ここでは「統合情報理論」 (Integrated Information Theory) をまず直観的に理解するために、ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ 著、花本知子 訳 (2015) 『意識はいつ生まれるのか』 (亜紀書房) に紹介されている二つの思考実験について、私なりに少し脚色を加えた上でまとめてみます。加えて、それらの思考実験より理論への忠実度は劣るかもしれませんが、(少なくとも私には)よりわかりやすい思考実験を私なりに考えてみましたのでそれも付け加えておきます。
この本から直接引用した箇所には鍵括弧(「 」)とページ数(○○ページ)をつけておきます。なおこの本はイタリア語の原著の日本語訳です。日本に英語以外の外国語にも堪能な方々がまだ多くいらっしゃることをよろこびます。と同時に、これ以上、外国語教育を英語だけに集中することに対する懸念を、この場を借りて改めて表明しておきます。
■ 「写真を見た子どもと評論家」の思考実験
最初の思考実験は、後で紹介する原著の二つの思考実験を、私なりにより現実生活で想像しやすいものに変形してつくったものです。
ある写真をある二人の人間が見ます。一人はほんの子どもで写真のことなどほとんど知りません。彼は言います「この写真、ボク、好き!」
もう一人は熟達の写真評論家です。文才にも長けた彼女は写真を見た時、しばしば明確にその写真について評論をします。それは技術的なこと(画角・構図・絞り・シャッタースピード・フォーカス・ホワイトバランス・色調・粒状度・コントラスト・光の角度・輪郭強調・彩度・明度・トーンカーブ等など)だったり、他の写真作品との比較(写真史を踏まえての数多の作品との類似点の指摘など)だったり、テーマについて(テーマの象徴性、表現史など)だったり、文化的なこと(絵画や音楽などの他の芸術作品と比較しての論評)だったり、社会的なこと(世相や世界的潮流との関連)であったりします。その評論を聞いた人は彼女の鑑識眼と表現力に感心し、その評論により自分たちもより深く写真を理解できるようになったことを喜びます。
そんな彼女ですが、この写真を見た時には、ぽつりと一言だけ言いました。「この写真、私、好き」。
二人の発言は細部こそ違いますが、基本的には同じものだと仮定しましょう。
ここで問いです。
同じ発言をした二人の意識のあり方あるいは心模様 (mental pattern) (関連記事 "Image"を敢えて「想い」と翻訳することにより何かが生まれるだろうか・・・ )は、同じと言えるでしょうか。また、仮にあなたが二人をよく知っているとして、あなたは二人の同じ発言に同じ意味を見出すでしょうか。
二人の意識や心模様は異なる、そして、あなたは同じ意味を見出さない、としたらそれはなぜでしょう。言語学の標準的な意味論はそれを説明できるでしょうか?
私なりの答えです。
二人の意識あるいは心模様は異なります。私も異なる意味を受け取ります。
もちろん、実際に発話された文は同じです。ですから文字通りの意味は変わりません。議論を単純にするため、二人とも特別な話者の意味は意図していなかった(ある特定の意図を間接的に伝えるための特殊な発話内行為をしたわけでない)と仮定させてください。二人はただその写真を好きと言ったわけです。
それでも周りの反応は異なるでしょう。子どもに対して周りは「そうなの。僕は、この写真好きなのね」とニコニコするぐらいでしょう。しかし写真評論家の場合、周りはざわつきはじめるかもしれません。「あの人が、ただ一言、好きと言うだけなんて、やっぱりこの写真は平凡なようでいて斬新なのかなぁ」とでも言うかもしれません。「重みのある評価だなぁ」とすら言うかもしれません。発言の効果が違うのですから、発話媒介効果は異なったとなります。
