2011年3月22日火曜日

山岡鉄舟 ― 始末に困る真心の人




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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橋本麻里さん(@hashimoto_tokyo)という方がtweetしていらっしゃるように「自分も含め、いろいろな方の「地金」が露呈した10日間であった…」と言えます。

前々から敬愛していたある英語の先生は、被災して家と車を流されながらも「家族はいます。また一からやり直します」と力強く言われました。被災していない地域の私の友人ブロガーの多くも、それぞれの形でブログやらツイッターで(被災地での努力からすれば本当に微々たるものにすぎませんが)それぞれに後方支援をしました。私の職場でも多くの人が心を痛めながらも、その悲痛な気持ちを義援金に変えました。ウェブ上で観察できる有名人では糸井重里さん(@itoi_shigesato)が、心無い言葉に傷つきながらも本当によくやってくださっています。また糸井さんが世間に紹介した一色靖さんという方(@yasushi64 )は冷静さと温かさ(そしてユーモア!)を兼ね備えた素晴らしい方です。そして来日直後に地震を経験しながらも日本に残り続け、本日今この文章を書いている時点で大阪ライブをニコニコ動画で無料公開して日本を励ましてくれているシンディ・ローパー(@shebop_aka_cyn)。多額の義援金を送ってくださった台湾やブータンなどの国の方々・・・ごめんなさい、きりがありません。本当にいろんな人間模様を観察することができました。

そんな中で、私の好き嫌いというのが以前より一層明らかになりました。西郷さんの教えに従うならば、その人の咎をあれこれ言うのではなく、その人を受け容れるように自分を変えるべきです。しかし私は修行が足りません。ですから私が嫌いな人の特徴を上げてみます。今回の人間観察で痛感したことです。



・人を見下す人間

・虚勢をはる人間

・口先だけの人間

・腰抜け




あれっ?全部、私のことじゃん(爆)。

なんだ、私が嫌いに思える人は、みんな私の投影なのね。だから嫌うわけだ。そうね、これから人が嫌いに思えたら、その人を私の鏡と思うことにしよう。私の姿を映し出している鏡だと。でも、まあ、その鏡を割っちゃうかもしれないけどね(と、高田純次風に 笑)


と、悪ふざけはいい加減にして、上の特徴をそのままひっくり返せば私が好きな人、敬愛する人の特徴になります。



・どんな人とも対等につきあう人間

・謙虚な人間

・実行する人間

・肚の坐った人間




そういった人間の代表格が山岡鉄舟です。

山岡鉄舟の生涯は、小説なら『春風無刀流』、伝記なら『最後のサムライ山岡鐵舟』などで知ることができます。

まあ徳川慶喜の命を受け、敵の陣営を「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎大総督府へ通る」との一喝で通り抜ける場面とか、英雄、英雄を知るとも言うべき西郷隆盛との会談とかは本当に芝居を見るようですが実話です。また後年、勝海舟が江戸城無血開城の手柄を横取りしようとした時、「これは嘘だが、やったのだと言ってしまえば、勝の顔が丸潰れになる。よしよし勝に花を持たせてやれ」と突嗟に決心して「その通りだ」と言ってのけた話も実話ですし、最後の大往生も信じられないほどですが、実話です。

そんな山岡鉄舟は、『最後のサムライ山岡鐵舟』の記述によるなら、


鐡舟は普段、午前五時に起床し、六時より九時まで剣術指南、午後零時より四時まで揮毫、夜分は午前二時まで坐禅を組むか写経をした(197ページ)


そうです。また、


鐡舟は人から阿諛追従を受けると、むっとして睨みつけた。その反対に、忠言に対してはまこと甘露を飲むかのように応じた。(195ページ)


とも言われています。

しかし伝記の決定版と言われているのが、小倉鉄樹(2001)『おれの師匠―山岡鉄舟先生正伝』島津書房です。今は版元品切れになり古本市場では高価で取引されていますが、先日私はある大型書店で偶然新品を見つけ購入しました(なんという幸せ!)。

その中でも印象的な箇所をいくつか抜き出します。(表記は一部現代風に書き換えています)。


人は好んで表面に立って花々しい仕事をしたがるものだ。桧舞台で腕を振つて大向ふをあつと云わせ、やんやともてはやされることは誰でもいい気持だからね。然しそれは腕の話で、人格の問題じやない。ほんとに人間の出来たものは桧舞台を踏まうとか、大向ふの喝采を得ようとか、そんな私情に捉はれたケチな了見はありやしない。事に當たる目的は畢竟事が成ればよいので、表面に立たうと裏面に居らうとかまはないことで出没適宜な話である。否、仕事が大きくなり重大になればなるほど退いて内に隠れ、表面には努めて立たぬようにしないと思はぬ禍を得て身を危うし、目的の仕事が実徹出来ぬことになる。(126ページ)


これはまさに、現在、災害地で復旧・復興に専念しておられる方の姿だと思います。名誉とか称賛とかとは無関係に事を成そうとされている多くの方々に心からの敬意をお送りさせていただきます(注)。


