現在主流の、無作為化試験(無作為抽出による比較実験)およびそれらに基づくメタ分析を批判的に考える上で、以下の論文は非常に重要だと思われますので、ここにその論文の一部を引用し、その箇所の趣旨を私なりに書きなおしてみます(翻訳ではありません。原文の趣旨を、理解しやすいように大幅に書き換えたまとめです)。この記事も、今後の研究を進めるための「お勉強ノート」です。
この論文には邦訳があり、私はその邦訳を非常に参考にさせていただきましたが、以下のまとめでは私なりの日本語表現を使っています。特に、医学界では当たり前の「trial/試験」といった表現も、私の分野である言語教育界ではほとんど使われていないので適宜言い換えています。
Jaakko
Seikkula and Tom Erik Arnkil
Research
and generalizing practice
pp.
167-186. (Chapter 9)
(2006)
Karnac Books Ltd., London
ヤーコ・セイラック/トム・エーリク・アーンキル(著)
高木俊介/岡田愛(訳)
「さらなる研究と実践へ」
(2016)
日本評論社
まとめは、この論文を私なりに以下の流れに編集して行いました。
(1) 現状の問題点::無作為化試験(無作為抽出による比較実験)のメタ分析は、現場の実践の大切な部分を構造的に排除している
(2) 現場の実践で必要とされている力
(3) なぜ研究が、現実の実践に基づいたものにならないのか
(4) これからあるべき実践支援研究の姿
以下、この論文からの引用に基づく箇所はインデントで示し、それらを私なりの説明(インデントなしの箇所)でつないでゆきます。
なおこの論文では無作為抽出が当たり前のものとして扱われていますが、英語教育界の「実験研究」では無作為抽出はほとんど行われていないことは周知の通りです。その点およびその他の多くの点で、英語教育界の「実験研究」を医学界の「試験」と同等視することはとてもできないことを、私は2010年に公刊した以下の論文で説明していますので、ご興味がある方はお読みください。
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察
また、この論文の著者(の少なくとも一人)が関わっているオープンダイアローグについてご存じなければ、とりあえず以下の記事をお読みください。
オープンダイアローグの詩学
(THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について
オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念
当事者研究とオープンダイアローグにおけるコミュニケーション (学生さんの感想)
飢餓陣営・佐藤幹夫
(2016)「オープンダイアローグ」は本当に使えるのか(言視舎)
この論文の筆者は、医学の中でも、心理的・社会的な影響が強く生理学的・生物学的要因だけに事象を還元しがたい精神医学に従事し、その精神医学の療法の中でもとりわけ人間的な関与(対話)を重んずるオープンダイアローグといった方法で実績をあげていますから、精神医学などの分野で、以下に説明されるような研究ばかりで「エビデンス」が産出され、それによって画一的なガイドラインが策定されることに対して根本的な疑義を表明しています。しかし医学の中には、精神医学ほど複合性(=考慮すべき要因があまりにもたくさんあるので唯一の正解が定められない状況)が高くない分野もあるでしょうから、そういった分野の専門家は彼らの疑義にあまり意義を見出さないかもしれません。
ですが精神医学同様に複合的で、医学研究とは比較できないほどに曖昧である英語教育研究(注)で、現在のような形の比較実験やそれに基づくメタ分析が「望ましい研究の姿」として無批判的に称揚されていることに対して、私はこの論文の著者同様に(あるいは彼ら以上に)危惧を覚えています。
注:上記の「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」論文の表2:数的処理に関する医学と英語教育研究の比較、表3:実験計画に関する医学と英語教育研究の比較を御覧ください。
それではこの論文を私なりにまとめてみます。
*****
(1) 現状の問題点:無作為化試験(無作為抽出による比較実験)のメタ分析は、現場の実践の大切な部分を構造的に排除している
現在は、教育界においても何かと「エビデンス」が求められています。根拠なしの一方的な思い込みによる主張を封じる意味でそれは歓迎されるべき流れですが、現在はその「エビデンス」が狭い意味に限定され、(無作為抽出による)比較実験の結果だけが「エビデンス」だとされがちです(少なくとも、それ以外の研究成果は「エビデンス」としては劣るとみなされています)。
現実世界では、実にさまざまな要因が複雑な影響関係で絡み合いながら事態が発生してゆきます。ですが、(無作為抽出による)比較実験では要因を少数(しばしば一つ)に絞り込んで、その他の要因(およびそれらの相互作用)は「ノイズ」として考慮の外において事態の発生をみてゆきます。そうやって得られた「エビデンス」をもとに、実践者はこのように行動すべきというガイドラインが作られてゆきます。
実践の妥当性に関する科学的エビデンスが求められている。その結果、効果の違いを説明できるようにするため、多次元的な人間の活動が、実験する一要因の有無だけという観点に縮減されて定義される。それらの無作為化試験(無作為抽出による比較実験)の結果がメタ分析を経て、実践のガイドラインが作成されている。
Scientific knowledge has increased dramatically in psychosocial
fields and is increasingly being evaluated. Scientific evidence for the
validity of practices is required. Because the effective factors in human
activities are multidimensional, research designs need to be defined and
reduced, in order to be able to make visible explanatory differences. Within
medicine and social work, specific libraries of evidence-based research -- The
Cochrane Library for psychiatry and the Campbell Library for social work --
have been founded for such important quality-control purposes. These libraries
collect reports of studies that are based on experiments and randomized trials.