そうなると発話行為と発話内行為は同じなのにもかかわらず、またその発話を聞いた人も同じであるのにかかわらず、発話媒介効果が異なることになります。発話媒介効果が異なったのは、connotationが異なるからともいえません。そうなると、標準的な言語学の説明法では、この違いを説明できないことになると思いますが、いかがでしょう。
違いを説明するとしたら、写真評論家は「彼女は、いくらでも論評することができたはずなのに、それらをまったく言わずに、好き、とだけ言った」のに対して、子どもは「好きか嫌いかの選択肢しかない中で好きと言った」ことによる説明となるでしょう ―議論を単純にするためそう仮定させてください―。
言ったことでなく、言えるはずだったのに言われなかったことが違いを生み出しているわけです。実はさらに言及の有無だけでなく、言及の仕方による違いもあります(「こうも言えたはずなのに、ああ言った)。私たちが日常生活で「意味」と呼んでいる現象には、発話者が実際に言ったことだけでなく、発話者が言うことができたはずなのに言われなかったことの両方が関わっているようです。
ルーマンは、意味を 顕在性(Actualität, actuality)と潜在的可能性 (Möglichkeit, potentiality)の統一 (Einheit, unity)と定式していますが、「実際に言ったこと」を顕在性、「言うことができたはずなのに言われなかったこと」を潜在的可能性としていいのなら、意味を顕在性と潜在的可能性の統一とするルーマンの意味論の方が、言語学の標準的な意味論よりも、私たちの日常感覚をうまく説明しているように思えます。
しかし、統合情報理論 (Integrated Information Theory)は、そのルーマンの意味論よりもさらに一歩進んだ議論を展開しているように思えます。もちろん、そう言い切るためには、統合情報理論で正面からは扱われていない「意味」という概念を、どう統合情報理論の用語で説明するかという難問が待ち構えているのですが、その問題については、今は言及するだけにとどめておいて、以下に、統合情報理論で使われている二つの思考実験を私なりにまとめてみます。趣旨を変えない程度に私なりに脚色していることを予めお断りしておきます。
■ 「フォトダイオードと人間」の思考実験
ある部屋にフォトダイオード回路を設置します。フォトダイオードは二つの端子をもった半導体で、それを使った回路では、一定以上の光が当たるとONと表示され、そうでないとOFFと表示されます。
その部屋にあなたも滞在することが求められます。あなたもフォトダイオードと同じように一定以上の光が当たると手を上げて、そうでないと手を下げることが求められます(議論を簡単にするため、光に関してのフォトダイオードの感度とあなたの判断基準は同じだと仮定しましょう)。
しばらく部屋では照明がついたり消えたりします。フォトダイオードとあなたの行動は同じです(フォトダイオードのONとOFFと、あなたの手の上げ下げはまったく一緒です)。
ところがしばらくすると光が変わってきます。まず、突然光が赤になります。あなたは「色が変わったけれど、これも光なのだから手を上げればいいのだろうか、それとも実験者に色が変わったと報告するべきだろうか・・・」と戸惑いながらも手を上げます。一方、このフォトダイオードは色の違いは検知せずただONの表示を出します。
しばらく暗闇が続いた後、再び光が点灯しますが、今度は光が時間とともに変化する美しい虹色の波になり、しかもそれに合った妙なる音楽まで聞こえてきます。あなたは独特の感情に満たされますが、もともとの実験の指示に従い、手を上げます。一方、フォトダイオードはそんな変化とは関係なく、ただONの表示を出します。
フォトダイオードとあなたの行動は同じでした。それでは、あなたに意識があったように、フォトダイオードにも意識はあったと言えるでしょうか?仮にあったにせよ、二つの意識は同じようなものだったでしょうか?
