ある授業(中学校1年生対象)を参観しましたら、教科書に "Is this a flute?" "Yes, I'm in the music club." のやり取りから始まる一連の対話文がありました。
その学校の生徒さんは優秀で、その対話文の日本語訳もすらすらと言えます。また、その対話文の再生 (reproduction) もかなりできて、上の二文でしたら"ITAF?" "Y,IITMC."といった単語の頭文字を黒板に示すだけで、その全文を見事に再生します。
私は以前、日本の英語教育の大半が「引用ゲーム」になっていると言いましたが(『小学校からの英語教育をどうするか』)、上の授業では引用するための基礎的な力である再生がすらすらできているわけですから、「引用ゲーム」の授業としてはすばらしいものだと言えるかと思います。
しかし私は見ていてなんだか腑に落ちないものを感じざるをえませんでした。
確かに生徒さんのワーキングメモリーの優秀さは驚くばかりです。しかし、英文がその生徒さんの「こころ」と「からだ」にしみわたったのか -- 実生活で似たような状況に遭遇した時に、自分で気づいたらその英文を基にした発話ができていたといったようになれるのか -- と考えたらどうも疑わしいように思えます。
もう少し具体的に考えましょう。
上記の生徒さんは、英語の字義通りの意味をすらすらと日本語で言えます。ヒントを与えれば英語をそっくりそのまま再生することもできます。もう少し訓練すれば、日本語訳を与えたらすらすらとそれを英語で書くことすらできるようになるでしょう。
しかし、この生徒さんは、この英文と自分(自分の「からだ」の情動や「こころ」の感情)を結びつける経験はしていないように思えます。
"Is this a flute?" "Yes, I'm in the music club." という対話は、直訳をすれば「それはフルートですか?」「はい。私は音楽部に所属しています」ぐらいになるでしょうが、尋ねた方は、どんな気持ちでこの発話をしたのでしょうか。
フルートのようだがフルートにしては珍しい形態の楽器を目にしたから確認のために発話したのでしょうか?
いや、この場合、「それ、フルートだよね。どうしてフルートなんかもってるの?」といった気持ちで聞いたのでしょう(尋ねた人は、最近この学校にきた留学生という設定です)。だからこそ聞かれた方は、自分は音楽部に入っていると答えたのでしょう。
しかし、上記の授業での生徒さんの英文再生からは、そのような気持ちはほとんど伝わってきませんでした。それもそのはず、教師も教科書CDも、そういった情感がほとんど伝わってこないような英文しか再生していませんでした。(教科書CDのスピードがあまりにも遅く人工的すぎて、自然な情感を伝えるには明らかに不適切であることも驚きでしたが、それはまた別の話として)。
"Is this a flute?"を、珍しい形態のフルートを見て驚いて言うのか、それとも会話の糸口を見出すために言うのかではずいぶん言い方は異なります。
私たちは用途にかなった言い方によって、自らの意図を明確にします。いわゆる「棒読み」しかできないのなら、現実世界のコミュニケーションはうまくゆきません。また、さまざまな言い方から相手の込めた情感を的確に感じ取ることができなくてもコミュニケーションはうまくゆきません。
言語は、「からだ」と「こころ」から溢れ出てくる情感(=「情動」+「感情」)と統合されていなければ、言語使用へと至りません。情感を欠いた言語を産出 (produce) しても、それは言語再生 (language reproduction) であり、言語使用 (language use) つまりはコミュニケーションではありません。
題材は会話文ですから、これは「コミュニケーション英語」だと主張することも可能でかもしれませんが、身体論的に考えれば、これは英語をコミュニケーションにおいて使っているとはとても思えなかったというのが私の率直な思いです(教科書を批判すると、この業界ではとても嫌われることは承知しておりますが、やはり言うべきことは言わないと)。
ついでながら、日本語と英語の比較といった論点についても述べておきます。
"Yes, I'm in the music club." を「私は音楽部に所属しています」といった「きちんとした直訳」にせずに、生徒が日頃使うような日本語で表現すれば「私は、音楽部なの」や「私、音楽部」ぐらいになるでしょう。
自然な日本語では「私(は)、音楽部(なの)」であっても、英語では決して "I'm the music club."とは言わないということから、日本語の「主語」(というより「主題」)と英語の「主語」についてもなかなか面白い授業が展開できると思います。私自身、もしそういった授業をしようと思えば、下のようなノートを参照しつつ、相当に準備しなければなりませんが、その準備に応じて、それなりに生徒さんにも言語的な洞察を与える授業(広義の言語教育でもある英語教育)ができるかと思っています(あくまでも希望的観測ですが)。
文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート
「は」の文法的・機能的転移を中心に
しかし文部科学省の方針は、今後は中学校でも英語の授業での日本語使用をできるだけ控えさせるものであり、こういった比較言語学的な授業は避けるべきなのでしょう。
しかし、そうやって上記のような授業ばかりやった結果、情感のこもらない英文をペラペラと再生・引用して、相手の情感もほとんどわからないような「英語エリート」を作ることだけが、現代日本の英語教育の到達点になるのではないかと私は危惧しています。
そういった「英語エリート」は英語資格試験では高得点を取るでしょう。その結果、「日本の英語力はアジアでトップレベル」になるかもしれません。しかし、それが、何だというのでしょうか。
そういった情感のこもらない言語教育に本能的に嫌気を覚えて、英語や他の外国語への関心を消失させる若者の存在も併せて考えると、現代日本の英語教育の風潮に対して、私は暗澹たる思いになります。
ここはやはり、中高の英語教育は、「からだ」と「こころ」の重要性をよくわかっている(一部)小学校英語教育実践・児童英語教育実践から学ぶべきだと私は考えます。「小学校の英語教育をどうするか」ではなく、「小学校からの英語教育をどうするか」が私たちの課題だと私は考えます。
一見良い授業が行われているのですが、その「良い授業」自体に何かおかしなものがあるのではないかと思い、この小文を備忘録として書いておきました。
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