Through meta-analyses of such reports, guidelines on valid practice are
constructed. (p.169)
ですが、そのように要因を少数(一つ)に絞った形での実験での「エビデンス」は出せないものの、精神医学の現場で確実に成果を出しているオープンダイアローグといった「対話的実践」 (dialogical practice) を推進している著者としては、この傾向に危惧を覚えざるを得ません。ガイドラインが権威をもち権力化すると、実践が画一化し、それから外れる実践が認められにくい風潮が生まれるからです。
実際、上の英文で示されていたThe Cochrane Libraryでは無作為実験研究しか受け付けず、オープンダイアローグといった、単一(少数)要因の一方的介入ではない、多方面の多くの要因に関して専門家と当事者が対話的に(=相互的・応答的に)相互作用を重ねながら事態の改善を図るアプローチは研究論文として認められていません。経験的には、精神医学では多面的・多次元的に考え相互作用的にアプローチしてゆくべきという知見が得られている一方で、研究では単一要因的・一方的な介入をするしかアプローチしか認めないのは大きな問題だとこの論文の著者は考えています。
精神医学のほとんどすべての学術誌が、単一要因での因果関係を立証する無作為化実験論文しか認めない。このことによって、そのような療法ばかりが研究されることになる。
Almost all the research reports published in journals of psychiatry
are based on experimental settings. There are increasing demands to also
publish evidence of cause-effect relations in social work. Constructing an
experimental design in psychiatry requires therapy models that allow the
separating-out of single effective factors. This, in turn, leads to the
publication of only those studies where the problem to be treated is defined
unequivocally as, for example, a biological condition. The Cochrane Library
accepts only reports of randomized experimental studies, although the spectrum
of disciplines and research methods has widened enormously. (p.170)
明確に立証しやすい単一要因の因果関係だけに焦点を絞る比較実験研究において特徴的なことの一つは、普遍的な因果関係を求めようとするあまり、それぞれの実践現場で重要な個別的要因 (local factors) が研究から構造的に排除するということです。実践者的感覚からすれば、その場その場の状況を深く理解することが実践を成功させるために重要なことですが、現在主流の研究は、そういった場に即した要因の理解を考察の外においてしまいます。
普遍的な因果関係を求めると、場に即した要因が無視される。
When the aim is to find universal causal relations, local factors
are not of interest. (p.170)
比較実験やメタ分析により実践のガイドラインが定められても、そのガイドラインが示しているのは、場に即した諸要因が捨象された実験室的な仮想現実にすぎません。ガイドラインが言っていることは、「もしあなたの現場が、あなた自身も含めた固有な事情が一切なくなった一種の「真空状態」であるならば、あなたはこの方法をやれば高い確率で成功するはずだ」ということです。あるいは非常にくだけた言い方をするなら「フツーなら、これでうまくいくはずなんだけどね」ということです(しかしこういった「フツー」が時に非常に抑圧的な意味合いをもつことは、おわかりいただけるでしょうか)。
比較実験やメタ分析によるガイドラインは、現実現場の複合性を無視しています。もし「現場の知恵」というものが、一般要因とさまざまな個別要因の相互作用が生み出している複合性への対応を主に意味するものでしたら、ガイドラインは現場の知恵のほとんどを扱いえていません。
メタ分析などで実験研究は比較できても、現実に行われている実践は比較できない。現実の実践ははるかに複合的であるからだ。メタ分析に基づくガイドラインが示しているのは、実験室的な仮想現実であり、現実の実践ではない。
The problem here is that studies cam be compared, but not the actual
practices, which are far more complex. When research outcomes are summarized
into treatment recommendations, they are, after all, not guides of practices,
but of virtual realities created in the research settings. (p.171)
ですから、比較実験やメタ分析は現場の実践にまったく無縁ではないものの、「実践者がこのように行動しなくてはならない」と規範的に規定するだけの説明力は実はもっていないといえるでしょう。
それでは現場の実践ではどのような力が必要なのでしょうか。次節で少し考えることにしましょう。
(2) 現場の実践で必要とされている力