フォトダイオードにはまったく意識がないと断定するのは理論的には容易ではないので、意識があるにせよ、その意識はあなたと同じような意識だったかどうかの問いに答えます。
もちろん、明らかに違うというのが答えです。
それは、あなたが手を上げ下げする時には、単に光の有無だけでなく、その他の無数の可能性の否定をしているからです。上では赤色光や、音楽を伴った虹色の光の波の例が出たにすぎませんが、その他の可能性としては例えば光が映像になる場合もあります。映像にしてもそれが何の映像であるか(ということは何の映像でないか)、どのように射影されているか(ということはどのように射影されていないか)と考えると無数の可能性があるわけです。
つまり光に関する人間の判断は、そういった無数の可能性(選択肢)を基盤にしたもつものですが、フォトダイオードがもっている選択肢は光の有無だけです。実験室で手を下げた人間が意味する「暗い」とは、「脳という装置内での無数の他の選択肢が排除されたうえでの、特異な状態」です(118-119ページ)。フォトダイオードと人間の心模様は違うわけです。
さきほどの思考実験なら、莫大な表現のレパートリーをもった写真評論家と、好きか嫌いかしか言えない子どもの違いに相当します。写真評論家と子どもが同じように「好き」と言ったとしても、その意識のあり方(あるいは心模様)は全く異なりました。それと同じように、仮にフォトダイオードに意識があるにせよ、その意識のあり方(心模様)は人間のものとまったく異なるわけです。
ここで「情報量」について確認しておきます。この用語を導入しておくと、説明がやりやすくなるからです。私なりにまとめよう試みてみましたが、簡潔にはまとめられないので、本文をそのまま引用します(注1)。
「情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンの時代から、「情報」の定義は「不確実性を減らすこと」と結びつけられ、「情報量」は、ある事象が起きたとき、その事象に変わって起こりえたのにおこらなかったことの数が大きければ大きいほど多い、とされてきた。たとえば、落ちたコインが表向きだったら、それにより排除される可能性はたったひとつしかない。つまり、表向きに落ちなかった、ということだ。さいころをふって三の目が出たら、もっと多くの可能性が排除されたことを物語っている。一でも二でも四でも五でも六でもない、ということだ。情報量はビットという単位で表され、存在しうる選択肢の対数に等しい。コインの場合なら可能性は二つしかないので、情報量は1ビット(log22 =1)だ。サイコロの場合は、六つの可能性があるので、情報量は2.58ビット (log26 = 2.58)になる。 (116-117ページ)」
こうして「情報量」という用語を導入・定義した上で、この思考実験をまとめると、以下の第一の公理が得られます。
「意識の経験は、豊富な情報量に支えられている。つまり、ある意識の経験というのは、無数の他の可能性を、独特の方法で排除したうえで、成り立っている。いいかえれば、意識は、無数の可能性のレパートリーに支えられている、ということだ」(118ページ)
大胆に要約するなら、意識は、莫大な情報量があっての現象だとなります。
■ 「デジカメのセンサーと人間」の思考実験
意識が発生するには莫大な情報量が必要ということでしたら、今度は1個のフォトダイオードではなく、100万個のフォトダイオードで構成されたデジカメのセンサーを想定しましょう。話を単純にするためにこのデジカメは白黒写真を撮影するもので、一つ一つのフォトダイオードはONかOFFの出力をし、ONなら黒色、OFFなら白色が出力されるとします。カメラ用語でしたら100万画素のデジカメ ― 画面が100万個の点で構成されるカメラ ― ということになります。
このセンサーが取りうる状態の数について考えます。一つのフォトダイオード(画素)が白か黒の二通りの状態をとりえて、それが100万個あるわけですから、2の100万乗の可能性があるわけです。大きな情報量だと言っていいでしょう。それでは、このセンサーに意識はあるのでしょうか?仮にあるとしても、その意識は人間の意識と同じものでしょうか?
ここでも二番目の問いだけに答えることにします。仮にセンサーに意識があるとしても、その意識は人間の意識とは大きく異なります。
センサーの構造を考えてみると、フォトダイオード同士が影響を与え合うことはありません。隣のフォトダイオードがどんな入出力をしようが、それとは関係なしにあるフォトダイオードは自分の入出力を行うだけです。
ところが人間の場合は、意識を生み出す数百億個(約1000種類)のニューロンは、さまざまな形でお互いに連結し、影響を与え合っています。意識は、その相互作用の結果として発生します。ですから交通事故の衝撃(急激で破壊的な速度変化)で、脳の軸索の多くがひきちぎられると(「びまん性軸索損傷」)、意識は恒常的に失われます(124ページ)。
