2015年10月3日土曜日

自然な表情の発露について

この記事は学部1年生向けの「英語教師のコンピュータ入門」という授業の参考記事の一つとして書いたものです。


毎年、オープンキャンパスにはたくさんの高校生が来てくれる。ありがたい限りなのだが、高校生の中には気になる生徒もわずかながらいる。

そのほとんどは男子生徒だが、顔にまったく表情がない。歩く姿もぎこちなく、少しうつむきながら前を見たままで、一切の感情を殺したような顔で歩いている。まるで表情を出さないように表情筋を固定することが習い性となったのか、とにかく顔に表情がない。ということは活気もない。


彼らは感情を受け入れられない経験を多く重ねすぎて、感情を出すことを怖がってしまっているのだろうか。心の中にくすぶる感情を表現してしまうと大変なことになると、自ら感情を封印しているのだろうか。それとも単に寂しくて、そんな自分を受け入れられないのだろうか。

彼らがこれから幸せな人生を送るのだろうか。勉強なんかどうでもいいから、表情を取り戻すことが第一だろうとおせっかいに思ってしまう。


言うまでもなく、表情は人間生活にとって大切なものだ。自然な表情が出てくる人間関係があれば、人間はなんとかやってゆける。しかし、もし自然な表情の発露が許されない人間関係や、偽りの表情ばかりで体裁だけが整えられている人間関係の中に生きていかなければならないとしたら、病に倒れてしまう人も多いだろう。

社会心理学に面白い実験がある。被験者に本当の笑顔の写真と偽りの笑顔の写真を見せて真贋判定をさせる。被験者は、その写真の表情を真似することができたら、二種類の笑顔をすぐに見分けることができる。ところが、被験者に鉛筆を口に挟ませて、表情の真似ができないようにすると、見分けることが困難になったという。


Carl Zimmer "More to a Smile Than Lips and Teeth"  January 24, 2011.  The New York Times
http://www.nytimes.com/2011/01/25/science/25smile.html
もともとの実験は、Paula Niedenthal (University of Wisconsin-Madison)によるもの。
http://psych.wisc.edu/faculty-niedenthal.htm


このニーデンタル博士の実験のことを知ったのは、シカゴ大学心理学部教授のバイロック氏の書物の翻訳『「首から下」で考えなさい』(2015年、薩摩美知子翻訳)だが、それによると、表情というものは人から人へと伝播する。これは、不機嫌な人が入ってきただけで、それまで柔和な表情をしていた人たちも顔を強張らせてしまう日常体験からしても肯ける。


長年連れ添った夫婦が同じような顔になるのは不思議なことではないともこの本は言う。夫婦はいろいろな経験を共有しさまざまな感情を抱くが、その際にお互いが相手の気持ちを知り感情を共有したいと願うなら、二人は自然と同じような表情をするようになる。そういったことが長年の無意識の習慣となれば、夫婦の顔形は似てくるのだという(156ページ)


冒頭に述べた高校生は、おそらく自ら感情を抑圧しているだけでなく、日常生活であまり人に会っていないのかもかもしれない。あるいは会っても、目を合わせていないのかもしれない。目を合わせても、相手の気持ちを理解しようとしていないのかもしれない。感情を共有する人がたくさんいれば、自然とその人達の表情を共有し、顔には表情が出てきやすくなると考えられるからだ。



ここで話をやや強引にネット依存の話題に移す。実生活で人と会うことを避け、ネットばかり見ている人、さらには匿名やハンドルネームで執拗に書き込みばかりをしている人 ―つまりは、自らの顔を人に見せず、人の顔も見ないままの言語使用ばかりする人―は、どんな表情をしているのだろう。

上の話の流れからすれば、あまり表情豊かとも思えない。私はそういった人に実生活で会ったことがないので想像で書くが、無表情にネットを読み、書き込みをしているのだろうか。それとも強張った顔つきで口元を歪めながらネットに書き込み続けているのだろうか。実際に会ってお互いの顔を見ていればとても言えないような冷酷無情なことばを。

私見に過ぎないが、実生活でのコミュニケーションよりもネットを通じてのコミュニケーションの方が多くなることは、結構危ないことではないのだろうか。表情の共有による自然な共感を忘れたまま、ことばばかりが過激・過剰になり、激情や劣情に取り憑かれはしないだろうか。人と会えば、それなりに修復するはずの表情・感情が固定化しないだろうか。自分の感情に支配されてしまわないだろうか。

身体の重要性を訴える上記の本は、こうも言っている。

私たちの体を、チョコレートをくるむ銀紙のようなものだと思っている科学者はもういないだろう。また、私たちの体は脳に操縦されていると考えている科学者もいない。近年、脳と体には深い関係があることが実証されてきたからだ。素晴らしい働きを脳に求めるなら、体を変えなくてはならない。また脳が活発に働くと、体も変化する。しかし、脳に影響を与えるものはそれだけではない。私たちのまわりのものもまた、脳の働きを変える。 (250ページ)