現場で新人や経験が浅い者は、それが比較実験やメタ分析に基づくものであるにせよないにせよ、一定の実践の形を推奨されます。しかし新人らに求められていることは、その推奨された実践を形の上だけで忠実に真似することではなく、その推奨に基いて現場で工夫をこらして自分なりにその現場に適した実践を創造することです。
推奨される実践をただ真似するのではなく、文脈に合わせて柔軟にその実践を変容させる場に即した力が必要である。
Enhancing local skill for variation and contextual flexibility is
called for instead of mere attempts to implement good practices by duplicating
them. (p.169)
自分なりにその現場に適した実践を創造しようとすると、実践者はその現場の当事者の反応から学び、さらには語り合うことが必要となってきます(ちなみに実践者も当事者の一人です)。現場に即した実践は、「専門家」によって一方的に実施されるものではありません。現場で有効な実践は、当事者がお互いの反応から学び合い、それに誠実に対応し、語り合うことから創り出されてゆきます。
しかし、ここで障害になってくるのが、上記の普遍的な因果関係を立証しようとする研究です。そういった研究のあり方だけが研究だと大学で叩きこまれ、現場でもそういった研究に基づくガイドラインの指示に従うことを命令され、さらには自らもそういった研究をするように求められると、実践者は、現場の状況や当事者と共に実践を創りだす「対話的実践」を忘れ、推奨される方法を一方的に実施する「独話的実践」ばかりに従事することになります。
専門家による当事者への介入研究により「独話的な実践」が推奨されると同時に、相互性・応答性・対話といった「対話的実践」がないがしろにされる。
Designs that study interventions by someone on someone are valued
above all others, dismissing mutuality, responsiveness, and dialogue and
thereby reinforcing monological practices. (p.167)
これでは研究により実践が歪められてしまいます。現代社会では研究のキャリアを有する者には一定の権力が与えられていますから、この状況では、権力が実践を損なうために使われることになってしまいます。ここは研究者が、大学・大学院で教えられた研究を無批判的に(拡大的に)再生産するだけではなく、実践に関する研究のあり方を真剣に考えなくてはなりません。
研究は、実際に行われている実践に基づくべきだ。
Research should correspond to living practice. (p.172)
それでは現実の現場実践に基づく研究とはどのようなものでしょうか。もちろん論文著者の答えは対話的実践です(この論文が収められている著書の原題は
“Dialogical Meetings in Social Networksです。著者は当事者が社会的関係の中で対話を行うことによる事態改善が効果的であることをこの著書全体で訴えています)。
ですが、そういった研究を提唱しても、なぜ現状では研究が現実の実践に基づいたものになっていないかを分析し、その現状を少しでも改善しようとしないと、提唱は徒労に終わりかねません。ですから、次節では研究をめぐる現状について簡単に考察しましょう。
(3) なぜ研究が、現実の実践に基づいたものにならないのか
まずは学界の現状確認です。英語教育学界も含めて多くの学界では、未だに因果関係についての「強い説明」ばかりが求められています。相関関係の解明は、因果関係の解明よりも劣る「弱い説明」と考えられます。記述研究にいたってはさらに弱い説明しかできないさらに劣った研究だと未だに思われています。
現状では、「強い説明」(因果関係解明)が研究で好まれている。強い説明では、少数の説明項により多数の被説明項が説明される。相関関係解明はそれよりも「弱い説明」であるとされ、記述研究は「さらに弱い説明」とされ、学界では好まれていない。
He [=the French sociologist Bruno Latour (1988)] discusses so-called
weak and strong explanations. In a strong explanation, a minimum amount of
elements (explanans) provide the
explanation of a maximum amount of elements (explananda). Correlations are weaker explanations than showing
causal relations, and descriptions are even weaker. (p.172)
確かに学界の傾向としてはそうでしょう。研究者は「強い説明」に憧れています。しかし、実践者の立場から考えてみましょう。実践者は実践を改善するために「強い説明」を必要としているでしょうか。「否」でしょう。
実践者は、わざわざ実践の複合性を、単一の要因に還元してしまうことはありません。もちろん、あまりにも多くの要因が絡んでいる時には少数の要因をとりあえず特定して、それらに優先的に働きかけますが、その際も、それらの要因には同時に働きかけ、それらの要因間の相互作用も重視します。また、実践者は時に、ある一つの要因だけをとりあえず変えてみることもしますが、それ以降その要因だけに実践上の関心を集中してその他の要因には一切手を付けないようなことはしません。実践者は決して、狭い意味の実験研究者のように、単一要因の有無だけに注目しその他の要因をノイズとして切り捨てることはしません。
ですから実践者にとってむしろありがたいのは、多くの要因間の相互関係を概観できる相関関係の解明かもしれません。また、現場の複合性がとても高い場合は、相関関係にまで抽象化できる以前の現状を克明に描いた記述をありがたがるかもしれません。