人間の脳は、あるモノを見てそれがXだと意識する時にも、実は「それはAでもなく、Bでもなく、Cでもなく・・・」といった無数の否定に基づいてXだとしていると上で説明しました。意識では、XとNOT A, NOT B, NOT C....といった情報は統合されているわけです。またここでは意識対象を簡単にXとしていますが、そのXも実はα, β, γ...といった多数の要素が、独自の構造をもって連結されているので統合的にXとして意識されているわけです。
例えば私はバラの花を見ます(意識します)が、その意識は統合されたものであり、私は垂直線分だけの意識をもつことも、赤色だけの意識をもつことも、特定の香りだけの意識をもつことはありません。私が見ている(意識している)バラは、垂直方向だけでなく三次元方向すべてに延長をもち、同時に赤色だけでなく私が感じられるすべての色調をもち、同時に香りだけでなくその他すべての私が有している感覚に関わり、同時に私にとって可能なすべての「○○ではない」も統合されています。そのように莫大な統合が私の意識です。これは私の意識を生み出すニューロンが複合的に相互連結していることから生じています。
これに対してデジカメセンサーのフォトダイオードはまったく相互連結していません100万個のフォトダイオードはそれぞれ独立に入出力を行うだけです。相互連結していませんから、それらが独自の連結構造をもつこともありません。これが人間の脳との決定的な違いです。いくら要素が多く(それゆえに情報量が多く)ても、要素が独特の構造でもって統合されていなければ人間が経験しているような意識は生じません。
このような思考実験から第二の公理がまとめられます。
「意識の経験は、統合されたものである。意識のどの状態も、単一のものとして感じられる、ということだ。ゆえに、意識の基盤も、統合された単一のものでなければならない。」(125-126ページ)
あるシステムが意識を生み出すためには、そのシステムは莫大な情報をもつだけでなく、それらの情報を統合された単一のものとして組み合わす基盤をもってなければならないとなりましょうか。
著者は、第一の公理と第二の公理を組み合わせて、統合情報理論のかなめとなる命題を提示します。
「意識を生み出す基盤は、おびただしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある。」(126ページ)
乱暴なぐらいに単純化するなら、「意識を生み出すシステムは、たくさんの区別ができ、なおかつその区別を統合するものでなくてはならない」となりましょうか。
■ 差異の統合
情報とはある状態が他の状態ではないことを区別することですから、情報とは差異であると表現できるかとも思います(注2)。そうなると意識は差異の統合、あるいは「差異と統合が同時に存在する」 (126ページ)ことにより生じていることになります。
差異の統合とは、今ひとつわかりにくい表現です(注3)。本来は、統合情報理論が行っているように数学的に理解(129-139ページ)する方がよいのでしょうが、少なくとも現在の私にはその理解力が欠けていますから、ここでは、著者が出したたとえと、私なりの言い換えを出し、直観的な理解を得てから、著者のまとめを引用することにします。
差異と統合が同時に成立することが困難であることを説明するために著者が使ったたとえは、医療チームのたとえです。現代の医学のレベルで高度な治療を行おうとすれば、さまざまな専門医を集めたチームを結成し、その中でコミュニケーションをとって治療方針を定める必要があります。しかし現代の医学の専門化は高度に進展しているので、少しでも専門が違う医者とのコミュニケーションは容易ではないそうです。むしろ特に高度な専門性をもたない一般医(町のお医者さん)を集めたチームのほうがコミュニケーションは容易です。しかし、そのようなチームだと、高度な専門性をもった医者でしか捉えられない情報がそもそも得られない恐れがあります。
「高度な専門化と完全な意思疎通の両立、いいかえれば情報と統合の共存は、どんな分野においても、決して簡単ではない」(128ページ)と著者は言いますが、この類例は実社会をみても比較的容易に見つかるでしょう。曲者ぞろいの豪傑たちが集まった集団や、多様な背景から集まり共通文化をほとんどもたない集団が、最初はコミュニケーションに苦労し集団の崩壊の危機すら迎えるが、コミュニケーションができるようになってくると驚くべき成果を出すといった実話やフィクションは多くあるでしょう。
たしか、認知科学が開始される大きなきっかけとなった1956年のダートマス会議では、それまでに一同に集まったことがない異なる専門の研究者が集まったので、最初はなかなかコミュニケーションがとれなかったものの、一ヶ月にも及ぶ会議でコミュニケーションが成立しはじめたら、その後の認知科学の方向性を定めるような見解がまとまったとも聞いています(私の記憶違いで、これは他の会議、たとえば複雑性について研究するためにサンタフェ研究所に集まった多くの専門家の話だったかもしれません)。
