獨協大学で開催される第42回全国英語教育学会埼玉研究大会で個人口頭発表(8月20日(土)10:00-10;30 第25室(519))をさせていただく「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライドをここに掲載します。なお、この要旨は当日に配布される予稿集の原稿を一部修正したものであることを予めお断りしておきます。
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要旨
英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
柳瀬陽介(広島大学)
キーワード:二次観察,複合性,自己参照性
1 序論:認識論的考察の必要性
日本の英語教育界ではリフレクションや質的研究が少しずつ市民権を認められつつあるものの、英語教育実践研究(=実践者の判断や意思決定を支援することを目的とする研究)にも客観性や再現性が当然のごとく求められている。そういった中、メタ分析などは今後の研究の進むべき方向としてほぼ無批判的に推奨されるものの、そもそも客観性や再現性とは何なのか、また、それらを求めることは何を意味するのかについての根源的な認識論的考察がない。本発表は、哲学的概念(特にアレントやルーマンらが使用する概念)の分析を通じて、客観性と再現性の概念、およびそれらを英語教育実践支援研究に求めることの意味について解明することを目的とする。こういった解明は、今後の研究が進むべき方向性を明らかにし、限られた研究資源の有効活用を目指せるという意義を有する。
2 第一概念分析:客観性について
日常語として使用される「客観的」という表現には「(1) 主観または主体を離れて独立に存在するさま、(2) 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」(『大辞泉』)といった定義が与えられているが、これら二つの定義はそれぞれ「一元的客観性」と「多元的客観性」として説明できる。
2.1 一元的客観性:人間あるいは私といった主観性とは対極の認識として措定されるのが、超越的客観性と一元的客観性である。
2.1.1 超越的客観性: 西洋近代における客観性は、神の視点という宗教的な理念を、観察・実験といった実証に数学で理念化された無限を適用することにより獲得されるはずという理念として措定された(フッサール)。無限適用により「今・ここ」の私を超越した客観性を獲得する科学知の所有者は、情動や記憶(歴史)を欠いた “No-body”となる。だが、科学知も少なくとも人間の営みであるという制約を有さざるを得ない以上、こういった無-身体的な超越的客観性は、現実的概念とは言えない。
2.1.2数直線的客観性: 宗教的伝統に基づく超越的客観性に代わって現代に流布しているのは、資本主義社会という近代的性質を反映した数直線的客観性であろう。資本主義社会を支える基礎媒体である貨幣は、あらゆる商品の質を捨象し、すべての商品を貨幣量(価格)という一本の数直線上に配置する。あらゆる企業の活動は、貨幣量により黒字/赤字という二値的コードに還元できるため、貨幣量という数値は資本主義社会の客観的指標としてあまねく使用されているが、その考え方は教育界にも伝播し、教育の成果は数値(学力テストの得点)で客観的に測定されるべしという数直線的客観性が、時代の思潮となっていることは文科省の公式文書などからもうかがえる。一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されている。
2.2 多元的客観性: 超越的客観性や一元的客観性は(理念的・概念的に)厳密ではあるものの、現実世界で私たちが求める客観性としては狭すぎる。アレントやルーマンらが使用する客観性に関する概念は、社会構成主義に基づき、私たちが社会的に(=複数の視点と観点が共存する状況で)とらえる客観性を表現している。
2.2.1 現実: アレントのいう現実 (Wirklichkeit) とは、言語によりさまざまな視点と観点を取りうる人間が共存せざるしている複数性 (Pluralität, plularity) において私たちが認めるものである。私たちが「同じ」と認める対象が、さまざまに異なるように立ち現れるということが、私たちの共存と語り合いによって明らかになる時に、私たちは「現実」あるいは「現実性」 (Aktualität, actuality) ひいては「実在性」 (Realität, reality)を認めると彼女は説く。私たちが日常語で「それが現実ってもんでしょう」などと述べる時の「現実」はこのような認識であろう。
2.2.2 二次観察: 同じ対象の異なる立ち現われについて私たちが語り合う時、私たちはしばしば二次観察 (Beobachtung zweiter Ordnung, second-order observation) を行う。二次観察とはルーマンが使用する概念であり、ある観察(一次観察)が、何 (was, what) を観察したかはさておき、それをいかに (wie, how) 観察したかを観察する。二次観察は特権的でも超越的でもないが、一次観察の盲点を指摘しうるという利点をもつ。ある二次観察がさらに別の二次観察をされて・・・というのが、同じ対象について私たちが語りあうということであろう。私たちは日常において、一元的客観性よりも、語りあい(二次観察)において「客観的」な認識を得ていると考えられる(ルーマンにならって私たちは「客観的」という表現の使用を止めてもかまわないのだが・・・)。
3 第一考察: 英語教育界における客観性
現代日本の英語教育では、本来はそれぞれの技能での能力の多様性を認めていたCEFRが、得点合算により技能間の能力差を捨象する各種資格試験得点の共通尺度として使われたり、各種資格試験がそれぞれの特徴(異なる質)ではなく得点換算表などで数直線的に表現できることが強調されたりするなど、一元的客観性が強くなり権力化しているように思われる。
4 第二概念分析: 再現性
4.1 単一要因の操作による再現:英語教育研究では、未だに単一要因の操作による結果の違いを求める比較対照実験が「主流」 (mainstream) とされている。だが、無作為抽出や二重盲検法を実施することは現実的に困難あるいは無理である。メタ分析にも技術的批判が加えられているが、そもそも実践は、複数の要因にさまざまな順番で働きかける試行錯誤による改善からなることから考えると、単一要因の操作により同じ結果の再現を求めるという根本的考え方自体が非現実的であるように思われる。
4.2 複合性の中での自己参照的な行為:私たちは過去の自分を参照しながら自分に可能な限りのことをできるにすぎず (自己参照性, Selbstreferenz, self-reference)、現実世界の予測ができないという複合性 (Komplexität, complexity) の中では、事象の単独の制作者としてではなく、各種の相互作用の中で結果を知り得ないままに行為している (handeln, act) にすぎない。単一要因の斉一的な操作ではなく、行為と語りあいを重ねながらよい結果を求めているのが現実世界の私たちであろう。
5 第二考察: 英語教育界における再現性
現在主流の英語教育研究が想定しているのは、どんな文脈でも同じ方法を適用してよい結果を出そうとする執行者であり、文脈に応じてさまざまなやり方を使い分けよい結果を出す現実世界の実践者ではない。あるいは、学習者などの当事者と語りあう必要を特に認めない業務遂行者であり、当事者との関わりこそが大切だとする実践者ではない。
6 結論: 研究者が求めるべき権力
日本の英語教育が現在主流としている研究は、教師や学習者という当事者にとっての現実を直視しない認識論に基づいている。そういった研究は「真理の体制」(フーコー)を形成し、さまざまな当事者を斉一的に管理しようとする為政者が欲する権力に奉仕することを意味するのではないだろうか。そのような研究は、さまざまな人々が共存する社会の公教育において、当事者の民主主義的に正当な活力(=権力)を高めることに役立ちがたい。もし英語教育実践支援研究が、当事者を管理や支配するためではなく、当事者が成長するためになされるものだとしたら、英語教育実践支援研究は、一元的客観性ではなく二次観察によってさまざまな様相を示す現実を基盤とし、単一要因の操作による再現ではなく複合性の中での自己参照的な行為についての理解を深め、より多くの実践者を当事者として研究の営みに誘う研究を志向すべきである。英語教育研究の認識論は根本的に刷新されなければならない。
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