私自身、目から鼻に抜けるような勝海舟は好きなのですが、少なくとも山岡鉄舟をよく知る者は、上記にありましたように、勝は山岡の手柄までも自分のものにしたと考えています(勝海舟ファンの方、ごめんなさい)。その前提で、著者はこう言います。


勝の仕事には右のようなごまかしが交じつている。勝が生前既に栄誉を取り盡くしてしまつて、死後段々光彩を失つて来たのはかうした所以からである。山岡などは全くあべこべで、何事も真実一つで押し通し、労は自ら負い功は人に譲る筆法であつたのだから、晩年ほど人が慕つて寄つて来、死後益々光輝を放つて来て居る。けれども、山岡のほんとの光りはまだ出ない。一と時代変わつてほんとに人間としての価値が批判され、賞美されるまでには、まだまだ百年二百年先きのことだ。序(ついで)だが、勲功調査に功績を出さなかったのは山岡と泥舟ぐらひなものであらう。(127-128ページ)


現在の復旧・復興作業にせよ、それが一段落してからとりかかなければならない日本再建にせよ ―震災前までの日本の諸問題はこの間悪化することこそあれなくなることはありません― これからの日本には、山岡鉄舟のような人間が必要でしょう。「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」とは西郷隆盛の山岡鉄舟評ですが、これから日本が徹底的に自己改革をするにはこのように「始末に困る」真心の人が必要でしょう。


これから日本は自らに大鉈を振るわなければならないでしょう。その際には既得権益は崩れ、慣習は旧弊として廃され、旧来の帰属関係・組織関係も解体されるでしょう。そして当然のことながらそれを好まない人々は守旧派として徹底抵抗するでしょう。(幕末の大改革とて明治維新で完了したわけでは決してなく、少なくとも西南戦争ぐらいまでは国の至る所で不満が爆発しました)。

そのような大変動期には、「真心」といっても、これまでの権力関係だけに忠義を尽くすような態度では、かえって混乱を招くでしょう。知性も肚も練りに練られたような、したたかで柔軟でどこまでも進むようなものでないといけないでしょう。山岡鉄舟を批判する人は、山岡がもともと徳川家に仕えながら後年は明治天皇の側近となったことを批判しますが、山岡鉄舟からすればそれこそが江戸幕府から明治政府への転換とその安定こそが彼の果たすべき大義であり大道だったのでしょう。


山岡は君主には誠忠を以て終始した人だが、然し山岡の誠忠はほかの人によく見る所謂「のべ金式の誠忠」ぢやなくて「鍛へられた誠忠」である。「のべ金式の誠忠」とは山出しののべがねのやうに細工も面白味もない。融通の利かぬ条理も分からぬ誠忠のことだ。かういふ手配は何れの世何れの処にも得て有り勝ちのもので所謂志士とか義人とかいふものの内容の大部分を占めている。ほんとうの志士や義人は志士がりも義人がりもするものぢやない。「鍛へられた誠忠」というのは人道を辧(わきま)え、大義名分を明らかにし、大道に依つて行動するほんとの人間としての真心の発露だ。(152ページ)



と、調子にのって山岡鉄舟についての紹介文を書きましたが、このような行いはまさに「虎の威を借る狐」いやその狐の足元の鼠のような真似です。実際、私は教育者の端くれとして、この本の289ページに書かれているようなことができておらず、それが恥ずかしくてここにも紹介できないぐらいです(私は自分の弱点も認められないぐらい弱く卑怯な人間です)。ですから、この文章もこのあたりで終えるべきでしょう。


とはいえ、この逸話はぜひ紹介させてください。山岡鉄舟ほどの大人物の紹介を終えるにはこのくらいの逸話が必要でしょう。


小野で思ひ出したが、何でも小野が十二、三歳の頃、山岡と夜更けで、大道で鍋焼うどんをたべていた。その時一人の酔つぱらひが来て、二人の食べてる後から小便をして、小便が山岡の足へひつかかつた。

「ひどいことをする奴だ」と、小野は憤(む)つとしたが、山岡は平気で、うどんを食べていて、一寸後ろを振り向きながら「きたねえことをするな、もうおしまひなのか」と、ちつとも怒つた様子がなかつたといふことだ。(447-448ページ)














(注)この文章を書きながら、私がよく読むブログ「東大式個別ゼミ・林間教育通信」で英国The Guardian紙の"The truth about the Fukushima 'nuclear samurai'- Japan's 'nuclear samurai' are risking their lives to avert catastrophe, but many are manual labourers unequal to the task"の存在を知りました。私を始め、今多くの日本人が英雄的行為の美談に涙を流していますが、その中には実は公にはなかなか出ない、弱い立場の人間を「英雄」にしてしまうような露骨な権力構造があるかもしれないということは忘れてはならないと思います。

追記

上記ブログのその後の記事は、ガーディアン紙の情報源は日本ビジュアルジャーナリスト協会(JVJA)のメンバーによる取材ビデオではないかと推測しています。

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