それではコミュニケーションがとりやいように、と地縁や血縁ばかりでチームを作ると、内向きで革新ができない組織になってしまう例は、地方の役所などで見られることでしょう。
あるいは少し違う角度からたとえてみましょう。一問一答式の丸暗記に優れた受験秀才(というより受験バカ)を想定してみましょう。仮にm個の領域にそれぞれn個の問いがあるとして、彼はQmnの問いに対して、Amnの答えを即答することを覚えました。しかし、彼は例えばQ11→A11問答とQ12→A12の問答やQ21→A21の問答をつなげて考えることなどしません。
仮にm=1の領域を英単語の訳語暗記とします。彼はQ11の"Accept?"の問いに対してA11の「受け入れる」の答えをすぐに出し、次のQ12の"Acknowledge?"の問いに対してA12の「認める」の答えを出します。しかし彼は、Q11→A11問答の時にQ12→A12の問答のことを少しも想起しません。Q12→A12の問答の際も、Q11→A11問答のことなど少しも意識しません。
もしこれらの問答の回路が少しでもつながり(かつそれらが上位の回路とつながっている)なら、「あれっ『受け入れる』と『認める』って少し似ていないだろうか。違いは何だろう」といった新たな問いを自分自身に対して投げかけることができます。その問いに彼なりに答えるなら、その答えも新たな問いを生み出すかもしれません。しかし受験秀才の彼は、そんな「ムダ」なことをせず、ひたすら即答を続けます。単語テストで誰よりも高得点を取る彼ですが、そんな彼が英語を存外に使いこなせないことは想像に難くないでしょう。一問一答式以外の問いに対応できないからです。知識の応用力や活用力がないからです。
今度はm=2の領域を微分、m=3の領域を幾何学としましょう。受験秀才は問題集の微分に関する任意のQ2nに対して即座にA2nの答えを出し、同じように問題集にある幾何学の任意のQ3nの問いに対してもすぐにA3nの正解を出します。しかし彼はひょっとしたら微分と幾何学の発想を同時に使えば打開できるかもしれない現実世界の問題に対応することができません。
今想定している受験秀才は、m x n個の問いに対して、それぞれの答えを言うだけのm x n個の独立した回路の集合であり、それらの回路はまったく統合されていません。彼は一問一答式のテストでは満点を取り続け、偏差値も高いので、自分自身を賢いと思っているでしょうが、現実世界の問題に対応できない以上、世間は彼のことをバカと呼ぶでしょう。彼は定められた問いに対して自動的に答えを出すだけのいわばマシーンであり、思考力がありません。統合情報理論の言い方を乱暴に転用するなら、彼には思考に必要な高度な意識がないからです。
私の補ったたとえはともかく、著者は次のようにまとめています。
「差異と統合が同時に成り立つのは難しく、めったにあることではない。というのも、相反する性質だからだ。実際、あるシステムの構成要素のそれぞれが専門化し、差異が生まれれば生まれるほど、相互作用が難しくなり、それゆえ統合も困難になる。一方で、要素間の相互作用が活発であればあるほど、それぞれの要素は均一的なふるまいをしがちである。そうなると、システムの総合的な差異の度合いが低くなる。脳のどこかで、そしてなにかしらの方法で、この反発する力が、奇跡的なバランスを保っているに違いない。」(126ページ)
以上のまとめは、『意識はいつ生まれるのか』の第五章の前半だけのものです。後半に著者は、きわめて簡単に数学的な説明をしていますが、私はその説明ですら、まだきちんと納得できていないので、ここでは言及しません。もう少し勉強して、まとめを書くことができたらと思っています。
(注1)
「情報量は、存在しうる選択肢の対数に等しい」というのは、コイン投げやサイコロ振りのようにそれぞれの選択肢が起こりうる確率がすべて等しい場合に言えることです。情報量に関しての説明は、以下のページなどをご参照ください。
参考記事:
ウィキペディア「情報量」
「情報って何だろう?」
(注2)
ベイトソンは、情報を、単なる差異 (a difference) ではなく、差異を生み出す差異 (a difference which makes a difference) と定義しました。この区別は、統合情報理論がいう「外的な情報」 (extrinsic information) と「内的な情報」 (intrinsic information) に対応するのかなとも思えますが、私はきちんと検討をしていません。したがって、ここではこれらの論考に対するきちんとした考察抜きに、情報を差異としていることをここに付記しておきます。
(注3)
ルーマンも「差異の統一」について論じていますが、その論考の再検討およびその論考と統合情報理論の比較は、後日改めて行いたいと思います。
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