この本は「ロマン主義の還元主義科学者」 (romantic reductionist) のクリストフ・コッホ氏によって書かれた科学読み物で、神経科学者(土屋尚嗣氏)と翻訳家(小畑史哉氏)によって読みやすい日本語に翻訳されたものです。
先日参加したパネルディスカッションでも「意識」がテーマの一つになっていましたが、残念ながら第二言語教育における意識論はきちんと整理されていません。ここではその勉強不足を少しでも解消すべく、私なりにこの本をまとめてみました。ページ数は、基本的に翻訳書のページ数を示していますが、重要と思われる箇所は原著の英語も引用しましたので、英語の後にあるpage numberは原著のページ数です。
■ 脳に関する基礎知識
意識を生み出す器官は脳から抹消までつながった神経システムですが、それは860億個のニューロンが、それぞれ数千か所のシナプスを作り、合計約1000兆箇所ものシナプスで相互につながって構成されています (32ページ)。860億個のニューロンのうち、690億個が小脳に、160億個が大脳皮質に存在しているそうです (351ページ) が、大脳皮質では1平方ミリメートルあたり約10万個ものニューロンがひしめき合っているそうです (109ページ)。また、ニューロンの種類はおそらく1000種類ぐらいだろうと現在考えられています (31ページ)。
この神経システムの活動のうち、意識にのぼるのはほんの一部で、感覚運動システムのほとんどは無意識になされます(無意識に働く感覚運動システムを、著者とその師であるフランシス・クリックは「ゾンビ・システム」と名づけています)。それではなぜ、意識が必要とされるかといえば、それは動物が生きていくうえでは予想外の出来事が起こるからであり、ゾンビ・システムではそれに対応できないからです (60ページ)。
■ 神経科学者の貢献
意識が生じている際にはもちろん脳で何らかの活動が生じていますが、その部位をクリックと著者は「意識の神経相関」 (Neural (or Neuronal) Correlation of Consciousness; NCC)と命名しています。「ある一つの特定の意識的知覚が生じるために必要な、ひとまとまりの最小の神経メカニズム」(83ページ) (the minimal neural mechanisms jointly sufficient for any one specific conscious percept) (p.42)がその定義です。「最小の」というのが大切で、この規定がないとNCCはどんどん大きくなってしまいます。
神経科学者の意識論が哲学者などの意識論と決定的に違うのは、「連続フラッシュ抑制」などの実験手法により実証的に研究をしている点です。専門知識がない人間が原子物理学や腎臓透析について持論を振りまわしても誰も相手にしないのに、意識の話となると誰でも持論を振りまわしてよいと思っているようだ(81ページ)とは、著者の嘆きです。
(参考:両眼視野闘争)
さまざまな実験や観察により神経科学者は、意識にのぼらない欲望が存在することや、注意(脳に入ってくるデータの一部だけを選択すること)と意識は異なり、「意識なしの注意」も「注意なしの意識」も存在することなどを実験的に確かめています (110-111ページ)。もちろんこれらのことは昔から人々が知っていたこととも言えますが、科学者の努力により、日常的な概念は細分化と洗練化され科学概念へと定義づけられています (p.114)。
もちろん以前の科学的常識が覆されることもあります。私の記憶が間違いでなければ、以前は、特定の概念や対象物いわゆる「おばあさん細胞」はないとされていたはずでしたが、最近はカテゴリー特異的な「概念ニューロン」(concept neurons)が見出され、大統領ビル・クリントンや女優のジェニファー・アニストンやピタゴラスの定理などの特定の対象や概念だけに反応するニューロンが見つかっているそうです (26-128ページ)。ただし概念ニューロンの働きは、一つのニューロンだけによるものではなく、「近くのニューロン集団と共に」 (128ページ) (Each cell, together with its sisters) (p.65) なされるものですから、翻訳者のように「概念ニューロン集団」 (128ページ) と呼んだ方がいいのかもしれません。
また、プライミングによる実験もますます行われています。プライミングの単語として粗野な単語が与えられた群は、丁寧な単語をプライミングで与えられた群よりも、実験室外での行動がせっかちになったことを示した実験や、高齢者に関する単語をプライミングとして与えられた群が実験会場を出てからエレベーターまで歩く時間がそうでない群よりも長くなった知見なども紹介されています(いずれの実験も、実験室の外での行動が本当の実験対象だったのですが、被験者はそれを知りません) (172-173ページ)。
他にも「選択盲」(choice blindness)も面白い現象で、これらの現象からすれば、私たちの言動の多くは、意識的でなく無意識的に行われ、しかも意識は無意識の言動を正当化するだけの場合もあることが明らかになってきます。
参考:選択盲に関するWired記事