大学キャンパスでも今や歩きスマホは珍しくない。ちょっとした時間があればすぐにスマホを取り出す人も多い(私自身、そのような習慣がつきかけているので少々怖い)。ウェブが私たちの環境のほとんどとなり、私たちが道行く人のみならず、知人・友人とも接する機会を失ってゆき、それでいてSNSをやっているから自分には「友人」が多いのだと思い込むことは怖い気がする。

スマホやパソコンは本当に便利なものだが、刃物や自動車と同じく、便利な道具は人を幸福にもすれば不幸にもする。使い方には本当に気をつけたい。


また、上の引用では、身体性の重要さを理解しない科学者などもういないと書かれていたが、英語教育の学会ではかならずしもそうはいえない。もちろん、毎日子どもと正面から向き合っている現場教師は身体性の大切さを重々承知している。だが、研究者の中には、身体性のことなど話題にしないことこそが見識だといわんばかりの態度をする人もいる。

いや、研究者だけではない。現場教師とて、「子どもを育てる」ことではなく「教科書を教える」ことを自分の仕事と心得る者は、身体性を無視している。

下のスネークマンショーは、自然な身体を欠いた英語授業の風刺になっている。これを聞いて大笑いできるならいいが、「えっ、これってそんなに笑うものなんですか?」と戸惑う英語教師がいるなら、その人の英語授業は、心と身体を育てるものにはなっていないだろう。






コンピュータ使用に習熟することは現代においてとても重要だが、何よりも重要なのは自分の身体を自然な状態にしておくことだということは忘れないでいたい。自分、そして自分にとって大切な人に自然な表情が出ているか ― そのことを何よりも大切にした生活をしたい。



追記 (2015/10/04)

本日の毎日新聞は、中島京子氏による小田嶋隆氏の『超・反知性主義入門』(日経BP社)の書評を掲載しましたが、以下の部分は、皆さんにぜひ読んでいただきたいので引用します。


人々の生活にインターネットが登場し、つぶやきを書き込みながらテレビ報道を見るというスタイルが定着してから、テレビは「リンチ好きの野次馬(やじうま)」向けのコンテンツを用意するようになったと著者は書く。「インターネットという疑似的な群衆生成装置を介して、私たちのマナーは、リアルな群衆のそれ(つまり、雷同的で、浮薄で、残酷で、偏見に動かされやすく、恥知らずで、熱狂好きな態度)に近づいている。そしておそらく、孤独な群衆ほど始末におえないものはない」

 著者はときに、もっとも恐ろしいのは言説そのものですらない、と指摘する。なぜならこの国に住む人々は「周囲の空気から浮き上がることを何よりも嫌う人々」だからであり、「『まわりの人と同じようにふるまう』ことを強力に内面化している人間たち」だからだという。書店で嫌韓本が幅をきかせたり、テレビに「ニッポン」礼賛番組が増えたりするのは、褒められたことではないけれども、表現の自由もあり、禁止するような事項ではないが、これが「ある臨界点を超えて、過剰適応の同調が起こった場合、その自動運動は、誰にもとめられない暴走を引き起こす」と著者は書く。「こわいのはわれわれが愛国者になることではなくて、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることだ」と著者は言う。「なぜかって? 日本が好きだからだよ」

 

群集心理というものは怖いものですが、生身の人間が集まった群衆でしたらまだ、迫害されている人の生の表情を見ることもできるので、その点でわずかではあれ抑制が効くのではないかと思います(群集心理の実際の怖さを知らない楽観論かもしれませんが)。

  しかしネットで集団リンチが(しばしば正義の名において)行われる時、一人ひとりのユーザーは誰の表情も見ずに残酷なことばを書き連ねます(時には実住所や顔写真や家族の情報まで晒します)。書き込むユーザーはリンチに深く傷つき苦しむ人の表情も、リンチの快感に酔った他の群衆の常軌を逸した表情も見ずに、他の書き込みに煽られてひたすらことばのリンチを続けます。

  こういった言語使用は、これまでの人間の歴史でなかったことです。

  本来、話しことばは狭い範囲でしか聞こえず、音としてすぐに消え去るものでした。

  書きことばは、手間をかけて書かれ、特定の読者にしか読まれないものでした。

  しかし、現在、話しことばのように衝動的で過激なことばが、ウェブ上の書きことばとして消えることなく、拡散などされればこれまでにはなかったほどの多くの人に読まれます。書かれた人はその消えることのない拡散性に深く傷つきますが、書いた人は通常そういったことを自覚せずにひたすらことばを書き連ねます。

  ウェブという時空での言語使用について、私たちは熟慮を必要としています。
 




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