実践者は「強い説明」を必ずしも求めていません。「強い説明」を求めているのは、現場の固有の事情を知らなくても唱えることができる「強い説明」によって、実践者を遠くから動かそうとしている、あるいは管理(もしくは支配)しようとしている人です。
だが、もし実践者が被説明項の文脈の只中にいるのなら、弱い説明だけで十分役に立つ。文脈の中にいる実践者は、強い説明が前提としているように、複合性を少数の要因に還元してしまうことを必要としない。強い説明は、誰かが遠くから実践者を管理したがる時に必要となる。
If the practitioner or the team is in the very context of the
explanations, then weaker explanations are sufficient, in that they do not help
to reduce the complexity to a few facts. A strong explanation becomes necessary
when someone wishes to act at a distance. (p.172)
実際、教育行政者や研究者から指示されるガイドラインに自分の実践を合わせることに苦痛を覚えている実践者も少なくありません。ガイドラインが指示する一つや二つの要因だけに着目して実践を行うと、現場の複合的な調和が乱れて、実践がうまくゆかなくなるからです。あるいは、ガイドラインどおりに実行しようとするとどうしても都合が悪い条件が、自分や生徒や学級・学校・地域などに存在するからです。
こうなると、実践のガイドラインは --教育行政者や研究者の自覚があるにせよないにせよ--、実践者を遠くから管理(あるいは支配)する道具として機能しているといえるかもしれません(この可能性の指摘に対して、こういった批判的考察をしたことがない教育行政者や研究者は感情的に猛反発するかもしれませんが)。
実践のガイドラインは、実践の文脈を遠くから管理するための手段である。ガイドラインは、異なった文脈でのさまざまな実践を、ガイドラインに合致させるように求めてくる。
Valid treatment or valid practice guidelines are a means to attempt
to control contexts at a distance: practices in different contexts ought to
change in accordance with the guidelines. (p.173)
もちろんある程度の管理はいかなる組織にも必要です。しかし、人間には支配欲があり、そうであるからこそ権力者を抑制する民主主義文化を「不断の努力によつて」普及させなければならないという人間社会の実態を考えると、実践ガイドラインは、なんらかの意味で「上」に立つ人間が「下」にいる実践者 --私も嫌いな表現ですが、この比喩表現が実相を示していることも多いと思いますので敢えて使っています-- を管理・支配する道具として機能しかねないことを忘れてはならないでしょう。私は教育界にも成熟した民主主義文化 --戦後の一部の左翼が曲解した歪んだゴリ押し・ゴネ得文化ではありません-- が必要だと思っています。当たり前のことですが。
ガイドラインでしばしば示される「独話的実践」つまり一方向の介入研究が、実は権力者が実践者を管理・支配するために使われかねないという権力性について私たちは自覚すべきでしょう。
一方向の介入研究は、上層部が一方向的に実践を統治することと親和性が高い
One-way intervention studies go hand in hand with top-down practice
governance. (p.167)
もし教育行政者や研究者が(自覚の有無は別にして)現場の実践者を管理し支配することを志向しているのなら、彼ら・彼女らは研究を「普遍的」なものにして、それぞれの現場に即した固有の要因は排除するでしょう。それぞれの現場の要因を重視していたら、その現場から離れたところからの管理・支配が著しく困難になるからです。
逆に言いますと、もし教育行政者や研究者がまったくその意図がないままに「研究とはこういうものだろう」と思い込み、研究からそれぞれの現場に即した要因を排除していたら、彼ら・彼女らは、実践者が自ら民主主義的に実践を創造してゆくことを阻害していることになります。
遠くからの管理を推進する立場からすれば、場に応じた固有性が研究結果に影響を与えないような研究デザインで研究が遂行されなければならない。そういった研究デザインでは、研究で得られる知識が文脈から自由であればあるほど(つまり普遍的であればあるほど)、その知識はより転移可能であると考えられている。
According to the controlling-at-a-distance approach, research has to
be carried out in settings where the local particularity cannot have an effect
on the outcomes. The idea is that the more context-free -- that is, universal
-- the knowledge is, the more transferable it is. (p.173)
こうなると研究は、ひょっとすると支配欲の強い権力者に利用されることもありうることを研究者は自覚するべきでしょう(考えてみれば「御用学者」といったことばがあることからも、これも当たり前のことですが)。
行政は学界の権威を利用できる。科学の威信を利用して、行政が推奨している実践は、一般的で普遍的に適用可能な説明にもとづいているものであるとし、現政権がその実践をイデオロギー的に好んでいるから推奨しているのではないとすることができる。
The administrative system borrows authority form the science system.
