がわかれば湧いてくるもの」といった、おそらくは元受験エリートが考えたようなきわめて粗雑な考え方が横行していますが、お二人の先生の意欲観はもちろんそういった机上の計算的なものではなく、長い教師生活の中で体得した実感的なものです。語について生徒の想像力を喚起しその語を使用させその言語使用が仲間に受け入れられる、すなわちコミュニケーションとして成立する経験を積ませることによって、その語が生徒の自分づくり・クラスの歴史づくりにつながり、(さらなる)意欲が湧くというのが簡単なまとめです。
福田先生はそうやって個々の生徒とクラスが共に育つことを「集団の力」と呼んでいました。「集団の自尊感情」が育まれたクラスは、一人二人がだらけたとしても、自尊他尊あるいは相互尊重・相互敬愛の共同体となっているクラスが、その数名をお互いが本当はやりたいと思っている行為へと引き戻してくれます。まさに学級づくりです。
また、この言語使用によって意欲を高める試みの中で、お二人とも、生徒が学習する語をそれが属する背景 (context)、話の流れ (discourse)、語り合う仲間 (community) を実感させながら導入し使用させていました。そうだからこそ、その語が生徒個人や学級全体の自己意識や歴史の一部になるのだと思わされます。
言語使用に関しては、お二人とも「語の品詞がわからなければ、話したり書いたりすることができない」ことを強調しました。文法の明示的な教示については、ここ数十年にわたって控えるべしといった風潮がありますが、品詞の理解は重要というのは、つい最近もある熟達の児童英語教師から聞いたばかりでしたから、なるほどと思わされました。
加藤先生の話で面白かったのは、様々な代名詞の格変化や動詞の規則変化・不規則変化が一気に導入される中二の時期を中心として、そういった変化を一覧にした語彙リストをつけた定期テストを実施したことです。「使わせることで覚えさせる」というのが加藤先生の実践的信念ですが、これを「カンニング」と短絡的に誤解された加藤先生は校長室に呼ばれたそうです。しかし、未だにドイツ語学習で苦しみ続けている私としたら、こういった語彙リストのあるテストを受けたいです。そうやって自分で確認しながら、意味ある文をつくることが外国語の体得につながるだろうという予感を私などは強く感じます。それにしても、こういった一見常識はずれの発想ができるのが、現場の重みを知った実践者の素晴らしいところです( わざと直接話を聞いた人にしかわからない書き方をしますと、"It's diyutehow!"という生徒の英語をどう扱うかという判断とその後の配慮も素晴らしい!)。
お二人とも「単語テストよりも、英語使用の場を!」とおっしゃっていました(加藤先生の「生徒が語の海の中を泳いでゆく」という表現もすごいなと感嘆しました)。しかし多くの先生方(特に高校の先生)は単語テストが大好きです。英単語を出されたら、それに対応するとされる日本語の訳語を書き出すことが、語彙習得の証明となると考えているかのようです。私は大学で、「そういった丸暗記ではその語が使えるようにはならない」と口を酸っぱくして言いますが、ある大学院生は「正直言うと、先生のそういった助言の意味がわかりはじめたのは大学院に入ってからです。学部生の頃はわかったふりをしてうなずいていましたが、身体では納得できていませんでした」と言ったぐらいで、なかなか単語テスト的な英語学習の習慣が抜けません。
歯に衣着せぬ言い方をすると、単語テストを多用する先生は、「自分が英語をあまり体得していない」および・もしくは「生徒の学習よりも生徒の管理・評価を重視している」と私は思っています。そういったことも述べつつ、私はフォーラムの質疑応答の時間に「どうして、多くの先生方は、お二人が批判的な単語テストをあれほどにやるのだろうか?」と尋ねました。
加藤先生は、「そういった先生方は単語テスト以外の指導法、英語力の底上げ法を知らないのだと思う。そもそもまともな音読[=構音が正確といった次元ではなく、音調や声質が自然であるといった次元の音読]ができない先生方も珍しくない」と発言されていました。
福田先生は、「自分は単語テストをまったくやらないわけではなく、生徒にとっての学習の反省の機会としての単語テストは行う」と前置きした上で、「しかし意欲あってのテストであって、意欲のないところに学びはない」と、学びの全人的性質について再び強調されていました。
正直言うと、私は理屈で固めた実験論文よりも、こういった長年の実践経験に裏づけられた実践者の語りを聞くほうがはるかに面白いです。私の重要な仕事の一つはこういった現場の知恵を少しでも言語化して、私たちの共有財産にすることですので、このお二人の先生には今後一層注目しようと思っています。
(2) 高木亜希子先生(青山学院大学)のワークショップ(質的研究入門)
これは長年にわたって海外でも研究を続けてこられた高木先生の知識・知恵が一気に伝えられたようなすばらしいワークショップでした。基本的な内容は、『はじめての英語教育研究』--具体的でわかりやすい良書です!--の第5章にも書かれていますが、ワークショップではその本の執筆の際には「入門書ですから」と編集部に控えるように促された認識論的な話も多くされたので非常に有益でした。
考えてみれば上記の福田先生と加藤先生の実践も、その最大の特徴は語彙学習に関する認識論の違いと言えるかもしれません(もっともお二人は認識論といった用語は使っていませんでしたが)。「何を、なぜ、正しいとみなすのか」という認識論的考察は、実はとても根源的で、それだけに実践上でも大きな違いを生み出すものです。しかし現在の英語教育界ではまだ「認識論」という用語が自然に使われていません(ひょっとしたら市民権さえまだ十分に得られていないのかもしれません)。
しかしこの高木先生のワークショップを聞いた人は認識論の重要性を実感したのではないでしょうか(あくまで推測です)。