■ 自覚された自由意思と実際の行動の関係
この意味で決定的なのがベンジャミン・リベット(Benjamin Libet)による古典的な実験です。本書でのこの実験のまとめはとても簡潔です。本書は「訳者まえがき」にも書かれているように、原文を訳しただけではわかりにくい箇所はかなり日本語を補って見事に翻訳していますので、ここでは原文の後に翻訳を引用します。このように大胆な翻訳ができるのも、翻訳者(の一人が)世界の最前線で活躍している神経科学者だからでしょう。
In terms of Libet's experiment, your brain deides that now is a good time to flex the wrist, and the readiness potential builds up. A bit later, the neural correlate of agency becomes active. It is to this percept that you incorrectly attribute causality. As these events take place in a flash, under a second, it's no easy to catch them. ...
But even if your feeling of willing an action didn't actually cause it, do not forget that it is still your brain that took the action, not somebody else's. It is just not your conscious mind that did so. (p.107)
リベットの実験では、脳が「手首を曲げるタイミングは今だ」と決定するのに伴って、準備電位が発生する。そしてその少し後に、自己主体感のニューロン相関が活性化する。私たちの意識にのぼるのは、後者の自己主体感だけだ。この自己主体感が生じるタイミングが、実際に生じる運動の少し前であるために、私たちは、「意識が原因となって脳と行動に影響を与えている」と誤って捉えてしまう。この一連の現象は、一秒に満たない一瞬のうちに起こるので、思考実験だけで全貌を捉えるのは容易ではない。(中略)
しかし、ここで忘れてはならないのは、両方の脳活動[=運動皮質の脳活動と、その行動に伴う自己主体感を引き起こす脳活動]とも自分の脳が生み出しているという事実だ。前者の脳活動は意識にのぼらず、後者の活動は意識にのぼる、ということだ。(218ページ)
参考:
Wikipedia (Benjamin Libet)
https://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Libet
"MIND TIME" by Benjamin Libet (and some thoughts of mine)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2010/08/mind-time-by-benjamin-libet-and-some.html
準備電位
http://www2.kanazawa-it.ac.jp/higuael/omaewa.html
この本の後半は、「統合情報理論」 (integrated information theory)を引用しながら意識の発生に関して論考してゆくなど、とても面白いものですが、この統合情報理論については私自身の理解がまだまだ不十分なので、ここにまとめを書くことは控えておきます。
参考:
意識の統合情報理論
http://www.brain.riken.jp/labs/mns/oizumi/CNS_oizumi_2014.pdf
Wikipedia (Integrated information theory)
https://en.wikipedia.org/wiki/Integrated_information_theory
非常に面白い本で、また何度か読み返したいと思っていますが、とりわけ印象的だったのが、著者の師であるフランシス・クリックの様子です。理論を考えるということはどういうことかについてとても示唆的だと思いますので、ここに引用しておきます。
理論家であるフランシスの研究方法は、普通の研究者のやりかたとは大きく異なる。「関連文献を毎日読みこみ、そこから大量の知識を吸収し、それをもとにひたすら思考を重ね、その結果につて古代の哲学者ソクラテスのように他の学者と対話・議論することで理解を深め、新しい知見にたどり着く」という方法だ。フランシスは、実験手法の詳細、数値、事実を、異常なまでに細かく知りたがった。そして、何かを説明する仮説を組み立てては、そのほとんどを自ら壊してしまうことを繰り返していた。(39ページ)
総じて言うなら、第二言語教育で「意識」について語るならば、自分の業界の論文ばかり引用せずに、きちんと勉強しなければと反省させられた本でした。
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