Basing on meta-analyses of research reports, the steering system demonstrates with the prestige of science that this
or that recommendation is not just an ideological preference of the prevailing
government, but a general, universally
applicable explanation of the valid means of having an effect on the phenomenon.
(p.175)
以下の断言は言い過ぎなのかもしれません。しかし、この可能性について、私たちは真剣に考えるべきではないでしょうか。
普遍的な説明や実験室的状況に基づく研究が必要だという信念は、遠くから実践を管理したいという欲望からとりわけ生じる。
The need for universal explanations and experimental settings is
necessitated especially by the wish to control treatment and other practices at
a distance. (p.173)
(4) これからあるべき実践支援研究の姿
例えば物理学といった人間的な営みから遠い対象を調べる研究はさておき、人間の実践の営みを対象とする実践研究(私はしばしば「実践支援研究」という表現を使っています)は、あくまでも現場の現実の実践の特性 --例えば複合性や相互性や対話性など-- を踏まえた研究であるべきです。
現場の実践は、商品のように入手し、その商品(品物)を使うだけで成功に至るようなものではありません。ありとあらゆるものが商品化されつつあるようにも思える現在の資本主義社会でこのことは忘れてはなりません。
よい実践は、品物のように違う場所へ移送できるものではない。
Good practices are not like articles that can be transferred from one
place to another. (p.174)
優れた実践者は、普遍的あるいは転移可能な方法をどこかで仕入れてきて、それをそのまま適用して実践を改善しようとはしません。優れた実践者は一般的な説明よりもむしろ自分が置かれた文脈の理解を求めます。
文脈の中で働きかけする時、私たちは理解をしようとするのであって、普遍的あるいは転移可能な説明を必要だとは思ったりしない。
If one acts in the contexts
one tries to understand, one does not need explanations that are assumed to be
universal or transferable as such. (p.173)
そして理解を求める中で、実践者は当事者の反応から学ぼうとします。当事者の反応に即した行為を行い、そこからさらにどのような反応が得られるかを見ようとします。さらには、人間はそもそもことばを使いうる存在なのですから、対話を重ねます。そうした対応関係から相互的に実践を創造しようとします。これが「対話的実践」です。
実践者は当事者を単なる測定対象と捉えてはいけません(そのように捉える研究者は少なくありませんが)。そのような認識に基づくと、相互性や対応性から生じる創造性、および私たちの対話性を構造的に排除してしまうからです。実践者は「独話的」な手段で当事者を一方的に変える存在ではなく、「対話的」な実践で、当事者と共に変容していく存在です(おそらくは当事者と共に実践者も変容しなければ、その場に即した実践は生まれないとさえ言えるでしょう)。
「対話的実践」では、相互性あるいは対応性が本質的に重要である。当事者は単に測定されるべき対象ではない。測定可能な変数の効果を特定する研究では、直線的な因果関係は解明できても、相互的な因果関係は解明できない。そのような研究に基づくガイドラインは、人々の対話的出会いをもたらす実践ではなく、「独話的」な実践を強化する。それは対象に対する一方的な介入であり、専門家がある方法でもって当事者を変えるのだが、専門家自身がその過程で変化することはない(もし変化したとしてもそれは取るに足らないことだとみなされる)。
Mutuality/reciprocity are essential in dialogical practices. Clients are not just objects
targeted with measures. When settings are reduced to single out the effects of
measurable variables, the research reveals lineal rather than reciprocal
causations. Guidelines built on such research are prone to reinforce monological practices -- interventions
on objects -- instead of dialogical encounters: someone does something to
change others with the method x, but
does not change her / himself in the process, or if it does, it is an unessential
point to the research. (p.174)
もちろん実践者は知識を求める存在でもありますが、実践者として求めるべき知識とは文脈から引き離された知識ではありません。
知識を文脈から引き離して得ようとすると、文脈に基づいた研究よりも実効性の低い知識が生まれてしまう。
Striving for valid knowledge through purifying it from its contexts
produces less valid knowledge
than strongly contextualized research.