実は、今回の学会でも複数の人から、質的研究に対して理解のない査読者からの的外れで否定的な裁断に苦しんでいる話を聞きました。今回のワークショップや上記の本などで、そういった無理解(不勉強)が英語教育界から(もういいかげんに)一掃されることを願います。
また、質的研究に関しては、「英語教育における質的研究コンソーシアム」が着々と実績を積んでいます。地方の(体力がなくなりかけた)人間としてなかなか参加できないのが残念ですが、多くの方々が参加されれば日本の英語教育界での質的研究もその「質」を向上させることができるのではないかと思います。
英語教育における質的研究コンソーシアム
(3) 佐藤臨太郎先生(奈良教育大学)と松村昌紀先生(名城大学)の対話と亘理陽一先生(静岡大学)の司会
学会の最後は、「日本の英語教育の将来:効果的な授業の組み立て方について考える」と銘打たれたシンポジウムでした。昔のこの学会での最終シンポジウムは、なんだかもう・・・・(表現自粛)で、私はいたたまれない気持ちになることも多かったのですが、今回は本当にそういった雰囲気とは無縁の、風通しのよい知的な会話を楽しむことができました。
シンポジウムスライド
シンポジウムのタイトルは総花的なものでしたが、実質は(改訂型)PPPアプローチ(Presentation-Practice-Production) の推奨者である佐藤先生と、TBLTアプローチ(Task-Based Language Teaching) の推奨者である松村先生の間に対話が可能かということを、亘理先生が試してみるといったものでした。
ここで私見を先に述べておきますと、この対話も、認識論の違いをどれだけ理解できるかにかかっています。実際の実践となりますと、さまざまな折衷的な工夫が導入されますので両者のアプローチはかなり似通ってきますが、両者の間には根源的な認識論的な違いがあります。単刀直入に言いますと、TBLTを毛嫌いする人には、TBLTが前提としている認識論を理解できない人が多いので、私は今回の対話は、松村先生がどれだけその認識論的な違いを具体的に語れるかにかかっていると思っていました。
松村先生には、既に『タスクを活用した英語授業のデザイン』という名著があります。その当時、ある雑誌で書評を書かせていただいた私は以下のように書きました。
(前略)
タスクが単なる英語教育界の流行語でないのは、「コミュニカティブな言語教育」 (CLT) との対比で明らかになる。CLTは、言語教育に統語論だけでなく語用論や社会言語学までも含める革新を成し遂げたが、主要な関心は依然として言語的な分析であった。だが言語教育がタスクを単位として考えられ始めると、関心の焦点は学習者へと移り、学習者の内的な意味、主体的な気づき、生活経験との関連などが重視されるようになった。言語教育がより「学習者中心」いや「人間中心」になったと言えようか。
第二言語習得を、第二言語使用の実体験による自己の創出として捉え、「現実世界をその言語を通じて再定義・再創造していくこと」と考えるなら、CLTとタスクの違いは大きなものとなる。
「言語と自己の共感覚や一体感」や「世界やそれを充たす意味を再創造・再構築するプロセス」といった本書の表現は、情報処理的な言語習得観しかもちあわせていない方なら理解困難かもしれないが、国語教育や日本語教育では十分に確立した見解であり、上述の身体論 [=山本玲子『子どもの心とからだを動かす英語の授業』青山社] にもつながる考え方である(私たちは日本の英語教育界の偏りについてもう少し敏感であるべきだろう)。
(後略)
当時私は「これはすごい本が出た。ここまで丁寧に応用言語学の文献を読みこなしながら根源的な考察ができる人はいない」と驚嘆していました。が、同時に、この本の真価をわかる人は実は多くはないのではないかとも懸念していました。当時は今以上に認識論的関心が薄いのが大勢だったからです。だからこのシンポジウム企画を知った時から、松村先生がどれぐらいに聴衆を説得してくれるだろうかと思っていました。
その松村先生のプレゼンテーションは素晴らしいものでした。もっとも松村先生の口調は、どちらかと言うとボソボソと語る方で、派手派手しいジェスチャーもないので一般受けはしないかもしれませんが、その知的説得力は素晴らしいものでした(会場の前の方に座っていた私は会場全体の雰囲気を知ることが困難だったので、会場のどれだけが理解したのは私は断言できませんが、あのプレゼンテーションと対話内容なら説得力はあったと思います)。
上記のスライドでも、例えば22ページの引用、35ページや40ページのまとめ、41-42ページでの実践経験とそこから(と応用言語学を超えた広汎な読書から)培われた信念、55ページの批判的見解、72-76ページの喩えを使った直観的な認識論的考察、などはすばらしいものだと私は思っています(言語習得の認識論的な側面について考えたこともなかった方々がこれらのスライドを見ただけでその意味をわかることは困難かもしれませんが)。
私としては、この松村先生の立論を讃えると共に、それに対して終始冷静に対応した佐藤先生と、笑いの中に少量の毒を混ぜ込みながら(笑)対話を知的なものにしていった亘理先生も讃えたいと思います。
風の噂では、松村先生は次著を準備中であるとかないとか・・・。広範な論文・書籍読解と根源的考察と実際の実践という鼎立することがおよそ難しいことを成し遂げている松村先生の研究からこれからも学ばせていただこうと思っています。
以上、備忘録として。
追記
この学会の後に、偶然「英語教育0.2」というブログの存在を知りました。
英語教育0.2
私はここ数年間体調を崩して以来(今年の調子はまあいいのですが、やはり無理はききません)、英語教育関係のブログを読む習慣をすっかりなくしているのですが、職業的努力の一環としてこういった優れたブログは時折チェックしなければならないと思わされました。
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