(p.177)
そのように文脈から離れた知識は、世間のさまざまな人々と丁寧にコミュニケーションをとろうとしない研究者や行政者、そして彼ら・彼女らから構成される制度によって生み出されます。制度と一体化した彼ら・彼女らは、世間のさまざまな人々を一括して表現し、その表現をもって自分たちは世間を正しく代弁していると思い込みます。
文脈から離れた研究では、「人々」は集合化されて扱われ、人々の願いや望みは、学界や行政などの制度によって代弁されている。コミュニケーションのあり方は制度によって定められてしまう。
The authors [Nowontny et al. (2002)] call science weakly contextualized if its
communication patterns are determined largely by institutions. In other words,
"people" are aggregated, and their wishes and desired are, in a
sense, represented by institutions. (p.
177)
そのようにさまざまな人々とコミュニケーションを取らないままに制度の中から人々を管理・支配しようとせずに、人々とのコミュニケーション、あるいはコミュニケーション以前の微かな信号から学ぼうとする中で生まれてくるのが文脈に基づいた研究です。
文脈から離れた研究とは対照的に、研究者が社会からのさまざまな信号を受け止めようとする機会を積極的につくる中で生まれてくるのが文脈に基づく研究である。
By contrast, strong contextualization
occurs when researchers have the opportunity, and are willing, to respond to
signals received from society.
さまざまな人々が絡む人間の営みに関する実践支援研究においては、研究者は当事者とのコミュニケーションから学び、そのコミュニケーションの中から研究を創出すべきでしょう。これがこれからの研究のあり方だと私は考えます。
しかし、学界の現状は、そういった対話的実践に基づく研究に対して理解が少ないことを忘れてはいけません。
現在は、エビデンスを出せない研究には予算が削られる傾向にあり、エビデンスとして認められるのは無作為抽出に基づく直線的な介入研究の結果だけである。
At present there is a move in the West to cut financing from
approaches that cannot demonstrate evidence -- and what passes as evidence in
meta-analyses is material from randomized linear intervention studies. (p.180)
必要なのは、「エビデンス」や「メタ分析」の推進がそもそも意図していた効果を得るために、それらの概念の狭隘な理解を避け、裏付けとしての「エビデンス」概念や多くの事例から学ぶため方法としての「メタ分析」概念を拡張することでしょう。その中でひょっとしたら「エビデンス」や「メタ分析」という用語は新たな意味を獲得するかもしれませんし、そもそも捨てられるかもしれません(ちょうど「真理」や「客観性」といった用語が、研究の認識論で大きく意味を変えたり姿を消したりしているように)。
そういった未来のことはさておき、以上のまとめを通じて、普遍的あるいは一般的な因果関係や転移可能性を求める比較実践研究やそれに基づくメタ分析だけが研究のあり方ではないこと、それどころかそれらの種類の研究にはそれなりの問題点があることがわかっていただけたでしょうか。
現実の複合性を大幅に縮減して一方向の因果関係だけしか見ようとしない統制実験研究だけが、科学的エビデンスや慎重なメタ分析を生み出せると思い込んではならない。
It is important not to equate the search for scientific evidence and
careful meta-analyses only with
control studies that drastically reduce the phenomena under study and see only
one-way causations. (p.180)
*****
英語教育研究についても、英語教育という現場の事情をよく理解した上で、批判的に行われなければなりません。
しかし研究者という人種は、存外に頭が固く、これまでやってきたことを繰り返すだけの人が少なくなりません(私にもその傾向が多分にあるでしょうが)。
多くの税金を使いながら研究という公務につく人間としては、自らの研究の営みが、実践を歪めてしまうのではなく実践を支援する社会的に健全な権力となるように努力してゆかねばと思わされました。
これからもさまざまな人々と語り合い、さまざまな営みから学んで、現場実践の複合性と対話性を活かした実践(支援)研究の充実に努めたいと思います。
以上、お勉強ノートでした。おそまつ。
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